ドイツの君主一覧
表示
本項は東フランク王国とドイツ王国[注釈 1]の君主の一覧である。843年のフランク王国分割から1918年のドイツ帝国解体までを含み、また1806年の神聖ローマ帝国解体から1871年のドイツ帝国成立までに存在した様々なドイツ連邦の元首も含む。
説明
[編集]- ドイツを支配する王国(一貫した正式名称は無く、単に王国と呼ばれる)は最初はフランク王国東部、843年のヴェルダン条約で分割された部分として始まった。そのため、東部を治めた統治者は自らをrex Francorum(フランク人の王)と呼び、後にはrex(王)に短縮した。この王は10世紀後半以降、イタリア王とローマ皇帝を兼ねた。「ゲルマン」、またはゲルマン人の国への言及は時代を下って11世紀、ローマ教皇グレゴリウス7世が政敵のハインリヒ4世をrex teutonicorum(テウトネス族の王)と呼び、ローマ帝国外の蛮族扱いしたことが始まりだった。国王は反撃としてrex Romanorum(ローマ人の王)の称号を用いて、皇帝になる前から統治の普遍性を強調した。この称号は1806年に帝国が消滅するまで続いたが、1508年以降の選出帝(後述)は称号に「ドイツの王」(König in Germanien)を付け加えた。(本項では「ドイツ王」と略する)
- 王国が完全な世襲体制になることはなかった。出自は国王の継承を決める要因の1つにすぎず、正式にはフランク人の伝統に基づき、領内の大貴族により正式に選出された。やがて、選挙権は選帝侯と呼ばれる諸侯に集約されるようになり、1356年金印勅書で選挙の手続きが正式に規定された[1]。
- 中世では国王がローマ教皇によって戴冠されるまで「皇帝」の称号を有さない。一般的にはまずイタリアに移動してロンバルディアの鉄王冠で戴冠し、rex Italiae(イタリア王)の称号を獲得する。続いてローマに騎行して教皇により皇帝として戴冠する(神聖ローマ皇帝戴冠式)。
- マクシミリアン1世がErwählter Römischer Kaiser(選出されたローマ皇帝)の称号を使用した初の国王であり、彼は1508年にローマへの行進に失敗した後教皇ユリウス2世の許可を得て選出帝を称した。その後継者のカール5世も1520年に君主として選出されてから1530年に教皇クレメンス7世によって戴冠されるまで選出帝の称号を用いた。その次代のフェルディナント1世以降は全ての皇帝が「選出帝」であるが、一般的には単に「皇帝」と呼ばれる。一方、皇帝の継承者として選出された者は前任者が存命中に選帝侯によって選出された場合、ローマ人の王(ローマ王)の称号を有した。
皇帝は太字、対立王や幼年の共同統治者はイタリックで記述する。
東フランク王国(843年 - 962年)
[編集]カロリング朝
[編集]印章 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ルートヴィヒ2世 | カロリング朝 | 843年8月11日 | — | 876年8月23日 | ルートヴィヒ敬虔帝の息子、カール大帝の孫 | |
カールマン | カロリング朝 | 876年8月28日 | — | 880年3月22日 | ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、バイエルンを統治した。877年以降、イタリア王を兼任 | |
ルートヴィヒ3世 | カロリング朝 | 876年8月28日 | — | 882年1月20日 | ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、東フランクとザクセンを統治した。880年以降、バイエルンも統治した | |
カール3世 | カロリング朝 | 876年8月28日 | 881年2月12日 | 887年11月11日 | ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、アレマニアとラエティアを統治した。882年以降、東部王国全体を統治した。879年以降、イタリア王を兼任 | |
アルヌルフ | カロリング朝 | 887年11月30日 | 896年4月25日 | 899年12月8日 | カールマンの息子 | |
ルートヴィヒ4世
(LudwigIV) |
カロリング朝 | 900年1月21日 | — | 911年9月20/24日 | アルヌルフ・フォン・ケルンテンの息子 |
フランケン朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
コンラート1世 | コンラディン家 | 911年11月10日 | — | 918年12月23日 |
ドイツ王国(919年 - 962年)
[編集]オットー朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ハインリヒ1世 | リウドルフィング家 | 919年4月23日 | — | 936年7月2日 | ||
アルヌルフ悪王 | ルイトポルディング家 | 919年 | — | 921年 | ハインリヒ1世の対立王 |
神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)
[編集]神聖ローマ帝国で使用された「ローマ人の王」(ローマ王)の称号はドイツ王と同等とされる。国王はドイツの選帝侯に選出された後、ローマに向かい、そこで教皇から皇帝として戴冠する。
オットー朝(継続)
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
オットー1世
(Otto I) |
リウドルフィング朝
(Liudolfinger) |
