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ノート:ジェンダーフリー/archive 2

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テンプレートについて[編集]

中立的な観点[編集]

中立的な観点からみて疑問が多い記述なので、+NPOVしました。 容易に修正できるところは、以下の通り、いくつか修正しました。

■(冒頭の定義)…考え方であり、事実上日本【でしか】使われない用語となっている。

 1 定義と、当該用語に対する否定的位置づけを一文とする記述は中立的ではない。

 2 例:日本語は、もっぱら日本【でしか】使われない/日本語は、もっぱら日本【でのみ】使われている …前者は中立的記述ではない。

 3 和製英語は、当然に日本でしか用いられないことを含意するから、定義に続けて和製英語であると紹介すれば、中立性を保ったまま用語の使用状況を示せる。なぜ現在のようなことさらに恣意的な記載になっているのか、相当に疑問。

 4 そもそも、ジェンダーフリー(gender-free)という英語があり、意味が違うと説明されている。その箇所の説明が正当なら、(ジェンダーフリーが学術用語であり、一般的な用語でない以上、英語圏で知られた意味に従わなければ、間違った用法であるということにはならず、規定の違いは研究者の裁量の違いの問題であることになるため)和製英語とは言えないことになる。

 (以上の点は、あくまで中立的な観点から見て不備がある(1~3)、和製英語というみなしは論理的には成り立たない(4)という指摘です。ジェンダーフリーという用語(法)の妥当性を問題にしているのではありません。)

■社会的文化的性差である【(とされる)】

 (とされる)と()つきの受動態で補足すると、普通の読者は「とされ(た)」上に()内のように疑問を呈することが妥当だという考えに誘導される。

■欧米における「ジェンダー・バイアス・フリー」に相当する。【この表現の方が】性に関する社会的・文化的偏見を除去する姿勢が【より明白である】。

 Wikipediaは特定の立場からする論評の場ではない。

■・(冒頭付近)「社会的文化的性差である(とされる)ジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという考え方、運動である」と【推進側は捉える】  ・ジェンダーフリーを批判する一派にカルト宗教が係わっていることで【問題はかえって複雑化】しており、批判側にカルトが係わっていることを【喧伝する】ことで、ジェンダーフリーという【和製思想】を守ろうという言動が【ジェンダフリー保守派】に多く観察される。

 定義に続く立場の紹介の段階で、直ちに「推進側は捉える」という紹介の仕方をすることは、中立性に反する(見解の紹介自体に、反対の立場の存在を連想させるような形式を含めることは見解の紹介の仕方として不適当)。また、【推進側】は、この項目を調べる人、つまり、この項目についてあまりなじみのない人にとって、思想を普及するごく狭い主体を暗示する表現である(自分になじみのないものが、多くの人によって主張されていると連想する人はまずいない)。そこで、無難な【推進側】→賛同派に変更した。対立側が「批判派」となっていることからも妥当な変更である。「推進側」と規定するなら、批判派は【阻止派】とでもすべきだ。【推進派←→阻止派】という対置を踏まえ、改めて修正前の【推進派←→批判派】を見ると、偏った規定であることが明白である。

 【問題はかえって複雑化】【喧伝する(…いいニュアンスでは殆ど使われない)】は、ジェンダーフリー批判派に誘導する書き方になっている。【和製思想】という語には、前後で用いられている【和製英語】などと関連して、思想内容を理由無く矮小化する効果がある。  主語を明示して、【ジェンダーフリー批判派は、ジェンダーフリーを批判する一派にカルト宗教が係わっていることで、問題はかえって複雑化していると考えている。】【ジェンダーフリー批判側にカルトが係わっていることを賛同側に批判されることは、ジェンダーフリー(という和製思想)が守られることに繋がると考えている】と、暗示的でない書き方に直せば、当該記述の意味が次の通りであることがわかる。すなわち、ジェンダーフリー批判派は、(ジェンダーフリーを批判しているのだから、ジェンダーフリー批判派に含められて当然であるはずの)カルトを、批判派から定義レベルで外したい(もっとはっきり言えば、本項目の読者の理解から外したい)。そこで、ジェンダーフリー賛同派が批判派にカルトを含めることを【喧伝】していることにし、外すことが正しいと読者に暗示し誘導しようとしている。

■外部リンクについて、批判的なものを含めるのであれば、読者がそのタイトルだけで印象付けされてしまわないよう、冒頭に「批判的なものを含む」などの断り書きを入れたり、明示的に賛同派・批判派に分けて記述するなどの工夫をすべきです。

あまりにも暗示的な記述が多すぎます。Loxfongmard 2006年8月1日 (火) 13:25 (UTC)

特定の立場の正当性を読者に暗示する目的で付された強調を解除しました。百科事典的な観点からは、強調の使用は、読者のタームの記憶を助けるなどの、中立的な目的に限定されるのが適当です。特定の理解の正当性や重要性を強調するために用いるのは中立的な観点に反します。Loxfongmard 2006年8月1日 (火) 15:46 (UTC)


ジェンダーは「性差」ではなく「性」です。「ジェンダー・イクォリティ」は「差の平等」ではなく「男女平等」です。さらに詳しく書くと「ジェンダー・イクォリティ」は「生得的性(男女)の平等」です。誤用しないように気をつけて下さい。英文上のgenderは普通、生得的男女性を指します。お手元の英英辞典をご参照下さい。-IP:59.171.23.76 2006年8月4日 (金) 16:09 (署名付加:Loxfongmard 2006年8月25日 (金) 14:10 (UTC))


★利用者 IP:59.171.23.76IP:61.214.214.191 の修正について;
■>米国のフェミニストには、【意味の通じない用語】
 「意味の通じない」という言い方には、強い否定的なニュアンスを暗示する効果があるので、百科事典の解説に用いるのは不適当です。
■>以下のリンクには、ジェンダーフリーに【肯定的な】立場のものが含まれている。
 わざわざ【批判的】→【肯定的】と直された上、肯定的・網羅的な解説ページ([1]ジェンダーフリーとは(成城トランスカレッジ.com))を最下段に移動されましたね。あなたは、左のページを読者に見られたくない・強く否定してかかる読み方をさせたいと思っているようですが、そのような希望を、本文に暗示的記述を含めることによって実現しようとするのはやめてください。そのような記述を行うことは、肯定・否定いずれの立場に立つかに関わらず、まっとうな判断力を備えた人から見れば、ただ見苦しいだけです。
 ある項目の記事の外部リンク先に、ある項目の立場に肯定的なものが含まれるのは、ごく当たり前のことです。当たり前であるにも関わらず、わざわざ「肯定的な立場のものが含まれている」と断った上、否定的な立場のものを上の方にもってきますと、ある項目で紹介された立場に対して【否定的であることが当然】であると読者に暗示することになります(実質的な理由と無関係なく、記述の配置によって読者を特定の立場に誘導しようとすることは不適切です→中立的な観点)。
 暗示的手法を、Wikipediaで多用しようとしても、そういう手法が、指摘され批判されるのは時間の問題です。いざ批判されてしまえば、そのような手法を用いた立場への信頼性を大きく毀損することになるだけです。横行すれば、Wikipediaへの信用も損なわれます。やめてください。Loxfongmard 2006年8月5日 (土) 02:41 (UTC)


根拠を示すことなく「主に」、であるとか「多い」、「~と言われる」といった曖昧かつ主観的な表現を止めましょう。「~だ。~である。」と書ける内容にして下さい。ウィキペディアの「言葉を濁さない」のガイドラインをお読み下さい。IP:59.171.23.76(コメント位置補正・署名付加 Loxfongmard 2006年8月6日 (日) 07:45 (UTC)


★投稿者 IP:59.171.23.76 氏へ
■私によるあなたへの批判は、2006年8月5日 (土) 02:41 (UTC) 「意味の通じない」という言い方には、強い否定的なニュアンスを暗示する効果があるので、百科事典の解説に用いるのは不適当です。」です。これは、根拠を示していない文章ではありませんし、曖昧だったり、主観的な見方に基づいた表現でもありません。あなたが現に行った記述に対する(正しい、ガイドラインに基づいた)批判です。自身への批判を完全に無視して、どこに関係があるのか(特に第三者に)一見してよくわからない仕方でガイドラインを持ち出し、一般論を述べてごまかそうとするのはやめてください。ガイドラインは自己正当化のための道具ではありません。
■また、ウィキペディアの「言葉を濁さない」のガイドラインで批判されているような表現を行ったのは、あなたです。
>2006年8月4日 (金) 16:02の版 (編集) 【59.171.23.76】 (ノート) (中略)
>【主に】日本において「社会的文化的性からの自由」を目指す考え方である。米国のフェミニストには、【意味の通じない用語】である。」(【】は引用者)
(版間での差分:[2]
あなたは、版間での差分:[3]の修正を行ったときに、私の記述を直したと勘違いしたようですが、私はあなたの記述のひどい偏りを、簡単に修正できる範囲でましにしただけです。もともと偏った記述をしたのは、あなたです。
ウィキペディアの「言葉を濁さない」のガイドラインには、
>以下の一文は、明らかに偏った文章です。
>モントリオールは、世界で最も格好いい都市である。
>言葉を濁すことによって、中立的な観点に立っているという思い違いを起こさせることがあります。
>モントリオールは、世界で最も格好いい都市であるとも言われている。
と書かれていますが、上の説明にいう「明らかに偏った」「言葉を濁」した文章を書いたのは、あなたです。「曖昧かつ主観的な表現を止めましょう。」という批判は、ご自身へ向けてください。Loxfongmard 2006年8月6日 (日) 07:45 (UTC)
■2006年8月5日 (土) 17:12 61.214.214.191 から、2006年8月6日 (日) 01:58 59.171.23.76 にかけて、2006年8月1日 (火) 13:25 (UTC) ・2006年8月5日 (土) 02:41 (UTC) で、すでに指摘した、不当な手法による記述がまた行われたようですので、簡単に修正できる範囲で修正しました。
■本文の実質的な内容を特定の立場に偏らせることの不当性、百科事典として正当・常識的な記述とは何か、等の問題に関して、まともな了解を期待するには程遠い状況ですので、そうした点に関しては特に指摘しませんが、特定の立場に読者を誘導するために暗示的手法を用いる、外部リンク先を特定の立場に都合のよい配列にする、等の手法が間違っていることを認め、やめるべきだという了解くらいは、せめて持ってもよさそうなものではないでしょうか。私が指摘した問題は、かなり一般的なことです。あなた方の書き方は、むしろあなた方がなさっている記述内容に対する一般的信用を、大きく落とすことにしかならないですよ。Loxfongmard 2006年8月6日 (日) 08:18 (UTC)


■「関連項目」以下
>*田嶋陽子:ジェンダーフリーに肯定的な発言が目立つ上に、ジェンダーフリーの為なら言論自由の弾圧を肯定する旨の発言をしてる。
>参照TVタックル<ジェンダーフリー特集>その2」の193と194
(版間での差分:[4]
という記述のうち、関連項目の指示(田嶋陽子)以外を削除したことを、明示しておきます。削除した理由は、1 上の引用部は、百科事典に対する一般的な信頼を保つために要求される体裁・形式の一貫性をわざわざ無視している(関連項目の指示を行うはずのところに、なぜか外部リンクを含めている)。そのため、記事の中立性が損なわれている。 2 リンク先の193・194以下を直接確認すれば明らかだが、「言論自由の弾圧」を肯定する旨の発言はされていない。同195・196まで見れば文面上明白である(米田 これはもうファシズムじゃないですか。 田嶋 そんな事無いよ、凄くいいじゃない。)。「言論自由の弾圧を肯定する旨の発言をしてる」と引用した者は、<「米田」側に立った評価>と<田嶋氏の発言>を区別できていない。よって、引用が意味をなしていない。わざわざ説明を行う必要があるほどのこととは思えませんが、念のため補足しておきます。Loxfongmard 2006年8月6日 (日) 09:54 (UTC)


中立的な観点の「中立性の方針は、執筆者が自分の立場だけでなく、自分と反対の立場についてもきちんと説明するように求めています。」という説明はとても重要だと考えていますが、その意味において、肯定側の外部リンクが不足しているのに加え、ジェンダーフリーの定義が、やや一面的だと考えています。学者によって、また出典によって定義が違うからです。各立場からの充実を望みます。(私も力不足なのですが)--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 09:22 (UTC)

(利用者の方へ) IP:59.171.19.210ディズニースピリット氏については、#Wikipedia:個人攻撃はしない (終了 ~2006年8月25日)をご覧ください。Loxfongmard 2006年8月24日 (木) 18:15 (UTC)



定義部に特定の立場からの判断を付け加えることについて[編集]

(利用者の方へ) 以下の議論は、以前は 項目「関連文献・外部リンクの分類について (2)外部リンクの区分について / ジェンダーフリーの定義・『誤読』による『誤用』問題」に配置されていました。もともとは、項目「関連文献・外部リンクの分類について(1)」から派生した展開だったからです。
しかし、現状では、定義部に特定の立場からの判断を付け加えることが中立的な観点に反することについて説明した文章として、項目「中立的な観点」の下に置く方が有意義ですので、現在の位置に配置しなおしました。
※以下の展開中に登場する IP:59.171.19.210ディズニースピリット氏については、#Wikipedia:個人攻撃はしない (終了 ~2006年8月25日)をご覧ください。Loxfongmard 2006年8月24日 (木) 18:53 (UTC)

私も参考文献は立場で分けたほうが親切だと思います。ジェンダフリーは真理ではなく「運動」ですので、運動側と反作用的立場は分けたほうが理解しやすいと思います。しかし、双方の意見をまんべんなく紹介する本もあるわけで、肯定対否定ではなく、内容により三分割、四分割もありかと思います。分けることでどちらかの立場の参考文献が「多過ぎ・少なすぎ」ということが分かって良いです。別件ですが、山口智美氏は確かにジェンダフリー推進側ですが、日本での「ジェンダーフリー」という用語の使われ方は「誤訳」だと明確に指摘しています。この件に関しては定義部分に含めることが適当であると、私は判断します。下に落とすのは適当ではないと思います。「バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか」においても全体的に「日本での使われ方は誤用」という線でまとまっていたように思います(宮台氏・山口氏・その他)。上野氏の意見は本文のとおりです(用語に否定的)。--ディズニースピリット 2006年8月19日 (土) 13:09 (UTC)


