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ノート:亜細亜大学

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係争中の事件の私人の個人名が記載されている。0null0 2004年12月13日 (月) 04:42 (UTC)[返信]

合理的理由なき改変・削除された部分(一部掲載)議論の題材。

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「構成力悪すぎ。校歌は「概観」節に該当しないので「象徴」節に移転。」と改変された部分を含む

大学全体

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旧制興亜専門学校を前身とする大学。戦後、日本経済専門学校、日本経済短期大学を経て亜細亜大学となった。初代学長兼理事長には、終戦時の文部大臣だった太田耕造が就任した。その後、理事長に就任した東京急行電鉄の創業者五島慶太の経営協力の下で組織整備などがなされてきた。五島慶太逝去後は、後継者の五島昇が就任した。その後は、元伊藤忠商事会長瀬島龍三に引き継がれ、現在は東京急行電鉄清水仁が理事長に就任している。

建学の精神(校訓・理念・学是)

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建学の精神は「自助協力」

太田耕造初代学長の著書によると建学精神の「自助」とは、一人ひとりが自らの内面を深く見つめ、自分自身のしっかりとしたアイデンティティを確立し、自らの力でそれぞれの道を切り拓くこと。さらに「協力の花は自助の根から」とし、真の協力関係とは自立した人間同士の協力関係であると書かれている。

教育および研究

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学風および特色

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衞藤瀋吉が学長時代(1987-95年)に一芸入試など独自の入試スタイルや語学留学プログラム、スチューデントカンパニー・プログラムなど、日本の大学としては初めてとなる入試制度や教育プログラム、テレビコマーシャル (CM) を実施したことがある。国際関係学部では1年次後期にAUAP(後述)への参加が原則として必修となっており、他学部の学生も希望者は全員参加する事が可能である。また、大学では14か国語、短大部では5か国語の外国語授業を開講している。アジア地域を中心に、中東や欧米など世界各地域の言語を学ぶことができる。外国語専門の学部を持つ大学を除けば、この数と幅広さは屈指の充実ぶりである。

沿革

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略歴

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  • 1940年(昭和15年)
    • 10月 - 東京都北多摩郡武蔵野町境字上水南1243番地、他所在3960坪(現在地)の土地賃貸借契約成立(1967年買収)。
    • 11月4日 - 旧制興亜専門学校設立の為、現キャンパスにおいて地鎮祭を挙行。また、この日を創立記念日とす。
  • 1941年(昭和16年) - 財団法人興亜協会が創設され、同時に付属の旧制興亜専門学校設置認可および開校。
  • 1943年(昭和18年) - 興亜神社造営。興亜神社鎮座祭挙行。
  • 1945年(昭和20年) - 大東亜戦争の終結に伴い、旧制興亜専門学校より、旧制日本経済専門学校へと校名を改称。
  • 1950年(昭和25年) - 学制改革に伴い、旧制日本経済専門学校より、日本経済短期大学へ改組および設置認可並びに開学。
  • 1951年(昭和26年) - 財団法人から学校法人に改組および興亜協会から「猶興学園」と改称。
  • 1954年(昭和29年) - 学校法人「猶興学園」を「亜細亜学園」と改称。
  • 1955年(昭和30年)
    • 2月 - 日本経済短期大学経営科第1部および貿易科第1部、第2部を廃止。
    • 3月 - 亜細亜大学「商学部」設置認可され、「日本経済短期大学附属中国留学生部」を「亜細亜大学附属留学生部」と改称し、一連の形式的手続を以って、実質的に日本経済短期大学から亜細亜大学への移行が完了し、現在の学校法人「亜細亜学園」「亜細亜大学」の基礎ができる。
    • 4月 - 亜細亜大学入学式挙行。
  • 1956年(昭和31年) - 「亜細亜学園」経営に関し、太田耕造理事長兼学長が東京急行電鉄株式会社会長五島慶太と会談。
  • 1957年(昭和32年) - 日本経済短期大学経営科第1部を再度設置。
  • 1993年(平成5年) - 日本経済短期大学が亜細亜大学「短期大学部」に校名変更。

