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ノート:下村努

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情報提供のお願いなど

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(この節は最後に追加すべきですが、情報提供をお願いしたく、最初の節の前に追加します)

下村努」に2009年1月12日 00:57 (UTC)で加えた編集(差分)について、情報提供をお願いしたく、ノートに書き込みました。

この記事の初版から現在まで残っている次の3点、

  1. 大学卒業を待たずして
  2. ロスアラモス国立研究所で(中略)現場での教育を行っていた。
  3. 現在彼は、UCSDのサンディエゴ・スーパーコンピュータ・センターの主席特別研究員として働いている。

これについて出典がはっきりしません。もしかすれば初版投稿者のWrycwpixyさんは『テイクダウン』を参考にしたのかも知れませんが(そうであれば「務」という誤った記事名をつけなかったはずですが)、私は『テイクダウン』を全部は読んでいないため、確認できません。コメントアウトにてその旨を記載しました。3.について、英語版en:Tsutomu Shimomuraを見ると、90年代後半にはサン・マイクロシステムズで働いていたとあるものの、00年代はどうなのかがわかりません。何より『週刊新潮』の取材では、08年現在カリフォルニア州(英語版ではサンディエゴとありますが、『新潮』の記事に従います)在住の下村氏がどうやって生計を立てているかをご両親も知らないという状況です。そのため、現在の記事のような書き方にしています。上記3点について、確実な出典(新聞、書籍、論文等、第三者による検証が可能なもの。英語でも可)に基づき加筆してくださいますと幸甚です。

追加情報(3.について) - 『テイクダウン』カバー裏著者紹介欄を急いでメモしたのを思い出しました。こうあります。「1989年 - カリフォルニア大学サンディエゴ校物理学部研究員、サンディエゴ・スーパーコンピュータ・センター上級研究員」とのことです(コピーをとらなかったので名称は正式だったか略称だったか覚えていません)。

いずれにせよ『テイクダウン』を全部読んだ方でないとこれ以上の加筆はできないかも知れません。私はここまでです。--Octobersteps 2009年1月12日 (月) 01:37 (UTC)錯誤があり一部除去。--Octobersteps 2009年1月12日 (月) 03:54 (UTC) 1点解決しました。他2点が未確認です。--Octobersteps 2009年2月15日 (日) 22:13 (UTC) 追加情報を。--Octobersteps 2009年2月16日 (月) 22:30 (UTC)[返信]

名前の「つとむ」は「務」ですか、「努」ですか

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ノーベル化学賞の受賞者下村脩氏を調べた時、あの下村努氏のお父様と知り、驚きました。

ところで「つとむ」の字ですが、ウィキペディアでは「務」となっています。しかし「下村務」をYahooで検索すると「下村努ではありませんか?」と出てきます。またGoogleでは「下村努」のヒット数のほうが多いです。Amazonでの「テイクダウン」の著者名は「下村努」です。

名前の「つとむ」は、「務」で間違いないのでしょうか? 初稿投稿者がずっと活動していないため確認できないと思い、こちらに質問を投稿しました。--Octobersteps 2008年10月8日 (水) 14:39 (UTC) 改名に伴いリンク修正--Octobersteps 2008年10月12日 (日) 14:46 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)[返信]

今日の朝日新聞では務とでてました。Googleの検索結果も一日で大きく変わってしまいましたから、たいしてあてにはなりませんね……。--211.131.101.204 2008年10月9日 (木) 11:47 (UTC)[返信]
ちょうどウォッチリストを見たところです。コメントをありがとうございます。「テイクダウン」の本の表紙をAmazonで見ると「努」なので、ザ・ハッカーの記事では[[下村務|下村努]]としました。映画情報のサイトでも「努」でしたし、外部リンクの文春の記事も「努」です。Wikipediaのほうが正しければいいのですが、万一間違いの震源地になってしまっては……。--Octobersteps 2008年10月9日 (木) 11:54 (UTC)[返信]

知人に氏の従兄弟がいるのですが、「努」が正しいそうです。--Mysato 2008年10月9日 (木) 12:22 (UTC)[返信]

Mysatoさん、貴重な情報をありがとうございました。改名提案を出すことにします。--Octobersteps 2008年10月9日 (木) 12:42 (UTC)[返信]

朝日新聞社と読売新聞社の問い合わせフォームで「どちらの字が正しいか情報を持っているか?」と質問してみました。結果、読売・朝日両方から「努が正しい」との回答を得ました(根拠についての回答はありませんでした)。読売では10日朝刊で訂正を掲載したそうです。朝日も11日夕刊で訂正を出す予定とのことでした。web 上の記事は既に両社とも「努」に訂正されているようです。Hina 2008年10月11日 (土) 11:25 (UTC)[返信]

ちょうどウォッチリストを見ました。わざわざお問い合わせくださりありがとうございました。すぐにでも作業に取りかかりたいところですが、あいにく当方がアカウントを取得したのが8日の夜で、4日後(12日の夜ぐらい)にならないと移動の権限がございません。もし権限のある方が移動をしてくださるならお任せしたいと思います。どなたもされなければ、明日当方が致します。なお、英語版と中国語版の本文中にあった「務」は「努」に修正しています。中国語版の改名も日本語版同様にできるとよいのですが。--Octobersteps 2008年10月11日 (土) 11:47 (UTC)[返信]
中国語版ですが履歴があるため一般ユーザーによる移動は行えません。zh:Wikipedia:移動請求が中国語版で提出でき、管理者の対処がされれば良いのですが移動にはzh:下村努の削除が不可欠です。中国語版の扱いはわかりませんが、コピーアンドペースト&リダイレクト化はされない方がよいと思います。--Tiyoringo 2008年10月11日 (土) 12:01 (UTC)[返信]
ご教示くださりありがとうございました。zh:Wikipedia:移動請求を見ましたが、たとえば松下電器の改名が
zh:松下電器zh:Panasonic
已改名。
という内容で申請され、改名されておりますので、これと同様の内容で提出してみようと思います。それはまず日本語版の改名が済んでからと思います。
なお「下村務」に対しかなりの量のリンクが外部から張られてしまっていると思います。日本語版でも中国語版でも「下村努へのリダイレクト」のかたちで残すべきかと思いますが、いかがでしょうか。--Octobersteps 2008年10月11日 (土) 12:21 (UTC)[返信]

