ノート:ラッセルのパラドックス
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床屋のパラドックスは入れておいても面白いような気はしますね。Buyobuyo 2007年10月20日 (土) 07:49 (UTC)
- うーん..13:41, 19 October 2007 (UTC) の編集はあまりに小ネタに走りすぎていると思って差し戻してしまったのですが、英語版のen:Russell's paradox#Russell-like paradoxesにようにパラドックスの「作りかた」をちゃんと説明して一個ぐらい例としてあげておくのならいいのかもしれません。--Makotoy 2007年10月20日 (土) 10:25 (UTC)
ラッセルのパラドックスとZFC
[編集]「公理的集合論においては、集合として扱える集まりを制限しているので、ラッセルのパラドックスは回避される」というのは、よく聞く通説ですが、不正確です。論理的には逆で、「ZFCにおいて、すべての集合の集合は存在しない。なぜならば、仮に存在すると仮定するとラッセルのパラドックスが生じ、矛盾するからである」となり、ラッセルのパラドックスのほうが、集合の制限の根拠です。 本文の記述は、どう直しましょう? Wd (08:03, 14 January 2005 (UTC) --Makotoy 2007年10月20日 (土) 10:25 (UTC)による追記)
- 興味深いコメントを読んで、一つ小噺など。
- 八 : おい熊さん、驚くなよ。ZFCってやつにおいては、すべての集合の集合は存在しないんだってよ。
- 熊 : えーっ。初耳だねぇ。
- 八 : 驚いたかい? でも本当なんだってよ。聞いたところによると、もしもそんな集合が存在したらだ、たちまちラッセルさんのパラドックスってぇのが生じて、矛盾しちまうんだってんだからよぉ。矛盾だってよ。桑原桑原。
- 熊 : へーっ。矛盾だってかい。そりゃぁ、そんな集合が存在していてはいけないわな。でもさね、八っつぁん。実のところはあるじゃないか、すべての集合の集合ってやつは。違うかい?
- 八 : そういわれてみればそうだなぁ。こりゃまたかつがれたかな。
- ご隠居 : おいおい、八や。さっきいってたあれ... ZFCってやつを忘れてるんじゃあないかい?
- 八 : おっとそうでした、ご隠居。それだ。ZFCってやつで考えると、すべての集合を集めたものっていうのは集合とはいわないんだそうだ。
- 熊 : 一体全体なんなんだい、そのZFCってやつは? よくわからないけど、今言ってたのは、お前さんが最初に言ったことを繰り返してるだけじゃないのかい?
- すみません。真面目にやります。ZFCでは、仰る背理法によらなくても正則性の公理というやつのおかげで、すべての集合を集めたものを排除できるのではなかったでしょうか? - Kk@「Wiki Way」紹介中
ラッセルのパラドックスに持ち込んでも証明できます。正則性公理(別名 基礎の公理)を使っても証明できます。一つの定理に複数の証明があるのは、珍しい話ではありません。
ただし、一般に、より少ない前提で証明できるほうがうれしいことが多く、その意味では、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明のほうが、正則性公理を必要としない便利さがあります。特に、最近では、ZFCの正則性定理をその否定またはその否定を導くより強い公理(総称して、反基礎の公理と呼ばれる)に置き換えた集合論の研究が進められているので、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明はそんな集合論でもZFCでと同様に使えて便利です。 Wd 2005年1月14日 (金) 15:35 (UTC)
- 丁寧なお返事、ありがとうございます。私のほうはなんだかふざけた調子に見えたかもしれません。失礼いたしました。
