ジョン・サディナ
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ハワイ準州 |
生年月日 | 1931年12月21日 |
没年月日 | 2018年2月19日(86歳没) |
身長 体重 |
181 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、外野手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年4月11日[1] |
最終出場 | 1960年9月30日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ジョン・トーマス・サディナ(John Thomas Sardinha、1931年12月21日 - 2018年2月19日[3])は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。
来歴・人物
[編集]セントアントニー高校、ノンプロチーム・ハワイ朝日[4]を経て、1959年に南海ホークスへ入団。日系人以外で南海に入団した初の外国人投手でもあった。鶴岡一人監督は「半田君[5]に 『ハワイにいい投手はいないか』というと、『サディナがいる。一番速い』という。半田君の紹介で入団した」と自伝で記している。即戦力として期待され、同年4月11日の開幕2戦目・大毎戦(大阪)で初先発[1]・初勝利を挙げた。オーバースロー、サイドスロー、アンダースローに近い投法まで、変幻自在だったと言われ、特に大毎,近鉄に強かった。一方で暴投も多く、1959年にはリーグ最多の7個を記録した。それでも1959年シーズンは皆川睦雄とタイ[6]でチーム3番目[7]の10勝を挙げ[8]、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。リーグ優勝決定後、東京都中野区にあった「中野ホテル」[9]で優勝祝賀会をやったが、半田にビールをかけられたお返しに、半田や杉浦にビールをかけ、ついには鶴岡監督を巻き込んだどんちゃん騒ぎに発展した。このエピソードを踏まえ、半田と共にビールかけの元祖と呼ばれるようになった[10]。また、半田と共に選手たちにコーチの蔭山和夫と柚木進を胴上げしてユニホームのまま風呂に投げ込むことを提案して実行したことを、鶴岡が著書で記している[11]。このようにムードメーカーとしてチーム内で人気があった。投手として出場しない日には、外野手として出場した事もあったが、巨人との日本シリーズでは登板機会は無かった。1960年には前年のに38勝を挙げていた杉浦の酷使を考えて、メジャーリーグでの昇格経験もあるジョー・スタンカの獲得を鶴岡監督に進言した。しかし、皮肉にもそれが仇となり、スタンカが南海の主戦投手として活躍する一方、自身は活躍の場を奪われる事となり、同年シーズン終了後に退団。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 南海 | 36 | 28 | 4 | 1 | 0 | 10 | 10 | -- | -- | .500 | 634 | 144.1 | 143 | 9 | 55 | 1 | 6 | 72 | 7 | 1 | 72 | 54 | 3.35 | 1.37 |
1960 | 18 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | -- | -- | .400 | 208 | 53.0 | 45 | 9 | 13 | 0 | 3 | 27 | 1 | 1 | 19 | 18 | 3.06 | 1.09 | |
NPB:2年 | 54 | 37 | 4 | 1 | 0 | 12 | 13 | -- | -- | .480 | 842 | 197.1 | 188 | 18 | 68 | 1 | 9 | 99 | 8 | 2 | 91 | 72 | 3.28 | 1.30 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 南海 | 40 | 51 | 49 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 19 | 0 | .143 | .176 | .143 | .319 |
1960 | 29 | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:2年 | 69 | 59 | 56 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 22 | 0 | .125 | .155 | .125 | .280 |
記録
[編集]- 初登板・初先発登板・初勝利・初完投勝利:1959年4月11日、対毎日大映オリオンズ2回戦(大阪スタヂアム)、9回3失点(自責点2)
- 初完封:1959年5月20日、対近鉄バファロー7回戦(大阪スタヂアム)
背番号
[編集]- 2 (1959年 - 1960年)
脚注
[編集]- ^ a b 1959年南海・スタメンアーカイブ
- ^ 1960年南海・スタメンアーカイブ
- ^ https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=sardin000joh
- ^ チームメイトにディック・ディサがいた。
- ^ 前年の1958年に南海に入団。
- ^ 年度別チームデータ検索・南海-1959年
- ^ 杉浦忠,祓川正敏に次ぐ。
- ^ “ホークスの歩み(1959年)”. 福岡ソフトバンクホークス 2020年4月2日閲覧。
- ^ 南海が東京遠征の時に使用していた宿。現存せず。
- ^ 詳細はビールかけを参照。
- ^ 鶴岡一人『南海ホークスとともに』(ベースボール・マガジン社、1962年)P307。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 ジョン・サディナ - NPB.jp 日本野球機構
- ジョン・サディナ|クラシックSTATS鑑賞 南海-109
- ジョン・サディナの通算成績
- ジョン・サディナ(わたしはかもめ)