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ノート:上野千鶴子/過去ログ1

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井戸端より

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中立性に極めて欠落していると、感じます。客観的な表記とはまったく思えません。批判ばかり…。感情に任せて嫌悪感をぶちまかているようにしか感じません。善処を求めます。リテラシーの低下が懸念されます。--Oreshii 2006年7月17日 (月) 07:07 (UTC)

当該記事のノートで書いてください。--Muyo master 2006年7月17日 (月) 07:15 (UTC)
ただ自らが主張したいことを書き捨てするためだけに利用者名を取得して書き逃げするようなOreshiiのほうが、彼の主張する「こちらまで狂気が罹患してしまうwikipedian」より余程程度が低いのだけれども。井戸端は個人の思想を喚き散らす場ではない。--Jud 2006年7月17日 (月) 07:21 (UTC)

JUDあなたは議論する気がないようですね。基本方針をお読みになることを、進めます。他の編集者と協調すべきだと、私は考えますが。--JUUDOO 2006年7月17日 (月) 07:51 (UTC)

協調どころか捨てハンで議論をかき乱すような輩だけには言われたくないと思います。--220.212.242.221 2006年7月17日 (月) 09:10 (UTC)
「発言内容などからいわえるフェミナチといえる。」・・・これは削除しました。言葉もおかしいし、悪戯ですね。--59.171.19.210 2006年9月6日 (水) 16:37 (UTC)
>中立性に極めて欠落している。客観的な表記とはまったく思えません。批>判ばかりで感情に任せ。--Oreshii
そんなことはありません。私は出典を明らかにし、上野の発言を忠実に再現したまです。それに上野自身、この25年間、「若い男は去勢されている」「すべつるボーイ」「アッシー」「メッシー」「プッツンママ」など、感情任せな中傷や攻撃を、様々な媒体で行ってきました。当時はインターネット時代ではなかった為、上野の著書に反感を抱いた一般人は反論する術すらありませんでした。私は、1989年頃、上野宛に往復封筒で(しかも切っても貼って)手紙を書いたことがあります。しかし、彼女からは無しの礫で返事の手紙はありませんでした。そも上野に人間としてのマナーが著しく欠落しています。厳しい批判に晒されるのは当然のことです。--以上の署名の無いコメントは、ドゥルーズガタリ会話投稿記録)さんによるものです。2007年5月18日 (金) 14:36 (UTC)
上野千鶴子が批判に晒されるのが当然だとしても、Wikipediaは誰かを批判する場所ではありません。どうか、そのことをご理解いただければと思います。おーた 2007年5月18日 (金) 14:56 (UTC)

確かに wikipedia は批判の為だけの場ではないが、上野の各問題発言(例:自閉症の件)が科学的根拠に基づかず偏見だけによるなら、それは差別主義的であり、「差別主義」と解釈されることは問題ないんじゃないの?(犬笠銀次郎)--以上の署名のないコメントは、219.75.220.36会話/Whois)さんが 2007年6月9日 (土) 02:52 (UTC) に投稿したものです。

「問題のあった講演」の項に関する質問

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「日本型民主主義制度を悪用して、」で始まる一文の位置づけがよくわかりません。その上の講演での発言なのに表記ミスで箇条書きのレベルが変わってしまっただけなのか、それとも別の講演での発言なのか。もし別の講演での発言ならば、講演の日時などを記述し、その上の表記と合わせた方が良いかと思います。--GAIP 2006年8月12日 (土) 15:42 (UTC)

「日本型民主主義制度を悪用して」の部分は、上野千鶴子の発言ではなく、解説文だったようです。また、ネットで調べて、その類の発言について、2つの講演での発言が混在しているらしいことがわかったため、振り分けました。ただし、ネットで調べただけですので、まだ間違っている可能性もあります。その場合は訂正をお願い致します。--211.127.156.116 2006年10月7日 (土) 12:08 (UTC)

研究方法、経歴、批判や発言の前後関係の追加

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はじめまして。これまでに書かれた記述がなるべく消えないように、社会学とジェンダー・セクシュアリティ論の領域で、研究者が共有している知識について補足的に書き添えました。誤りや解釈的であると判断される箇所につきましては直してください。「社会学者」「上野千鶴子」について、上野さんの研究方法や経歴をまとめ、批判や発言の前後関係がわかるようにしましたが、どこまで削除していいのかわからなかったため、このような書き方になりました。よりよい記事になることを願います。--あり 2006年9月19日 (火) 09:03 (UTC)

以前の記事は批判的意見ばかりに偏っていたので、良いと思いますよ。上野千鶴子はあえて誤解を招くような表現を多用するので、レトリック的な部分をどう解釈するか、一筋縄ではいかないので難しいですね。。。--59.157.8.54 2006年9月22日 (金) 02:01 (UTC)

「批判」や「講演での発言」における解説のような部分について、上野千鶴子本人によって発言されたものでなく、執筆者による見解や評論にすぎないため、ウィキペディアには記述できませんので、削除しました。ただし、上野千鶴子本人によって反論されているものがあれば、それは記述できますので、その場合は引用して記述してください(できれば出典も)。--211.127.156.116 2006年10月7日 (土) 11:39 (UTC)

『当事者主権』、『ザ・フェミニズム』、岩波講座文学12『モダンとポストモダン』(岩波書 店.2003)の月報、竹村和子との対談(『ラディカルに語れば… ―― 上野千鶴子対談集』)、『ジェンダーとナショナリズム』、ジュンク堂のホームページ Http://www.junkudo.co.jp/syohyo200511/syohyo8-talk.htm など出典を示している箇所も削除されています。ウィキペディアEnglish、Judith Butlerの記事なども参考にして書いたのですが、前に投稿なさった方の記事を最大限に活かすということにしていましたので、あきらかに社会学者としての上野千鶴子さんの記事として偏った記述に際して、前後関係を「学史」として埋めてゆきました。「哲学・思想」に関する記事を書く際に、その思想(思想家)の発言が単独で書かれており、「批判が広がっている」等のことばが採用されていますが、これらは誰が批判したのか書かれていませんし、「社会的な問題への発言」、「批判」、「講演」における発言という項目は、以前に投稿なさった方が、その方の見解で選び取った「部分」です。部分的に選ばれた箇所に前後関係がない際、事典としては補完する必要があるのではないかと思います。率直に伺いますが、211.127.156.116さんは、「社会的な問題への発言」、「批判」、「講演」の、現在の「書き方」に関して、「中立的な記事」が出来上がっているとお考えでしょうか? また、「評論」ということですが、前述したとおり、上野千鶴子さんが書いたテクストやその本に引用されたテクストをまとめたものです。「評論」というのは、物事の善悪、優劣など、価値判断をした文章のことです。

たとえば、以下の文章を採用されていますが、こちらのほうが、見解や評論ではないのでしょうか。

>『マザコン少年の末路――女と男の未来』(河合文化教育研究所、1986年)で、先天的早期脳障害の自閉症や、登校拒否不登校)はマザコン(マザー・コンプレックス)が原因であると非科学的な主張をして、自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。後に、その批判も併記して出版しなおされることとなった。しかし、上野はこの言説について撤回や謝罪は未だに一切していない。

「非科学的な」というのは、社会学、文化人類学などでは焦点です。上野千鶴子著『構築主義とは何か』『発情装置』などをお読みになれば、ミシェル・フーコーらの仕事に基づいていることは引用や引用文献からわかるのですが、「非科学的な」ということばは、上野千鶴子さんのテクスト『マザコン少年の末路――女と男の未来』へのひとつの見解です。もしも削るのでしたら、こちらも削ってほしいと思います。

>>『マザコン少年の末路――女と男の未来』(河合文化教育研究所、1986年)で、先天的早期脳障害の自閉症や、登校拒否不登校)はマザコン(マザー・コンプレックス)が原因であると主張し、自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。後に、その批判も併記して出版しなおされることとなった。しかし、上野はこの言説について撤回や謝罪は未だに一切していない。

こうして削ると、この文章の「しかし、上野はこの言説について撤回や謝罪は未だに一切していない。」という箇所が必要かどうかという議論に進めるでしょう。

>こんなものは文学論ではないと厳しい批判が巻き起こった。

という箇所に関して、削除されていますが、岩波講座文学12『モダンとポストモダン』(岩波書店.2003)の月報、「『文学』延命の試み?」をお読みになりましたでしょうか? 文学についての上野さんの見解が書かれており、それをふまえています。

>雑誌『テーミス』に関して。 「中傷」を伴うということばが残されています。この雑誌での「回答」が「中傷」かどうかを判断したのは誰でしょうか? これが中傷であるのはコモンセンスであるというのはウィキペディアでは「禁忌」だということが「基本方針」にかいてあります。

>『サヨナラ、学校化社会』、『月刊 ASAHI』

「学校化」についての「学史」、及び、引用を踏まえていますが、これについては書き直します。「学校化社会」について引用されたほかの文献のほうが適切かもしれません。また、しゃべり言葉の採用に関しては、『ナショナリズムとジェンダー』や『男流文学論』をふまえています。

さて、最後になりましたが、211.127.156.116さんが書いておられた、ウィキペディアにはふさわしくないという記述ということについてですが、211.127.156.116さんの削除の後のことですが、61.112.238.202さんが、「マルクス主義フェミニストであるが、女性以外のマイノリティーや障害者に対する共感は弱く、しばしばその差別・暴力的暴言が物議を醸す。」と書かれており、「共感が弱い」ということばが用いられており、弱い、強いといった、価値判断を伴った「評論文」になっています。

以上、上野千鶴子さんのテクストを部分的に引用するのも、執筆者による見解や評論ではないかということについて書きました。もしも上野さんのテクストから引用して補うとすれば、膨大な量になるということも書き添えます。もしも、社会学、文化人類学、表象文化研究、文化研究などに詳しいる方で、削除前の「解説」において、「学史」をふまえていない、あるいは、上野千鶴子さんのテクストをふまえていない箇所があるという批判について応答します。「事典」として、この記事を検索した際の利用者の方の利便性、思想的な背景についての参照性が不要というのでしたら、上野千鶴子さんのテクストを部分的に引用するのも、執筆者による見解や評論ではないかということを考えた上で、「中立」という点について、何故「解説」のようにならざるをえなかったのか再考し、この記事を再構築して行ければ幸いです。--あり2006年10月9日 (月) 10:14 (UTC)

追記。わたしは、211.127.156.116さんの削除の仕方は、「中立」だと思います。方法論等をしっかりと残してくださって有難いです。また、「上野が」という主語を採用した書き方に違和感をお感じになったのだと思いますが、それは、「社会的な問題への発言」、「批判」、「講演」の箇所があまりにも偏っているために、社会科学を専攻していると、「学史」を無視した、執筆者の方の偏りを感じるのです。その点について書き添えます。ありがとうございます。--あり 2006年10月9日 (月) 10:24 (UTC)

現状の記事はやはり問題あり

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別に批判的な記事が多くてもかまいませんが、少なくとも一般的な履歴、業績、これまでの経緯の詳細を抜きに、現状の記事には相当問題がある、というふう思います。まあ水掛け論は不毛ですから、いましばらくは静観いたしましょう。
- Opponent 2006年11月12日 (日) 16:18 (UTC)]]

--61.192.140.175 2006年12月14日 (木) 11:10 (UTC)==「Wikipedia:存命人物の伝記」を守ること。==

  • Wikipedia:存命人物の伝記に基づき削除。意図的な情報のピックアップをしないこと。存命中である限りWikipedia:存命人物の伝記によって記述されるべきです。否定的な題材は存命人物の伝記とそのノートから除去すべきです—その際の除去は議論無しで行なっても構いませんし、3リバートルールも適用されません。よってこれに従い何度でもリバートしますよ。--61.198.237.196 2006年11月24日 (金) 07:37 (UTC)

Critics:批判、あら捜しには否定的記述を載せるなとはありません。曲解しないでください。220.111.54.208 2006年12月1日 (金) 06:22 (UTC)

Wikipedia:存命人物の伝記をご一読ください。ここにハッキリと「否定的な題材は存命人物の伝記とそのノートから除去すべきです」と書かれています。当該人物は存命なのだからこれが適用されます。実際、西和彦でも適用されています。--210.255.41.203 2006年12月1日 (金) 06:26 (UTC)


明言すべきです=記述できる。

Wikipedia:存命人物の伝記の中のCritics:批判、あら捜しより。

>批判者の見解は、それが項目本人の著名性につりあう重要なものでなおかつ信頼できる情報源にもとづくものならば、記事を損なったり批判者に肩入れするような書き方でない限り明言すべきです。 少数派の意見が多数派のものであるかのように不釣合いな量の加筆はしないように注意してください。もしその批判がごく少数の人々の見解に過ぎないなら、項目内に書かないでください。


>批判は確かな出典がなくてはなりませんし、項目人物についてのものでなければいけません。 ほかの事に連座しての批判は(書かないように)警戒してください。220.111.54.208 2006年12月1日 (金) 06:45 (UTC)

公式な方針であるWikipedia:ウィキペディアは何でないかWikipedia:削除の方針も読んでください。220.111.54.208 2006年12月1日 (金) 06:53 (UTC)

その前にウィキペディアの文法とノートでの記述の仕方を学んでください。ここは2ちゃんねるではないので大変見にくいです。--222.15.150.141 2006年12月1日 (金) 23:03 (UTC)

ノートは個人への個人的な意見感想を言うところではありません。220.111.54.208 2006年12月2日 (土) 01:48 (UTC)

では、利用者‐会話:220.111.54.208を、とりあえずご覧ください。その上での論議、編集は、歓迎したします。--Miwa.SS 2006年12月2日 (土) 05:01 (UTC)

>>220.111.54.208さん 貴方が偏った主張を為さりたいのであればIZAやオーマイニュースなどで存分に語ってください。 --61.192.140.175 2006年12月14日 (木) 11:10 (UTC)

Wikipedia:存命人物の伝記には出典を明記した検証可能性を満たすものは批判でも載せられるとある。これを示さずに批判は削除できるというここでの批判は歪曲であり不当である。また、Wikipedia:存命人物の伝記は公的な方針ではないために、公的な方針が持つ絶対に守る義務は存在しない=これを理由に削除を断行することは認められない。ヒスタミン 2007年1月11日 (木) 00:11 (UTC)