936年8月7日 | 962年2月2日 | 973年5月7日 | ハインリヒ1世の息子。アーヘン大聖堂で戴冠した国王としてはロタール1世以来であり、彼は神の恩寵による国王オットーとして戴冠した[2]。961年、神聖ローマ皇帝として戴冠 | |
オットー2世 | リウドルフィング朝
(Liudolfinger) |
961年5月26日 | 967年12月25日 | 983年12月7日 | オットー1世の息子。 961年から973年まで、「神の恩寵による国王オットー」[2]。 父の存命中に皇帝として戴冠 | |
オットー3世 | リウドルフィング朝
(Liudolfinger) |
983年12月25日 | 996年5月21日 | 1002年1月21日 | オットー2世の息子。「神の恩寵による国王オットー」[2] | |
ハインリヒ2世 | リウドルフィング朝
(Liudolfinger) |
1002年6月7日 | 1014年4月26日 | 1024年7月13日 | ハインリヒ1世の曾孫 |
ザーリアー朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
コンラート2世 | ザーリアー朝 | 1024年9月8日 | 1027年3月26日 | 1039年6月4日 | オットー1世の玄孫 | |
ハインリヒ3世 | ザーリアー朝 | 1028年4月14日 | 1046年12月25日 | 1056年10月5日 | コンラート2世の息子。1028年から1039年まで父と共同統治 | |
ハインリヒ4世 | ザーリアー朝 | 1054年7月17日 | 1084年3月21日 | 1105年12月31日 | ハインリヒ3世の息子。1054年から1056年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
ルドルフ・フォン・ラインフェルデン | ラインフェルデン家 | 1077年3月15日 | — | 1080年10月15日 | ハインリヒ4世の対立王 | |
ヘルマン・フォン・ザルム | ザルム家 | 1081年8月6日 | — | 1088年9月28日 | ハインリヒ4世の対立王 | |
コンラート | ザーリアー朝 | 1087年5月30日 | — | 1101年7月27日 | ハインリヒ4世の息子。 1087年から1098年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。 1093年から1098年までイタリア王。1095年から1101年まで反乱 | |
ハインリヒ5世 | ザーリアー朝 | 1099年1月6日 | 1111年4月13日 | 1125年5月23日 | ハインリヒ4世の息子。 1099年から1105年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。父を退位させた |
ズップリンブルク朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ロタール3世 | ズップリンブルク家 | 1125年8月30日 | 1133年6月4日 | 1137年12月4日 | ドイツ王としてはロタール2世、イタリア王としてはロタール3世 |
ホーエンシュタウフェン朝とヴェルフ朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
コンラート3世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1138年3月7日 | — | 1152年2月15日 | ハインリヒ4世の娘の息子。 1127年から1135年まで、ロタール2世の対立王 | |
ハインリヒ=ベレンガル | ホーエンシュタウフェン家 | 1147年3月30日 | — | 1150年8月? | コンラート3世の息子。 1147年から1150年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
フリードリヒ1世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1152年3月4日 | 1155年6月18日 | 1190年6月10日 | コンラート3世の甥 | |
ハインリヒ6世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1169年8月15日 | 1191年4月14日 | 1197年9月28日 | フリードリヒ1世の息子 1169年から1190年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
フリードリヒ2世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1197年 | — | 1197年 | ハインリヒ6世の息子 1196年、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
フィリップ・フォン・シュヴァーベン | ホーエンシュタウフェン家 | 1198年3月6日 | — | 1208年8月21日 | フリードリヒ1世の息子。オットー4世の対立王 | |
オットー4世 | ヴェルフ家 | 1198年3月29日 | 1209年10月4日 | 1215年7月5日 | フィリップ・フォン・シュヴァーベンの対立王。後にフリードリヒ2世と対立、1215年に廃位され1218年5月19日に死去 | |
フリードリヒ2世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1212年12月5日 | 1220年11月22日 | 1250年12月26日 | ハインリヒ6世の息子。 1215年7月5日までオットー4世の対立王 | |