現在の肯定・否定の分類は、本文の記述に即した形で行いました。本文が大幅に改善されれば、数種の分類が必要になることは当然あると思います。しかし、現状では、肯定的立場を含めて紹介する本は、否定的立場から見て、肯定的立場に含められるでしょう。否定的立場の外部リンクを見れば顕著なように、むしろ真意としては、個人主義を否定しているような立場が「否定的立場」だと言えますから、さしあたり、そういう「否定的立場」でない(満遍なく立場を紹介するような)立場は、事実上「肯定的立場」に属するということになってしまうからです。
現在の本文の記述のレベルは、ジェンダーフリー「推進」派と問題意識を共有する(「肯定」する)中で方法論が分かれ、いくつかの微妙な立場に分かれる、というような段階には全く至っていないと思います。現に、山口氏のリンクを、否定的立場を批判しているという私の指摘を見て、肯定的立場に含める編集をした人がいます。
ところで、山口智美氏は、[5] を読む限り、(現在の本文の分類における)肯定的立場と問題意識を共有しているとは言えても、ジェンダーフリー推進(肯定)派とは言いがたいと思いますが(後半参照。単に誤訳だから問題だと指摘しているわけではないようです)、どうでしょうか。
また、「この件に関しては定義部分に含めることが適当である」としていますが、それには賛成できません。言葉の意味づけを内容としていますから、いかにも定義の問題に感じられますが、実際には日本語として普及しているところの「ジェンダーフリー」の意味とは関係のない、概念成立の経緯に関する話題だからです。概念成立の経緯を定義に含めることは、とくべつな理由なしに採る意義のある方法ではありませんし、この記事の場合、すでに指摘したような誘導につながる面が強いし、現にそうなっています。それに、「誤訳」と「誤用」は違います。それを混同する論理ですと、和製英語の使用や、英語圏で知られていると言える用法に反する英語由来の用語の使用は、すべて「誤用」ということになってしまいますが、そのような意味で誤用という言葉を使うことは、到底一般的とは言いがたいのではないでしょうか。「誤用」で一致していたのであれば、そのような批判がなされているという形で、適切な位置に記述すれば足りると思います。「誤訳」ならば、定義の部分で触れるべきだと言うことにならないことははっきりすると思います。用法とは関係のない話だからです。Loxfongmard 2006年8月19日 (土) 13:56 (UTC)


「ジェンダーフリー」という用語は普及しているとは考えておりません。政府も使っておりませんし、東京都に至っては使用しないよう通達を出しているほどです。また、普通に道を歩いている人に正確な意味を説明せよと聞いても答えられないでしょう。そもそも専門家の間ですら議論があるのはご存知のとおりです。恐らく「魅惑のチキルーム」よりも知名度がないのではないでしょうか。もちろん私はこの分野に興味があるから知っているのですが。。しかし、説明せよと言われたら、「どの学者の定義で説明すればよいのですか?」と聞かなければなりません。その意味において、また国際的に通用しない用語であることから、学術用語だとも言えないと考えます。「学術用語」の定義を見れば明らかだと思うのですが。。。--ディズニースピリット 2006年8月19日 (土) 14:40 (UTC) (コメント位置補正:Loxfongmard 2006年8月19日 (土) 16:19 (UTC))


ディズニースピリットさんが、2006年8月19日 (土) 13:09 (UTC) で問題にしていた論点は「ジェンダーフリーが誤訳・誤用であるか」です。「ジェンダーフリーという用語の普及度」「多義性ゆえの説明の困難さが認められるか」ではなかったはずです。一方的に論点をすりかえて 2006年8月19日 (土) 13:56 (UTC) への反論を装うのはやめてください。
以下は、2006年8月19日 (土) 14:40 (UTC) へのコメントです。
1 「普通に道を歩いている人」が「正確な意味を説明」できるかどうかで普及の度合いを論ずるなら、大抵の概念は普及していないという結論になりそうです。例えば、国家、政府はどう考えても普及している概念ですが、それらの正確な意味を説明できる人が多くないとしたら、その概念は普及していないことになるのでしょうか? そんなわけはないですよね。
2 また、「専門家の間ですら議論がある」ならば、普及していない、学術用語(広辞苑には「学術研究上の専門用語。テクニカル-ターム。術語。」とあります)でない、という考えも不可解です。例えば、良く知られている上に学術用語であることも明らかな民主主義の意義について「専門家の間ですら議論があ」ります。議論がある民主主義は、知られていなかったり、学術用語でなかったりすることになるのでしょうか? また、日本で生み出された学術的理論があり、その中で使われる用語があったとして、それが国際的に知られていなければ、学術用語でないとは言えないでしょう。
  そもそも、ディズニースピリットさん自身「しかし、説明せよと言われたら、「どの学者の定義で説明すればよいのですか?」と聞かなければなりません。」としています。「学者」とは、学術研究に従事する者を意味します。そうだとすれば、ジェンダーフリーは当然学術用語であることになります。学者の肩書きを持つ者が、学術研究の名に値しない議論しかしていないという評価をすることや、ジェンダーフリーの学術的意義が低いと論ずることは当然可能ですが、学者が論じてしまっているならば、それを批判の対象として引いて論ずる(まともな)学者の俎上にのってしまう以上、ジェンダーフリーは学術用語であるとディズニースピリットさん自らが認めてしまっていることになります。
3 それから、自治体が使用しないようわざわざ通達を出していることは、むしろある程度普及していることを示す事実のようにも思えるのですが。少なくとも、そのことから普及していないという結論を論理的に導くことは無理です。政府が使っているかどうかを基準にするのも不可解です。政府が使っていなくても、普及しているという可能性は明らかにありうるからです。ディズニースピリットさんの議論は、結論ありきで根拠をこじつけている感が否めないです。Loxfongmard 2006年8月19日 (土) 16:19 (UTC)


山口氏は『誤読』による『誤用』と表現しておりました。『誤訳』ではありませんでした。お詫びして訂正いたします。山口氏は「ジェンダー」を「社会的文化的性差」と訳すことを『誤訳』だとおっしゃっています。それと混同いたしました。申し訳ありません。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 01:55 (UTC)
【1について】 広辞苑によると、『普及』とは「広く一般に行きわたること」とあります。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 01:55 (UTC)
【2について】 確かに広辞苑には「学術研究用の専門用語」とあります。しかしながら、「学者が論じたら学術用語」ではないと思います。wikiの項目に「学術用語」の定義がありますので、一度、ご確認いただけないでしょうか?ちなみにフェミニストの上野氏は「学術用語ではない」という見解です。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 01:55 (UTC)
【3について】 繰り返しになりますが、広辞苑によると、『普及』とは「広く一般に行きわたること」とあります。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 01:55 (UTC)
「ジェンダーフリーが学術用語とは言えない」という一例を挙げますが、「バックラッシュ!」という著作の中でフェミニストの上野千鶴子氏は「ジェンダーフリーは和製英語だが、ジェンダーは学術用語である」との主旨の発言をしています(379p)。文章の内容から上野氏が「ジェンダーフリー」を学術用語だと認めていないことは明らかです。私も同意見です。定義が定まっていない用語を、あたかも定まっているかのようにTOPで定義してみせるのは、間違った情報を流布することになると考えます。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 00:33 (UTC)
(コメント位置補正・【~について】付加:Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 05:32 (UTC)


ディズニースピリットさん、相手の文章をオリジナルの形で読めないように一方的に分断して自分のコメントを挿入するような、相手の文章の趣旨を第三者から形式的にわかりにくくすることで「反論」するような編集はおやめください。版間での差分[6] のような形にすることで、前後関係が非常に分かりづらくなっています。相手の文章を細切れにして分かりにくくしたいのでしたら、自分が行う引用の中でそのようにし、第三者が自分のコメントのみを読むように祈る程度にとどめてください。
>山口氏は『誤読』による『誤用』と表現しておりました。『誤訳』ではありませんでした。…
訂正されたことは良いのですが、それだけでは、ディズニースピリットさんが結局何を指摘する意図だったのかはっきりしません。『誤読』による『誤用』が、日本におけるジェンダーフリー概念の使用の発端になっているとして、その後、その『誤用』が、日本国内で踏襲された場合、踏襲した人の落ち度を問題にすることは当然できるとしても、その踏襲が無視できない程度に広い範囲でなされ、一定の認知を得てしまった場合には、単純に誤用とできない側面が出来てしまうはずです。
例えば、「行う」が日本語の規則上正しくても、「行なう」というつづりがある程度定着していれば、後に「行なう」も正用として認められることがありうるようにです。
概念はその概念を使用する論者が示す理由によって規定されるのであり、時系列的に前の時点において確立した用例に従うかどうかによって規定されるという前提には、学術的な根拠はないでしょう。前に確立した用例に従うかどうかは、概念の使用(正用・誤用)にとって、あくまで一つの考慮対象です。
例えば、ジェンダーフリーは「完全な和製英語である/和製英語であると認める」と論じてしまえば、最初に誤読していたかどうかに関係なく和製英語的意味が正用になりえます(このように論ずるべきだと示唆しているわけではありません。あくまで『誤読』ゆえに『誤用』という議論が論理的に成立しないことを示そうとしているだけです)。私の議論は、理屈だけ聞けば大抵の人があっさり同意する種類の話だと思うんですが…。
※上の文中の「ジェンダーフリー」が仮に何らかの文脈で正用となったなら、最初の『誤読』による『誤用』が生じなかったことになる、としているわけではありません。念のため…。
>【1について】・【3について】  広辞苑によると、『普及』とは「広く一般に行きわたること」とあります。
私は、1 あなたが 2006年8月19日 (土) 14:40 (UTC) で示した、<「普通に道を歩いている人」が「正確な意味を説明」できるかどうかを、普及度を測る基準にする考え>によれば、「広く一般に行きわた」っている=『普及』しているはずの概念の多くが普及していないことになりおかしい、それは<普及していない>と結論づけるためにこじつけられた理由付けに過ぎない、 3 <自治体が使用しないようわざわざ通達を出している>ことを、<普及していない>根拠としているが、それは論理的におかしいし、政府も使うかどうかで普及度を測るのもおかしい、 …と批判したのです。
あなたは、普及を、1のように、広辞苑の定義よりもずっと狭い意味に使っていたし、3は常識的に考えて普及と無関係な議論であるか、せいぜい普及を推測させる事情(自治体の例)ですから、あとで広辞苑の定義をただ述べても反論になりません。不可解なだけです。
>【2について】 確かに広辞苑には「学術研究用の専門用語」とあります。しかしながら、「学者が論じたら学術用語」ではないと思います。wikiの項目に「学術用語」の定義がありますので、一度、ご確認いただけないでしょうか?ちなみにフェミニストの上野氏は「学術用語ではない」という見解です。
その部分は、ディズニースピリットさんの<しかし、説明せよと言われたら、「どの学者の定義で説明すればよいのですか?」と聞かなければなりません。>に基づいて書いたのです。ご自身が関わった文脈なのに、それをご都合主義的に切り離して反論するのはやめてください。
たとえば、あなたが「どの運動家の定義で説明すればよいのですか?」と書いていれば、私はその指摘をする必要はありませんでした。あなたが今回の文脈の中で「学者」について相当に偏ったありかたを含める可能性を前提していたからといって、私がそれを前提しなければならない理由はありません。「「どの学者の定義で説明すればよいのですか?」と聞かなければなりません」とされた場合に、その学者の意味を常識的に(=学術性を軽視していない人々の集団として)理解した上で応じるのは当然でしょう。
そもそも、私が2で専ら指摘しようとしたことは、あなたが 2006年8月19日 (土) 14:40 (UTC) で展開した「専門家の間ですら議論がある」なら普及していない、学術用語でない/国際的に通用していないなら、学術用語ではありえない」という議論に根拠がないことです。
「しかしながら~」以下については、学術用語の定義に続く「一般の言葉と比較して、定義のはっきりしていることが求められる。議論を進めるにあたって事柄の意味自体にずれがあっては結論が導けないからである。」という観点に立ったとき、上野氏の「学術用語ではない」という見解が強い説得力を持つ可能性は否定しません。しかし、仮に説得力があったとしても、それを本文の執筆方針とする理由はありません。
むしろ、ジェンダーフリーに対して肯定的立場に立つ人々が、積極的にその学術性を否定するかによって判断すべきでしょう。そのように判断しないなら、特定の立場からジェンダーフリーにまつわる全体を説明することになるので、中立的な観点に反します。「学術用語ではない」という見方が説得的ならば、それは本文中に示される根拠によっておのずから示されるのであり、結論から入って根拠づけをすり込むような仕方で執筆するのは、Wikipediaの方針に反します。
>「ジェンダーフリーが学術用語とは言えない」という一例を挙げますが、「バックラッシュ!」という著作の中でフェミニストの上野千鶴子氏は「ジェンダーフリーは和製英語だが、ジェンダーは学術用語である」との主旨の発言をしています(379p)。文章の内容から上野氏が「ジェンダーフリー」を学術用語だと認めていないことは明らかです。私も同意見です。定義が定まっていない用語を、あたかも定まっているかのようにTOPで定義してみせるのは、間違った情報を流布することになると考えます。
和製英語(日本語的発想で組み立てられた英語由来の日本語)であるか否かと、学術用語(学術研究用の専門用語)と言えるかどうかは無関係な論点です。また、学術用語であるか否かと、定義が定まっているか否かも無関係な論点です。例えば、阪神タイガースは学術用語ではありませんが、明確に定義できます(ついでに指摘しますと、引用された範囲で見る上野氏の結論からは、ジェンダーフリーの定義が定まっていないという結論は出ません。和製英語ならば当然定義が定まっていない、とは言えないからです)。
さらに、定義が定まっていない(定義について議論がある)ならば、学術用語でないとは言えません。2006年8月19日 (土) 16:19 (UTC) の2で、民主主義という例を挙げて指摘した通りです。現在のWikipediaの学術用語の説明は、定義と要請(「一般の言葉と比較して、…」)を区切っていないために、要請が定義であるかのように読める形になってしまっているだけだと思います。仮に要請部分を定義に含めるなら、説明は失当です。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 07:23 (UTC)


Loxfongmardさん、「<ジェンダーフリー>が学術用語である」という論拠の出典を明記していただけますでしょうか?私は「ジェンダーフリーは学術用語とは言えない」ということについて、「バックラッシュ!(378p-379p)」における上野千鶴子氏の発言を出典とします。前出が不足であれば、該当全文を引用いたします。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 09:09 (UTC)


私は、通常、ジェンダーフリーを擁護する立場(学者)は、ジェンダーフリーは学術用語でないという主張をあえてしないだろう/ジェンダーフリーを擁護するに当たっては、何らかの定義を下して論ずるだろう/下された定義について一定の範囲で相互了解があるなら(とりたてて強調するつもりはないだろうが)ジェンダーフリーを一応「学術用語」とみなすだろう(自分たちの議論は学術的でないとわざわざ卑下しながら論じるのが普通であるとは思えないので) …そうであれば、ジェンダーフリーという項目の執筆にあたっては、そのような立場を踏まえない説明・項目立てを行うことは、Wikipediaの中立的な観点に反するだろう、としているだけです。上に書いたようなたぐいの定義づけなり、それに基づいた理論なりが、本文中に構成上適切な(中立的な観点に反しない)位置に示された何らかの批判的記述によって説得性を失う結果になりうることを問題視しているわけではありません。
ある概念が「学術用語」か否かをあえて記述する実益があるのは、ある概念が学術用語でないと論ずる立場です。ある概念の学術的意義を否定したいのであれば、本文中に根拠を示しつつ、その旨記述すればよいのです。
私は、構成によって結論を正当化しつつ、根拠付けを加えていくような執筆方針が中立的な観点に反すると述べているに過ぎません。否定側と同等の証明責任を要求すると、奇妙な一般的前提を持ち込むことになります。すなわち、本文中にその概念の学術性を明示的に根拠付ける記述がなければ、学術用語とみなされない推定が働く、という前提です。ですが、そのような理解は一般的ではないでしょう。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 10:33 (UTC)


