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ドイツの君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レヒフェルトの戦いを指揮するドイツ王オットー1世

本項は東フランク王国ドイツ王国[注釈 1]の君主の一覧である。843年のフランク王国分割から1918年のドイツ帝国解体までを含み、また1806年の神聖ローマ帝国解体英語版から1871年のドイツ帝国成立までに存在した様々なドイツ連邦の元首も含む。

説明

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  1. ドイツを支配する王国(一貫した正式名称は無く、単に王国と呼ばれる)は最初はフランク王国東部、843年のヴェルダン条約で分割された部分として始まった。そのため、東部を治めた統治者は自らをrex Francorum(フランク人の王)と呼び、後にはrex(王)に短縮した。この王は10世紀後半以降、イタリア王ローマ皇帝を兼ねた。「ゲルマン」、またはゲルマン人の国への言及は時代を下って11世紀、ローマ教皇グレゴリウス7世が政敵のハインリヒ4世rex teutonicorumテウトネス族の王)と呼び、ローマ帝国外の蛮族扱いしたことが始まりだった。国王は反撃としてrex Romanorumローマ人の王)の称号を用いて、皇帝になる前から統治の普遍性を強調した。この称号は1806年に帝国が消滅するまで続いたが、1508年以降の選出帝(後述)は称号に「ドイツの王」(König in Germanien)を付け加えた。(本項では「ドイツ王」と略する)
  2. 王国が完全な世襲体制になることはなかった。出自は国王の継承を決める要因の1つにすぎず、正式にはフランク人の伝統に基づき、領内の大貴族により正式に選出された。やがて、選挙権は選帝侯と呼ばれる諸侯に集約されるようになり、1356年金印勅書英語版で選挙の手続きが正式に規定された[1]
  3. 中世では国王がローマ教皇によって戴冠されるまで「皇帝」の称号を有さない。一般的にはまずイタリアに移動してロンバルディアの鉄王冠で戴冠し、rex Italiaeイタリア王)の称号を獲得する。続いてローマに騎行して教皇により皇帝として戴冠する(神聖ローマ皇帝戴冠式英語版)。
  4. マクシミリアン1世Erwählter Römischer Kaiser(選出されたローマ皇帝)の称号を使用した初の国王であり、彼は1508年にローマへの行進に失敗した後教皇ユリウス2世の許可を得て選出帝を称した。その後継者のカール5世も1520年に君主として選出されてから1530年に教皇クレメンス7世によって戴冠されるまで選出帝の称号を用いた。その次代のフェルディナント1世以降は全ての皇帝が「選出帝」であるが、一般的には単に「皇帝」と呼ばれる。一方、皇帝の継承者として選出された者は前任者が存命中に選帝侯によって選出された場合、ローマ人の王(ローマ王)の称号を有した。

皇帝は太字、対立王や幼年の共同統治者はイタリックで記述する。

東フランク王国(843年 - 962年)

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カロリング朝

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印章 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ルートヴィヒ2世 カロリング朝 843年8月11日 876年8月23日 ルートヴィヒ敬虔帝の息子、カール大帝の孫
カールマン カロリング朝 876年8月28日 880年3月22日 ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、バイエルンを統治した。877年以降、イタリア王を兼任
ルートヴィヒ3世 カロリング朝 876年8月28日 882年1月20日 ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、東フランクザクセンを統治した。880年以降、バイエルンも統治した
カール3世 カロリング朝 876年8月28日 881年2月12日 887年11月11日 ルートヴィヒ・ドイツ人王の息子で、アレマニアラエティアを統治した。882年以降、東部王国全体を統治した。879年以降、イタリア王を兼任
アルヌルフ カロリング朝 887年11月30日 896年4月25日 899年12月8日 カールマンの息子
ルートヴィヒ4世

(LudwigIV)

カロリング朝 900年1月21日 911年9月20/24日 アルヌルフ・フォン・ケルンテンの息子

フランケン朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
コンラート1世 コンラディン家 911年11月10日 918年12月23日

ドイツ王国(919年 - 962年)

