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コルバッハの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コルバッハの戦い
戦争七年戦争
年月日1760年7月10日
場所ヴァルデック侯国コルバッハ
結果:フランスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
ハノーファー州 ハノーファー選帝侯領
ヘッセン=カッセル方伯領
フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
ハノーファー州 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント フランス王国の旗 サンジェルマン伯爵クロード=ルイ
戦力
合計15,000-20,000[1]
  • ハノーファー歩兵8,000-8,500
  • イギリス歩兵3,500-3,800
  • ヘッセン=カッセル歩兵2,500-2,700
  • ブラウンシュヴァイク歩兵1,000-1,200
  • ハノーファー騎兵600
  • イギリス騎兵300
  • ヘッセン=カッセル騎兵250
  • イギリス大砲13門
  • ハノーファー大砲8門
  • ほかニコラウス・フォン・ルックナー率いる400-500人
はじめ7,000-12,000[2]、後に20,000に増える
騎兵1,000-1,200
大砲24門[3]
損害
死傷者と捕虜の合計800-1,000[4]
大砲18門[5][6]
700-800[7]

コルバッハの戦い(コルバッハのたたかい、英語: Battle of CorbachまたはBattle of Korbach)は七年戦争中の1760年7月10日ヴァルデック侯国コルバッハにおいてフランス軍がイギリス、ハノーファー、ヘッセン=カッセル連合軍に勝利した戦闘。1760年戦役の最初の戦闘であった。

行軍

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コルバッハの町はコルバッハ山上にあり、周りの平原からは400メートル以上の高さであった。コルバッハ山は町の東1マイルにあるベルンドルフドイツ語版の森まで伸び、町では道路が数本交差していた。コルバッハの近くには両軍の大軍が行軍していた。元帥ブロイ公以下フランス本軍は約18マイル南のフランケンベルクにいて、一方フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル率いる連合軍は6マイル東のザクセンハウゼンドイツ語版にいた。ブロイ公にはヘッセンを通ってハノーファーへ北上する命令が下されており、コルバッハにいるフランス軍はこのときヘッセン=カッセルの首都カッセルから西25マイルしか離れていなかった。

コルバッハ自体は7月9日にハノーファーの軽騎兵指揮官ニコラウス・フォン・ルックナーが占領していたが、騎兵4個大隊とヘッセン猟兵1個大隊では守備に足りず、10日にはサンジェルマン伯爵の前衛に追い払われた。フェルディナントはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率いるイギリス、ハノーファー、ヘッセン=カッセルの混成軍を派遣して、サンジェルマン伯爵の撃退、およびサンジェルマンとブロイ軍の合流阻止を命令した。グランビー卿にザクセンハウゼンの指揮を任せると、フェルディナントは大軍を率いてヴィルドゥンゲンへ行軍した。一方のカール・ヴィルヘルム・フェルディナントは朝9時にコルバッハの山麓に到着した。

連合軍のうちイギリス軍はジョン・グリフィン英語版が指揮官で少なくともスタッドホルム・ホジソン英語版率いる第5歩兵連隊英語版エドワード・コーンウォリス英語版率いる第24歩兵連隊英語版、エドワード・カー率いる第50歩兵連隊英語版、トマス・ブルデネル率いる第51歩兵連隊英語版を含む6個大隊[8]ハンフリー・ブランド英語版率いる第1国王近衛竜騎兵連隊英語版の3個騎兵大隊、チャールズ・ハワード英語版率いる第3近衛竜騎兵連隊英語版の2個騎兵大隊、そして大砲18門を有するチャールトン率いる歩兵部隊であった。連合軍の合計はハノーファー、ヘッセン、ブラウンシュヴァイクの19個歩兵大隊、そして14個騎兵大隊であり、さらに近くにはルックナー軍もいた。

サンジェルマン軍は最初にはラ・トゥール=デュ=パン連隊フランス語版ラ・クーローヌ連隊フランス語版の2個旅団だったが、王立スウェーデン人旅団英語版カステラス旅団フランス語版の3個スイス人連隊がその後を続き、さらにナヴァール連隊フランス語版王立連隊フランス語版も駆けつけた[9]。その合計は文献によって違い、10個歩兵大隊と15個騎兵大隊で合計7千とするものもあれば、6個旅団で合計1万とするものもある[10]。歩兵の他には17個騎兵大隊もいた。

戦闘

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ハノーファー騎兵
ブロイ公

サンジェルマン伯爵はコルバッハの町で4個歩兵大隊を展開した。残りの歩兵、砲兵部隊と騎兵はコルバッハ山で展開し、また軽部隊の一部はベルンドルフドイツ語版の森で展開した。カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは軍を展開するとすぐに攻撃に移したが、フランスの陣形により彼は左後ろのほうに隙がある陣形を取らざるをえなくなり、しかもフランスの増援がフランケンベルクからコルバッハまで北上してきた場合、ちょうどその隙を突いてしまう位置であった。

戦闘は連合軍が朝9時に到着するとはじまり、まずは両軍のフサール(軽騎兵)が小競り合いをおこした。戦闘を通して両軍の砲撃と歩兵の射撃が激しかったが、フランス軍はもちこたえた。戦闘は両軍の中央部、コルバッハとベルンドルフの間にある2つの森で一番激しかったが、そこではフランス軍はドイツ軍を押していた。グランビー伯爵からリゴニア子爵英語版への公式報告によると、フランケンベルクからのフランス増援が連合軍の後ろに到着したため、カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは撤退を決断したという[11]