上野千鶴子氏は、ことあるごとに「ジェンダーフリー」という用語を使わないほうが良い、という発言を繰り返してきていますが、それに対して「学術用語を『使うな』とは何事であるか!」という批判を、私は寡聞にして文献で見たことがありません。これは、フェミニズムの各学者が「ジェンダーフリー」を学術用語として見ていない証左だと考えます。東京都が使わないように、と通達した際も同様です。「学術用語であるのに」という反論は、見たことがありません。本文の定義部分に「学術用語ではない」と明記することを提案します。上野氏は「標語」だと言っております。--ディズニースピリット 2006年8月21日 (月) 12:57 (UTC)
「普及」に関してですが、「バックラッシュ!」の351pにおいて高校教員の長谷川美子氏はこのように表現しております。『なにしろ生徒はもちろん、教員の多くが「ジェンダー」自体、何のことだか理解してはいないのだ。まして、認知度の低い「ジェンダー」に、使われ方しだいでさまざまな意味を持つ「フリー」という英語がくっついた、「ジェンダーフリー」という用語を理解しろというのは無理な注文である。』・・・教員にすら、その多くに普及(広く一般に行きわたること)していないものを、「普及している」、とは言えないと私は判断します。--ディズニースピリット 2006年8月21日 (月) 13:23 (UTC)


まず、念を押しておきますが、私は本文中(当然、定義中にも)に、ジェンダーフリーは学術用語であると明記すべきだ、という主張は一切行っていませんし、そのような主張には 1 意義 2 根拠 がないと考えています。なぜなら、1 学術用語だと考えるなら、そう断る意義がない(説明が何らかの学問分野に関係するものである事実が、当然に学術用語(2006年8月20日 (日) 07:23 (UTC)参照)であると規定するから)し、 2 Wikipediaの説明(中立的であることが求められる説明)においては、学術用語かどうかは、根拠や事実関係の有無によって、誘導的でない形で読者それぞれの判断対象となるようにすべきだからです(例えば、定義部に「用語Xは学術用語である」とわざわざ明記することは、根拠無く用語Xの学術的意義の高さを読者に印象付けようとすることであり、仮にその判断が実質的に正しくても、形式的に不当な記述であると考えます)。
適切な注意を払う読者は、通常、「ある用語の意義(それが複数になることは構いません)が最初に示され、余計な判断が付け加えられない説明」を信頼します。最初から用語の意義以外の特定の解釈・判断・立場に立つような説明からは、偏った印象を受けるため、信頼をおきません。記事を説得的なものとするつもりがあるならば、わざわざ信頼を失う形式の記述をすべきではありません。もっとも、相当数の読者は適切な注意を払わないから、私が主張するような注意を払わなくても、問題は生じない(具体的には、信頼されてしまう)かもしれませんが、そのような記事が中立的な観点に反することに変わりはありませんし、適切な注意を払う読者がたまたまそういう記事を読めば、論争的なWikipediaの記事を信頼しない傾向を(正しく)強めるでしょう。
<私は寡聞にして文献で見たことがありません。これは、フェミニズムの各学者が「ジェンダーフリー」を学術用語として見ていない証左だと考えます。>…これは、あきらかにディズニースピリットさんの主観的判断にすぎません。「寡聞」だからです。まがりなりにも中立的な観点に反しないと主張したいのであれば「主な学者の文献にはない」と根拠付けられなければなりません(ところで、「寡聞にして」は謙遜するときに用いる言葉ですが、「寡聞にして」としながら「各学者…証左だと考え」ると論じてしまっては、「寡聞にして」が謙遜としての意味を全く成さないどころか、むしろ尊大だと思うのですが…)。但し、この点の結論にに関わり無く、定義部に<>内に関わる記述を含めれば、中立的な観点に反することは、すでに論じたとおりです。また、『普及』度を確かめるのに、ある高校教員の発言を引くことに、何か意味があるのでしょうか? また、この点について、すでになさった主張とそれへの反論 (ディズニースピリット 2006年8月19日 (土) 14:40 (UTC) から Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 07:23 (UTC) までの議論)を完全に無視して話を進めるのはおやめください。Loxfongmard 2006年8月21日 (月) 15:38 (UTC)



「出典の明記」を付加した理由と、その意義[編集]

+unreferenced しました。1 沢山の事例が記されていますが、その殆どに出典の表記がなく、2 そもそも存在や位置づけ(ジェンダーフリーに関わる事例かどうか)に問題のある事例については、否定的立場からの指摘・解釈をそのまま踏襲する手法に終始しているからです。

すでに批判した通り、現在の記事は、中立的な観点からみてかなり問題のある記述です。内容はもちろん、手法・構成・形式のレベルで不適切な記述があまりにも多いです。ですから、ここでの +unreferenced には、現在の記事に出典が追加されていけば、問題は解決されるという意味は全くないことに注意してください。あくまで、「中立性だけが問題で、書かれている事例は真実である」といった理解(誤解)をしないよう読者に注意を促すために付加しました。Loxfongmard 2006年8月19日 (土) 13:56 (UTC)



宗教関係の記述について[編集]

宗教関係の記述をまとめました。ジェンダーフリー論争に統一教会の記述は欠かせないことに加え、それが批判派への攻撃にならないよう配慮しました。文章には事前相談願います。統一教会を扱った文章は、裁判リスクも含め、危険です。-IP:61.23.169.213 2006年8月14日 (月) 10:17 (署名付加:Loxfongmard 2006年8月25日 (金) 13:43 (UTC))




外部リンク(関連リンク)について[編集]

外部リンクの配置方法[編集]

Wikipedia:節の「関連項目」の置き方に、「単に一つの節にのみに関連する「関連項目」は、その節の中に置いて下さい。」とあります。 外部リンク先が内容によって整理されることなく並んでいることは、不合理で違和感がありますので、一般的解説のみを最後の「外部リンク」節に残し、他のリンクは関連する節に「関連リンク」節をつくって、そこに配置しました。-Loxfongmard 2006年8月24日 (木) 18:10



外部リンクの追加について[編集]

外部リンクの肯定的立場以下に、「ジェンダーフリー」でgoogle検索をかけたらアレな結果になる件について と、「ジェンダーフリーとは」をなかったことにしたい人。 を追加しました。前者では、ジェンダーフリーとは 荻上チキ 成城トランスカレッジ)の執筆動機が説明されており、後者では、成城トランスカレッジ「ジェンダーフリーとは」の嘘とデマ(Bruckner05 川崎市の教育を考える会)に対応した説明がなされています。 また、関連文献「上野千鶴子・宮台真司・斉藤環・小谷真理他共著 『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』」発売に際して公開された、『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン (chiki(成城トランスカレッジ!)、macska(macska dot org))へのリンクも追加しました。Loxfongmard 2006年8月25日 (金) 11:43 (UTC)


肯定派のサイトだけ中身を詳細に取り上げるのは公平?-IP:61.214.216.131 2006年8月25日 (金) 14:13 (コメント位置補正、署名付加:Loxfongmard 2006年8月25日 (金) 14:50 (UTC))


新たに追加された外部リンクは、ジェンダーフリーとは の中身ではないのですが(せめて確認ぐらいしてください)。また、言うまでもないはずですが、追加されるべきかどうかは「サイト」(形式)ではなく「トピック」(内容)が基準となります。いちいちこのようなことを断らせないでくださいね。
それから、ノートへのコメントの際は、署名を入れ(~を4つ記入することで、署名が付加されます)、前後のつながりが分かるような形で記入してください。-Loxfongmard 2006年8月25日 (金) 14:50 (UTC)

関連文献・外部リンクの分類について (1)外部リンク先のサイトの立場を明示する必要性、他 (終了 2006年8月16日)[編集]

中立性の観点から、外部リンク先のサイトの立場の明示を復活させました。理由はすでに説明したとおりです(Loxfongmard 2006年8月5日 (土) 02:41 (UTC) 、Loxfongmard 2006年8月1日 (火) 13:25 (UTC) など)。異なる立場からの解説をそれと断らずに並べることは読者の理解を混乱させるだけですから、やめてください。また、ジェンダーフリーに対する否定的な立場・サイトを本文に含めることは全く問題ありませんが、冒頭・概要の段階から修正しきれないくらいに否定的立場からの主張や疑わしい事実関係の羅列によって埋め尽くした上、外部リンク先の紹介においても、否定的立場→肯定的立場の順で紹介するような露骨に偏った・誘導的な記事を書くこともやめてください(版間での差分:[7])。Wikipediaは特定の立場の優越性を唱導するための場ではありません。

※「修正しきれないくらいに」… 構成・形式ゆえに「修正しきれない」という意味です。例えば、項目名が示す立場の意義を説明する段階に否定的主張を含めてしまっているために、正しく修正するためには全文を書き改めなければならないような状態になっていること等を意味します。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 10:33 (UTC)


☆肯定・否定の順に並べ替えることに賛成します。しかし、「成城トランスカレッジ」という名称は大学と紛らわしいため、正体不肖の個人ブログであることを明示しました。「バックラッシュ!」の寄稿はしている方のようですが、肩書きが不明です。ぜひ並び替えて、肯定リンクが少ないことをアピールしてください。(山口智美氏は個人名だけでしたので、現肩書きを追記してみました)☆ -IP:61.23.169.213 2006年8月16日 (水) 12:02


整理して並べ替えて、見やすくしました。よりリンクが充実することを期待します。--ディズニースピリット 2006年8月16日 (水) 12:20 (UTC)


私が行った記述よりも、よくなったと思います。コメントありがとうございます。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 12:23 (UTC)
【肯定的リンク】【否定的(批判的)リンク】【語源についての考察リンク】という表記については、再度修正させてもらいました。前2者は、肯定的・否定的なのはリンクではなく解説なのでちょっと変な感じがしました。また、否定的→批判的 は、批判的という形容は、肯定・否定の立場の別に関わらず、あてはまりうるので、根拠に乏しい変更だと思います。語源についての考察 は、語源=単語の成立の起源であり、やはり元の表記の方が、ある概念の用法の混乱に関する説明であることが適切に示せているのではないかと思いました。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 12:41 (UTC)


「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(山口智美)は、

「昨今のバックラッシュの中で、右翼や保守派は「ジェンダー・フリー」という言葉を攻撃の格好の的にしていることを考えると、この概念をめぐる混乱の影響は看過できない。」
「11月号の三井マリ子論文中で紹介されている、日本会議の機関誌「日本の息吹」や、山口県に本部を置く「日本時事評論」でも、ここ2年ほどの間、「ジェンダー・フリー」への批判記事が急速に増えたのが目につく。そこでは、「ジェンダー・フリー」の様々な「起源」がねつ造されている。」
「例えば、スウェーデンのフェミニストが提唱したという説(総山孝雄「日本の息吹」2001年10月号 pp.12~13)。「ジェンダー・フリー」は「犯罪大国スウェーデンがお手本」であり、「フリーセックスの別称」などとなる。あるいは、マルクス主義起源説。大沢真理がフランスの学者デルフィの論に依拠していることから出てきたようで、これに基づき「過激な文化破壊思想」「共産主義的カルト思想」などと述べられている(八木秀次 「日本時事評論」 2003年5月3日号 p.3)。そして「ジェンダー・フリー」造語説。和製英語であることを強調し、サッチャー政権下のイギリス、ブッシュ政権下のアメリカなどを例に挙げ、男女平等推進の動きは、あたかも「世界的な流れ」のようにいわれているが、まやかしにすぎないとこじつける(新田均「日本の息吹」2003年12月号 pp.20-21) 。」

といった記述から明らかなように、現在の本文や、外部リンク【否定的な立場からの解説】に属するような言説(リンク先の説明では、ジェンダーフリーが、男女混合名簿・社会主義などと結び付けられたりしています)に対して否定的な立場から書かれていますので、【ジェンダーフリーという概念の起源について】という項目を立て、そこに含めました。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 12:23 (UTC)


★投稿者 IP:220.96.163.238 氏へ
2006年8月16日 (水) 11:48 の編集では、根拠無く立場の明示を削除し、否定的立場から紹介する編集をしていましたが、今度(2006年8月16日 (水) 15:42)は、【ジェンダーフリーという概念の起源についての考察】を、根拠無く削除して 「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(山口智美:シカゴ大学東アジア研究センターポストドクトラル研究員)を、肯定的立場に含めましたね。左のリンク先を読めば、肯定的立場からジェンダーフリーを解説した文章ではないことは明らかなのですが、なぜそういう根拠の無い編集をするのでしょうか? そういうことはやめてください。
また、【肯定的立場】【否定的立場】を、【賛成派の立場】【反対派の立場】と変更されましたが、「派」は、立場を指すのですから、あなたの変更は「頭が痛い」とあるのを、「頭痛が痛い」と変更しているようなものであり、意味不明です。否定したい立場による編集の編集を自己目的化するかのようなふるまいはおやめください。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 16:16 (UTC)


○同室着替えについて  あれは何故削除されてしまったんですか?  それと肯定派、否定派とレッテルを貼るようなやり方ですし、曖昧な文章に関しては解釈が難しくなるので、このような分け方をせずに削除し、順番に関してはアイウエオ順にするのはどうでしょうか(関連文献に関しては書名とし、アルファベット表記に関してはカタカナ表記に置き換えて考えるとします。)2006年8月16日 (水) 16:40 スマイル (署名付加:Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 17:06 (UTC)


「レッテルを貼るようなやり方」という根拠の無い印象付けこそ、レッテル貼りの最たるものです。ある争点について、肯定的・否定的いずれの立場から議論がなされているかは、1 外部リンク先のタイトルを一瞥したり、外部リンク先のトップページを見るだけで、十分「解釈」できますから、「曖昧な文章に関しては解釈が難しくなる」かどうか問題にする意味はありませんし、2 一般的な読者にとって明らかに有用な情報ですから、 削除する合理性はありません。また、リンク先や書籍の内容と脈絡無くアイウエオ順にすることは、外部リンク先を確かめるために読者が労力をかける余地を残すことで、形式的にリンクを参照されにくくするだけでしょう。そもそも、本文解説中でも同様の表現が多用されているのに、それには全く触れずにリンク先の分類についてだけ削除したがるのは、奇妙な態度です。
また、同室着替えを削除したのは私ではありませんが、削除には理由があります。[8] で紹介されている、文部科学省が行った「ジェンダーフリー教育調査」に関する産経新聞の記事によりますと、「(同室着替えは)施設面の問題によるもので、性差を否定するジェンダーフリー教育に基づくものではない」とされています。Loxfongmard 2006年8月16日 (水) 16:58 (UTC)

