コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジュリー・アラール=デキュジス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュリー・アラールから転送)
ジュリー・アラール・デキュジス
Julie Halard-Decugis
基本情報
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・ベルサイユ
生年月日 (1970-09-10) 1970年9月10日(54歳)
身長 173cm
体重 57kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1986年
引退年 2000年
ツアー通算 27勝
シングルス 12勝
ダブルス 15勝
生涯通算成績 639勝389敗
シングルス 386勝233敗
ダブルス 253勝156敗
生涯獲得賞金 3,096,734 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1993・2000)
全仏 ベスト8(1994)
全英 4回戦(1992)
全米 4回戦(1999)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(2000)
全仏 ベスト4(1994・2000)
全英 準優勝(2000)
全米 優勝(2000)
優勝回数 1(米1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 7位
ダブルス 1位

ジュリー・アラール=デキュジス(Julie Halard-Decugis, 1970年9月10日 - )は、フランスヴェルサイユ出身の元女子プロテニス選手。2000年全米オープン女子ダブルスで、日本の杉山愛とペアを組んで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス12勝、ダブルス15勝を挙げた。1995年に結婚し、以降は既婚選手として自分の姓「アラール」(Halard)と夫の姓「デキュジス」(Decugis)を併用して活動した。

来歴

[編集]

7歳からテニスを始め、1986年に16歳でプロ入り。1989年からアルノー・デキュジス(Arnaud Decugis)のコーチを受け始め、1995年9月22日に結婚した。夫のアルノー・デキュジスは、黎明期の全仏選手権(現在の全仏オープン)で活躍したマックス・デキュジス1882年 - 1978年)の遠縁の子孫である。1991年プエルトリコの大会でシングルス初優勝。1992年ウィンブルドン2回戦でアランチャ・サンチェス・ビカリオを破り、4回戦まで進出。1993年全豪オープン1994年全仏オープン4大大会のベスト8に入る。

1996年7月、女子国別対抗戦・フェドカップ準決勝でフランススペインが対戦した時、アランチャ・サンチェス・ビカリオと対戦中に右手首の靱帯断裂を起こした。この故障のため、1997年のシーズンは全く試合に出場できなかった。そのブランク期間中、美術のレッスンを受け、趣味の絵画の腕を磨いたという。1998年にシングルスとダブルスで2勝ずつを挙げ、ツアー復帰を果たした。

早くから日本が大好きで、同じ1970年9月生まれの伊達公子と親友になった。1996年に伊達が現役を引退した後、後輩の杉山とダブルス・パートナーを組み、最も息の合うダブルス・ペアとして活動した。日本の試合では、1994年の「ニチレイ・レディース」でダブルス優勝があり、最後の年となった2000年に「ジャパン・オープン」で単複優勝を飾っている。

現役最後のシーズンとなった2000年に、WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス10勝を挙げた。そのうち6勝は杉山愛とのコンビによるもので、その中には全米オープン女子ダブルスも含まれる。2000年9月10日、アラール=デキュジスと杉山のペアは全米オープンの女子ダブルス決勝でカーラ・ブラックジンバブエ)とエレーナ・リホフツェワロシア)組を 6-0, 1-6, 6-1 で破って優勝した。日本人選手を含むペアが4大大会の女子ダブルス部門で優勝したのは、1975年ウィンブルドンで優勝した沢松和子アン清村組以来25年ぶりであった。この日はアラール=デキュジスの30歳の誕生日でもあった。

この後、日本の「トヨタ・プリンセス・カップ」(ニチレイ・レディースは1997年からこの名称に変更)と「ジャパン・オープン」でもダブルス優勝。ダブルス世界ランキング1位の位置で、現役を引退した。

外部リンク

[編集]