デヴィッド・ヘンツェル
デヴィッド・ヘンツェル | |
---|---|
デヴィッド・ヘンツェル(2012年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1952年12月18日(71歳) |
出身地 | イングランド サセックス |
職業 | レコーディング・エンジニア、映画音楽作曲家、音楽プロデューサー |
担当楽器 | キーボード、シンセサイザー、ピアノ |
共同作業者 | ジョージ・ハリスン、エルトン・ジョン、ジェネシス |
公式サイト |
www |
デヴィッド・ヘンツェル[注釈 1](David Hentschel、1952年12月18日 - )は、イングランドのレコーディング・エンジニア、作曲家、音楽プロデューサーである。
ジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』やエルトン・ジョンの『黄昏のレンガ路』[1]のほか、ジェネシス、トニー・バンクス、リンゴ・スター、クイーン、ナザレス、マーティ・ウェブ、アンディ・サマーズ、マイク・オールドフィールド、ルネッサンス、ピーター・ハミル、ロニー・キャリルなどのアーティストの作品のエンジニアを担当した。映画音楽の作曲でも知られている。
略歴
[編集]ヘンツェルはサセックスで生まれた。
彼のキャリアはロンドンのトライデント・スタジオで始まった。最初はアシスタントを務めていたが、その後、社内プロデューサーの1人となった。エンジニアとプロデュースのクレジットに加えて、ナザレス、パイロット、ビザンチウムなど様々なバンドの作品で、初期のシンセサイザーを演奏した。さらに、エルトン・ジョンの「ロケット・マン」(1972年)やアルバム『黄昏のレンガ路』(1973年)[2]の「葬送〜血まみれの恋はおしまい(Funeral for a Friend )」など、いくつかの有名な作品のレコーディングでもシンセサイザーを演奏した。「葬送」では初期のアナログ・シンセサイザーであるARP 2500を駆使して、その音色の感覚と効果を生み出した。
1974年にトライデントを去った後、リンゴ・スターが設立するも短命に終わったRing O' Recordsから、1975年にアルバム『Startling Music』[3]を発表した。同アルバムはスターのアルバム『リンゴ』(1973年)に収録された曲のインストゥルメンタル・カバーで構成され、フィル・コリンズ、デヴィッド・コール、ロニー・キャリル、ジョン・ギルバート[注釈 2]、そしてスターのパフォーマンスをフィーチャーした。「Oh My My」[4][5]のインストゥルメンタル/キーボード・バージョンのシングルを発表した。
その後、ジェネシスとのコラボレーションを成功させ、『トリック・オブ・ザ・テイル』(1976年)[6]から『デューク』(1980年)まで4作のアルバムを生み出した。
また、ルイス・ギルバート監督の『暁の7人』(1975年)、『Seven Nights in Japan』(1976年)、『リタと大学教授』(1983年)、マイケル・アプテッド監督の『The Squeeze』(1977年)といった映画のスコアを作曲した[7]。
1983年には、作詞家のドン・ブラックと組んで、ドラムにフィル・コリンズ、バック・ボーカルにキキ・ディーといった才人を迎えて、マーティ・ウェブのアルバム"I'm Not That Kind of Girl"を発表した[注釈 3]。しかし商業的には失敗に終わり、ウェブのポリドールにおける最後のアルバムとなった。
1985年にロサンゼルスに移り、最初の専用MIDIスタジオの1つを設立し、エンソニックと協力して楽器やカスタム・サウンドの開発に取り組んだ。
1987年、アンディ・サマーズの初のソロ・アルバム『XYZ』(MCAレコード)の制作に参加[注釈 4][8]。それを皮切りに、インストゥルメンタル主体のアルバム『ミステリアス・バリケーズ』(Private Music、1988年)[注釈 5][9]、『ザ・ゴールデン・ワイヤー』(Private Music、1989年)[注釈 6][10]、『チャーミング・スネークス』(Private Music、1990年)[注釈 7][11]、『シンエスシィージア』(CMPレコード、1995年)[注釈 8][12]で共同プロデュースとエンジニアリングを担当し、曲によってはキーボードとシンセサイザーを演奏しドラムのプログラミングを行なった。
1988年、フュージョン・バンドのイエロージャケッツのアルバム『ポリティックス』[13]のプロデュースとエンジニアを担当した[14]。同アルバムはグラミー賞を受賞した。
アウト・オブ・エデン、ジェニファー・ナップ、ポイント・オブ・グレイス、P.O.D.など、数多くのコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック・アーティストのエンジニア、ミュージシャン、プロデューサー、アレンジャーとして働いている。最近、ロサンゼルスでレコーディングされたアート・イン・アメリカというプログレ/ハープ・バンドをプロデュースした[15]。彼はまた、新しいアーティストの育成にも深く関わっている。
現在はイギリスに住んでおり、大西洋の両側でプロデュース、作曲、アレンジを続けている。
ディスコグラフィ
[編集]リーダー・アルバム
[編集]- Startling Music (1975年、Ring O') ※フィル・コリンズ(ドラム、パーカッション)、デヴィッド・コール(ドラム)、ロニー・キャリル(ギター)、Jack D. Glenliver(フィンガー・クリック)、リチャード・スターキー(フィンガー・クリック)参加
- Educating Rita (1983年、Mercury) ※映画サウンドトラック[16]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「デヴィッド・ヘンチェル」「デヴィッド・ヘンシェル」の表記もある。
- ^ ルイス・ギルバートの息子。
- ^ ブラックがアンドルー・ロイド・ウェバーと組んで制作し、ウェブが出演した一幕の連作歌曲"Tell Me on a Sunday"(1980年)の成功を受けて制作された。
- ^ 次作以降と異なり。ボーカル・アルバムである。ヘンツェルは収録曲の2曲をサマーズと共作し、共同でプロデユースを担当した。またミキシングを行なった。
- ^ サマーズ以外の参加ミュージシャンはヘンツェルだけだった。
- ^ 収録曲の一曲をサマーズと共作した。
- ^ ハービー・ハンコック(キーボード)、スティング(ベース・ギター)、チャド・ワッカーマン(ドラムス)が参加。ヘンツェルは数曲をサマーズと共作。
- ^ 一曲にジンジャー・ベイカー(ドラムス)が参加した。
出典
[編集]- ^ Buckley, David (2007). Elton: The Biography. Chicago Review Press. p. 139. ISBN 9781556527135 9 October 2015閲覧。
- ^ “Goodbye Yellow Brick Road – Elton John – Credits”. AllMusic. 2 August 2017閲覧。
- ^ “Discogs”. 2024年2月19日閲覧。
- ^ https://www.discogs.com/David-Hentschel-Oh-My-My/master/706734
- ^ “Discogs”. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “A Trick of the Tail – Genesis – Credits”. AllMusic. 2 August 2017閲覧。
- ^ “David Hentschel”. IMDb. 2 August 2017閲覧。
- ^ “andysummers.com”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “andysummers.com”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “andysummers.com”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “andysummers.com”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “andysummers.com”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “Discogs”. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “Awards”. National Academy of Recording Arts and Sciences (30 April 2017). 2 August 2017閲覧。
- ^ “Scott Frankfurt Studio – Art in America feat. David Hentschel”. Scottfrankfurtstudio.com. 2 August 2017閲覧。
- ^ “David Hentschel”. discogs. 2 August 2017閲覧。