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オットー朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ハインリヒ1世 リウドルフィング家 919年4月23日 936年7月2日
アルヌルフ悪王 ルイトポルディング家 919年 921年 ハインリヒ1世の対立王

神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)

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神聖ローマ帝国で使用された「ローマ人の王」(ローマ王)の称号はドイツ王と同等とされる。国王はドイツの選帝侯に選出された後、ローマに向かい、そこで教皇から皇帝として戴冠する。

オットー朝(継続)

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
オットー1世

(Otto I)

リウドルフィング朝

(Liudolfinger)

936年8月7日 962年2月2日 973年5月7日 ハインリヒ1世の息子。アーヘン大聖堂で戴冠した国王としてはロタール1世以来であり、彼は神の恩寵による国王オットーとして戴冠した[2]。961年、神聖ローマ皇帝として戴冠
オットー2世 リウドルフィング朝

(Liudolfinger)

961年5月26日 967年12月25日 983年12月7日 オットー1世の息子。
961年から973年まで、「神の恩寵による国王オットー」[2]
父の存命中に皇帝として戴冠
オットー3世 リウドルフィング朝

(Liudolfinger)

983年12月25日 996年5月21日 1002年1月21日 オットー2世の息子。「神の恩寵による国王オットー」[2]
ハインリヒ2世 リウドルフィング朝

(Liudolfinger)

1002年6月7日 1014年4月26日 1024年7月13日 ハインリヒ1世の曾孫

ザーリアー朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
コンラート2世 ザーリアー朝 1024年9月8日 1027年3月26日 1039年6月4日 オットー1世の玄孫
ハインリヒ3世 ザーリアー朝 1028年4月14日 1046年12月25日 1056年10月5日 コンラート2世の息子。1028年から1039年まで父と共同統治
ハインリヒ4世 ザーリアー朝 1054年7月17日 1084年3月21日 1105年12月31日 ハインリヒ3世の息子。1054年から1056年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
ルドルフ・フォン・ラインフェルデン ラインフェルデン家 1077年3月15日 1080年10月15日 ハインリヒ4世の対立王
ヘルマン・フォン・ザルム ザルム家 1081年8月6日 1088年9月28日 ハインリヒ4世の対立王
コンラート ザーリアー朝 1087年5月30日 1101年7月27日 ハインリヒ4世の息子。
1087年から1098年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。
1093年から1098年までイタリア王。1095年から1101年まで反乱
ハインリヒ5世 ザーリアー朝 1099年1月6日 1111年4月13日 1125年5月23日 ハインリヒ4世の息子。
1099年から1105年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。父を退位させた

ズップリンブルク朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ロタール3世 ズップリンブルク家 1125年8月30日 1133年6月4日 1137年12月4日 ドイツ王としてはロタール2世、イタリア王としてはロタール3世

ホーエンシュタウフェン朝とヴェルフ朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
コンラート3世 ホーエンシュタウフェン家 1138年3月7日 1152年2月15日 ハインリヒ4世の娘の息子。
1127年から1135年まで、ロタール2世の対立王
ハインリヒ=ベレンガル ホーエンシュタウフェン家 1147年3月30日 1150年8月? コンラート3世の息子。
1147年から1150年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
フリードリヒ1世 ホーエンシュタウフェン家 1152年3月4日 1155年6月18日 1190年6月10日 コンラート3世の甥
ハインリヒ6世 ホーエンシュタウフェン家 1169年8月15日 1191年4月14日 1197年9月28日 フリードリヒ1世の息子
1169年から1190年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
フリードリヒ2世 ホーエンシュタウフェン家 1197年 1197年 ハインリヒ6世の息子
1196年、父の治世中に選出されたドイツ王
フィリップ・フォン・シュヴァーベン ホーエンシュタウフェン家 1198年3月6日 1208年8月21日 フリードリヒ1世の息子。オットー4世の対立王
オットー4世 ヴェルフ家 1198年3月29日 1209年10月4日 1215年7月5日 フィリップ・フォン・シュヴァーベンの対立王。後にフリードリヒ2世と対立、1215年に廃位され1218年5月19日に死去
フリードリヒ2世 ホーエンシュタウフェン家 1212年12月5日 1220年11月22日 1250年12月26日 ハインリヒ6世の息子。
1215年7月5日までオットー4世の対立王
ハインリヒ ホーエンシュタウフェン家 1220年4月23日 1235年8月15日 フリードリヒ2世の息子。
1220年から1235年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
コンラート4世 ホーエンシュタウフェン家 1237年5月 1254年5月1日 フリードリヒ2世の息子。
1237年から1250年まで、父の治世中に選出されたドイツ王

