ノート:ウルバヌス8世 (ローマ教皇)
ウルバヌス8世とガリレオ裁判「出典 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262」の記述の検証
[編集]1.「ガリレオは個人的にはウルバヌスの友人であり、ローマの学院の後輩でもあった。」【検証】
出典である 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262 を見ましたが、「ローマの学院の後輩」という記述も「個人的にウルバヌスの友人」という記述もありません。 (以下、同書関連部分と思われる箇所の引用)
「ウルバヌス8世は新しい文化活動に熱心であった。彼はローマの学院で学んだが同学院ではイエズス会の手で質の高い教育がおこなわれていた。(次行はローマ学院についての説明・略)さらにこの学院は1611年にはじめてローマに来たガリレイを迎えている。しかしガリレイの事件が、この融和の限界を露呈させる。」 — (『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.262.左段3行目以下)
上記引用分中、まず「学院が..はじめてローマに来たガリレイを迎えている」は間違いで、ガリレオは1587年の初ローマ訪問の時にローマ学院を訪れており(マリアーノ・アルティガス/ウィリアム・R・シーア『ローマのガリレオ』大月書店、2005年。p.48 ※以下、『ローマのガリレオ』)、また前年(1610年)『星界の報告』を発表して名声を博したガリレオがローマ学院に賓客として歓迎されたのであってウルバヌス8世の後輩になったわけではないことは明白だと思います(ジョルジュ・ミノワ『ガリレオ-伝説を排した実像』倖田礼雅訳、白水社文庫クセジュ、2011年。p.50 ※以下、『ガリレオ』(2011)。
- 「個人的にウルバヌスの友人云々」
繰り返しますが「個人的に友人」云々という記述はどこにもありません。第二次裁判の前までウルバヌス8世がガリレオに対し好意的であったことは、私が読んだ伝記にもあちこちに記述がありますが(例えば、スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯』田中一朗訳、共立出版、1984年。第一巻、補章<伝記>p.23<バルベリーニ、マッフェオ>の項)、実際に「友人」といえる関係にあったのは、マッフェオ・バルベリーニの甥フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿です(ピサでガリレオの指導のもとで学んだこともあり、第二次裁判の時、ガリレオに対する(弾劾)声明への署名を拒否した。同前書、pp.22-23<バルベリーニ、フランチェスコ>の項) 友人関係がどこまでを指すのかというのは別にしてここでは、そのような記述が出典の中に一行もないことを指摘しておきたいと思います。
2,「ウルバヌスはガリレオに対する裁判とその判決に反対することができなかったのである」【検証】
これは明確に出典元にあります。『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)「ウルバヌス8世」の項。p.262)
ここで検証したいのは、近年のガリレオ伝記(1で引用した『ローマのガリレオ』(2005年)『ガリレオ』(2011年))では、第二次裁判(異端審問)に対するウルバヌス8世の態度は「判決に反対することができなかった」という消極的なものではなく「天文対話」に対して「激怒」し積極的に弾劾を承認した、という認識で共通していることです。