 他の外部リンクが肯定否定に別れてないので一番下の外部リンクも同様にしますね。そもそもサイトを閲覧した人が肯定か否定かどうかを決めるべきであって、リンクを選んで貼った人が勝手に線引きをすべきではない。それと順番に関しては公平にアイウエオ順にしました。--218.230.135.249 2006年10月7日 (土) 17:13 (UTC)

アイウエオ順はともかく、ここ2日で大量にリンクが議論なく削除されましたので、REVERTしました。--Album 2006年10月10日 (火) 03:55 (UTC)

肯定側の外部リンクについて(終了 ~2006年8月20日)[編集]

☆肯定側の外部リンクなのですが、もう少しビシッとした解説のホームページはないでしょうか。荻上チキ氏の漫談風のQ&A(成城トランスカレッジ)も面白くて良いとは思いますが、これしかない、というのも問題だと思います。☆--IP:59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC)


上の IP:59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC) は、項目「関連文献・外部リンクの分類について」の冒頭に挿入されていましたが、明らかに「関連文献・外部リンクの分類」と無関係な揶揄に過ぎないので、新たに項目を立てて移動しました。
肯定的立場の外部リンク先の説明の説得性について、予断を持たせることだけを目的としたようなコメントはおやめください。「漫談風」「面白くて良い」と、内容と無関係なポイントについてよく言ってみせることは、裏から内容についてとるに足らないという印象を与える書き方ですし、肯定的立場の外部リンク先が一つであることを「これしかない」と強調することは、その立場に立つ者が少ない=説得力がなさそう、という印象を与えるような書き方です。
「これしかない」ことを問題にするのであれば、現在の本文の分量が約12000字であるのに対して、ジェンダーフリーとは 荻上チキ 成城トランスカレッジ)は、約30000字だから、現在の本文の分量は少ないから問題だ、などとこじつけることも出来てしまいます。そういう問題ではないでしょう。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 05:59 (UTC)


荻上チキ氏の解説は、信頼には足らないと思います。最初から間違いがあるからです。
(以下、同サイトから引用)『ジェンダーフリーとは、簡単に要約すると「社会的性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語です。ジェンダー・バイアス・フリーと呼んだほうが正しいようです。』
ジェンダーは「性差」ではありません。それは間違いです。また「~ようです」という解説は書いている本人にすら確信がなさそうです。誤解しないで下さい。荻上チキ氏を誹謗することが目的ではなく、もっと分かりやすく、きちんとした「ジェンダーフリー公式ホームページ」のようなものはないのでしょうか、という素朴な疑問です。(ただ、正直なところ、ジェンダーフリーに関して真面目なホームページは無いような気がしているのですが・・・)Loxfongmardさんなら、ご存知かと。--IP:59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 08:52 (UTC)(コメント位置補正:Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 09:23 (UTC)


IP:59.171.19.210 さん、自身への批判的コメント(2006年8月20日 (日) 05:59 (UTC))との対応関係をわかりにくくすることで紛らわしたり(版間での差分:[9]、読者の誘導だけを目的とした、文脈的・時系列的に根拠のない挿入をするような([10] 項目「関連文献・外部リンクの分類について」のすぐ下))編集はやめてください。そういう編集をしておきながら、誤解しないようになどと言うのは、おこがましいのではないですか。「もっと分かりやすく、きちんとした」「ジェンダーフリーに関して真面目なホームページは無いような気がしている」などは、私が 2006年8月20日 (日) 05:59 (UTC) で批判したのと同工異曲ではないですか。あなたの発言のどこが「素朴な疑問」なのですか。
「ジェンダーは「性差」ではありません。それは間違いです。」としていますが、理由がありません。「・・・ではありません」で足りるのに、「それは間違いです。」とただ結論を繰り返すだけの文章を書く意味は何でしょうか。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 09:23 (UTC) 
(ログへのリンクと注釈に不備があったので訂正しました。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 11:54 (UTC)
(再度訂正しました。外部リンクの部分が、再編集のときにタグが付加されてしまい表示が乱れるので、それを修正するために正規表現置換をかけていたのですが、その置換式のミスのために必要な記述までカットされていました。申し訳ありません。2006年8月20日 (日) 14:28 (UTC) )


確かに肯定側の外部リンクが不足しています。私も探してみます。また、山口智美氏が「日本でジェンダーを社会的文化的性差と翻訳したのは『誤訳』だ」と言っています。出典を明記いたしますが、『バックラッシュ!』の281ページ下段です。正確に引用したほうがよろしいでしょうか?--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 09:37 (UTC)


ここに引用する必要はないですよ。本文に適切な仕方で記述してよいと思います。ただし、定義部に書くのは不適切であり、「ジェンダーフリー」概念の成立 のような項目を適切な位置に立て、そこに記述すべきだと考えます。理由はすでに論じました(2006年8月19日 (土) 13:56 (UTC)、2006年8月20日 (日) 07:23 (UTC) の冒頭【>山口氏は『誤読』による『誤用』と表現しておりました。】以下、2006年8月20日 (日) 10:33 (UTC) )。
それから、ジェンダーを社会的性差と訳すことが『誤訳』という理由から、ジェンダーフリーとは (荻上チキ 成城トランスカレッジ)の 【社会的性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語です。ジェンダー・バイアス・フリーと呼んだほうが正しいようです】 という説明が間違いであると結論づけることはできません。和製英語と書かれてあるからです。むしろ、『誤訳』であるという見方は論理的に上の説明に含意されています。
また、「正しいようです」は、ジェンダーフリーという言葉にからんださまざまな言説の解説に際して、ジェンダーフリーの主張内容に着目し、頭ごなしに・形式的な理由に依拠して その意義を否定する立場に立たない以上、「正しいです」と書くのは変だから、そのように表現されたのでしょう。IP:59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 08:52 (UTC) のように、なぜ定義が間違っているか理由すら書かず、ただ結論を繰り返すような書き方をしながら、こんな箇所にケチをつけることは、単なる言いがかりとしか言えないでしょう。
それから、この項目の冒頭から読めば分かることですが、IP:59.171.19.210 さんは、外部リンクの数が少ないことにかこつけて読者に予断を持たせようとするコメントをしていただけです。そういう文脈を無視して、ディズニースピリットさんは「確かに肯定側の外部リンクが不足しています。私も探してみます。」などと同意を加えていますが、これはおかしな態度です。
文脈に触れずに表面的に「確かに…」と同意することは、IP:59.171.19.210 さんのやり方を、表面的な言い分を捉えて合理化することだからです。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 11:26 (UTC)


肯定側の外部リンクに「東京都に抗議する!」を追加させていただきました。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 11:46 (UTC)


ディズニースピリットさん、コメントの汚さを逐一あぶりだされるような反論をされれば、自業自得とは言え、気分を害するのは仕方ないこととお察ししますが、そういう「一見丁重そうな開き直り」は、無責任な態度だと思います。文脈をきちんと踏まえたコメントをお願いします。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 12:03 (UTC)


気分を害されたのなら謝罪いたします。失礼いたしました。個人的な思いとして「貴方は○○な書き方をした、だからあなたは○○な人だ・○○なやり方だ」ということをノートに書くよりも、「事実を積み重ねたい」、という思いがあるのです。「誰がどんな書き方をしたか」ではなく「何が書かれているか」に集中したいのです。もちろん感情のコントロールに失敗して逸脱することはあるのですが・・・。しかし、ここは掲示板でもなければ、ましてやチャットでもないのです。勝ち負けも無いと思います。今日よりも明日、記載がより正しく有用になれば、それこそが「みんなの勝ち」だと思います。今後、この手の会話はいたしません。未熟者ですがお許しください。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 12:41 (UTC)
「東京都に抗議する!」のリンク名において、前後の整合性のため、上野千鶴子氏の「氏」を削除いたしました。また、上野千鶴子氏の項目へのリンクを張りました。--ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 12:41 (UTC)


私は、これまでのノートの経緯からすれば、ディズニースピリットさんが気分を害しただろうが、それは自業自得であり、そろそろ経緯に見合った責任ある態度をとってはどうか、とコメントしたのです。私が気分を害したので謝罪せよ、と述べたわけではありません。謝罪と称して体よく 2006年8月20日 (日) 11:46 (UTC) に至る経緯とずれた前提を持ち込むのはおやめください。
ディズニースピリットさんは、【貴方は○○な書き方をした、だからあなたは○○な人だ・○○なやり方だ」ということをノートに書くよりも、「事実を積み重ねたい」という思いがある】などと、善良そうな発言をされていますが、実際には、ディズニースピリットさんが現に○○な書き方・やり方という事実を積み重ねられ(例えば、私のコメントを一方的に編集(分断)して、流れをつかめないようにして「反論」したりしました(ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 00:33 (UTC))以下 )、それに伴って、Loxfongmard に批判された事実も積み重ねられ、結局 2006年8月20日 (日) 11:46 (UTC) ~ 2006年8月20日 (日) 12:03 (UTC) で、どうしようもなくなったので、【「事実を積み重ねたい」という思いがある】という、実際には積み重ねられてもいない【事実】によって、事実を無視しようとしただけの話です。事実とは、表面的に示されるあてにもならない思いとは関係なく、このノートに示されるようなもののことを言うのですよ。
勝ち負けは、ディズニースピリットさんが、勝手に抱いたイメージです。無責任だと経緯に基づいて問われたのに、なぜそのような発想になるのですか。なにが、「みんなの勝ち」なのでしょうか。汚い執筆手法によって記事が「より正しく有用」になることですか。Loxfongmard 2006年8月20日 (日) 13:54 (UTC)

外部リンクの数について[編集]

現状版の外部リンクの多さはwikipediaとしては異常。wikipediaはリンク集ではないはず。リンク合戦するにエネルギーを費やす前にWikipedia:外部リンクの選び方を読んでください。--fromm 2007年2月18日 (日) 09:09 (UTC)

個人サイト・個人ブログは全撤去が原則ですね。Wikipedia:検証可能性によれば。すっきりさせましょうか?--Album 2007年2月19日 (月) 03:59 (UTC)

Wikipedia:個人攻撃はしない (終了 ~2006年8月25日)[編集]

方針に従って、本文の内容についての議論を求めます。IP:60.32.71.82 2006年8月21日 (月) 07:59 (署名付加:Loxfongmard 2006年8月21日 (月) 13:47 (UTC))


IP:60.32.71.82 さん、誰かのコメントが、Wikipedia:個人攻撃はしない の個人攻撃にあたると思ったのでしたら、方針だけ示して暗示するようなやり方をせずに、1 誰のコメントがWikipedia:個人攻撃はしないに反するか 2 Wikipedia:個人攻撃はしないに反すると考える理由 を、きちんと書いてください。IP:60.32.71.82 さんが議論をはじめるのですから、IP:60.32.71.82 さんには、それを説明する責任があります。「議論を求めます」とはじめから他人に説明責任を転嫁するようなやり方はおやめください。>
私は、このノート内で上のような批判を繰り返し行いましたが、<>のような批判は、問題のある執筆手法について、経緯・根拠に基づいて個人を特定して行う批判であり、個人攻撃ではありません。一般に、執筆手法そのものに対する正当な批判は、批判された人の人格に問題がある印象を招きますから、批判された人や同様の批判を受けそうな人は「個人攻撃」があったような気分になるのかもしれません。また、執筆手法の汚さを指摘されているのに無視した、という批判まで重ねられれば、さらに人格に問題がある印象を招くでしょう。しかし、それは批判する人のせいではなく、あまりにも簡単に批判されるような、露骨に問題のあるやり方がまずいだけです。揶揄 (59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC)) を遠まわしに擁護 (ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 09:37 (UTC) 「確かに肯定側の外部リンクが不足しています。私も探してみます。」) したり、自身に向けられた批判文自体を編集してわかりにくくする(ディズニースピリット 2006年8月20日 (日) 00:33 (UTC))以下)ような人が特定されて批判を受けるのは、ごくあたりまえのことです。Loxfongmard 2006年8月21日 (月) 13:47 (UTC)


Wikipedia:議論が白熱しても冷静にをご高覧下さい。他人を評価するのはやめましょうという言葉をお考え下さいませ。IP:59.171.19.210 2006年8月21日 (月) 14:14 (署名付加:Loxfongmard 2006年8月21日 (月) 15:51 (UTC))


IP:59.171.19.210さんは、揶揄 (59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC)) を書いた当人です。Wikipedia:議論が白熱しても冷静にには、「こういった方法がうまくいかないケースがあります。中立的な記事を書きたくもなく、書くこともできない人、適切な記事を削除したくてたまらない人、悪名高い反社会的な人、などがいる場合です。思うに、こういった人々はウィキペディアにいて欲しくありません」ともあります。そういう人は「…滅多にいるものでもありません。」ともありますが、さしあたり、IP:59.171.19.210 さんや、ディズニースピリットさんが、「こういった人々」に属することは、2006年8月21日 (月) 13:47 (UTC) に書いた事情や、注意を促すときに「ご高覧下さい」と書く意味を普通に踏まえられる人たちは、認めるだろうと思います。Loxfongmard 2006年8月21日 (月) 15:51 (UTC)


