ノート:三韓征伐

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ここまでの議論[編集]

注釈で議論するのは論点が明らかにならないため、本文の注釈を削除するに当たり以下に議論を保存します。--ちとせ 2007年3月16日 (金) 19:36 (UTC)[返信]

戦後の解釈[編集]

戦後史学では、戦前の皇国史観から解放され記紀への実証的研究が進んだ結果、「三韓征伐」に関する記述は具体的ではなく神話的誇張が多く神功皇后の実在を実証できない{要出典}とされてきた。

一方、韓国においては李進煕・和光大名誉教授が主張する、現在の広開土王碑碑文は旧日本軍が近代日本の半島進出を正当化するため不都合な歴史を改竄したものであり、原文は倭が百済に対して朝貢を行ったという記述であったという説が主流である。(好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 「改竄論争に終止符」読売新聞 2006年4月12日12面)

しかし現在は、中国の学者、徐建新(中国社会科学院世界歴史研究所)が入手した最古の碑文が、旧日本軍の拓本と一致したことから、在日朝鮮人・李進煕(和光大名誉教授)が唱えたような旧日本軍による改竄はなかったと言われている(好太王碑拓本の研究 東京堂出版 ISBN:978-4490205695)。

しかし今もなお、韓国では神功皇后や三韓征伐はフィクションであるとする見解を支持する者がいる。一例としては、韓国の著名な通信社であるyonhap newsは2007年2月5日の記事で、広開土大王碑を複製した際に「日本が新羅と百済を臣民にした」と言う日本学界の解釈をそのまま引用したとして非難する世論が起こったと報じている。また韓国の独立記念館に復元された広開土大王碑はこれらの記述が判読不可能になるように処理されているとも報じている。[1]

ここまで。--ちとせ 2007年3月16日 (金) 19:36 (UTC)[返信]

losif様は、韓国においては広開土大王碑に対する日本の捏造説が主流ではないと主張されていますが、

  • 広開土大王碑を複製した際に「日本が新羅と百済を臣民にした」と言う日本学界の解釈をそのまま引用したとして非難する世論が起こる理由。
  • 韓国の独立記念館に復元された広開土大王碑はこれらの記述が判読不可能になるように処理されている理由。

これらをどのように解釈されますか? 他ならぬ韓国政府によって作られ、独立記念館に堂々と展示されているものが、韓国人の一般的な見解を反映してはいないとでも主張するおつもりなのでしょうか?w--ちとせ 2007年3月16日 (金) 19:57 (UTC)[返信]

「三韓征伐」に関する記述は具体的ではなく神話的誇張が多く神功皇后の実在を実証できない。とする説について出典を明記されないようなら後ほど削除させていただきます。なお、削除後に根拠を提示して再掲載されることを否定するものではありません。--ちとせ 2007年3月16日 (金) 20:01 (UTC)[返信]

