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ノート:一色氏久

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本来は記事のノートに書くことではないのですが、栃木OCN可変IPの投稿者さまへ。

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まず最初に、(一色氏久での編集を見る限りでは、脚注使用など、Wikipediaでの編集方法についてお詳しいようですが)文中でリンクになっているところは、すべて当該項目、あるいはその説明等にリンクされていますので、是非お読み下さい。

さて、あなた様の「喜連川騒動」「一色氏久」の編集を読ませていただきました。(人違いであれば)大変心苦しく、恐縮ではあるのですが、現在ウィキペディア日本語版から無期限の投稿ブロックを受けている利用者:喜連川一色家」が主張していた内容と、その多くが重なっているようです。さらに悪いことに、この利用者:喜連川一色家が常用しているプロバイダ・アクセスポイントがあなた様と同一であるという事も重なり、客観的に見てあなたの投稿が「利用者:喜連川一色家ブロック逃れによる投稿」との強い疑いを持つに到っております。前述した無期限ブロック中の利用者:喜連川一色家ですが、以前にも「筑波大学図書館職員」を騙ってのブロック逃れ投稿を行っており、そういった点で、「栃木OCN可変IP」での、喜連川騒動にまつわる記事への投稿は、利用者:喜連川一色家のブロック逃れであるという推定がなされてしまいます。(これは、利用者:喜連川一色家がいかに問題がある利用者だったか、ということを意味します。)もし、あなたが利用者:喜連川一色家でないのであれば、是非アカウントを取得し、編集していただくことを強くお勧めします

なお、利用者:喜連川一色家が開設している、喜連川騒動に関するホームページも、当然ですがOCNです。余談ですが。--Doripoke 2007年10月3日 (水) 09:51 (UTC)[返信]


余談に気を取られて、大事なことを言い忘れました。Wikiって略すな。--Doripoke 2007年10月3日 (水) 10:23 (UTC)[返信]

IPのかたに質問です

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投稿履歴などを見ると、

221.189.86.130=123.222.254.169=123.224.5.18

ということになるのでしょうか?--Ks aka 98 2007年10月3日 (水) 17:18 (UTC)[返信]

Wikipediaの管理者の良識の期待します。何度もDoripokeさんに伝えたことです。当サイトが良識あるサイトとなることを期待しております。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 17:25 (UTC)[返信]

ご期待にそえればよいなと思っています。まずは、上記の問いにお答え頂けますか?--Ks aka 98 2007年10月3日 (水) 17:28 (UTC)[返信]

追伸、私以外の方からの出典の明示など多くの方の協力があったはずです。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 17:31 (UTC)[返信]

ウィキペディアはみんなで協力して作り上げる百科事典ですから、素晴らしいことだと思います。お答えは頂けないのでしょうか?--Ks aka 98 2007年10月3日 (水) 17:43 (UTC)[返信]

私の投稿です。しかし、喜連川一色家さん本人ではありません。彼の投稿ブロックは、彼のホームページで知ったことです。よって、彼には、出典要望のタグには答えられない立場のはずです。しかしながら、ブロックしておきながら出典を示せというWikipediaの態度にも、私には見受けられましたので、これは、不当であると私なりに協力させていただいた訳です。 また、喜連川騒動の記事も、Wikipedia版と喜連川一色さんのページを拝見させていただき、喜連川一色さんの意見に賛同しているのは、事実です。『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」は、『喜連川町史』近世・史料編の『喜連川家由来書』なるものは百姓であった、藩士の家に残された家伝書ですので基本的には、検証が必要であるのですが、彼等はそれをしなかったようですな。また、そのことは、喜連川一色家さんが、現在指摘していることをご存知ですか?当然、江戸や喜連川家本家の記録とも相違していることも確認しております。あの時代の町史は、あんなものなのですが、このような事件記録は、正しく検証して、『古河市史』のようなスタンスでなければならないのです。しかし、Dorikokeさんが、このことを隠滅しようとする人物の一人に感じてしまうのも事実で、できれば、そうでなくて、このことをDoripokeさんも理解していただければと思っています。歴史は、感情でなく、史料に忠実でなければならず、この編集にしても個々がその検証をして、意見交換しながら前編集者の記事を修正するなり補填するなりしながら、Wikipediaも編集されるべきかと思います。しかしながら、現在の管理システムでは、それを目標としていることは理解できるのですが、難しいようですな。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 18:14 (UTC)[返信]

内容については、あまり踏み込むつもりはありません。当該地域・時代については、特に知識を持ちませんし、ここで扱われている資料も確認していませんので。やや理念的なウィキペディアにおける地方史などの記述のあり方などについてのぼくの考えは、以前喜連川騒動のノートや、喜連川一色家さんの会話ページで書いていますので、ご確認下さい。
さて、この投稿が、[http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-soudou.htm 喜連川騒動における一考察内の「喜連川左兵衛督乱心の事、家老三人遠流の事」と同一の文章のように見受けられます。この編集から、利用者:喜連川一色家さんが、上記ホームページの管理をしていることは推定してよいと思います。
元の資料は既に保護期間切れと考えますが、現代語での要約は、喜連川一色家さんの創作による部分があり、123.224.5.18さんが喜連川一色家さんではないのであれば、上記差分で示した投稿には著作権侵害の虞があります。もし、お知り合いならば、GFDLでのリリースと、ウィキペディア上で氏名表示がなされないことについて許諾を得て、氏のホームページ上でその旨の明示をするようにしていただければ、存続できるのですが、そうでなければ、まずは削除依頼に提出することになります。よろしくご検討下さい。--Ks aka 98 2007年10月3日 (水) 19:24 (UTC)[返信]

了承しました。喜連川一色家氏と思われる「喜連川騒動の一考察」のページには、その終文ページ部に、情報収集用の彼のメールアドレスが明示されておりますので、こちらから連絡をとってみます。多少時間はかかるかとおもいますが。--61.199.3.169 2007年10月4日 (木) 03:59 (UTC)[返信]

