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ジョン・ブロディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ブロディ
John Brodie
基本情報
ポジション クオーターバック
生年月日 (1935-08-14) 1935年8月14日(89歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州メンローパーク
経歴
大学 スタンフォード大学
NFLドラフト 1957年 / 1巡目全体3位
所属歴
1957-1973 サンフランシスコ・49ers
受賞歴・記録
シーズンMVP(1回)
1970
オールプロ選出(1回)
1970
プロボウル選出(2回)
1965・1970
その他受賞・記録
サンフランシスコ・49ers永久欠番 (12)
サンフランシスコ・49ers殿堂入り
タッチダウンパス数1位 (1965,1970)
リーディングパサー (1965,1968,1970)
パサーレイティング1位 (1970)
カムバック賞 (1965)
NFL 通算成績
TD-INT 214–224
パスヤード 31,548
レイティング 72.3
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR

ジョン・ブロディ(John Riley Brodie, 1935年8月14日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州メンローパーク出身のアメリカンフットボールゴルフの元選手、キャスター。フットボール現役時のポジションはクォーターバックNFLサンフランシスコ・49ers一筋で1957年から1973年まで17シーズンプレーした後、プロゴルファーとしてPGAツアーで活躍した(シニアツアー1勝)。引退後は、フットボール、ゴルフの両方でキャスターとして活動した[1]

NFLで17年間プレーしたブロディは、パスヤード、タッチダウンパス数、最小インターセプト率等でリーグリーダーとなる活躍をし、引退時のパスヤード数は歴代3位を記録した。プロボウルに2度選出され、1970年シーズンには、シーズンMVPに選出された[2]。ブロディの背番号12は、49ersの永久欠番となっている。

経歴

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大学

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ブロディはNFLで所属することになるサンフランシスコ・49ersの本拠地からサンフランシスコ湾を挟んだ反対側のスタンフォード大学でカレッジフットボールをプレーした[3]。大学4年時[4]、ブロディは大学ゴルフでも活躍していたため、フットボールの春季トレーニングに不参加であったが、フットボールでオールアメリカに選出される活躍をした[5][6]

ブロディは、スタンフォード大学卒業後の進路をどちらか一方にきめることができず、一時はPGAツアーでプロゴルファーになることを決意する寸前まで行ったが、結局はNFLに進むことを決意した[5][7]

NFL

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ブロディは、1957年のNFLドラフト英語版の1巡目全体3位でサンフランシスコ・49ersから指名され、NFL入りした。入団2年目の1958年シーズンに出場機会が与えられ、1960年シーズンにはベテランQBのY・A・ティトル英語版と出場機会を分け合った。1961年シーズンにトレードでティトルがニューヨーク・ジャイアンツに移籍したことにより、先発QBの座が得て、1973年シーズンの引退までその座を守った。

ブロディは、1960年代でリーグ1位のパッシングヤード数を稼ぎ、1965年シーズンには、3112パスヤード、30タッチダウンという自己最高の成績を挙げ、初めてプロボウルに選出された。

ブロディが自己最高の成績を挙げた1965年頃は、1960年に創設された新興のAFLと古参のNFLの間で有力選手の引き抜き合戦が激化していた。引き止めや引き抜きのために、ブロディら有力選手の年俸が両リーグで急高騰した。選手給与の高騰により、両リーグの経営が圧迫され、共倒れの危険性が生じたことから、NFLとAFLの合併交渉が始まり、1970年の合併へと繋がった[8][9][10]。なお、ブロディは、AFLのヒューストン・オイラーズと契約していたことが新聞で報じられたが、49ersから高額の再契約のオファーを受けて、残留している[8][11][12][13]

1970年シーズンもブロディにとって、良いシーズンとなった。ブロディはNFLトップの24タッチダウン、2941パスヤード、パサーレイティング93.8を記録し、リーグ最少の8サック、インターセプト率2.6%を記録した[14][15]。ブロディの活躍により、チームはNFC西地区で優勝し、1950年のNFL参入後初のプレイオフ進出を果たした。

ブロディは、1973年をもって引退したが、引退時の通算パスヤード数はジョニー・ユナイタスフラン・ターケントンに次ぎ、歴代3位であった。通算タッチダウンパス数は引退時歴代8位であり、1970年から1988年までトップテンを維持した[16][17]

13年に渡り、エースQBとしてチームを牽引し、チーム初のプレイオフ進出に貢献した功績が認められ、ブロディの背番号12は49ersの永久欠番となった。

NFL後

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フットボール引退後、ブロディは、NBCスポーツでNFLとゴルフの解説者を務めた。NFL解説者としては、1978年シーズン第13回スーパーボウル1981年シーズンサンディエゴ・チャージャーズマイアミ・ドルフィンズのAFCプレイオフゲームを解説したことで知られている。

ブロディはフットボール引退後、プロゴルファーとしても活動し、1985年から1998年までPGAシニアツアーに参戦した。その間、ブロディは優勝1回、トップテン入り12回を記録し、73万5千ドルの賞金を獲得した。また、1959年の全米オープンに出場していたブロディは、1981年にも同大会に出場し、22年の空白期間を経ての出場という全米オープンの最長記録を持っている。

