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ナジーブ・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナジブ・カーン・ユスフザイ

ナジーブ・ハーンパシュトー語:نجيب خان, Najib Khan, 生年不詳 - 1770年10月30日)は、インドローヒルカンド地方アフガン系ローヒラー族の族長の一人で、 ムガル帝国の宮廷監督官・宰相でもある。ドゥッラーニー朝の君主アフマド・シャー・ドゥッラーニーの代官のような存在でもあった。ナジーブ・ウッダウラ(Najib ud-Daula)とも呼ばれる。

ナジーブ・ハーンはもともと無名の存在にすぎなかったが、部族内でも地位を上げたばかりか、アフマド・シャー・ドゥッラーニーに協力することでもその地位を上げ、帝国の軍総司令官、宰相に上りつめた人物である。

現在のウッタル・プラデーシュ州ビジュノール県に存在するナジーバーバードは、彼の名であるナジーブに因むもので、1740年代に建設された。

生涯

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ナジーブ・ハーンの台頭

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ナジーバーバード

ナジーブ・ハーンの幼少期や青年期に関してはあまりよくわかっていない。 彼はアフガニスタンのユスフザイ族の出身でした。

1739年、ナジーブ・ハーンはスワービーから、叔父ビシャーラト・ハーンの支配するビシャーラトナガルへと移住した。ビシャーラトナガルはラームプル近郊の都市である。彼はビジュノール地方を統治し、1740年代に自身の名を冠したナジーバーバードを建設した。

1740年までにローヒラー族の族長アリー・ムハンマド・ハーンローヒルカンド地方の大部分を支配下に入れたが、1749年にナジーブ・ハーンはその北部を与えられた[1]。その際、「ナジーブ・ウッダウラ」の称号も与えられ、これが彼の別名となった。

これにより、ナジーブ・ハーンはその北部の族長となって、ナジーバーバードを拠点を中心に、事実上ほかのローヒラー族から独立した立場をとった。

アフマド・シャー・ドゥッラーニーとの同盟

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1752年ムガル帝国の宰相サフダル・ジャングはナジーブ・ハーンの台頭を恐れ、マラーターにその討伐を依頼した。そのため、同年にマラーターの軍勢がローヒルカンドに侵入し、その全域が占領された。

マラーターが撤退したのち、ナジーブ・ハーンは強大なマラーターに対抗するため、アフガニスタンドゥッラーニー朝と同盟し、連携をとることを心掛けた。ドゥッラーニー朝は1747年に創始された新興のアフガン王朝であり、その創始者アフマド・シャー・ドゥッラーニーは稀代の軍事的天才でもあった。

ムガル帝国の実権掌握

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ローヒラー族の版図

さて、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世の治世、ナジーブ・ハーン率いるローヒラー族はデリーの東方および北方に勢力を広げ[2]、彼は帝国からサハーランプルの知事に任命されていた。

1756年、ムガル帝国の宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンはこの状況を改善しようと、ローヒラー族の支配していたラホールを奪還した[3]。このとき、ナジーブ・ハーンはアフマド・シャー・ドゥッラーニーと連絡を取り合い、同年12月にアフマド・シャーはデリーへ向けて進軍した[4]

1757年1月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはデリーを占拠し、2月には略奪と殺戮を行った[4]。帝国になすすべはなく、同様の行為はマトゥラーヴリンダーヴァンでも行われた[3]

一方、ナジーブ・ハーンはローヒラー族の兵を率いて、デヘラードゥーン一帯を侵略し、およそ10年にわたりこの地域はローヒラー族の支配下にあった。

4月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはデリーから略奪品とともに撤退し、ガーズィー・ウッディーン・ハーンは復職したが、監督官としてナジーブ・ハーンが置かれた[4]。こうして、ナジーブ・ハーンは帝国の実権を握ったのである[3]

マラーターとの争い

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アフガン軍がデリーを占拠したとの報がマラーター王国にもたらされると、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは弟ラグナート・ラーオをデリーに向けて派遣した[4]。ラグナート・ラーオの軍勢は行軍の過程で大軍となり、8月にはデリーに迫り、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンもこれに味方した。