(インデントを戻します)改名しました。「下村努へのリダイレクト」になった「下村務」は、上で述べた理由により、当方からは削除依頼を出しません。--Octobersteps 2008年10月12日 (日) 14:46 (UTC)[返信]

たびたび失礼します。zh:Wikipedia:移動請求に行きましたところ、メンテナンス中らしく、16:00UTCまで編集できないようでした。さすがに遅いので、明日の朝に請求を出してきます。--Octobersteps 2008年10月12日 (日) 14:52 (UTC)[返信]
(報告)各外国語版にある日本語版へのリンクを修正してきました。また、中国語版のzh:Wikipedia:移動請求に、英語と日本語で依頼文を書いてまいりましたが、当方の英文がひどくて、理解してもらえないかもしれません。また、「下村努」には、Tiyoringoさんが仰るように編集履歴があり、途中で「zh:下村務へのリダイレクト」にされていました。先にzh:Wikipedia:削除投票和請求への申請をしなければならないのかも知れませんが、先方で指示を受けたらそれに従うようにしたいと思います。--Octobersteps 2008年10月13日 (月) 00:19 (UTC)[返信]
中国語版の記事を下村努へ移動しました。こちらにもお知らせします。RalfX 2008年10月14日 (火) 00:27 (UTC)[返信]


「下村務」から「下村努」への改名が無事終了いたしました。日本語版Wikipediaにてさまざまな情報を提供してくださった皆様、中国語版Wikipediaにてご配慮くださった皆様、ありがとうございました。--Octobersteps 2008年10月14日 (火) 11:24 (UTC)[返信]

下村努が日本語が話せることの出典はありますか

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見出しで下村氏を「呼び捨て」にしていますが、この名称に対しリンクを貼っており敬称を追加できません。不注意をお詫びいたします。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)[返信]

現在私たちが入手できる資料をもって「下村努氏が日本語が話せる」と判断できるのか、広くご意見を求めたく思います。なお、私が確認したいのは「下村氏が日本語が話せる」ことではなく「これこれの資料に『下村氏は日本語が話せる』とある」という出典です。

コメント依頼に至った経過を説明いたします。下村努2008年12月22日 15:14 (UTC) の版(差分)において、寂華さんにより「下村努は(日本語が)喋れるにも関わらず日本語で話そうとはしなかった」(強調部分)が加筆されました。そこで私(Octobersteps)が、利用者‐会話:寂華#「下村努」への加筆の出典についてにおいて寂華さんに「彼が日本語を話すことができることを裏付ける出典」の明示をお願いしました。寂華さんは、「下村努「史上最悪のハッカー」を追いつめた日本人」にある「日本語はまだ読める」「日本人なのに日本語を話さない」「両親とも日本人で努が生まれてすぐにアメリカに来て一緒に住んだ」を状況証拠として「努は日本語が話せるにもかかわらず、日本語を話さなかった」と判断され、記事に加筆されたとのことでした。私はこの加筆部分に{{要出典}}をつけました。

私は、寂華さんの加筆内容はWikipedia:独自研究は載せないに抵触していると考えており、この部分は除去すべきと思います。しかしこの箇所の除去にあたって寂華さんより合意形成を求められたため、このノートにおいて広くご意見を伺うこととしました。ご意見等お寄せ願えませんか。--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 02:49 (UTC)推敲後不要となった箇所が残っていたため除去。--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 02:55 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)[返信]