検証可能性を満たしていないという理由ならば削除できる。出典のないものを削除する。ヒスタミン 2007年1月11日 (木) 01:16 (UTC)

「批判」の「マザコン少年の末路――女と男の未来』を巡って」以外は出典がないために削除しました。「講演における発言」も同じく。また、外部リンクの The Japan Times: Speaking up for her sexは見ることができないために削除しました。ヒスタミン 2007年1月11日 (木) 01:29 (UTC)

上野千鶴子が関わった論争や、上野千鶴子に対する批判について、大幅に書き足してみました。すべて、出典を明示し, 該当箇所については自分で目を通しました(手元に無い文献については、一部孫引き)。不足や誤認があればご指摘ください。また、トリビアに過ぎる記述は消去していって構わないと考えています。

なお、投稿する際に不手際がありNiKeさんにご迷惑をかけてしまいました。お手数かけました。ありがとうございます。おーた 2007年2月25日 (日) 04:53 (UTC)

2月25日の書き込みに対して、コメントアウトしました。Wikipedia:存命人物の伝記から外れていると判断したためです。正直に言って、コメントアウトした箇所には、私も噂話として知っている話があります。しかし、Wikipedia:存命人物の伝記に従えば、出典もなしにここでは書けません。さらにWikipedia:信頼できる情報源についても考えなければならない問題です。その結果、存命人物については面白い話は書けませんが(故人でも不必要な批判は書けませんが)、そのようなメディアなのだから、それに従うしかないと考えます。 おーた 2007年2月25日 (日) 08:37 (UTC)

おーたさんのご意見には概ね賛成です。ただ構築主義への批判は、人物の批判というより学問的な意見なので、そこまで削除しなくてもいいと思います。彼女が国際学会で発表せず、国際派と見られてはいないことも事実なので、とくにそれは批判というわけでもないでしょう。別に国際派である必要はないので。なお、彼女が院生をつぶしてしまうのが、大学人として問題だという批判は、私は数年前に某東大教授から直接きいたので、東大内に批判が存在する、こと自体は噂ではなく事実だったと思います。があえて書かなくてもいいでしょうか。隠しておいて被害を被る院生がいるとまずいような気もしますが。--Dainichi 2007年2月28日 (水) 13:19 (UTC)
自身で直接聞いた事などは独自調査でウィキペディアでは掲載不可です。独自調査はリバートさせていただきました。再度記述されるのであれば出典を明記してください。--Miwa.SS 2007年2月28日 (水) 13:32 (UTC)

>なお、彼女が院生をつぶしてしまうのが、大学人として問題だという批判は、私は数年前に某東大教授から直接きいたので、東大内に批判が存在する、こと自体は噂ではなく事実だったと思います。
無名人物によるインターネット配信はソースとみなされません。放送局での言及や、文献などでの提示をお願いします。--経済準学士 2007年2月28日 (水) 13:34 (UTC)

では院生に関する話しはやめておきましょう。それ以外は削除の必要はないので。--Dainichi 2007年2月28日 (水) 13:38 (UTC)

「女性が家庭の外で男性同様に働くべきと強く主張している。」について、コメントアウトしました。 上野は、著作のあちこちで「女性に「男並み」の生き方を勧めるか」について一概には言えない という趣旨の発言をしています。また同時にコメントアウトした「過激なフェミニズムを標榜し」 について、文献明示お願いします。自嘲気味に「札付きのフェミニスト」を自称している文章は なんとなく覚えがあるのですけれど、あの記述箇所に使える表現じゃないと思いますし。おーた 2007年2月28日 (水) 13:58 (UTC)

上野氏の学位について

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上野千鶴子氏が日本国内の大学で博士号を取得した形跡はありません。国立国会図書館蔵書検索東京大学学位論文データベースのどちらで検索しても、上野氏の博士論文はヒットしません。学士会の名簿でも、上野氏の学位は「文修(京)」となっているので訂正しました。--チハ 2007年9月3日 (月) 07:50 (UTC)--以上の署名のないコメントは、チハ会話投稿記録)さんが 2007年8月15日 (水) 06:02 (UTC) に投稿したものです(N.h.nによる付記)。


>>> オーバー・ドクター時代にマーケッティング系のシンクタンクで仕事を <<< という記述があるが、上野は博士号を取得していないので「オーバー・ドクター時代」という表現は不適当だ。

上野が博士号を取得していない旨を明記すべき。

本文に「ジェンダー・フリー」へのリンクを復活させるべき。--以上の署名のないコメントは、チハ会話投稿記録)さんが 2007年8月15日 (水) 06:02 (UTC) に投稿したものです(N.h.nによる付記)。--以上の署名のないコメントは、Tato会話投稿記録)さんが 2007年8月17日 (金) 17:20 (UTC) に投稿したものです(N.h.nによる付記)。

>>> オーバー・ドクター時代にマーケッティング系のシンクタンクで仕事を <<<以下のコメントは、私のものではありません。--チハ 2007年9月3日 (月) 07:50 (UTC)
上記の誤記について、大変、失礼致しました。m(_ _)mこの投稿の時点で、確認、訂正いたしました。ご了承ください。--N.h.n 2007年9月9日 (日) 06:58 (UTC)

「女という病気」

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ここではだいぶ批判されていますが、上野千鶴子氏は「男流文学論」1992年 P289~293において、「すべての“(誰々の)せい”を男に押し付けて自分の内側から湧く欲求を実行していくのが女でありますが、何か?」(趣旨)と述べている。主張を支持できるか否かは別にして、本心に正直な人だという意味では、きっと信頼できる人だ。122.212.221.82 2007年7月17日 (火) 10:24 (UTC)

そうでしょうか。「女でありますが」といいますが、なぜ上野氏が女全体を代表できるのでしょう? 「私でありますが」なら、正直と言えますが、女がずべてそうであると主張するには、その論証が必要です。つまり、学問ではないのです。Akoyano 2007年8月16日 (木) 15:15 (UTC)
学問でないのは確かだと思います。彼女は「釣る」ことを常に考えている人だと思います。「私を忘れないで。私を見て。」という気持ちが強い人だと思います。まだ出典が無いのですが、いずれ誰かが書くでしょう。・・・というように、私も釣られた一人であるのでしょう(苦笑)。--Album 2007年8月18日 (土) 11:08 (UTC)

「抗議」について

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白い薔薇さんの編集をこのように戻しました[1]。「今に至るまで」という記述は全く不要と考えます。著名人は様々な抗議を受けますが、それに対する対処を「今に至るまで謝罪がない」とするのは、特定のある立場を代弁することになると考えます。編集合戦になるようならコメント依頼をすると同時に、白い薔薇さんの活動をウォッチリストに入れて、出典の無い記述をしていないかどうか、投稿履歴を追いたいと思います。--Album 2007年8月26日 (日) 09:25 (UTC)

再度、図書館で確認しましたが、抗議を受けたこと自体の出典が見当たりません。「いつ?、どこで?どのような形で?」抗議を受けたのか、ご存知の方がいらっしゃればお示し下さい。--Album 2007年8月26日 (日) 09:35 (UTC)
「編集合戦になるようならコメント依頼をすると同時に、白い薔薇さんの活動をウォッチリストに入れて、出典の無い記述をしていないかどうか、投稿履歴を追いたいと思います」恐ろしいですね・・・こういう執拗なやり方で自分と意見を異にする者を排除するつもりなんでしょうか?--DieWeisseRose 2007年8月26日 (日) 10:11 (UTC)
排除ではなく、きちんとルールに則ってお話下さい。まず、出典が必要です。--Album 2007年8月26日 (日) 10:13 (UTC)

Los688さんには「お手間を取らせて申し訳ない」としか言いようがありません。白い薔薇さんも、議論してから書いて欲しい。Wikipedia:検証可能性にあるとおり、出典を示すべきなのは「記述する側」であり、除去する側ではないのです。--Album 2007年8月26日 (日) 10:22 (UTC)

ルールに則って書いてますが?どこがルール違反をしているのでしょうか?排除って何がですか?ちなみに、記述したのは私ではありません。私に出典を求められても困ります。--DieWeisseRose 2007年8月26日 (日) 10:25 (UTC)

貴殿が最初に「排除」という単語を使用しています。それを受けたものです。また、問題ある記述をした投稿者があったとき、投稿履歴を追いかけて次々と訂正を入れていくのはWikipedia:草取りの普通の手順です。--Album 2007年8月26日 (日) 10:32 (UTC)

まず、上野が抗議を受けたことを示す出典について。私の手元の書籍で調べてみましたが、絓秀実『超言葉狩り宣言』太田出版、1994年、p.250に

  • 「上野千鶴子が、自著『マザコン少年の末路』(河合文化研究所)における「自閉症」記述の差別性への抗議に対して、抗議者と徹底的な討論を行い、その上で自己批判的な「付論」を付した<増補版>を刊行するという、今日の差別問題においては画期的な対応をした」

という記述がありました。ですから、『マザコン少年の末路 増補改訂』(1994年)を見るのが一番早かろうと思うのですが、私の書棚にあるのは、増補版以前の版(1986年)でありました。このあたり、どなたか図書館などで調べていただきたく思います。 それから、白い薔薇さんが拘った「今に至るまで」はAlbumさんの見解を支持します。記事で書けるのは「明確な謝罪をしなかった」というところまででしょう。--おーた 2007年8月26日 (日) 12:55 (UTC)

出典をありがとうございます。私が責任をもって「増補版」を調べます。--Album 2007年8月27日 (月) 13:09 (UTC)
2日経過しましたが、出典がまだ入手できていません。いましばらくお待ち下さい。--Album 2007年8月29日 (水) 13:28 (UTC)
『マザコン少年の末路』の増補版を入手しました。結論から申し上げれば、「思いっきり謝罪している」ということですね。本文が保護になっているのは痛恨ですが、解けたら除去しましょう。具体的には、同書の98ページで「私の冒した誤り」として自己批判し、「心からお詫びしたいと思います」と明記していますね。抗議を受けた相手に会ってまでいます。存命人物ですから、編集依頼にかけた方が良いでしょう。ちょっと疲れたんだけれども。。。--Album 2007年9月1日 (土) 08:12 (UTC)
管理者伝言板で、単純除去の依頼をしました。私にとってお仲間ではない相手(上野)ですが、ウィキペディアに間違った記載は残すべきではない、ということです。あとは管理者様におまかせして、私はいったんこの項を去ります。そうそう、同書の109ページでも、重ねて「ふかくお詫びしたいと思います」と書いていますね。本文では「謝罪しなかった」としてあるのは、やっぱりマズイ。--Album 2007年9月1日 (土) 08:24 (UTC)
Albumさんの調査と対応に深く敬意を表します。お疲れ様でした。--おーた 2007年9月1日 (土) 11:53 (UTC)
対処された後に言っても仕方がないのですが、これは管理者伝言板で受け付けている単純な修正とは言えないでしょう。編集合戦の原因となっている部分について合意が得られたのですから、保護解除を依頼すべきかと思われます。--Bellcricket 2007年9月6日 (木) 21:28 (UTC)
残念なことに、「謝罪がない」という記述にこだわった「白い薔薇」氏による合意がありません。--Album 2007年9月7日 (金) 14:45 (UTC)
ならばこそ、合意形成による保護解除が先です。保護が行われた後に記事の内容を改変するようでは、保護の意味がないでしょう。これではせっかく保護が解除されても、再び編集合戦が起こってしまいます。なぜ、「白い薔薇」さんに合意形成をもちかけないのでしょう。--Bellcricket 2007年9月7日 (金) 14:57 (UTC)
私自身が出典を確認し、すでに議論が起きる余地が無いと確信しているからです。保護は1ヶ月で解除されるようですので、自然解除を待ちたいと思います。もし貴殿が待てないのならば、貴殿が交渉して下さい。ノートもこの件で、これ以上消費したくありません。--Album 2007年9月7日 (金) 15:02 (UTC)

上野千鶴子は「マルクス主義フェミニスト」

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1月14日の編集では「上野をどうしてもマルキストにしたい人がいるようで」という要約付きで「マルクス主義フェミニズム」関連の記述がコメントアウトされました。しかし、上野の主著のひとつが『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』と題されていているし、その「あとがき」を読めば彼女がマルクス主義フェミニズムを日本に紹介して、自身の理論構築にも大きな役割を果たしたことは明確だと考えます。従って、この編集は根拠無きものとしてリバートしたいと思います。--おーた 2008年1月14日 (月) 03:55 (UTC)

2008年3月2日付けのリバートについて

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「論争と批判」について、箇条書きは避けたい(「Wikipediaはトリビア集では無い」ので、こういう項目での箇条書きは推奨されません)のと、『マザコン少年の末路』問題でAlbumさんが文献調査で決着させた筈の記述を戻すなど、問題があると考えられたので、いったんリバートしました。書き込まれたIP氏にお願いしたいのですが、現在の記事の問題点を指摘していただけませんでしょうか。検討しながら、最適な記述をさぐっていきたいと思います。--おーた 2008年3月2日 (日) 22:06 (UTC)

不当な削除では

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  • 「売られた喧嘩は買う」がモットーとされてるが、保守系団体からNHK慰安婦を取り上げた番組改変問題を巡る公開討論会へ招待されたにもかかわらず、参加を拒んでいる。
  • 彼女がかって在籍していた京都精華大学を「四流大学」、「非銘柄大学」と誹謗。
  • 評論家の大塚英二氏を「既婚オタク」と中傷。
  • 若い男性を「スベツルボーイ」と嘲笑。
  • 上野の発言が問題になった例として、『マザコン少年の末路――女と男の未来』(1986) で 自閉症や、登校拒否不登校)は母親の過保護が原因であるとしたものがある。しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが既に定説であり、上野は自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。この批判を受け、上野は批判を発した親に面会して「充分に理解できます」とは言ったものの、謝罪はしていない。が、『マザコン少年の末路――増補版』を出版し、この全編を自己批判本とした上で、旧版在庫の絶版処置を行った。
  • また、『スカートの下の劇場』において「私は同性愛者を差別する」と書き同性愛者らから激しい批判を招き、浅田彰氏からホモセクシュアルホモソーシャルを混同した無知を揶揄されている。同著ではまた、レズビアンを「おまんこシスターズ」と侮辱した上に、異性愛の副産物にすぎないと発言し、これはレズビアンの掛札悠子から「あまりの考えの浅さにあぜんとする」として批判を受けている(掛札『「レズビアンである」ということ』1992年)。これに対して上野は『発情装置』(1998)の中で自分の同性愛者に関する認識が時間とともに変化していったと釈明を行った。この他、「ことさらに下半身ネタや女性器の名称を書く」、「頭の悪い広告代理店みたいな造語を次々と生み出す」などの批判がある。そうした批判の主なものは斎藤美奈子『文壇アイドル論』(2002)にまとめられている。