>韓国においては広開土大王碑に対する日本の捏造説が主流ではないと主張されていますが、
そんな主張はしていませんが。どうして李進煕の名前を出しただけで他の典拠もなく「歴史認識の違いにより」「韓国朝鮮側では」「~~~という主張を崩していない」などと書けるのか理解に苦しむので典拠を求めているだけです。
>韓国の独立記念館に復元された広開土大王碑はこれらの記述が判読不可能になるように処理されている理由
それは知らなかった。それを追記すれば良いと思います。ただし、それをどう解釈するかは、ユーザーが勝手にやってよいことではありません。
>他ならぬ韓国政府によって作られ、独立記念館に堂々と展示されているものが、韓国人の一般的な見解を反映してはいないとでも主張するおつもりなのでしょうか
知らないことについてはなんとも言えません。ただ、独立記念館の展示が韓国人の一般的な見解かどうかにはおおいに疑問があります。韓国で出版されている独立運動史を読んだ数少ない経験でも独立記念館のように左派の系譜を引く運動を完全になかったことにしたりしていませんでした。そもそもちとせさんが頻繁に用いる「韓国の歴史認識」とか、ここで言っている「韓国人の一般的見解」という言葉自体が理解不能です。そんなもんがあるんですか。私は何か一つのPOVを「日本の歴史認識」とか「日本人の一般的見解」などと決め付けられるのを断固拒否するし、韓国人にそう言われたら断固抗議しますけどね。
▼それから「w」とかあまり多用しないほうがいいですよ。お里が云々問題について余計な口を挟まないようにしたいですが、あんまりやられると私のほうが恥ずかしくなります。韓国の独立記念館というのは日本の靖国に似た存在だと思いますが、そういうものを持ち出されてもなあと思います。--Iosif 2007年3月16日 (金) 22:24 (UTC)--追記。--Iosif 2007年3月16日 (金) 22:35 (UTC)[返信]
この問題で、百済が日本の九州を支配したとする韓国の教科書と、倭が半島の南部を支配していたとする日本側教科書の記述が異なるのは事実ですよ。教科書問題を見ればわかるとおり。それを「歴史認識が違わない」「それは韓国人の一般的な見解ではない」と強弁するのなら、もう笑うしかありませんねw独立記念館の展示が韓国人の一般的な見解かどうかにはおおいに疑問であり、あれは左派の特殊な歴史認識だと主張するのは貴方の妄想であり、それこそPOVですよ。独立記念館の展示が韓国人の一般的な見解と異なると主張するのなら、その根拠を提示してください。私は貴方への根拠の提示を拒んでいません。losif様の主張では、losif様のは日本人の一般的な見解とは異なる歴史認識をお持ちのようですね。ww--ちとせ 2007年3月17日 (土) 04:00 (UTC)[返信]
韓国のどの教科書が何をどう書いていて、日本のどの教科書が何をどう書いているかが淡々と記述されているなら問題はないんだろうと思います(選定が恣意的だと問題ですが)。「歴史認識の違い」とか「日本人の一般的見解」(なんですかそれ?)とか大雑把なことを言うから問題なんです。てか、「歴史認識という言葉が嫌いだ!」と言って登場したのが、ちとせさんですよ。--Iosif 2007年3月25日 (日) 20:28 (UTC)[返信]
私が歴史認識について言っているのは、他人の歴史認識について認めないことは思想の弾圧であるということを言っているわけです。私が歴史認識という言葉自体を削除して回ったり、否定することはありません。貴方がいかなる歴史認識をお持ちであってもwikipediaへの参加を拒まれるものではありませんが、貴方の皇国史観への否定的見解の記述は度を逸しています。淡々と記述されますよう。--ちとせ 2007年3月30日 (金) 19:22 (UTC)[返信]

直木孝次郎説[編集]

三韓征伐の同時代の史実との関係から見た解釈を直木孝次郎が書いているのはネット上のソースでも確認できるほどのありふれた説です。これを独自研究というのは虚偽だとおもいます。(コメント欄に逆に書いてしまいました。)理由無く削除を繰り返すのはおやめください。GOBANG 2009年6月10日 (水) 06:38 (UTC)[返信]

上記に関連して、Brisitさんの意見(編集合戦が起こる前で、一番新しい版に差し戻し)を尊重するならば、戻すべきは2009年5月29日(金)23:27薔薇騎士団さんの版ですね。戻します。--Oh H 2009年6月10日 (水) 06:59 (UTC)[返信]

編集合戦は、Brisitさんがおこしたのですから、差し戻すべきは[2]でしょう。いずれにせよ、Brisitさんの議論に応じない姿勢は問題です。Noisycloud 2009年6月10日 (水) 07:07 (UTC)[返信]

直木孝次郎説を独自研究だとして削除したのは私のミスです。ですからすぐに直木さんの説を復元しましたよ。--Brisit 2009年6月10日 (水) 07:31 (UTC)[返信]

直木孝次郎は歴史家である以上三韓征伐の同時代資料にふれています。これは史実の解釈なのですから、それが当然です。 三韓征伐が伝説であるか否かといったとき史実の核がどのくらい有るかどうかが問題になります。Brisitさんは伝説であるという結論から入ってしまっています。普通に歴史解釈をしてください。Noisycloud 2009年6月10日 (水) 07:45 (UTC)[返信]

Brisitさんへ。 直木孝次郎『神話と歴史』(2006年吉川弘文館)を本当に読まれたなら、そこに、朝鮮半島の南部に日本(倭)が進出していたことについての記述がはっきりとあるはずです。三韓征伐の虚構性と当時の事実の記述と両方きちんと読んでください。それとも読まれてないのでしょうか?虚偽記載は非常に問題ですよ。GOBANG 2009年6月18日 (木) 03:31 (UTC)[返信]


三韓征伐の動機は財宝への欲望 ?[編集]

そんなこと、日本書紀の何処に書いてあるの?