コメント 文脈から読み書き能力ではなく会話能力を聞いているのは明らかなので、「なんとか読めるけれど(話せない)」としか解釈できません。 --Yhiroyuki 2008年12月23日 (火) 04:15 (UTC)[返信]
コメント http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/shimomura.htm を読みましたが、そこから読み取れることは「日本語を読む能力はそれなりにある」ということだけですね。日本語を喋れるか否かはまったく判断がつきません。Wikipedia:存命人物の伝記を踏まえ、「思ったことをほぼ完全に日本語で喋って伝えるだけの日本語会話能力があるのに、日本人相手だとしても英語を押し通した」とも取れるような記載は除去すべきでしょう。また、下村努氏の日本語能力について言及する必要があるとすれば、彼が日本語能力を育まずに英語での教育を受けたことが理由で現在のコンピュータ系の能力を培ったということを論じる場合でしょうけれども、それを論じるには大野和基氏の (先のURLの記事内の末尾にあるような) 私見では情報源としては力不足だと思います。例えば、「日本語と英語の違い、あるいは日本と欧米での教育環境や文化による能力の差異を研究なさっている方」や、「コンピュータ関連技術と英語の関係について研究なさってる方」、もしくはせめて「コンピュータ関連技術にそれなりに詳しい技術者やジャーナリスト」あたりの分析が必要だと思います。ですから、大野和基氏の記事だけを情報源として下村氏のメールが英文であったことを「下村努」に書くことはあまり適切ではありませんし、むしろ書くべきではないと判断します。--iwaim 2008年12月23日 (火) 09:40 (UTC) 誤変換修正とついでにより明確に書く --iwaim 2008年12月23日 (火) 09:49 (UTC) ちょっと意図と内容の相違があったのでコメントの内容変更。--iwaim 2008年12月23日 (火) 09:51 (UTC)[返信]
コメントをありがとうございます。iwaimさんご指摘のメールの件は、テレビの朝のワイドショーの画面に写ったパソコンのディスプレイを私が目で見て「英文らしい」と確認したものであり、画面をビデオ録画してでもいなければ他の方が検証不可能であり、これを出典として書くのはどうかとずっと思っておりました。(週刊新潮が出典の記載も利用者によっては首をひねるかもしれませんが。)必ずしも必要なことではないでしょうし、メールが英語だった件については除去いたしました。--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 10:09 (UTC)[返信]
出典にもありますが、幼い頃から日本人の両親とずっと暮らしていながらしかも日本語を読む能力があるのに、日本語を話せないなど通常はあり得ません。なぜ厳密な出典に拘って「日本語が喋れるが、英語でしかインタビューに応えようとしなかった」という事実を削除しようとされるのか、納得が行かないところです。--寂華 2008年12月23日 (火) 12:09 (UTC)[返信]
《通常はあり得ません》という寂華さんの主張は理解しました。で、その主張を基に寂華さんが判断した内容を「下村努」に記載しようと考えていることも理解しました。では、下村氏が、その「通常」に当てはまるという情報源を提示してください。この、私の主張が理解できないのであれば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを熟読してください。--iwaim 2008年12月23日 (火) 12:26 (UTC)[返信]
(競合しましたがこのまま投稿します)ちょうどウォッチリストを見ました。コメントをありがとうございます。寂華さんのお気持ちはわかりますが、Wikipedia:検証可能性にありますように「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」」です。繰り返しになりますが、どこかに「下村氏は日本語が話せる」という検証可能な記述があるならば、それを出典としてお示しいただければ、ご希望の記述は可能かと思います。
--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 12:30 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)寂華さんあての雑談はコメントアウトしました。--Octobersteps 2009年1月10日 (土) 22:41 (UTC)[返信]
Iwaiさん、そうであれば「通常」の定義は何かと言うことになりますよ。答えられますか? 検証可能性や独自研究もどこまでかという線引きが難しいから、いろんな問題が起こると思っています。結局は常識によるしかなく、大野氏の出典の内容で日本語が喋れることが十分に類推できると私は判断しているのです。
Octoberstepsさん、二世は親とは日本語を話すわけですから、拙いながらも日本語を喋れるということになりますね。私も下村努氏が流暢な日本語が喋れるなどと書くつもりはありませんが。--寂華 2008年12月23日 (火) 13:22 (UTC) インデント調整。--iwaim 2008年12月23日 (火) 13:50 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。寂華さん、Wikipedia:検証可能性#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成をご一読願えませんか。そして、日本語が話せることを証明できる出典をお示し願えませんか。
また、雑談は雑談です。会話ページで述べましたように、大野氏の記事を下村氏の子供時代を想像しつつ読まれれば気づかれることがあろうとお話ししているのです。それだけです。--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 13:44 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)[返信]
◆《検証可能性や独自研究もどこまでかという線引きが難しいから、いろんな問題が起こると思っています。結局は常識によるしかなく》については《結局は常識によるしかなく》という点に誤りがあります。少なくとも、ウィキペディア日本語版には「検証可能性」や「独自研究を載せない」が基本方針が存在します。現時点でのウィキペディア日本語版には、検証可能性を満たさない記述が無数にありますが、それはその時点で独自研究について問題視されていないというケースであると言えます。そして、現時点でのウィキペディア日本語版にて、独自研究の可能性があるのであれば、検証可能性を満たすための情報源を求められるということになります。つまり、たとえ現時点でのウィキペディア日本語版が、検証可能性を満たさない記述を認めているという状況であったとしても、その記述に疑念がある人間から情報源を求められた場合は、その記述が妥当であると判断した方は情報源を提示する努力をする必要があるということです。
現時点のウィキペディア日本語版において、検証可能性を満たさない記述の扱いは難しいというのは理解していますし、「常識」によって判断すべき場合も多々あることでしょう。で、今回のケースについて、私の「常識」では、大野和基氏の記事からは「日本語については、なんとか読むことはできる」ということしか読み取れません。もうちょっと文脈を取ると「日本語はなんとか読めるが、書くことや聞き取ること、話すことは難しい」とも取れます。これはYhiroyukiさんも既に述べていますので、それなりの人数の方と共有できる「常識」ではないかと思います。
《Iwaiさん、そうであれば「通常」の定義は何かと言うことになりますよ。答えられますか? 》については、論旨のすり替えでしかないように思います。そもそも「通常」と使ったのは寂華さんでしょう。私のあの問いの真意がご理解できないのであれば、問いを変えましょう。寂華さんは、《幼い頃から日本人の両親とずっと暮らしていながらしかも日本語を読む能力があるのに、日本語を話せないなど通常はあり得ません》と仰っています。それは寂華さんの考えでは、100人に1人かも知れないし、1000人に1人かも知れない。もしかしたら、10000人に1人かも知れないです。しかし、そのような割合について、私はは今回は問題ではないと考えています。大野和基氏の記事からは私は「下村氏の日本語能力は、読解がなんとかできる程度」と読み取りました。その点を踏まえた上で、下村氏が日本語を使って自分自身の考えを適切に表現できる能力と、その日本語を発話できる能力を持つという情報源を提示してください。--iwaim 2008年12月23日 (火) 13:50 (UTC)[返信]
出来て大野和基氏の記事からは私は「下村氏の日本語能力は、読解がなんとかできる程度」と読み取りました。あなたが出典からそう読み取ったのならば、喋る方も出来ると読み取るのが出典の読み取り方というものです。なぜそこまで拘るのか私には理解できないのですが、あまり皆さんの時間を使わせるのも申し訳ないので、ご指摘の部分を削除しました。また暇なときに彼が日本語を喋れるとの明白な出典を探しておきます。一旦これで休止。--寂華 2008年12月23日 (火) 14:11 (UTC)[返信]
「読めるなら喋れる」と思い込むのは非常に問題でしょう。「日本語はなんとかできる」ではなく「日本語読解はなんとかできる」という表現になったのかという点についても思いを馳せるべきです。
それはさておき、表現を若干変更しました。--iwaim 2008年12月23日 (火) 14:27 (UTC)[返信]
寂華さんより休止のお申し出がありましたので、コメント依頼のほうへ、クローズの旨をお知らせしてもよいでしょうか。--Octobersteps 2008年12月23日 (火) 22:06 (UTC)[返信]
クローズしないでください。年末で忙しいので休止しましたが、納得しているわけではありませんので。議論中ですので本文は「日本語が喋れるにもかかわらず」を除去し、リンク内容の表現に直しておきました。この表現なら良いんでしょうか?私にとっては実質的な意味は同じですが--寂華 2008年12月24日 (水) 15:23 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。今回の加筆は、出典箇所から読み取れる内容であり、まったく問題ないと考えます。今後もWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないに留意された編集をしてくださるようお願いいたします。
--Octobersteps 2008年12月24日 (水) 22:56 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)寂華さんあての雑談はコメントアウトしました。--Octobersteps 2009年1月10日 (土) 22:41 (UTC)[返信]
◆私も2008-12-24T15:17:34 (UTC) の版差分の編集内容なら独自研究がなく、検証可能な内容であるため問題ないと思います。--iwaim 2008年12月24日 (水) 23:24 (UTC)[返信]

