セテ・ジベルナウ
セテ・ジベルナウ | |
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | スペイン |
活動期間 | 1992年 - 2006年 , 2009年 , 2019年 |
チーム | ヤマハ, ホンダ, スズキ, ドゥカティ |
レース数 | 185 |
チャンピオン | 0 |
優勝回数 | 9 |
表彰台回数 | 30 |
通算獲得ポイント | 1147 |
ポールポジション回数 | 13 |
ファステストラップ回数 | 8 |
初グランプリ | 1992年 250cc スペインGP |
初勝利 | 2001年 500cc バレンシアGP |
最終勝利 | 2004年 MotoGP カタールGP |
最終グランプリ | 2019年 MotoE バレンシアGP |
マヌエル・"セテ"・ジベルナウ・ブルトー(Manuel Seté Gibernau Bultó、1972年12月15日 - )はスペイン・バルセロナ出身のオートバイレーサー。セテ・ジベルノーと表記される場合も多い。祖父はスペインのオートバイメーカーブルタコの創業者である。
経歴
[編集]1992年よりロードレース世界選手権250ccクラスにスポット参戦し、1996年はフル参戦。1997年より500ccクラスにステップアップし、翌年ワークス・チームのレプソル・ホンダに移籍するも、以後3年間で目立った成績を残せず。2001年、スズキへ移籍すると第12戦バレンシアGPでWGP初優勝を達成した。
2003年、ホンダのサテライトチームであるテレフォニカ・モビスター・ホンダへ移籍し、加藤大治郎のチームメイトとなり、サテライトスペックのRC211Vを用意される。開幕戦日本GPで加藤が事故死し、チームが悲しみに打ちひしがれる中、3週間後の第2戦南アフリカGPでポール・トゥ・ウィンを達成し、勝利を加藤に捧げた。その後もファクトリースペックのRC211Vを与えられてからもフランスGPとドイツGPで最終ラップの最終コーナーでバレンティーノ・ロッシを抜いて優勝するなど劇的なレースを演じ、シーズン4勝を挙げてロッシに次ぐランキング2位となった。
2004年はヤマハへ移籍したロッシや、キャメル・ポンス・ホンダのマックス・ビアッジとチャンピオン争いを展開。ジベルナウは第2戦・第3戦と連勝してポイントランキングをリードしたが、中盤戦に2戦連続転倒リタイアしてロッシにリードを許した。第13戦カタールGPの優勝で14点差まで縮めたものの、ロッシの予選降格ペナルティ(後述)を巡って確執が生じ、マスコミを通じてメンタル的な圧力をかけられて苦しんだ[1]。この年もシーズン4勝したものの、最後はロッシに突き放されて2年連続ランキング2位に終わった。
2005年もロッシとの因縁は続き、開幕戦スペインGPでは最終ラップまで激しい優勝争いを展開。ジベルナウがトップのまま最終コーナーに差し掛かったが、ロッシに強引にインを突かれて接触。コース外に弾き出されて2位に終わった。第10戦ドイツGPでもロッシを抑えて逃げ切りを図ったが、最終ラップの1コーナーでオーバーランして勝利を逃した。結局、シーズンを通して精彩を欠き、0勝でランキング7位に後退した。
2006年は心機一転、ドゥカティへ移籍したが、第7戦カタルーニャGP1周目の多重クラッシュで鎖骨を骨折するなど、度重なる負傷により本来の実力を発揮できずにシーズンを終え、同年11月8日に現役引退を表明した。
2009年にはMotoGPクラスに新規参戦するオンデ2000チーム(ドゥカティ)のライダーを務めることが発表され、グランプリ復帰を果たす。しかしチームはメインスポンサーの資金難により、7月12日にグランプリからの撤退を発表。わずか6戦の出場でシリーズから姿を消すこととなった。
2018年11月12日英国に活動拠点を持つPons Racingが、2019年から始まる電動バイクレース『FIM Enel MotoE World Cup』(MotoE)に参戦し、ライダーとしてジベルナウを起用することを発表した。
2019年5月3日にmotoEの開幕戦より復帰予定だったが、開幕前の車両火災により開幕戦がずれ込み、2019年7月5日ドイツのザクセンリンクにてライダーとして復帰した。ゼッケンはmotoGP参戦当時と同じく15を付けている。
エピソード