普通の日本語の意味では三韓の「征伐」とされるものは、当時の新羅や百済の王朝に非道があった(例えば、半島南部に住んでた倭人[長江文明の百越人や黄河文明の漢人の混血子孫。当時は圧迫されて伽耶に住んでいた]を虐待した。)から「征伐」をした等の意味だと思うけどね。

もっとも、「財宝」に関係するとしても、そもそも高句麗(ワイ人部族)が南下して、かの新羅、百済一帯を侵略してたわけであって、三韓征伐は倭人(長江文明の百越人や黄河文明の漢人の混血子孫) にとっては祖先らや同族の亡命・開拓地を「奪還」することでしかない。

それなのに、もし、仮に、この記事のように「動機は征伐(や奪還)でなく財宝への欲望」が事実であると日本の歴史家らや国学者らが認めるなら、これまで「征伐」という言葉を使ってきた日本の歴史家、国学者は日本国民を騙してきたのだから、国民に対して土下座してでも詫びるべきだ。

--60.39.205.163 2009年6月20日 (土) 08:37 (UTC)[返信]

脚注『読売新聞』2004年2月6日 について[編集]

脚注が振られている文章のほぼ全ては、 ヨミウリ・オンラインから参照できるこだわり歴史考にある下記二つの記事の要約もしくは借用の形になっています。

  • 斉明女帝と神功皇后 --「伝説の舞台」存在せず
  • 斉明女帝と神功皇后 -- 白村江敗戦で勝者に学ぶ

ただ、変に文脈から切り離されていること、変に独自意見が混入していること、元記事自体のあやふやな信頼性から、他のウィキペディアの項目とは不整合な内容が多々あります。

著作権の確認、あるいは内容の検証をして欲しいです。 --218.41.18.189 2009年8月15日 (土) 19:57 (UTC)[返信]

中立的観点[編集]

現在の記述は、非常に偏った内容になっており、中立的観点から問題があります。加筆、記述される場合は、十分に中立性に配慮したうえで、ひとつの観点だけで執筆しないように努力してください。また三韓征伐伝承だけが、完全な虚構であるのか、日本書紀全体が虚構なのか、あるいは朝鮮、中国の史書なども史料批判から見て、どうなのか、といった観点も考慮するべきです。「朝鮮、中国の史料は金科玉条で、日本の史料は虚構」のような記述方向は、著しくバランスを欠如しています。--西方 2012年1月22日 (日) 04:37 (UTC)[返信]

概要の加筆協力[編集]

また、現在の記述内容は、研究史はある程度記述されていますが、肝心の日本書紀のなかの三韓征伐に関する記述について、記載がありません。私も加筆をするつもりですが、ご協力をお願いします。--西方 2012年1月24日 (火) 03:22 (UTC)[返信]

「国定教科書における記述」について[編集]

2012年1月24日 (火) 23:21‎ ねこぱんださんによる節挿入の件ですが、「解釈研究史」のなかに「国定教科書における記述」が置かれてますが、これは節を変える方がよいと思います。むしろ、「歴史」節において「近代」節を作り、そのなかで記述するべきではないかと。また、ひとつ疑問なのは、「戦前の教科書における三韓征伐」を加筆なさりたいのか、それとも、記紀における記録をまとめたいのか、よくわかりませんので、リバートしました。

私は、記紀におけるこの三韓征伐関連伝承をまとめるつもりですが、これは、「概要」ないし、「記紀における記載」などといった項目でまとめたいと思っています。--西方 2012年1月25日 (水) 02:42 (UTC)[返信]