大空位時代

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ハインリヒ・ラスペ テューリンゲン 1246年5月22日 1247年2月16日 フリードリヒ2世の対立王、ハインリヒ4世の来孫
ヴィルヘルム・フォン・ホラント ホラント 1247年10月3日 1256年1月28日 1247年から1254年まで、フリードリヒ2世とコンラート4世の対立王
リチャード・オブ・コーンウォール プランタジネット家 1257年1月13日 1272年4月2日 フリードリヒ2世の義弟、カスティーリャ王アルフォンソ10世の対立王。実権を持たなかった
カスティーリャ王アルフォンソ10世 ブルゴーニュ家 1257年4月1日 1275年 フィリップの孫。リチャード・オブ・コーンウォールの対立王。実権を持たず、後にルドルフ1世に反対されて1275年に請求を取り下げた。1284年に死去

ハプスブルク朝とナッサウ朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ルドルフ1世 ハプスブルク家 1273年9月29日 1291年7月15日 ハプスブルク家初のドイツ王
アドルフ・フォン・ナッサウ ナッサウ家 1292年5月5日 1298年6月23日 歴史家の一部はアドルフが選出される前にテック公コンラート2世英語版が短期間王を務めたとしている
アルブレヒト1世 ハプスブルク家 1298年6月24日 1308年5月1日 ルドルフ1世の息子、1298年中はアドルフ・フォン・ナッサウの対立王

ルクセンブルク朝とヴィッテルスバッハ朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
ハインリヒ7世 ルクセンブルク家 1308年11月27日 1311年6月13日 1313年8月24日 神聖ローマ皇帝
ルートヴィヒ4世 ヴィッテルスバッハ家 1314年10月20日 1328年1月17日 1347年10月11日 ルドルフ1世の孫、1314年から1322年までフリードリヒ美王の対立王
フリードリヒ美王 ハプスブルク家 1314年10月19日/
1325年9月5日
1322年9月28日/
1330年1月13日
アルブレヒト1世の息子
1314年から1322年までルートヴィヒ4世の対立王
1325年から1330年まで王としてルートヴィヒ4世とともに統治
カール4世 ルクセンブルク家 1346年7月11日 1355年4月5日 1378年11月29日 ハインリヒ7世の孫、1346年から1347年までルートヴィヒ4世の対立王。
ボヘミア王イタリア王神聖ローマ皇帝を兼任
ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク シュヴァルツブルク家 1349年1月30日 1349年5月24日 カール4世の対立王
ヴェンツェル ルクセンブルク家 1376年6月10日 1400年8月20日 カール4世の息子。1376年から1378年まで父の治世中に選出されたドイツ王。1400年に廃位。
世襲ボヘミア王。1419年に死去
プファルツ選帝侯

ループレヒト

ヴィッテルスバッハ家 1400年8月21日 1410年5月18日 ルートヴィヒ4世の曾甥孫
ジギスムント ルクセンブルク家 1410年9月20日
/1411年7月21日
1433年5月3日 1437年12月9日 カール4世の息子
ヨープスト・フォン・メーレン ルクセンブルク家 1410年10月1日 1411年1月8日 カール4世の甥、ジギスムントの対立王