- マリアーノ・アルティガス/ウィリアム・R・シーアは、ローマおよびフィレンツェの古文書館での調査、ヴァチカンの検邪聖省(現在の信仰教理省)の記録保管所、その他の各地の図書館や宮殿関連文書など多大な調査(同書.「謝辞」)を元にして書いた『ローマのガリレオ』で、第二次裁判の前に、ガリレオの友人でウルバヌス8世とも交流のあったチアンボリという詩人がスペインの枢機卿たちを焚きつけてウルバヌス8世を非難させたことで、8世はノイローゼに陥るほど追い詰められており、最悪のタイミングでチアンボリの友人たるガリレオの「天文対話」が出版された、とまず背景を説明しています(同書。pp.214-216)。その上で著者たちは、「教皇の断固とした処置」という節で、「教皇はガリレオに対する「怒りを爆発」させ、謁見は大荒れだった。」と書いている。「教皇は、たとえ自分の名前が表紙に書かれており、彼に捧げられた本であっても出版禁止にしてきたと答え」謁見相手のフィレンツェのニッコリーニ大使に向かってトスカーナ大公(ガリレオから「天文対話」の献呈を受けていた)は「信仰に対する大いなる(史上最悪の)偏見を引き起こす者」を罰するのに手を貸すべき、と重ねて言った。ニッコリーニがガリレオに弁解の機会を与えず出版禁止にするべきではないと進言すると、特別調査委員会(異端審問を開くかどうかの会合)を認め「ガリレオはこれ以上のことは望めまい」と言った。それらの言葉は2,3度繰り返されたのでニッコリーニは単に怒りを爆発させての誇張表現と聞き流すわけにいかなかった(同書。pp.228-229)、と著者たちは主に「ガリレオ全集」(出典一覧。p.7)に依りながら記述しています。
ウルバヌス8世が激怒した理由について著者たちは、地動説が「キリスト教信仰に直接的な影響を与えること」はないが「脅威」であると見做したことはもちろんのこと、さらに教皇は、「ガリレオとチアンポリの「ペテン」と、『対話』の結論が彼の期待にまったくそぐわないものだった」ことにある(『同書』。p.230)-そこでは教皇をモデルにしたと目される"シンプリオチオの議論が'愚かしい'議論のようにされ、教皇自身がガリレオと討論したときに「コペルニクス説がまちがっていること」をガリレオに納得させたと教皇が信じた議論が省かれていた-(p.219)と推測している。さらに、ガリレオがローマに出頭したあと、ニッコリーニが教皇ウルバヌス8世に謁見した時には「この事件全体がチアンポラータ(*チアンポリ事件)なのだ」と言ったという(p238)。 ガリレオ第二次裁判に対するウルバヌス8世の反応はとびとびに記されていますが(例えば、ガリレオが健康上の理由(この時70才)で異端審問をしぶったことへの激怒(p.235)、ガリレオが遂に自らの"過ち"を「半分死んだような状態」で認めた時、ウルバヌス8世は「上機嫌」だったこと(p.253)など煩瑣に過ぎるのでいちいち引用しません)。
- ジョルジュ・ミノワは著書『ガリレオ -伝説を排した実像-』で、上記の著者たちとおそらく同じ出典(ニッコリーニによる報告書)を用いて謁見を描写している。
教皇は突然激しくお怒りになり、われらのガリレオも、禁じられていた領域で、こんにち考えられる最も危険な問題に口を出したと、単刀直入に仰せられました。「ガリレオは聖下の聖職者のお許しがないものは何一つ印刷させておりませんが」と私はお答えしました。[.....]聖下は憎々しげに「聖職者のガリレオとチャンポリに騙された」と言い返されました。 — 『ガリレオ』p.114
「「騙された」。確かにこれは、今まで尊敬してきたガリレオにたいする、ウルバヌス八世の怒りの言葉に違いない。」とミノワは付記しています。またミノワ前掲書と同様、『天文対話』で「コペルニクスの信奉者チンプリチオなる人物の口を通して、かの「有名なウルバヌス八世の主張」にきわめて近い自説を語らせ」「彼の名前はシンプルつまり「単純な」とか「おめでたい」といったけしからん意味を思い起こさせ」「自分がからかわれたと思うウルバヌス八世に、ガリレオを守るいわれは毛頭なかった」と書いている(p.115)。
また、すべての決着がついたあとニッコリーニが教皇に会ったとき「ガリレオを苦しめたことを後悔している」と教皇が言ったという記述を引いている。これも裏返せば自らの意思によって事が進められたことの証左となる。前掲書にない箇所としては、チャンポリ事件の最中に『天文対話』が印刷されたいきさつについて述べたあと、ウルバヌス8世が、ローマでの書物印刷許可官であるリッカルディ(別の翻訳書ではリカルディ)に説明を求めた内容が記されている(p.111)。(これがそもそもガリレオ異端疑惑の発端である)