図書館で古事記と日本書紀を眺めてきたのですが、『三韓』のことばは日本書紀にあって古事記にはありません。また、『征』『伐』の字は使われていますが、『征伐』と続けた表記は見当たりません。実際、両方とも皇后が向かったのは新羅だけです。ですから、『三韓征伐』とは、後世の誰かが名づけたことばではないかと考えます。それを検証できる史料があればいいのですが。西方さんの加筆に期待します。教科書関係は後日にでも。 --ねこぱんだ 2012年1月25日 (水) 07:11 (UTC)[返信]
第一次世界大戦や太平洋戦争は戦争当時の呼称ではなく、後になって名付けられたものですが、欧州大戦や大東亜戦争を記録した第一次世界大戦や太平洋戦争の名を冠する後世の編纂物であっても、多くの文献は諸史料に依って書かれています。また「三韓」の詞は晋代に成立した後漢書で既に使われてますし、「征」と「伐」の字は共に古事記では一度も使われていません。--119.83.172.28 2012年1月26日 (木) 09:38 (UTC)[返信]
百済・新羅・高句麗を『三韓』と言う表現が後漢書にあるのですか。 --ねこぱんだ 2012年1月26日 (木) 12:45 (UTC)[返信]
ごめんなさい。ことばとがめのレベルでしたね。さて、記紀の伝承は、『やまとの西に宝の国があるのでいってみよう』『出かけるときに魚たちが船を後押しして応援してくれた』『新羅の王はやまとの力を知り、たたかわずして降伏し、服属を誓った』がおおむね一致して、そのあと日本書紀では『百済と高句麗も服属した』『新羅王は王子を人質に出した』という記事がつづきます。だから、この、実際の戦闘がない伝承に対して、「征伐」という言葉をつかったのは誰なのかは、けっこう重要なことではないかと思うのです。さらにそれが、国定教科書を通して国民的知識になっていくプロセスも、記述する価値はあるのだと思います。すぐにとはいきませんが、そうした展望が必要ではないでしょうか。『三国史記』の荒唐無稽を加筆された方がいるようですが、〈魚が船を後押しした〉というのも、話をおもしろくする潤色に類するものでしょうから、その点では記紀も同じかもしれません。 --ねこぱんだ 2012年1月26日 (木) 14:01 (UTC)[返信]
おっしゃる通り、「三韓征伐」という呼称がいつ形成されのか、重要な主題だと思います。私も知りたいです。元寇の時代ではもうあったのではないかとは思いますが、不明です。現在、論文ほか、調べていますが、この「三韓征伐」については、津田、直木以降、あまり研究もされてないようにも感じています。ただ、一般的な認知度という意味では、少なくとも、古代史に関心あるひとであれば、この「三韓征伐」呼称は一般的ではあります。あと、国史大辞典では、「新羅征討説話」となっております(上田正昭執筆記事)。しかし、この呼称は歴史学に限定されたもので、一般的ではありませんし、また研究者によっては異論もあるでしょう。日本書紀での該当箇所でも「三韓」は出てきますし(岩波文庫二、152頁)。あと、日本、朝鮮、中国の史書のいずれも史料として一級の価値を持っていますが、記述された内容の全てが史実であるとも、もちろん限りません。史料批判が必要ということであれば、筋もありますが、どっちの史料が正確か?みたいな話をしても、不毛なようにも思います。むろん、史書間の対照研究は必要ですが。--西方 2012年1月27日 (金) 01:53 (UTC)[返信]
そもそも当の日本書紀で「三韓征伐」の詞が使われていない以上、拘っても無意味ですが、三韓の詞は地域名称(弁韓12か国、馬韓54、辰韓12)もしくは種族名(韓に三種あり)として用いられた詞であるし、引用される事の多かった中国史書に於いて百済新羅はそれぞれ馬韓辰韓に居た部族から興り三韓地区に拠った末裔だと記述されているので、三国の征伐とその服属を指して三韓征伐と呼ばれるに至った事はごくごく自然な流れでしょう。--124.110.51.41 2012年1月27日 (金) 09:11 (UTC)[返信]

コメントアウトについて[編集]

IPアドレス124.110.51.41 氏によるこの2012年1月24日 (火) 08:23編集ですが、出典を伴う記述を、個人的な見解(上外垣氏を「作家」とする)のみを根拠にコメントアウトするのはおやめください。上外垣氏はたしかに、「正統な国史学者」ではないかもしれませんが、本人は文化史を自称されておられ、すなわち、歴史学者であって、いわゆる「作家」ではありません。

それから、別の箇所で私がコメントアウトしたものの範囲(「沈仁安は、朝鮮の『三国史記』を以て『日本書紀』の記述を訂正することは相反しないと指摘する」の箇所)を変更されておられますが、この範囲拡張の編集意図には合意できませんので、復旧しました。

これらの件について異議がある場合は、こちらで議論をお願いします。--西方 2012年1月27日 (金) 06:19 (UTC)[返信]

加筆[編集]

関連歴史を年表形式で加筆しました。まだ途中ですが、暫定的に編集しました。なにかありましたら、こちらで議論をお願いします。--西方 2012年1月27日 (金) 17:03 (UTC)[返信]

新羅歴代王を表示しているのは、可読性への配慮です。日本書紀の記載については、これからです。とはいえ、やはりかなり、複雑な年表になりますので、なにかいい案がございましたら、お知らせください。--西方 2012年1月27日 (金) 17:05 (UTC)[返信]