ハインリヒ | ホーエンシュタウフェン家 | 1220年4月23日 | — | 1235年8月15日 | フリードリヒ2世の息子。 1220年から1235年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
コンラート4世 | ホーエンシュタウフェン家 | 1237年5月 | — | 1254年5月1日 | フリードリヒ2世の息子。 1237年から1250年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 |
大空位時代
[編集]→「大空位時代」を参照
画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ハインリヒ・ラスペ | テューリンゲン | 1246年5月22日 | — | 1247年2月16日 | フリードリヒ2世の対立王、ハインリヒ4世の来孫 | |
ヴィルヘルム・フォン・ホラント | ホラント | 1247年10月3日 | — | 1256年1月28日 | 1247年から1254年まで、フリードリヒ2世とコンラート4世の対立王 | |
リチャード・オブ・コーンウォール | プランタジネット家 | 1257年1月13日 | — | 1272年4月2日 | フリードリヒ2世の義弟、カスティーリャ王アルフォンソ10世の対立王。実権を持たなかった | |
カスティーリャ王アルフォンソ10世 | ブルゴーニュ家 | 1257年4月1日 | — | 1275年 | フィリップの孫。リチャード・オブ・コーンウォールの対立王。実権を持たず、後にルドルフ1世に反対されて1275年に請求を取り下げた。1284年に死去 |
ハプスブルク朝とナッサウ朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ルドルフ1世 | ハプスブルク家 | 1273年9月29日 | — | 1291年7月15日 | ハプスブルク家初のドイツ王 | |
アドルフ・フォン・ナッサウ | ナッサウ家 | 1292年5月5日 | — | 1298年6月23日 | 歴史家の一部はアドルフが選出される前にテック公コンラート2世が短期間王を務めたとしている | |
アルブレヒト1世 | ハプスブルク家 | 1298年6月24日 | — | 1308年5月1日 | ルドルフ1世の息子、1298年中はアドルフ・フォン・ナッサウの対立王 |
ルクセンブルク朝とヴィッテルスバッハ朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ハインリヒ7世 | ルクセンブルク家 | 1308年11月27日 | 1311年6月13日 | 1313年8月24日 | 神聖ローマ皇帝 | |
ルートヴィヒ4世 | ヴィッテルスバッハ家 | 1314年10月20日 | 1328年1月17日 | 1347年10月11日 | ルドルフ1世の孫、1314年から1322年までフリードリヒ美王の対立王 | |
フリードリヒ美王 | ハプスブルク家 | 1314年10月19日/ 1325年9月5日 |
— | 1322年9月28日/ 1330年1月13日 |
アルブレヒト1世の息子 1314年から1322年までルートヴィヒ4世の対立王 1325年から1330年まで王としてルートヴィヒ4世とともに統治 | |
カール4世 | ルクセンブルク家 | 1346年7月11日 | 1355年4月5日 | 1378年11月29日 | ハインリヒ7世の孫、1346年から1347年までルートヴィヒ4世の対立王。 ボヘミア王、イタリア王、神聖ローマ皇帝を兼任 | |
ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク | シュヴァルツブルク家 | 1349年1月30日 | — | 1349年5月24日 | カール4世の対立王 | |
ヴェンツェル | ルクセンブルク家 | 1376年6月10日 | — | 1400年8月20日 | カール4世の息子。1376年から1378年まで父の治世中に選出されたドイツ王。1400年に廃位。 世襲ボヘミア王。1419年に死去 | |
プファルツ選帝侯 | ヴィッテルスバッハ家 | 1400年8月21日 | — | 1410年5月18日 | ルートヴィヒ4世の曾甥孫 | |
ジギスムント | ルクセンブルク家 | 1410年9月20日 /1411年7月21日 |
1433年5月3日 | 1437年12月9日 | カール4世の息子 | |
ヨープスト・フォン・メーレン | ルクセンブルク家 | 1410年10月1日 | — | 1411年1月8日 | カール4世の甥、ジギスムントの対立王 |
ハプスブルク朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
アルブレヒト2世 | ハプスブルク家 | 1438年3月18日 | — | 1439年10月27日 | アルブレヒト1世から4代目の子孫 ジギスムントの義弟 | |
フリードリヒ3世 | ハプスブルク家 | 1440年2月2日 | 1452年3月16日 | 1493年8月19日 | アルブレヒト1世から4代目の子孫 アルブレヒト2世の又従弟 | |
マクシミリアン1世 | ハプスブルク家 | 1486年2月16日 | 1508年2月4日 皇帝 |
1519年1月12日 | フリードリヒ3世の息子。1486年から1493年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。1508年に教皇の許可を受けて選挙王の称号を使用した | |