寂華さんより、私の会話ページにてコメント依頼のクローズへ同意を戴きましたので、当案件をクローズいたします。なお次節についてもクローズに同意されておられますが、Tanasさんがいらっしゃるのをお待ちしたく思います。--Octobersteps 2009年1月10日 (土) 22:41 (UTC)[返信]

記述の是非

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他の方々と同様、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないをお読み下さいとしかコメントのしようがないので静観していましたが、本文修正に際していくつか。
ご提示のインタビュー記事では、「まだ(日本語は)なんとか読めるけれど」と前置きされており、単に話せないのか話せるのに話さないのかが明確に判別できる文章ではないでしょう(自然に読めば逆接の後「話すのはちょっと…」というような文が続くとは思うが)寂華さんの修正では、その点がインタビュー記事以上に曖昧であり、人によっては「日本人であるのに≒日本語が話せるのに」というように読み取り得、また今現在もそうであるかのような印象を受けます。再度修正しましたが、この文章では「結局日本語は話せるのか話せないのか」「今の日本語能力はどうなのか」という疑問を持つ方は少なくないでしょう。この疑問はこのインタビュー記事のみが出典ならば当然かつ解決不可能なものであり、そのような記述は百科事典として不完全と言わざるを得ません。日本語が話せるか否かは下村努という人物を説明する上でそれなりに有益かとは思いますが、その為の文章でそれが伝えられないというのでは記述する意味がないでしょう。そもそも、人によって解釈の異なる(今のところは寂華さんのみですが)文献を出典とする曖昧な記述自体如何なものかと考えます。--Tanas 2008年12月26日 (金) 03:09 (UTC)[返信]