○貴殿が「揶揄」と評価した私の書き込みはこれですよね。↓
→☆肯定側の外部リンクなのですが、もう少しビシッとした解説のホームページはないでしょうか。荻上チキ氏の漫談風のQ&A(成城トランスカレッジ)も面白くて良いとは思いますが、これしかない、というのも問題だと思います。☆--59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC)
この程度の文章のどこが「揶揄」でしょうか?この「成城トランスカレッジ」のHPを「漫談風」と書いた根拠はこれです↓
根拠1.Q.でも、涙が出ちゃう。だって、女の子だもん。A.「僕女」だったのか! 男の子も泣くけど、コートの中では平気なの。
根拠2.Q.やかましい! 女は家にいろ!A.もちつけ。
根拠3.Q.えー。違うのかー。だったらバッシング側にまわるぜ! 同室着替えが羨ましい!A.ちょwwwwwおまwwwww。
私はこれを「面白くて良いとは思いますが、これしかない、というのも問題だと思います」と書いています。今は肯定側リンクが複数に増えていますが、これを書いた当初は、これしかなかったのです。だから他に増やせないかと書いた。それが事実です。「成城トランスカレッジ」の表現をお借りして、「もちつけ。」、「ちょwwwwwおまwwwww。」と貴方に言いたい。落ち着いて下さい。お願いします。○以上の署名の無いコメントは、ディズニースピリット(会話履歴)氏が[2006年8月21日 (月) 16:52]に投稿したものです。
しばらく時間を置いたほうが良いのでは?以上の署名の無いコメントは、IP:220.209.199.78(会話/whois)氏が[2006年8月22日 (火) 02:59 (UTC)]に投稿したものです。
再度、方針に従って、本文の内容についての議論を求めます。以上の署名の無いコメントは、IP:60.32.71.82(会話/whois)氏が[2006年8月22日 (火) 04:26 (UTC)]に投稿したものです。(コメント位置移動:Loxfongmard 2006年8月24日 (木) 16:22 (UTC)
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以上の経過からわかることを、明示しておきます。
ディズニースピリット(会話履歴)は、IP:59.171.19.210ソックパペット(なりすまし)であることが判明した。
 IP:59.171.19.210は、2006年8月21日 (月) 16:52 のコメント(無署名)において、ディズニースピリットとしてログインした状態で、「貴殿が「揶揄」と評価した【私の】書き込みはこれですよね」(【】は引用者)として、59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC) の投稿を示した。つまり、59.171.19.210=ディズニースピリット であると、自ら暴露した(版間での差分:[11])。
■2006年8月21日 (月) 16:52 と、その履歴を見た IP:220.209.199.78は、2006年8月22日 (火) 02:59 (UTC) に、上記ディズニースピリット名義のコメントを削除した上、「しばらく時間を置いたほうが良いのでは?」と無署名で書き込んだ。削除したコメントは、管理者が復帰した。その際、ノートに投稿者・投稿日時が付加された(版間での差分:[12])。
IP:60.32.71.82による 2006年8月22日 (火) 04:26 (UTC)(無署名) は、以上の経過を完全に無視し、2006年8月21日 (月) 07:59 のコメントを単純に繰り返した(後に管理者により投稿者・投稿日時が付加された)。
IP:59.171.19.210(=ディズニースピリット)は、59.171.19.210 2006年8月20日 (日) 03:25 (UTC) の投稿について、自ら「この「成城トランスカレッジ」のHPを「漫談風」と書いた根拠はこれです↓ 」として、あきらかに断片的な 「根拠1.~3.」を理由に「漫談風」とみなしていたことを認めた。すなわち、同サイトに対する読者の予断を招くコメントであることを実質的に認めた。Loxfongmard 2006年8月24日 (木) 16:22 (UTC) (更新:2006年8月25日 (金) 11:03 (UTC))

ジェンダーフリーの実践例等[編集]

 男女同室着替えについてですが、関連リンクの自民党ホームページを見ての通り、空き部屋があっても行ってる例があったので記述を復活させました。61.214.216.131 2006年8月25日 (金) 16:26 (UTC)

 この学校の実在については確証されていないし、ジェンダーフリーイデオロギーのためにそうなっているとも書いていないので、不適当です。Hkato 2006年9月6日 (水) 18:04 (UTC)

「実在については確証されていない」、とはどういう意味ですか?自民党が信用おけない、ということでしょうか?--Album 2006年9月6日 (水) 22:45 (UTC)
自民党だから、民主党だから、共産党だから、信用がおけるとかおけないとかいった発想は持っていません。ホームページでは、学校名を特定しないままの、単に自民党側の一方的な事例提示があるだけなので、百科事典の記述の根拠としては不適当だと考えます。自民党が意識的な捏造をしているなどとは思っていませんが、この種の告発には、情報提供者のバイアスが強くかかるのが常道で、単純にその字面のみを信用するのは、一般的に不適切です。また、仮にこの文面を全面的に信用する立場を取ったとしても、なぜこの同室着替えがジェンダーフリー思想に基づいて行われているといえるのか、根拠は示されていません。そういうこととは全く無関係に、同室着替えは昔からありました。Hkato 2006年9月7日 (木) 05:04 (UTC)
「そういうこととは全く無関係に、同室着替えは昔からありました。」という信頼のおける情報源は具体的に何でしょうか?そして、例えば仮に一校そういう事情のところがあったとしても、他も全部そうだとはなりませんが・・・。--Album 2006年9月7日 (木) 06:うだから、全体がそうだと直ちにはいえないとおっしゃるならばそのとおりですが、そもそも、男女同室着替えが、一般的にジェンダーフリー思想に基づいて行われているものだなどという議論には、適切な根拠は示されていません。もしそういう事実があるならば、有力なフェミニスト誰某が同室着替えを推奨する主張をし現場教員に影響を与えているとか、ジェンダーフリー教育の実践例として男女同室着替えを取り上げた教育実践例が、各種教育団体の行っている研究集会に報告されているとかいった事実を挙げるのは容易であるはずですが、そのような指摘は承知していません。もしご存知でしたら提示を御願いします。自民党ホームページ上の記載でも、ジェンダーフリー思想の故に学校が同室着替えをさせているということをうかがわせるものはなく、「恥ずかしいと思う子供のほうが少ないから、更衣室は必要性を認めない」とあるのみです。Hkato 2006年9月7日 (木) 07:01 (UTC)
ご主張は分かります。各々経験が違いますから、「自分の経験」から判断すると、結果はマチマチになると思います。ウィキペディアは「信頼できる情報源」の明記を求めているのは、こうした「個々の経験」や「自己調査」が様々な意見を生むからだと私は考えています。この自民党のHP(自民①)(自民②)を見ていただきたいのですが、少なくとも「自民党はジェンダーフリー教育の一環だと考えている」ことは確かだと思います。そしてなおも調査中です。ですから、議論ある項目は両論併記が正しいのかな?と思っています。個人的には、この問題を利用して「フェミニズム派の口から<区別も大事>と言わせる続けるためのバックラッシュ派の戦略」かな?とも思っています。私も恐らく男女同室着替えは、ジェンダーフリー教育が推し進めているわけではなく、その影響を大きめに見ても、「対策に鈍感になる原因」程度だと思っています。いずれにせよ日本第一党の自民党がHPに明記している問題を、バッサリとウィキペディアから削除は出来ないだろうな、と思います。最後に、日本共産党の立場はこれです(共産党①)--Album 2006年9月7日 (木) 10:17 (UTC)
ご指摘有り難うございます。同意できる所にたどり着きそうです。本当の所どうかとは別の問題として、自民党がそう考えている、あるいは少なくとも、「外部に向かって、そうだと印象づけようとしている」(意地悪な見方かもしれませんが)ことは確かだと思いますし、それをウィキペディアの記述に反映させることは全く問題ないと思います。この件に関する現行の記述について、自民党に反論する立場を共産党に代表させるのは最適かな、という疑問は少し持ちますが、一応了解できるものだと思います。
以下は余談です。念のため「男女同室着替え」をキーワードにグーグル検索をしてみたところ、やはり同室着替えを推奨している有力フェミニストの名前とか、ジェンダーフリーの実践例として同室着替えをしているとか言った教育実践例は見つけられませんでした(個人的に、同室着替えがあってもいいじゃない、という感想を書いている頁は見かけました)。こちらの記述によれば、批判派の言説と逆で、日教組は「更衣室の整備拡充」を文科省に申し入れているようです。「男女同室着替え」は、批判派が提示した論点の中でも大きな反響を呼んだために、その指摘が間違いだと分かっても今更引っ込みがつかない状態になっているのかな、なんて印象を持ちますが、もちろん単なる推測です。Hkato 2006年9月9日 (土) 06:03 (UTC)

「政党政治とジェンダーフリー」の、アンケートの回答を引用している部分についてです(男女同室着替えと関連のある話なのでここに書きます)。 たくさんの回答結果の中でこの部分だけを意図的に選択して載せている点が中立的な観点からいって適切でないと考えています。また、各政党の立場を列挙している個所に、政党の立場を表しているとは必ずしも言えない「アンケート結果の回答のひとつ」を載せている点も不適切だと思います。政党が用意したアンケート調査文内に付記された記述であれば政党の立場を表しているとも考えられますが、アンケート結果の回答例の方は、あくまでもたくさんの回答の中にそういう回答をした人が1名いたと自民党が報告したという意味であって、集計結果の内容は党の立場を示すものではないと思います。この引用部分は「空き教室があるにもかかわらず同室で着替えさせている、とする」という記載の出典に基づく修正として書かれたものですが、アンケート結果以外で、「政党の立場を示している」と明白にわかる出典があるなら、それに基づいた内容に書き換えていただきたいです。もし、しばらく待ってもアンケート結果以外の出典が出てこないようなら、上記の理由で引用部分を削除したいと考えています。--210.194.235.115 2007年5月22日 (火) 18:14 (UTC)

上記をご覧いただきますとご理解いただけると思いますが、「あるなし論争」が前段として存在し、その結果、政党政治の欄で出典を示して記述することに落ち着いています。実際に男女同室着替えがあったかどうかは私自身は分かりませんが、政治レベルでは「不適切な事例があった」ということで話が進んでいます。また共産党などは「なかった」あるいは「あったとしてもジェンダーフリーの文脈ではない」としています。いずれにしても、与党政府が通達に記述して配布するほどの主要なトピックではあった、ということなんです。また、ご存じのとおり、「バックラッシュ批判」では、必ずと言って良いほど頻出するトピックでもあります。--Album 2007年5月23日 (水) 09:32 (UTC)
23日のAlbumさんの修正についてですが、内閣府が通達した内容に「男女同室着替えの事例は非常識である」という趣旨の記載があった点と、男女同室着替えが主要なトピックであった点には同意します。そこで「ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況」の節の内閣府の対応が書かれている場所に、閣議決定の内容に基づく記載を追加し、そこに男女同室着替えに対する内閣府の立場を記述しました(内閣府の通達は、自民党の項に書くよりも、内閣府の対応が書かれた項に書く方が適切だと思います)
なお、上の私の提案は「政党政治とジェンダーフリー」の項に、「自民党の立場である」と明確にわかる出展がない内容や、複数列挙されている項目から意図的に一部を選別したかのように見える内容を、載せないようにしたいという趣旨です。「男女同室着替えがある」と自民党がみなしていることについては「自民党が作成したWebページにもとづく内容」が既に記載されており、この点には私は異論はありません。とりあえず、次の3点について合意ができるか確認をしたいです。(1)この節は、現在、「各政党の立場を示す節」という位置付けになっている。(2)ある政党が「アンケート結果として複数の回答を列挙して報告した」からといって、その内容のひとつが「政党の立場」と同じであるとは、必ずしも言えない。(3)複数の項目の中から、意図的に1つの項目を選んで掲載することは中立的な観点上の問題を引き起こす可能性がある。この3点に合意していただけて、内閣府の対応が書かれた個所に「男女共同着替え」に関する記述がなされて、それでも、この節の中にこの例を載せるのが適切であるとお考えであれば、その理由をお聞かせください。また、合意していだだけて削除にも納得していただけるのであれば、この節からアンケートの*結果のひとつを引用している部分*は削除したいと思います。
そうですね、無理やり政党のところにとりたてて一つのトピック(空き教室)をとりあげることはないかもしれません。独立項目があっても良いくらいですが、どうでしょうか?両論併記で。また、別件で、教育現場の項に「七尾」の事例を復帰しました。これも独立項目にした方がよいかもしれません。ただし、あまりに項目が増えるようなら「七尾」の事例は概略のみ触れ、あとは記事分割して内部リンクで誘導しても良いかと思います。将来的に。(最近、七尾の処分は教員の校内飲酒がからんでいることを知り、驚いています)--Album 2007年5月24日 (木) 17:11 (UTC)
私は、上記(3)の理由から『現在記されているアンケート結果の引用部分』は不適切である可能性が高いと考えています。『複数の回答例の中からこの例だけを抽出して載せるに足る信頼できる出典(例えばアンケート結果の中からこの例を特別に選んで議論を行っている文献等)』が提示された場合に、その出典の内容に正確にそった記載することは問題ないと思います。今後、そのような出典が示された場合に、政党政治のところに書くのは不適切なので別に独立項目を作るという提案でしたら合意いたします。しかし、現時点ではそのような出典がありませんので、出典が出るまでは載せるべきではないと考えています。この点についても理解していただいたうえで、先に書いた3つの点(と、前述した出典が現時点では示されていない点)、それから結論の部分について、それぞれ合意できるか、聞かせていただきたく思います。--61.24.241.222 2007年5月25日 (金) 13:28 (UTC)
最初の提案から1週間以上経過しましたが、唯一コメントのあったAlbumさんもウィキブレイク中とのことなので、上記の理由から該当する例を削除します。復帰させる場合には、その前に上記の点について合意が得られるか議論していただければと思います。--61.24.247.43 2007年5月30日 (水) 16:49 (UTC)

別の話題になるためインデントをあらためます。性教育の記述について、事例を記載するか否かの議論をする前に、まず、Albumさんが、出典にない記述(男性器の模型に・・・等の例)を復帰させた理由についておきかせください。Albumさんが復帰させた文章の内容を、私はAlbumさんが付与した出典の中から見つけることができませんでした。--61.24.241.222 2007年5月25日 (金) 13:28 (UTC)

回答を待ってから対応をしようかと思いましたが、Albumさんがウィキブレイク中とのことなので、性教育に関する記述は出典にない記述という理由で一時的に削除します。復帰される際には、出典明記の上、出典の記述にそうように文章を修正してください。
上記に追記します。もし、出典付きの文章が載せられた場合には、その文章を見たうえで、載せるべきか否かの議論を(必要なら)すれば良いと思います。--61.24.241.222 2007年5月27日 (日) 13:54 (UTC)
自民党の項のリンクを見ていただければ、と思います。自民党(あるいは政府)の見解、とでもしましょうか?--Album 2007年6月13日 (水) 15:27 (UTC)
出典を特定できる形で具体的に示していただければと思います。--61.24.245.72 2007年6月14日 (木) 10:39 (UTC)
Albumさん、性教育の具体例を示している部分に付記している出典「新婦人しんぶん 2007年1月1日号」に記述のない「男性器の模型に・・・」等の記述について、上の質問に答えずに復活させた理由を説明してください。あるいは、もし何らかの手違いでしたら「新婦人しんぶん 2007年1月1日号」の出典に基づいて内容を編集してください。この出典で性教育が書かれている部分には「自分の性と異性の性を知り、性を尊重するとはどういうことか、客観的な知識を踏まえて学ぶ」となっています。私は全体を載せるべきではないと思っていますが、仮に載せるにしても、このような編集の仕方は、少し悪質にすぎる編集の仕方なのではないかと疑問を持たざるをえません。--61.25.156.3 2007年7月19日 (木) 11:57 (UTC)

この話は、推進側、否定側の両方に豊富過ぎるほどの出典があります。お待ちいただければ示しましょう。・・・ところで「新婦人しんぶん」とはここ⇒ 新日本婦人の会の出版物ということでよろしいでしょうか?また共産党がらみの話が本文に増えそうですが。。。--Album 2007年7月19日 (木) 12:54 (UTC)

「新婦人しんぶん」とは2007年5月24日 (木) 16:49に Albumさんが自らの手で出典として追加したリンク先の文献[13]です。あたかも他の人が提案したかのように誤読されるかのような表現は止めた方が良いと思います。--210.194.234.84 2007年11月12日 (月) 04:48 (UTC)
さて、さっそく出典の一例を引用いたします。太字はAlbumによるものです。よろしければ、ご自分でもご確認下さい。--Album 2007年7月19日 (木) 13:28 (UTC)

ジェンダーフリー Gender-Free:Gender-Equality 社会的な性別役割(ジェンダー)から自由であること。社会的な性差別を解消し、性別に関わらず個人が尊重される考え方。1999年(平成11)に試行された男女共同参画社会基本法に基づく。学校現場では、男女混合名簿や、更衣室を一緒にするなど混乱もあり、教育指導要綱からジェンダーフリーという用語削除の動きがある。ジェンダーフリーをフリーセックスと混同し、科学的な性教育を行き過ぎた性教育として抑圧している自治体もある。

(現代用語の基礎知識 2006 より)

"ジェンダーフリー" Microsoft® Encarta® 2007 DVD. Microsoft Corporation, 2006. Microsoft(R) Encarta(R) 2007. (C) 1993-2006 Microsoft Corporation. All rights reserved.