- 私は最近の動きのほうは詳しくないので、どう書けばよいかはよくわかりません。周辺事情も含めて記述をより正確に、より充実させるのは歓迎されるだろうと思います。「Wikipedia:ページの編集は大胆に」をお読みになったことはおありでしょうか? 詳しい方がどんどん書き直してみるのが良いと思います。
- ところで、一つの定理に複数の証明がある場合にそのうちのどれかについて、通説であり不正確だと断じるのは少し行き過ぎのように思いました。ともあれ、今後とものご活躍を。- Kk@「Wiki Way」紹介中 2005年1月14日 (金) 17:49 (UTC)
- ここからは、ウィキペディアの記事を充実させるという目的からまったく離れて、単に私の興味関心のためにご教示願いたいことです。ラッセルのパラドックスに持ち込む証明が有効であるためには、まずZFCが無矛盾であることを示しておかなければいけないのだと思うのですが、その理解で合ってるのでしょうか。- Kk@「Wiki Way」紹介中
とりあえず、事実だけ書いておきました。どうせなら通説批判が欲しいところですが、手に余ります。どなたか、私がこっちにだらだらと書いたものをうまくまとめて本文に持っていっていただけると助かるのですが。
ご質問へのお答えです。まず、『複数の証明の一つを通説とするのは行き過ぎ』についてですが、正則性公理を使った全ての集合の集合の不在証明が通説だということではありません。この証明を『公理的集合論では集合を制限しているのでラッセルのパラドックスが回避される』の根拠とすることが誤った通説だということです。この証明は、「そのような集合が存在するとそれは正則性公理を満たさない、ゆえに、そのような集合は存在しない」というものです。これは、ラッセルのパラドックスとは直接の関係はありません。
仮にZFCが矛盾しても、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明は依然として妥当です。その場合は、全ての集合の集合の存在と不在の両方が証明できてしまいますが、どちらの証明も妥当です。矛盾するのだから、それで間違いありません。(まあ、ZFCが矛盾するだろうとは、誰も思っていませんが)
あと、相談です。ラッセルのパラドックスから全ての集合の集合の不在がどのように導かれるかについても、書いたほうが良いですか? Wd 2005年1月14日 (金) 19:09 (UTC)
- Wdさん、ご回答ありがとうございます。反応が遅れてすみません。少し公理的集合論を勉強しなおしてみてだんだん分かってきました。私がWdさんの言葉を誤読していたかもしれないということや、私が公理的集合論について生半な理解しかしていなかったことなどが。
- それでWdさんが通説だと仰るのは、複数の証明のうちの一つのことを指しているのではなかったこと了解しました。複数の証明の一つを通説とするのは行き過ぎだと云ったことは撤回させてください。私の誤読のせいでよけいな手間をおかけしてすみませんでした。
- どうやら私は「すべての集合を要素とする集合の存在可能性」と「自分自身を要素とする集合の存在可能性」と「自分自身を要素としない集合すべてを要素とする集合の存在可能性」を同一視してしまっていて(― 実際この三者は同値だと思うのですが、同値であることと同一であることは違うという意味です ―)、それで頓珍漢なことを書いていたようです。つまり、三者のうちどれが存在しても矛盾が生じるのですが、特に三つ目の集合の存在から生じる矛盾をラッセルのパラドックスというのだということを忘れて、他の二つの集合の存在から生じる矛盾をも私は勝手にラッセルのパラドックスだと見なしていたということです。