現在の版ですが、「日本人であるのに日本語は話さなかった」は、日本人であることと日本語話者であることは別ですので、「日本人であるのに」は不要であると思います。日本人であるのに日本語を話せない人は少なからずいますし、そもそもそれ自体がなんら特筆に値しないと考えます。それでも敢えて記載するとしたら、下村努氏が日本語話者であるという出典をもって、「日本語話者であるのに日本語は話さなかった」となるでしょうか。しかし、こう書くとこれだけではなおさら特筆する必要性がないように思えます。--Sacrada 2008年12月26日 (金) 03:32 (UTC)[返信]
下村努#日本語能力」という節を作成し、加筆しました。
まず、何故大野和基氏がインタビュー記事にて下村氏の日本語能力に着目しているのかについては、彼の中で「日本人であるのに日本語文化圏での教育 (あるいは日本語での教育) を受けていないことが、彼自身の今のコンピュータ能力の獲得につながっている」という論理があるのだと思います。それ故に、インタビュー記事の末尾も《果して彼が日本で教育を受けていたら、ここまでの能力が発揮できただろうか?》と締めることにしたのだと思っています。(で、たぶんその裏にはいろいろ主張したいことが控えているのだろうと思う)
そこで、百科事典として、下村氏の日本語能力について記載した方がいいのか、別に記載しなくてもいいのかというところを考えたいと思います。私は、現時点で「下村努」にて提示されている情報源では、別に記載に足るだけの内容が記述できるとは思っていません。先に述べました差分が、内容が信頼できそうなものを情報源として記載する必要があるので、先にそのような研究などを探してくる必要があると思っています。
とはいえ、検証可能性を満たすのであれば、別にあってもいいかなぁ、とは思っています。「日本人」であることと「日本語能力」には相関がないと私は思っていますが、情報源からは読み取れる内容でもあるので「日本人であるのに」という記載はあっても良いと考えています。寂華さんもその記述があれば問題ないと判断なさっているので、合意を形成するための落としどころとしてはいい線だという判断です。--iwaim 2008年12月26日 (金) 07:34 (UTC)[返信]
iwaimさんの今回の加筆は、Wikipedia:日本中心にならないようにに抵触しないか、私は心配しております。ですが、合意形成のための落としどころとして書かれたというご説明でしたので、やはり必要な内容なのでしょう。
利用者‐会話:寂華での寂華さんの2008年12月23日 12:21(UTC)版での発言を読みますと、ご自身の下村氏の理想像をWikipediaの記事に反映させたいというふうに、私には受け止められます。アメリカで長期間暮らして英語が自在に操れ、日本語を使わない人=自分を日本人であると思っていない人(寂華さんには同じ意味)こそが、寂華さんにとっての「世界に羽ばたく人」なのだろうと受け止められます。今回の案件は、寂華さんがWikipediaの記事中の下村氏像を自分の理想に沿う姿に変えようとしたことから始まったと、私は思っております。何人かの方が指摘されたように、「まだ読めるけど」の後には「(話せ)ない」など否定表現が続くのが文法上自然に聞こえます。それを「話せる」と解釈してまで、人物像を執筆者の理想像に近づけようとする編集が今後も続くとすれば、「利用者の行為に対するコメント依頼」を提出する腹づもりでした。
なお、「大野和基 コラム第11回 取材の裏側5 追いつめのプロを追いつめた」には「日本語ができるかどうかはわからない」とあります。文春で「話さない」と書いた人にも、下村氏が日本語を「話せるが話さない」のか「話せない」のかわからない、ということだと思いました。--Octobersteps 2008年12月26日 (金) 09:43 (UTC)敬称を追加。--Octobersteps 2008年12月26日 (金) 10:30 (UTC)[返信]
日本人あるいは日系人に対して、記事内に日本語能力についての記載をすることは[[[Wikipedia:日本中心にならないように]]には該当しないと思います。ドイツ人に対して、ドイツ語能力についての記載をすることがドイツ中心視点に立ったものではないと思いますし。これがフランス人の記事で、その記事に「日本語能力がない」というような記載をしたり、10ヶ国語ぐらい話せるのに「日本語が達者」とだけ書いたりするようなケースだとJPOVだと言われても仕方ないとは思いますが。
とはいえ、自然言語の研究者でもない人物の記事に対して、その人物の自然言語に関わる能力を記載する意味がどれほどあるのかという点には疑念を持っています。例えば、下村氏の日本語能力がネイティブ並みにあるにも関わらず、彼のアイデンティティが日本人にはないが故に (あるいはアイデンティティがアメリカ人であるが故に)、敢えて日本語ではなく英語であったというケースならば、情報源と共に記載することには意味があるとは思います。
英語でしか自身の考えを十分に伝えきれない人間が、インタビューを受けた場合に英語で応答するということはある意味当たり前なことです。下村脩氏による、彼の子供の日本語能力についての発言を基に加筆しました差分が、その情報源によれば下村努氏の日本語能力はそれほどは無いと言えるはずなので、下村努氏の日本語能力について記載しないという方向で合意形成を目指すのは一案だとは思います。--iwaim 2008年12月26日 (金) 10:09 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。コメントをありがとうございます。いずれは日本語能力の記載はなくしてほしいと希望しております。寂華さんのご意見を待ちたいと思います。--Octobersteps 2008年12月26日 (金) 10:30 (UTC)[返信]

インデントを戻します。話せるのに話さない特別な事情があるのなら勿論のこと、単に話せないのであったとしても特筆性に欠けるとまでは言えないと私は考えますが、何れにせよそれらを示す明確な資料がない現状では記述は控えた方が無難であると思います。とりあえず一旦コメントアウトとし、1ヶ月なり2ヶ月なり期限を定め資料を探し、見つかったらコメントアウトの解除、見つからなかったら記述の除去かつ明確な出典なしには記載しないことで合意形成というのはどうでしょう。日本語を話せないという方向で記述されている現在の版は、寂華さんにとっても本意ではないでしょうし、お互いの落としどころとしても妥当かなと考えます。
下村脩氏のインタビュー記事もこれまた微妙ですね。この記事を以って話せないとするのは「発表済みの情報の合成」に当たると思いますので、現在の記述より踏み込んだ記述はちょっとできませんね。--Tanas 2008年12月27日 (土) 11:41 (UTC)[返信]