カール5世 | ハプスブルク家 | 1519年6月28日 | 1519年6月28日 皇帝 |
1556年8月3日 | マクシミリアン1世の孫。1558年9月21日に死去 | |
フェルディナント1世 | ハプスブルク家 | 1531年1月5日 | 1558年3月14日 皇帝 |
1564年7月25日 | マクシミリアン1世の孫、カール5世の弟。1531年から1556年まで、兄カール5世の治世中に選出されたドイツ王。アーヘン大聖堂で戴冠した最後の国王 | |
マクシミリアン2世 | ハプスブルク家 | 1562年11月22日 | 1564年7月25日 皇帝 |
1576年10月12日 | フェルディナント1世の息子。 1562年から1564年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
ルドルフ2世 | ハプスブルク家 | 1575年10月27日 | 1576年11月2日 皇帝 |
1612年1月20日 | マクシミリアン2世の息子。 1575年から1576年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
マティアス | ハプスブルク家 | 1612年6月13日 | 1612年6月13日 皇帝 |
1619年3月20日 | マクシミリアン2世の息子 | |
フェルディナント2世 | ハプスブルク家 | 1619年8月28日 | 1619年8月28日 皇帝 |
1637年2月15日 | フェルディナント1世の孫 | |
フェルディナント3世 | ハプスブルク家 | 1636年12月22日 | 1637年2月15日 皇帝 |
1657年4月2日 | フェルディナント2世の息子。 1636年から1637年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
フェルディナント4世' | ハプスブルク家 | 1653年5月31日 | — | 1654年7月9日 | フェルディナント3世の息子。 父の治世中に選出されたドイツ王 | |
レオポルト1世 | ハプスブルク家 | 1658年7月18日 | 1658年7月18日 皇帝 |
1705年5月5日 | フェルディナント3世の息子 | |
ヨーゼフ1世 | ハプスブルク家 | 1690年1月23日 | 1705年5月5日 皇帝 |
1711年4月17日 | レオポルト1世の息子。1690年から1705年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
カール6世 | ハプスブルク家 | 1711年10月27日 | 1711年10月27日 皇帝 |
1740年10月20日 | レオポルト1世の息子 |
ヴィッテルスバッハ朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
カール7世 | ヴィッテルスバッハ家 | 1742年1月14日 | 1742年1月14日 皇帝 |
1745年1月20日 | フェルディナント2世の玄孫。ヨーゼフ1世の娘マリア・アマーリエの夫 |
ハプスブルク=ロートリンゲン朝
[編集]画像 | 名前 | 家族 | 国王選出 | 皇帝戴冠 | 在位終了日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
フランツ1世 | ロレーヌ家 | 1745年9月13日 | 1745年9月13日 皇帝 |
1765年8月18日 | フェルディナント3世の玄孫。カール6世の娘マリア・テレジアの夫 | |
ヨーゼフ2世 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1764年3月27日 | 1765年8月18日 皇帝 |
1790年2月20日 | フランツ1世とマリア・テレジアの息子。1764年から1765年まで、父の治世中に選出されたドイツ王 | |
レオポルト2世 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1790年9月30日 | 1790年9月30日 皇帝 |
1792年3月1日 | フランツ1世とマリア・テレジアの息子 | |
フランツ2世 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1792年7月7日 | 1792年7月7日 皇帝 |
1806年8月6日 | レオポルト2世の息子。神聖ローマ皇帝を解体した。1804年から1835年まで、オーストリア皇帝。1815年から1835年まで、ドイツ連邦の議長。1835年に死去 |
ライン同盟(1806年 - 1813年)
[編集]名前 | 肖像画 | 称号 | 家族 | 在位開始日 | 在位終了日 |
---|---|---|---|---|---|
ナポレオン フランス皇帝 イタリア王 |
ライン同盟保護者 | ボナパルト家 | 1806年7月12日 | 1813年10月19日 | |
カール・テオドール・フォン・ダールベルク レーゲンスブルク大司教 フランクフルト大公 |
ライン同盟首座大司教侯 | 1806年7月25日 | 1813年10月26日 | ||
ウジェーヌ・ド・ボアルネ フランクフルト大公 |
ライン同盟首座大司教侯 | ボアルネ家 | 1813年10月26日 | 1813年12月 |
ドイツ連邦(1815年 - 1866年)
[編集]名前 | 肖像画 | 称号 | 家族 | 在位開始日 | 在位終了日 |
---|---|---|---|---|---|
フランツ1世 オーストリア皇帝 |
