マリア・デ・ラ・セルダ
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マリア・デ・ラ・セルダ María de La Cerda | |
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出生 |
1319年 |
死去 |
1375年3月13日 フランス王国、パリ |
埋葬 | フランス王国、パリ、サン=ジャック通り、ジャコバン修道院 |
配偶者 | エタンプ伯シャルル |
アランソン伯シャルル2世 | |
子女 |
ルイ ジャン シャルル3世 フィリップ ピエール2世 イザベル ロベール |
家名 | ラ・セルダ家 |
父親 | フェルナンド2世・デ・ラ・セルダ |
母親 | フアナ・ヌニェス・デ・ララ |
マリア・デ・ラ・セルダ(スペイン語:María de La Cerda y de Lara, フランス語:Marie de la Cerda y de Lara, 1319年 - 1375年3月13日)は、フェルナンド2世・デ・ラ・セルダとその妃フアナ・ヌニェス・デ・ララの間の末娘[1]。カスティーリャ王国ブルゴーニュ朝の一族である。2番目の結婚によりアランソン伯妃となった。
生涯
[編集]マリアはフェルナンド2世・デ・ラ・セルダとその妃フアナ・ヌニェス・デ・ララの間の末娘である[2]。マリアが3歳のとき父フェルナンド2世が死去し、その29年後の1351年に母フアナも死去した。
1335年4月にポワシーでエタンプ伯シャルルと結婚した[1]。たった1年の結婚生活であったが、双子の男子をもうけた。1336年9月5日、マリアが17歳のときに夫シャルルは死去した。
最初の夫の死から3ヶ月後に、マリアはアランソン伯シャルル2世と再婚した[1]。この結婚は双方とも再婚であり、シャルル2世は前年に最初の妃ジャンヌ・ド・ジョワニーと死別していた。結婚の9年後、シャルル2世はクレシーの戦いで戦死した。
マリアは1375年3月13日にパリで死去し、パリにあったサン=ジャック通りのジャコバン修道院(現在は破壊されている)の2番目の夫の隣に埋葬された。2人の彫像は現在はサン=ドニ大聖堂に置かれている。
子女
[編集]エタンプ伯シャルルとの間に双子の男子をもうけた。
アランソン伯シャルル2世との間に以下の子女をもうけた。
- シャルル3世(1337年 - 1375年)[1] - アランソン伯(1346年 - 1361年)、のちリヨン大司教(1365年 - 1375年)
- フィリップ(1338年 - 1397年)[1] - ボーヴェ司教、ルーアン大司教(1359年 - 1375年)、枢機卿
- ピエール2世(1340年 - 1404年) - アランソン伯(1361年 - 1404年)
- イザベル(1342年 - 1379年9月3日、ポワシー)[1] - 修道女
- ロベール(1344年 - 1377年)[1] - ペルシュ伯(1346年 - 1377年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Doubleday, Simon R. (2001). The Lara Family: Crown and Nobility in Medieval Spain. Harvard University Press