[編集]- ゼッケンは、元々前年のランキングの数字をつけていたが、2001年に初優勝して以来、当時つけていたゼッケン15を好んで使うようになった。なお2003年当時のチームメイトで事故死した加藤大治郎のゼッケン74も革ツナギに貼っていた。
- 2004年カタールGPでは、ロッシのチームクルーがレース前にスターティンググリッド上を掃除していたことをジベルナウのチームが告発し、ロッシがペナルティーを受けて最後尾グリッドへ降格した。レースはジベルナウが優勝し、ロッシは転倒リタイア。ロッシはこれに腹を立て、ジベルナウに対して「お前はもう2度とレースに勝てない」と宣告した。この「呪い」は現実となり、ジベルナウは以後全く勝てないままキャリアを終えた。のちにロッシは「あのシーズンでは、という意味だったけど、やりすぎたのかなぁ(笑)」と語った[2]。
戦績
[編集]- 1992年 - スペインジレラカップ125ccランキング2位
- ロードレース世界選手権250ccクラス スポット参戦(ヤマハ)
- 1993年 - スペイン選手権ドゥカドスオープン・250ccランキング5位
- ロードレース世界選手権250ccクラス スポット参戦(マルボロ・チーム・ロバーツ・ヤマハ)
- 1994年 - スペイン選手権ドゥカドスオープンランキング4位
- ロードレース世界選手権250ccクラス スポット参戦(マルボロ・チーム・ロバーツ・ヤマハ)
- 1995年 - スペイン選手権ドゥカドスオープンランキング3位
- ロードレース世界選手権250ccクラス スポット参戦(フォルトゥナ・ホンダ・ポンス)
- 1996年 - ロードレース世界選手権250ccクラスランキング22位(第1戦-第12戦・ホンダ、第13戦-第15戦・ヤマハ)
- 1997年 - ロードレース世界選手権500ccクラスランキング13位(ヤマハ・チーム・レイニー)
- 1998年 - ロードレース世界選手権500ccクラスランキング11位(レプソル・ホンダ)、鈴鹿8時間耐久ロードレース2位(アレックス・バロス)(カストロールホンダ&イワキ/RVF/RC45)
- 1999年 - ロードレース世界選手権500ccクラスランキング5位(レプソル・ホンダ)、全日本ロードレース最終戦MFJGP11位(チーム・HRC/RVF/RC45)
- 2000年 - ロードレース世界選手権500ccクラスランキング15位(レプソル・YPF・ホンダ)
- 2001年 - ロードレース世界選手権500ccクラスランキング9位1勝〔バレンシア〕(テレフォニカ・モビスター・スズキ)
- 2002年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラスランキング16位(テレフォニカ・モビスター・スズキ)
- 2003年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラスランキング2位4勝〔南アフリカ、フランス、オランダ、ドイツ〕(テレフォニカ・モビスター・ホンダグレシーニ)
- 2004年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラスランキング2位4勝〔スペイン、フランス、チェコ、カタール〕(テレフォニカ・モビスター・ホンダグレシーニ)
- 2005年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラスランキング7位(テレフォニカ・モビスター・ホンダグレシーニ)
- 2006年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラスランキング13位(マルボロ・ドゥカティ)
- 2009年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラス第1-8戦出場・ランキング19位(オンデ2000・ドゥカティ)
- 2019年 - ロードレース世界選手権MotoEクラスランキング11位(ポンスレーシング・ エネルジカ)
脚注
[編集]- ^ "ドゥカティー・カタール・プレビュー「将来は夜間レースに」". インテリマーク.(2006年3月31日)2013年6月5日閲覧。
- ^ "モトGP『ロッシ:カタールでかつての亡霊が甦る』". イタたわGP.(2013年4月4日)2013年6月5日閲覧。
外部リンク
[編集]- セテ・ジベルナウ公式サイト
- セテ・ジベルナウ経歴 - motogp.com