スガバラ
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スガバラ | |
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モンゴル帝国皇后・元朝皇后 | |
《元英宗后像》 | |
在位 |
至治元年12月2日[1] - 至治3年9月4日 (1321年12月21日 - 1323年10月4日) |
別称 |
漢字表記:速哥八剌 荘静懿聖皇后 |
出生 |
不詳 |
死去 |
泰定4年6月21日[2] (1327年7月10日) |
配偶者 | シデバラ(英宗) |
氏族 | イキレス部族 |
父親 | アシク |
母親 | 昌国公主イリク・カヤ |
スガバラ(モンゴル語: Sügebala)は、イキレス部出身の女性で、モンゴル帝国第9代皇帝ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の妃の一人。『元史』などの漢文史料では速哥八剌(sùgēbālà)皇后と記される。
概要
[編集]『元史』によると、スガバラはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の娘の昌国公主イリク・カヤとイキレス部当主アシクとの間に生まれた[3]。アシクの遠祖はチンギス・カンに仕えた建国の功臣ブトゥ・キュレゲンで、ブトゥの家系は代々チンギス・カン家と姻戚関係を結んできた一族であった[4]。
シデバラがゲゲーン・カアン(英宗)として即位した翌年の至治元年(1321年)12月、スガバラは皇后とされた。しかし、シデバラはテムデルの一党を弾圧する過程で多くの不満分子を生み、結果として至治3年(1323年)の南坡の変により暗殺されてしまい、スガバラも皇后の地位を失った。シデバラの後に即位したイェスン・テムルの治世の泰定4年(1327年)6月にスガバラは亡くなり、荘静懿聖皇后と諡された[5]。
なお、ゲゲーン・カアンを南坡の変で暗殺したテクシには「妹が君主(英宗ゲゲーン・カアン)の妃となった」という記録があるため、テクシとスガバラが兄弟ではないかとする説もある[6]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻27英宗本紀一,「[至治元年十二月]辛丑、立亦啟烈氏為皇后、遣攝太尉、中書右丞相鐵木迭兒持節授玉冊、玉寶」
- ^ 『永楽大典』巻17085廟字,「……[六月]二十一日、速哥八刺皇后忌日、青塔寺……」
- ^ 『元史』巻106表1后妃表,「速哥八剌皇后、亦乞列思氏昌国公主益里海涯女也。至治元年冊為皇后、泰定四年崩、諡曰荘静懿聖皇后」
- ^ 『元史』巻109表4諸公主表,「昌国大長公主益里海涯、成宗女、適忽隣子昌王阿失。継室以昌国大長公主買的、憲宗孫女也」
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝一,「英宗荘静懿聖皇后、名速哥八剌、亦乞列思氏、昌国公主益里海涯女也。至治元年、冊為皇后。泰定四年六月崩、諡曰荘静懿聖皇后」
- ^ 屠寄『蒙兀児史記』巻122列伝104鉄失伝
参考文献
[編集]- 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304、hdl:2433/73071、ISSN 0452-9774。