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アルチ (コンギラト部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルチ・ノヤンモンゴル語: Alči Noyan,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたコンギラト部出身の千人隊長の一人。

元朝秘史』や『元史』などの漢文史料では阿勒赤(ālèchì)古咧堅/按陳(ànchén)那延/按赤(ànchì)那顔、『集史』などのペルシア語史料ではالجی كوركان(āljī gūrkān)と記される。

概要

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アルチ・ノヤンはコンギラト部の族長デイ・セチェンの息子として生まれ、妹にはボルテがいた。デイ・セチェンの家系はコンギラトの枝族ボスクル(孛思忽児)の出であった[1]が、この一族にとって転機となったのがボルテとキヤト氏の長テムジン(後のチンギス・カン)との婚姻であった。『元朝秘史』は「デイ・セチェンがイェスゲイに連れてこられたテムジンの顔つきを気に入り、その場で娘のボルテを嫁がせる約束をした」という逸話を伝える一方、『集史』「コンギラト部族志」は「テムジンはボルテと結婚したいとデイ・セチェンに訴えたが何度も拒絶され、テムジンと仲の良かったアルチの尽力によりようやく結婚が許された」と記している[2]。若い頃のテムジンの勢力は弱小で苦労したことが知られており、『集史』の記述の方が史実に近いと考えられている。

1206年にモンゴル帝国が建国されると、アルチは帝国の幹部層たる千人隊長に任ぜられた。『元朝秘史』の功臣表では86位に列せられ、『集史』「チンギス・カン紀」の「千人隊長」一覧には左翼6番目の千人隊長として名前が挙げられている。『集史』では5つの千人隊を有していたと記されるが、これはバアリン部の10千人隊に次ぐ大兵力であった。

1213年金朝遠征が始まると、アルチはムカリ率いる左翼軍に加わり、遼西遼東一帯の攻略を担当した。その途中、アルチはの宗室につらなる契丹耶律留哥に出会い、耶律留哥はモンゴル軍に加わることを希望した。その後、耶律留哥は自らの有する兵を差し出した上、矢を折ってモンゴル帝国に仕えることを盟約し、これを受けてアルチは「我は〔チンギス・カンの下に〕帰り、遼の征服は汝に任せるよう奏上しよう」と語った。この言葉通り、後にアルチがチンギス・カンの下に帰還した後は耶律留哥が遼河一帯に駐屯することになった[3]

1218年、チンギス・カンは金朝侵攻の指揮権をジャライル部のムカリに委ね、マングト千人隊を率いるモンケ・カルジャ、コンギラト千人隊を率いるアルチ・ノヤン、イキレス2千人隊を率いるブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがその指揮下に入った[4]。この軍団の内、特にジャライル部・マングト部・コンギラト部・ウルウト部・イキレス部の5部はこれ以降一つの軍団として扱われることが多くなり、「左手の五投下」と総称されるようになる。

このモンゴル帝国の東方軍団においてアルチはムカリに次ぐ地位にあったようで、現地の漢人からは「尚書令尚書省の長)」とも呼称されていた[5]。この頃ムカリの下を訪れた趙珙は『蒙韃備録』において、「アルチは法をよく守るため、モンゴル人はムカリに従う者は悪人でアルチに従う者は善人だと言っている」と書き記している[6]。軍事面では1224年(甲申)に東平大名を攻略し[7]1226年(丙戌)に益都の攻囲を行っている[8]

1227年(丁亥)、チンギス・カンの晩年にはその地位を賞して「国舅」の号を与えられた。1232年(壬辰)には河西王に封ぜられ、1237年(丁酉)には更に万戸(万人隊長)の称号を授けられた。これ以後、アルチの子孫は代々「万戸」を称するようになる。それから間もなくアルチは亡くなり、1295年には済寧王に追封された[9]

チンギス・カン家との姻戚関係

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チンギス・カンから「国舅」と称されたように、アルチの子孫は多くがチンギス・カン家と姻戚関係を結び、非常に多くの皇后を輩出した。特にクビライが創始した大元ウルスではクビライの正后がアルチの娘であったこともあり、アルチ家は姻族として別格の地位を誇った。ただし、『元史』に記されるアルチ家出身の后妃は系譜が一部省略されていることも多く、正確な系図が分からない箇所も多い[10]

アルチの息子の世代

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アルチの孫の世代

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アルチの曾孫の世代

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  • シリンダリ…オロチンの娘で、テムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)に嫁ぐ。
  • ディウバラ…テムルの息子で、テムル(チンキムの三男)の娘センゲ・ラギと、ダルマバラ(チンキムの次男)の娘センゲ・ラギを娶る。

アルチの曾孫の世代

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  • ブダシリ…ディウバラの娘で、テムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)に嫁ぐ。
  • チュカン…アルチの次男ビルゲの子孫で、テムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)に嫁ぐ。

コンギラト部デイ・セチェン家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏、世居朔漠……女曰孛児台、太祖光献翼聖皇后。子曰按陳、従太祖征伐、凡三十二戦、平西夏、断潼関道、取回紇尋斯干城、皆与有功」
  2. ^ 志茂2013,724-725/732-734頁
  3. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「耶律留哥、契丹人……太祖命按陳那延・渾都古行軍至遼、遇之、問所従来、留哥対曰『我契丹軍也、往附大国、道阻馬疲、故逗留於此』。按陳曰『我奉旨討女真、適与爾会、庸非天乎。然爾欲效順。何以為信』。留哥乃率所部会按陳於金山、刑白馬・白牛、登高北望、折矢以盟。按陳曰『吾還奏、当以征遼之責属爾』。……帝命按陳・孛都歓・阿魯都罕引千騎会留哥、与金兵対陣於迪吉脳児……帝召按陳還、而以可特哥副留哥屯其地」
  4. ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」
  5. ^ ただし、あくまで漢人の側がアルチの地位をそのように表現したというだけのことで、実際に尚書省が設置されていたわけではない。なお、後に耶律楚材が「中書令」と称されているが、これは他称で、しかも耶律楚材の職権はごく限定されたものであったため、「征服地の統治機関の長」という意味ではアルチの「尚書令」という称号の方が実態にあったものであると考えられている(杉山1996,303-315頁)
  6. ^ 『蒙韃備録』「諸将功臣……又其次曰按赤那延、見封尚書令、成吉思正后之弟、部下亦有騎軍十余万、所統之人頗循法、韃人自言、随国王者皆悪、随尚書令者皆善也」
  7. ^ 『元史』巻149列伝36劉伯林伝,「黒馬名嶷、字孟方……甲申、従按赤那延攻破東平・大名」
  8. ^ 『元史』巻151列伝38杜豊伝,「皇舅按赤那延授兵馬都提控……丙戌、従按赤那延攻益都、金守将突囲出」
  9. ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「歳丁亥、賜号国舅按陳那顔。壬辰、賜銀印、封河西王、以統其国族。丁酉、賜銭二十万緡、有旨『弘吉剌氏生女世以為後、生男世尚公主、毎歳四時孟月、聴読所賜旨、世世不絶』。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授万戸以領之。按陳薨、葬官人山。元貞元年二月、追封済寧王、諡忠武。妻哈真、追封済寧王妃」
  10. ^ 例えば、「丑漢(チュカン)」なる人物は「アルチ・ノヤンの次男の必哥(ビルゲ)の裔孫(有名丑漢者、按陳次子必哥之裔孫)」としか記されず、丑漢の父親の名前は全く分からない

参考文献

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  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告別冊』20号、1999年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年