『及聞秘録』の事件記述の要約文の件、「喜連川騒動の一考察」のページ管理者の方から了承いただきました。「はじめに」の部分の最後にご意見をいただきました。ご確認ください。当ページ内ですでにリンクさせているようですので、そちらからご確認いただければと思います。--60.39.65.152 2007年10月4日 (木) 14:47 (UTC)[返信]

アカウント作成のお願い

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この方の確証のないなかでの暴言はなんとかなみませんか。これでは「2ちゃんねる」の投稿者の会話となんらかわりないように見受けられます。私が苦労する訳です。「喜連川騒動」におけるノート記録は全て読ませていただきましたが、喜連川一色家さんのブロックの理由が私には見当たりません。むしろ、このような不確定な暴言を書かれる方をブロックすることの方が、Wikipediaの信頼性向上につながるのではないですかな?暴言はなにも生まないとおもいますよ。非常に気分が悪くなりました。このような方が、いる以上私がアカウントをとっても喜連川一色家さんと同じ苦労をするだけと考えております。悪しからずご理解ください。暴言はくせですかね?それとも都合の悪い投稿者を排除する為のテクニックですかな。?--60.39.65.152 2007年10月4日 (木) 15:57 (UTC)[返信]

上記のDoripokeさんの発言は、特に「暴言」と言えるような内容ではないと思います。IPさんが喜連川一色家さんではない、という前提で書かれていますから「確証のない中で」というご指摘もあたらないと思います。具体的にどの部分を指して、どのような理由から「暴言」と理解されたのか、ご説明されないと、単なる「言いがかり」と理解されてしまうことになると思いますよ。
過去のDoripokeさんの発言には、確かに言葉がキツい、厳しいものはあったように思いますが、しかし「Wikipediaの方針」という観点からは正しいことを言っておられます。方針に反すること、方針に沿わないことは言われていません。
一方、喜連川一色家さんのブロックの理由が私には見当たりません。とのコメントですが、これはブロック依頼とその投票、コメントの内容をよくお読みいただいたうえでのご感想でしょうか?
もしそうであるなら、IPさんもWikipediaの方針に関して喜連川一色家さん同様の誤解、無理解があるように見受けられます。
すでに多くの方が何度も繰り返し説明されておりますが、Wikipediaの方針と、個人の正義感、個人の知識、個人の研究とは必ずしも一致しないものです。というよりそれが当然の帰結です。それはWikipediaの各種文書をお読みいただいてご理解いただくほかありません。
喜連川一色家さんは、その点の無理解を指摘され、熟読期間(頭を冷やして文書をよくお読みいただき、ご理解いただく期間)として何度か有期ブロックされましたが、それでもご理解には至らなかったことが、無期限ブロックの理由になったものと私は理解しています。
内容に関して争っている人は、喜連川一色家さん以外にはおらず、完全に彼の独り相撲(IPさんなどの協力者を名乗る人も含む)です。この件に関係した他の参加者の方の中には、内容の真偽や信頼性を取り沙汰している人はいません。あくまで「Wikipediaの方針に照らして適切かどうか」という点が争点になっているだけです。
そこがご理解いただけないと、いつまでも話は噛み合わないままとなります。
どうぞ冷静なご判断とご対応をお願いいたします。--Horlicks 2007年10月5日 (金) 01:34 (UTC)[返信]

私の指摘する暴言とは、Doripokeさんの発言である「筑波大学職員を詐称しています。」についてです。「詐称している可能性があります。」とか「推定されます。」といった表現であれば醜くなく、暴言とはならないのですが、社会一般では、ネット上で確証が不可能(一般人では)ないことに「確定する発言」は暴言とされるのでは?私は、他人への暴言でも聞捨てられない口でして。悪しからず。 また、私に「アカウントをとっていただけないか?」と表現をかえ、暴言を平気で使える人格の方で管理者でもない方から進められた訳でもありますよ。当然、このような回答となりますな。 さらに、過去の「喜連川騒動の一考察」では、Wikipediaの住人と一部の管理者が喜連川一色家さんをいかにしてブロックしたかの内容が書かれていたのですがご存知でしたか? 私は読んでますので、アカウント取得は「くわばら」ですね。 私の方としては、出典の要請に協力しただけであり、正直「ここまで喜連川騒動に関係しそうな記事はブロックするか。」と驚きをかくせないのが正直なところでね。「出典の示されていない記事」が協力者を得て確かな出典のある記事となること、これが、「Wikipediaの方針と合わない」とされることは、どこか誤解があるようですな。私は、その辺の所は、Wikipediaをその目的、目標のあるところへ、正しく導こうという有志の方にお任せしているつもりです。すくなくとも、この記事の履歴を確認しますと、Dripokeさんが出典要請のタグを付けられておりますが、その出典をご自分で削除するような編集者?からは、この記事を守っていただきたいものです。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 16:00 (UTC)[返信]

  • 先ほど、筑波大学宛に「【問い合わせ】貴館職員を名乗る人物のウィキペディア日本語版における行為について」という表題のメールを送信しました。本当はここまでやりたくはなかったのですが、致し方ありません。なお、件のブロック済み利用者の外部ページは「喜連川騒動一考察」ではなく、「喜連川騒動における一考察」(http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-soudou.htm)です。IP氏は何度も間違えているようですが、こんな間違え方では、いくら何でも彼が気の毒です。--Doripoke 2007年10月5日 (金) 16:16 (UTC)[返信]

やはり、確証はなかったのですね。嘘をつかれたということです。あとは皆様におまかせします。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 16:37 (UTC)[返信]

  • 筑波大学(茨城県つくば市)職員が、平日昼間(複数日時)に、栃木県内から書き込みをしている、これだけで十分確証だと思うのですが。--Doripoke 2007年10月5日 (金) 16:43 (UTC)[返信]