以下、包括的に削除された記述につき合理的理由を求める。

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【引用掲載趣旨】

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なんらの議論もなく、編集者の行為をいたずらに妨害する行為があったか否か、あるいは、包括的削除が妥当であったか否かに付き、不特定多数人をして、客観的に検証可能ならしめる為の引用である。
また、引用掲載が長きに渡るのは、当該削除部分が包括的であった為であるからして、論理必然的に、個別具体的引用箇所も長きに渡るに至った次第であること、即ち、いたずらに全部引用しているのではない旨ご了承願いたい。
さらに、亜細亜大学Wikipedia記述を合理的理由なく、包括的削除・改変したのであれば、編集者の権利を不当に侵害するものであるから、そのようなことが無かったことに付き、公衆に知らしめる為にも、削除・改変に至った該当Wikipedia基準の個別具体的文言も併せて引用適示の上、包括的削除・改変理由を個別具体的に明示せよ。さもなくば、Wikipedia管理人に断固抗議するに足る編集妨害であったと認められ、法的に対処して然るべき事案となろう。

【包括的削除部分引用はじまり】

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内容詳細なる年表なり

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  • 1940年(昭和15年)
    • 10月 - 東京都北多摩郡武蔵野町境字上水南1243番地、他所在3960坪(現在地)の土地賃貸借契約成立(1967年買収)。

  地主 高橋次平、高橋尚敏
  借主 菊池武夫、岩田愛之助
  代理人 藤原繁

  • 1941年(昭和16年)
    • 4月 - 興亜専門学校設置認可。財団法人興亜協会設立、旧制興亜専門学校開校。

  名称   財団法人興亜協会興亜専門学校
  設立者名 岩田愛之助、松尾忠二郎、太田耕造
  所在地  東京都北多摩郡武蔵野町境字上水南1243番地
  理事長  菊池武夫
  常務理事 岩田愛之助
  校長   菊池武夫
  学監   藤原繁

八紘塾(1964年取壊し)、食堂140坪(1957年取壊し)、武道館42.5坪(1964年取壊し)竣工。
第一部(満蒙支科)・第二部(南方科)・第三部(内地科)を設置。[要出典]

    • 5月 - 興亜専門学校開校入学式を挙行(受験者970名、入学者207名)。
    • 6月 - 大正塾88.5坪竣工(1959年取壊し)。
    • 9月 - 教室153坪竣工(1967年取壊し)。明光塾200坪移築竣工(1960年取壊し)。
    • 10月 - 隣接地武蔵野町西原1577の1番地 3199坪(現1号館敷地)につき地主高橋杉太郎氏と賃貸借契約成立(1954年買収)。
    • 11月 - 都下三鷹町大字新川に6町6反9畝11歩を本校農場として津村順天堂より借用。
    • 12月 - 第1回卒業式(卒業生11名)。
  • 1942年(昭和17年)
    • 3月 - 教室120坪竣工(1968年取壊し)。
    • 4月 - 昭々寮194.5坪、誠明寮194.5坪、他36坪(1965年全て取壊し)竣工。
    • 7月 - 浦和市外秋ケ瀬河川敷地約30町歩を本校農場として使用許可を受く。
    • 10月 - 隣接地武蔵野町1597の4番地1789坪(亜細亜会館、体育館敷地)を校地として地主高橋杉太郎氏と賃貸借契約成立(1987年買収)。
  • 1943年(昭和18年)
    • 1月 - 興亜神社造営。興亜神社鎮座祭挙行。
    • 8月 - 興亜会館285坪竣工(旧浅野侯邸本郷より移築-1963年取壊し)。
    • 9月 - 講堂兼体育館285坪竣工(1968年取壊し)。
    • 10月 - 専修科設置(第1回入学生30名)。学徒応召155名(在学生)大東亜戦争が過激となり徴兵猶予を廃止。
  • 1944年(昭和19年)
    • 5月 - 勤労動員のため三菱製鋼深川工場へ学生移住。
    • 12月 - 空襲烈しきため、中島飛行機製作所(武蔵野工場)の疎開工場として本学講堂、第1号館、八紘塾を貸与す。
  • 1945年(昭和20年)
    • 9月 - 第二次世界大戦の終結に伴い、終戦理事会。