ご・・・ごめんなさい。ご質問と答えの例示がズレています(汗)。なにを勘違いしたのやら・・・。「同室着替え」だけでなく、もちろん「過激な性教育」の出典も示せますので、少々お待ち下さい。。。ちなみに七尾の教員が処分されたのは性教育だけでなく教員の「校内飲酒」なども理由です。今週中には、必ず出典を示しましょう。--Album 2007年7月19日 (木) 13:37 (UTC)
PHP社と、日教組の書物を追記しました。他にも「ジェンダーフリー教育」に言及した本は、賛成側・反対側双方にまだまだあるのですが、本日入手できた範囲で追記させていただきました。--Album 2007年7月20日 (金) 13:28 (UTC)

ジェンダーフリーの思想的背景[編集]

○ジェンダーフリーはもてない女の僻みとの指摘がありますがこれをどう書きましょうか。--61.199.19.251 2006年10月7日 (土) 17:40 (UTC)

IP125.236.~の問題提起について[編集]

中立を根拠に、大幅な改変を試みる方が登場しましたが、参画局の都道府県への用語使用自粛を求める通達を、本文から意図的に消し去るなど、確信犯的です。私は3RRの憂いがあることから、一度どなたかに戻していただけるとありがたいです。Album 2007年1月8日 (月) 02:52 (UTC)

出典ある事実を本文から消すという一点だけでもこの記載者の不誠実は明らかですので、リバート24時間あけの夕方、私が戻します。記載者におかれましては申し開きがあればここに書いて下さい。同じ行為を繰り返しても、百回でも戻しますよ。Album 2007年1月8日 (月) 03:41 (UTC)
消された主な事実を定義部に復活させましたが、いずれにしても不誠実なIP出現前にリバート予定です。上から編集を重ねないで下さい。無駄になりますから。議論を経てからお願いします。Album 2007年1月8日 (月) 06:55 (UTC)
上記のとおり、一度戻しました。特に出典ある記述を消して結論を180度違う物に変更するなどは、中立でもなんでもありません。現在、昨日の状態に戻っております。Album 2007年1月8日 (月) 08:39 (UTC)


私の編集も完璧ではありませんので、私の編集の後にいくつかなされた付けたしなどは歓迎しますが、問題のある箇所のみでなく、私の編集をすべて「不誠実」などとして削除することがあなたの「誠実さ」ですか?私は元の記事にバイアスがかかっていたため編集したまでです。あなたの指摘にしたがって一回ですべてを変更するようにもしましたが。「確信犯」「申し開き」など、私自身が悪人だと示唆したいようですが、そもそも何が犯罪なのでしょう?

180度違うもの、とはどのようなものですか?私は180度違うとは思いませんが、元の状態でバイアスが強い場合は「180度違うもの」が中立性を意味するでしょう。内閣府や男子校に関する部分は尊重しますが、なぜ私が削除した出典のない記述も戻す必要があるのですか?具体的にあげれば、「反対派の説く「過激な主張」の例」などとして挙げられている例、「賛成する立場の硬直的で好戦的な態度に対する批判」という表現(出典がないのみならず明らかに中立性を逸しています)、「ジェンダーフリーの名の下に一部の考え方に基づいたフェミニズムを押し通そうとする団体(政治家も含む)があることも否定できない事実」(誰ですか?一部の考え方とはどんな考え方ですか?押し通すという動詞も中立的というより否定的です)、また「アメリカ合衆国連邦最高裁判所でアファーマティブアクションを義務付ける法律が違憲とされた」とはどの判例のことですか?2003年のミシガン大学のケースではケースバイケースで判断されたはずですが。

さらにいえば、中立性とはソースが明記されていれば何でも書いてよいものではないはずです。ひとつの記事の中に片方からの視点があまりにも多く含まれていて、他方の意見があまり紹介されていない場合は、いかにその視点が正当なものでも中立とはいえません。この例で言えば、論争の項で「反対・否定派の主張」とあり、さらに「賛成派の対応に対する批判」と批判が続きます。

まず、最初に申し上げたいのですが、ノートに書くときは署名をするのがルールです。それから、何が中立なのかを決めるのは、あなたのフィーリングではありません。「私こそが中立だ」ということはありえないのです。特にあなたは意識して出典ある内閣府の通達を消して、文章の語尾まで整えたはずです。そのような行為を平然となさるなら、あなたが出典なしに追記した部分を信頼する理由がどこにあるでしょうか?政府は、定義を決めて使えとは言っておらず、使うな、と言っています。180度違う結論です。あなたが出典ある記述を消して結論を変えたのです。全体として、確かに現在ある記述も至らないことはあるでしょう。だからといって唐突に大量に編集した物を他の参加者に拾い上げて取捨選択しろと要求するのでしょうか?お気づきでないでしょうが、あなたのバイアスも相当なものです。落ち着いて、まず公式な方針やガイドラインに目を通して下さい。Album 2007年1月8日 (月) 10:14 (UTC)


「結論」とは何の結論ですか?ウィキペディアはジェンダーフリーについての「結論」を出すところではないはずです。「平成18年1月31日に内閣府男女共同参画局が各都道府県に「ジェンダーフリー」の用語を使わないよう求める通達を配布した」ことは事実ですが、政府の意見はあくまで政府の意見であり、その意見の正しさを意味するものでは決してありません。(政府の意見がいつも正しい、とするのならそれもひとつの政治的意見です)また、政府は用語を使わないよう求めていますが、「ジェンダーフリー」という言葉を使うことは憲法に保障された権利であり、政府に「使うな」と命令する権限はありません。

当然中立性を決めるのは私個人のフィーリングではなく、客観的に決められるべきです。「私のバイアス」とは具体的にどの部分ですか?前にも述べたように、私の編集が100%完璧であると主張してはいません。私が出典なしに追記した部分とはどこですか?私は元記事の具体的なバイアスの例をいくつか挙げました。なぜ私が編集した出典のない部分は一律削除して、元の記事にあった出典のない部分は許されるのでしょうか?中立性を決めるのは私個人の意見ではありませんが、あなた個人の意見でもありません。内閣府通達の記述だけが問題ならば、それを私の編集に追加すればよいのではないですか?私が特に「ほかの参加者に拾い上げて取捨選択しろと要求」しているわけではありませんが、参加者がいつも問題点のあるところを取捨選択して改善することはウィキペディアの趣旨ではないですか?元記事のバイアスが明らかでありながら、私の編集よりも元記事をベースにしたいのであれば、私の編集が元記事に比べてより強いバイアスがかかっていることを示してください。 --125.236.188.160 2007年1月8日 (月) 11:26 (UTC)

貴方の政府の通達に関する個人的な見解は承りました。気に入らなければ出典があっても、消してしまうのですか?ガイドラインには目を通しましたか?バランスは消すことでとるのでしょうか?それとも追記することでバランスをとるのでしょうか?おかしな記述があったら、まず、「要出典」としてみてください。私があなたの指摘を受けて、やってみせたはずです。そしてあと一点。変更点と履歴がわかりやすくするためにウィキペディアには「差分」を表示する機能があります。新旧を左右比較するために段落一つ詰めるのも気を使うものです。機能に慣れないうちの大編集は本当に勘弁してください。お願いします。また明日。Album 2007年1月8日 (月) 11:44 (UTC)

私の政府の通達に関する見解は「個人的」なものではありません。日本国憲法21条に書いてあることです。政府の通達が「禁止」したことに自治体や国民に対して強制力があるという判例があるなら提示してください。また、アメリカ最高裁が「アファーマティブアクションを義務付ける法律を違憲」としたという記載については、これは完全に事実と異なります。「Affirmative action in the United States」の「Legal History」の項をチェックしてみましたが、Hopwood v. Texas(1996年)、Gratz v. Bollinger(2003年、ミシガン大学のケース)など個別の大学の入試制度などを違憲とした判例しかありません。すべての判例を示して「判例がない」ことを証明するのは悪魔の証明でしょうが、どんなに明らかなウソでも「要出典」とすれば書いても良いのでしょうか?そのほかにも、私は上記のノートでいくつかバイアスの例を挙げました。私は語尾などを含む元記事の多くの部分に反ジェンダーフリーのバイアスがかかっていたので大幅に修正にしたものです。政府通達の件以外で、私の編集にシステマティックなバイアスがかかっていること、そして元記事のほうが私のものよりも中立に近いということを示せないのであれば、私の編集をすべて削除するよりもそれをベースに修正するほうが望ましいことを承認していると同じことです。私がガイドラインに違反したと言うならどのガイドラインのどこに違反したのか提示してください。それを受けて修正しますが、何度も申し上げたように、重要なことは私の編集と元記事のどちらのバイアスが全体的に強いかであって、バイアスの弱いほうをベースにするべきだということです。 --125.236.177.43 2007年1月9日 (火) 01:53 (UTC)

ひとつひとつ行きましょうか。まず、事実として、内閣府は都道府県に対して「ジェンダーフリー」という用語を使わないように通達を出した、と。これは出典ある事実なので、政府の判断が正しいかどうかはともかく、事実として記載する。そしてそれだけでは中立を欠く、という貴方のような視点は当然あってもよいもので、それならば例えば若桑みどり氏などが、内閣府の判断を批判した文書があれば、その批判も出典を伴って書く、と。これでウィキペディアが規定するところの中立性(Wikipedia:中立的な観点 )が保たれる、ということですね。異なる観点を併記する、ということです。「中立性を保つ為に出典なしでも私の反論を書いちゃえ!」はダメです。反論にも出典が必要です(Wikipedia:検証可能性)。一つ付け加えると、政府が通達を出したからといって、一般市民が従う必要がないことは、もちろんです。また上野千鶴子氏のように「男女平等でいい」というのもありですし、「ポンポコ」と呼ぶのも、憲法に保証された表現の自由でしょう。貴方が変えてしまった「結論」とは「政府が示した結論」という意味であって、「憲法上あるべき姿」などは最初から私は議論の対象としていません。「出典ある記述を削ってまで、中立と称して自分が気に入る記載に大量編集した」という行為をリバートしたのです。あなたの編集で関連リンクまで別項目に分断されて記事の出典のつながりが破壊されてしまったことも、まだお気づきで無いでしょう。「どこですか?」なんて聞かないで下さい。「差分」で履歴をたどってご自分の過去の行為を、自ら確認して下さい。また明日参ります。--Album 2007年1月9日 (火) 03:51 (UTC)

①本文から内閣府の通達の記述を消さない事。②内閣府の通達への批判を書くならば、出典を伴ってすること。・・・この2点に同意されるならば、次の「アファーマティブアクション」に議題を移したいのですが、いかがでしょうか?また、明日参ります。--Album 2007年1月10日 (水) 11:32 (UTC)

中立的な観点070213[編集]

  • 「ジェンダーフリーにおける生物学的問題」を見出しごと削除し、また書籍の主張立場を変更するIP氏がいますが、そうしなければならない理由があるのならばここで議論を提起してください。不毛な編集合戦を招かないために、ここへ誘導します。--Tomo_suzuki 2007年2月13日 (火) 13:45 (UTC)
  • 「ジェンダーフリーにおける生物学的問題」を見出しごと削除したのは、あからさまにジェンダーフリー批判と思しき中立性に欠いた文章だと思って削除しました。また、書籍の主張立場の変更は、文字通り、「肯定的意見」ではなく、「中立的意見」だからです。詳しいことは書籍を手に取るなりリンクを読むなりしていただければわかりますが、この人たちは「ジェンダーフリーに賛成」ではなく、「うそやデマ、妄想からなるジェンダーフリーバッシング批判」をしている人たちです。以上の署名の無いコメントは、58.88.58.29会話/whois)氏が[2007-02-13T13:56:18]に投稿したものです。
IP氏には、あの「バックラッシュ!」が何と何の中立なのか明確にして欲しい。バックラッシュ派の意見で半分が占められているとでも?Album 2007年2月13日 (火) 14:01 (UTC)
あの本は、ジェンダーフリーに対して「賛成」でも「反対」でもなく、単に「バックラッシュ批判」の本です。ジェンダーフリーに対して賛成も反対もしていない本は、中立でよろしいのではないでしょうか。 58.88.58.29 2007年2月14日 (水) 09:29 (UTC)会話/whois以上の署名の無いコメントは、58.88.58.29会話/whois)氏が[2007-02-13T14:14:04]に投稿したものです。
バックラッシュ派はジェンダーフリーを批判する人々ですよね?その彼らに反論の紙幅を半分とっていたら、中立かもしれませんね(笑)。ところがあの本は戦闘モードですよ。一方的な攻撃。あれを中立と表現したら、ウィキペディアの立つ瀬がない。百科事典なんですよ?Album 2007年2月13日 (火) 14:25 (UTC)
そんなことを言ったらこのジェンダーフリーの項目自体バックラッシュ派の考えが元になっていて、到底中立とはいえませんが?「バックラッシュ!」については別の項目を用意して置きました。58.88.58.29 2007年2月14日 (水) 09:34 (UTC)
ウィキペディアの中立とは「異なる観点を好意的に併記する」ということです。どっちつかずの記述をするという意味ではありません。私が案内したWikipedia:中立的な観点 を、もう一度お読み下さい。--Album 2007年2月14日 (水) 09:46 (UTC)

「ジェンダーフリーをめぐる論争」の項目と、その中の章の構成と見出しについてです。この段が「論争」の項であるにもかかわらず、2つ目以降の事例に関わる見出し(と、文章の内容)が全て批判する側に焦点を当てたものになっています。そのため、現状では、中立的な観点から言って、偏りが顕著だと思います。文章構成を大幅に変えるのは大変ですし、私にも今のところできそうにないので、この論争の項目に「観点」の記述を追加しました。賛成側の指摘と反対側の指摘が対象となるような見出し(及び構成)にするか、あるいは「論争」ではなく「批判の事例」のような形式にするまでは、「観点」の表記は残しておいた方が良いと思います。--61.24.252.46 2007年4月18日 (水) 14:50 (UTC)