上記の文章を削除する左翼がいます。これは全て、上野自身の著作の中での発言。百科辞典的であるとのウィキペディアの趣旨に敵ったものであり、客観的事実として記述すべきです。マザコン少年の末路では、上野は「皆さん(自閉症児を持つ親の会)のいうことは充分に理解できます」とは言ったが、「謝罪」はしていません。--Dowpar 2008年3月21日 (金) 18:42 (UTC)

左翼がどうしたこうしたではなくて、Wikipedia:存命人物の伝記に抵触するので削除しています。ご不審であれば、Wikipedia:井戸端なり、適当な場所でDowparさんの編集が認められうるものかどうか問い合わせください。ある人物に対してどんなに不満があったとしても、世のためにそれを広めたいと考えようと思っても、Wikipediaには書けることと書けないことがあることを理解ください。--おーた 2008年3月22日 (土) 03:23 (UTC)
おーたさん、それは誤解です。上記の発言は全て彼女のものであり、客観的な事実です。彼女の著書にも書かれていることです。あなたこそ、上野氏を守りたい一心でリバートしている気がします。百科辞典的であり、やはり載せるべきだと思います。--Dowpar 2008年3月24日 (月) 15:12 (UTC)
えーとですね。上野千鶴子だろうが誰だろうが、毀誉褒貶の激しい人というのは様々な言論が、もともとの文脈から切り離されて一人歩きしているんですよ。それに加えて「語録」の解釈まで入っている可能性がたいへんに高い。というか、上野千鶴子については、無責任な批判(自分で出典を見ていないのにネットでの風聞をそのまま書き込んでいるケース)が相当に多いということは、ここの記事に関わってきて痛感しているところです。「マザコン少年の末路」にしてもそうでした。このノートで以前問題になったときに、誰も出典が出せないんです。私の記憶を元に最後にAlbumさんが図書館で出典をみつけてくれたんですが、それによれば「謝罪していないどころか、思いっきり謝罪している」という。その一方でDowparさんは「謝罪していない」という。私としては、どちらかの見解にバイアスがかかっていると判断せざるを得ません。仕方ないんで私も調査しますけどね。
それ以上に、DowparさんにはWikipedia:信頼できる情報源についても理解いただく必要があると思う。Wikipediaでは一次資料より二次資料で書くことが推奨されます。それは一次資料の取捨選択・判断・評価をWikipedia編集者が行うのではなく、なるべく評価が確立している有識者に任せるということです。上野千鶴子に関しては幸いにして斉藤美奈子(小林秀雄賞を受賞してますから「有識者」としては申し分ない)なんかが辛辣なことを書いていますので、現在の記事は結構これを使っています。こういうのがある以上わざわざ一次資料を使う必要は、私は無いと思う。
それでも、「上野千鶴子のこうした差別発言は百科事典に記載されるべきだ」と主張される場合は、もういちど「存命人物の伝記」を読んでいただきたい。Dowparさんは上野千鶴子がどんなに酷い人物なのか世に知らしめるべきだと思っていらっしゃるにしても、それをWikipediaの名の下に行うことをWikipediaのガイドラインは明確に否定しているんです。Wikipediaは存命人物に対する批判は、よほど確定した評価でない限り行わないと言ってるんです。そこのところをご理解ください。納得が行かないなら、どこか適当なところお問い合わせください。Dowparさんがリーバートをかけてきた記事については、時期をみて編集させていただきます。--おーた 2008年3月24日 (月) 22:42 (UTC)
上野を信仰するのは勝手だが、簡潔に書いてください。「どんなに酷い人物なのか世に知らしめるべきだと思っている」というのは憶測に基づいた批判です。上記は全て、上野本人の発言であり、本にも書いていることです。あなたが「批判」と受け止めているかもしれないが、私はそう解釈しません。客観的事実だと思っているし、そうである以上、客観的記述は載せて当然で、百科辞典的であり、ウィキペディアの精神に則しているといえます。あなたこそルールをよく読んでください。--Dowpar 2008年3月25日 (火) 02:27 (UTC)

(インデント戻します)私のことを「上野氏を守りたい一心でリバートしている気がします」とか「上野を信仰するのは勝手だが」と書く一方で、私の「憶測に基づく批判」をやめろというのは、実に分りやすいダブルスタンダードですね。というのは置いといて。

で、一次情報と二次情報について理解されておられないようなので、もうちょっと分りやすく書きましょう。「上野本人の発言」は一次情報です。一次情報が事実だからと言って、そこから編集者が抜書したものを箇条書きしてはいけません。WP:NOTの「Wikipediaはデーターベースではない」をごらんください。アニメやゲームのサブカル関係記事、芸能界関係記事にはこうした箇条書き編集で良いと思い込んでいる編集者が残っていることは事実ですが、それは不幸な誤解であるとしか言いようがありません。

生存人物に関してはとくに信頼できる二次情報に基づいて記述ください。たとえば、福田和也でも吉本隆明でも構わないんですが、ウケ狙いの暴論・極論発言の目立つ人というのは、「あんな発言したこんな発言をした」という面白おかしい語録を作ろうと思えば幾らでも作れます。しかし、そういうのは百科事典ではありません。

そもそも「客観的記述は載せて当然で、百科辞典的であり、ウィキペディアの精神に則している」とDowparさんは言うけれど、ご自身でどれだけ、それが客観的事実であることを確認されているのでしょうか。たとえば、「上記は全て、上野本人の発言」だというけれど、Dowparさんはまったく出典を示さない。それどころかDowparさんは

  • マザコン少年の末路では、上野は「皆さん(自閉症児を持つ親の会)のいうことは充分に理解できます」とは言ったが、「謝罪」はしていません。

と書いているが、ご自身で確認した上で書いているのでしょうか。先ほど、私自身で出典にあたりましたが、『マザコン少年の末路<増補版>』河合出版、1994年、ISBN4-87999-937-7 には

  • 「この発言が自閉症児とその親の方たちを深く傷つけ、「自閉症」の原因が親の「育て方」にあるという根拠のない偏見を拡めることに手を貸す結果になったことに、心からお詫びしたいと思います。」pp.97-98
  • 「「自閉症」や「登校拒否」や「家庭内暴力」の関係当事者の方たちに対する偏見と差別を助長し、ご迷惑をかけたことには、ふかくお詫びしたいと思います。」p.109

と書いてあります。どうして、これで「謝罪はしてない」と断言できるのでしょうか。

この項目の編集に当たってはAlbumさんが出典調査を引き受けてくれて「上野はちゃんと謝罪している」という報告をしてくれています。ところがDowparさんは自分で確かめることもなく、勝手に「上野は謝罪したわけではない」という論を張ったとしか思えません。そのような知的不誠実さでこうした共同作業に参加されるのははなはだ迷惑極まりない行為であることは、はっきりと言わせていただきます。文献調査もできない人間が、「客観記述」などと偉そうなことを言ってはなりません。--おーた 2008年3月27日 (木) 15:25 (UTC)

コメント依頼がつけられていましたのでやってまいりました、M.Mと申します。問題とされている記事と上記の議論を拝見しましたが、私は以下の点でDowparさんの主張には問題ありと判断いたします。
  • その1:Dowparさんが削除は不適切であるとする箇所についてですが、私はおーたさんを支持します。理由は、事実であるか否かを問わず、特定個人に悪い印象を与えることばかりを取り上げて掲載することは、中立性の観点から不適切であるからです。つまり、特定個人の評価を失墜させようという悪意が介在していると判断できるからです。たとえ客観的事実であったとしても、特定の情報のみを強調することは、評価を一定の方向へと誘導しようとする情報操作であり、百科事典としてあるまじきものといえます。
  • その2:Dowparさんは、「上記の文章を削除する左翼がいます」と該当箇所を削除する者は左翼であるとの主張を行っていますが、まったく根拠がありません。その後の主張の中でも、おーたさんが削除する理由を示すと「上野氏を守りたい一心でリバートしている気がします」というまったく根拠の無い決めつけをしています。この時点ですでに議論になっていません。また、「上野を信仰するのは勝手だが」という決めつけも、おーたさんの記述内容から上野千鶴子氏を礼賛するものではないところから、まったく不適切な主張であるといえます。
  • その3:「『どんなに酷い人物なのか世に知らしめるべきだと思っている』というのは憶測に基づいた批判です」というDowparさんの反論は、「その1」で示したとおり、該当部分の記述内容がそのように判断できる材料を提供しているので、これも不適切であるといえます。
上野千鶴子氏は、発言内容から問題ある人なのかもしれません。しかし、そのことをことさら強調し、詳細に記述することは必要とは思えません。ただ一文、「同性愛・自閉症・登校拒否等に関して様々な論評を行っているが、不適切であるとの批判も多い」程度の記述を載せておけばいいだけの話です。
Dowparさんは、議論の相手の主張の内容をまったく吟味せず、一方的に自己主張を繰り返しているだけです。これでは話は平行線で、合意に至ることはありません。まずはDowperさんが議論の内容を再検討し、ご自分の考えを整理されるべきだと思います。上記の議論から判断して、Dowparさんは反論する相手=敵とみなしている傾向があります。それでは合意形成はできませんし、反論する者は増えこそすれ、減ることはありませんよ。まずは、相手の主張をよく聞くことをお勧めします。--M.M 2008年3月31日 (月) 15:01 (UTC)
えーと。Dowparさんのソックパペットが疑われる方も参入されておられますが、本件とは直接関係無いということで話を進めます。3月27日付の私の発言からDowparさんの反論もなく、M.Mさんの支持もいただいたので、Doparさんが差し戻した記述を改めて削除します。--おーた 2008年4月3日 (木) 14:58 (UTC)
おーたさん、こんばんは。まだ私一人が支持しただけで合意が成立したとするのは、少々早計ではないでしょうか。いちおう、Sokizo(旧HN:Dowpar)さんによる有効回答(これまでの回答からして有効回答が得られるとは思いませんが)の期限を設けて、期限経過後にSokizoさん含めて、誰からも有効回答がなかった時に削除したほうがよかったのではないですか? 形式上、まだ合意成立には至っておらず、おーたさんが一方的に削除してしまっているようにも見えます。これまでのSokizoさんとの間の経緯から見て、即削除したい気持ちは分かるのですが、後から一方的だとの非難を回避するためにも、形式上の手続きもきちんとしておいたほうがいいと思います。そのほうが、「勝手に削除した」という非難に対抗するのに有効な反論を提起できます。
それから、箇条書きの箇所を削除しただけだということですが、まだ問題となっている箇所(「3 論争と批判と問題発言」の内容すべて)は依然として残っているのですが、こちらのほうは削除しなくてもよいのでしょうか?--M.M 2008年4月5日 (土) 10:10 (UTC)
うーん。コメント依頼を出してしばらく待ったけど、M.Mさんしか来なかったので、まー十分かなと考えました。んで、他記事で精力的に編集を続けておられたDowparさんからの反論はなく、改名したというSokizoさんもこの部分には何も反論しなかったので処理を進めました。Dowpar=Sokizoさんに異議があってきちんと反論していただけるなら、議論を続けるのはやぶさかではないのですけどね。
「3 論争と批判と問題発言」の内容すべてですが、問題点があれば指摘ください。この文章になった経緯については私もかなりの責任を負っていますので。確かに、Wikipedia:存命人物の伝記のガイドラインからみると、ちょっと書きすぎているきらいはあります。ただ、上野千鶴子という人の悪口を書き込みたい人は本当に後を絶たなかったんですよ。それも、ほとんどの人が「本人が自分の著書でそう書いている。それを書いて何故悪い」と主張するんですが、「どの本に書いてあるんですか?」と聞いても答えられないんです。おそらくは、2ちゃんかどこかで、そういう定説があって自分で確かめもせずにWikipediaに書き込みに来ているんだろうと想像していますが、そういう人たちと同じコトを繰り返すよりは、そういう悪口の元になった話と上野本人の対応を出典つきで書いておくほうが面倒くさくなくて良いなと判断した次第です。「レズビアンを馬鹿にしている」「自閉症を馬鹿にして謝罪もしていない」というような話を書きたがる人たちに、まず考えて貰えればと思いました。まあ、それでもDowparさんのように、自信たっぷりに読んでもいない出典を捻じ曲げて、記事を書き換えようとする人もたまには出てくるんですけどね。--おーた 2008年4月7日 (月) 14:08 (UTC)

(インデント戻し)おーたさん、お久しぶりです。概要文の不適切箇所の削除については了解しました。Sokizoさんから何もコメントがないわけですし、いつまでたってもなしのつぶてなら仕方ないですかね。

>「レズビアンを馬鹿にしている」「自閉症を馬鹿にして謝罪もしていない」というような話を書きたがる人たちに、まず考えて貰えればと思いました。

ところが、悪口を書き込みたい人はこういうことは考えないで、とにかく書き込みたがるんですよね。かえって、この記事が呼び水になったりすることも考えられますよ。このような記事を掲載し続けることによって、ここにはこういう悪口を書き込んでもいいんだという、あやまった認識を持つようになると思うので、やはり「3 論争と批判」の記事はすべてカットしてしまったほうがよいと思います。それに、へたに悪口ばかりを載せていると「名誉毀損」で訴えられたりしますけど大丈夫ですかね。見れば見るほど、やたら物事をセンセーショナルに書き立てる大衆紙の紙面を見ているような気がします。

>ただ、上野千鶴子という人の悪口を書き込みたい人は本当に後を絶たなかったんですよ。

物議をかもし出す存在を取り上げてしまった時点で、それは宿命となってしまったのでは(苦笑。彼らが「客観的事実」だなんだと声高に主張しようが、偏った情報を提起することによって誤解を招くのであれば、それを理由にばっさばっさと切り捨てていくしかないんじゃないでしょうか。--M.M 2008年4月11日 (金) 12:55 (UTC)