  一、 校名を日本経済専門学校と改称。
  一、 理事長、校長菊池武夫辞任。後任太田耕造理事を選任。

    • 11月 - 校名変更認可。第1部(大陸科)第2部(南洋科)解消。第3部(経済科・商科)拡充。入学定員220名。
    • 12月 - 理事変更。

  辞任-菊池武夫岩田愛之助松尾忠二郎太田耕造井田磐楠田中正之輔匝嵯胤次栗田徳一
  新任-宮島綱男、青木晋、赤神良譲、伊藤一。

  • 1946年(昭和21年)
    • 1月 - 須藤斉治理事、校長事務取扱に就任。
  • 1947年(昭和22年)
    • 2月 - 須藤斉治校長事務取扱、日本経済専門学校長に就任。
    • 3月 - 相馬堅次、中原稔、平田四郎の3氏が理事に就任。
  • 1948年(昭和23年)
    • 1月 - 日本経済専門学校に夜間部の経済科及び商科設置認可。
  • 1950年(昭和25年)
    • 3月 - 学制改革により、同専門学校を日本経済短期大学へ改組及び設置認可。
    • 4月 - 学長笹森順造。理事長長鍬塚巌就任。

 設置学科-経営科(第1部、第2部)、貿易科(第1部、第2部)

  • 1951年(昭和26年)
    • 3月 - 学校法人に改組し、「猶興学園」と改称。
    • 7月 - 寄付行為による役員決定。

  理事長 鍬塚巌
  常務理事 三輪健児
  理事 笹森順造、中原稔、相馬堅次
  監事 松本国雄、菊池武英

  • 1952年(昭和27年)5月 - 公職追放解除に伴い、太田耕造、松尾忠二郎、藤原繁が理事に就任!その際、藤原繁が常務理事に就任。
  • 1953年(昭和28年)
    • 2月 - 武道館(猶興館)が改修完成し、道場開き挙行。これに伴い、国際柔道学校を開設。
    • 10月 - 留学生受け入れの為、八紘塾、明光塾、正大塾の改修着工。さらに、留学生用食堂60坪、浴場および便所25坪を新築着工(1959年取壊し)。
    • 12月 - 日本経済短期大学附属中国留学生部設置認可。中国留学生第1期生96名入国許可を法務省より下付される。
  • 1954年(昭和29年)
    • 1月 - 留学生用寄宿舎改修。食堂、浴場、便所竣工。華僑子弟96名が香港から来日入学。
    • 4月 - 賃貸借契約中の校地、境1577の1所在(3199坪)を買収。
    • 5月 - 学校法人「猶興学園」を「亜細亜学園」と名称変更す。鍬塚理事長、笹森学長辞任。太田耕造理事が理事長兼学長に就任。
    • 9月 - 国際善隣倶楽部より本学に対し2000万円寄附決定。本館(旧4号館中央部)鉄筋コンクリート造3階建503坪着工(三井建設株式会社)せるも中止。

  新役員
  理事長 太田耕造
  理事 有光次郎、伊藤義雄、井上孚麿、五郎丸保、佐藤道次、高木睦郎、田代重徳、中西近蔵、中山優、長沼弘毅、三輪健児、新関八州太郎、奥村綱雄
  監事 中原稔、江戸英雄

  • 1955年(昭和30年)
    • 2月 - 亜細亜大学設置の為、日本経済短期大学経営科第1部、貿易科第1部、第2部を廃止(貿易科及び貿易科を亜細亜大学へ改組)。留学生寮2棟271坪鉄筋ブロック造平屋建竣工(1967年体育館建設の為取壊し)。
    • 3月 - 亜細亜大学「商学部」設置認可。「日本経済短期大学附属中国留学生部」を「亜細亜大学附属留学生部」と改称。
    • 5月 - 亜細亜大学入学式(入学者127名)。
  • 1956年(昭和31年)
    • 6月 - 「亜細亜学園」経営に関し、太田耕造理事長兼学長が東京急行電鉄株式会社会長五島慶太と会談。
    • 7月 - 「亜細亜学園」と「五島育英会」の提携決定。
    • 8月 - 五島慶太が理事長に就任。

  役員改選
   理事 五島慶太、八木勇平、大川博、唐沢俊樹、五島昇、高橋禎二郎、八木秀次、吉次利次、伊勢憲三郎、太田耕造、有光次郎、江戸英雄、田代重徳、長沼弘毅、三輪健児、新関八州太郎
   監事 木下久雄、伊藤義雄

