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トニー・バナザード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トニー・バナザード
Tony Bernazard
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコの旗 プエルトリコカグアス
生年月日 (1956-08-24) 1956年8月24日(68歳)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手
プロ入り 1973年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1979年7月13日
NPB / 1988年4月9日
最終出場 MLB / 1991年4月26日
NPB / 1990年8月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

アントニオ・バナザード・ガルシア(Antonio "Tony" Bernazard Garcia、1956年8月24日 - )は、プエルトリコカグアス出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴

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1973年モントリオール・エクスポズと契約。1979年7月13日の対サンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビュー。メジャーでは1000試合以上出場している。

1988年南海ホークスに入団。巧みなバットコントロール[1]、俊足巧打で長打力もある三拍子揃ったスイッチヒッターで、来日1年目の1988年7月31日から9月16日まで28試合連続安打を記録(途中、暴力行為で2度の退場処分と出場停止7日間を挟む)。これは、1993年に横浜ベイスターズグレン・ブラッグスに抜かれるまで、外国人選手における連続安打記録だった。最終的にシーズン打率.315を記録。球団名がダイエーとなった1989年は打率こそ3割を下回ったものの34本塁打を放ったり、10月6日のロッテ戦ではプロ初となるシーズン2度目の1試合両打席本塁打を放った[1]。8月は打率.349、8本塁打、23打点の大活躍で月間MVPを受賞した[2]。しかし、1990年は同年から監督に就任した田淵幸一との確執があり[3]、平凡な成績に終わり、同年限りで退団。来日初年度の88年は、打撃だけではなくセカンドの守備力でもチームに大いに貢献したが、90年シーズンには守備範囲が狭くなったことからサードや指名打者での出場が増加し、また故障の影響もあり、本来はスイッチヒッターであったが、右投手に対しても右打席、左投手にも左打席にに入るようになっていた。

ダイエー退団後の1991年デトロイト・タイガースでメジャー復帰を果たすものの、不本意な成績に終わり、同年限りで現役引退。

現役引退後は代理人として活躍。[4]その後、メジャーリーグ選手会(MLBPA)専務理事補佐を経て、2004年からはニューヨーク・メッツGM補佐などを務めていたが、2009年マイナーリーグの選手に中傷、暴力行為、またメッツの選手との口論など数々の悪態が報道されたため、2009年7月27日付で解雇された。

2014年には、8月19、20日の西武戦(福岡ヤフオクドーム)で開催するイベント「福岡クラシック2014」に、初代ダイエーOB助っ人としてウィリー・アップショーと共に招聘を計画されていたが実現しなかった。

人物

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同時期に南海に所属したジョージ・ライトと同様、非常に気性が激しく、審判の判定に激昂したり、乱闘騒ぎを起こすことが多かった。1988年には8~9月だけで3度の退場処分を受けている。

  • 1988年8月15日の対近鉄戦で、加藤哲郎がライトに投げた内角への球が頬をかすめ、ライトが激怒。加藤も激昂し睨み合いになった瞬間、無関係のバナザードがベンチから出てきて加藤に対して暴行を働いたことから両軍乱闘に発展。バナザードは加藤に対する暴力行為で退場処分(当事者のライト及び加藤は退場にはなっていない)。罰金30万円と出場停止7日間(4試合)を課される[5]
  • 1988年9月1日の対ロッテ戦で、ロッテの荘勝雄の内角球について、すれ違いざまに抗議し、両チームが飛び出し一触即発になった途端にベンチから出てきたロッテ投手コーチの木樽正明が手を出したことで乱闘になり、シーズン2度目の退場。
  • 1988年9月23日の対西武戦で、ストライクの判定を不服として審判に暴言を吐いて退場。

これは、1シーズンの退場記録では当時の日本記録であった[6]。その他、退場にはなっていないが、1988年の対ロッテ戦でライトが荘勝雄から受けた死球を巡って乱闘になった際は、当事者ではないのにもかかわらず、止めに入ってた当時のロッテのトレーナー、河原田明に暴行を働いたり、1989年東京ドームでの対日本ハム戦では西村基史ウィリー・アップショーへ死球を与え大乱闘となった際にも他所で若菜嘉晴と殴り合いをしていた。

またその人相だけで相手投手を怖がらせる程であり、登板中の武田一浩日本ハム)の元に自分のスイング後にすっぽ抜けたバットが飛び、普通ならグラウンドインしてしまったバットは一・三塁のコーチが受け取りバッターに渡すものであるが、この時はバナザードが直々にマウンドまで、しかも小走りなどでなく武田の顔をじっと睨みながらゆっくりと歩を進めたため、武田が非常に動揺している様子がテレビ番組で度々珍プレーとして紹介されていた。

気性の荒さとは対照的に、1989年にロッテのマイク・ディアズがダイエーの山内和宏から死球を受け、乱闘になった際はアップショーと共に暴れるディアズをなだめていた。

練習態度や野球に対する取り組みは非常に真面目な選手であり、88年に近鉄に所属していたリチャード・デービスが大麻所持で逮捕された際、南海の杉浦忠監督は、「ウチの2人の外国人(バナザードとライト)は、酒もタバコもやらずに練習も真面目で、私生活で問題を起こす心配がないので有難い」とコメントしている。