M.Mさんもお付き合いいただいてありがとうございました。ま、なるようになった、てとこかもしれません。
さて、「3 論争と批判」のような記事は、悪口のネタの供給源になっているから無いほうが良いというご意見ですが、なんか愚民政策みたいで私は抵抗ありますね。すでに出回ってしまった誤情報(自閉症児の件とレズビアンの件)のためにも、ソースをはっきりさせて事実を淡々と記しておくってのがWikipediaの果たすべき仕事だと思うんですが、どんなもんでしょうか。
林=アグネス論争への介入については上野が論客として名を上げた有名な事例だし、エコフェミ論争はフェミニズム内部での上野の立場を示す典型的な論争でしたから、取上げる価値はあると思います。この記述の何が問題なのかよく判りません。--おーた 2008年4月12日 (土) 14:43 (UTC)
おーたさん、お疲れ様です。アグネス論争が上野千鶴子の経歴において大きな意義を持っているとは思いますが、あれほど詳しく書く必要もあるのかなと感じております。しかも、これだけをクローズアップしていると、なぜ他の事をもっと取り上げないんだと余計な悪口雑言を並べ立てる人が出てくるのではないかと危惧しております。例えば、「こうした上野の議論はフェミニストで有名な小倉千加子も『論理のすり替え』を指摘したほど強引なものだった」とかなり具体的な記述になっています。これが呼び水になって、上野千鶴子批判が再燃すると考えられるからです。先のSokizoさんも、おそらくこういう記述が記事の中に載っているから、上野千鶴子批判を載せていいんだと考えたのではないかと思われます(まあ、これはあくまで私見ですけど)。
また、政治活動に関する記述の中で、「3月18日の『アサノと勝とう!女性勝手連立ち上げ集会』において、『石原知事が居座るんだったら、私は東京都民をやめようと思います』と発言。」という特定の発言だけを取り上げることで、上野千鶴子を単なる「石原嫌い」であるような印象を植えつけようとしていると受け取られてしまうことも考えられます。このようなごく一部の情報を強調することによって、その人物の評価が一定の方向へと向かってしまうことになりかねないので、中立性を保持するという観点に立てばこの部分は削除すべきなのではないでしょうか。「3 論争と批判」の部分に関しても同様に、特定の部分を強調しすぎているのであまりよろしくないというのが、私の印象です。アグネス論争やエコフェミ論争を取り上げることは、上野千鶴子の経歴を語る上では必要だと思いますが、余計な部分が少々多いかなと思います。--M.M 2008年4月12日 (土) 16:02 (UTC)
問題編集者が投稿ブロックで一段落すると、IPで同じ編集を続けるという毎度のパターンが今回も繰り返されているようですが、淡々と処理するしかないでしょうね。しつこく編集を繰り返しても、CUで身元が暴かれて、「長期荒らし」指定されてという具合に何にも良いことがないんですけどねぇ。ま、それはともかく。
M.Mさんの指摘には、ちょっと納得がいかないところもあるのですが、詳しくなりすぎているという点については同意します。都知事選関係は、書き込まれたとき「ここまで細かく書く必要はない」と感じていたのも確かです。時間をみて整理してみましょう。--おーた 2008年4月13日 (日) 14:45 (UTC)
記述を整理してみました。こんなもので、いかがでしょうか。--おーた 2008年4月14日 (月) 13:58 (UTC)
おーたさん、お疲れ様です。内容拝見しました。当初私が見た記事と比べると格段によくなってますね。これから先、特にいじくる必要がないくらいによい出来だと思います。本当にお疲れ様でした。m(__)m --M.M 2008年4月15日 (火) 10:24 (UTC)
ま、何度書いても新手が(あるいは新手を装ったソックパペットが)似たような記述に差し戻してしまうということを繰り返してきたのがこの項目です。私も、関わった記事はなるべくメンテしていくつもりではありますが、正直な話、手も気も回らないことは多々ありますので、ご協力いただけると嬉しいです。--おーた 2008年4月15日 (火) 22:44 (UTC)

概要文について

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「上野千鶴子氏は、発言内容から問題ある人」・・・ウィキペディアルールが、上野が本を出した出版社の編集方針に採用されていたら、彼女の発言(というより暴言)は本にできなかったでしょうね。よく出版社が上野の暴言を収め、出版することを許したものです。
導入部の「女性が家事・育児と仕事を両立することを主張するが・・・」というのは不正確です。上野は、専業主婦を昔から認める立場です。田嶋陽子の「専業主婦は奴隷船に乗せられた奴隷」発言や、石原理沙にも批判的です。男性からしたら「美味しいところ取り」の人です。--Sokizo 2008年4月3日 (木) 11:32 (UTC)
Sokizo(旧HN:Dowpar)さん、突如としてHNを変えて書込みをするのはお止めになったほうがよいかと思います。他の方々が第三者であると勘違いする恐れがあります(あるいは、第三者を装っているようにも見られます)。HNを変えた場合は、事前にその旨をことわってから議論に参加してください。
ところで、未だに合意が成立していないのにもかかわらず勝手に編集をされているようですが、そういうことはお止めください。ノートで合意形成のための議論をしていることが無駄になります。--M.M 2008年4月3日 (木) 13:34 (UTC)
うーむ。困ったもんですねぇ。同一人物なら、議論の撹乱を狙ったソックパペットと言われても仕方ないですもんね。--おーた 2008年4月3日 (木) 15:03 (UTC)
で、困ってばかりいてもしょうがないので、概要について。Wikipedia:存命人物の伝記に抵触する記述であり、批判を意図した主観的な記述なのでSokizoさんの記述は削除です。それも速やかな削除が望まれます。はっきりいって、Dowparさんの箇条書き編集と理由はまったく同じ。同じコトを懲りずに繰り返すのは「コミュニティを疲弊させる利用者」と言われても仕方がないことを理解していただければと思います。--おーた 2008年4月7日 (月) 15:30 (UTC)
Dowpar=Sokizoさんのブロック審議中ではありますが、存命人物にかかわる記述ですので速やかな削除が望まれるものとして、該当箇所を削除します。ご了解ください。--おーた 2008年4月10日 (木) 15:00 (UTC)

Sokizo=Dowparさんの問題点

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(新項目とします--おーた 2008年4月7日 (月) 15:30 (UTC)

Sokizo(旧HN:Dowpar)さんは、これまでにも複数アカウントによる投稿を繰り返していたようですね。Sokizoさんの利用者ページにウィキペディア・ルールに反する行為に対するお怒りの投稿が複数ありました。中には投稿ブロック依頼を宣告されているものもありました。--M.M 2008年4月5日 (土) 14:39 (UTC)

ノート:上野千鶴子においてSokizo=Dowparさんの一連の投稿のナニが問題であったのかをまとめておきます。
  • 名前が変わったのに、そのことを断り無しに編集を続けたこと。おそらくは、首を突っ込んでいる記事の数が多すぎていちいち説明し切れなかったものと思われますが、そういうことを端折って編集を続けると余計な誤解と軋轢を生むということについて、余りにも考えが足りない。
  • 「憶測で人のことを書かないで欲しい」と言いながら、議論の相手を「左翼」だとか「上野を擁護したい一心で」とか憶測で書いているという、矛盾した態度。その場の思いつきであれこれ書いているとしか思えない。
  • 前後で矛盾した投稿を平気で続ける。たとえば、この編集でDowparさんは、コメントアウトされていた「女性が家庭の外で男性同様に働くべきと強く主張している」という記述を復活させていますが、ノートでのこのコメントではSokizo名義ですが「「女性が家事・育児と仕事を両立することを主張するが・・・」というのは不正確です」と書いています。簡単に前言を翻して平然と反対のことを主張する人としか思えません。
  • 問題点を指摘されても、話を逸らし続ける。箇条書き部分で自閉症児問題の議論に行き詰ると、それは放ったらかして、別の箇所(概要部分)で似たような編集を繰り返すのは、大変に不誠実な行為に見えます。
  • 自分で確かめていないことを断言する。私としてはこれが一番深刻な問題点です。出典を出して議論するときに、その出典に何が書いてあるのか自分で確認もせずに自説を展開。このコメントで「マザコン少年の末路では、上野は「皆さん(自閉症児を持つ親の会)のいうことは充分に理解できます」とは言ったが、「謝罪」はしていません」と断言したが、私が実際の出典に当たるとこれはまったくの虚偽。はっきりいって、このノートで以前に出典調査して「上野ははっきりと謝罪している」と報告した編集者を侮辱する行為です。普通の学会なら、こういう投稿をした研究者は2度とその学会では発表できないでしょうね。Dowpar=Sokizo氏は自身の信用がこの一件で地に堕ちたことを理解するべきです。
以上です。--おーた 2008年4月7日 (月) 15:30 (UTC)
(追記)上記のまとめを前提にしてWikipedia:投稿ブロック依頼 2008年4月のSokizo=Dowparさんのブロック依頼にコメントしておきました。--おーた 2008年4月8日 (火) 13:17 (UTC)

レズビアンへの無理解について

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掲題の件について、利用者:白文鳥の加筆部分を先ほどいったん差し戻しました。同様の記述が、以前の版には含まれていたのですが(私もその部分を執筆した一人ですが)、本年(2008年)4月頃の一連の議論の中で「これはむしろ消去しておいたほうが良い」ということになったという経緯があります。「不当な削除では」の節の後半部分を参照してくださればと思います。

この上野千鶴子のページは大変に荒れやすいページなので一次資料で「上野があんなことを言った、こんなことを言われた」という記述をトピック的に書くと「あれもこれも」的な書き加えを誘発しやすいこと、そしてWikipedia:存命人物の伝記は厳密に適用しておいたほうが良かろうということ、現時点では今程度の記述に留めておくこと、そんなあたりでしょうか。上野に関する本格的な評伝が出た時点で本格的な再編集を考えればよいかと思います。--おーた 2008年9月6日 (土) 02:28 (UTC)

言われるまでもなく、ノート:上野千鶴子#不当な削除ではは読んでおります。その上で、この書き方であればWikipedia:信頼できる情報源にもWikipedia:存命人物の伝記にも觝触しないと判断したので、加筆したわけです。とりあえず、同性愛に関する記述の掲載の是非はこれから改めて議論することになるでしょう。
それはともかく、本文を読んでいるとやけに飾り立てるような表現が目に付きます。はじめは躊躇していたのですが、私の力量で手直しできる範囲を逸脱しているので、不自然な箇所は全て取り除いておきました。自分でも行き過ぎかとは思うものの、適正な執筆を促すにはこの程度の措置は仕方ないでしょう。入念に書き直した上で再掲するのは構いませんが、純粋なリバートはしないで下さい。くれぐれもよろしくお願いします。とりあえず、Wikipedia:大言壮語をしないWikipedia:避けたい言葉あたりを参照していただければ。--白文鳥 2008年9月6日 (土) 10:49 (UTC)
P.S. 今回の本文の修正は従来から予定していたものであり、報復的な削除として扱われては困ります。以上。--白文鳥 2008年9月6日 (土) 10:49 (UTC)

ノート:上野千鶴子#不当な削除ではを読んでおられるのなら、なおのことまずあの時点でのMMさんと私の合意について、白文鳥さんの意見をこのノートで出していただきたかったのですけどね。4月の時点でWikipedia:大言壮語をしないを考慮していることは言うまでもないことですしね。とりあえず、アグネス論争についてのみ書いておけば、あの論争を総括する書籍が何冊か出ているという状況ですから、白文鳥さんの縮約はちょっとやりすぎではないかと思いますね。それなりに評価は固まっているし(アグネスに共感して論戦したわけではなく、極めて戦略的に関わっていることなど)、百科事典的には書いておくべきことだと思います。--おーた 2008年9月6日 (土) 13:15 (UTC)

追記:「今回の本文の修正は従来から予定していたものであり、報復的な削除として扱われては困ります」と言い訳がましく書かれても困ります。いろいろ構造的に修正したいことがあるならば、何でそれを最初からこのノートで提案しなかったのでしょうか。あるいは、本文編集で一度に出さなかったのでしょうか。もし、白文鳥さんが、この記事に関して考えることがあるならば、小出しにするのは止めていただいて、まとめて提案いただけませんか?この記事の執筆には大勢の方々が関わっていらっしゃいますけれども、そういう方々に経緯を表する意味でもそこから、スタートするべきなんじゃないでしょうか。ということで、白文鳥さんの再変種の全体像を見せていただけるまで、いったん記事を元に戻すのでよろしいですね?--おーた 2008年9月6日 (土) 13:26 (UTC)

>「今回の本文の修正は従来から予定していたものであり、報復的な削除として扱われては困ります」と言い訳がましく書かれても困ります。
なんだろ。本当は復讐するつもりなんだろ!と言いたいのかな……。最初の編集で遠慮したのが裏目に出ちゃったのかあ。やだなあ。
>なおのことまずあの時点でのMMさんと私の合意について、白文鳥さんの意見をこのノートで出していただきたかったのですけどね。
えー、当時はこのページのノートを見ていなかったものですから。存在すら知らない論争の責任を問われても困ります。
>ということで、白文鳥さんの再変種再編集の全体像を見せていただけるまで、いったん記事を元に戻すのでよろしいですね?
再変種とは何ですか? それはともかく、記事の全体像については前回の編集で示したつもりです。あれでも不服があるようなら、はっきり言っていただかないとこちらも対処できません。ほんとお願いしますね。--白文鳥 2008年9月18日 (木) 05:18 (UTC)
正直申しまして、白文鳥さんの主張と編集には「行き当たりばったり感」があります。私には以下の2つの書き込みは矛盾しているように感じられます。まあ、これについて説明を求めると、泥沼化するように思われるので説明は求めず、さっさと議論を進めることにしますが、分かりやすい議論を心がけていただけるようお願いします。
さて、前回編集が白文鳥さんのご提案ということで、了解しました。レズビアンについての記事は書かないことで合意いただき、それとは別件でWikipedia:大言壮語をしないにより上野千鶴子の概要説明は大幅削除ということですね。レズビアンについてはいったんクローズして、大言壮語については、節を改めます。--おーた 2008年9月21日 (日) 22:40 (UTC)
ひどい誤解があるようなので一言。「当時はこのページのノートを見ていなかったものですから」は、当該の議論が活性化していた2008年の春の時点では、ノートを確認していなかったということ。「言われるまでもなく、ノート:上野千鶴子#不当な削除ではは読んでおります」は、議論がクローズした後になって、あくまでも過去の記録、歴史的な文書として閲読した、ということです。時系列がずれているんですね。同性愛への態度については、永久的に記載しないことの合意をしたわけではなく、暫定的な未記載と表現するのが正しいでしょうかね。どうも、Wikipedia:存命人物の伝記#批判、あら探しによれば、本人に不利な情報は一律に記載してはならないわけではなさそうなんですね。来年あたりになって私が加筆しても、「約束が違う」と言い出さないで下さい。その辺はお願いします。--白文鳥 2008年9月22日 (月) 12:07 (UTC)
「誤解」と仰いますが、9月6日の時点で白文鳥さんは
と「加筆」について言及されておられる。その時点での白文鳥さんの「加筆」といえば9月3日の「レズビアン」についての加筆と解釈するのが普通でしょうね。9月6日の白文鳥さんの本文編集は、「削除」であって「加筆」ではありませんから。で、結果的に9月3日の「加筆」に対して、ノートを読んだ上での加筆なのか、読まなかった上での加筆なのか、白文鳥さんの書き方では分からないのですよ。この手の話を細かく突っ込んでも、不毛な泥沼にしかならないことは良く分かっているので私もやりたくないのですが、白文鳥さんの一連の言論はそのように矛盾しているように見えるということは指摘させていただきました。この話は、今後、文章の書き方に注意くださればそれで済む話なので、細かい釈明はこれ以上必要ないかと思います。--おーた 2008年9月22日 (月) 15:51 (UTC)