Doripokeさんは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」が「利用者:喜連川一色家さん」であったという指摘をしたのですが、それをご自分に対する「暴言」と受け止められた、ということは、IPさん、あなたは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」か「喜連川一色家さん」か、いずれかであることになります。そうでないならば、自分以外の二人の人間が同一人物である、という発言を自分に対する暴言であると言ってることになり、意味が通りません。 (もっとも、同一人物である、との発言が「暴言」と言えるかというと、それも疑問ですが)。 ということで率直に伺いますが、あなたは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」と「喜連川一色家さん」のどちらですか? ちなみにこの両者はいずれもブロック対象となったと思いますので、答えがどちらであっても、あなたの編集は許可されないことになってしまいますが、それでよろしいのでしょうか?--Horlicks 2007年10月5日 (金) 17:03 (UTC)[返信]

どうも話が噛み合わないようで、困りますね。しばらく黙視しますので、ページ内の私の発言を冷静になられて見直していただけないでしょうか?。「詐称」とゆう言葉は、簡単には使える言葉ではないことを、お伝えしたはずです。おやすみなさい。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 18:08 (UTC)[返信]

提案

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次のように考えました。

まず、「喜連川騒動における一考察」は、個人サイトに過ぎず、筆者が専門家ではないことも明らかです。そもそも特定の立場としての主張ではあって、それ自体は責めるつもりもないですが、学術的な研究が求める公平な態度で書かれたものではないと言えるでしょう。これは、喜連川一色家さんも認めていただけると思います。

ウィキペディアで執筆されている時は、じょじょに、かなり客観的な記述を心がけていただけるようになりました。ぼくは、地方史の分野は、学会などに属していないけれど、情熱を持って調べていらっしゃる方もいて、論文作法のようなものをウィキペディアの方針から身につけていただき、丁寧に資料をあたり、偽りや飛躍のない叙述によって、充実していくことができるのではないかと希望をもっていましたから、ずいぶんいろいろやりとりをさせていただきましたし、一緒に資料を探したりしてくれる他の執筆者の方も少なからずいらっしゃいました。残念ながら、そこで示された他の資料などを元にした加筆は、ウィキペディアではブロックに至ったためになされず、お忙しくてご覧になっていないのか、都合のいい記述が見つからなかったのか、サイトのほうでもあまり触れていらっしゃらないようです。

まあ、そのような経緯がありますので、喜連川一色家さんがブロック逃れをする可能性は否定できないにしても、人として、ぼくの目の前で別人を装うことはないと信じています。現在書き込みされているIPさんと、喜連川一色家さんを、別人として、考えます。

さて、IPさんが、喜連川一色家さんの意見に賛同することは自由ですが、氏のサイトを根拠にしてウィキペディアで執筆することはできません。繰り返しになりますが、中立的とは言えず、第三者の検証もなされていない、著名でも専門家でもない個人のサイトは、百科事典の情報源としては認められません。

あるいは様々な資料を通じて、同じ意見を持つに至ることはあるでしょう。この場合は、個別の事実関係については独自に一つ一つ資料を当たることとなります。ノート:喜連川騒動では、喜連川一色家さんのサイトで挙げられている資料も含め、ずいぶん細かく検証した上で、本文の記述を検討していることが窺えるかと思います。また、それによって組み立てられる仮説があるとしても、個々の事実からその仮説を組み立てるところまを含む二次資料がなければ、ウィキペディアにおいては独自研究とみなされます。査読付き論文があるかどうかは疑問ですが、紀要論文や卒論・修論、せめて自費出版という形ででも、検証可能な情報源を探す、あるいは、自ら書き、どこかに掲載されるという手順が必要となります。喜連川一色家さんも、その意見に賛同し、筑波大学の資料を確認してウィキペディアに書き込みをするような熱意ある人を得て、喜ばれていたことと思います(確認されてますよね?)。お二人で共に研究を進めれば、さぞはかどることでしょう。通信制の大学院などを利用すれば、専門家の指導を受けながら、2年ほどで論文としてまとめることも可能ではないかと考えます。喜連川町史の近世は、まだ刊行されていないようですが、お二人の研究がとりいれられるかもしれませんし、とりいれられずとも、刊行されれば、加筆・修正が期待されます。

というわけで、ウィキペディアにおいては「喜連川騒動における一考察」に由来する加筆・修正は、以後一切受け付けないということにしませんか? 改めて、元の資料を確認することで、みなが見逃していた何かが判明するかもしれませんし、個々の記述に対応した出典情報を加えていく作業は推奨されます。新たに関連する記述がある資料が見つかれば、それをもとに編集することは、当然に認められます。広域ブロックや無期限半保護は、できれば避けたいので。--Ks aka 98 2007年10月5日 (金) 18:36 (UTC)[返信]

