シャルル2世 (アランソン伯)
シャルル2世 Charles II | |
---|---|
アランソン伯 | |
シャルル2世の墓像 | |
在位 | 1325年 - 1346年 |
出生 |
1297年 |
死去 |
1346年8月26日 |
埋葬 | フランス王国、パリ、サン=ジャック通り、ジャコバン修道院 |
配偶者 | ジャンヌ・ド・ジョワニー |
マリア・デ・ラ・セルダ | |
子女 |
シャルル3世 フィリップ ピエール2世 イザベル ロベール |
家名 | ヴァロワ=アランソン家 |
父親 | ヴァロワ伯シャルル |
母親 | マルグリット・ダンジュー |
アランソン伯シャルル2世 (Charles II, comte d'Alençon, 1297年 - 1346年8月26日)は、アランソン伯およびペルシュ伯(在位:1325年 - 1346年)、シャルトル伯およびジョワニー伯(在位:1335年 - 1336年)。
生涯
[編集]シャルル2世はヴァロワ伯シャルルとアンジュー女伯マルグリットの次男で[1]、フランス王フィリップ6世の弟である。1314年4月、シャルル2世はジャンヌ・ド・ジョワニーと結婚した[2]。ジャンヌは1335年に父ジャン2世の跡を継いでジョワニー女伯となっていたが、1336年9月2日に死去した。2人の間に子供はいなかった。シャルル2世は父の指揮下でギュイエンヌで初陣を果たし、最初の包囲線で勇気ある戦いぶりを見せた。
父シャルルが1325年12月16日に死去し、シャルル2世は父とすでに合意していた通り、アランソン伯領、シャンプロン、シャトーヌフ=アン=ティムレ、スノンシュおよびペルシュの森を継承した。
兄フィリップは1328年にフランス王となった。しかしイングランド王エドワード3世がフランス王位を主張し、臣下の礼を取ることを拒否した。フィリップはシャルル2世を将軍に任命し、イングランド人が起こしたサントの反乱の鎮圧に向かわせた[3]。 シャルル2世はサントといくつかの要塞を占領した。
結婚と子女
[編集]1336年、シャルル2世はスペイン王族フェルナンド・デ・ラ・セルダの娘マリアと結婚し、以下の子女をもうけた[4]。
- シャルル3世(1337年 - 1375年) - アランソン伯(1346年 - 1361年)、のちリヨン大司教(1365年 - 1375年)[4]
- フィリップ(1338年 - 1397年) - ボーヴェ司教[4]、ルーアン大司教(1359年 - 1375年)、枢機卿
- ピエール2世(1340年 - 1404年)[2] - アランソン伯(1361年 - 1404年)
- イザベル(1342年 - 1379年9月3日ポワシー)[4] - 修道女
- ロベール(1344年 - 1377年)[4] - ペルシュ伯(1346年 - 1377年)
死去
[編集]シャルル2世は1340年にブルターニュ継承戦争に参加し、続いて参加したクレシーの戦いで戦死した[4]。父と同様にパリのサン=ジャック通りのジャコバン修道院に埋葬された。彫像は現在サン=ドニ大聖堂にある。
アランソン伯位は長男のシャルル3世が、ペルシュ伯位はロベールが継承した。
紋章
[編集]-
ヴァロワ=アランソン家の紋章
-
ペルシュ伯の紋章
脚注
[編集]- ^ de Venette 1953, p. 312.
- ^ a b Autrand 1994, p. 859.
- ^ Henneman 1971, p. 108.
- ^ a b c d e f Doubleday 2001, p. 172.
参考文献
[編集]- Autrand, Francoise (1994) (French). Charles V: Le Sage. Fayard
- Doubleday, Simon R. (2001). The Lara Family: Crown and Nobility in Medieval Spain. Harvard University Press
- Henneman, John Bell (1971). Royal Taxation in Fourteenth-Century France: The Development of War Financing, 1322-1359. Princeton University Press
- de Venette, Jean (1953). Newhall, Richard A.. ed. The Chronicle of Jean de Venette. Columbia University Press
|
|
|
|
|
|
|
|
|