バブカン
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バブカン | |
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モンゴル帝国皇后・元朝皇后 | |
在位 |
泰定元年3月20日[1] - 致和元年7月10日 (1324年4月14日 - 1328年8月15日) |
別称 | 漢字表記:八不罕 |
配偶者 | イェスン・テムル(泰定帝) |
子女 | アリギバ |
氏族 | コンギラト部族 |
父親 | オルチャル(斡留察児) |
バブカン(モンゴル語: Babuqan, 生没年不詳)はコンギラト部出身の女性で、モンゴル帝国第10代皇帝イェスン・テムル・カアン(泰定帝)の妃の一人。『元史』などの漢文史料では八不罕(bābùhǎn)皇后と記される。
概要
[編集]『元史』によると、バブカンは建国の功臣アルチ・ノヤンの孫オルチャル(Olučar>wòliúcháér/斡留察児)の娘であったという[2][3]。
イェスン・テムルが即位した泰定元年(1324年)3月、バブカンも皇后とされた。しかし、致和元年(1328年)にイェスン・テムルが崩御するとカアン位を巡って天暦の内乱が勃発し、最終的にイェスン・テムルの息子アリギバは敗れトク・テムルが即位した。トク・テムルはイェスン・テムルを正統なモンゴル帝国のカアンと認めなかったため、イェスン・テムルとバブカンは諡号を持たないままとなった。
イェスン・テムルの妃には同じくコンギラト部出身のビカン、スガダラらもいた[4][5][6]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年三月]丙午、御大明殿、冊八八罕氏為皇后、皇子阿速吉八為皇太子」
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝一,「泰定帝八不罕皇后、弘吉剌氏、按陳孫斡留察児之女。泰定元年、冊為皇后」
- ^ 『元史』巻106表1后妃表,「八不罕皇后、弘吉列氏。泰定元年冊為皇后、兗王買住罕女也」
- ^ 『元史』巻106表1后妃表,「必罕皇后八不罕妹也。速哥答里皇后必罕妹也」
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝一,「妃二人一曰必罕、一曰速哥答里、皆弘吉剌氏、兗王買住罕之女也。文宗天暦初、倶安置東安州」
- ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「泰定皇后諱八不罕,按陳孫斡留察児之女。其諱必罕、諱速哥答里者,皆脱憐孫買住罕之女」
参考文献
[編集]- 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304、hdl:2433/73071、ISSN 0452-9774。