    • 9月 - 中止中の本館建設着工。
  • 1957年(昭和32年)
    • 2月 - 本館503坪鉄筋コンクリート造3階建竣工(旧4号館中央部)。
    • 4月 - 日本経済短期大学経営科第1部を再度設置、開設。
  • 1958年(昭和33年)
    • 1月 - 借地(高橋尚敏分)800坪買収。
    • 7月 - 香港新亜書院(中文大学)と本学との第1回交換留学生香港へ出陣。東側隣接地300坪買収し、校地編入す。
    • 10月 - 東側隣接地589坪買収し、校地編入す。
  • 1959年(昭和34年)
    • 4月 - 校舎204坪(1965年取壊し)、武道館147坪、食堂94坪(1967年取壊し、体育館建設)計445坪竣工。
    • 7月 - 北側隣接地1496坪買収し、校地編入す。
    • 8月 - 五島慶太理事長逝去。
    • 9月 - 理事五島昇が理事長に就任。
    • 11月 - 第1回アジア祭開催。第1回全国高等学校雄弁大会開催。
  • 1960年(昭和35年)
    • 6月 - 北側隣接地1556坪買収し、校地編入す。
    • 10月 - 本館鉄筋コンクリート造3階建延557.56坪(旧4号館西側部)竣工。
    • 11月 - 創立20年記念式典挙行。野球場竣工(1965年取壊し)。第1回体育祭開催。
  • 1962年(昭和37年)
    • 2月 - 第1次南西アジア学術踏査隊出発。
    • 3月 - 留学部を「亜細亜大学留学生別科」と改称。短期大学2部募集停止。
    • 11月 - 教室増築工事(4号館東側部650坪4階建)竣工。
  • 1963年(昭和38年)
    • 3月 - 短期大学2部廃止。
    • 10月 - アジア会館469坪竣工。
  • 1964年(昭和39年)【亜細亜大学経済学部経済学科および亜細亜大学教養部を開設】
    • 1月 - 「経済学部」設置認可。
    • 6月 - 硬式野球部、東都大学一部・二部入替え戦で一部昇格。
    • 11月 - 第1次ボルネオ調査隊出発。
  • 1965年(昭和40年)
    • 5月 - 都下西多摩郡日の出村に新校地を買収し、野球場を開設す。2号館(会談教室他)竣工。
  • 1966年(昭和41年)【亜細亜大学法学部法律学科を開設】
    • 1月 - 文部省をして、「法学部」設置認可せしめたり。
    • 3月 - 大教室558坪(3号館)竣工。日の出学生寮359坪竣工せり。
    • 4月 - 新本館2521坪(1号館)竣工せり。
    • 10月 - 硬式野球部、東都大学一部リーグ戦で初優勝せり。
    • 11月 - 第1回戦没校友慰霊大祭挙行せり。
  • 1967年(昭和42年)
    • 1月 - 日の出校地買収拡張23847坪。
    • 4月 - 賃貸借中の校地境1243番地、他所在の3960坪(地主 高橋過杉太郎)を買収。
    • 5月 - 日の出グラウンド整地、野球場整備。明治百年特別連続講座開講(第1回、林房雄氏)。
    • 7月 - 「アジア山荘」敷地として、長野県北安曇郡小谷村大字千国字親の原乙に647坪買収。
    • 8月 - 新食堂250坪竣工。
    • 11月 - 硬式野球部、東都大学一部リーグ戦で2度目の優勝。
  • 1968年(昭和43年)
    • 3月 - 体育館(1250坪)竣工。『建学精神を語る』初版発行。
    • 5月 - 日の出校地(現在、26651坪)拡張。
    • 8月 - 本校北側隣接地(1162坪)を買収す。
    • 11月 - 明治百年記念特別連続講座終講(第15回、太田耕造学長)。
  • 1969年(昭和44年)
    • 4月 - 図書館(668坪)竣工。
    • 5月 - 日の出校地(現在、28316坪)拡張。第1回FOC(新入生オリエンテーションキャンプ)実施。
    • 6月 - 第1回文連祭開催。広報紙『THE ASIA』1号発行。
    • 8月 - 第1回洋上大学実施(東南アジア各地)。
  • 1970年(昭和45年)【亜細亜大学商学部を改組し、経営学部経営学科を開設】
    • 1月 - 「経営学部」設置認可。
