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ガスパール・コエリョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ガスパール・コエリョGaspar Coelho1530年 - 1590年5月7日)は、ポルトガル出身で戦国時代日本で活動したイエズス会司祭宣教師。イエズス会日本支部の代表(日本準管区長)をつとめた。

生い立ち

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コエリョはポルトガルのポルトで生まれた[1]1556年インドゴアでイエズス会に入会し、わずか4年後、同会のアジア最高幹部アントニオ・デ・クアドロスのインド遠征に同行することになった[1]。同地で司祭に叙階され、1572年元亀3年)に来日。

バテレン追放令前の情勢

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コエリョは九州地方での布教活動にあたった。1581年天正9年)に日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。1585年(天正13年)には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めている。さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていた(この案は彼だけでなく多くの宣教師が共有していた)。[要出典]

豊臣秀吉との関係

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豊臣秀吉は1582年から1591年までの9年間の軍事行動によって日本を統一した[2]。イエズス会の宣教師は1583年に秀吉の大阪に初めて到着、大阪城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[3]1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日大坂城豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった[4]

天正14年(1586年)3月[5] 『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟豊臣秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガル大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[6][7]秀吉侵略だけでなく先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[8]

1587年(天正15年)6月19日、秀吉は仏教としてキリスト教との対立に動いていた施薬院全宗より讒言を受け、コエリョとの会食後、重臣達が出席した御前会議で布教責任者であるコエリョに、神社仏閣を破壊し、仏僧を迫害すること、ポルトガル商人が日本人奴隷として海外に売ったことなどを詰問し、翌日にはバテレン追放令を発布した(発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚から削除されている[9])。『イエズス会日本年報・下』には「秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである」と書かれている。また日本人が売られる様子は、秀吉の右筆、元僧侶である大村由己の『九州御動座記』では、ポルトガル船内部の目撃情報や奴隷数については誇張があるものの、生々しく記されている。天正少年使節モザンビークで日本人の男女が奴隷として売られているのを目の当たりにして憤っていたとの記録がある。[要検証]

こうした日本人奴隷の資料とされるものは『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っているが、いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の道徳の退廃によって同国人を売ることやポルトガル商人を批判するために実際には存在しえない対話が掲載されている[10]

豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。

牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であるため[11]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。記述にフィクションを含んでおり資料の正確性に問題があるとの指摘がなされている[12]

宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[13]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。

司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[14]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[15]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[16]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

また1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[17]、朝鮮半島との貿易は対馬宗氏の独占状態であり[18]グレゴリオ・デ・セスペデスが宣教師として初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。

ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[19]

コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれで平戸から出航し、博多にいる秀吉に見せるという行為を行った。高山右近小西行長がこの行為を懸念し、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に主な原因を求められるとしている。

その間、全国のイエズス会員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。コエリョは1590年(天正19年)に肥前国加津佐で没した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払い、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている(ただしヴァリニャーノも程度の差こそあれ、かつては彼と同様にキリシタン大名へ支援することは考えていた)[20]

1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[21]秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[22]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[23]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[24]

コエリョ没後の秀吉の外交政策

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天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[5][25]、インドを含むアジア諸国への侵略計画を明らかにした。

1592年には豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求した[26]。秀吉は原田喜右衛門フィリピン征服を任せたが[27]侵略の動機はフィリピン黄金だったという[28]。フィリピン侵略軍の規模についてはフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと知り、1万人で十分だと判断、10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したとの報告がフィリピンに伝わっている[29]。豊臣政権はフィリピンの戦力を正確に把握しており、スペインが支配していたフィリピンへの侵略計画をたびたび表明した。

秀吉が宣教師に対して決定的に態度を硬化させるのは、秀吉による明と朝鮮侵略の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢にあり、文禄4年(1595年)7月15日には秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)するなどの状況下、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。

1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[30][31]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[30][31]

脚注

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  1. ^ a b Hesselink, Reinier H. (2015). The Dream of Christian Nagasaki: World Trade and the Clash of Cultures, 1560–1640. McFarland. pp. 62–64. ISBN 9781476624747 
  2. ^ Turnbull, Stephen (2011). The Samurai and the Sacred: The Path of the Warrior. Bloomsbury Publishing. ISBN 9781849089944 
  3. ^ Kitagawa, Tomoko (2007). “The Conversion of Hideyoshi's Daughter Go”. Japanese Journal of Religious Studies 34/1: 9–25. https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/2916. 
  4. ^ The Spanish Lake (His the Pacific Since Magellan), O.H.K.Spate, 1979/6/1, Univ of Minnesota Pr (1979/6/1), ISBN 978-0816608829
  5. ^ a b 朝尾直弘『天下一統』 8巻、小学館〈大系 日本の歴史〉、1993年。ISBN 419892273X 
  6. ^ クラツセ 1925, p.452
  7. ^ 西村 1922, p.471
  8. ^ 徳富 1935, pp.453-460
  9. ^ ゴアのイエズス会神学者と日本の奴隷化問題 / Jesuit Theologians of Goa and the Problem of Enslavement in Japan”. scholar.google.co.jp. 2021年10月16日閲覧。
  10. ^ デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  11. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  12. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
  13. ^ 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955
  14. ^ フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第一冊、同朋舎、1987
  15. ^ 松田毅一監訳『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第二冊、同朋舎、1987、217-289頁
  16. ^ 小学館 2020a, p. 「猿の生肝」.
  17. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日、11か条の「覚」
  18. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  19. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  20. ^ 高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」(『キリシタン時代の研究』岩波書店、1997年)
  21. ^ Sources of Japanese Tradition, vol. 2, 1600 to 2000, edited by Wm. Theodore de Bary, Carol Gluck, and Arthur E. Tiedemann, New York: Columbia University Press, 2005. pp. 169-170
  22. ^ de Bary, Wm. Theodore (2005). “Part IV: The Tokugawa Peace”. Sources of Japanese Tradition: 1600 to 2000. Columbia University Press. pp. 149. ISBN 9780231518123 
  23. ^ Boxer, C. R. The Christian Century in Japan: 1549-1650. Manchester: Carcanet Press Ltd., 1951., pp. 149-151.
  24. ^ Berry, Mary Elizabeth. Hideyoshi. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1982. pp. 92-93
  25. ^ 辻 1942, pp.410-411
  26. ^ M. T. Paske-Smith, “Japanese Trade and Residence in the Philippines,” Transactions of the Asiatic Society of Japan 42, no. 2 (1914), pp. 696–97.
  27. ^ Francisco de Lorduy, statement incorporated in report by Governor Gómez Pérez Dasmariñas to the king of Spain on the second embassy to Japan, April–May 1593, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39. The reference may be to Kiemon’s close associate Hasegawa Sōnin instead.
  28. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.
  29. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-53
  30. ^ a b Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.
  31. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5

参考文献

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関連項目

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先代
(布教区から昇格)
フランシスコ・カブラル
イエズス会日本準管区の長
第1代: 1581 - 1590
次代
ペドロ・ゴメス