8月11日、ナジーブ・ハーンの軍勢はラグナート・ラーオの軍勢と対決した(デリーの戦い)。数の少なかったローヒラー軍は敗北し、ナジーブ・ハーンはデリーから撤退した。この際、マルハール・ラーオ・ホールカルに身代金50万ルピーを払って身の安全を確保した[5]

1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、シク教徒の援助も得て、4月20日ラホールを奪い(ラホールの戦い)、アフマド・シャーの息子ティムール・ミールザーを追い払った[4]。王国軍にはシンディア家ホールカル家の軍勢も加わり、同月28日にはアトックを(アトックの戦い)、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した(ペシャーワルの戦い)。

そして、マラーター軍がパンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した[4]

マラーターへの勝利

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第三次パーニーパトの戦い

1759年10月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはラホールのマラーター勢力を駆逐し、再びデリーへと進軍した[4]

1760年1月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはダッタージー・ラーオ・シンディアデリー近郊で破り、そのままデリーへと入城した[4]。その後、彼は北インドにとどまり、ナジーブ・ハーンと合流したのみならず、アワド太守シュジャー・ウッダウラを自軍に取り込んだ[4][6]

ローヒラー族のナジーブ・ハーンはマラーターに辛酸を嘗めさせられ続けていたので、期たるべきマラーターとの戦いにおける意気込みはとても強かった。彼はこう言い残している[7]

「マラーター族はヒンドゥスターンの刺である。一つの努力により、この刺を永遠に我々の側から取り除こうではないか」

そして、1761年1月14日、アフマド・シャー・ドゥッラーニー、ナジーブ・ハーンら率いるアフガン軍は、パーニーパトの地でマラーター軍に壊滅的な打撃を与えた(第三次パーニーパトの戦い[8][7]。この戦いにおいて、ナジーブ・ハーンは40000の兵を提供していたばかりか、70門の大砲も連合軍に提供している。

帝国の実権再掌握とスーラジュ・マルとの戦い

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スーラジュ・マル

アフマド・シャー・ドゥッラーニーは撤退の際、新たな皇帝となっていたシャー・アーラム2世を追認し、マラーターに廃位された宰相ガーズィー・ウッディーンを宰相に任じている[9][10]

ナジーブ・ハーンはアフマド・シャーの代理人として再び宮廷の監督官となったが、すぐさま全権の掌握に取り掛かった。今度は宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンを追放してメッカに巡礼を命じさせ、自身が宰相となって帝国の実権を再掌握した[10]

さて、北インドからマラーター勢力が撤退した結果、ナジーブ・ハーンはハリヤーナー地方南部を支配するジャート族と戦わなければならなかった。ジャート族はバーラトプル王国を形成し、この当時は英雄として名高いスーラジュ・マルに率いられており、第三次パーニーパトの戦いののちにはアーグラを占領していた。

1763年12月25日、ナジーブ・ハーンはデリー近郊でスーラジュ・マルとの対峙の際、伏兵を使ってスーラジュ・マルを殺害した[11]。これによりバーラトプル軍は混乱に陥り、敗走した。

晩年と死

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ナジーバーバード

このように、ナジーブ・ハーンはムガル帝国の実権を握り、バーラトプル王国との戦いに勝利して北インドに権勢を張っていた。それにもかかわらず、それは意外なほど早く崩壊した。

1768年、ナジーブ・ハーンは健康状態の衰えにより、デリーの宮廷から追い出されてしまったのである[12]。第三次パーニーパトの戦いから10年足らずの出来事であった。

ナジーブ・ハーンはその後復権することもなく、二年後の1770年10月30日に死亡した[13]

脚注

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  1. ^ Najibabad
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p257
  3. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p258
  4. ^ a b c d e f g h i 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p218
  5. ^ Advanced Study in the History of Modern India 1707-1813
  6. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p33
  7. ^ a b チョプラ『インド史』、p154
  8. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p229
  9. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p219
  10. ^ a b What were the features of Battle of Panipat?
  11. ^ Bharat 3
  12. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p260
  13. ^ Rule of Shah Alam, 1759-1806 The Imperial Gazetteer of India, 1909, v. 2, p. 411.

参考文献

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  • 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年
  • ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年
  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年
  • P・N・チョプラ著、三浦愛明訳『インド史』法蔵館、1994年

関連項目

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