    • 4月 - 協助会制度発足。売店(51坪)竣工。
    • 5月 - セミナーハウス(547坪)竣工。陸上競技場(400Mトラック・フィールド造成)竣工。日の出校地(現在、30134坪)拡張。
    • 8月 - 第1回大韓民国研修団実施。
    • 11月 - 創立30周年記念式典挙行(第12回アジア祭において30周年記念写真展開催)。
    • その他、日本経済短期大学経営科第2部を廃止。
  • 1972年(昭和47年)【亜細亜大学附属アジア研究所開設】
    • 5月 - 全国27会場で父兄会実施(5月~11月)。
  • 1974年(昭和49年)【亜細亜大学経営・経済・法の各学部に大学院修士課程を開設】
    • 2月 - 第1回中華民国研修団実施。
    • 4月 - 経営学部、経済学部、法学部に「大学院修士課程」を開設。
    • 5月 - アジア基金設置(学生の海外活動助成目的)。
  • 1975年(昭和50年)
    • 5月 - 創立35年記念事業開始。
  • 1976年(昭和51年)【亜細亜大学経営・経済・法の各学部に大学院博士課程を開設、経済学部に国際関係学科を併設】
    • 2月 - 第1回アメリカ語学研修団実施(フリーモント市)。
    • 4月 - 経済学部に「国際関係学科」開設(第1期生94名入学)。亜細亜大学経営・経済・法の各学部に「大学院博士課程」を開設。学生健康保険制度発足。
    • 9月 - 綜合研修館(10階建1647坪)竣工。
    • 10月 - 創立35周年特別記念講演会開講(第1回、太田耕造学長)。
    • 11月 - 第2回戦没校友慰霊大祭挙行。
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月 - 映画『亜細亜大学』第2作完成(カラー・上映時間31分)。中華民国淡江大学と「学術文化交流協定」を締結。
    • 9月 - 4号館改修工事完成。
  • 1978年(昭和53年)
    • 2月 - 図書館別館(5階建257坪)竣工。中華民国淡江大学第1回派遣留学生決定。
    • 6月 - 創立35周年特別記念講演会終講(第4回高田良胤師)
    • 10月 - 吹奏楽団全国コンクール金賞受賞。
    • 11月 - 藤原繁理事逝去(大学葬)。
  • 1979年(昭和54年)
    • 1月 - ボウリング部全国大学選手権優勝。
    • 10月 - アメリカ西ワシントン大学と「学術文化交流協定」を締結。『藤原繁先生追悼集』を刊行。
    • 11月 - 亜細亜学園シンボルマーク決定。
  • 1980年(昭和55年)
    • 1月 - 米国西ワシントン大学との第1回交換教授決定。米国西ワシントン大学第1回派遣留学生決定。
    • 4月 - 創立40周年記念『亜細亜学園の歩み』を刊行。『「私のプロフィル」(先生の自己紹介)』第1回刊行。
    • 6月 - 第2アジア会館(3階建731.7坪)竣工。
    • 10月 - 硬式野球部、東都大学リーグ戦で4度目の優勝(完全優勝)。
    • 11月 - チベットダライ・ラマ14世来学、講演。栗屋義純理事逝去。武部啓理事が学長事務取扱に就任。
    • 12月 - アジア山荘(地下1階、地上2階建291.5坪)竣工。
  • 1981年(昭和56年)
    • 6月 - 硬式野球部、東都大学リーグ戦で5度目の優勝。アジア研究所主催第1回公開講座開講。創立40周年記念『太田耕造先生講説集「自助協力-亜細亜学園生に与う-」』を刊行。
    • 10月 - 創立40周年記念映画『亜細亜大学』第3作完成(カラー・上映時間32分)。
    • 11月 - 創立40周年記念式典挙行。吹奏楽団全国コンクール金賞受賞。創立40周年記念特別講演会終講(シンポジウム)。太田耕造学長逝去。
    • 12月 - 太田耕造学長の学園葬。
  • 1982年(昭和57年)
    • 1月 - 大韓民国訪日研修団(65人)来学。
    • 2月 - 故 太田耕造学長の遺言により、宅地、図書などが亜細亜大学へ寄贈。
    • 4月 - 学長に早川祟が就任。男子寮を五寮から三寮(清風、明知、直心)に統合。
