ノート:マリ・キュリー
この「マリ・キュリー」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2011年1月12日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
大学の名称に関する提案
[編集]ウィキペディアでは、キュリーの出身校の説明で、「ソルボンヌ大学」とあります。が実は、ほとんどの本では、「キュリーはパリ大学出身」とあります。パリ大学との区別が不明であり、私自身、「え?どっちが正しいの?間違いでは?」と思ってしまいました。大学の名称を巡り、但し書きなどしていただければ、よりわかりやすいと思います。どうか、お願いいたします。--以上の署名のないコメントは、118.6.33.5 (会話/Whois)さんが 2010年9月11日 (土) 05:34 (UTC) に投稿したものです。
- 「ソルボンヌ」はパリ大学(もしくはその一部)の通称で,そのことは「ソルボンヌ大学」のリンク先(パリ大学に転送される)記事からだいたいわかるはずです.大ざっぱにいえば「ソルボンヌ大学を卒業」と「パリ大学を卒業」のどちらも正しいということになります.(手許に厳密な考証をするだけの資料がないので確かなことはいえませんが)1890年代の改革・再編によってパリ大学が「大学」として確立したことや,娘のエーヴによる伝記(エーヴ・キュリー著,川口・河盛・杉・本田共訳『キュリー夫人伝』白水社 1988年 ISBN 4-560-02937-7)の学生時代の記述には(本人の手紙も含め),つねに「ソルボンヌ」,「ソルボンヌ大学」とされていることなどから考えると,「ソルボンヌ大学を卒業」のままで問題ないと思われます.
なお大学の名称に関することはマリー・キュリーに直接関係する事柄ではなく,また「パリ大学」の記事へリンクも張られているので,マリー・キュリーの記事に大学の名称に関する注記をつける必要はありません.--HIw 2010年9月17日 (金) 16:04 (UTC)- ソロボンヌ大学には、昔はいけなかっや--153.129.192.208 2022年12月12日 (月) 01:04 (UTC)
- 今回、加筆において複数の書籍を当たりましたが、面白いことに疑問に感じられた部分が多くぼやかされていました小生が用いた『キュリー夫人伝』は白水社2006年新版ですが、そこでは「大学」もしくは「ソルボンヌ」といまひとつ明瞭ではなく、多く「ソルボンヌで」とか「ソルボンヌは」などの用例があり、それはパサコフ著の書籍も同様でした。『人物で語る物理入門(下)』p.98で「ソルボンヌ大学(パリ大学の通称)」とありましたので、今回は「パリ大学」を正式名称と理解して記述を統一し、「ソルボンヌ大学」をいう表示を避けました。なお、これとパリ第6大学en:Paris VI Universityや英語版で統合が提案されているピエール・マリ・キュリー大学en:Pierre and Marie Curie Universityとの関係は、他の有識者にお任せすることにします。--Babi Hijau 2010年12月17日 (金) 17:05 (UTC)
2010年12月17日(金)16:16UTC改訂について
[編集]一応書いておきますが、参考にした文献は(愛称マーニャを除き)パリ時代以降はすべて「マリー」表示でした。--Babi Hijau 2010年12月17日 (金) 16:23 (UTC)
誤植?
[編集]「死去」の節に、
- 7月4日水曜日、マリはで亡くなった。
とありますが、「は」と「で」の間には何かの語句が入るはずだったのでしょうか?ご確認よろしくお願いします。--Occhanikov 2010年12月25日 (土) 14:26 (UTC)
- 誤植、です。推敲時に「サンセレルモ」を入れていたと思うのですが、すぐ前の文書で位置を示していたので削った際に「で」を消し忘れていたと思います。すみません。すでにIPの方が「フランス」と加筆されていますが、こちらの方がいいかも知れません。「人物>ポーランド人として」部分とダブりますが、フランスで死を迎えたことはひとつの重要な意味を持つと考えます。どうもこのテが多くて申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。改訂戴いたIP氏にも御礼申しあげます。--Babi Hijau 2011年1月3日 (月) 17:38 (UTC)
2011年5月17日 (火) 16:22UTC改訂について
[編集]Wikipedia:レイアウトの指針というものに記事の構成がありますが、それに合うよう改訂する方には申し訳ありませんが考えて戴きたく存じます。記事を書く方としては、「参考文献」や「関連項目」節に解説をつけて出典たる脚注をつけることもあるわけです。レイアウトの指針に無い「読書案内」節も同様です。小生は今まで行ったことはありませんが、もしかしたら「外部リンク」節に脚注をつけるケースもあるやも知れません。
レイアウトの指針がどういう状態を想定していたか知るつもりはありませんが、Wikipediaが持つべき態度が、出典を重視し、最近流行の「参考文献のどこから情報を得たかをインライン(脚注)で示す」ことを許容するなら、なおさら「脚注」の前に「参考文献」が示されるべきと思いますが、いかがでしょうか。なお、Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針で同じ趣旨の提議が何度かあった事は理解していますが、これが潰えた理由は「実際の記事でどうか」が俎上に上がらなかったことが一因と感じています。そのため小生は「記事上で具体的にどうか」を試していました。
ここは本件の議論をすべき場ではありませんので、疑問を感じられましたら先ず小生のノートにて然るべき議論の場なりご提案戴きたくお願い申し上げます。 --Babi Hijau 2011年5月17日 (火) 17:06 (UTC)
ラドンの利用法に関する誤りの訂正について
[編集]第一次世界大戦の節に下記の一文がありますが、この内容が誤っていると思われるため、改訂を提案いたします。
レントゲン装置にはより効率的なラドン(気体)を使うようになり、マリはボルドーから持ち帰った金属ラジウムを用いてチューブにラドンを詰める作業も行った[75]。
キュリー夫人傳(1956年 白水社)の記述によれば、ラドンは≪放射物治療≫(原文ママ)に用いたのであって、レントゲン装置には利用されていません。また、日本語版のページには自身の所有するラジウムから生じたラドンを治療に活用したことも記載されていません。このため、以下の2点を提案します。
1.「レントゲン装置にはより効率的な~」の一文を削除する。
2.「第一次世界大戦」の節の第一段落にラジウムをボルドーに疎開させる記述があるので、この段落末尾に以下の一文を追加する。「なお、この時ボルドーに疎開させたラジウムは1915年にパリに戻された。これは、ラジウムの壊変で生じるラドンを放射線治療に用いるためであり、生成したラドンをチューブに詰める作業はマリ自身の手によって行われた[75]。」
2については、この文を加えることによって文章の流れが悪くなるようであれば、注釈として記載する方法もあるかと思います。いかがでしょうか?--Atsushi.H(会話) 2023年10月24日 (火) 03:31 (UTC)