連合軍が撤退しているとき、連合軍のドイツ歩兵と騎兵の間で混乱が生じ[12]、これを見たフランス軍は砲撃を倍加し、騎兵の大部隊で突撃した。連合軍の撤退は15時ごろにはじまり、カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは自ら近衛竜騎兵連隊の2個大隊を率いて突撃、第50、51歩兵連隊とともに撤退を援護してほぼ全軍を助ける結果となったが、第1国王竜騎兵連隊で47人が戦死した。しかし、連合軍右翼の王立砲兵大隊と大砲18門がフランスに奪われるのは防げなかった。

その後

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コルバッハの戦いは1760年戦役の最初の戦闘であった。フランス軍がコルバッハで勝利したことにブロイ公が戦役を早く開始したこともあってドイツにおける進軍は順調に進んだ。フェルディナントとカール・ヴィルヘルム・フェルディナントにはエムスドルフの戦いヴァールブルクの戦いで敗北したにもかかわらずのことであり、さらに10月のクローステル・カンペンの戦いで僅差ながらも勝利したことでアメリカでの敗北が相殺され、イギリスが有利な条件で戦争を早期終結する望みは潰えた[13]

脚注

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  1. ^ Manners, Walter Evelyn, Some Account of the Military, Political, and Social Life of the Right Hon. John Manners Marquis of Granby, London, 1899, Macmillan and Company Ltd., p. 131, note 5: "Twenty one battalions and nineteen squadrons...". Savory は歩兵24個大隊、騎兵19個大隊、大砲21門とした。
  2. ^ Smollett,Tobias George and Hume, David,The History of England, from the Revolution in 1688, to the Death of George II, London 1825, p.547, "...10,000 infantry and seventeen squadrons...". William Russell, Charles Coote, The History of Modern Europe, Vol.III, London 1837, p. 383, "...ten battalions and fifteen squadrons..." or, approximately, 7,000.
  3. ^ Charles Pierre Victor Pajol, Les guerres sous Louis XV: Tome 5, Paris 2006, ISBN 0-543-94431-X, p.56.
  4. ^ William Russell, Charles Coote, The History of Modern Europe, Vol.III, London 1837, p. 383, "...no small loss..."
  5. ^ Manners, Walter Evelyn, Some Account of the Military, Political, and Social Life of the Right Hon. John Manners Marquis of Granby, London, 1899, Macmillan and Company Ltd., p. 132.
  6. ^ The Operations of The Allied Army under the Command of His Serene Highness Prince Ferdinand Duke of Brunswic and Luneberg During the greatest Part of Six Campaigns, beginning In the Year 1757, and ending in the Year 1762. by an Officer, who served in the British Forces. London, MDCCLXIV, p.150, " twelve pieces of cannon, four howitzers, and thirty ammunition wagons...824 men killed, wounded and missing.".
  7. ^ Savoryは700から800と概算した。The Manuscripts of His Grace, the Duke of Rutland, Vol. II, London 1889, p. 219, "The French had six Brigades of Infantry engaged, which suffered greatly." Pajol, Les guerres sous Louis XV: Tome 5, p.57 では死傷者600-700とした。
  8. ^ The Manuscripts of His Grace, the Duke of Rutland, Vol. II, London 1889, p. 209, these are 4 of the "...six battalions-1,000 men each..." mentioned. Manners, Walter Evelyn, Some Account of the Military, Political, and Social Life of the Right Hon. John Manners Marquis of Granby, London, 1899, Macmillan and Company Ltd., p. 131, note 5: "...Carr's, Brudenell's, Hodgson's, Cornwallis'
  9. ^ Charles Pierre Victor Pajol, Les guerres sous Louis XV: Tome 5, Paris 2006, ISBN 0-543-94431-X, pp.56-58
  10. ^ Savoryによると、フランス軍は最終的には合計36個大隊いたという。戦闘に参加された連隊の記録はラ・トゥール=デュ=パン連隊フランス語版ブルボネー連隊フランス語版オーバーニュ連隊フランス語版ベルザンス連隊フランス語版王立連隊フランス語版ヴォーベクール連隊フランス語版ドーファン連隊フランス語版アキテーヌ連隊フランス語版ラ・クーローヌ連隊フランス語版タラル連隊フランス語版トレーネル連隊フランス語版であったが、トレーネル連隊は1758年にデュルフォール連隊に改名されていたため誤りと思われる。なお、1個連隊から2個大隊以上が編成された可能性もあるため、6個旅団で計1万人という概算が現実であった可能性もある。フランス陸軍において、大隊の名前は一般的には連隊の名前からとられている。
  11. ^ The Manuscripts of His Grace, the Duke of Rutland, Vol. II, London 1889, p. 219
  12. ^ Burke, Edmund and Davis, John, The Annual Register, Or, A View of the History, Politics, and Literature for the year 1760, London 1789, p.21
  13. ^ Dull, Jonathan. The French Navy and the Seven Years War, University of Nebraska Press, 2005, ISBN 978-0-8032-1731-7, pp. 180-181.

参考文献

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  • His Britannic Majesty's Army in Germany During the Seven Years War by Reginald Savory.
  • The Operations of The Allied Army under the Command of His Serene Highness Prince Ferdinand Duke of Brunswic and Luneberg During the greatest Part of Six Campaigns, beginning In the Year 1757, and ending in the Year 1762. by an Officer, who served in the British Forces. London, MDCCLXIV.
  • Les guerres sous Louis XV: Tome 5, by Charles Pierre Victor Pajol, Paris 2006, ISBN 0-543-94431-X.

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