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ジェラルド・ブル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェラルド・ヴィンセント・ブル
1964年
生誕 (1928-03-09) 1928年3月9日
カナダの旗 カナダ
オンタリオ州ノースベイ
死没 (1990-03-22) 1990年3月22日(62歳没)
ベルギーの旗 ベルギー
ブリュッセル
居住 カナダの旗 カナダ
研究分野 弾道学
研究機関 マギル大学
カナダ兵器研究開発所
スペースリサーチコーポレーション
出身校 トロント大学
博士課程
指導教員
Gordon Patterson
プロジェクト:人物伝
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ジェラルド・ヴィンセント・ブルGerald Vincent Bull1928年3月9日 - 1990年3月22日)は、カナダ人の科学者。

概要

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オンタリオ州ノースベイの出身。最初は薬学を学んでいたが後に工学に転向。1951年トロント大学で史上最年少で博士号を獲得する(この記録は現在も破られていない)。

弾道学の権威で、High Altitude Research Project(HARP)を推進、スペースリサーチコーポレーション(SRC)を設立して多くの火砲(→大砲)の開発に関わった。

有名なイラクバビロン計画の他、暗殺される直前まで世界各国で兵器開発に携わり、1990年3月22日、ベルギーブリュッセルの自宅扉前で背後から5発の銃弾を受け殺害されているのが発見された。犯人は特定されておらず、欧米ではMI6モサドイラン諜報機関による犯行の可能性があると報道されている。

関係した計画

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HARP16インチ砲

HARP

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カナダ兵器研究開発所(CARDE後のDRDC)の責任者を務め、1961年アメリカ国防省とカナダ国防省の共同で開始されたロケットよりも安価な人工衛星打ち上げ手段の模索などを目的としたHigh Altitude Research Project(HARP)に参加した。戦艦用の16インチ(40.6cm)砲の内部のライフリングを削り42.4cm滑腔砲としたものを2門結合させた砲が3門建造され、ケベックバルバドスで発射実験が行われた。「マートリット2」では重量82kgの砲弾を高度180kmの高さ、すなわち宇宙空間にまで打ち上げることに成功している[1]。この計画は1968年に中止された。

GHN-45火砲

スペースリサーチコーポレーション

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HARPが中止される前年の1967年、スペースリサーチコーポレーション(SRC)をカナダのケベックに設立し、火砲の設計を請け負った。

SRCの最初の成功は1973年イスラエルアメリカを相手にした武器の販売であり、バリー・ゴールドウォーターらの後押しでアメリカ議会から市民権が与えられた[2]

SRCが開発した長距離射程のGC45 155mm榴弾砲は、改良型のGHN-45としてオーストリア南アフリカ共和国スペインなど世界各国に輸出された。後に南アフリカがこれを自走砲化させたG6 155mm自走榴弾砲を開発してアラブ首長国連邦などに輸出した。しかし、SRCがG5 155mm榴弾砲を共同開発したアームスコー英語: Armscor (South Africa)社の南アフリカは当時アパルトヘイトに対する制裁を受けており、この行為は違法とされ1980年、禁固刑に処せられた。

釈放後はカナダを離れ、SRCはベルギーのブリュッセルに活動の拠点を移した。出所したブルに接触してきた中華人民共和国にも度々訪れて鄧小平との会見や大学での講義も行っており[3][4]1986年中国北方工業公司(ノリンコ)とWAC-021 155mm榴弾砲英語版を共同開発した[5]。これはアメリカの輸出規制に抵触していたが、アメリカ合衆国国防総省は対中貿易管理の見直しで協力したとされる[3]。暗殺によってブルが事実上最後に開発した兵器となったが、中国がこれをベースに自走砲化させた88式155mm自走榴弾砲英語版クウェートサウジアラビアなどに輸出された[6]。ブルは長距離射程・大口径の203mm榴弾砲の開発も受注してイラン・イラク戦争中のイランイラクへの輸出を中国は計画したともされるが、これは完成しなかった[7]

バビロン計画

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中国でのブルの活躍を知ったイラクのサッダーム・フセイン大統領の従兄弟フセイン・カーミル・ハサンはブルと接触し[3]1988年にブルはイラクへの技術提供、アル・マジヌーン 155mm自走榴弾砲アル・ファオ 210mm自走榴弾砲英語版などの開発、さらに口径1mの大砲の開発契約を交わした。後者の開発は「バビロン計画」と呼ばれ、全長45m、口径350mmの砲が実験用に建造された。

湾岸戦争終了後の1991年8月、イラクの武装解除に当たっていた国連の査察官によりこの大砲が発見され、バビロン計画が明らかなものとなった。計画では全長150m、口径1mの砲が2門建設されるはずであったが、ヨーロッパから輸出された部品の差し押さえとブルの暗殺により完成できず、この査察ですべて破棄された。

脚注

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  1. ^ 大久保義信「徹底分析戦争映画100!」(2003)
  2. ^ Tina, Starr (October 2009). "Life and Work at Space Research". Vermont's Northland Journal 8 (7): 7
  3. ^ a b c “THE GUNS OF SADDAM”. ワシントン・ポスト. (1991年2月10日). https://www.popsci.com/saudis-use-chinese-made-cannons-yemen/ 2019年7月8日閲覧。 
  4. ^ 中国火炮在中东屡次碾压美英 令其吃尽苦头”. 鳳凰網 (2015年8月15日). 2019年7月8日閲覧。
  5. ^ GC-45 / FGH-155 / AH1 (Gun, Canada, 45-calibre)”. GlobalSecurity.org. 2018年8月27日閲覧。
  6. ^ “Saudis Use Chinese-made Cannons in Yemen”. ポピュラーサイエンス. (2015年4月21日). https://www.popsci.com/saudis-use-chinese-made-cannons-yemen/ 2019年7月3日閲覧。 
  7. ^ “VSP-203 / W90 203mm self-propelled gun”. GlobalSecurity.org. (2015年4月21日). https://www.globalsecurity.org/military/world/china/203mm-prc.htm 2019年7月8日閲覧。 

関連項目

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