    • 6月 - 第1回「国際大学交流セミナー」(台湾淡江大学)実施。
    • 11月 - 太田耕造初代学長胸像除幕式。『太田耕造全集第1巻』刊行。
    • 12月 - 早川祟学長逝去。武部啓理事が学長代行に就任。早川祟学長の学園葬。
  • 1983年(昭和58年)
    • 2月 - 武部啓学長代行が学長に就任。
    • 3月 - 『亜細亜学園四十年史』刊行。
    • 5月 - 五島昇理事長が会長に就任。瀬島龍三理事が、理事長に就任。
    • 11月 - 故 藤原繁理事顕彰碑建立。『太田耕造全集第2巻』刊行。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月 - 西ワシントン大学との「学術文化交流協定」再締結。
    • 4月 - 日の出校地、171平方メートル買収。
    • 5月 - 瀬島龍三理事長、勲一等叙勲。第14世ダライ・ラマ猊下来学、講演(2回目)。硬式野球部、東都大学一部リーグ戦で6度目の優勝。
    • 6月 - 「太田奨学基金」設定。第2回「国際大学交流セミナー」(香港中文学新亜書院)実施。
    • 8月 - 日の出校地868平方メートル買収。
    • 11月 - 『太田耕造全集第3巻』刊行。
  • 1985年(昭和60年)
    • 1月 - 熊本修治(経済学部3年)第3回「正力松太郎杯」国際学生柔道大会60キロ以下級で優勝。
    • 2月 - 大学院経営学研究科、明治大学大学院との「単位相互協定」締結。
    • 4月 - 日の出校地1127平方メートル買収。
    • 6月 - 日の出校地3553平方メートル買収。
    • 10月 - 新3号館竣工。北京師範大学との「学術文化交流協定」締結。
    • 11月 - 日本経済短期大学、第1回指定校推薦入試を実施。『太田耕造全集第4巻(補遺)』刊行。日本経済短期大学、2専攻(経営管理・経営情報処理)設置受理。
  • 1986年(昭和61年)【日本経済短期大学経営科に2専攻(経営管理・経営情報処理)を開設】
    • 1月 - 熊本修治(経済学部4年)第4回「正力松太郎杯」国際学生柔道大会60キロ以下級で優勝(2連覇)。
    • 2月 - インドネシアナショナル大学と「学術交流協定」締結。
    • 3月 - 大学紹介ビデオ『君を待つキャンパス』(15分・受験生向け)、『21世紀の人づくりを目ざして』(30分・一般向け)完成。
    • 11月 - 学園史展示室開設。第3回戦没校友慰霊大祭挙行。戦没校友銘碑建立。
  • 1987年(昭和62年)
    • 2月 - 衛藤瀋吉理事、学長に就任。
    • 3月 - 創立50周年記念事業委員会発足。
    • 4月 - 「聴講生制度」制定。
    • 5月 - 広報紙『THE ASIA』紙名を『アジア』に変更。
    • 8月 - 吹奏楽団「中日(ママ)友好演奏団」中国北京で日本の大学生として初のチャリティ・コンサートを開催。
    • 9月 - 2セメスター制の導入を決定。
    • 10月 - 亜細亜大学「西ワシントン大学派遣留学」実施決定とそれに伴う記者発表会を開催。
    • 11月 - 日本経済短期大学「パシフィック・ルセラン大学派遣留学生」実施決定。「衛藤賞」制定。
  • 1988年(昭和63年)
    • 2月 - 日本経済短期大学「パシフィック・ルセラン大学派遣留学生」46名出発。
    • 3月 - 亜細亜大学「西ワシントン大学派遣留学」59名出発。国際女子寮「萌和」竣工。「清風寮」改築竣工。キャンパス改造を検討する「マスタープラン推進委員会」発足。
    • 4月 - 企画広報部に「校友課」設置。FOCを廃止し、これに代わって鬼怒川温泉で全学新入生を対象に「出会いの広場」を開催。
    • 5月 - 朝日テレビ系列において、大学のCF放送開始。
  • 1989年(平成元年)【亜細亜大学アメリカプログラム(AUAP)開始】
    • 3月 - 五島昇会長逝去。亜細亜大学アメリカプログラム(米国派遣留学・AUAP)を開始し(前年には実験的にこれを実施した)559名出発(8月帰国)。
    • 11月 - 太田耕造先生生誕100年記念式典挙行。