議長国オーストリアの元首[3] | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1815年6月20日 | 1835年3月2日 | |
フェルディナント1世 オーストリア皇帝 |
議長国オーストリアの元首[3] | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1835年3月2日 | 1848年7月12日 | |
ヨハン・フォン・エスターライヒ大公 | 革命期ドイツ帝国の摂政[4] | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1848年7月12日 | 1849年12月20日 | |
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 | ドイツ人の皇帝当選者 | ホーエンツォレルン家 | 1849年3月28日にフランクフルト国民議会でドイツ人の皇帝に選出されたが、1849年4月28日に帝位を拒否[5] | ||
エアフルト連邦元首[6] | 1849年5月26日 | 1850年11月29日 | |||
フランツ・ヨーゼフ1世 オーストリア皇帝 |
議長国オーストリアの元首 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | 1850年5月1日 | 1866年8月24日 |
北ドイツ連邦(1867年 - 1871年)
[編集]名前 | 肖像画 | 称号 | 家族 | 在位開始日 | 在位終了日 |
---|---|---|---|---|---|
ヴィルヘルム1世 プロイセン王 |
北ドイツ連邦の連邦主席 | ホーエンツォレルン家 | 1867年7月1日 | 1871年1月1日[7] |
ドイツ帝国(1871年 - 1918年)
[編集]名前 | 肖像画 | 称号 | 家族 | 在位開始日 | 在位終了日 |
---|---|---|---|---|---|
ヴィルヘルム1世 ドイツ皇帝 |
ドイツ皇帝 | ホーエンツォレルン家 | 1871年1月1日[7] | 1888年3月9日 | |
フリードリヒ3世 ドイツ皇帝 |
ドイツ皇帝 | ホーエンツォレルン家 | 1888年3月9日 | 1888年6月15日 | |
ヴィルヘルム2世 ドイツ皇帝 |
ドイツ皇帝 | ホーエンツォレルン家 | 1888年6月15日 | 1918年11月9日/1918年11月28日[注釈 2] |
脚注
[編集]- ^ 現ドイツ、スイス、ルクセンブルク、オランダ、ベルギー、リヒテンシュタイン、オーストリア、スロベニアの全ての領土、そしてフランス、イタリア、ポーランド、チェコの一部を含む。
- ^ 帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは11月9日にヴィルヘルム2世の退位を発表、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命したが、彼が正式に退位したのは11月28日のことだった。→「ヴィルヘルム2世の退位」も参照
出典
[編集]- ^ Germany - Britannica Educational Publishing
- ^ a b c Medieval Europeans: studies in ethnic identity and national perspectives in medieval Europe By Alfred P. Smyth, Palgrave Macmillan (1998), p. 64
- ^ a b Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Vol. I: Reform und Restauration 1789 bis 1830. 2nd edition, Verlag W. Kohlhammer, Stuttgart [et.al.] 1967, p. 589.
- ^ Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Vol. I: Reform und Restauration 1789 bis 1830. 2nd edition, Verlag W. Kohlhammer, Stuttgart [et.al.] 1967, pp. 625–627, 808.
- ^ Manfred Botzenhart: Deutscher Parlamentarismus in der Revolutionszeit 1848–1850. Droste Verlag, Düsseldorf 1977, pp. 697-698.
- ^ Anlage II: Additional-Akte zu dem Entwurf der Verfassung des Deutschen Reichs. In: Thüringer Landtag Erfurt (ed.): 150 Jahre Erfurter Unionsparlament (1850–2000) (= Schriften zur Geschichte des Parlamentarismus in Thüringen. H. 15) Wartburg Verlag, Weimar 2000, ISBN 3-86160-515-5, S. 27–44, here pp. 185–187.
- ^ a b Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Band III: Bismarck und das Reich. 3. Auflage, W. Kohlhammer, Stuttgart 1988, S. 750/751.