ハプスブルク朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
アルブレヒト2世 ハプスブルク家 1438年3月18日 1439年10月27日 アルブレヒト1世から4代目の子孫
ジギスムントの義弟
フリードリヒ3世 ハプスブルク家 1440年2月2日 1452年3月16日 1493年8月19日 アルブレヒト1世から4代目の子孫
アルブレヒト2世の又従弟
マクシミリアン1世 ハプスブルク家 1486年2月16日 1508年2月4日
皇帝
1519年1月12日 フリードリヒ3世の息子。1486年から1493年まで、父の治世中に選出されたドイツ王。1508年に教皇の許可を受けて選挙王の称号を使用した
カール5世 ハプスブルク家 1519年6月28日 1519年6月28日
皇帝
1556年8月3日 マクシミリアン1世の孫。1558年9月21日に死去
フェルディナント1世 ハプスブルク家 1531年1月5日 1558年3月14日
皇帝
1564年7月25日 マクシミリアン1世の孫、カール5世の弟。1531年から1556年まで、兄カール5世の治世中に選出されたドイツ王。アーヘン大聖堂で戴冠した最後の国王
マクシミリアン2世 ハプスブルク家 1562年11月22日 1564年7月25日
皇帝
1576年10月12日 フェルディナント1世の息子。
1562年から1564年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
ルドルフ2世 ハプスブルク家 1575年10月27日 1576年11月2日
皇帝
1612年1月20日 マクシミリアン2世の息子。
1575年から1576年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
マティアス ハプスブルク家 1612年6月13日 1612年6月13日
皇帝
1619年3月20日 マクシミリアン2世の息子
フェルディナント2世 ハプスブルク家 1619年8月28日 1619年8月28日
皇帝
1637年2月15日 フェルディナント1世の孫
フェルディナント3世 ハプスブルク家 1636年12月22日 1637年2月15日
皇帝
1657年4月2日 フェルディナント2世の息子。
1636年から1637年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
フェルディナント4世' ハプスブルク家 1653年5月31日 1654年7月9日 フェルディナント3世の息子。
父の治世中に選出されたドイツ王
レオポルト1世 ハプスブルク家 1658年7月18日 1658年7月18日
皇帝
1705年5月5日 フェルディナント3世の息子
ヨーゼフ1世 ハプスブルク家 1690年1月23日 1705年5月5日
皇帝
1711年4月17日 レオポルト1世の息子。1690年から1705年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
カール6世 ハプスブルク家 1711年10月27日 1711年10月27日
皇帝
1740年10月20日 レオポルト1世の息子

ヴィッテルスバッハ朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
カール7世 ヴィッテルスバッハ家 1742年1月14日 1742年1月14日
皇帝
1745年1月20日 フェルディナント2世の玄孫。ヨーゼフ1世の娘マリア・アマーリエの夫

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

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画像 名前 家族 国王選出 皇帝戴冠 在位終了日 備考
フランツ1世 ロレーヌ家 1745年9月13日 1745年9月13日
皇帝
1765年8月18日 フェルディナント3世の玄孫。カール6世の娘マリア・テレジアの夫
ヨーゼフ2世 ハプスブルク=ロートリンゲン家 1764年3月27日 1765年8月18日
皇帝
1790年2月20日 フランツ1世とマリア・テレジアの息子。1764年から1765年まで、父の治世中に選出されたドイツ王
レオポルト2世 ハプスブルク=ロートリンゲン家 1790年9月30日 1790年9月30日
皇帝
1792年3月1日 フランツ1世とマリア・テレジアの息子
フランツ2世 ハプスブルク=ロートリンゲン家 1792年7月7日 1792年7月7日
皇帝
1806年8月6日 レオポルト2世の息子。神聖ローマ皇帝を解体した。1804年から1835年まで、オーストリア皇帝。1815年から1835年まで、ドイツ連邦の議長。1835年に死去

ライン同盟(1806年 - 1813年)

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名前 肖像画 称号 家族 在位開始日 在位終了日
ナポレオン
フランス皇帝
イタリア王
ライン同盟保護者 ボナパルト家 1806年7月12日 1813年10月19日
カール・テオドール・フォン・ダールベルク
レーゲンスブルク英語版大司教
フランクフルト大公
ライン同盟首座大司教侯英語版 1806年7月25日 1813年10月26日
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
フランクフルト大公
ライン同盟首座大司教侯英語版 ボアルネ家 1813年10月26日 1813年12月

