トッド・バルカン

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トッド・バルカン
Todd Barkan
トッド・バルカン(左)とアート・ブレイキー(1979年)
生誕 (1946-08-13) 1946年8月13日(77歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ネブラスカ州リンカーン
職業 クラブ・オーナー、ジャズ興行主
活動期間 1964年 -
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トッド・バルカン[1]Todd Barkan1946年8月13日 - )は、アメリカジャズ興行主、プロデューサー

略歴[編集]

ネブラスカ州リンカーンで生まれたバルカンは、オハイオ州コロンバスで育ち、オーバリン大学に通った[2]。1972年から1983年までサンフランシスコでキーストーン・コーナーというクラブを経営しており、ジャーナリストのボブ・マーゴリスの言葉を借りれば、このクラブは「冒険的なブッキングとボヘミアンな雰囲気で伝説的なクラブ」となった[3]。若い頃からジャズのファンだったバルカンは、損益分岐点に達していないにも関わらずクラブを経営し続け、財政難により1983年にクラブを閉鎖した。その後、バルカンはニューヨークへと拠点を移し、そこでハーレム・ボーイズ・クラブのマネージャーに就任した。1990年頃、彼はオークランドのクラブ「ヨシズ (Yoshi's)」の経営者としてベイエリアに戻った[3]。1993年にはヨシズを辞め、その後の10年間は、ファンタジーマイルストーンハイノートコロムビアサニーサイドコンコードなどのレーベルや、多くの日本のレーベルでレコード・プロデューサーとして働いた[3]

2000年、バルカンはジョエル・ドーンの後任としてジャズ・レーベル、32レコードの責任者として雇われた[3]。2001年にジャズ・アット・リンカーン・センターのディジーズ・クラブ・コカ・コーラのディレクターとして働き始め、2012年までその職を務めた[4][5]。2011年にバルカンは交通事故に遭い、数週間入院している[4]。2013年から、ニューヨークのクラブ、イリジウムでジャズ・ナイトを主催し始めた[6]

2019年、バルカンとミシュランの星を獲得しているシェフ、ロバート・ヴィードマイヤーは、ボルチモアのハーバー・イーストにキーストーン・コーナーを再オープンした[7]

受賞歴[編集]

2018年 NEAジャズ・マスターズ[2]

脚注[編集]

  1. ^ トッド・バーカン」の表記もある。
  2. ^ a b NEA Jazz Masters”. National Endowment for the Arts. 2017年11月1日閲覧。
  3. ^ a b c d Margolis, Bob (2000年8月24日). “Producer Todd Barkan On The Past And Future Of Jazz”. MTV News. 2023年9月4日閲覧。
  4. ^ a b Levine Leitch, Sylvia (February 22, 2011). “Todd Barkan: Taking Care of the Music”. JazzTimes. ISSN 0272-572X. https://jazztimes.com/columns/inservice/todd-barkan-taking-care-of-the-music/. 
  5. ^ Jackson, Vincent (2016年5月9日). “Todd Barkan hosts Point jazz festival”. The Press of Atlantic City. http://www.pressofatlanticcity.com/life/todd-barkan-hosts-point-jazz-festival/article_34127eb8-15e4-11e6-8307-b35aa21ea4ce.html 
  6. ^ Chinen, Nate (2013年2月28日). “Summoning a West Coast Spirit”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2013/03/01/arts/music/todd-barkans-keystone-korner-nights-at-iridium.html 
  7. ^ Keystone Korner Club Revived in Baltimore”. JazzTimes. 2019年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月24日閲覧。

外部リンク[編集]