Ks aka 98さんのお話は、大変わかりやすく理解させていただきました。しかし、どちらからの情報かは、わかりませんが誤解があるようです。
『喜連川町史』近世(資料編)が、かの喜連川一色家氏のいわれる、また、喜連川町史編纂委員会のいわれた文献です。本年6月に出版されたことは、「喜連川騒動における一考察」を拝見して知ったことです。私も一冊購入しました3000円でした。そして、氏が述べられたように、『喜連川町誌』昭和52年版の「喜連川騒動の顛末」の記述の元である、史料、喜連川編纂委員会では、『高塩家文書』としてファイル管理されており、事件において高野修理等と一緒に江戸に訴えた、五人の百姓の家の家伝書『喜連川家由縁書』という文書が掲載されておりました。当記事の一色氏久の子孫となる根岸丹衛門についての記述が記録されている『小林家代々日記』も同じく掲載されております。その中で記録されていることを当記事「一色氏久」に補填編集させていただいのです。騒動記述については、別記事となりますので、「一色氏久」について書かれている、『及聞秘録』を一般閲覧開されている筑波大学中央図書館から取り寄せ、その内容が、喜連川一色家氏の「喜連川騒動における一考察」の参考文献の記述内容と相違ないことを確認した上で、投稿編集させていただいたわけです。また、『及聞秘録』は、一般公開されている文献で、多くの歴史論文や文献にて参照されているものです。読み記号?も付けられており、現代人のだれでも読める文献で一次資料ではないのです。いわば公開済みの文献です。
また、『高塩家』と五人の百姓の家は、なんら関係のない家です。なぜ『高塩家文書』に五人の百姓家の『喜連川家由縁書』が存在するかは、高塩家は、江戸時代は、喜連川家家臣ですが明治維新後は、商家です。明治から大正、昭和初期は貧困との戦いで、庶民の家の金目のものは、金にかえたり物々交換に利用された時代です。この時、高塩家が収集した史料を『高塩家文書』と分類したのです。
どうも、私が喜連川一色家氏の「喜連川騒動における一考察」のみで判断して投稿している思われているようですが、その辺の誤解は無いようにお願いします。
また、当記事には関係ないのですが、先に述べさせていただきました、『喜連川家由縁書』ですが、これについても一色家氏が、現在、氏のページで述べられている通りで、明らかに矛盾が多い家伝書です。しかし、この家伝書は、『喜連川町誌』の記述の元となる古文書ですので、公開された以上これも当サイトの喜連川騒動記事に追加されることも可能であり、編纂方針にあったものと考えております。
最後に、Doripoke氏の編集態度の件のお答えをいただいておりません。リバースするなら『及聞秘録』の記述の部分だけで良かったはずですが、なぜ他の参考文献まで削除されたのか?『古河市史』や千葉大学教授の佐藤氏の文献、『喜連川町史』近世(史料編)の『小林家代々日記』は関係なく、疑問がのこります。編集履歴を見ればこの辺の対処の切り分けが可能であったはずですが?。重ねますが、氏が出典タグを付加しておきながら、都合の悪い出典は削除したという疑いは、まだ消えておりません。彼にとって、出典のない記事であったほうが望ましい。目的は判断しませんが、これが、今回のノートにおけるリバース合戦のポイントですが?。--123.224.1.195 2007年10月6日 (土) 09:06 (UTC)[返信]

段落ごとにお答えします。

  • 『喜連川町史』近世(資料編)は出版されていたのですね。遅れているという話を以前のやりとりのなかで聞いていたので、今回さくら市のホームページで『喜連川町史 第三巻 資料編3 近世』が平成18年度発売となっているのを見て、その後さくら市喜連川図書館ホームページから所蔵を見ても第三巻がなかったので、未完のままだと判断しました。それはよかった。
  • さて、「「一色氏久」について書かれている、『及聞秘録』を一般閲覧開されている筑波大学中央図書館から取り寄せ、その内容が、喜連川一色家氏の「喜連川騒動における一考察」の参考文献の記述内容と相違ないことを確認した上で、投稿編集させていただいた」ということでしたら、自分自身の表現で要約を試みるか、喜連川一色家さんの要約を使用したと言うことを明記すべきでしょう。事後承諾をいただいたとは言え、著作権、また研究上の誠意といった観点から、強く批判されるものだということをご承知下さい。
  • 次の段落は、内容に関するものなので、特に言うことはありません。
  • 喜連川一色家さんも、その意見に賛同し、筑波大学の資料を確認してウィキペディアに書き込みをするような熱意ある人を得て、喜ばれていたことと思います(確認されてますよね?)。という表現から、ぼくは基本的にはIPさんがご自身で資料を確認されていると考えていることはご理解頂けると思います。再び同じところを引きますが、「その内容が、喜連川一色家氏の「喜連川騒動における一考察」の参考文献の記述内容と相違ないことを確認した上で、投稿編集させていただいた」と書かれていらっしゃいます。相違ないことを確認するだけでは足りず、『及聞秘録』が資料としてどのような位置づけにあるものか、どの程度信頼できるものかという点についての研究を探し、確認した上で、百科事典の記述としてどのように扱えばいいかを考え、一般的な論文などおよびウィキペディアの記法を踏まえて、ご自身の表現として記述することが求められます。「喜連川騒動における一考察」のみで判断しない、ということは、それらの判断が求められると言うことですが、今のところ、IPさんの加筆は、「喜連川騒動における一考察」を超えるものではありません。しっかりとした判断に基づいた加筆を歓迎する、というのが、先の提案であるとご理解下さい。
  • 繰り返しになりますが、公開されたからといって、加筆できるというものではありません。公開され、その内容や由来についての研究が進み、一定の成果が出たところで、それらを踏まえて、百科事典の項目として記述するのです。
  • 保護対処者としては、リバートの内容については判断していません。保護依頼があり、編集合戦を確認したため、そのままの版で保護しました。
    • 参考文献の記述の除去がリバート合戦のポイントという指摘はこの書き込みが初めてです。Doripokeさんに切り分けを求めるのであれば、ご自身にも、なぜ切り分けを行なわなかったかの問いを投げかけてみてください。
    • Doripokeさんのリバートは、2007-05-19T21:45:53の版へのリバートだと思われます。その次の編集で、参考文献が加筆されていますが、要約欄には「(参考文献(関連性のあるもの)を補填)」とあり、記述に確実に対応した参考文献ではないと考えられること、また、IPが変動している可能性はあるとしても参考文献分の投稿者である222.149.201.163 さん自身が本文に加筆している記録は確認できません。参考文献の扱いは、分野や筆者によって様々ですが、実際に記述する上で参考にしたものを挙げるというのも、一つの立場として確立しています。そのような考えから見れば、参考文献の分の除去には一定の妥当性があり、ノートに残しておくなどの方法もありえたでしょうし、記事中に残してもいいという考えもあるでしょうが、除去することを批判するには当たらないと考えます。状況にも拠りますが、出典タグは、関連性のある資料を並べることを求めるのではなく、具体的に個々の情報・記述に対して、その情報源を付加していくものではないかと考えます。--Ks aka 98 2007年10月6日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