- それでも、私はまだこんなことを考えています。正則性の公理から直接「自分自身を要素とする集合の非存在」が導かれます。そうすると、ラッセルのパラドックスは破綻します。まず、「自分自身をその要素として含まない集合をA集合、含む集合をB集合と呼ぶ」とあるうち「含む集合をB集合と呼ぶ」のことはできなくなります(自分自身をその要素として含むものはもはや集合ではないから)。そして集合はすべてA集合です。そうすると「A集合すべての集合をSとする」とあるのは「集合すべての集合をSとする」というのと同じことになりますが、自分自身を要素とする集合はないのですから「集合すべての集合」という概念はナンセンスであることになります。つまりラッセルのパラドックスを構成することすらできなくなります。これはラッセルのパラドックスが回避されていることにならないでしょうか。
- はじめに断ったとおり生半な理解の下に書いているので、何かご助言いただければありがたく思います。- Kk@「Wiki Way」紹介中 2005年1月21日 (金) 13:39 (UTC)
- 書き忘れましたが、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明の有効性とZFCの無矛盾性についてお訊きしたのは、ピントはずれでした。とはいえ、この問いに対しても丁寧なお答えを頂きありがとうございました。それでは、今後とものご活躍を。- Kk@「Wiki Way」紹介中
- 最初に「自分自身を要素とする集合の存在可能性」は(正則性公理無しのZFCでは)矛盾を導きません。反例としてAczelの反基礎集合論ZFC/AFAがあります。ZFC/AFAでは Ω={Ω} なる循環的な集合の存在を導くことができますが、これは(ZFCの無矛盾性の仮定のもとで相対的に)無矛盾です。(このことから、「自分自身を要素とする集合」を考えることそのものが必然的に矛盾を導くとは言いがたいように思えます。)
- 「『自分自身をその要素として含まない集合をA集合、含む集合をB集合と呼ぶ』とあるうち『含む集合をB集合と呼ぶ』ことができなくなる」というのは誤りです。貴方は「証明不能である」ことと「否定が証明可能である」こととを混同しています。上記の誤りはこの誤解によるものです。詳細は数理論理学の教科書を参照してください。--Sillycrown(会話) 2014年3月29日 (土) 18:12 (UTC)
- 後者の説明はやや不適切であったので訂正します。証明不能・否定が証明可能といった事情とは関係なく「自分自身を含む集合をB集合と呼ぶ」ことはできます。これは「B集合である」という言葉により「自分自身を含む集合である」という1変数命題を表すものと宣言しているに過ぎないからです。
- 誤解の原因に「証明不能である」ことと「否定が証明可能である」ことの混同があるのは確かです。素朴集合論では集合全体の集合 U の非存在が証明できます。つまり
- を仮定して適当な方法で矛盾を導き、否定導入規則により
- を導けばよいわけです。しかし、内包公理により
- は集合全体の集合ですから、この体系では存在と非存在の両方が証明可能ということになります。貴方はいくつかの場面で、前者の事実すなわち否定の証明可能性 から、肯定の証明不能性 を推論してしまっています。これは上の例からも明らかなように誤りです。これが「証明不能である」ことと「否定が証明可能である」ことの混同の意味です。
- こういった説明によらなくても、我々の通常の論理が単調論理であることに気付けば、公理を増やして矛盾が解消されるということがありえないことがわかります。--Sillycrown(会話) 2014年4月3日 (木) 22:43 (UTC)
- 近藤基吉『実函数論』や新井敏康『数学基礎論』(初版) などにも正則性公理がパラドックスを解消するというような記述があることをみると、かなり典型的な誤解であるのかもしれない。--Sillycrown(会話) 2015年1月8日 (木) 11:02 (UTC)
「自分自身をその要素として含む集合」は「集合の集合」だけでは?