ブロディの背番号12は、49ersの永久欠番となっていたが、2006年シーズントレント・ディルファー第35回スーパーボウルを制覇)が49ersに移籍すると、ディルファーと個人的に親交が深かったブロディは、背番号12の着用を許可した[18]

1986年にカレッジフットボール殿堂入りした。

人物

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ブロディは1957年に結婚し、4人の娘と1人の息子が誕生した[5]。4人の娘の内、エリンは2003年にアメリカでTV放映されたリアリティ番組「For Love or Money」に出演したことで知られ[19]、ダイアンは、2011年までNFLのQBクリス・チャンドラー英語版の妻であった。

プロゴルファーとして

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シニアツアー優勝

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日付 大会名 スコア 2位との差 2位
1991年10月27日 セキュリティ・パシフィック・シニア・クラシック −13 (66-66-68=200) プレイオフ アメリカ合衆国の旗 ジョージ・アーチャー英語版
アメリカ合衆国の旗 チチ・ロドリゲス英語版

全米オープンゴルフ

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1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969
CUT
1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981
CUT
  出場せず

CUT = 予選落ち

脚注

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  1. ^ “John Brodie to try career in pro golf”. Wilmington Morning Star. Associated Press (North Carolina): p. 3B. (August 27, 1985). https://news.google.com/newspapers?id=TVRIAAAAIBAJ&sjid=FhQEAAAAIBAJ&pg=3780%2C8139419 
  2. ^ “John Brodie wins Jim Thorpe Trophy”. Tuscaloosa News. NEA (Alabama): p. 9. (December 29, 1970). https://news.google.com/newspapers?id=yv4cAAAAIBAJ&sjid=JJwEAAAAIBAJ&pg=3229%2C6557248 
  3. ^ “John Brodie denies cheating in exam”. Eugene Register-Guard. Associated Press (Oregon): p. 3B. (June 18, 1957). https://news.google.com/newspapers?id=ePlVAAAAIBAJ&sjid=q-IDAAAAIBAJ&pg=6569%2C3102726 
  4. ^ “John Brodie best passer in nation”. Victori Advocate. Associated Press (Texas): p. 9. (November 14, 1956). https://news.google.com/newspapers?id=gzNQAAAAIBAJ&sjid=DVYDAAAAIBAJ&pg=6342%2C1566559 
  5. ^ a b c Gregg Jordan, "John Jumps Over to Candlestick," Petersen's 11th Pro Football 1971 Annual. Los Angeles, CA: Petersen Publishing Co., 1971; pg. 17.
  6. ^ “John Brodie of Stanford leads in total offense”. Pittsburgh Post-Gazette: p. 23. (October 17, 1956). https://news.google.com/newspapers?id=P8dRAAAAIBAJ&sjid=22sDAAAAIBAJ&pg=3969%2C2759094 
  7. ^ Quoted in Jordan, "John Jumps Over to Candlestick," pg. 17.
  8. ^ a b “Brodie: Is he richest pro?”. St. Petersburg Times. Associated Press (Florida): p. 1C. (August 5, 1966). https://news.google.com/newspapers?id=kexRAAAAIBAJ&sjid=IHQDAAAAIBAJ&pg=3792%2C2295072 
  9. ^ “Oilers offer John Brodie hefty salary”. Spokesman-Review. Associated Press (Spokane, Washington): p. 12. (June 6, 1966). https://news.google.com/newspapers?id=YTlWAAAAIBAJ&sjid=xugDAAAAIBAJ&pg=1624%2C2114396 
  10. ^ Povich, Shirley (February 16, 1967). “Pro struggle hot, Ditka case proves”. Tuscaloosa News. (Washington Post) (Alabama): p. 8. https://news.google.com/newspapers?id=OyUeAAAAIBAJ&sjid=JZsEAAAAIBAJ&pg=5324%2C2522552 
  11. ^ Jordan, "John Jumps Over to Candlestick," pp. 15-16.
  12. ^ Gross, Milton (February 20, 1967). “Ditka is mutinous; he's not alone”. Milwaukee Journal. North American Newspaper Alliance: p. 17, part 2. https://news.google.com/newspapers?id=ylYaAAAAIBAJ&sjid=4icEAAAAIBAJ&pg=7281%2C5932625 
  13. ^ “Brodie will sub Bible for passing”. Wilmington Morning Star. UPI: p. 7C. (November 23, 1973). https://news.google.com/newspapers?id=68YsAAAAIBAJ&sjid=0AkEAAAAIBAJ&pg=1044%2C5466031 
  14. ^ "Official NFL Statistics for the 1970 Season," Petersen's 11th Pro Football 1971 Annual. Los Angeles, CA: Petersen Publishing Co., 1971; pg. 86.
  15. ^ Jordan, "John Jumps Over to Candlestick," pg. 14.
  16. ^ https://www.pro-football-reference.com/leaders/pass_td_career_1970.htm
  17. ^ https://www.pro-football-reference.com/leaders/pass_td_career_1988.htm
  18. ^ "Ethnic Sports Hall Of Fame Inducts First White Honoree," Archived March 19, 2012, at the Wayback Machine. KTVU-TV, KTVU.com/, March 20, 2010.
  19. ^ The daughter of 49er football great John Brodie has some game of her own: She's going to go for broke on a TV reality show where the stakes are $2 million or bust.”. sfgate.com. 2021年9月22日閲覧。