「大言壮語」について

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白文鳥さんの、Wikipedia:大言壮語をしないに基づくとする 2008年9月6日 (土) 10:46の大幅削除は容認できないです。確かに「名を馳せた」「造詣が深い」あたりの表現は考えたほうがよいかもしれないとは思います。「現代美術にも造詣」云々は美術評論に手を出して著作のカバーにニキの絵を使うなど、上野の社会学者からはみ出た活動についても書いたつもりだったんですが、これは細かかったかもしれない。そういう修正は具体的な指摘があれば考えなくもないし、納得できれば合意しますが、白文鳥さんの削除案全体はまったく同意できません。--おーた 2008年9月21日 (日) 22:40 (UTC)

もちろんお読みになっていると思いますが、私は当該の記述を削除しろと言っているわけではないんですね。表現を改めろと主張している。おーた氏でも他の方でもよいので、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:大言壮語をしないWikipedia:避けたい言葉(まあ、これは草案ですが)を遵守した上で書き直しがなされれば、それについて異議を唱えるつもりはありません。記述それ自体を問題視しているわけではないので。とりあえず、Wikipedia:存命人物の伝記に関しては極めて厳格な適用を図りつつ、その他の規定は緩く解釈して、現状を追認するような運用をすることが正しいのかねぇ、ということですね。ルールは厳密に守る方向でいきましょう。--白文鳥 2008年9月22日 (月) 11:53 (UTC)
「表現を改めろ」と主張するために、ノートにも何も書かずに本文を削除したということなのですね。そりゃ、基本的なところで何かを間違えておられるような。
ともかくも、具体的な指摘はしないけれどとりあえず削除して、代案も無いけれど「表現を改めろ」って、あまり褒められた編集参加じゃないことは指摘させていただきます。「行き当たりばったり感」というのは、そのような態度を指して指摘させていただいていることも、どうかご考慮ください。--おーた 2008年9月22日 (月) 14:26 (UTC)
代案があるわけではないけれど、不適当と思えるから削除したというのが、白文鳥さんの見解でした。私は、削除されるほどの記述ではないと考えますので、本文は元に戻します。議論は引き続き、このノートでお願いします。人権侵害、著作権侵害に対してはWikipedia編集方針は迅速な削除を求めますし、出典要求に応じられなかった記述の削除も認めていますが、白文鳥さんに理解していただきたいのは、そのほかの問題に関しては編集者同士で徹底的に議論することが原則となっているということなのです。そこを飛ばしていきなり削除するというのは「性急な編集はしない」という原則に触れているということも理解ください。また、私と白文鳥さんで合意できないのであれば、第3者のコメントを求めるということになります。よろしく。--おーた 2008年9月22日 (月) 16:02 (UTC)
何か基本的な部分でずれているように感じるんですよね。私は、「そのまま元に戻さず、貴方の言葉で書き直すならば、それ以上の追及はしません」と言っております。無論、それがなおWikipediaの方針から逸脱していれば話は別ですが。私の編集の差分を参照して下さい。それが私の「具体的な指摘」であり、「代案」です。それから、私も法学部の者なので名誉毀損について学んでおりますが、学者や政治家の見解を載せることは、それが異端説であっても、直ちに人権侵害とはならなかったはずです。「この芸能人・スポーツ選手は同性愛に否定的だ」と「ジェンダー論の研究者が同性愛を批判した」では意味が違います。どーでしょ。
もう一つ。貴方のいうWikipedia:性急な編集をしないの解釈が完全に誤っています。ガイドラインを援用する際は、内容くらい確めて下さい。--白文鳥 2008年9月23日 (火) 07:03 (UTC)

さらに追記。貴方が「書き直そうにもどの箇所を直せばいいのか分からないから困惑している」というのであれば、こちらも適切に対応します。ただ、貴方が「現行の記述に取り立てて騒ぐべき問題点はなく、何ら修正する必要はない」と考えているから、話がこじれているわけです。--白文鳥 2008年9月23日 (火) 07:14 (UTC)

えーとですね。ご自身で「私の力量で手直しできる範囲を逸脱しているので」と認めておられるのに、削除にこだわるのはなぜなのでしょうか。良く知らない事柄、力量を超えたことについては手出ししなければ良いではありませんか。上野千鶴子はいろいろ物議も醸すし、批判も多い人ですけど、彼女がやってきたことを順々に書けばああいうことになります。イデオロギー的に彼女が嫌いな人が見たら気に入らないのかもしれませんけど、それは中立的視点を欠いているので諦めていただくしかない。
そして、この記事は、それなりに色々な方々が手を加えて今の形になりました。そのことには敬意を払うべきなんじゃないですか?その上で、不備があるなら、きちんと議論して修正しましょうよ。だから、私はひとまず白文鳥さんが削除される前の状態に戻したのです。以前に書いたように、今の記事を修正しても良いと私は考えていますが、話はそこからじゃないんですかね。--おーた 2008年9月23日 (火) 08:54 (UTC)
こんばんは、M.Mです。以前、議論に参加した者としてちょいと意見をば、述べさせていただきたいと思います。
白文鳥さんへ)おーたさんは、大幅な削除・編集をする前にノートで議論をして、まずは合意を得てから手を加えたほうがよいということをおっしゃっているんだと思いますが、その点は理解されていますか? おーたさんが指摘されている「2008年9月6日 (土) 10:46の大幅削除」について、私も「やりすぎかな」という印象を持ちました。特段削除する必要がなく、残しておいた方がよいと思えるところもバッサリ切っちゃってますからねえ。
ところで、白文鳥さんの主張にはかなり無理があるんですけど。例えば、「私は当該の記述を削除しろと言っているわけではないんですね。表現を改めろと主張している。」とおっしゃっていますけど、ご自分で記事のかなりの部分を削除してしまっているわけですから、その主張には説得力がありません。
「記述それ自体を問題視しているわけではないので。」とおっしゃっていますが、であればなぜ削除するのですかねぇ。問題視していないのであれば、そもそも白文鳥さんが編集をする必要はないということになりますけど?
「Wikipedia:存命人物の伝記に関しては極めて厳格な適用を図りつつ、その他の規定は緩く解釈して、現状を追認するような運用をすることが正しいのかねぇ」とは、どういう意味ですか? 「その他の規定は緩く解釈」するとおっしゃっていますけど、法学部学生である方がそのようなことでよいのですか? あなたの主張は時と場合によって規定を独自解釈しても良いといっているのと同じですよ。しかもその直後に「ルールは厳密に守る方向でいきましょう」と著しく矛盾したことをおっしゃっています。これは、いくらなんでもまずいでしょう。
とにかく、白文鳥さんは、上野千鶴子に関する記事の内容を問題視しているから編集をしているわけですよね。ところが、その編集は必要・不必要関係なくバッサリ切り捨ててしまっているから、おーたさんに編集する前にノートで議論をして、合意に基づいて修正しましょうと指摘されているのだと思いますよ。編集合戦で荒れる可能性が高い人物に関する記事だからこそ、大きな修正をする前に合意を得ておいた方が、ご自分の編集がその後も存続していくというものですよ。合意を得ずにバッサリ切っちゃったっていうのが性急な編集なのではないですか? まずは、議論をしたうえで互いに納得の行く形に編集をしていきましょうよ。
おーたさんへ)しばらく見ない間に、またどこぞの大衆紙の紙面のような記事になってしまっていますね。IPユーザーによる妙な編集から、記事の方向性がSokizo氏の編集と同様の傾向へと向かっている気がします。私としては、今年4月時点のおーたさんが編集された記事に差し戻してから、内容について検討してはどうかと思いますが、いかがでしょうか? --M.M 2008年9月24日 (水) 16:25 (UTC)
横から失礼します。
(M.Mさんへ)白文鳥さんの発言の意味を取り違えておられるように見受けられます。「Wikipedia:存命人物の伝記に関しては極めて厳格な適用を図りつつ、その他の規定は緩く解釈して、現状を追認するような運用をする」の部分はおーたさんの言動を指した表現であって、白文鳥さんの主張としては前記のおーたさんの言動に対し「正しいのかねぇ」と疑義を呈し、「ルールは厳密に守る方向でいきましょう」と提案しておられるものと私には読み取れました。ですから別に矛盾はしておりません。
(白文鳥さんへ)おーたさんの「あの時点でのMMさんと私の合意について、白文鳥さんの意見をこのノートで出していただきたかった」は、「ノートでの議論に基づいて書かれた部分を改めるのなら、編集する前にノートで問題提起してほしかった」という意味であって、「異論があるなら3~4月の時点で言うべきだった。当時議論に参加していない者はその後も口を出すな」ということではありません。
(おーたさんへ)白文鳥さんの発言を上記のような読み違いを前提にしたものとすれば、2008年9月21日 (日) 22:40 (UTC)でおーたさんが挙げられた「矛盾」は、少なくとも白文鳥さんの側に立ってみれば矛盾ではありません。
以上、読み違いと思える部分を指摘させて頂きました。議論自体は、私は完全に門外漢ですので参加は致しません。失礼しました。--Arawodas 2008年9月25日 (木) 03:44 (UTC)

(インデント戻し)Arawodasさん、こんばんは。読み違いに関するご指摘ありがとうございます。さて、私が白文鳥さんの発言の意味を取り違えているという点ですが、もしおっしゃるような意味であるとすると、白文鳥さんはおーたさんの発言の趣旨を曲解している、というよりも言ってもいないことを相手が言っていると主張していることになり、かなり問題だと思いますよ。上記発言を見たところ、おーたさんは「Wikipedia:存命人物の伝記に関しては極めて厳格な適用を図りつつ、その他の規定は緩く解釈して、現状を追認するような運用をする」というような意味の主張は行っていないはずです。まあ、いずれにせよ、どういう趣旨の発言であるかは白文鳥さんご自身が説明されることでしょう。ただ、Arawodasさんが発言者の主張の内容を整理して、議論が円滑に進行するように配慮していただいたことには感謝いたします。--M.M 2008年9月25日 (木) 16:04 (UTC)

文案

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コメント依頼を出してから、だいぶ時間も経ちます。白文鳥さんとの行き違いも指摘されたことでもありますので、仕切りなおして改めて解決に向けて進めていきたいと思います。

  • 現在の記事は、おーたが編集した版でも、白文鳥さんが編集した版でもなくて、IP編集者による版ですが、私はこれを荒らし編集と看做してよいかと思います。過去の合意を反故にする形で昔の編集に戻しているだけだからです。ですから、この編集は差し戻しでよろしいかと思います。念のためにIP氏の会話ページには議論参加への呼びかけも書いておきます。
  • レズビアン差別関連の文言については書かないということには、白文鳥としては将来の可能性は留保しつつも今のところ対案がないそうですから、「書かない」ことでよいかと思います。二次資料などが見つかるなどして書くに値すると判断された場合は、またご提案ください。
  • 「大言壮語」については、私は白文鳥さんの解釈は過剰解釈だと思います。現在のガイドラインを考慮するとしても「名を馳せた」だとか「造詣が深い」「絶賛された」あたりの表現についてでしょう。記述対象人物が何をどう行ったかの記述自体を、「大言壮語」を理由に削除するのはちょっと違うと思います。下に文案を示しますので、ご意見をお願いします。