管理者の一人であるKs aka 98さんの判断であればと、理解させていただきました。以後、特に私から今後Wikipediaへの投稿&編集を行う意思はなくなりましたので、以後ご安心ください。喜連川一色家さんとは、過去に先祖の件で情報交換をさせていただいた者で、彼のページは、メールアドレスを明示されたり、自己の素性を明確にした上で、真面目に正直に、研究されている姿が十分見受けられ、共鳴し当サイトの彼の記事を応援したつもりです。

最後に、本年6月に発刊された正式名『喜連川町史』第三巻史料編3近世、ですが本日私なりに、再度読み込んで見たのですが、また、新しい発見がありました。「第三章 喜連川家 第一節 由来と格式 一 家系と系譜」の最初に掲載されている足利聡氏により作成された「喜連川義氏家譜」が掲載されています。なんと、この最後の所に喜連川騒動の記述が記録されていたのです。内容を読みますと『聞及秘録』の喜連川騒動記述とほぼ同じ内容でした。江戸市ケ谷の月桂寺に問い合わせ、「喜連川家来の文書也」と書かれ、江戸から来た目付け2人の名が「御目付花房勘右衛門、三宅大兵衛を遺されてみせしめられ、事あらはる によってなり」と記録されています。五人の百姓家の家伝書とは明らかに相違する内容が掲載されているのです。喜連川家の系図は、3タイプほど掲載されていましたので、編纂担当者はきずかなかったようですね。多分、『聞及秘録』を知る、筑波大学の教授先生の意思かもしれませんな。(勿論、断定はできませんが。)よって、結果として、『喜連川町史』第三巻史料編3近世は、編纂委員会の意思とは別に密かに、かつ明確に、同町が過去に編纂した2誌 『喜連川町郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述を、否定して同町最後の町史編纂を終了したことになるようですな。もし時間がありましたらすでに全国の図書館に配布されていますので、ご確認ください。

また、下で抗議と自己防衛に困窮されている方、身から出た錆とあきらめ下さい。投稿時の編集方法は、皆様の編集方法を真似れば簡単なことです。つまらぬ詮索には限がないこと、確証なく人を疑ったり、貶す行為は、何も生まないことを今後ともあなたの人生で何度も経験して行くでしょう。その頃、またお会いできたら良いですな。新田岩松由来の者より。--124.86.233.147 2007年10月6日 (土) 19:04 (UTC)[返信]

IP氏へ

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  • 結論から先に申し上げます。Wikipedia:多重アカウント#規制逃れにもあるように、ブロック逃れは許されない行為であり、その編集は内容の如何に関わらずリバートされるべきであるからです。
  • 私があなたの最初の編集で気付いた点は、お気づきでしょうか参考文献に『及聞秘録』を書き加えたことです。利用者:喜連川一色家はこの文献を参考文献に書き記すことに異常な執着を見せています(過去の編集をご覧下さい)。これは筑波大学図書館職員を名乗る人物も同様です。
  • あなたの次の編集を見て、おかしな事に気付きました。それはあなたが<ref></ref>と<references/>のタグを使っていたことです。つまり、あなたはウィキペディアの編集に慣れている、とゆうことになります。もしこの書き込みが、あなたにとっての、ウィキペディアで2回目の編集であるならば、このようにきれいなタグを打つことはおろか、タグの存在すら知らないはずです。
  • さて、利用者:喜連川一色家が暴走をしていたとき、それに携わった人たちに共通の問題がありました。それは、「喜連川騒動に付いての資料がほとんど無く、先行研究もない」とゆうことです。唯一の先行資料であった『喜連川町誌』でさえも、利用者:喜連川一色家によって「捏造である」とゆうことになれば、これはウィキペディアに載せることができない内容である、とゆうことになってしまうところでした(詳細はWikipedia:検証可能性をご覧ください)。
  • しかしながら、「喜連川騒動」が今こうしてウィキペディアの一つの記事として存在しているのは何故か?それは、私を始め、決してこの事件に詳しいとは言えない多くの編集者の手によって、様々な文献資料が集められ、内容が整理されていったからです。まさにウィキペディアの集合知の象徴であると言えます。
  • そんな編集は長い間にわたって行われました。しかしながらその対話と内容の精選の輪の中に、あなたはいませんでしたね?すでに喜連川騒動の初版が投稿されてから1年が過ぎています。日本全国にも、いや世界的にも喜連川騒動に関して、ほとんど研究がなされていなかったのに、一色家の研究をしていると称し、わざわざ栃木県から筑波大学まで資料を請求したとゆうあなたが、どうして今までこの記事に関わらなかったのですか?
  • 「そのころはウィキペディアに書き込みをしていなかった」とあなたはおっしゃるかもしれません。ならば、あなたはどうしてこんなに編集に手慣れているのでしょうか?
  • あなたに対してはもう一つ疑問があります。それはあなたの使う言葉です。Wikipedia:投稿ブロック依頼/*hiraide.tochigi.ocn.ne.jpにも書きましたが、あなたと利用者:喜連川一色家には、同一と言っていい文体の乱れ、独自の用語法があります。(ここでは具体的に書きませんが、賢明な皆様は、それを判断することができるでしょう)。
  • その上で、「かつて利用者:喜連川一色家がアカウント取得前に使用していた」「筑波大学図書館職員を名乗る者が使用していた」、そしてあなたが使用しているプロバイダ・アクセスポイントが同一であるとゆう事実があります。
  • 以上のことを総合的に判断し、私は、あなたが利用者:喜連川一色家であると判断し、冒頭に述べた理由でのリバートを行いました。