①責任者に発行の許可の連絡もないまま、無許可でローマの印刷許可が利用されたことについて。②前文を本文と異なる活字で印刷し、前文が本文と無関係であるかのように見せたことについて。また対話者たちが一人の愚か者の口に最後の薬(*臨終の油)を入れたことについて。③地球の運動と太陽の不動性にかんして、しばしば仮定の形式を離れたことについて。などなど9箇条に渡って釈明を求めている。
特に②について、入れられた愚か者とはシンプリチオの事で、「教皇自身が侮辱を感じて激怒したとされる」という訳者註が付されている。
以上で私の検証を終了します。私が要検証のtempleを貼った箇所は、たとえ出典が付されていても今回は削除していいのではないか、と私は考えます。 --Kusamura N(会話) 2015年7月16日 (木) 14:10 (UTC)
- コメント 2.について。ウルバヌス8世が判決に反対できなかったという説は、「誤謬に近いレベル」の説なのでしょうか?それとも「主流ではない説」なのでしょうか?もし「主流ではない説」なら、「反対できなかったという説もあるが、激怒し積極的に弾劾したと考えられている」などの(文案は適当です)両論併記が良いのではと思います。もしくは地文ではなく註釈に「反対できなかったという説もある」と移すのもありかもしれません。また、かつては消極的説が支持されていたのなら、「かつては判決に反対できなかったとされていたが~~」としても良いのではと思います。ウィキペディアは二次資料ではなく、三次資料ですからこういった学説の変遷のようなものも記載する価値がある、または読者に対しての知識提供ではないかと思います。消極的説があまりにも突拍子も無い、そうそうお目にかかれない、いわば珍説の類ならば、そんなことを考慮する必要は無いでしょうが。--にょきにょき(会話) 2015年7月19日 (日) 15:50 (UTC)
- 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)には原典記載(出典)がなく「判決に反対できなかった」として関与に消極的だったとする根拠が示されていないので「説」と言うには弱い気がします(つまり、論文レベルではなく一般向けの読み物の記載とあまり違わないという感じを持ちました)。この本はガリレオの項目を見てもカトリック護教的なニュアンスが強いのではないかと個人的には思います。一方私の読んだ二冊は、それぞれ明確で信憑性の高い出典(ガリレオ全集およびヴァチカンの新資料)が示されていて「信憑性」が高く「説」として成り立っていると私は思います。ただ、ずいぶん前に読んだS・ドレイクの『ガリレオの生涯』(1984年)はイエズス会(第二次裁判)とドミニコ会(第一次裁判)との確執のようなものを描いて消極的な印象を残す感じで書かれてたような記憶です(手元には第一巻のコピーしかないので、時間ができたら自分でも図書館から借りて読んでみようと思ってますが、ドレイクのは丁寧に調べて書かれた当時としては信頼性の高い伝記だったという印象です)。いずれにせよ現状では「反対できなかった」という記述(出典に根拠となる原典記載がない)しかないので、とりあえず削除した方がいいのではないか、というのが私の現状での考えです。最近の綿密な研究に基づく伝記から「積極的な関与」の記事を追加するなら、(何年頃の○○では、教皇は消極的であったという見方も示されていたが最近の研究では、云々)という注釈を記事執筆者がつける、というのもいいと思います。wikiが三次資料だということとは別に、出典の信頼性の問題があるんじゃないでしょうか。片や出典の記載のない(しかも私のような素人でもわかる誤記がある)本と私が今回たまたま読んだ二冊では出典の信頼性のバランスが違いすぎるというのが私の削除提案の趣旨です。