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ル・アーヴル襲撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ル・アーヴル襲撃

ル・アーヴル港への砲撃
戦争七年戦争
年月日1759年7月3日 - 7月5日
場所フランス王国ル・アーヴル
結果:イギリスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
グレートブリテン王国の旗 ジョージ・ロドニー少将 フランス王国の旗 スービーズ公
戦力
戦列艦5隻
フリゲート5隻
スループ1隻
臼砲艦6隻
はしけ337隻
平底船英語版12隻
歩兵8,000[1]
損害
僅少 多くのはしけの破壊
家屋93軒
40万ポンドの損害

ル・アーヴル襲撃(ル・アーヴルしゅうげき、英語: Raid on Le Havre)は七年戦争中の1759年7月3日から2日間、ジョージ・ロドニー少将率いるイギリス海軍によるフランスのル・アーヴルへの艦砲射撃フランスによるイギリス侵攻計画英語版のためにル・アーヴルに停泊していた多くのはしけを破壊した[1]

背景

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1759年夏までにショワズール公爵の侵攻計画は大西洋英仏海峡沿岸にあるフランスの港(ブレスト、ル・アーヴル、ロシュフォールトゥーロン)で着実と進められた。陸軍もダンケルクサントメールオーステンデリールヴァンヌで集結した[2]。ル・アーヴルがセーヌ河畔にあって部隊を移動しやすいため、ショワズールはそこをスービーズ公のイギリス侵攻の基地とした[2]

イギリスはフランスが遠征軍の運輸のために多くの平底船をル・アーヴルで準備したという情報を得ていた[3]ので、対策を練っていた。

砲撃

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ロドニー海軍大将率いる小艦隊は7月2日にスピットヘッドを出港、ル・アーヴルへ向かった。この小艦隊は旗艦の60門艦アキレス、50門艦4隻、フリゲート5隻、スループ1隻、そして爆弾を積載したケッチ6隻であったが、6隻のケッチは到着してすぐオンフルールへの狭い川で錨を降ろした。次の日に砲撃がはじまり、3千発以上の砲弾が50時間以上にわたって、フランスの平底船や補給や町に向かって撃たれた[3]。ロドニーはフリゲート数隻とともに年末までル・アーヴル港近くにとどまり、数多くの戦利品を鹵獲した[4]

フランスは砲撃で夥しい損害を出した[1]が、フランス軍は砲台や塹壕に隠れてイギリスに反撃した。町には火の手があがり、住民が逃げ惑う中に燃え上がった[3]

その後

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しかし、この勝利でイギリスの指導部は安全を錯覚した。フランスは確かに大損害を被ったが、(計画の縮小を余儀なくされながらも)まだまだ侵攻する余力があった[5]。1759年夏、フランスのトゥーロン艦隊はジブラルタル海峡から出港したが、8月のラゴスの海戦で拿捕された。11月、フランスのブレスト艦隊はキブロン湾の海戦で大敗、この3つの敗北でフランスの侵攻計画はようやく放棄された[4]

この勝利は1759年の奇跡の年の一部となった。

脚注

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参考文献

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  • McLynn, Frank (2015). From The Armada to Hitler. Crux Publishing Ltd. ISBN 9781909979314 
  • Russell Frank Weigley, The age of battles, p.226
  • McLynn, Frank (2011). 1759: The Year Britain Became Master of the World. Random House. ISBN 9781446449271 
  • Schumann, Schweizer, Matt & Karl (2012). The Seven Years War: A Transatlantic History War, History and Politics. Routledge. ISBN 9781134160686 

座標: 北緯49度26分14秒 東経0度8分40秒 / 北緯49.43722度 東経0.14444度 / 49.43722; 0.14444