サーサーン朝領エジプト
- サーサーン朝領エジプト
- Պարսկահայաստան
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← 619年 - 629年 →
東ローマ帝国のエジプト管区の領域。-
首都 アレクサンドリア - 統治者
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619年 - 621年 シャフルバラーズ 621年 - 626年 シャフルアーラーニヨーザーン 626年 - 629年 シャフルバラーズ - 変遷
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サーサーン朝のエジプト征服 619年 東ローマ帝国に復帰 629年
現在 エジプト、リビア
エジプトの歴史 | ||||||||||
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エジプト先王朝時代 pre–3100 BCE | ||||||||||
古代エジプト | ||||||||||
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エジプト古王国 2686–2181 BCE | ||||||||||
エジプト第1中間期 2181–2055 BCE | ||||||||||
エジプト中王国 2055–1795 BCE | ||||||||||
エジプト第2中間期 1795–1550 BCE | ||||||||||
エジプト新王国 1550–1069 BCE | ||||||||||
エジプト第3中間期 1069–664 BCE | ||||||||||
エジプト末期王朝 664–332 BCE | ||||||||||
古典古代 | ||||||||||
アケメネス朝エジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE | ||||||||||
プトレマイオス朝 332–30 BCE | ||||||||||
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE | ||||||||||
サーサーン朝領エジプト 619–629 | ||||||||||
中世 | ||||||||||
アラブのエジプト征服 641 | ||||||||||
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トゥールーン朝 868–905 | ||||||||||
イフシード朝 935–969 | ||||||||||
ファーティマ朝 969–1171 | ||||||||||
アイユーブ朝 1171–1250 | ||||||||||
マムルーク朝 1250–1517 | ||||||||||
近世 | ||||||||||
オスマン帝国領エジプト 1517–1867 | ||||||||||
フランス占領期 1798–1801 | ||||||||||
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近代 | ||||||||||
イギリス統治期 1882–1953 | ||||||||||
エジプト・スルタン国 1914–1922 | ||||||||||
エジプト王国 1922–1953 | ||||||||||
エジプト共和国 1953–1958 | ||||||||||
アラブ連合共和国 1958–1971 | ||||||||||
エジプト・アラブ共和国 1971–現在 | ||||||||||
サーサーン朝領エジプト(さーさーんちょうりょうえじぷと、619年〜629年)はサーサーン朝の支配下に入った時期の、現在のエジプトやリビアなどの地域を指す。
サーサーン朝皇帝ホスロー2世は東ローマ・サーサーン戦争を引き起こした。戦いの中で、配下の将軍シャフルバラーズはエジプトを征服した。ホスロー2世がクーデターにより命を落とし、東ローマ皇帝ヘラクレイオスとサーサーン朝が和平交渉を結ぶまで、エジプトはおよそ10年間に渡りサーサーン朝の支配を受けた。
概要
[編集]エジプトはサーサーン朝(おそらくその将軍シャフルバラーズ)によって征服され、619年頃には、州都アレクサンドリアもサーサーン朝によって陥落した。エジプトの防衛部隊は現地民で構成されていて、その実態は戦闘経験がない警備員のようなものであった[1]。アレクサンドリアを除いては、大きな武力抵抗の痕跡も残っておらず、エジプトの征服は容易であったと考えられる[1]。エジプトは東ローマ帝国の領域の中でも特に裕福な地域であり、その喪失は東ローマ帝国に大きな衝撃を与えた[1]。これらの征服時期はよくわかっていないが、アレクサンドリアのは619年6月までには陥落していて、その後も南に占領地を広げ、621年までには全東ローマ領エジプトを支配している[1]。
サーサーン朝のエジプト征服には不明なところが多い。タバリーの記述によると、将軍シャーヒーンが陥落させたとある[2][3]。一方で、シャフルバラーズが征服したと記述する資料もある。現代の歴史家のほとんどは、Shahinは小アジア征服中であり、エジプトへは派遣されておらず、シャフルバラーズがエジプトを陥落させたとみなしている[2]。また、その正確な日時も分かっていないが、発見されたパピルス文書と一次資料から619年頃とされている[4]。
シャフルバラーズはシャフルアーラーニヨーザーンがエジプト総督につくまでの間、エジプトを統治した。新たに統治者となった、シャフルアーラーニヨーザーンは「karframan-idar」(「宮廷執事」の意味)の称号を名乗った。エジプトの総督を務めるとともに、徴税官を兼任し、ファイユームに居住したとされる[5]引用エラー: 冒頭の <ref>
タグは正しくない形式であるか、不適切な名前です。彼は、単なる徴税官のみならず、武官も兼ねていてエジプトに駐留した軍の指揮官ともされている[5]。中期ペルシア語の文献では、エジプトを「Agiptus」として以下のように記述されている。「agiptus būm kē misr-iz xwānēnd」(ミスル(Misr[注釈 1])とも呼ばれるAgiptusの土地)。ナイル川は「rōd ī nīl」と呼ばれた。