    • 12月 - 山崎史子、全日本学生室内テニス選手権優勝。
  • 1990年(平成2年)【亜細亜大学国際関係学部国際関係学科を開設】
    • 5月 - 硬式野球部、東都大学春季リーグ戦で7度目の優勝!(小池秀郎投手、111個の奪三振大学新記録を樹立。)
    • 6月 - 硬式野球部、全日本大学選手権大会で2度目の優勝!。
    • 7月 - 森稔詞、全日本学生テニス大会シングルス優勝!。岡田岳二、坂口雄二、同ダブルス優勝!。創立50周年記念事業資金募集開始!!
    • 10月 - 硬式野球部、東都大学リーグ戦で8度目の優勝!。
    • 11月 - 経営学部開設20周年記念式典挙行。
    • 12月 - 山崎史子、全日本学生室内テニス選手権優勝!(2連覇!!)。
  • 1991年(平成3年)
    • 4月 - 日の出校地に、トレーニングセンター竣工。
    • 5月 - 衛藤瀋吉学長紫綬褒章受賞。
    • 6月 - タイ国セィナカリンウィロット大学と「交流協定」締結。
    • 7月 - 日本経済短期大学開設40周年記念式典挙行。森稔詞、全日本学生テニス大会シングルス優勝(2連覇)。森稔詞、岡田岳二、同ダブルス優勝。山崎史子、赤堀奈緒、同女子ダブルス優勝。
    • 8月 - 吹奏楽団第5回海外親善演奏会、バンコクで日タイ親善演奏会開催。
    • 10月 - 司馬遼太郎氏、50周年記念講演。50周年記念論文集刊行。50周年記念ビデオ&ブック完成。
    • 11月 - 50周年記念国際シンポジウム開催。50周年記念「第1回ホームカミング・デイ」開催。50周年記念式典・祝賀会開催。
    • 12月 - 伊東新、全日本学生室内テニス選手権男子シングルス優勝。赤堀奈緒、同女子シングルス優勝。山崎史子、赤堀奈緒、同女子ダブルス優勝。
  • 1992年(平成4年)
    • 1月 - 7号館(新教室棟)竣工。
    • 2月 - 4号館取壊し(2月~6月)。
    • 11月 - 『亜細亜学園50年史』『亜細亜学園50年』刊行。
  • 1993年(平成5年)【日本経済短期大学を亜細亜大学短期大学部と改称】
    • 4月 - 日本経済短期大学が亜細亜大学短期大学部に校名変更。新武道館竣工。
    • 6月 - エチオピア留学生ビズネ、全日本陸上選手権3千メートル障害優勝。
    • 11月 - アジア女子ローンテニス部、全日本大学対抗テニス王座決定試合優勝。三浦華子、全日本体操選手権女子個人総合優勝。
  • 1994年(平成6年)
    • 3月 - 太田耕造記念館竣工。
    • 4月 - 青々会館披露式典。ビズネ・ヤエ・ツーラ、織田幹雄記念国際陸上競技大会3千メートル障害物優勝。
    • 6月 - 亜細亜学園後援会発足。湯山哲也、山口誉、第18回日本リバーベンチャー選手権大会二人乗りの部優勝。
    • 8月 - 伊東新、全日本学生テニス選手権シングルス優勝。
    • 9月 - 佐藤博康、駒田政史、全日本テニス選手権ダブルス優勝。
  • 1995年(平成7年)【亜細亜大学経済学部国際関係学科を廃止】
    • 1 - 鈴木幸保、第68回全日本学生スキー選手権大会ジャンプ(ノーマルヒル)および複合優勝。
    • 2 - 服部正中理事、学長に就任。
    • 6 - 硬式野球部一部復帰。
    • 8 - テニス部、全日本学生テニス選手権大会で男子シングルスおよびダブルス優勝。
    • 10 - セパ・タクロー愛好会、第3回全日本学生セパ・タクロー選手権大会優勝(3連覇)。吹奏楽団、第43回全日本吹奏楽コンクール全国大会で、3年ぶり5度目の金賞受賞。
  • 1996年(平成8年)
    • 1月 - 陸上競技部、第72回箱根駅伝で7位に入り、20年ぶりに次年度出場権を獲得。
    • 5月 - 業務改革の一環で事務組織が大幅に再編。学生センター学生生活課が同窓会の担当に変更(校友課廃止)。
    • 7月 - アトランタ五輪に学生、卒業生合わせて3人が出場(女子体操=三浦華子・国際関係学部4年、野球=森昌彦・昭和62年度卒、女子サッカー=小澤純子・平成7年度卒)。
    • 8月 - 学生33人が参加し中国短期留学(AUCP)のパイロット・プログラムを実施(北京師範大学など1ヶ月間)。