Octoberstepsです。コメントをありがとうございます。先ほど映画で下村努氏を演じた中国系アメリカ人の俳優ラッセル・ウォンの記事を作成した際、弟のマイケル・ウォンの英語版の記事を見たところ「英語は流ちょうだが中国語は苦手」といった趣旨の記述がありました。俳優はその話す姿や声が商品となりますから、米中両国で活躍する俳優の得意言語の記述は必須であろうと私は思います。しかしコンピュータセキュリティ専門家の下村氏が日本語が話せるかどうかが記事に必要とは、私にはどうしても思えません。(記述があってもかまいませんけども。)加筆が必要なのは彼の業績についてであろうと考えております。
Wikipedia上の説明は常にサイトやブログに引用され、現在の記述もどこかに複写されているでしょう。最初に日本語能力に触れた寂華さんは納得されないと思いますが、やはりいったんコメントアウトし、見えない状態にすべきと思います。Tanasさんが提案されたような手続きを経て合意形成に至れば幸いと思います。--Octobersteps 2008年12月27日 (土) 12:08 (UTC)[返信]
まず、現在の記述は「発表済みの情報の合成」には該当しないはずです。Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成をもう一度お読みください。下村脩氏は、明らかに「子供は日本語を理解できない」と述べています。また、大野和基氏のインタビューの際に日本語ではなく英語を用いたということも明白です。現在『父である下村脩によれば、下村脩の子供達は英語しか理解できない。1995年に日本人ジャーナリストからの取材を受けたときには、下村は「日本語はまだ何とか読めるが」と英語で応じ、日本人であるのに日本語は話さなかった。』という記述になっているわけですが、これを『父である下村脩によれば、下村脩の子供達は英語しか理解できない。だから、1995年に日本人ジャーナリストからの取材を受けたときには、下村は「日本語はまだ何とか読めるが」と英語で応じ、日本人であるのに日本語は話さなかった。』などと2つの文に相関があるように記載すれば「発表済みの情報の合成」に該当します。しかし、その2つに因果関係があるようには書いていない現在の記述は問題ありません。Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成の末尾にも《因果関係にはっきりと言及した資料が提示できないのであれば、この文章は「この結果」ではなく「また」で接続されなければなりません。》とある点に着目してください。
コメントアウトについては、現在の記述にWikipedia:独自研究は載せない的にも問題ないことを踏まえた上で、私としてはどちらでも構いません。現在判明している情報源だけでは現時点の記述しか無理ということと、その記述だけでは「下村努」の項目に特に必要はないという意見は持っていますけれども。--iwaim 2008年12月27日 (土) 14:44 (UTC)[返信]
脩氏のインタビューを以って努氏が日本語を話せないと解釈し、現在の記述から更に踏み込んでその旨を記載するのは、「発表済みの情報の合成」となり問題がある(日本語を話せないと記述するに足る資料ではない)だろうという趣旨でコメントしたのですが、紛らわしかったようで申し訳ありません。現在の記述は「Wikipedia:独自研究は載せない」に関しては特に問題ないと私も考えております。--Tanas 2008年12月27日 (土) 16:14 (UTC)[返信]
しばらく留守にして失礼しました。私の12月24日の記事を修正されたのはTanasさんですね。出典と言われるので出典内容そのままの「「まだ(日本語は)なんとか読めるけれど」と英語で答えたが、日本人であるのに、決して日本語は話さない」とそのまま記して、著作権違反にならないように文章を過去形に直しましたが、今度は何が問題になるのでしょうか? 大野氏の他の出典も追加記載いたします。--寂華 2009年1月3日 (土) 07:48 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。当事者の方を差し置いて口出ししますこと、お詫びいたします。寂華さんはすでにお読みとは存じますが、Wikipedia:引用のガイドライン/草案Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意Wikipedia:著作権問題Wikipedia:著作権侵害への対処に今一度目を通してくださいますと幸甚です。またWikipedia:著作権問題調査依頼に提出された事例も参考になろうと思います。--Octobersteps 2009年1月3日 (土) 08:43 (UTC)[返信]
◆《出典と言われるので出典内容そのままの〜》ですが、安易に転記や若干改変しての転記などを行わないでください。--iwaim 2009年1月8日 (木) 16:28 (UTC)[返信]
私事でログインすらできず、かなり間が空いてしまい申し訳ありません。会話ページへのメッセージ(ちょうど今日のメッセージってことでログインのタイミングがいいんだか悪いんだか・・・)等、お手数をお掛けしました。
「今度は何が問題になるの」かということですが、問題があるというよりは記述する意味があるのだろうかということであり、努氏が日本語を話せるのかが不明瞭な資料を基に曖昧な記述をするよりは、いっそのこと記述しない方が良いではないか、という提案でした。しかしながら、コメント依頼の目的であった独自研究はとりあえず解決しましたし、寂華さんにとっては前述の通り不本意だろうと考えていた表現も特にそのようにはお思いでないようですので、ご賛同頂いたOctoberstepsさんがこの方向で議論をお進めになるならば賛成票を投じますが、私からはこれ以上強く主張することは致しません。また削除依頼対象となっている版については、著作権に関しては特に問題ないと私も考えますが、現在の表現の方が(自分で言うのも何ですが)すっきりしていますし、iwaimさんの仰るように安易な転記を避けるという意味でも無難かなと思います。--Tanas 2009年1月11日 (日) 10:31 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。Tanasさん、コメントをありがとうございました。私はとにかく記事を何の問題(出典不明や著作権違反)を抱えていない状態にしておきたい、という立場です。利用者‐会話:Octobersteps#Octoberstepsさんへでの寂華さんの意見を読む限りでは、私が削除依頼を提出する直前の、2009年1月3日 07:56 UTC(寂華さんによる版)でないと納得されないようです。このカギ括弧がなく引用元が示されておらず一部改変もされた状態は著作権違反だと考えましたが、iwaimさん(私がウィキニュースにいた頃お名前を拝見していましたが)までが問題なしと判断されるとは正直思いませんでした。しかし結果としてコミュニティから問題なしの判断が出たため、1月3日 07:56 UTC に戻されても異議はありません。なによりも、寂華さんが「投稿者は著作権を手放しフリー利用させる」「投稿記事に投稿者の著作権はなく」と私の会話ページに1月10日 10:34 (UTC)付で書かれましたが、逆にご自身の編集箇所にTanasさんの編集が入ると、このページの1月3日 07:48 (UTC)付で抗議ともとれるコメントを述べられます。ならば、他に異議がなければ1月3日 07:56 UTCで進めた方が、記事の善し悪しというより波風が立たないという点で良いのかも、と思いました。Tanasさんが仰るように、曖昧な書き方をしてまで記述する必要があるのか、疑問は残りますが……。--Octobersteps 2009年1月11日 (日) 11:14 (UTC)[返信]