Wikipedia:検証可能性をご案内しておきます。以前から思っていたのですが、この項目は独自の調査が多く、また出典として認められない「個人サイト」や「個人ブログ」を多く含んでいます。推進派のも否定派のも、個人サイトや個人ブログはバッサリ削ってしまいたいのですが、いかがでしょうか?かなり批判派の記述が削れると思いますが。--Album 2007年2月22日 (木) 12:52 (UTC)

個人ブログといってもそのブログ内に出典があれば出典として認めてもよいのでは?あなたが削除した個人ブログにはちゃんと出典がありました。あなたがジェンダーフリーに反対なのは構いませんが、それを編集に反映させないでください。Narita top road 2007年2月24日 (土) 02:00 (UTC)
情報源の明記は、ありそうで、無かったです。仮に明記されていても、そもそも個人ブログは不可です。「出典さえ含めばよい」ならば、私のブログを載せてもいいのでしょうか?そんなことを許せば百科事典ではなくなってしまいます。処理すべきサイトは、まだ本文に多そうですね。Album 2007年2月25日 (日) 00:44 (UTC)

現状では教育現場の実践例としてあがっているものに出展がほとんど書かれていません。 本来ならこのような場合には独自調査であると判断して削除してしまっても良いと思いますが、以前一度問題になっているので今回「要出展」とだけ書いておきました。問題があるようなら各例に出展を明記して検証可能な状態にしてもらえればと思います。--60.35.154.250 2007年4月4日 (水) 14:46 (UTC)

今、ぱっと思い浮かぶのは自由民主党の調査結果ですね。百科事典の出典としてふさわしいかどうかは微妙です。それに、もう過去のものになった実態でしょうね。--Album 2007年4月5日 (木) 00:28 (UTC)
もし自由民主党の調査結果に載っているのであれば(私には対応関係が不明な部分があったので編集してませんが)、例えば「自民党は、○○年○月に○○による調査を行い、その結果から次のような事例があると報告した」というような、調査結果を示す形に変えてはどうでしょうか。あと過去のものでも出展があるなら過去のものとして出展明記はできるはずですが、現状の実践例の教育関連の部分には厳密な出展がほとんど載ってなくて調べようがありません。もちろん(ふりーせる)みたいなあやふやなのはありますが厳密な明記ではなく検証可能とはいいがたいです。もし過去の例などの厳密な出展をご存知でしたら明記をしていただければと思います。--125.201.92.72 2007年4月5日 (木) 14:57 (UTC)
自民党に寄せられた事例から拾い出して、どれだけ百科事典的価値を持つか、ですね。私は個々の曖昧な事例は消してしまいたいのですが、以前、編集合戦を招いたので自重しています。私は、編集合戦をして、その結果、項目は保護、相手は投稿ブロック、というパターンが多くて少し反省しているところです。様子を見ながら考えてみます。先日は石原慎太郎で大変でした。よろしければ、そちらのノートも見てみてください。少しジェンダー問題もあります。--Album 2007年4月10日 (火) 06:50 (UTC)
自民党の調査結果というのが自民党が行ったアンケートの結果のみを指すなら、本文中でも「アンケート結果」として示すべきで、「事例」としてあげるのは不適切だと思います。もしアンケート結果しか根拠がなく、しばらく様子を見ても「団体等の活動」であがっているような具体的で明確な出展の記述がなされないようなら、「事例」や「実践例」の項目の中からは消してよいのではないかなと思います。--61.24.252.46 2007年4月14日 (土) 17:45 (UTC)

ジェンダーフリーの実践例等の「教育現場」の各項目についてです。現在は修正されていますが、つい最近まで、出典に「噂」と明記されている内容や、第1次情報があいまいな記事に基づいた内容などが書かれていました。他の項目についても検証が不十分なまま書かれている可能性があります(出典不明のためその確認もできない状況です)。そのため、明確な形で厳密に記述された検証可能な出典がおおかた出そろって(もし必要ならば)それに基づいた修正がなされるまでは、この部分に「未検証」のテンプレートをつけたままにしておいた方が良いと思います。--61.24.245.81 2007年5月18日 (金) 11:50 (UTC)

ばっさり削ってしまいましょう。出典があるなら、付記して戻ってくることでしょう。--Album 2007年5月18日 (金) 12:52 (UTC)
横槍、失礼します。以前、「ジェンダーフリーの実践例」で疑問を呈して、あまりの混乱ぶりに飽き飽きして長らく見てませんでしたが、予想通りの展開のようですね。
今のこの記事の感想を言うと、「事実を全て書こうとしすぎている。」の一言に尽きると思います。百科事典が百科事典として機能するためには、やはり「物事の全体を知るための扉を形成すること」が重要だと思います。具体例まで言及するのはでしゃばりすぎだし、事の経緯を事細かに記述しようとするのもまたやりすぎでしょう。だからこそ、「独自研究」に陥ってしまうのだと思います。事の詳しい事実は外部のサイトに任せればよいことですし、そのほうが適時状況を反映した事実を知る手がかりを与えられると思います。一目見て概要がわかる程度が百科事典としては秀逸な記事だと思います。--220.49.95.78 2007年6月6日(水) 15:06 (UTC)
ご指摘の内容について確認したいのですが、現在の「事例」が書かれた個所が、この項の冒頭に張られたテンプレートの「独自研究」に該当するというご指摘でしょうか?もしそうでしたら、まず、この項のテンプレートからたどれる「Wikipedia:独自研究は載せない」をお読みになって、Wikipediaにおける「独自研究」の意味をご確認ください。一般の使われ方とは若干意味が異なっていて、信頼できる媒体において発表されていない内容に基づく記載を独自研究としていると思います。また、同ページには『なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の調査」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。』とも書かれていると思います。私は、以前あげられていた事例には出典の怪しいものや不明なもの、複数の意味に解釈できる記載などがあったため、このガイドライン等の推奨されている方法にできるだけしたがうように、できるだけ出典にもとづき誤解がない文章になるように内容を修正したつもりです。現在の内容が『「独自研究」に陥って』いるとするのであれば、テンプレートの先の定義とてらしあわせてどこがどのように「独自研究」に該当するのか具体的にご指摘ください(可能ならばその問題を改善した文章の案などを示していただければと思います)。私自身は、このテンプレートは、例えば「ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況」の前半など、いくつかの個所で出典不明の記述がなされているため貼られているのだと考えています。
それから、「具体例まで言及するのはでしゃばりすぎ」などの指摘についてですが、具体的にどこをどう修正すべきと考えているのかを明確にしていただければと思います。私は、以前の版ような短い文で出典にないような複数の解釈ができてしまう書き方をすることは読者に誤解を与えることになるため適切ではないと考えています。もし仮に、ご指摘の提案の具体的な内容が、「以前のような記述に戻して出典を付与する」という趣旨でしたら私は反対いたします。(個人的には、事例を全て削除するという選択肢ならありかもしれないとは思っています。ですが、「Wikipedia:編集方針」等のガイドラインなどを読む限りでは、私には現時点では説得力のある根拠をうまく示せません。少なくとも「でしゃばりすぎ」などだけでは根拠が薄いと思います)。--61.24.240.17 2007年6月7日 (木) 12:09 (UTC)
どうも。220.49.95.78です。とどのつまり、「独自研究」であることは、「論文」であることに近いと思います。論文では、出典や信頼の置ける情報源の明示は当然ですが、同時に「それら有力な情報源を元に(AはBだからCだろう)というような推論や意味づけなどが行われます。ウィキの「独自研究」において、こういったことは「特定の立場を推し進めるために、都合の良い材料を寄せ集めて作成した内容を、記事に加えてはいけない」に反すると思います。
そこで、「ジェンダーフリーの実践例等~教育を受ける生徒達の意識」までの具体的な事例を見ると、これらの記述には問題があると思います。事例においてはそれがジェンダーフリーを正しく理解して推進しているものなのか、曲解・誤解して推進しているものなのかなど、その事例に関する「性質」が確定し切れていない事例を漫然と並べているだけの状態だと思います。性質の良くわからない事例を閲覧者に読ませ、その判断を閲覧者に任せることは、記事の内容のブレにもなるし、事例の性質に一定の偏りを持たせれば、それは「AでありBである、ゆえにCであるという論証」を暗喩的に表現することにもなるでしょう。また、それは中立的観点の問題にもなる。ゆえに、「性質のはっきりしない事例を並べる」行為は避けるべきだと思いますし、検証も性質の確定もなされていない事例を漫然と並べる行為が百科事典として意義のあることとも思えません。そういった意味で「独自研究」的だろう。また、統計的な数字を載せることにも慎重になるべきだと思います。まず、統計というのは調査時点の状態であり、記述した瞬間から過去のことを示すにもかかわらず、数字の与える印象があたかもウィキの記事の観点、さらには現在の一般的な観点かのような誤解を与える可能性は否定できないと思います。また何より、「教育を受ける生徒達の意識」において、「…その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している。」と結論づけた[11]。」というのはあたかもジェンダーフリーの評価が確定したかのような記述を漫然と記載している点は問題だろう。この記事に関しては、あくまで読売新聞の社説独自のの意見・評価であって、決定的で一般的な評価ではない。一種の見解として乗せる価値はあるだろうが、今のままの記述は改める必要があると思う。
上述以外の記述に関しては、個人的な感想として冗長かなとも思うが、問題はないと思う。私が前から主張しているのは事例の漫然とした記載が、中立的観点からも、独自研究の点からも危険だということです。ただ、総体的によくわかっていないものを、個別事例から推論させるような記述に問題があるのであって、事例の記載自体に反対しているわけではありません。価値判断がしっかりなされているような事例(研究者の分析・判断の結果の集約など)なら問題ないし、価値ある資料の統合だと思います。--220.49.95.78 2007年6月12日 (火) 04:13 (UTC)
話はシンプルです。出典があれば良いし、なければダメ、というだけです。どこから来た意見かということが明確に示されていれば出典をもって書けるし、なければどんなに「良識的」と思えてもダメ、ということです。その意味において、「ジェンダーレスとの混同」の項は、削除候補の筆頭でしょう。--Album 2007年6月12日 (火) 14:28 (UTC)
本題に入る前にひとこと。このジェンダーフリーの項には出典のない文がいくつか(というか結構多く)あり、その全てが削除や修正の候補となりえます(可能性としては)。そのうちの一つだけを取り上げて「筆頭」のようなあたかも順位付けがなされているかのような表現を用いることはフェアではないと思います。以下、本題です。
「特定の立場を推し進めるために、都合の良い材料を寄せ集めて作成した内容を、記事に加えてはいけない」の詳細な説明をしている「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の段落をご確認ください。この説明文中に書かれた「AでありBである、ゆえにCである」というケースの具体例「ゴンリという食材には・・・」の解説を読んでいただくと、「ゆえにCである」という記述に該当する個所が「独自研究」とされている事が明確にわかると思います。私には、「Aである」「Bである」の部分については出典が示されていて余計な説明が付与されていない場合は問題視されていないように読めました。もしこの部分が単独で書かれているだけでも「独自研究」に該当すると明確にわかる個所があるのでしたらご教示ください。私自身は、「ジェンダーフリーの実践例等」の節については「中立的な観点」で議論の余地はあるとは思いますが、「独自研究である」という指摘は(一部の出典のない部分を除き)間違いであると思います。
「教育を受ける生徒達の意識」については、私は内容そのものは「独自研究」には該当しないと思っていますが、この「見出し」には非常に問題があり、これと本文の組み合わせが「独自研究」に該当するのではないかと考えています。この見出しであるならば、生徒たちの意識を中心とした文章を書くべきですが、調査結果のデータ以外の部分、特に最後の段落などはご指摘のようにジェンダーフリーに反対する立場にたった「調査結果にもとづく読売新聞の社説独自の意見・評価」に重点をおいた文になっています。これらを例えば「反対・否定派の主張」の項に書くのであれば理解できるのですが、「生徒たちの意識」という見出しを作ってそこに書くのは、ご指摘のような「評価が確定したかのような記述」を、「見出し」を利用して独自に生み出している点で不適切と考えています。その点で修正が必要という指摘には同意します(実は修正したいとは思ってたのですが、どうするのがベターかで迷っていて、私個人はまだ修正に手を出してない状況です)。--61.24.241.20 2007年6月13日 (水) 12:41 (UTC)
どの事例が「独自研究」に抵触するのかということではなく、「ジェンダーフリーの実践例」という項とその中の素の事実の列挙が「独自研究」ではないかということです。いわば個別の内容の信頼性ではなく、記述の形態の信頼性の問題です。そもそも、「ジェンダーフリーの実践例」とする以上はその事例が正しい(と思われる)ジェンダーフリー思想のもとに行われている事例を列挙しなければ意味がなく、それどころか「実践例」としつつその中に過激な解釈や行き過ぎなどの事例を混ぜることで、「ジェンダーフリーの実践には多くの間違いがあるのでこの思想とそれに基づく実践は誤りである」という論理を暗示することにもなる。暗示によって独自の意見を付すことになる。Wikipedia:中立的な観点にも「記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」と有るように、明示しなければ良いという問題でもないと思う。中立的な観点が全体的な方針であるならば、「独自研究」にも適用されるべきだと考えます。これはwikiの中で議論が起こっている記事全般に言えることですが、「暗示」に対して敏感にならなくてはこの種の問題の解決は難しいだろうと思う。そういう意味では、「教育を受ける生徒達の意識」も一種の記述形態による「独自研究」的記事ともいえる。「出典に裏打ちされた客観的事実を載せるだけでよい」というのも問題だということです。
その上でジェンダーフリーの実践例を記載するならば、一般的な例・過激な例・曲解…など、その出典の判断ごとに分類するとか、「ただし、いずれが正しいジェンダーフリー思想の下で行われたものなのかについては明確ではない」などの事例の性質が不明瞭であることを明示する文言を付するとか、何かしらの細心が必要だろう。--220.49.95.78 2007年6月13日 (水) 14:35 (UTC)
つまりは、本当に「ジェンダーフリーの実践例なのか」検証することができない・できていないものをあたかも「ジェンダーフリーの実践例」として載せているのではないかということです。回りくどくなりましたが、こういうことです。--220.49.95.78 2007年6月13日 (水) 14:58 (UTC)(付記)
実際がどうであるか、は関係ありません。わたしたちに求められているのは、「誰が、いつ、どこでそう言ったのか。書いてあるのか」ということだけです。お説のような主張が「出典付き」でどこかに存在するならば、出典付きで併記して下さい。--Album 2007年6月13日 (水) 15:32 (UTC)
「事実の暴露や報道を行う場ではありません。もっぱら知られていない事実を公表することが目的ではありません。事実ならば何を書いてもよいわけではありません。」(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)、「社会生活上の各方面の事項や、あらゆる専門分野の言葉についての説明を記述した辞書」 (三省堂 『大辞林』 第二版)、「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物」 (小学館 『大辞泉』)以上。今の状態は「解説」以上ということです。事実の羅列はただのニュース、事実公表の手法が行き過ぎればただのセンセーショナリズムです。--220.49.95.78 2007年6月25日 (月) 03:40 (UTC)
IP220.49.95.78さんへ。私は、「ジェンダーフリーの実践例」の節は「中立的な観点」では議論の余地がある(というか個人的には中立的な観点では問題がある)と思っています。「中立的な観点」に関する「暗示」に対する懸念については、私も同意見ですし合意いたします。ですが、もし仮に『「独自研究」のテンプレートの説明内には該当する個所がないにもかかわらず、「中立的な観点」に該当する部分があるからという理由で「独自研究」であるとみなしている』のであれば、それは拡大解釈だと思います。テンプレートにある「独自研究」に該当するというのであれば、『「独自研究」のテンプレートの説明』との対応関係を示して具体的な指摘をしてください。あるいは、「独自研究」という指摘はとりさげて「中立的な観点」の問題として議論するというのであれば、私にも合意できる点があると思います。もちろん、「ジェンダーフリーの実践例」に該当しないものが載っているので削除すべきという指摘でしたら、検討の余地があると思いますので、問題となる事例を具体的に示してください。
それから、ご提案いただいた具体的な修正方法についてです。まず「一般的な例・過激な例・曲解…など、その出典の判断ごとに分類する」という方法については、例えば『「一般的な例」と出典に記述されていない事柄』を「一般的な例」と書いてしまうと、それは「出典のない独自研究」とみなされてしまう可能性が非常に高いです。賛成の立場か反対の立場かに分ける程度であれば、出典の文言などを示して判断することがある程度可能だとは思いますが、少なくとも私自身は「独自研究」にならないようにこの提案を実行するのはとても困難に感じます。もうひとつの具体案である「ただし、いずれが正しいジェンダーフリー思想の下で行われたものなのかについては明確ではない」と書く事についてですが、これも出典がないと、この文自体が「独自研究」に該当してしまう可能性があります。確かに私も疑問に思っている部分が実はあるのですが、もし「ジェンダーフリー思想の下で行われていない」ものが含まれているのなら、具体的にその個所と理由を示したうえでそれを除去するか、あるいは別の場所に移す事を検討する方が良いと思います。
「教育を受ける生徒達の意識」については、私とは解釈は違いますが「問題がある」との認識では一致しているので、コメントは避けます。
最後になりますが、「Wikipedia:検証可能性」などで使われている「検証する」という表現の意味は、一般に使われている用法からすると少し特殊で、「中身が真実かどうか検証するという意味ではない」ので、その点もご確認いただければと思います。--61.24.245.72 2007年6月14日 (木) 12:27 (UTC)
「>それから、ご提案いただいた具体的な修正方法についてです。まず「一般的な例・過激な例・曲解…など~」でご指摘の通り、私の解決方法でも「独自研究」の域を出ません。それを解っていて書きました。つまりは、現在進行形の「ジェンダーフリー」の事例を百科事典に加えることは、どのようにあがいても「独自研究」的になってしまうということです。私のやり方でも、現状では推進派の肩を持つことになるでしょう。そこのところをお分かりいただければと思います。再度言いますが、そもそも「ジェンダーフリーの実践例」であることの根拠がないのです。「何がジェンダーフリーだったのか」の解らないうちに「実践例」とすることに問題があって、将来、研究者等によってジェンダーフリー活動の研究成果が蓄積され、ジェンダーフリーとは何だったのかが解明されてから書くべきだということです。中立的観点と独自研究との関連に関しては、『独自研究は載せない』の「独自研究排除の方針の本来の動機は、~この方針は編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。」「独自研究と認定される編集は、以下のようなものです。~編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する。」ではダメですか?記述とは有るが、明示的か暗示的かは問われていないし、「ジェンダーフリーの実践例」は、既存の事実のソースは求められても、それは論証を加えられた結果、ジェンダーフリー思想と合致するものとしての「ジェンダーフリーの実践例」という暗黙的な分析の部分の検証が抜け落ちていると思いますが。検証可能性については、厳密には独自研究とは異なると思いますが、それでも実践例では問題になると思います。羅列される事実は(Wikiにおける)検証可能でも、実践例と銘打つ以上、「実践例であることのソース、もしくは基準としている論拠および出典」がないと検証可能性が明確ではないと思います。--220.49.95.78 2007年6月25日 (月) 03:40 (UTC)
応答ありがとうございます。ご指摘いただいたように、テンプレートでは「記述」や「加筆する」ことを問題にするような表現を使っていて、項目を列挙している部分でも具体例をあげている部分でも「どの*記述*がまずいのか」を示す形になっていると思います。それに対して暗示している例や内容は見つけられなかったのではないでしょうか?その一方で「中立的な観点」には「暗示すべきでない」と明確に記されています。なので、やはり私は「独自研究」のテンプレートは「具体的な記述」についての話だと思いますし、その意味で、今の事例列挙(中高生の意識の部分は除きます)を「独自研究」とみなすのは拡大解釈だと思います。私自身は「独自研究に当てはまる」という指摘には明確に反対の立場を示したいですが、例えば「ジェンダーフリーの実践」であることが明確にわかる出典がないものは載せるべきでない、等の、それ以外の提案については、具体的に削除や移動や修正すべき内容の案を示していただければ、賛同できる部分もあるだろうと思っています。ただ「事例」全てを削除するという提案は、個人的には選択肢のひとつとしてはありかなとは思うのですが、Wikipedia:編集方針のガイドラインなどを見る限りは難しい(するにしても移動か修正まで)んじゃないかなと思います。
あと、もしかして『「独自研究」的』というのと「独自研究に該当する」というのを別の意味で使ってますか?もし「独自研究に該当する」という指摘をしたつもりがなく、『「独自研究」的』だとしか指摘していないというのでしたら、私の早とちりです。すいません。ですが、もしそうであれば『「独自研究」的』という指摘は雰囲気としては理解できるけれども、その理由だけで削除などをする事は難しい(というか、それだけで削除するのは(根拠も薄いし)あまり良くないのではないかな)と私は思います。--61.24.243.241 2007年6月25日 (月) 14:15 (UTC)
上では最初の提案から発展した議論がなされていますが、以下は私がした元の提案についての話です。既にAlbumさんが対応なされていますが、教育現場の事例として明確な形で厳密に記述された検証可能な出典がおおかた出そろったので、とりあえず『ジェンダーフリーの実践例等の「教育現場」につけていた「未検証」のテンプレート』は外してよいと思います(これは上で発展している議論や他のテンプレートとは無関係です。私自身がした提案に対する最終的な応答として書き込みました)。--61.24.245.189 2007年6月29日 (金) 12:16 (UTC)
ええっと、ここで良いでしょうか?たびたびすみません。読売新聞の件なのですが、これは一連の記事なのです。図書館でバックナンバーをご確認下さい。17日に読売が報じ、その読売がその記事を受けて報道した当事者として20日に社説を出しているわけです。もちろん一新聞社の「意見」なのですが、これは方針の「意見は書くな。ただし事実としての意見を書け。」に該当します。誰の意見か(読売新聞社説であること)を明確にしている以上、方針に順じて記載することが出来ます。ただ消したお気持ちも分かります。この場合、この調査と報道を受けた対論を併記することが適当だと考えますが、いかがでしょうか?女性学の類書で見た気がします。--Album 2007年7月15日 (日) 09:37 (UTC)
それと、けして読売新聞はジェンダフリー反対派ではありません。問題とされているのは「フリー」と言いながら、「男らしさ・女らしさ」にだけは否定的、という一部の「倒錯した」ジェンダーフリーですよ。どちらかといえば、読売新聞は左派なのですから。--Album 2007年7月15日 (日) 09:51 (UTC)
どうもです。私は「移動」したのであって「消した」わけではないので誤解しないでください。それから、「賛成派の主張」「反対・否定派の主張」という見出しは、よく考えたらあまり適切でないように思います。どのような問題であれ部分的に賛成したり反対したりする事はあるわけですから、○○派のような論者をグループ分けするような見出しよりも、「ジェンダーフリーに賛成する意見」「反対・否定する意見」のような意見を分ける見出しの方が妥当ではないでしょうか?えと、ただ、ちょっと申し訳ないのですが、個人的な事情でしばらくは今までのような頻度では編集や対応をする時間が取れなくなりそうなので、納得できない部分もありますが、ここについてはしばらくは他の方々の編集の様子を見まもろうと思います。すいません。--61.25.156.3 2007年7月19日 (木) 11:31 (UTC)