[編集]>「自分自身をその要素として含む集合」とは、「不可視なものの集合」や「無生物の集合」、「赤くないものの集合」、「集合の集合」のような、
とありますが、「『不可視なものの集合』や『無生物の集合』、『赤くないものの集合』」は削除すべきではありませんか? なぜ、これらが「自分自身をその要素として含む集合」の例として挙げられているのか、不審に思い、ここを読みましたが、上のKkさんのコメントにあるように「正則性の公理から直接「自分自身を要素とする集合の非存在」が導かれ」るのであれば、「『不可視なものの集合』や『無生物の集合』、『赤くないものの集合』」も「自分自身を要素として含まない集合」の例でしょう。
- なお、Kkさんのコメントは、「正則性の公理を採用しなくてもラッセルのパラドックスに持ち込むことで証明できる」に対して「正則性の公理を採用すればラッセルのパラドックスは破綻する」と言っているわけで、「正則性の公理を採用すればラッセルのパラドックスは不要」と同じことです。前提が違えば結論が違うのはあたり前でしょう。
- こう書くと、「お前も『正則性の公理』を採用してラッセルのパラドックスを批判している」と言われそうですが、私にとって「正則性の公理」は自分の直感が正しいことを確信した根拠であり、正則性の公理を採用しているわけではありません。だから、「集合の集合」は削除すべきものに含めていないのです。
証明について
[編集]概要では
- 説明の便宜上、自分自身をその要素として含まない集合を A 集合、含む集合を B 集合と呼ぶことにする。排中律を認めて背理法による議論を可能にした通常の論理体系では、任意の集合は A 集合であるか B 集合であるかのどちらかである。
とあるのだが、「 A 集合」というのはどういう意味なのでしょうか。つまり、 「集合 X は A 集合である」ということは
- 集合 X は、 という性質を満たす。
- XはAの元である。集合 A は、 という集合のことである。
のどちらなのでしょう?前者であれば、それは「集合」というより「性質」と呼んだほうがよっぽどわかりやすいですし、後者であれば、のちの記述が意味不明です。
Rの定義が行方不明
[編集]- 元々はRの定義が記事の真ん中あたりにあったはずですが、なんで行方不明にしてしまったんですか?後半が無意味になってしまっています。
- ラッセルのパラドックスは数学の歴史に関する記事でもあると思います。原典に忠実な素朴集合論における定式化が載ってないのはおかしいです。
- 「述語」と「述語の述語」の混同により発生したというのは誤りです。これらを混同できない理論を作ったらこのパラドックスが発生しなくなっただけです。特定の対策をしたら直ったから、その対策をしなかったのが矛盾の原因であるというのは本末転倒です。
- 「第一階述語論理についてクルト・ゲーデルがその完全性(第一階述語論理のすべての普遍妥当な論理式を導出することができる公理系が存在すること)」は明らかにおかしいでしょう。~な公理系が存在するなんて定理に意味があるんですか?
- 不完全性定理が2階述語論理に関することのように書くのはおかしいでしょう。そもそも、不完全性定理には仮定がいっぱいついてるはずです。
- 二階以上の述語論理が完全でないこととヒルベルト・プログラムがだめになったのは関係あるのですか?そもそも、不完全性定理のときに頓挫したのでは。--Kik(会話) 2013年12月22日 (日) 20:31 (UTC)
回答
[編集]- Rの定義については復活させます。
- ラッセルのパラドックスについては素朴集合論への適用は後々の話で、最初は述語についてです。http://russell-j.com/BRtoFREGE01.HTM
- 「述語」と「述語の述語」の混同を発生させないようにしたのが型理論です。型理論ではパラドックスは発生しないですが、それは述語の型付けをちゃんとやったからです。逆に言うと型付けがしっかりなされていなかったのが、パラドックスの原因だったというのがラッセルの意見だったということです。
- ゲーデルの完全性定理についてはその証明している内容は第一階述語論理に完全な公理系が存在するです。意味がないと思う理由を教えて欲しいです。
- 不完全性定理についても自然数を述語の述語で表現する体系 P は述語の述語を持たないといけない体系なので第二階述語論理の話です。P に完全な公理系が存在し得ないということは二階述語論理の体系に完全な公理系がないという話なので間違ってはいないです。
-肝心要の一人であるヒルベルトの 記号論理学の基礎 に全部載ってます。--2014年11月16日 (日) 10:04 (UTC)
- 自然数を述語の述語で表現する体系Pと書いてしまいましたがすいません誤りです。述語の述語を持たないといけない体系(述語変項をもつ体系)である理由は数学的帰納法ができないといけない体系だからです。
- ヒルベルト・プログラムについては、ヒルベルト自身が、記号論理学の基礎の中で、不完全性定理=二階述語論理が完全ではない(普遍妥当でも導出できない論理式がある)としているので同じです。--I.hidekazu(会話) 2014年11月21日 (金) 15:19 (UTC)
- 「最初は述語についてです。」のところは訳があやしいです。英語版に載ってる同じ文章だとMengeとちゃんと書いてあります。
- 翻訳して引用するならもっと正しく翻訳してください。ラッセルの結論は「矛盾が導かれる」ではなくて「したがって、Pは述語ではない」です。
- 「パラドックスの原因だったというのがラッセルの意見」のソースはどこですか?やはり原因と対策を混同してませんか?
