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セロ弾きのゴーシュ (1953年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セロ弾きのゴーシュ
監督 (「演出」とクレジット)
森永健次郎
川尻泰司
脚本 (「脚色」とクレジット)
田中澄江
川尻泰司
原作 宮沢賢治
製作 厚木たか
出演者 人形劇団プーク
音楽 伊福部昭
撮影 柿田勇
製作会社 三井芸術プロダクション
公開 日本の旗 日本 1953年
上映時間 45分
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セロ弾きのゴーシュ』(セロひきのゴーシュ)は、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』を原作として、人形劇をカメラで撮影して制作された、1953年日本映画[1]。「日本で最初の長編・総天然色・人形劇・音楽映画」と宣伝された[2]。撮影は35ミリミッチェルで、小西六テクニカラー方式の巨大なカメラでは身長50センチほどの人形の撮影が出来ず、日本初のコニカラーネガを使用。廃工場を臨時スタジオとし、冷房のない時代、熱風地獄の中で三ヶ月半の撮影。撮影の後、音楽製作に入り、伊福部昭氏の指揮するオーケストラの生演奏を録音。チェロ井上頼豊で素晴らしい演奏が録音されたが、完成プリントでは音声と画面の次元がずれて、プリントは日ごとに退色。ニュープリントを作っても結果は同じであった。一年かかって完成したが、ネガ、プリント共に退色は著しかった。後に「幻のフィルム」ともされるのはこのことからであると推察される。[2]35ミリミッチェルで撮影された事実は、現場の撮影風景の写真が残っていることから明らかである。現存するフィルムは16mm[3]さくらカラー、5巻である[2]

2014年現在、ソフト化はされておらず、上映もほとんどないが、2011年7月9日10日には神戸映画資料館で上映された[3]

制作

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映画の制作は、1953年3月に決定。撮影はカメラ、ライトなどをベテランの森永監督、人形劇の方を川尻泰司氏が監督。助監督の髙橋克雄はカメラの撮影アングルを自由に決められることを喜んだが、人形の装置やバレ隠しに苦難した。田畑精一人形劇団プーク美術部が作業に入ったが、後に、山田三郎らプーク出身者たちが作業に加わり、最終的な人形のデザインなどは山田によるものがメインとなった[2]

撮影は、狛江市ジューキミシン[2]の工場施設を借用した仮設のスタジオで行なわれた[1]利光貞三も、撮影時の美術スタッフに装置の責任者として参加していた[2]

原作中に登場する「インドのとらがり」、「愉快な馬車屋」など架空の楽曲は伊福部昭が作曲し[4]、「第六交響曲」はベートーヴェンの『田園』が用いられた[3][4]。演奏は、チェロの井上頼豊と、東京フィルハーモニー交響楽団によって行なわれた[1]

映画『セロ弾きのゴーシュ』の制作は、人形劇団プークが1950年代以降のテレビ放送の草創期から各局の番組制作に関わる契機となり、後のスタジオ・ノーヴァへと受け継がれた[5]

脚注

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  1. ^ a b c “「セロ弾きゴーシュ」を映画化 宮澤賢治の作品 五十一個の人形が出演”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 2. (1953年6月28日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  2. ^ a b c d e f 石井マリ子 (2005年11月5日). “戦後人形劇史・外伝(その9) 映画「セロ弾きのゴーシュ」...私がプークをやめた頃...” (PDF). 日本人形劇人 (83): pp. 7-12. http://www.ningyogekijin.jp/kaiho/k83.pdf 2014年11月28日閲覧。 :初出は「東人協会報 17」執筆日付は2001年2月5日
  3. ^ a b c プラネット・アーカイヴズ 5 啄木と賢治と東北”. 神戸映画資料館. 2014年11月30日閲覧。
  4. ^ a b ニュース・情報 4 チェリスト四家卯大ソロアルバムに「セロ弾きのゴーシュ」収録”. 伊福部極. 2014年11月30日閲覧。:伊福部極は伊福部昭の長男
  5. ^ 沿革”. スタジオ・ノーヴァ. 2014年11月30日閲覧。 “戦後は日本初の総天然色人形映画「セロ弾きのゴーシュ」5巻(三井芸術プロ制作)...等の制作経験が、50年代前半からはじまった新しい映像メディアTVの時代即応し、放送開始以来NHKを始め民放各社の番組に関わることができました。 1970年プーク人形劇場建設を契機に、人形劇団プークは、劇団部・劇場部・映像部の3つの専門分野に分け、スタジオ・ノーヴァは映像関係を全て引き継ぎ、今日に至りました。”

6.2018.9.1 髙橋克雄の『戦後メディア映像史』、髙橋のスタジオ、自宅に遺る写真、日記より加筆。(加筆者 髙橋克雄著作権事務所)