荻上チキ氏について[編集]

荻上チキ氏は自身のサイト「ジェンダーフリーとは?」において、ジェンダーフリーについて「全く問題がないなんてありえない。どんな考えにも問題はある」と書いています。そんな人のどこがジェンダーフリー肯定派なのでしょうか。Albumさんこそバックラッシュ派じゃないんですか?そんな人がいくら中立性について言ったとしても全く説得力がありません。Narita top road 2007年2月25日 (日) 01:01 (UTC)

「誤解を解く」としてあのサイトを作り、グーグルでのサイトの検索順位が上がるように依頼して回っていましたよね?めぐりめぐって私のところにも話が回ってきましたよ。次第にトーンダウンして距離をとるようになってきたのは微笑ましいと思いますが。ちなみにジェンダーフリーはあまりに多義的なので、私としても、もはや何を批判したらよいのか、何を評価したら良いのか分かりません。実体がなくなりつつあります。推進派の存在も。最終的に本文に書けるのは(残るのは)「誰が何と言っているか(言ってきたか)」ですね。いずれにせよ、男女平等は大切、しかしジェンダーフリーという用語は死語になっていくのでしょう。Album 2007年2月25日 (日) 01:29 (UTC)
あのサイトを作り、グーグルでのサイトの検索順位が上がるように依頼して回っていたのは、ジェンダーフリーに関して荒唐無稽なデマが多く、そういうのは議論から退場してもらって、その上できちんと議論してほしいという意図で行われたものです。詳しくはAERAに取材を受けたときのレポ ~まとめサイトの作られ方~をご覧になればわかると思います。その中では荻上氏はジェンダーフリーを支持する気は全くないと仰ってますし。[14]Narita top road 2007年2月25日 (日) 03:39 (UTC)

Unreferenced テンプレートのリダイレクト化について[編集]

お邪魔します。以前に Wikipedia:井戸端 (告知) などでお知らせした通り、Template:Unreferenced を廃止し、Template:未検証 へのリダイレクトとする作業が大詰めを迎えております。今の流れですとその作業は最短で 4/30(日)に行う予定で、その後は本項目で見えている Unreferenced テンプレートが「未検証」に変わることとなります。より相応しいテンプレートがございましたら置き換えのご検討をお願いします。--スのG 2007年4月24日 (火) 02:45 (UTC)

冒頭の説明について[編集]

冒頭に、用語の直接的な意味の説明以外に、近年の動向として「行政の動向」「反発の動向」の2つを載せるか載せないかで編集合戦にかなり近い状況が発生しています。重複している点、動向の一部を意図的に選択して載せている点、の2点で問題があると思います。近年の動向については本文の方に載せることにして、冒頭には用語の直接的な意味の説明だけを載せるのが、編集合戦を避ける意味でも中立的な観点を守る意味でも重複をなくす意味でも良いと思います。反対意見がないようなら少し待ってから削除したいと思います。--61.24.243.241 2007年6月23日 (土) 04:04 (UTC)

提案から2週間以上経過しましたが、反対意見がなかったため、該当個所を上記の理由で削除しました。--61.24.241.10 2007年7月8日 (日) 09:09 (UTC)
2週間もお待ちいただいていたようで、ここでの提案に気が付かなくて申し訳ありません。用語そのものを「用いないように」と内閣府が通達を出すのは極めて異例であり、百人百様のあいまいな定義に併記する形で重要な既存事実を書くべきと思います。今の記載の定義の記述は私の手によるものですが、たとえば伊田広行氏であれば違う定義を書くことでしょう。そのようにあいまいで混乱した(私の提示した)定義が一人歩きしても困ります。ちょっと辞書を繰ったのみですので。この用語をめぐる条項は混乱していて一概に言えず、政府は使わない方向であることが最初に明確に示されるべきと考えます。--Album 2007年7月8日 (日) 13:43 (UTC)
返答ありがとうございます。以下は「基本的には、冒頭部分では、本文への導入として用語の直接的な意味の説明を簡潔に載せている」という点に合意ができているものとして書きます(合意できないようでしたら、下の話に入る前にこの点の返答をいただけると助かります)。
人によりある程度定義に違いがあるという点には合意いたします。しかし「百人百様のあいまいな定義」は言い過ぎだと思いますし、もし現実にそうであれば、そもそもこの項目自体をWikipediaに載せるべきではないと思います。私は「ごく一部で用いられる例外的な定義などを除き、*ある程度*広く共通に認識されている解釈」はあると思いますし、信頼できる出版社が編纂した「辞典」には「基本的にはそのような解釈に基づいた記載がなされている」とみなして良いと思います(出典の信頼性に疑問があるなら話は別ですが)。また、Albumさんが追記した政府の通達の出典にも「この用語をめぐる誤解や混乱を解消するため」と「誤解」という言葉(正しい理解とは違う誤った理解をするという意味の言葉)が使われており、ある程度共通の認識はあるものとして通達の文章が書かれていると私は思います。以上から、ご自身が出典として使われた「辞典」に記載されている内容を「あいまいで混乱した定義」とまでみなして単語の意味の説明とは別の補足をすることには少し無理があると私は思います。あるいは1つの辞典では不十分という指摘であれば、別の辞書や辞典などを参照して修正すべきではないでしょうか?
一方、Albumさんが記載の元にしている出典は、政府が地方公共団体に対して用語を使わないようにと指示をしているものであり、用語の直接的な意味については何もふれていませんし、定義が多義的かどうかも書かれていません。以上の理由や、重複している点、編集合戦に近い状況になっている点など前回記述した理由も含め、この記述は冒頭からは削除すべきだと思います。--61.24.249.30 2007年7月9日 (月) 15:00 (UTC)
「現代用語の基礎知識2007」(983ページ)にもこの用語は記載されており、そのわずか10行程度の5センチ角内程度の説明の中にもこの内閣府の通達の話が「不使用通知」として掲載されている、ということだけ、本日は書いておきます。--Album 2007年7月10日 (火) 14:02 (UTC)
出典がある旨了解しました。私は「現代用語の基礎知識2007」は確認していませんが、「言葉の直接的な意味の説明文ではないが辞典にも載っているため例外として注釈的に載せる」ということであれば了解します。--61.24.241.176 2007年7月15日 (日) 06:57 (UTC)

Globalize[編集]

本項は終始日本の事情のみを書けばよいという性質の記事ではないと思います。国際的な視点からの加筆が求められます。--グローバライ 2007年9月25日 (火) 12:18 (UTC)

確かにそうですね。日本の記述がほとんどとなっています。米国では、多くの場合、「文章の書き方」でこの語が使われるようです。「ジェンダーフリー・ライティング」ですね。良い日本語の文献が出ると良いですね。--Album 2007年9月25日 (火) 15:16 (UTC)