- 「~な公理系が存在する」って定理だと非構成的すぎて気持ち悪いだけです。 --Kik(会話) 2015年1月18日 (日) 11:09 (UTC)
- 翻訳の質とか言える立場じゃないので、英語版見ましたけどはっきり述語(prediate)と書いてありますよね。
- ラッセルのパラドックスの説明はヒルベルト、アッケルマン(1954)のp.161から持ってきました。
- ラッセルの意見の根拠ということですが、Principia Mathematicaの分岐型理論は(ラムゼイの区分を導入すれば)意味論的パラドックスを解消するために提出されたものだとヒルベルト、アッケルマン(1954) p.170 に書いてあり、分岐型理論とは型と級で述語を区分する理論だからです(同書同ページ)。-I.hidekazu(会話) 2015年1月19日 (月) 11:48 (UTC)
- predicateと書いてあるのは分かってます。同じ書簡で「述語についてはこうで、集合についても同様だよね」ってあるんだから「素朴集合論への適用は後々の話」という主張は明らかにおかしいですよね。
- 述語と集合について同時に問題提起されたんだから、よりメジャーな集合バージョンをメインに持ってくるべきです。
- パラドックスを解決できるのは分かっています。その対策をしなかったのが原因だというのはあなたの独自研究ですよね。原因と対策を混同しないでくださいといってるんです。 --Kik(会話) 2015年1月19日 (月) 15:30 (UTC)
- 述語についてが主題だということには変わりないと思います。しかも、ラッセルは論理主義を打ち立てた一人です。集合についてこだわられる理由はよくわかりませんが、たとえば公理的集合論は述語論理に所属関係の公理などを追加したものにすぎないので、結局述語論理の例が大事になります。--I.hidekazu(会話) 2015年1月20日 (火) 15:24 (UTC)
- 「述語についてが主題だということ」があなたの独自研究でしょ。まず、ちゃんとしたラッセルの研究者がそう言ってるところを探してきてください。古代の書簡について我々がどうのこうの言って内容を決めるのはやめるべきです。こういうときには内容が英語版とはっきり違ってる時点で自分が間違えてるんじゃないかと最初に疑うべきです。
- ついでにゆうと、あなたの言う方法で述語論理を制限しても、公理的集合論でさらに内包を制限しないと矛盾を回避できません。 --Kik(会話) 2015年1月20日 (火) 15:50 (UTC)
2014年11月16日の編集について
[編集]> まず、ラッセルのパラドックスが構文的に避けられた論理体系であり、述語の述語に対する量化子による束縛が許されていない第一階述語論理についてクルト・ゲーデルがその完全性(第一階述語論理のすべての普遍妥当な論理式を導出することができる公理系が存在すること)を示した(ゲーデルの完全性定理)。
> 第二階述語論理及びそれ以上の高階の述語論理についても同様に完全な公理系が存在することが予想されたが、分岐型理論を単純化した単純型理論(simple theory of types)に建て増しした第二階述語論理の体系[5]において、どのように公理系をとっても導出することができない普遍妥当な論理式が存在する事が同じくクルト・ゲーデルによって示された(ゲーデルの不完全性定理)。
完全性定理の意味の完全性(恒真ならば証明可能)と、不完全性定理の意味の完全性(証明不能ならば反証可能)とを混同しているのではないですか。不完全性定理は後者の意味で不完全であると述べているのであって、前者の意味で述べているわけではありません。
> どのように公理系をとっても導出することができない普遍妥当な論理式が存在する
に於ける「存在する」はどこに掛かっている量化なのかが不明瞭です。「ある恒真な閉論理式 φ があって、任意の理論 T に対し、φ は T で証明できない」ということなのか、それとも「任意の理論 T に対し、ある恒真な閉論理式 φ があって、φ は T で証明できない」ということなのか。もちろん前者は間違いですが。 --Sillycrown(会話) 2014年12月1日 (月) 20:58 (UTC)