    • 10月 - 大学のホットニュースなどを内容とする初のホームページを開設(アドレスhttp://www.asia-u.ac.jp)。吹奏楽団、第44回全日本吹奏楽コンクールで2年連続6度目の金賞受賞。硬式野球部、12シーズンぶり9度目のリーグ優勝。
    • 11月 - 第4回戦没校友慰霊大祭挙行。
  • 1997年(平成9年)
    • 1月 - 大韓民国のソウルにある大学校と教員交換、学生交換を中心とした「交流協定」を締結。
    • 4月 - 平成10年度入試に亜細亜大学および亜細亜短期大学部ともに「地域別入試」(全国12会場)を導入。
    • 5月 - 硬式野球部、東都大学リーグ戦で勝点5の完全で10度目の優勝(秋春連覇)。
    • 7月 - 理事会が服部正中学長の再任を決定(任期:10月1日~平成12年9月30日まで)。
    • 10月 - 初めての副学長として鈴木豊亜細亜短期大学部教授が理事会で選任(任期:平成10年9月30日まで)。アジア女子ローンテニス部、全日本大学対抗テニス王座決定試合で4年ぶり2度目の優勝(硬式庭球部は準優勝)。
  • 1998年(平成10年)
    • 2月 - 一般入試に初めて地域別入試(C方式、全国12会場)を実施。
    • 3月 - アジア大学通りに「アジアハウス瑞穂」(旧瑞穂寮)が竣工(51人収容)。
    • 4月 - 亜細亜大学が財団法人大学基準協会の判定審査の結果、同協会の維持会員として、加盟・登録。
    • 5月 - 硬式野球部、11回目のリーグ優勝。2年連続の全日本大学野球選手権出場(同大会ではベスト8)。
    • 8月 - アジア女子ローンテニス部、全日本学生テニス選手権大会シングルス、ダブルスで優勝。
    • 10月 - 硬式野球部、2季連続12回目のリーグ優勝。吹奏楽団、全日本吹奏楽コンクールで2年ぶり7度目の金賞受賞。アジア女子ローンテニス部、全日本大学対抗テニス王座決定試合優勝(2年連続)。
    • 11月 - 硬式野球部、明治神宮大会で初優勝。セパ・タクロー同好会、第6回全日本ゼパ・タクロー学生選手権大会(男子)優勝。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月 - アジア女子ローンテニス部、リーグ戦7連覇達成。
    • 5月 - 野口健(国際関係学部4年)、世界7大陸最高峰登頂世界最年少記録達成。
    • 6月 - 『広報アジア』が昭和44年6月創刊以来、30周年。
    • 9月 - 初めての海外父母会が台湾で開催。
    • 10月 - 副学長に池島政広教授(経営学部)を選任。国際関係学部が開設10周年を迎え、大学主催の公開講座の一環として小和田恒前国連大使、作家椎名誠氏が講演。台湾大震災救援ボランティア隊派遣(学生、教職員135人が救援活動を展開)。
    • 12月 - セパ・タクロー同好会、全日本学生選手権アベック優勝。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年 教養部を廃止
  • 2004年 短期大学部経営科の経営管理専攻と経営情報処理専攻を廃止
  • 2004年 経営学部経営学科にホスピタリティ専攻を開設、亜細亜大学にアジア夢カレッジを開設
  • 2006年 大学院経営学研究科(前期博士課程)を改編し、アジア・国際経営戦略研究科(修士課程)を開設
  • 2007年 亜細亜大学アメリカプログラム(略称:AUAP)参加学生数が1万人を突破
  • 2008年 アジア・国際経営戦略研究科を博士課程前期・後期に改編
  • 2009年 経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科を開設
  • 2011年 建学七十周年を迎えた。
  • 2012年 国際関係学部多文化コミュニケーション学科を開設予定

【以上、包括的削除部分引用おわり】

トップの南門の画像が古すぎる

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今現在の南門はあんなカラフルな色の門ではありませんよ。

早く今現在のものに取り換えるべきです。