  1. あなたが一色氏久喜連川騒動以外に編集したウィキペディアの記事を、五つ教えてください。具体的に「どの記事の」「どの編集」であるかをご呈示願います。
  2. あなたは、筑波大学図書館から『及聞秘録』を取り寄せたとゆうことですが、このような古文書を、あなたと、そして利用者:喜連川一色家の2人が、わざわざ栃木県から取り寄せたとゆうことは、当然図書館にも記録として残っているはずです。そこで、私が、文書で(メールなどではありません)筑波大学図書館に対して、「利用者:喜連川一色家こと某氏(すでに彼自身のインターネット上の記述により、彼の名は公知であります)以外に、栃木県から及聞秘録を取り寄せた者がいるか」とゆうことを、正式な形で問い合わせても良いかお聞きします。如何でしょうか?
  3. あなたは私の利用者名を、数度にわたって間違えており、そのことについて謝罪をしていません(これは、利用者:喜連川一色家も同様です)。私の利用者名は、半角英数でDoripokeです。そのことはどうでもいいのですが、あなたはこのノートで、利用者:喜連川一色家の先祖であり、彼の一族が代々受け継いでいく名前である「根岸丹右衛門」を「根岸丹衛門」と間違えています。このことについて、あなたは利用者:喜連川一色家に対して詫びる必要があると思うのですが、如何でしょうか?
  4. あなたはこの編集の要約で、「一色氏の記述は、広く研究している者で」(前述要約より引用)とおっしゃっています。にもかかわらず、今まで一色家の記事になんら手を付けなかった理由は何でしょうか?
  5. 最後にお聞きします。天地神明に誓ってお答え下さい。あなたは利用者:喜連川一色家ですか、それとも別人ですか?
  • なお、最後にひとこと言わせていただきます。リバーではなく、リバーです。(これも利用者:喜連川一色家と同じ記述法です、余談ですが)--Doripoke 2007年10月6日 (土) 15:14 (UTC)[返信]

ご苦労さまです。上の提案の所でご返答させていたがきましたよ。そうそう、筑波大学への問い合わせの件は、まだだったのですか?それは結構なことです。自分で自分の首を絞めるようなものであることは、当然わかってらっしゃる筈ですから。ネット上ではなく、実社会でのなりわいと法は、そう簡単な物でなく、これが出来る方は、一部の公的資格者だけで、あなたの本当の身分を推定されるだけですな。結果を楽しみにしていますよ。--124.86.233.147 2007年10月6日 (土) 19:44 (UTC)[返信]

どうもDoripoke氏は個人情報保護法をご存知ないのですか?知らない子供が誤解をおこしそうなので回答させていただきました。それと、筑波大学の先生が真実どちら派かもご存知なのですか?世の中そんなに簡単じゃないですよ。なんでも公開しなさいという法はありません。それに、こういった問い合わせを個人で行う場合、メールでは、振り込め詐欺からの電話となんらかわりない問い合わせとなります。お役所仕事は厄介なのですよ。少なくとも、ご自分の足で直接出向いてお願いするぐらいの誠意は必要でしょう。お待ちしております。--124.85.41.23 2007年10月7日 (日) 08:36 (UTC)[返信]

広域IPアドレスのブロックより帰ってまいりました。いよいよ、精神的に煮詰まっていらっしゃるようすですね。私の場合、喜連川一色家さんやその援護者と異なり、Doripokeさんが誰なのか?が知りたいのです。彼の投稿編集記事の傾向を、彼のログから判断しますと、ほぼ一般記事です。喜連川騒動関係を除くとですが。彼も異様な執着をしめしている人物の一人と見受けられます。それで、是非足を運んでいただきたく思ったのです。このような場では、じゅうぶんな意見交換はできませんので是非いらしてください。そうなれば、お互いを確認した上で、議論も出来るでしょう。Wikipediaさんには、それなりの方針があることは理解できておりますので、記事には現在の所、編集参加の意思はありません。そして、確証なく喜連川騒動関係記事に参加投稿した方々を同一人物と見なし、「詐欺野郎」であったり「あらし行為をした。」などと、ネット上で発言することは、いかなる行為であるのか、また、喜連川一色家さんに関しては、皆さんは、彼のページをリンクさせております。そして、喜連川一色家さんは、彼のページ内で本人の個人情報を開示しているわけですが、この行為は、ネット犯罪行為に近ずく事になります。管理者の方は、いずれ、このことを判断することになると思いますよ。良い記事を作るためには、紳士的でな会話を続けることが大切ですし、当然、記事にかかわるには、ご自分の足で、記事に掲載された史料などを確認し、記事内容とことを検証して、はじめて意義なり修正を加えるのが、正しい姿であると思います。正しい修正であれば、そこには、論争は発生しません。--124.85.36.237 2007年10月9日 (火) 06:51 (UTC)[返信]

Doripoke氏は、喜連川騒動関係の記事や書き込みがあると=「喜連川一色家の書き込み」と思い込み、確たる、証拠もなく全ての記事への協賛者を排除しようとしているようですね。繰り返しますが、Doripoke氏は、自分で喜連川騒動関係の記事に、出典要請のタグを自分で貼り付け、その上で、無期投稿ブロック状態であり出典を付けようがない喜連川一色家氏に変わり、出典を彼の協賛者やそれを知る全ての者により付加されると、「喜連川一色家氏の投稿違反」と想定してリバートしているように思われます。そうでないこと願いたいのですが。それはそれとして、現在の状態では、記事は発展できないと思います。また、出典が出されても、Doripoke氏独自による投稿ブロックを、確証もない彼の言うがままに許しているWikipediaの管理者としても、「出典がでてこない」を理由として、この記事の削除もできないという、ジレンマに陥っているようにも思います。しかし、いかなる論文でも出版物でも、勿論このWikipedia記事であっても、大切なのは出典です。これが示される記事であれば、その記事の検証がいつでも可能であり、この出典をもとに記事本文がより信憑性が高いものとなることが望まれるのです。現在のままではいかがなものかと。そこで、Doripokeさん自信が納得いただけるよう、メールではなくご自信の足でご来館いただければと思うのです。また、この記事の保護状態の根源は、Doripoke氏の思い込みにあるわけで、けして、Wikipediaの方針上にあるものではないと考えます。出典と本文に相違があるのであれば、その件で修正・加筆がされるのであれば、論争はおきません。Doripoke氏は、出典を調査することなく、思い込みで出典削除となるリバートをされたので、このような問題となっているのです。そろそろ、管理者の方の判断を願いたいとます。--123.224.15.150 2007年10月10日 (水) 14:49 (UTC)[返信]