- 完全性の意味を取り違えているのではないかという点について、まず書いてある内容については同じ意味(公理系の完全性)で記載しています。なんでそう書いたかという主たる根拠は、自分の意見ではないので申し訳ないですが、ヒルベルト・アッケルマンの記号論理学の基礎にそのように記載してあるためです。ただ批判に答えてみますと、不完全性定理(ゲーデルの論文)における完全性(証明不能ならば反証可能)について述べているのではなく、不完全性定理の意味するところから得られる二階述語論理の性質としての完全性について述べているためです。
- 「存在する」がかかっている箇所については後者です。--I.hidekazu(会話) 2014年12月4日 (木) 14:00 (UTC)
> 述語の述語を持たないといけない体系(述語変項をもつ体系)である理由は数学的帰納法ができないといけない体系だから
ひとつ前に引用した部分もそうですが、第1不完全性定理は不完全性定理の適用範囲外だという誤解があるようです。第1不完全性定理は1階述語論理上の理論に対しても適用できます。なお1階述語論理では帰納法は公理図式(任意の論理式に対し〜という形の閉論理式を公理とする)で表現されます。そして第1/第2不完全性定理の証明には帰納法図式があれば十分ですから、述語に対する量化は不要です。(実際には帰納法図式を持たない弱い算術を含む理論でも成立するので、帰納法公理が必要というわけではないが、これはいまはどうでもよい。) --Sillycrown(会話) 2014年12月1日 (月) 21:12 (UTC)
- ゲーデル論文の完全性の意味で、不完全性定理を一階述語論理に適用することができるということですよね。それはつまり第一階述語論理についてのゲーデルの完全性定理を否定することになっているというような結論を得るような話では無いと思います。それとも特別な第一階述語論理の体系で、公理系が完全という意味で完全ではない体系というものがあるのですか。 --I.hidekazu(会話) 2014年12月4日 (木) 14:11 (UTC)
編集者の認識
[編集]正月の最終日ですが、まとめると、こういう認識で記載しました。
- 第一階述語論理(狭義の述語論理)の普遍妥当な論理式の表現は全て導出可能(ゲーデルの完全性定理)
- 第二階述語論理(広義の述語論理)の普遍妥当な論理式の表現の中には導出可能でないものが存在する(ゲーデルの不完全性定理)
ヒルベルト、アッケルマンによる『記号論理学の基礎』の初版の発売が1928年
その本で初めて述語論理の区別、狭義の述語論理と広義の述語論理の区別が導入されて完全性の問題はどちらも未解決だった。
1929年にその本を読んだゲーデルがとりあえず狭義の述語論理(第一階述語論理)について完全性を示した(完全性定理の証明)。
したがって、残るは広義の述語論理(第二階述語論理)の完全性の証明だという認識になる(少なくともヒルベルトとアッケルマン、ゲーデルにとっては)。
そして翌々年1931年までにそれにトライしてみたけれど反対の結果が出た(不完全性定理;反例の提示)。
今までの話と大幅にちがいますが、少なくともヒルベルトとアッケルマンは不完全性定理=二階述語論理が不完全というところに 衝撃を受けている。ヒルベルト・プログラムが瓦解したというのも第二階(以上の)述語論理が不完全というところに根拠をもって瓦解した。--I.hidekazu(会話) 2015年1月3日 (土) 15:16 (UTC)細かい修正をしました。--I.hidekazu(会話) 2015年1月3日 (土) 15:19 (UTC)