全て西方さん任せでもいい気はしますが、三国史記と三国遺事のうち記述が神話的で中国史書との異同が大きい史料としての価値がほぼ無い時代の事柄を載せるのは明らかにやり過ぎです。百済、新羅建国以前の状況が不鮮明だとしても、その時代を綴る両書の文章は大半が他国史書からの引用に創作を加えた内容でしょうから、何も採用せず晋書までの簡略でおぼろげな記録を書くだけに止めた方がよろしいかと。--42.124.34.195 2012年1月27日 (金) 23:42 (UTC)[返信]
ご意見、ありがとうございます。たしかにおっしゃることはもっともなのですが、そうなると、今度は、どこからが神話で、どこからが史実なのか、という、いわば古代史の宿命とでもいうべき悩ましい問題になるかと思うのですね。それに、歴史的な項目というのは、それを理解するためには、どうしても、前史・また背景、当時の社会状況や国際関係についての理解を伴うものと考えます。つまるところ、私は歴史関連の記事については、包摂主義すなわち加筆に加筆を加えていく方向がより好ましいと考えます。一般の歴史学の辞典などは、最低の量の非常に厳格に限定された、ウィキペディアでいうところの削除主義で執筆されていると思いますが、ウィキペディアの記事の場合は、それとは異なり、もっと開放的なものと考えます。むろん、これはあくまで私個人の見解です。しかし歴史関連の記事はいくつもありますが、私はやはり情報量の多い記事の方が、読んでて面白いし、また様々な側面を勉強することができます。すべての記事ではないですが、重要な記事については、私は10万バイト以上の情報記載がある方が適切であると思っています。ウィキペディアのガイドラインでは、たしか、20万バイト程度を上限に、それを超えるようであれば、分割なり移動なりで対処するといい、とあったように記憶しておりますが、現在、本記事は、3万バイトで、これは、やはり私としては、本記事の重要性からしても、少なすぎると思っています。このような考えを私を持っておりますので、IP氏がご指摘なさった件については、史料の問題性、または神話の記述の問題などについて、注意を喚起するような記載を、本文中に挿入すること、また、他の項目などの加筆による記事の充実化で、対応できるかと思うのですが。いずれにしても、史料批判、および、史料批判の観点からはどれほど「神話的」に見え、かつ、それが「神話」として見なされているとしても、神話として記録されたものが、記載されてはならない、ということにはならないと思います。ただ、この「注意」の部分が現在の私の加筆分だと、舌足らずではあるとは思っています。--西方 2012年1月28日 (土) 11:27 (UTC)[返信]
あと、晋書、記紀、三国史記、その他、のいずれがもっとも「正確に史実」を反映記録しているか、ということについては、研究者間でも見解はわかれることですから、それを編集者間で決定することは、原則としてできないと思います。ウィキペディアの編集者にできることは、既存の研究をまとめたり、引用しながら、加筆していくことであって、編集者の見解は極力排除しながら書くことですから。(むろん、一定程度、編集者の独自(個人的)見解が反響するのは、しばしばあることですが)。「私は三国史記より晋書を信頼する」ということを誰かが書籍や論文で発言しているのであれば、それを記載することは無論問題ないわけですが、だからといって、三国史記や記紀の記述は「でたらめで、虚構性が強い」という理由で掲載不可、とはできないでしょう。後者の史料をもとにした研究がある以上。極端な話、たとえば山海経の記事であっても、ある研究者がそれを参照しながら、本記事について見解を述べているような出典がある場合は、掲載する合理的な理由になると思います。むろん、関連性の度合いについては、編集者間でも見解や感覚が異なるので、そこは議論によって合意していくしかないのですが。冗長かもしれませんが、この問題は、結構、ややこしいとは思いましたので、このような次第となりました。--西方 2012年1月28日 (土) 11:49 (UTC)[返信]

利用者‐会話:118.36.147.60氏によってなされた連続編集ですが、出典のない独自見解ばかりが加筆されていたので、差し戻しします。また、NPOV観点からの問題もあり。出典を明記し、また中立的観点を目指した上で、今後は編集にのぞんでください。なお、この件については、このノートでお願いします。--西方 2012年2月18日 (土) 12:02 (UTC)[返信]

そのとおりだと思います。--Gamlin会話2012年3月17日 (土) 07:29 (UTC)[返信]