インデントを戻します。利用者‐会話:Octobersteps#Octoberstepsさんへをざっと読みました。ウィキペディアにおいては他者による改変等がGFDLのもとで認められているだけであって、「投稿者は著作権を手放し」ている訳でも「投稿記事に投稿者の著作権はな」い訳でもないのですけどね。加えて著作権そのものに対する考え方も危うい印象を受けましたが、それは置いといて…。少なくともご提示の版の当該箇所文末「話さなかったそうだ」は、不要・不自然なところで言葉を濁しているので、修正すべきでしょう。「観点が少しくらい違っても記事が充実されることはむしろ喜ぶべき」というのはお互いに言えることなのですが、仰るとおりこれ以上波風が立ったまま(私のコメントが遅かったというのも長引かせた原因の一つである訳ですけど)というのも好ましくありませんので、文末以外の点については新たな論点が出ない限りコメント依頼者であるOctoberstepsさんに従いたいと思います。--Tanas 2009年1月11日 (日) 12:30 (UTC)[返信]

Octoberstepsです。私のように調べ物の合間にたびたびウォッチリストを見ては即座にコメントを返している人の方が珍しいと思います。議論中ということもあるのですが……。記事の質を高めることより場を穏やかにすることを優先した意見となってしまい、Tanasさんに譲歩をお願いするようになり申し訳ありません。寂華さんの最後のコメントに腋の下が冷たくなる思いをしたのが正直なところです。寂華さんはここでどう決まってもご自身の望む内容に編集されるのではないかと思います。文末の「だそうだ」については、百科事典の表現としても適当でないと思いますので、修正に同意してくださればよいのですが。あとはiwaimさんのご意見をお待ちしたく思います。また、ここで意見を述べたことのある方からもご意見が頂けるとよいのですが。--Octobersteps 2009年1月11日 (日) 13:05 (UTC)[返信]
この件に関してはOctoberstepsさんにお任せします。--iwaim 2009年1月11日 (日) 13:18 (UTC)[返信]
Octoberstepsです。たびたび削除依頼でのiwaimさんのご意見に不満の意を表してしまい申し訳ありません。「あんなに苦労して新聞と同じ文章にならないようにと工夫して記事を書いたのに(特に短信)」という気持ちがありましたので。ざっとお読みくださればおわかりのように、他からご異議がなければ2009年1月3日 07:56 UTC(寂華さんによる版)となろうと思います。長期間この煩わしい案件に関わってくださったことにお礼申しあげます。--Octobersteps 2009年1月11日 (日) 13:50 (UTC)[返信]
存続決定したので復帰版を見たのですが、私の2009年1月3日版と異なっていたので奇異に思い、問題の日本語能力の項だけは戻しました。ただし、引用部分は””で囲みました。まだご不満でしょうか? 再び議論しても構いません。私は、自分の原稿は改変されても一向に構いませんので、記事を削除する方向でなく充実する方向で各自追加されるならば歓迎いたします。削るばかりしていると何時までも貧弱な書きかけ記事のままになるでしょう。よろしくお願いいたします。--寂華 2009年1月12日 (月) 02:00 (UTC)[返信]
(競合しましたがこのまま投稿いたします)Octoberstepsです。私の編集の元になったのは2009年1月5日 09:27 (UTC)版ですが、これは単純な錯誤によるもので、仰るとおり2009年1月3日 07:56 (UTC)を複写して編集すべきものでした。投稿後の差分を見てミスに気づきました。不注意をお詫びいたします。--Octobersteps 2009年1月12日 (月) 02:22 (UTC)[返信]

(インデントを戻します)寂華さんにはすでにクローズをご承知いただいておりますので、当節はクローズいたします。--Octobersteps 2009年1月12日 (月) 02:22 (UTC)[返信]