追伸、当ノート内のこれまでの会話の中で、Doripoke氏の思い込みによるリーバートの事実は、検証できたかと思います。--123.224.15.150 2007年10月10日 (水) 14:59 (UTC)[返信]

この節における、DoripokeさんとIPさんのやりとりは、記事の発展に繋がるものではありません。以後は、ウィキペディアの外部で、二人でやりとりして頂ければと考えます。

保護については、Wikipedia:保護の方針#保護をかけてもよい場合の1に合致すると考えました。10月3日の履歴を確認下さい。また、出典があるからといって、その記述をしてもいいということではありません。Wikipedia:検証可能性#但し書きWikipedia:独自研究は載せないをご覧下さい。

IPさんはアカウントを取り、メールアドレスを登録すれば、Doripokeさんにウィキメールを送ることができます。特に編集することがなく、不適切な利用者名でなければ、ブロックされることをおそれる必要はないでしょう。IPさんがどうしてもアカウントの取得をしたくない、Doripokeさんのほうからアクセスしたい、ということであれば、図書館に問い合わせるなり、喜連川一色家さんに仲介の労を取って頂くなりということもあるかもしれません。ウィキペディアとしては、これらに関与できるものではないですが、常識ある範囲で、それぞれご検討下さい。

なお、本文の保護はまもなく解除されるでしょう。上記「提案」で述べた通り、資料を当たり、資料自体の批判を行なった情報源を得ての、加筆・編集を期待します。ただし、これまでこの記事の編集に加わった人はごく限られています。そうではない加筆があった場合、再度保護による対処を行なうことがあります。保護された場合、これまでの議論と関係なく、この項目に関心を持ち、加筆を試みる方は、加筆する分をノートに提示した上で、保護解除依頼をお願いすることになるかもしれません。あらかじめご了承下さい。--Ks aka 98 2007年10月10日 (水) 16:05 (UTC)[返信]

追:『喜連川町史』第三巻史料編3近世ですが、上で書いた通り、地元の図書館にも所蔵がないようですし、国会図書館やwebcatでの蔵書検索にも引っかかってこないようです。他の巻は揃っているようですので、蔵書の対象になっていないわけではなさそうです。何か事情(三巻だけ書名が異なっているなど)をご存じでしょうか?--Ks aka 98 2007年10月10日 (水) 16:53 (UTC)[返信]

Ks aka 98さんのご意見、了承させていただきました。ただし、Doripoke氏とのメールのやり取りは、察するところ無駄になります。直接お会いすることができればと考えています。

さて、お尋ねの「『喜連川町史』第三巻 資料編3 近世」の件、私も気になり栃木県立図書館の担当者の方に調べていただきました。たしかに、Ks aka 98さんの言われる通りでした。発刊発売され月日も経ちますので、当然配置されていると思い込んでいたようです。おはずかしい話でした。栃木県立図書館の担当者の方のお話によると「9月に下野新聞(栃木県唯一の地方新聞)に発刊の記事広告が出たのに納品が遅れているようなので、さくら市の編纂委員会(喜連川町史編纂委員会)に問い合わせたところ、『喜連川町史』第三巻 資料編3近世は諸事情により市からの、公立図書館への配布の認可がまだ下りない。とのことで、発刊済みであるのに異例なことである。」とのことでした。よって、この文献による当記事への出典表記は、これが配布されてからと考えております。この文献関係については、ひとまず休憩となります。しかし、他の出典文献は、すべて公開中であることを報告させていただきます。 また、これは、あくまで、推定ではありますが、喜連川一色家氏のページ「喜連川騒動における一考察」を拝見しますと、すでに、「『喜連川町史』資料編3 近世」の不備についての指摘が氏によって9月よりされております。これに関係するのかもしれませんね。当文献は、私が同編纂委員会から購入した時、は67番目の購入者としてのサインをしてきました。喜連川一色家さんの購入が、私の前か後かは、判りませんが、すでに100冊ぐらいは、出回っていると想定されます。さくら市の領収書も発行されております。よって、この発刊の事実をさくら市は否定できないでしょう。そして、この文献に手直しが入るとすれば、元五人の百姓家の文書(家伝書)『喜連川家由来書』のあたりの取り扱いかと思います。重ねますが想定です。「さくら市市長の発刊ことば」の内容にそった形で、いずれ修正され再発刊され、公共図書館にもスムーズに配布されるかと思います。同シリーズの他の発刊済の文献は、すでに配布されていますので、これだけ発刊しないことは考えずらいと私は判断しています。--220.104.61.96 2007年10月11日 (木) 15:47 (UTC)[返信]

Wikipediaでいう「出典」についての理解

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どうも微妙に解釈の違い、理解の違いがあるようにも見られますので、いちおう念のため(だれか特定の人向けということではなく、みんなのために)あらためてまとめてみたいと思います。

一次資料 (A)
「何某が何時、何をした」という記述のある古文書
二次資料 (B)
「(A)という一次資料には『何某が何時、何をした』という記述がある」ということが記述された発刊済文書
Wikipediaにおける「出典」となる文献 (C)
「(A)という一次資料に『何某が何時、何をした』と書かれていることについては、他の史料等との比較より、○○という意図があったことがわかる。また、△△というのが事実であるかどうかについては、別のこのような事実からこのようなことが言える」という「研究」を発表したもの

どうも、「出典としては発刊済の研究文書が求められる」ということについて「発刊済」のほうに力点を置いて解釈すると、(B)が「出典」になり得ると勘違いしてしまうのではないかと思います。 しかし実は「発刊済」かつ「研究」でなければならないので、正確には(C)でなければ「出典」にはなりません。(B)は一次資料と内容的に差がないからです。