***

(文案)
<経歴と業績>
研究者としてのスタートは、構造主義文化人類学と社会科学の境界領域を論じた理論社会学であり、この頃の1970年代の論文は『構造主義の冒険』にまとめられている。1980年にマルクス主義フェミニズムを知り、これの紹介者・研究者となる。『家父長制と資本制 ― マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)が代表作。
また、『主婦論争を読む――全記録(1・2)』(1982)の編集など、思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(1987)など田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた。
『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)では 表紙カバーに推薦文を寄せた栗本慎一郎山口昌男、あるいは 鶴見俊輔などからの評価を受け、専門領域である社会学のみならず文化人類学記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入して、広く知られるようになった。
1990年代以降も家族建築介護福祉の問題や文学心理学社会心理学などの学問領域で論じている。近代家族論として『近代家族の成立と終焉』(1994)などがあり、またそれから派生する介護問題について『老いる準備 ― 介護することされること』などの発言を続けている。さらに近代国家論に踏み込んだ『ナショナリズムとジェンダー』(1998)もある。
オーバードクター時代にマーケティング系のシンクタンクで仕事をしていたこともあって、消費社会論の著作も多く、『<私> 探しゲーム ― 欲望私民社会論』(1987)、『セゾンの発想 ― マ-ケットへの訴求』(1991)などがある。
文学論としては、小倉千加子富岡多恵子との鼎談『男流文学論』(1992)が世評を呼んだ他、『上野千鶴子が文学を社会学する』(2000)などがある。現代俳句の実作者であった時期もあり、『黄金郷(エル・ドラド)上野ちづこ句集』(1990)がある。
このほか、性愛(セクシャリティ)論、市民運動論、学校論など様々な分野での単著・共著・編著が多数。また、論文集『日本のフェミニズム』や『岩波女性学事典』、『岩波講座現代社会学』『社会学文献事典』などの共編集者を務めている。
<論争と批判>
上野千鶴子は様々な分野で発言して多くの論争に関わり、その言動はたびたび批判を受けてきた。「吉本隆明や柄谷行人ら、名だたる男性知識人を片端から言い負かした女性論客」というイメージは、たとえば遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2000)、上原隆『上野千鶴子なんか怖くない』(1992)や『接近遭遇』(1998)のような対談集で確認することができる。
彼女が関わった代表的な論争は「アグネス論争」であり、いったんアグネス批判派に傾きかけていた論争の流れが、一気に逆向きになるほどだったとされている(『「アグネス論争」を読む』JICC出版局、1988年ほか)。当初の「大人の空間に子どもを入れるな」という「林・中野」対アグネス・チャン論争は上野の手で「働く母親一般の問題」に発展させられ、様々な分野の論客が参戦する一大論争に発展したのである(この結果、フェミニズムの感覚からさほど遠くなかったとされている林真理子中野翠の二人はアンチ・フェミニズムの代表者と見なされることになったが、こうした上野の議論はフェミニストで有名な小倉千加子ガ「論理のすり替え」を指摘したほど強引なものだった。小倉千加子「林真理子論 ―長距離ランナーの栄光と孤独」月刊ASAHI、1991年3月号などを参照のこと)。この「アグネス論争」での印象や、著作と活字媒体での発言の多さから上野は日本を代表するフェミニストの一人として見られており、上野自身の発言とは関係なくフェミニズム代表者としてフェミニズム反対派からの標的となることが多い(たとえば、林道義『フェミニズムの害毒』1999年)。
フェミニズム内部の論争では、たとえばエコロジカル・フェミニズムを唱えた青木やよひにたいして、男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けたことなどが有名。いわゆるエコフェミ論争で、上野側の主張は『女は世界を救えるか』(1985)などにまとめられている。
上野の発言が問題になった例として、『マザコン少年の末路――女と男の未来』(1986) で 自閉症や、登校拒否不登校)は母親の過保護が原因であるとしたものがある。しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが既に定説であり、上野は自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。この批判を受け、上野は批判を発した親に面会して全面的に謝罪した上で『マザコン少年の末路――増補版』を出版し、この全編を自己批判本とした上で旧版在庫の絶版処置を行っている。
この他の批判の主なものは斎藤美奈子『文壇アイドル論』(2002)にまとめられている。

以上--おーた 2008年10月8日 (水) 16:06 (UTC)

こんばんは。どうやら過剰解釈の非難を受けてしまったようですが、私にとってはおーたさんの「上野を批判したら名誉毀損」こそ方針の過剰解釈なわけで、そのあたりの罵り合いはやめておきましょうか。
それはともかく、文案の作成ご苦労様です。まだいくつか疑問の残る点があるので、以下で私が改善すべきと思う箇所を太字で示しておきます。
経歴と業績
  • 田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた。
    表現以前に、独自研究です。出典の明記をお願いいたします。上野千鶴子が田中美津を称揚していなければ、ウーマンリブ運動は再評価されなかったのでしょうか。なお、本件とは無関係ですが、田中美津の記事もWikipediaの方針に反するきらいがあるので、いずれ整理しようと思います。
  • 専門領域である社会学のみならず文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って
    社会学と残りの三つの違いが分かりません。そもそも、「専攻は(中略)記号論、人類学」と書いてある記事の冒頭と矛盾しませんか?
  • 特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入して、
    あえて「世論を賑わせた」と書くまでもなく、「1980年代の末葉に起こった」で十分かと思われます。ところで、アグネス論争は1989年には既に終熄していたんでしたっけ?
  • 『老いる準備 ― 介護することされること』などの発言を続けている
    残念ながら現代POVです。もっとも、この方針は草案の段階なので、頑張れば記載が認められるかもしれません。
  • さらに近代国家論に踏み込んだ『ナショナリズムとジェンダー』(1998)もある。
    「近代国家論を取り扱った」でよいでしょう。家族論より国家論が優れているというわけでもありませんし。
  • このほか、性愛(セクシャリティ)論、市民運動論、学校論など様々な分野での単著・共著・編著が多数。
    「単著・共著・編著」は「著書」としてまとめれば十分。共著や編著も多いことは上野千鶴子#著書を見れば分かります。
論争と批判
  • 上野自身の発言とは関係なくフェミニズム代表者としてフェミニズム反対派からの標的となることが多い
    出典として林道義氏の『フェミニズムの害毒』が挙げられていますが、同書に「私は上野自身の発言とは関係なく上野千鶴子を批判しているのだ」という自虐的な記述があるのでしょうか。このままでは独自研究なので、然るべき対処をお願いします。また、標的という言葉は「批判の対象」あたりに換言されるべきでしょう。
  • 「吉本隆明や柄谷行人ら、名だたる男性知識人を片端から言い負かした女性論客
    鉤括弧で括られていますが、どこかの書籍からの引用でしょうか。明らかにWikipedia:大言壮語をしないどころかWikipedia:検証可能性に反します。参考文献らしきものは挙げられていますが、なぜか三冊あります。引用であれば、頁まで厳密に指定した上で改めて加筆して下さい。どちらにせよ、現状では擁護の余地なし。
  • たとえば(中略)のような対談集で確認することができる
    参考文献の内容が真実であることを前提とした表現。そもそも、書名は本文に書かなくとも、脚注で示せば十分でしょう。
  • 男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けたことなどが有名
    「有名」という言葉は、Wikipedia:大言壮語をしない#概要で明示的に否定されています。個人的には削除すべきか疑問のあるところですが、少なくとも有名であることを示した出典は必要かと思われます。
  • しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが既に定説であり、
    定説ではなく通説でしょう。定説という言葉は、学界で全く反論の余地が無いと長年に亘って承認されてきた学説にのみ使用されます。また、既にという言葉は、この理論は否定されて当然だったという意味を内包するので望ましくありません。些事ながら、個人的に気になる表現なので附記しておきました。
「ここまで批判するのか」と思われたかもませんが、むしろ、これほどまでに問題点が多い記事だからこそ、あのような思い切った編集をする必要性を痛感したのだという意図を汲み取っていただければ幸いです。
なお、#「大言壮語」についてへの返信は、しばしお待ちいただければと思います。--白文鳥 2008年10月12日 (日) 13:14 (UTC)

返答ありがとうございます。おーたです。以下、白文鳥さんのご意見を再掲しながら私の返答を書いておきます。なお、白文鳥さんの指摘した文章には、私が過去の記事からそのまま引き継いで使っているものも含まれていることは留意ください。「コイツ、自分の文章にえらく無責任じゃないか?」と思われるかもしれませんので。

  • 田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた。 」表現以前に、独自研究です。出典の明記をお願いいたします。上野千鶴子が田中美津を称揚していなければ、ウーマンリブ運動は再評価されなかったのでしょうか。
    田中美津はウーマンリブ運動のあと、しばらく外国に出て帰国した後は鍼灸師になりました。上野はその田中美津を引っ張り出してきて対談集を出しましたし、時代のあだ花のように語られてきたウーマンリブをフェミニズムの流れの中に位置づけもしました。リブの再評価は何も上野一人の業績ではないでしょうけれど、岩波書店『日本のフェミニズム① リブとフェミニズム』の編集を行って、巻頭の総括論文「日本のリブ --その思想と背景」を書いて、田中美津や色々なウーマンリブの再評価を1994年に行ったのは上野なので、そう書いて妥当だと私は考えます。これを「独自研究」と言われると考え込みますね。この分野を知っている人からのご意見を聞きたいところです。
    なお、私は「称揚」なんて言葉は使っていません。鍼灸師になっていた田中に「脚光を当て」たと書いています。
  • 専門領域である社会学のみならず文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って 」社会学と残りの三つの違いが分かりません。そもそも、「専攻は(中略)記号論、人類学」と書いてある記事の冒頭と矛盾しませんか?
    学者さんの専攻というのは結構書くのが難しいですね。私は上野の専攻は社会学で、文化人類学・記号論・表象文化論を道具として使っていると見るのが妥当だと思います。記事の冒頭については、今回は考えていませんがご指摘のようにどこかで書き換えたほうがよいのかもしれません。
  • 特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入して、」あえて「世論を賑わせた」と書くまでもなく、「1980年代の末葉に起こった」で十分かと思われます。ところで、アグネス論争は1989年には既に終熄していたんでしたっけ?
    人によっては「戦後10大論争」というのの中にアグネス論争が入っていたりするんですよ。論争自体はいまだにあちこちで言及されますし、評論まで出てますからね(小浜逸郎著『男がさばくアグネス論争』大和書房など)。新聞の投稿欄が数ヶ月間この関係で埋め尽くされて、1988年の新語・流行語大賞で、流行語部門・大衆賞を受賞したほどですから、「賑わせた」ぐらいの表現で丁度良いと思います。なお、1988年頃には大方の議論は終わっていたようですよ。
  • 『老いる準備 ― 介護することされること』などの発言を続けている。 」残念ながら現代POVです。
    3年前の本ですから、ちと微妙なことは確かです。この本の書名を書くこと自体には全く拘りませんが、それ以前から介護問題についての発言はやっていますから「介護問題についても発言している」ぐらいは書いておきましょうか。
  • さらに近代国家論に踏み込んだ『ナショナリズムとジェンダー』(1998)もある。」 「近代国家論を取り扱った」でよいでしょう。家族論より国家論が優れているというわけでもありませんし。
    「踏み込んだ」は上野自身の発言からとったんですけどね。しかし私自身は拘らないので「取り扱った」にしましょう。
  • このほか、性愛(セクシャリティ)論、市民運動論、学校論など様々な分野での単著・共著・編著が多数。」「単著・共著・編著」は「著書」としてまとめれば十分。
    そうですね。そうしましょう。
  • 出典として林道義氏の『フェミニズムの害毒』が挙げられていますが、同書に「私は上野自身の発言とは関係なく上野千鶴子を批判しているのだ」という自虐的な記述があるのでしょうか。このままでは独自研究なので、然るべき対処をお願いします。また、標的という言葉は「批判の対象」あたりに換言されるべきでしょう。
    林さんの著作にそのような自虐的な記述はありませんねぇ。私としては、フェミニズムの学者さんは大勢いらっしゃるのに、論客として有名な上野千鶴子(とテレビ露出度が高い田嶋陽子)に拘る方々が結構いますよと言いたかっただけです。ただ、この文章を文献で裏付けるのは現時点では難しいですね。削除しましょう。
  • 「吉本隆明や柄谷行人ら、名だたる男性知識人を片端から言い負かした女性論客」 鉤括弧で括られていますが、どこかの書籍からの引用でしょうか。
    確かに鍵括弧なら、どこかからの直接引用と解釈されてしまいますね。世間の人が思い浮かべているイメージを鍵括弧で括ったのですが、これは改めましょう。なお、上原隆『上野千鶴子なんかこわくない』毎日新聞社、1992年、p.24あたりから、吉本隆明が上野千鶴子にやりこめられていると妻から聞いた著者(上原)が不安になって、それを確認するシーンがあります。議論に「勝ち続けている女性」として上野千鶴子を描いているのが遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房、2000年、p.14。斉藤美奈子『文壇アイドル論』岩波書店、2002年、には、p.142「彼女は論争にだけはめちゃめちゃ強かった。逆にいうとアンチ・フェミニストの中に、彼女に勝てるほどの論客がいなかった」p.143「上野千鶴子の強みは、やはり理屈(含む屁理屈)の部分なのです」などの記述があります。
  • 明らかにWikipedia:大言壮語をしないどころかWikipedia:検証可能性に反します。参考文献らしきものは挙げられていますが、なぜか三冊あります。引用であれば、頁まで厳密に指定した上で改めて加筆して下さい。
    3冊あげたのは、上野にまつわるそうしたイメージが確認できる文献だからです。文献というのは何も引用元としてページ数を指定して使うだけではありません。文献全体を参照してくれという形で引き合いに出す場合もあります。何れにしても折角のご指摘ですから、引用をはっきりさせた形で書き直しましょう。なお、柄谷行人が上野千鶴子に言い負かされている対談があったのですが(普通は活字にする段階で削るような詰問と降参がそのまま活字になっていたので、鮮明に覚えているのですが)、書棚から出てきません。もう少し探して出てこない場合は、柄谷が言い負かされた件は削除します。
  • 男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けたことなどが有名。 」「有名」という言葉は、Wikipedia:大言壮語をしない#概要で明示的に否定されています。個人的には削除すべきか疑問のあるところですが、少なくとも有名であることを示した出典は必要かと思われます。
    了解。「有名」は削除しましょう。有名なのはフェミニズム業界内だけでしょうし。私としては、上野千鶴子はフェミニストの外だろうが中だろうが、片端から論争している人だということを示しておきたかったということです。
  • しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが既に定説であり、 」定説ではなく通説でしょう。定説という言葉は、学界で全く反論の余地が無いと長年に亘って承認されてきた学説にのみ使用されます。
    そうですか?自閉症を見ても「定説」としか思えませんけど。なお、この部分は私が書いた部分ではなくて、以前から書かれていたものをそのまま引き継いだ文章なのでなんともいいがたいのですが、「通説」程度だったら「親の会」の抗議が成り立たないような気がします。やはり医学的にそういう説が確定しているとするべきなんじゃないですか?

