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柳妻麗三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャーリー高見から転送)
やなづま れいざぶろう
柳妻 麗三郎
本名 高見 嘉一(たかみ かいち)
別名義 松旭斎 天秀(しょうきょくさい てんしゅう)
チャーリー 高見(チャーリー たかみ)
生年月日 (1898-03-09) 1898年3月9日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 熊本県熊本市二本木町(現在の同県同市西区二本木
職業 俳優芸人、元奇術師、元照明技師
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー)、奇術
活動期間 1910年 - 1953年
著名な家族 高見映 (子息)
主な作品
喧嘩日記
活動狂時代
照る日くもる日
踊る霊魂
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柳妻 麗三郎(やなづま れいざぶろう、1898年3月9日 - 1988年あるいは1989年)は、日本の俳優芸人、元奇術師、元照明技師である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。奇術師時代の芸名は松旭斎 天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、本名・旧芸名は高見 嘉一(たかみ かいち)[1][2][3][5][8][9][10]、一時期、チャーリー 高見(チャーリー たかみ)とも名乗った[11]。「マキノのチャップリン」と呼ばれ[12]、「昭和の鳥人」こと高木新平に軽業を指導したこと、および「ノッポさん」こと高見映の実父としても知られる[1][13]

人物・来歴

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1898年(明治31年)3月9日熊本県熊本市二本木町(現在の同県同市西区二本木)に生まれる[1][2][3]

高見嘉太郎の長男として生まれ、長じて、地元(二本木遊郭)の芝居小屋「東雲座」で照明係や設備営繕等の技術職を務めた[14]。やがて、全国を巡業していた松旭斎天一(1853年 - 1912年)と出逢い、これに師事して奇術師に転向、「松旭斎 天秀」の名をもらう[1][2][3][10][15]。満16歳になる1914年(大正3年)、京都の日活関西撮影所で、牧野省三新劇現代劇)を製作する際にこれに出演、以降、天一一座から離れて、同撮影所で照明技師を務めていた[1][2][3]。1920年(大正9年)には、同撮影所の演技学校におり、高木新平はここで高見(柳妻)に師事している[1][2][3][13]

満27歳になった1925年(大正14年)6月、牧野省三が東亜キネマを退社、天授ヶ丘に御室撮影所を建設してマキノ・プロダクションを設立した際にこれに参加する[1][2][3]。同年9月11日に公開された『奇傑鬼鹿毛 第二篇』(監督金森萬象)で「浮鮫源三郎秀春」役に抜擢されて出演、本名の「高見 嘉一」でクレジットされた[1][2][3][5]。同作のプロモーションでは、主演の武井龍三が「鳥人」、平八郎が「巨人」、高見(柳妻)は「豹人」というフレーズがつけられた[1][12]。同年10月30日に公開された『駕屋の先生』(監督沼田紅緑)に出演したときから、芸名を「柳妻 麗三郎」と改める[1][2][3][5]。1926年(大正15年)5月5日に公開された『活動狂時代』(監督曾根純三)では、「チャップリンに似た男」役を演じ、子役スター松尾文人とともに「大チャプ小チャプ」と宣伝された[1][5][6][12][注釈 1]。同年11月7日から公開が開始した『照る日くもる日』のシリーズでは、「猿の源次」役を演じて代表作のひとつになり、現代劇、時代劇問わず出演した[1][5][6]。高見映によれば、父・高見嘉一(柳妻)は「顔がバタくさく」、「美男子の父」の顔が印刷されているトランプが残っているという[10]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、柳妻は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男川田弘三小金井勝秋田伸一岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[16]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[17]。同年1月10日に公開された『呑気放亭』(監督根岸東一郎)に出演したのを最後に、柳妻は同社を退社する[1][5][6]

のちに「ノッポさん」として知られる高見映(本名・高見嘉明)が生まれたのは、マキノ退社後の1934年(昭和9年)5月10日で、当時は役者時代から引き続き、京都府京都市右京区太秦の俳優たちが多く住む長屋に暮らし、その一角で電気器具店を営業していたという[10][11]。その傍ら、「チャーリー 高見」を名乗り、チャーリー・チャップリンの物まねを映画の幕間に演じる、芸人としての活動も行っていたという[11]。1938年(昭和13年)ころには、東京府東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島周辺)に移転、同地で工場に勤務して工場長を務め、第二次世界大戦が深まった1944年(昭和19年)には岐阜県羽島郡笠松町に疎開し、1951年(昭和26年)に東京に戻ったという[10]

東京に戻ってしばらくして、高見(柳妻)は芸能界に復帰し、満54歳であった1953年(昭和28年)1月22日に公開された上原謙杉葉子の主演作『夫婦』(監督成瀬巳喜男)に出演した記録が残っている[5][8][9]。しかしながら、同作以降の出演歴は不明である[5][8][9]

1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の柳妻の項目によれば、すでに引退はしていたが、満81歳を迎えるその当時は存命で、東京都三鷹市上連雀に住んでいたようである[1]。高見映の回想によれば、正確な没年月日は伏せられているが、『ノッポさんがしゃべった日』の執筆されたころ(1991年5月発行)から数年前に亡くなったという[18]。また近年、読売新聞のインタビューで、高見映は自身が54歳の時に亡くなったと発言している[19]。したがって没年は1988年1989年、満90歳あるいは91歳没となる。

フィルモグラフィ

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活動狂時代』(1926年)公開時のポスター、左上が柳妻(当時満28歳)の「大チャプ」、右下が松尾文人(当時満9歳)の「小チャプ」の図。

クレジットは、すべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][20]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画、特筆以外は「柳妻麗三郎」名義である[5][6]

戦後

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トーキーであり、「高見嘉一」名義である[5][8][9]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o キネマ旬報社[1979], p.600.
  2. ^ a b c d e f g h i 映画世界社[1928], p.77.
  3. ^ a b c d e f g h i 映画世界社[1929], p.101.
  4. ^ 柳妻麗三郎jlogos.com, エア、2013年6月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 柳妻麗三郎高見嘉一日本映画データベース、2013年6月12日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 柳妻麗三郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月12日閲覧。
  7. ^ 柳妻麗三郎allcinema, 2013年6月12日閲覧。
  8. ^ a b c d e 高見嘉一東宝 映画データベース、2013年6月12日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j 柳妻麗三郎高見嘉一東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月12日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 高見[1991], p.92-95.
  11. ^ a b c ラクゴロク「しゃべるノッポさんは落語流」高見のっぽ朝日新聞、2006年7月10日付、2013年6月12日閲覧。
  12. ^ a b c 岩本[2005], p.131-133.
  13. ^ a b 映画世界社[1934], p.77.
  14. ^ くまもと[2000], p.56.
  15. ^ 藤山[2012], p.150-151.
  16. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年6月12日閲覧。
  17. ^ 御室撮影所、立命館大学、2013年6月12日閲覧。
  18. ^ 高見[1991], p.34.
  19. ^ 古岡三枝子 (2007年12月11日). “聞き書き 俳優高見のっぽさん(9)”. 読売新聞. オリジナルの2009年7月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090714001516/http://osaka.yomiuri.co.jp/mama/tokusyu/kodomo/mc20071211kk03.htm 2013年8月25日閲覧。 
  20. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年6月12日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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