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ディーン・リーパー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ディーン・リーパー
Dean Leeper
個人情報
出生 (1920-11-12) 1920年11月12日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イリノイ州ファーミントン英語版
死去 (1954-09-26) 1954年9月26日(33歳没)
日本の旗 日本北海道函館市函館湾(海難死)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
両親

父ハリ―・リーパー(Harry Leeper)

母ビビアン・リーパー(Vivan Leeper)
配偶者 マージョリー・ケイヴィン(Marjorie Cavins)
子供

スティーブン・リーパー(Steven Leeper)
デイヴィッド・リーパー(David Leeper)
リンダ・リーパー(Linda Leeper)

ケニー・リーパー(Kenny Leeper)
職業 YMCA宣教師
出身校 イリノイ大学ガレット神学校
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ディーン・リーパー(Dean Leeper,1920年11月12日 - 1954年9月26日)は、アメリカ合衆国出身のキリスト教青年会 (YMCA) に所属した宣教師デーン・リーパーとも表記される。

生涯

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初期

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1920年、イリノイ州ファーミントン英語版で父ハリ―・リーパー(Harry Leeper)と母ビビアン・リーパー(Vivan Leeper)の子として生まれる[1]。1938年、イリノイ大学農学部に入学し、YMCAに入会する。1941年にイリノイ大学のYMCA会長に選ばれる。1942年6月、大学を卒業。全米学生伝道団の巡回主事に任じられ、全米を巡回する。

1943年9月、シアトルワシントン大学[要曖昧さ回避]国際会館の監事に就任、日系人学生を中心としたアジア系学生の世話をする。

語学兵時代

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1944年、アメリカ海軍招集され、日本語教育機関に志願して選ばれ、コロラド大学日本語を学ぶ。 除隊後に中国伝道を志してエール大学中国語を学び始めるが、1945年に再び陸軍に召集される。6月、軍籍にある間にマージョリー・ケイヴィン(Marjorie Cavins)と結婚する[1]。日本に進駐軍の語学兵として派遣されることを断り、除隊を申し出る。1946年に正式に陸軍を除隊する。

9月からイェール大学神学部で勉強を始める前に、夫婦で全米を貧乏旅行する。1947年、ガレット神学校に進学して、イリノイ大学のメソジスト・ファウンデーションに就任して学生伝道を行っている時に、1947年11月20日に長男スティーブン(Steven)が生まれる[1]

日本派遣宣教師

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1948年10月、日本YMCA同盟の要請で北米カナダYMCA同盟から日本派遣主事に選ばれ、1949年12月28日に渡日する。1949年4月26日、次男デイヴィッド(David)が誕生する。

1951年12月から翌年1月まで、WSCF主催「アジア大学問題研究協議会」に日本代表として出席する。1952年1月21日、長女リンダ(Linda)が東京で生まれる[1]。1953年2月にアジア・エジプトギリシャヨーロッパを経て帰米、エール大学神学部で組織神学を学ぶ。

1954年、エール大学より神学士を授与され、按手礼を受けて牧師になる。エヴァンストンで開かれた第二回世界教会会議に出席。

海難死

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1954年9月5日に家族で来日して、9月22日に学生キリスト運動の現状を知るために北海道を訪れ、26日に函館港より青函連絡船洞爺丸に乗船する。偶然、カナダメソジスト派の宣教師アルフレッド・ストーンドナルド・オースと同船する。9月26日午後10時45分に台風15号により洞爺丸が横転沈没し、ストーンと共に海難死する。

5日後に七重浜に遺体があがる。海難死する直前に、混乱する乗客を手品で和ませたり、ストーンと共に日本人の子供に自分の救命胴衣を着せたことが、生き残ったドナルド・オースの証言により分かっている。ストーンとリーパーに救命胴衣をもらった日本人は生還し、このことを親族が新聞社に伝えたことで報道された。

死後

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1955年3月21日 三男ケニー(Kenny)が生まれる[1]

長男スティーブン・リーパーは、2007年外国人として初めて広島平和文化センター広島平和記念資料館の運営母体)の理事長に就任した(2013年まで)。

日本YMCA同盟では彼を称え「ディーン・リーパー・メモリアルロッジ」という施設を国際青少年センターYMCA東山荘に2010年に作っている[2]

リーパーを描いた書籍

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  • 森下研『ひびけ愛北の海をこえて 洞爺丸とともに波にきえたディーン・リーパー』鴇田幹絵 PHP愛と希望のノンフィクション 1988
  • 篠 輝久『残されたもの -ディーン・リーパー物語-』リブリオ出版、1989年12月20日
  • 上前淳一郎『洞爺丸はなぜ沈んだか』文芸春秋、1980年11月25日

脚注

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  1. ^ a b c d e ジャン・W・クランメル (1996年2月25日). 『来日メソジスト宣教師事典』. 教文館. p. 155 
  2. ^ University of Southern Mississippi, Special Collections, University Libraries (2016年3月2日). “Pine Belt Family YMCA Records”. 2018年10月12日閲覧。

参考文献

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  • 一色義子『デーン・リーパー : 日本を愛し青年伝道に専心した人』教会新報社, 1982年
  • ジャン・W・クランメル『来日メソジスト宣教師事典』教文館、1996年2月25日