626年以降の資料には、シャフルアーラーニヨーザーンについての記述が無く、代わってシャフルバラーズがエジプトの支配者として記述されている[6]。622年頃から東ローマ・サーサーン戦争は東ローマ帝国が攻勢に出ている。626年にはコンスタンティノープル包囲に失敗した。628年にはファッルフ・ホルミズドら貴族によりホスロー2世が廃位され、新たに即位したカワード2世が和平交渉に応じたことで戦争は終結した[7]。カワード2世はシャフルバラーズに占領地から撤退するよう求めたが、それに応じずエジプトから撤退しなかった[2]。ヘラクレイオスはシャフルバラーズと和平交渉を始め、自身の王位簒奪への援助と引き換えにエジプトから撤退した[2][8]。630年1月までにはエジプトが東ローマ帝国のもとに奪還された[2][6]。
統治
[編集]シリア語の資料には、ホスロー2世はシャフルバラーズに「服従する者は友好的に受け入れ、平和と繁栄を保て。しかし、抵抗して戦争を起こすような者は剣を持って殺せ」と助言したと記述されているように、征服が行われてすぐは、暴力行為があったが小規模なものに過ぎなかった[9]。サーサーン朝は東ローマ帝国時代の統治機構を維持するとともに[4]、エジプトの臣民には、ゾロアスター教の改宗を強制しなかった。単性論派のキリスト教会を支援し、ビザンツ教会を迫害し、コプト教徒はこの状況の中で、多くの正教会を支配下に置いた[10]。エジプトには数多くのサーサーン朝の駐屯地が設けられた。エレファンティネ島、Herakleia、オクシリンコス、Kynon、テオドシオポリス、Hermopolis、ヘルモポリス、アンティノオポリス(Antinopolis)Kosson、リュコス(Lykos)、ディオスポリス(Diospolis)、マクシミアノポリス(Maximianopolis)などがその代表例である。これら駐屯地では臣民から税を徴収し、軍隊用の必需品を調達していた。発見されたパピルスの文書には、サーサーン朝による税の徴収について言及されていて、徴税方法は東ローマ帝国と変わっていないことが分かっている[11]。また別のパピルスには、サーサーン朝兵士とその妹について言及されていて、兵士とともにエジプトに定住した家族がいたことが判明している[12]。
エジプトにおけるサーサーン朝の統治は東ローマ帝国の統治に比べるとほんの僅かであったが、その影響は今でも残っている。例えば、殉教者や告白者(confessors)を称えるコプト派の正月の祝祭ナイルーズは、イラン正月の祝祭ノウルーズに由来する[13]。また、サーサーン朝に関する祝祭日として十字架挙栄祭があり、イエス・キリストが磔となった聖十字架の発見と、628年にサーサーン朝から奪還してエルサレムに返納されたことを記念している。エジプトで繁栄したコプト美術も、サーサーン芸術から大きく影響を受けている[14]。
統治者の一覧
[編集]期間 | 統治者 |
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619年~621年 | シャフルバラーズ |
621年~626年(?) | シャフルアーラーニヨーザーン |
626年(?)~629年 | シャフルバラーズ |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ Misrはアラビア人によるエジプトの呼び方
引用
[編集]- ^ a b c d Jalalipour 2014, p. 4.
- ^ a b c d e Jalalipour 2014, p. 12.
- ^ 青木 2020 p,295
- ^ a b Jalalipour 2014, p. 13.
- ^ a b Jalalipour 2014, p. 10.
- ^ a b Howard-Johnston 2006, p. 124.
- ^ 青木 2020 p,303~305
- ^ 蔀 2018 p,221,222
- ^ Jalalipour 2014, p. 6,7.
- ^ Jalalipour 2014, p. 7.
- ^ Jalalipour 2014, p. 8.
- ^ Jalalipour 2014, p. 9.
- ^ Daryaee 2023, p. 1.
- ^ Daryaee 2023, p. 2.
参考文献
[編集]- 青木健『ペルシア帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2020年8月。ISBN 978-4-06-520661-4。
- 蔀 勇造『物語 アラビアの歴史』中央公論新社〈中公新書〉、2018年7月。ISBN 978-4-12-102496-1。
- Altheim-Stiehl, Ruth (1998). "EGYPT iv. Relations in the Sasanian period". Encyclopaedia Iranica, Vol. VIII, Fasc. 3. pp. 252–254.
- Jalalipour, Saeid (2014). Persian Occupation of Egypt 619-629: Politics and Administration of Sasanians. Sasanika
- Howard-Johnston, James (2006). East Rome, Sasanian Persia And the End of Antiquity: Historiographical And Historical Studies. Ashgate Publishing. ISBN 0-86078-992-6
- Dodgeon, Michael H.; Greatrex, Geoffrey; Lieu, Samuel N. C. (2002). The Roman Eastern Frontier and the Persian Wars (Part I, 226–363 AD). Routledge. pp. 196–97. ISBN 0-415-00342-3
- Frye, R. N. (1993). “The Political History of Iran under the Sassanids”. In Yarshater, Ehsan; Bailey, Harold. The Cambridge History of Iran. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-20092-9
- Daryaee, Touraj (6 June 2023). Middle Persian Papyri from the Sasanian Occupation of Egypt in the Seventh Century CE (I). Sasanika
- Weber, Dieter (2005). "PAHLAVI PAPYRI". Encyclopaedia Iranica. pp. 325–326.