キム・ニューカム
キム・ニューカム | |
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | ニュージーランド |
活動期間 | 1972 - 1973 |
チーム | ケーニッヒ |
レース数 | 11 |
優勝回数 | 1 |
表彰台回数 | 6 |
通算獲得ポイント | 90 |
ポールポジション回数 | 0 |
ファステストラップ回数 | 1 |
初グランプリ | 1972 500cc 西ドイツ |
初勝利 | 1973 500cc ユーゴスラビア |
最終勝利 | 1973 500cc ユーゴスラビア |
最終グランプリ | 1973 500cc フィンランド |
キム・ニューカム(Kim Newcombe、1944年1月2日 - 1973年8月14日)は、ニュージーランド出身のオートバイレーサー。ロードレース世界選手権(世界グランプリ)などで活躍した。
略歴
[編集]ニュージーランドのネルソンで生まれてオークランドで育ったニューカムは1963年にオーストラリアに移り住み、その後1968年にはヨーロッパに渡った[1]。
1972年に世界グランプリへの挑戦を開始したニューカムのバイクは、船外機メーカーであるケーニッヒのレース用2ストロークエンジンにノートンのギアボックスを組み合わせたハンドメイドのマシンで、レーサー仲間のジョン・ドッズとともに開発したものだった。ニューカムは他のライバルたちとは異なり、ライディングだけでなくマシンの開発、製作、メンテナンスなど全てをこなすことのできるライダーだった。ニューカムはこのマシンで1973年のユーゴスラビアGPでグランプリ初勝利を挙げており、ケーニッヒのマシンは1967年のホンダの撤退以来グランプリを支配し続けてきたMVアグスタにストップをかける可能性を示した[2][3]。
しかし1973年8月11日、シルバーストン・サーキットで行われたノン・タイトルレースに出場したニューカムは重傷を負ってしまう。レース前にコースを歩いて確認したニューカムは、ストウ・コーナーの外側にストローバリアを設置するように主催者に頼んだが、主催者側は「必要ない」としてこれを拒否した。そして決勝レース、まさに問題としていたストウ・コーナーでクラッシュしたニューカムはコンクリートの壁に激突してしまったのである。この事故で頭部にひどい怪我を負ったニューカムは、その3日後に死亡した[1]。
2006年、ニュージーランドでニューカムを題材としたドキュメンタリー映画『Love, Speed & Loss』が公開された。この映画のナレーションはニューカムの未亡人であるジェニーンがつとめた[2]。
主な戦績
[編集]ロードレース世界選手権
[編集]順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
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ポイント | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
年 | クラス | マシン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | ポイント | 順位 | 勝利数 |
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1972 | 500cc | ケーニッヒ | GER 3 |
FRA 10 |
AUT - |
ITA - |
IOM - |
YUG - |
NED - |
BEL - |
DDR 3 |
TCH - |
SWE 5 |
FIN - |
SPA - |
27 | 10位 | 0 |
1973 | 500cc | ケーニッヒ | FRA 5 |
AUT 3 |
GER - |
IOM - |
YUG 1 |
NED 2 |
BEL 4 |
TCH - |
SWE 3 |
FIN 4 |
SPA - |
63 | 2位 | 1 |
脚注
[編集]- ^ a b Kim Newcombe - Motorsport Memorial
- ^ a b ジュリアン・ライダー / マーティン・レインズ『二輪グランプリ60年史』(2010年、スタジオ・タック・クリエイティブ)ISBN 978-4-88393-395-2(p.106)
- ^ ケビン・キャメロン『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(2010年、ウィック・ビジュアル・ビューロウ)ISBN 978-4-900843-57-8(p.88)