もう少し待って、他にコメントが無ければ以上に基づいて、文案を修正します。--おーた 2008年10月12日 (日) 16:57 (UTC)

いま思えば、当該の箇所ごとに番号を割り当てておけば利便性が高まりましたな。返信しづらい構図にしてしまい申し訳ありません。
田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた
Wikipedia:検証可能性の問題もあるので、二次資料がない現状では悩むところですが、分かりました。今のところはそのままにしましょう。
なお、「称揚」については、「脚光を当てた」とある以上、少なくとも積極的な評価を与えているのだろうということで、このように書きました。否定的に取り扱っているなら、「槍玉に挙げた」ですから。
専門領域である社会学のみならず文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って
これはどう整理しましょうか。冒頭との整合性の関係もありますし。ひとまず、「正統的な社会学のほか、文化人類学や記号論の方法も採り入れ」あたりで如何でしょう。
特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争
把握いたしました。それでは現行のまま、「1987年から88年にかけて世論を賑わせた」の表記を継続しましょう。
「吉本隆明や柄谷行人ら、名だたる男性知識人を片端から言い負かした女性論客」
現在の「確認することができる」を「と指摘されている」や「とみなす見解がある」あたりのWP:NPOVに配慮した言葉に直していただければ、現行の表記でも必ずしも不適切なわけではないかもしれません。なお、引用ではないとのことなので、出典は頁まで指定せずとも、書名だけで結構です。昨日は「出典は本文ではなく脚注に」と申し上げましたが、特に信頼性と特筆性の高い文献に限っては、本文で明示しても大事無いかと思われます。
『フェミニズムの害毒』
激しい論戦を仕掛けたことなどが有名。
さらに近代国家論に踏み込んだ『ナショナリズムとジェンダー』(1998)もある。
ありがとうございます。
『老いる準備 ― 介護することされること』などの発言を続けている。
私が現代POVだと言ったのは、「を続けている」という箇所のみなので、書名についてはそのままで構いませんよ。ただ、あるいは、(↓)
このほか、性愛(セクシャリティ)論、市民運動論、学校論など様々な分野での単著・共著・編著が多数。
と組み合わせて、「『老いる準備 ― 介護することされること』や『サヨナラ、学校化社会』など、ジェンダー論以外を主題とした著作もある」という一文に作り変えてもよいかもしれません。
自閉症についての定説/通説
昨日は一応、「原則的に定説という言葉は絶対の真理にしか用いない」という社会科学の世界での決まりを持ち出してしまいました。しかし、自閉症についての多様な側面を考慮すれば、仰るとおり、「原因ではないというのが定説であり」で構いません。
私からは以上です。--白文鳥 2008年10月13日 (月) 15:38 (UTC)

おーたです。他にご意見も無い様なので、白文鳥さんと私とのやりとりを考慮しながら、下記のような改訂文案を作成しました。ご確認ください。文章がすっきりしないので、脚注に回した記述もあります。

(改訂文案)
<経歴と業績>
研究者としてのスタートは、構造主義文化人類学と社会科学の境界領域を論じた理論社会学であり、この頃の1970年代の論文は『構造主義の冒険』にまとめられている。1980年にマルクス主義フェミニズムを知り、これの紹介者・研究者となる。『家父長制と資本制 ― マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)が代表作。
また、『主婦論争を読む――全記録(1・2)』(1982)の編集など、思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(1987)など田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた(井上・上野・江原編『日本のフェミニズム① リブとフェミニズム』岩波書店、1994年 の上野による巻頭総括論文「日本のリブ --その思想と背景」なども参照)。
『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)では 表紙カバーに推薦文を寄せた栗本慎一郎山口昌男、あるいは 鶴見俊輔などからの評価を受け、文化人類学記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入して、広く知られるようになった(アグネス論争については『「アグネス論争」を読む』JICC出版局、1988年、小浜逸郎著『男がさばくアグネス論争』大和書房、1989年、加藤・坂本・瀬知山編『フェミニズム・コレクション1』勁草書房、1993年などに経緯が詳しい)。
1990年代以降も家族建築介護福祉の問題や文学心理学社会心理学などの学問領域で論じている。近代家族論として『近代家族の成立と終焉』(1994)などがあり、それを発展させて近代国家論を取り扱った『ナショナリズムとジェンダー』(1998)や、介護問題に派生させた著作もある。
オーバードクター時代にマーケティング系のシンクタンクで仕事をしていたこともあって、消費社会論の著作も多く、『<私> 探しゲーム ― 欲望私民社会論』(1987)、『セゾンの発想 ― マ-ケットへの訴求』(1991)などがある。
文学論としては、小倉千加子富岡多恵子との鼎談『男流文学論』(1992)が世評を呼んだ他、『上野千鶴子が文学を社会学する』(2000)などがある。現代俳句の実作者であった時期もあり、『黄金郷(エル・ドラド)上野ちづこ句集』(1990)がある。
このほか、性愛(セクシャリティ)論、市民運動論、学校論など様々な分野での著作多数。また、論文集『日本のフェミニズム』や『岩波女性学事典』、『岩波講座現代社会学』『社会学文献事典』などの共編集者を務めている。
<論争と批判>
上野千鶴子は様々な分野で発言して多くの論争に関わり、その言動はたびたび批判を受けてきた(上野は論争に強いという評価があり、たとえば、斉藤美奈子『文壇アイドル論』岩波書店、2002年、には、「彼女は論争にだけはめちゃめちゃ強かった。逆にいうとアンチ・フェミニストの中に、彼女に勝てるほどの論客がいなかった」「上野千鶴子の強みは、やはり理屈(含む屁理屈)の部分なのです」pp.142-143などの記述がある。)。
彼女が関わった代表的な論争は「アグネス論争」であり、いったんアグネス批判派に傾きかけていた論争の流れが、一気に逆向きになるほどだったとされている(

『「アグネス論争」を読む』JICC出版局、1988年ほか)。当初の「大人の空間に子どもを入れるな」という「林・中野」対アグネス・チャン論争は上野の手で「働く母親一般の問題」に発展させられ、様々な分野の論客が参戦する一大論争に発展したのである(この結果、フェミニズムの感覚からさほど遠くなかったとされている林真理子中野翠の二人はアンチ・フェミニズムの代表者と見なされることになったが、こうした上野の議論はフェミニストで有名な小倉千加子ガ「論理のすり替え」を指摘したほど強引なものだった。小倉千加子「林真理子論 ―長距離ランナーの栄光と孤独」月刊ASAHI、1991年3月号などを参照のこと)。

フェミニズム内部の論争では、たとえばエコロジカル・フェミニズムを唱えた青木やよひにたいして、男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けた。いわゆるエコフェミ論争で、上野側の主張は『女は世界を救えるか』(1985)などにまとめられている。
上野の発言が問題になった例として、『マザコン少年の末路――女と男の未来』(1986) で 自閉症や、登校拒否不登校)は母親の過保護が原因であるとしたものがある。しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが定説であり、上野は自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。この批判を受け、上野は批判を発した親に面会して全面的に謝罪した上で『マザコン少年の末路――増補版』を出版し、この全編を自己批判本とした上で旧版在庫の絶版処置を行っている。
この他の批判の主なものは斎藤美奈子『文壇アイドル論』(2002)にまとめられている。

改訂文案は以上です。

なお、「専門領域である社会学のみならず文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる」については白文鳥さんからも提案がありましたが、ごく簡単に「専門領域である社会学のみならず」を削りました。それで文意は通りますから。そして、現在の記事の冒頭にある「専攻は、家族社会学、ジェンダー論、女性学、記号論、人類学、フェミニズム。」を「専攻は、家族社会学、ジェンダー論、女性学。」にするのが良いかと考えます。上野は記号論とか人類学とかを使いますが、それらを専攻している訳じゃないですしね。「女性学」と「フェミニズム」はかぶっているので「女性学」を残しておけばよいかと思います。--おーた 2008年10月19日 (日) 13:21 (UTC)

こんばんは。この文章で大事無いと思います。それでは、他の方々からのご意見がない限り、今回の文案に基づいた編集を今後に亘って全面的に尊重したいと思いますので、宜しくお願いいたします。--白文鳥 2008年10月20日 (月) 12:51 (UTC)

白文鳥さんからのご賛同も得ましたし、他の方からの指摘もありませんでしたので合意が成立したとみなして本文を改稿しておきました。議論に参加していただいた方々に感謝します。

ただ、最後に白文鳥さん宛ての苦言は書かせていただきたい。今回の件については「文献明示は執筆した側に義務がある」という原則に従って、白文鳥さんが削除した文章に対して、私も事細かに説明させていただきましたし、指摘に従っていろいろ手を入れて記事の質も向上したとは思います。ところが、その過程で白文鳥さん側からは、一切の新しい文献も情報も知見も提出されなかったのはどういうことなのでしょうか。それは、ご自分自身たいした知識があるわけではないけど気に食わない/変な気がする記述をとりあえず削除したということであり、議論が始まっても具体的には何も記事に貢献しなかったということです。そういう編集者の有り様も可能だということは理解できますが、「文献を集め直して作業している人間の上で胡坐をかいて偉そうに言っているだけ」と見られるリスクについてはもっと自覚されたほうが良いと思う。ことに肉体オルグのようなスタブ記事をスタブのまま瑣末編集でメンテし続けている人が、他の記事でルールのみ厳密なことを意見しても説得力が無いと私は考えます。以後、他記事で考慮してください。--おーた 2008年10月27日 (月) 14:55 (UTC)

あなたの文案には、反対です。勝手に仕切らないでください。合意形成などされておりません。--218.33.184.115 2008年11月4日 (火) 16:35 (UTC)

おーたの編集は大言壮語であり、私情・主観を排すべき。また同性愛者への差別発言は最低限触れるべき

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おーたのアグネス論争に関する「上野の手で」「アグネス批判派に傾きかけていた流れが逆流した」などの記述は、Wikipedia:大言壮語をしないに反す。そもアグネス論争は週刊文春など保守系週刊誌の手で大きな論争に発展したもの。上野が主導者ではなく事実に反すばかりか、これもWikipedia:大言壮語をしないWikipedia:独自研究は載せないに触れる。 同性愛差別発言とその後の同性愛理解の変化については、最低限触れるべき。なぜなら、上野は伏見憲明など同性愛者との親交が深く、三島由紀夫比留間久夫少年愛など、同性愛に関する発言も多い。岩波の別冊『男性学』でもゲイリブについて触れ、「(フェミニズムと)デジャビュ」と発言。また「ゲイに惹かれる。ゲイには恋愛があるからです」(性愛論)とまで発言しており、『スカートの下の劇場』以来、彼女の著作・言論活動と同性愛は切っても切れない。『男流文学論』で井伏鱒二を「マスをかき過ぎて死んだ猿」と発言したことも載せるべきだと思うが、斉藤美奈子の『文壇アイドル論』の「下半身ネタを書く」に代表されているので省略してもいいが、一応書き添えておいた。--以上の署名のないコメントは、218.231.168.144会話/Whois)さんが 2008年11月3日 (月) 16:19~16:48 (UTC) に投稿したものです。

文案

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経歴と業績の著書名などは、著作一覧と重複するのでコメントアウトしておきました。

==経歴と業績==

研究者としてのスタートは、構造主義文化人類学と社会科学の境界領域を論じた理論社会学である。1980年にマルクス主義フェミニズムを知り、これの紹介者・研究者となる。『家父長制と資本制 ― マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)が代表作。

思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた[1]。

『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)では、表紙カバーに推薦文を寄せた栗本慎一郎や山口昌男、あるいは 鶴見俊輔などからの評価を受け、文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。特に1987年から88年にかけて保守系男性週刊誌が世間を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入して、広く知られるようになった[2]。

1990年代以降も家族・建築・介護・福祉の問題や文学・心理学・社会心理学などの学問領域、更には 近代家族論などを論じ、それを発展させて近代国家論や、介護問題に派生させた著作もある。

オーバードクター時代にマーケティング系のシンクタンクで仕事をしていたこともあって、消費社会論の著作も多い。

文学論や現代俳句集などもある他、性愛や学校、市民運動などについても論じている。

==論争と批判==

上野千鶴子は様々な分野で発言しており、その言動はたびたび批判も受けてきた[3]。

『スカートの下の劇場』において「私は同性愛者を差別する」と書き、同性愛者らから激しい批判を招き、この発言を巡り東京大学で「動くゲイとレズビアンの会」主催のシンポジウムが開催される事態にまでなった。また浅田彰氏からは、ホモセクシュアルとホモソーシャルを混同した無知を揶揄されている[4]。同著ではまた、レズビアンを「おまんこシスターズ」と侮辱した上に、異性愛の副産物にすぎないと発言し、これはレズビアンの掛札悠子から「あまりの考えの浅さにあぜんとする」[5]として批判を受けている。これに対して上野は『発情装置』(1998)の中で自分の同性愛者に関する認識が時間とともに変化していったと釈明を行った。

上野の発言が問題になった他の例として、『マザコン少年の末路――女と男の未来』(1986) で 自閉症や、登校拒否(不登校)は母親の過保護が原因であるとしたものがある。しかし自閉症は先天的早期脳障害によるもので環境が原因ではないというのが定説であり、上野は自閉症児を持つ親の会などから抗議を受けた。この批判を受け、上野は批判を発した親に面会して全面的に謝罪した上で『マザコン少年の末路――増補版』を出版し、この全編を自己批判本とした上で旧版在庫の絶版処置を行っている。

彼女が関わった代表的な論争には、バブル時代に、週刊文春など、保守系男性週刊誌が「女対女」の戦いを演出した論争として知られる「アグネス論争」がある。[6]。当初の「大人の空間に子どもを入れるな」という「林・中野」対アグネス・チャン論争は、「働く母親一般の問題」に拡散し、様々な分野の論客が参戦する大論争に発展したが[7]、弁護士の福島瑞穂や作家の戸川昌子、花柳幻舟ら多くの女性たちの間では、男性週刊誌の仕掛けた論争だと強い批判が存在した(「 読売テレビ系全国ネット上岡龍太郎司会『EXテレビ』(1990年8月放送)」を録画したビデオは保有しております。テレビ』(1990年8月放送)」)。

フェミニズム内部の論争では、たとえばエコロジカル・フェミニズムを唱えた青木やよひにたいして、男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けた。いわゆるエコフェミ論争で、上野側の主張は『女は世界を救えるか』(1985)などにまとめられている。

この他、「ことさらに下半身ネタや女性器の名称を書く」、「頭の悪い広告代理店みたいな造語を次々と生み出す」などの批判がある。そうした批判の主なものは斎藤美奈子『文壇アイドル論』(2002)にまとめられている。--218.33.184.115 2008年11月4日 (火) 16:42 (UTC)

以下の文案を追記します。 また、女性史研究家の山下悦子は、一貫して上野のマルクス主義フェミニズムを批判している(山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』(洋泉社新書 2006)、「上野千鶴子は女を救えるか」(諸君 1991年1月号 P206))。

