トニ・フリッチュ
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名前 | ||||||
本名 | アントン・フリッチュ | |||||
愛称 | ウェンブリー・トニ | |||||
カタカナ | トニ・フリッチュ | |||||
ラテン文字 | Toni Fritsch | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | オーストリア | |||||
生年月日 | 1945年7月10日 | |||||
出身地 | ウィーン | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アントン・“トニ”・フリッチュ(Anton "Toni" Fritsch、1945年7月10日 - 2005年9月13日)は、オーストリア出身のサッカー選手およびアメリカンフットボール選手である。サッカーでのポジションはフォワード、アメリカンフットボールでのポジションはキッカー。
経歴
[編集]サッカー
[編集]幼い頃からサッカーを始め、13歳で名門SKラピード・ウィーンに加わった。それから6シーズン後にトップチームに加わり、1964年秋にプロの試合に初出場した。SKラピード・ウィーンでは通算123試合出場、15ゴールを記録。彼とチームは2回のオーストリア・ブンデスリーガ優勝(1967-68、1968-69)、3回のオーストリア・カップ優勝(1964、1967、1968)を経験した。彼は小柄だがとても速いストライカーと評された。
オーストリア代表としては9試合に出場した。1965年10月20日にロンドンのウェンブリー・スタジアムで行なわれた、オーストリアが3-2でイングランドを破った試合で、彼は2ゴールを挙げたことによって「ウェンブリー・トニ」の渾名をつけられた。これは大陸のチームがイングランドをホームで破った3度目のことだった(1953年のハンガリー、1959年のスウェーデンに次ぐ)。
アメリカンフットボール
[編集]1971年、NFL・ダラス・カウボーイズのスタッフは高いキック力を持つサッカー選手を探すためにヨーロッパに向かった。最初に訪れた都市ウィーンで、最初に接触した選手がフリッチュだった。フリッチュはまったく英語を話せなかったが、このオファーを受け入れ、プレースキッカーとしてダラス・カウボーイズに加わった。これまでのストレートスタイルのキッカーに対して彼はチーム初のサッカースタイルキッカーとなった[1]。
1972年に彼とチームは第6回スーパーボウルに勝った。現在も彼はオーストリア人で唯一のスーパーボウル優勝経験者である。カウボーイズで3シーズンプレーした後、1974年にエフレン・ヘレーラにポジションを奪われたがヘレーラが負傷した1975年にチームに復帰、この年プロボウルにも選出された[1]。
1976年にサンディエゴ・チャージャーズに移籍、その後はヒューストン・オイラーズ、ニューオーリンズ・セインツ、そしてUSFLのヒューストン・ギャンブラーズを渡り歩いた。1980年にはプロボウルに選出された。
NFLでの11年間で、通算125試合に出場して758ポイント(うち317はダラス時代)を挙げた。彼が保有していたプレーオフゲームでの13試合連続フィールドゴールというNFL記録[2]は、2007年1月13日にアダム・ビナティエリによって破られた。
引退後
[編集]引退後も自宅のあるヒューストンで余生を過ごした。1992-93シーズンには古巣のSKラピード・ウィーンで1年働いた。2005年9月13日、ウィーンにて心臓麻痺で死去した。
所属クラブ
[編集]サッカー
[編集]- 1964-1971 SKラピード・ウィーン(オーストリア)
アメリカンフットボール
[編集]- 1971-1976 ダラス・カウボーイズ(NFL)
- 1976-1977 サンディエゴ・チャージャーズ(NFL)
- 1977-1982 ヒューストン・オイラーズ(NFL)
- 1982-1984 ニューオーリンズ・セインツ(NFL)
- 1984-1985 ヒューストン・ギャンブラーズ(USFL)
脚注
[編集]- ^ a b “Greatest Cowboys By Their Jersey Numbers: #15”. knowyourdallascowboys.com (2008年4月1日). 2010年4月29日閲覧。
- ^ “MISSION:NOT ACCOMPLISHED YET!?”. philadelphia-eagles.net (2005年2月7日). 2010年4月29日閲覧。
外部リンク
[編集]AP通信 オールプロ ファーストチーム選出(1回) | ||||||
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