議論を蒸し返すつもりもありませんが、最後に寂華さんに対していくつか。
まず大前提として、「記述の増加」と「記事の充実」は同値ではありません。「まだご不満でしょうか?」とのことですが、では逆に寂華さんはOctoberstepsさんの編集のどの辺りがご不満なのでしょうか。再々度繰り返しますが、論旨は法律・各種方針上の問題の有無ではなく記述する意味・必要性です。日本語が話せるか否かが不明瞭な記述は百科事典として不完全と言わざるを得ず、「記事の充実」からは逆行するものであるとさえ思いますし、そのため明確な資料がない限り日本語能力については記述しないのがベストだというのが私の考えです。しかしながら提案した落としどころすら突っぱねられ、それならよりすっきりした表現であれば、それもダメならならせめて文末(後述)だけでも修正されれば、と私は譲歩(譲歩と言うよりは諦めに近いですが)した訳ですが、それすらも許容なさろうとはしません(ちなみに独自研究に関する前節での議論は、他の方々の意見を読めば分かるように寂華さんの解釈に誤りがあったのであり、譲歩とは言えない)。『まことに失礼ながら、あなたは下村努に個人的な思い入れがあって自分の投稿記事に著作者意識を持ってしまい、他人の記事について妨害しているのかなと思ったくらいです。ご存じのように、ウキペディアでは投稿者は著作権を手放しフリー利用させる仕組みですので、投稿記事に投稿者の著作権はなく、観点が少しくらい違っても記事が充実されることはむしろ喜ぶべきことでしょう。Octoberstepsさんはそのあたりの感覚がちょっと異なっているように思い、失礼ながら最後に書かせていただきました。』(以上二重鉤括弧内は、寂華さんの「利用者‐会話:Octobersteps」における2009年1月10日(土)10:34(UTC)の記述より引用。著作権云々の話は前述の通り誤りであるが、同一性保持のためそのまま記載。)をそのままお返し致します。
文末表現について。「(出典)によれば・・・だったという」のような表現であったり、その出典自体に「・・・らしい」と記述されている(新聞・雑誌なら筆者の伝聞、フィクションなら登場人物による考察等)というのであったりするならば話は別ですが、誰でもすぐに参照できる出典が明示され、その出典記事にて断定されているならば、わざわざ言葉を濁す必要はないと考えます。ただこのコメントにおいては、文末を変える変えない、あるいは表現そのものは瑣末なことであり、寂華さんの編集姿勢についての本質的な問題ではありませんので、これくらいで留めておきます。
冒頭で述べましたように議論を蒸し返すつもりはありませんので、こちらも返答は不要です。長々と失礼しました。--Tanas 2009年1月12日 (月) 09:13 (UTC)[返信]
Tanasさん、コメント有り難うございます。引用と分かるように「ようだ」にしたのですが、言い切る表現に変えてもよろしいです。 ところで、私とあなたで著作権等に関する認識が異なっており、私の認識が間違っているかも知れないことを認めます。そこで、Tanasさんの書かれたウィキペディア記事(長めの文章の記事が良い)を、どれかひとつご教示頂けないでしょうか。それをモデルとしてじっくりと書き方の勉強をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。--寂華 2009年1月12日 (月) 10:50 (UTC)[返信]
私もいくつか記事を書いてはいますが、著作権等に関してモデルとなさりたいならば、Wikipedia:秀逸な記事を参照してみては如何でしょう。私なんかが書いた記事よりよほど参考になるかと思います。とは言えこれだけではあまりなので、せっかくですから「著作権等に関する認識」に関して何点か。
「著作権に関する認識」ということなので、まず著作権について。私が著作権について触れたのはこの回答くらいだろうと思います。この回答において私は危うい印象を受けたと述べましたが、この認識の違いは利用者‐会話:Octoberstepsでの記述を読む限りではどうしようもないのかなという感じがします。安全側に立つ管理者とやり合うようなすれすれの記述をする必然性・必要性を私は感じませんし、グレーゾーンに対する認識(というか感覚というか)も同意し難いです。ただしこの辺りは感覚なり編集姿勢なりの問題でしょうから、おそらくお互い様といったところなのでしょう。一方投稿者の著作権については、Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意Wikipedia:著作権をお読み下さい。例えばWikipedia:ガイドブック 著作権に注意#GFDLとは?には「作者は、著作権は放棄しないけれど、著作物を他人が断りなく改変したり再利用したりすることは認める」、Wikipedia:著作権#寄稿者の権利と義務には「常にウィキペディアの執筆者は、自らの投稿した版のすべてに対して著作権を保持します」といったことが書かれており、この点は認識の違いではありません。他に著作権以外で私と寂華さんとで認識の違いがあったものは、そもそもの記述の是非と文末表現くらいでしょうか(独自研究に関しては私以外にも複数の方が指摘されていますし、方針文書をお読み下さいとしか言えません)。前者についてはとりあえず方針上の問題が解決されたので手を引きます。後者に関しては、私は断定すべきと思うのですが、この辺も認識の違いというよりは感覚の違いなのでしょうかね。修正するか否かは他の方に委ねたいと思います。--Tanas 2009年1月12日 (月) 13:57 (UTC)[返信]
ご丁寧なご返事有り難うございます。本当は優秀記事などよりも、Tanasさんのウィキペディア記事をモデルにしたかったのですが・・・。 執筆者は著作権を保持しないというのは、私の間違いでしたね。そもそもウィキペディア執筆者は最初から執筆に対して金銭的対価を放棄しており、さらに改変を許可する著作権ですから、執筆に対する名誉だけですね。しかも、1行かそこらのセンテンスの、しかも改変されてずたずたになったセンテンス(もはや単語状態)の著作権って、一体何なんだろうと思います。それではいろいろ有り難うございました。--寂華 2009年1月12日 (月) 14:28 (UTC)[返信]
Tanasさま、文末をご助言に従って言い切り型に変えました。引用句内はそのままです。  なお、確かに言われるようにWikipedia:著作権#寄稿者の権利と義務には「常にウィキペディアの執筆者は、自らの投稿した版のすべてに対して著作権を保持します」とありますが、これは執筆者(改変執筆者も含む全ての執筆者)は形式的な著作権と”義務”を有するが、GFDLに従いウィキペディア財団がその権利の方については運営管理する(財団が将来的に有償の辞典を作る可能性も含めて)と読むべきと私は理解しています。すなわち、執筆者には通常考えられる実質上の著作権は何ら無いという解釈です。ご返事は無用です。--寂華 2009年2月14日 (土) 02:28 (UTC)[返信]

「博士課程を修了したものの」について

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下村努」の2009年3月19日 20:32 UTC(差分)において99.236.162.171さんによって「博士課程を修了したものの」の文が除去されました。これは参考文献の『テイクダウン』上巻125頁の「こうしてぼくは(中略)博士課程修了の研究者という立場でロスアラモスに到着した」(引用)に基づき書いたのですが、私の読解力が低いせいと思いますが、書籍でも何の博士課程なのかわかりにくく、ご指摘の通り「意味が不明」でした。119-120頁には、ファインマンによる大学院生向けのセミナーの受講を申し込んで承諾され2年間受講した、とありますが、それが修了したということなのでしょうか。この辺りの事情をきちんと理解している方の加筆をお待ちしたいと思います。--Octobersteps 2009年3月19日 (木) 22:59 (UTC)[返信]