インディアンス時代の1984年に当時のMLBワースト記録となる57打席連続無安打を記録している(2019年オリオールズクリス・デービスが更新)。

日本での同僚からは評価が高い。藤本博史は、3割20本を残して全力疾走を怠らない点から、理想の外国人としてバナザードを挙げる[7]湯上谷宏は、現役時代にバナザードに刺激を受けたとし、「身体作りにおけるストイックな姿勢ですね。プロテインすら存在しないような時代でしたが、彼は元メジャーリーガーなだけあって、しっかりウエイトトレーニングに取り組み、一緒に食事に行っても鶏胸肉しか食べないんですよ。」[8]と述べている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1979 MON 22 58 40 11 12 2 0 1 17 8 1 2 2 0 15 0 1 12 2 .300 .500 .425 .925
1980 82 202 183 26 41 7 1 5 65 18 9 2 1 1 17 4 0 41 3 .224 .289 .355 .644
1981 CWS 106 450 384 53 106 14 4 6 146 34 4 4 9 1 54 6 2 66 7 .276 .367 .380 .748
1982 137 630 540 90 138 25 9 11 214 56 11 0 16 5 67 0 2 88 9 .256 .337 .396 .733
1983 59 259 233 30 61 16 2 2 87 26 2 1 4 5 17 0 0 45 5 .262 .306 .373 .679
SEA 80 347 300 35 80 18 1 6 118 30 21 8 5 2 38 3 2 52 4 .267 .351 .393 .744
'83計 139 606 533 65 141 34 3 8 205 56 23 9 9 7 55 3 2 97 9 .265 .332 .385 .716
1984 CLE 140 497 439 44 97 15 4 2 126 38 20 13 7 6 43 0 2 70 10 .221 .290 .287 .577
1985 153 579 500 73 137 26 3 11 202 59 17 9 5 4 69 2 1 72 11 .274 .361 .404 .765
1986 146 636 562 88 169 28 4 17 256 73 17 8 7 8 53 5 6 77 6 .301 .362 .456 .818
1987 79 324 293 39 70 12 1 11 117 30 7 4 4 1 25 2 1 49 4 .239 .300 .399 .699
OAK 61 249 214 34 57 14 1 3 82 19 4 4 3 2 30 0 0 30 6 .266 .354 .383 .737
'87計 140 573 507 73 127 26 2 14 199 49 11 8 7 3 55 2 1 79 10 .250 .323 .393 .716
1988 南海
ダイエー
111 491 438 71 138 23 1 20 223 60 6 4 1 1 49 2 2 93 8 .315 .386 .509 .895
1989 122 533 446 71 121 19 0 34 242 93 2 2 0 4 80 6 3 94 12 .271 .383 .543 .925
1990 75 325 276 36 76 18 0 13 133 40 3 2 0 4 43 5 2 59 1 .275 .372 .482 .854
1991 DET 6 12 12 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .167 .167 .167 .333
MLB:10年 1071 4243 3700 523 970 177 30 75 1432 391 113 55 63 35 428 22 17 606 67 .262 .339 .387 .726
NPB:3年 308 1349 1160 178 335 60 1 67 598 193 11 8 1 9 172 13 7 246 21 .289 .381 .516 .897
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

年度別守備成績

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一塁(1B) 二塁(2B) 三塁(3B) 遊撃(SS)
















































1979 MON - 14 22 34 1 4 .982 - -
1980 - 39 63 103 4 18 .976 - 22 19 48 5 7 .931
1981 CWS - 104 228 320 7 66 .987 - -
1982 - 137 353 443 12 116 .985 - -
1983 - 59 96 189 7 38 .976 - -
SEA - 79 166 233 12 51 .971 - -
'83計 - 138 262 422 19 89 .973 - -
1984 CLE - 136 264 397 20 85 .971 - -
1985 - 147 311 399 16 86 .978 - 1 2 0 0 1 1.000
1986 - 146 351 442 17 95 .979 - -
1987 - 78 153 200 6 39 .983 - -
OAK - 59 90 135 11 22 .953 - -
'87計 - 137 243 335 17 61 .971 - -
1988 南海
ダイエー
- 110 288 302 15 81 .975 - -
1989 - 120 305 334 22 71 .967 - -
1990 1 2 0 0 0 1.000 - 22 21 44 1 6 .985 -
1991 DET - 2 3 6 1 3 .900 - -
MLB - 1000 2100 2901 114 623 .978 - 24 21 49 5 8 .933
NPB 1 2 0 0 0 1.000 230 593 636 37 152 .971 22 21 44 1 6 .985 -
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

表彰

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NPB

記録

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NPB

背番号

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  • 7 (1979年)
  • 2 (1980年)
  • 14 (1981年 - 1983年、1987年途中 - 同年終了)
  • 16 (1984年 - 同年途中)
  • 4 (1984年 - 1987年途中)
  • 9 (1988年 - 1991年)

脚注

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  1. ^ a b ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団、ベースボール・マガジン社、2008年、P32
  2. ^ 「HAWKS the 70th - ホークス栄光の軌跡」ベースボールマガジン社 2008年、120頁
  3. ^ ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団、ベースボール・マガジン社、2008年、P34
  4. ^ 2000年6月発行「フライデー」『あの助っ人外国人選手は今』より。南海時代は神戸に住んでいて日本の食事も良かったと公表。
  5. ^ 読売新聞1988年8月17日19面
  6. ^ 2010年楽天監督だった、マーティ・ブラウンが4度の退場を記録し、更新した。
  7. ^ https://www.nikkansports.com/baseball/news/202111080000829.html#goog_rewarded
  8. ^ 「倉庫で戦力外を言い渡された」ホークスの“いぶし銀”が振り返る激動の現役時代 日刊SPA!

関連項目

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外部リンク

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