不完全性定理は二階述語論理が(標準的意味論に対し)完全でないことを述べた定理ではありません。系として導けることは確かですが不完全性定理として紹介するのは不適切では。二階述語論理が(強い意味で)完全ではないことは不完全性定理に訴えるまでもなく証明できます: 二階述語論理が完全と仮定して矛盾を導こう。二階算術の言語に定数記号 c を付け加えます。そして二階Peano算術に公理として 0<c, 1<c, 2<c, ... を付け加えた理論 T を考えます。任意の有限部分理論はモデルを持つから T は無矛盾です。したがって完全性より T はモデルを持ちます。これは無限大元を持っていますから超準モデルです。ところが二階算術は超準モデルを持たないはずですから、これは不合理。したがって二階述語論理は完全ではありません。□ Hilbertプログラムに対する見解についても違和感を覚えますが、これは数学史の専門家に任せます。--Sillycrown(会話) 2015年1月4日 (日) 14:35 (UTC)
- 強い意味の完全性は命題論理にしか成立しないもので、ヒルベルトとアッケルマンの時代から(命題論理を除く)形式論理体系の完全性という場合は”弱い”完全性です。自分も弱い完全性の意味で完全性と言っています。
- (ゲーデルの原論文にて主張されている定理としての)不完全性定理は確かに直接第二階述語論理が完全ではないということを述べてはいませんが、不完全性定理がなぜこんな有名か?といわれると当時の大数学者ヒルベルトが長年にわたって構想した計画「ヒルベルトのプログラム」を、大学卒業したばかりの若い内気な数学者のゲーデルが打ち倒した、というところにあると理解しています。
- 極端なことを言えば、ヒルベルトとヒルベルトのプログラムがなければ(加えて、ヒルベルトとアッケルマンの『記号論理学の基礎』がなければ)、ゲーデルが不完全性定理をそのまんま提出したとしても全く注目されなかったという可能性が高い論文だったと認識しています。
- したがって、巷で言う不完全性定理という用語は、その意味内容としてはヒルベルトが衝撃を受けたテーゼが主張されたもののはずですので、紹介文としてその点を挙げるというのは不適切だとは言えないと思います。ヒルベルト(とアッケルマン)は、二階述語論理には完全な公理系が存在しないということを、ゲーデルが不完全性定理の論文で行ったとはっきり書いているので。それに、確かゲーデルが論文を提出する際に、その内容としてヒルベルトのプログラムを無に帰してしまうような内容だから、ヒルベルトに配慮してすぐにはわからないように段階を追って続論文(Ⅱ巻目)を計画していたというような逸話もありましたよね。提出時点から本当の主張を隠していたとすれば、紹介するものは本来いいたかった(であろう)主張であるべきではないですか。--I.hidekazu(会話) 2015年1月5日 (月) 11:49 (UTC)
- ここでの強い意味の完全性というのはGödel-Henkinの完全性定理の意味の完全性(モデル存在定理と同値)です。これは一階述語論理で成立します。--Sillycrown(会話) 2015年1月7日 (水) 02:42 (UTC)
- 付け加えていうと第一不完全性定理を二階述語論理の標準的意味論に関する完全性の不成立とする用法は一般的ではありません。ところで2015年1月3日 (土) 14:41の編集は独自研究は載せないに反するのでは。--Sillycrown(会話) 2015年1月7日 (水) 02:49 (UTC)
- なるほど。そういう意味での強い完全性というのもあるのですね。私はどうも完全性定理が弱点ですので精進したいと思います。完全性定理周りでおすすめの古典本とか教えていただけたら嬉しいです。
- 第一不完全性定理の用法として、第二階述語論理の公理系の不完全性ということを記載しているわけではないです。ただ、2015年1月3日 (土) 14:41の編集は独自研究ではないかと言われると反論できないですね、そちらについては取り下げます。--I.hidekazu(会話) 2015年1月7日 (水) 12:37 (UTC)
- 会話ページにて返答しました。--Sillycrown(会話) 2015年1月13日 (火) 16:53 (UTC)