なお、「弁護士の福島瑞穂や作家の戸川昌子、花柳幻舟ら多くの女性たちの間では、男性週刊誌の仕掛けた論争だと強い批判が存在した」のソースとして挙げた「 読売テレビ系全国ネット上岡龍太郎司会『EXテレビ』(1990年8月放送)」を録画したビデオは保有しております。--218.33.184.115 2008年11月8日 (土) 19:21 (UTC)

218.33.184.115さんの一連の投稿について

[編集]

ここ数日間のうちに218.33.184.115さんが活発に投稿されておられます。問題は多岐にわたっていると考えましたのでそれぞれに細かく返答やコメントを付けることは止めて、主要なものに限って意見させていただくことにしました。

まず、継続的な編集を行われるつもりならばアカウントを取って編集していただけますでしょうか。

それから、履歴をみると、11月4日にリバートをかけた61.202.109.170氏の編集を、私の編集だと断じておられるようですが、私はIPアカウントで人の編集をリバートする趣味はありません。携帯でWikipediaの編集をしたこともありませんし、したとしても編集するときはログインします。

ことのついでに書くと、この61.202.109.170氏の会話ページへ書き込んだ[2]、218.33.184.115さんの文章は、あきらかにWikipedia:個人攻撃をしないに反していますよね。「61.202.109.170=おーた」という前提で書いておられるようですが「あなたの執着性と過集中は、境界例やアスペルガーを疑われても致し方ないのでは」なんて書いておられますしね。それから私は上野のことを崇拝した覚えは無いので「まるで神のように崇めて」とまで書かれるのは、どういうことなんだろうかといぶかしんでおります。

それから、ノートで文案を示しておられるのでノートでの議論の上で本文を書き換えられるのかと思ったら、本文は本文でいろいろ書き足しておられますね。218.33.184.115さんの意図を測りかねます。コメント依頼にも出しておられませんし、何のための文案なんでしょうか。

さて、一番の問題は218.33.184.115さんの文案や、本文記事の内容についてです。まず、このノートで過去何度も繰り返したことですが、このページは荒れやすいのでWikipedia:存命人物の伝記には厳密に従おうということを何人もの編集者と確認してきました。存命人物への批判的記述については、確定した評価になっていることが検証可能性があって信頼性があって中立な文献によって確認できない限り書けません。ですから「左派系の学者だが、障害者や同性愛者など、女性を除くマイノリティへの共感はない。」は218.33.184.115さんがいくら書きたくても書けません。

そして、こう書くのは大変心苦しいのですが、218.33.184.115さんの文献の引き方は出鱈目としか言いようが無いのです。たとえば、「『男流文学論』で井伏鱒二を「マスをかき過ぎて死んだ猿」と発言したことも載せるべきだと思うが」とこのノートで書き、それに関する議論を本文記事のテンプレートで呼びかけておられますが、『男流文学論』でそれに該当する発言「ほとんどマスターベーションのやりすぎで死んだサル。そういう感じですね」から微妙に変化しているのはご愛嬌にしても、井伏鱒二のことではなく全く別の人物に対しての発言なんです。ちょっと、これは酷いんじゃないでしょうか。また、218.33.184.115さんは「『スカートの下の劇場』でレズビアンを「おまんこシスターズ」と侮辱した」と書いておられますが、これも不思議な引用で「おまんこシスターズ」は同じ男と寝た女同士を指していて、「マラ兄弟」に該当する言葉だと上野は書いています(pp.109-114)。どう考えたって、レズビアンのことじゃありませんよね。その直後のp.105以降にレズビアンの話(掛札が批判した部分)が続いているので、それで生半可な風説(上野はレズビアンのことを「おまんこシスターズ」と侮辱したという話)が流布したのでしょうね。

つまり、218.33.184.115さんはもっともらしく付けている参考文献を218.33.184.115さんは全然見てないんじゃないか。単に、ネットで聞いてきた風説をそのまま書いているだけなんじゃないか。私はそう判断せざるを得ないんです。したがって、218.33.184.115さんの他の記述も疑ってかからざるを得ないんです。もう少し例を挙げましょう。これはノートではなく本文記事のほうですが、

彼女が関わった代表的な論争には、バブル時代に、週刊文春など、保守系男性週刊誌が「女対女」の戦いを演出した論争として知られる「アグネス論争」がある。[6]。当初の「大人の空間に子どもを入れるな」という「林・中野」対アグネス・チャン論争は、「働く母親一般の問題」に拡散し、様々な分野の論客が参加する論争に発展したが[7]、弁護士の福島瑞穂や作家の戸川昌子、花柳幻舟ら多くの女性たちの間では、男性週刊誌の仕掛けた論争だと強い批判が存在した[8]。

という編集をされておられますよね。まず、[8]の文献は「読売テレビ系全国ネット上岡龍太郎司会『EXテレビ』(1990年8月放送)より。」ですが、テレビ番組は検証可能性のある出典として現在は認められていません。(個人的意見ですが、近い将来テレビ放映番組のアーカイブ化が進めば認められるようにはなると思います。)そもそも218.33.184.115さんはこの番組を録画したビデオをもっていて、それを確認してから書かれたんですか?それから、[6]の『「アグネス論争」を読む』を読まれた上で、書いておられるのでしょうか。確かにアグネス論争は男性週刊誌から始まった論争ですし、上野を含めた多くの女性がそのことを指摘しています。しかし、あっという間に様々な雑誌に飛び火していって、朝日新聞や読売新聞の投書欄にまで続々と意見が寄せられましたし、その年の流行語大賞にまでなったんです(『アグネス論争を読む』巻末の論争経過表を見てください)。上野が参入したのは、論争がかなり広がってからのことですから218.33.184.115さんの書き方はフェアじゃありません。またこの本文記事編集の要約欄に「(「上野の手で」「アグネス批判派に傾きかけた流れが逆向きになった」など事実誤認を修正。」と書かれていますが、出典にあげた『文壇アイドル論』を読んでおられませんよね。あの中でそういう表現があります。小林秀雄賞受賞者の斉藤美奈子の見解としてそう書いてあったから、そう書きました。218.33.184.115さんには気に入らない表現なのかもしれませんが諦めてください。

以上、長々と書きました。218.33.184.115さんとしては、上野千鶴子という人物に対してあれやこれや書きたいことはいろいろあるのでしょうけれど、百科事典として書けることと書けないことがあること、文献が正確に使えない編集者は信用されないという厳しい事実は認識ください。--おーた 2008年11月7日 (金) 16:43 (UTC)

自分をあなたはWP:SOKIと同一人物と見做していますが違います。訂正してください。「おまんこシスターズ」などの記載は上の方の記事を参考に自分で図書館で文献に当たって調べたものです。--218.33.184.115 2008年11月9日 (日) 09:43 (UTC)

218.33.184.115さんは、上野千鶴子が、おまんこシスターズと主張している文献があると主張していますが、おーたさんの言う通り、レズビアンの事ではないと言うのは明らかでしょう。WP:SOKIでなければ、CU権限を持つ管理者に依頼して頂くか、またはおーたさんが指摘している通り、文献を正確に読解する力が必要かと思いますが、いかがでしょう。--クスクス 2009年11月10日 (火) 20:50 (UTC)
もう一度書きますけど、『スカートの下の劇場』pp.109-114をお読みください。あれを読んで「おまんこシスターズ」を「レズビアンへの侮辱」と読解されたのなら、WP:SOKI以前にあなたは百科事典を編集するべきではありません。「おまんこシスターズ」は「男を共有した」「女同士の関係」(p.110)と上野は書いています。どうして、それがレズビアンなんでしょうか。しかも上野は「女同士の関係でいちばん理想的なタイプの関係」(p.110)と書いていて、まったく侮辱の意味を含んでいません。繰り返しますが、図書館で調べた上であれを書いたと主張なさるのでしたら、218.33.184.115さんの他の記述部分も一切信用はできません。申し訳ありませんが、そう判断せざるを得ないです。--おーた 2008年11月9日 (日) 12:12 (UTC)

それならば訂正します。レズビアンに関する発言ではありませんでした。ただ「おまんこシスターズ」と言ったのは事実です。斉藤美奈子氏の「下半身ネタを書く」での批判に含まれるものです。しかし一部の思い違いをもって(私の思い違いは「おまんこシスターズ」と「マスターベーションを~」が井伏鱒二ではなかった事の2点です)それをもって「百科事典を編集するべきではありません」「他の記述部分も一切信用はできません」とは言い過ぎではないでしょか。そこが上野信奉者に共通する攻撃性、マルクス主義者的な唯我独善性だと思っています。上の方で他の方も言われていますが「上野を批判したら名誉毀損」かのようなあなたの編集姿勢は頂けません。ウィキペディアは市民参加の自由な百科辞典です。それをあなたは「上野批判は許さない」「駄目なものは駄目」の一点張りで上野への批判的言及を一切許容しようとしません。存命人物への中傷にならない程度に、彼女の同性愛差別発言には最低限触れるべきでしょう。彼女自身讒言ともとれる発言をし同性愛理解を変えているのだからその経緯を含めて記載するのは、あなたの大好きな上野自身納得すると思いますよ。--218.33.184.115 2008年11月9日 (日) 18:15 (UTC)

そうですね。上野千鶴子は、レズビアンを侮辱している訳ではないのです。後はおーたさんに対して、上野千鶴子を批判したら名誉棄損とおっしゃっていると主張しているのであれば、おーたさんの言う通り、信用出来ないと言われても仕方ないかと思いますよ。--クスクス 2009年11月10日 (火) 20:50 (UTC)
私は「上野批判派許さない」んじゃないですよ。「上野を批判したら名誉毀損」とも言ってません。Wikipedia:存命人物の伝記を厳密に適用すると218.33.184.115さんの書き方は駄目だと言ってるだけです。frommさんの会話ページなどで「名誉毀損だ」と書いているのは218.33.184.115さん自身だということは認識して欲しいな。
それから、私はあなたの引用ミスを2箇所だけとは思ってません。一番目に付くところから調べたら、見事に誤引用が二つ続いたので呆れ果て、それ以上検証するのを止めたというだけのことです。「おまんこシスターズ」の引用は二重に間違っていましたしね。他にも強引な解釈で意味を捻じ曲げたり、文意をとらずに思い込みで逆の意味に引用したのも多いと思います。
そういえば、Dowper=WP:SOKIさんなんか自信たっぷりに「謝罪していない」と断言しましたけど、まったくの虚偽でしたでしょ。あのときと同じことで、「他の部分は信用しろ」というほうが無理なんですよ。私は、あの記述を調べるために『マザコン少年の末路』の増補版を発注しましたけど、そんなふうにWP:SOKIのすべての編集をいちいち丁寧に検証してたんじゃたまったものじゃありません。他の皆さんも色々な意味で「たまったもんじゃない」と考えるに至ったからWP:SOKIは期限を定めないブロック処置を施されているのですけど、同じことを繰り返していてもブロック処置はいつまでたっても解除されないということを理解していただけませんか?
なお、218.33.184.115さんがWP:SOKIだという根拠はいろいろありますけど、「おまんこシスターズ」の二重に誤った引用を別人が偶然にやっていらっしゃるのはちょっと考えにくいです。しかも、IPが隣接していて同じプロバイダで、個人攻撃のパターンが一緒で、同じ話題に拘っていらっしゃる。これは、私だけの判断じゃないということは分かりますよね。--おーた 2008年11月10日 (月) 13:53 (UTC)
(追記)「井伏鱒二ではなくて他の人物」と指摘されて「ある文豪」などと修正する暇があったら、ご自分で文献を調べなおしてください。それから、あの手の毒舌を鬼の首を取ったかのようにいちいちあげつらうのは、百科事典の文章じゃありません。そういうことも、いい加減分かっていただかないとブロック処置はいつまでも続きますよ。--おーた 2008年11月10日 (月) 14:05 (UTC)
(追々記)もちろん、ブロック中の人間はIPで書き込んではいけません。ブロック解除のために努力することから始めていただけますか。--おーた 2008年11月10日 (月) 22:11 (UTC)
おーたさんの言う通り、WP:SOKIの可能性もあります。ただ別人である可能性もありますが、どちらにしても男性側に偏った考えをお持ちの方には間違いありません。218.33.184.115さんは、公式方針の一つである、Wikipedia:中立的な観点#ひとつの帰結:敵のために書くを理解しているようには到底思えません。おーたさんの言う通り、僕からもブロック解除のために自分の何処がいけなかったのか、もう一度再考して下さると幸いです。もしWP:SOKIでなければ、そうでないとCUに同一人物でない事を証明する事も考えて下されば幸いです。後はおーたさんに注意された事を反省し、Wikipediaで加筆などに貢献して頂けたら幸いです。--クスクス 2009年11月10日 (火) 20:50 (UTC)

同じ人が誤引用するとおもえない、とありますが、私は上の方にあるDowperとかいう人の文章を参考にしただけです。そして今は手元にありませんが本を読んでみました。それで同一人物と誤解されるのでしょう。繰り返しますがWP:SOKIとは別人です。--218.33.184.115 2008年11月12日 (水) 20:20 (UTC)

おーたさんも僕もWP:SOKIの編集傾向に似ていると主張しているだけで、同一人物とどうやって解釈されたんですか?--クスクス 2009年11月10日 (火) 20:50 (UTC)
例えば218.33.184.115さんが、アカウントユーザーとして一連の書き込みをしたとします。そしてWP:SOKIとの編集傾向が似ているそれらの書き込みを見て、私がCUを依頼してそれが認められたとします。するとそのIPが218.33.184.115であると判明します。それはWP:SOKIが使っているIPと隣接していて、同じプロバイダで、個人攻撃のパターンが一緒で、同じ話題に拘っていらっしゃる。そうなると、この書き込みはほぼWP:SOKIであろうということで話が進むのはWikipediaの常なのではないでしょうか?--おーた 2009年11月20日 (金) 12:59 (UTC)
そうですね。おーたさんの言う通り、同じプロバイダーや、同じ個人攻撃パターン、同じ話題と言う点に拘泥している点については、確かにWP:SOKIと言えると思います。それよりまだ投稿ブロックされていないので、WP:SOKIのソックパペットとして投稿ブロックするのが良いと思います。--クスクス 2009年11月20日 (金) 21:52 (UTC)