ドイツ連邦(1815年 - 1866年)

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名前 肖像画 称号 家族 在位開始日 在位終了日
フランツ1世
オーストリア皇帝
議長国オーストリアの元首[3] ハプスブルク=ロートリンゲン家 1815年6月20日 1835年3月2日
フェルディナント1世
オーストリア皇帝
議長国オーストリアの元首[3] ハプスブルク=ロートリンゲン家 1835年3月2日 1848年7月12日
ヨハン・フォン・エスターライヒ大公 革命期ドイツ帝国摂政ドイツ語版[4] ハプスブルク=ロートリンゲン家 1848年7月12日 1849年12月20日
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 ドイツ人の皇帝当選者 ホーエンツォレルン家 1849年3月28日にフランクフルト国民議会ドイツ人の皇帝に選出されたが、1849年4月28日に帝位を拒否[5]
エアフルト連邦元首[6] 1849年5月26日 1850年11月29日
フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア皇帝
議長国オーストリアの元首 ハプスブルク=ロートリンゲン家 1850年5月1日 1866年8月24日

北ドイツ連邦(1867年 - 1871年)

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名前 肖像画 称号 家族 在位開始日 在位終了日
ヴィルヘルム1世
プロイセン王
北ドイツ連邦の連邦主席 ホーエンツォレルン家 1867年7月1日 1871年1月1日[7]

ドイツ帝国(1871年 - 1918年)

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名前 肖像画 称号 家族 在位開始日 在位終了日
ヴィルヘルム1世
ドイツ皇帝
ドイツ皇帝 ホーエンツォレルン家 1871年1月1日[7] 1888年3月9日
フリードリヒ3世
ドイツ皇帝
ドイツ皇帝 ホーエンツォレルン家 1888年3月9日 1888年6月15日
ヴィルヘルム2世
ドイツ皇帝
ドイツ皇帝 ホーエンツォレルン家 1888年6月15日 1918年11月9日/1918年11月28日[注釈 2]

脚注

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  1. ^ 現ドイツ、スイス、ルクセンブルク、オランダ、ベルギー、リヒテンシュタイン、オーストリア、スロベニアの全ての領土、そしてフランス、イタリア、ポーランド、チェコの一部を含む。
  2. ^ 帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは11月9日にヴィルヘルム2世の退位を発表、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命したが、彼が正式に退位したのは11月28日のことだった。

出典

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  1. ^ Germany - Britannica Educational Publishing
  2. ^ a b c Medieval Europeans: studies in ethnic identity and national perspectives in medieval Europe By Alfred P. Smyth, Palgrave Macmillan (1998), p. 64
  3. ^ a b Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Vol. I: Reform und Restauration 1789 bis 1830. 2nd edition, Verlag W. Kohlhammer, Stuttgart [et.al.] 1967, p. 589.
  4. ^ Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Vol. I: Reform und Restauration 1789 bis 1830. 2nd edition, Verlag W. Kohlhammer, Stuttgart [et.al.] 1967, pp. 625–627, 808.
  5. ^ Manfred Botzenhart: Deutscher Parlamentarismus in der Revolutionszeit 1848–1850. Droste Verlag, Düsseldorf 1977, pp. 697-698.
  6. ^ Anlage II: Additional-Akte zu dem Entwurf der Verfassung des Deutschen Reichs. In: Thüringer Landtag Erfurt (ed.): 150 Jahre Erfurter Unionsparlament (1850–2000) (= Schriften zur Geschichte des Parlamentarismus in Thüringen. H. 15) Wartburg Verlag, Weimar 2000, ISBN 3-86160-515-5, S. 27–44, here pp. 185–187.
  7. ^ a b Ernst Rudolf Huber: Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789. Band III: Bismarck und das Reich. 3. Auflage, W. Kohlhammer, Stuttgart 1988, S. 750/751.

関連項目

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