でなければ「検証」とはなんなんだって事になると私は思います。私自身、この出典は怪しいなと思いながら執筆し、後で自己検証してやはり間違ってたことを発見して削除した事が一度ならずあります。いまのところ私は記事を加筆するつもりがありませんので(私はこういうノートを書いた以上、中立的な第3者が、私の上記に書いた事が独自解釈でもねつ造でもないことを検証して執筆されるのがいいと思ってます)とりあえずは削除して(両論併記ではなく片論記載になっているので)ゼロベースで出直したらどうか、という提案だとお受け取り頂ければ幸いです。--Kusamura N(会話) 2015年7月19日 (日) 19:51 (UTC)
- 図書館から借りた「S・ドレイク『ガリレオの生涯 ③』田中一朗訳、共立出版、1985年」が今手元にありますが、ここでもやはりウルバヌス8世が「反対しきれなかったと」いった消極性は伺えずむしろ積極的に二度目の異端審問を主導したことが示されています。(*印は引用者)
ニッコリーニ大使(*トスカナ大使)はリカルディ(*印刷許可の責任をもつローマ教皇庁神学顧問官)と話し合ったが、リカルディは、命令を実行しているだけで、ガリレオがこれらに厳格に服するならば、すべてがうまくいくだろう、と彼に告げた。(略)しかしながら、この当日(*ニッコリーニ大使と教皇ウルバヌス8世の対面日)事態は一変した。ニッコリーニは、教皇自身とともに、この問題(*『天文対話』)を取り上げたが、ガリレオは最も危険な主題にまで介入したという激怒した発言によって中断された。教皇は自分がリカルディとチアンポリにだまされていた、と述べた。彼(*ウルバヌス8世)は、ガリレオに情報を与え抗弁するのを許してやってほしいというニッコリーニの要求を拒絶し、検邪聖省が事前に情報を漏らしたためしはないし、ガリレオはどこに障害があるかを充分に知っている、と述べ、さらに大公(*親ガリレオ的なトスカナ大公)は面目を保つことができなくなるから、かかわりあうべきではない、と付け加えた。 — 同書。p.430
次の節は"そこだけ切り抜けば"ウルバヌス8世が消極的だという「印象」を読み手に与えかねません。
教皇はニッコリーニと大使に秘密を守るよう強制し、「自分は彼[ガリレオ]の(*これから)体験することを見抜いているから」思いやりをもって遇したのであり、彼としては検邪聖省に(*直ちに)引き渡すべきところを、そうしなかったのだ、と付け加えた。彼は特別委員会を設置しただけであり、したがって、(*まるで)ガリレオが彼を遇したよりも(*ガリレオの裏切り行為)よくガリレオを遇したことになったのである。 — 同上
しかしそれ(消極性を印象づける操作)は続く文章を意図的にカットしない限り成り立ちません。
ウルバヌス八世の怒りに満ちた介入は、予想されたものとはまったく逆で、彼をガリレオに決定的に反対させるような何か特別な事情が彼の注意をひいていたことを強く示唆している。 — 同前
として、1616年にガリレオが個人的に命じられたという「コペルニクス主義をいかなる仕方においても扱ってはならない」というメモの存在を教皇が知っていたためだとドレイクは推測し、さもないと「教皇の突然の容赦のない怒り」は説明がつかない、としている。ここではっきりするのは、1985年には、ウルバヌス8世とスペインとのいざこざ(チアンポリの陰での動き)はまだ資料としてでていなかった、ということでしょうか(『天文対話』での教皇の描き方(シンプリチオという愚か者という設定)に不快感を示すであろうことは、429頁で触れられています)。従って私は、「反対できなかった」なる記述は、研究に基づいた'史実'と異なる護教的な意味しか読み取れず、説とも言えない虚偽と見做します。わずか2頁ちょっと(ガリレオに触れているのは数行-しかも明白な誤りがたった数行のうちにも見受けられる)の出典を、科学史の専門家3名(カトリックの神父も含まれています。ジョルジュ・ミノワは経歴不明)による詳細な原典表記を含む数百頁によって検証した結果、これを削除いたします。反論の期間はすでに十分置きました。