ただし、これは(A)に書かれている内容「何某が何時、何をした」を「事実」として記事に記述する場合のことです。 (B)を出典とする場合、「(A)という一次資料に『何某が何時、何をした』という記述がある」という事実に対しての出典とすることは可能だと思います。

抽象的に書くとわかりにくい面もあるので、例を書きます。

(A) 「上杉謙信(長尾景虎)は女性であった」という記述のある古文書
(B) 「(A)という古文書に『上杉謙信(長尾景虎)は女性であった』と書かれている」という記述のある文献
(C) 「(A)という古文書や、その他の史料、発掘調査の結果などから、このような理由により『上杉謙信(長尾景虎)は女性であった』と結論づけられる」という研究論文や文献、書籍

上記の場合、「上杉謙信(長尾景虎)は女性であった可能性がある」と記事中に記述したい場合は(C)を出典とする必要があります。 (B)を出典とする場合には「(A)という古文書に『上杉謙信(長尾景虎)は女性であった』と書かれている」と書かなければいけません。その真偽の判定を勝手に行ってはいけません。行うと「独自研究」になります。

以上。--Horlicks 2007年10月12日 (金) 02:05 (UTC)[返信]

どうなったかと覗いてみたのですが、残念なご意見に落胆しています。
喜連川一色家さんの「喜連川騒動における一考察」のことばを受け売りするわけではないのですが、私は共感する部分が多く、一言いわせていただきます。
かの福沢諭吉先生の「学問のすすめ」の中の言葉に次のものがあります。
「信の世界に疑詐多く、疑の世界に真理多し」
これは、信じられている物(公共機関の発行物、百科事典、公的研究者や有名研究者等の出版物など一般に正しいと思われ、かつ言われている物)に対して「信の世界」といわれており、「疑の世界」とは、学問のことをいわれていると理解しています。それでは、なぜ福沢諭吉が「信の世界」を鵜呑みにしてはいけないといわれるのでしょうか?
それは、思うに、かれは江戸時代から明治時代へと急激な時代の変化を体験し、新しい外国文化を体験したからではなかっでしょうか?それまでの彼の知識は、国内の有識者といわれる幕府の配下的な人物達や幕府の公館物等から得た知識であったこと、また、いかなる信用できるといわれる個人出版物であっても、そこには個人の思惑が存在し、鵜呑みにするならば、真実は得られない、そのために学問が必要であり大切なことであるといわれているのです。
このことは、現代社会においても同じことがいえます。
そこで、Wikipediaの編集方法ですが、皆様が編集されたWikipediaの三大原則「中立性」「信憑性」「独自研究は許さない」ですが、一読させていただきました。皆様のご苦労が伺われ、大変共感しています。しかし、確かに、皆様のご意見は大変重要なことなのですが、「Wikipedia財団」のめざす姿が、福沢諭吉が示す「信の世界」の一つである「信憑性の低い一般的百貨事典」であったのか?ということです。
Wikipediaの存在意義は、こんなものではないと思うのです。福沢諭吉の示す「疑の世界」(真の学問)を推進する上でそれを支援する情報媒体であることが、Wikipediaのすばらしいところであると思うのです。ここに、投稿執筆される方々は基本的には、なんの権威もない一般人であり、一部の権力者や思想家の影響下にない人たちにより編集されることではなかったでしょうか?そして、それゆえに知識の対比物として「出典の提示」が要求されるのではないでしょうか。本来、多くの読者が必要とするのは、正しい学問のための「出典」なのです。Wikipediaの編集記事は、常に流動的であることを明確にして、公開されている「出典」のありかを明示するならば、「信の世界」のただの百科事典から「疑の世界」を支援する唯一の「信頼される百科事典」となれるかと思います。
公開されている出典に、制限をかけることは、体制側(権力者)や思想家の思惑どうりの人民(国民)を洗脳する手助けでしかないことを知るべきかと思います。この洗脳からのがれ、真実の知識を得るためには、教わるのではなく自分で多くの資料を対比して、勝ち取る以外ないのです。このことを、全世界の国民(人民)が知ることが、誤った過去の歴史を繰り返さない、平和を維持するための民(国民・人民)の知恵であり武器ではないでしょうか?
大学の先生であっても、糧となるのは国の援助金などを含め支払われる給料です。権力の影響下にあるのです。公開された、出典の制限には異議を申し上げます。--123.224.29.86 2007年10月15日 (月) 16:31 (UTC)[返信]

そういう闘いは、学会などに乗り込んで行なって頂ければ、あるいは、ジンボ・ウェールズあるいは財団関係者と直接対話して頂ければと存じます。方針制定に関する古い議論は、英語版の履歴などから、ある程度追うことができます。そちらを参照し、財団の考えと、日本語版にある方針の間に重大な齟齬があれば、ぼくの会話ページにでもお知らせ下さい。なお、日本語版は、英語版よりもかなり緩く運用されているようです。記事の発展に繋がらない話題の投稿が続くこと、広域ブロックの依頼が出ていますが、広域ブロックを避けることもあり、このページは3カ月の半保護としました。適切でないと判断される場合、保護解除依頼へ、管理者であればそれぞれの判断で解除ください。--Ks aka 98 2007年10月15日 (月) 17:30 (UTC)[返信]

一色氏久を嫡流の出とする事への疑問

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何処からの出典でしょうか?嫡流の出とする根拠は?関東一色氏である幸手家は嫡流ではありませんし?--219.97.179.230 2008年8月18日 (月) 10:04 (UTC)[返信]

また・・・

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先月あたりから、またまた栃木OCNのIPユーザさんが「一色氏久」「喜連川昭氏」など、例の喜連川騒動関連記事に限った編集をされているようですが。どうしたものですかねぇ。--Horlicks会話2012年11月16日 (金) 18:42 (UTC)[返信]