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ノート:仏教

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苦しみをドゥッカとすることについて

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仏教における苦(dukkha, duḥkha)を苦しみとは違うという説に立ってページ全体にわたって「ドゥッカ」と併記する編集がYuasan氏によって繰り返されていますが、中立性を欠いていると思われます。--Ryo 625会話2020年5月30日 (土) 06:30 (UTC)[返信]

英語版などで採用された出典に基づくのであれば、 satisfying , painful でありますから、これらは日本語では「苦しみ」と訳すことはできないため、中立性を失います。「不満足、痛み、苦しみ」などと数種類を列挙するのであれば、ご指摘のように中立性が取れると思います。しかし、1語しか使っていけないというのであれば、これを一言で表す日本語がないので「苦」としか表記しようがないです。--Yuasan会話2020年5月30日 (土) 06:51 (UTC)[返信]
painfulは水野辞書では苦痛と訳されていますね。不満足(unsatisfying)とする説はPTS巴英辞書にもConcise Pali-English Dictionaryにもありません。あくまでそう解釈する説もあるという程度だと思われます。--Ryo 625会話2020年5月30日 (土) 07:06 (UTC)[返信]
Concise Pali-Englishであれば、suffering; pain; misery; agony; discomfort.ですから、「悩み・痛み・不満足・苦悶・不快」などを一言で「苦しみ」と訳すと、意味が変わってしまいます。これを一言で表す日本語がないのではないでしょうか。ダルマ (インド発祥の宗教)では、「西洋の言語ではダルマを一語で訳することはできない」とも述べています。--Yuasan会話2020年5月30日 (土) 10:55 (UTC)[返信]
さりげなく「不満足」を挙げておられますが、Concise Pali-English Dictionaryには「不満足」を表す訳語はありません。この点の確認はよろしいでしょうか?--Ryo 625会話2020年5月30日 (土) 23:09 (UTC)[返信]
失礼しました、それら初期の翻訳者ではないですね。苦 (仏教)の詳しい部分の通り、Unsatisfactoriness はダライラマやBhikkhu Bodhiなどの時代の翻訳になります。記載の通り、これを一言で表す日本語がないのではないでしょうか。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 02:34 (UTC)[返信]
「悩み・痛み・不満足・苦悶・不快」などを一言で表すと苦しみになるのではありませんか。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 03:58 (UTC)[返信]
ならないので、この記事に脚注をつけてそう述べているのを、あなたが差し戻したのです。苦 (仏教)でも説明しています。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 04:24 (UTC)[返信]

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ならないというのはあなたの判断でしょう。日本語には伝統的に苦という定訳があります。歴史的な経緯からdukkhaに定訳のない英語の事情を持ち込んで日本語のWikipediaを編集するのはおかしいのではないですか。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 04:59 (UTC)[返信]

一言での表記を「苦(ドゥッカ)」とすることに異論はありません。しかし「苦しみ」では意味が変わってしまうということを脚注で述べています。「苦」と「苦しみ」が同じというのは、あなたの判断でしょう。苦(ドゥッカ; 悩み・痛み・不満足・苦悶・不快・フラストレーション)という表記ではどうでしょうか。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 05:05 (UTC)[返信]
いずれにせよ、英訳の事情を持ち込んで日本語版を編集する姿勢には賛同できません。painに肉体的側面と精神的側面があることを考慮せずに「痛み」と訳す貴方の英語能力(日本語感覚も?)でそれが可能だとも思いません。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 05:18 (UTC)[返信]
仏教はキリスト教と同じグローバル宗教なのですから、それを無視することが、まさに「中立性を欠いている」ことでしょう。あなたは中立性を張られましたが、一方で挙げた脚注の出典については無視するといった方向では、中立性を欠いているのはあなただと思われます。Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点なども参照してください。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 05:23 (UTC)[返信]
グローバル宗教だからというなら、中国語も韓国語もチベット語もモンゴル語もアフリカーンス語もイラン語も参照しないと世界的な観点から書かれていることにはなりません。ご自身で勝手に英語版Wikipediaをつまみ食いして編集するのではなく、国内の著名な学者の文献を参考にしてください。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 05:32 (UTC)[返信]
国内に限定せず、世界で著名な文献を参照にすべきでしょう。ダライラマの執筆物はWikipedia:信頼できる情報源にあたらないという話でしょうか。そのようなリサーチでは、記事の中立性は達成できないでしょう。「中立性を欠いているのはあなた」というのは、そういう話をしています。
そもそも私は、あなたが「中立性を欠いている」といったポイントで議論提議した理由がよく分かりませんでした。どのような部分がWikipedia:中立的な観点であったのでしょうか。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 05:43 (UTC)[返信]
意見を事実として記さない(WP:YESPOV)に反しているからです。(例:「苦(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なる。 "incapable of satisfying" and painful [2][3]などが該当する。)--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 06:10 (UTC)[返信]
では当初の提案のように、一言での表記は「苦(ドゥッカ)」にし、いくらかの訳語を数種類リストするのであれば、ご指摘のように中立性が取れると思います。「苦」と「苦しみ」が同じというのも苦 (仏教)に挙げた出典に従えば、WP:YESPOVに反します。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 06:21 (UTC)[返信]
反対 いいえ、それは数種類の英訳を恣意的に選択し機械的に日本語訳したものの列挙に過ぎないので反対します。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 06:42 (UTC)[返信]
そうなると中立性を達成するには、単に「苦(ドゥッカ)」のみとして苦 (仏教)に誘導することになりますね。---Yuasan会話2020年5月31日 (日) 06:45 (UTC)[返信]
いいえ、単に「苦」として苦 (仏教)に誘導するだけでいいと思います。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 07:07 (UTC)[返信]
文章で最初に登場する場合には、パーリ語やサンスクリット語に由来することを明記するために「苦(ドゥッカ)」でいいと思います。二回目からは単に苦でよいでしょう。「法(ダルマ)」についても、現在そのような記載となっています。--Yuasan会話2020年5月31日 (日) 12:03 (UTC)[返信]
法は仏教特有の用法なので一見しただけでは意味が把握しにくく、そのような配慮が必要ですが苦は普通の漢字で意味が通るのでその必要はないと思います。また注釈がついているので尚更その必要を感じません。仏教用語にいちいち「教え(サーサナ)」、「実践(パティパッティ)」とやっていくのでしょうか?基準が明確ではありませんね。--Ryo 625会話2020年5月31日 (日) 13:49 (UTC)[返信]
スマナサーラ著「苦の見方」では、苦(dukkha)としています。「教え」「実践」なども、そう表記するよう主張する人がいるのですか?ならば、その人に出典を聞いてみてください。--Yuasan会話2020年6月1日 (月) 03:45 (UTC)[返信]
スマナサーラ長老の著作で(dukkha)と書いているから、Wikipediaもそうでなければならないというのは理由になっていません。--Ryo 625会話2020年6月1日 (月) 06:36 (UTC)[返信]
「苦(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なるという見解への中立性という点で、そう表記する提案をしています。これは併記しなければ「苦しみ」と考えるでしょう。「教え」「実践」などは、それも「文字通りの意味ではない」という出典付き見解があれば、考慮が必要かと。--Yuasan会話2020年6月1日 (月) 11:32 (UTC)[返信]
文脈としては問題ありません。長老も「苦しみ」と訳している所があるでしょう。あなたは例えば仏教においては「生老病死は苦しみではない」と言いたいのでしょうか?仏教で説いているのは「生老病死は不満足だ」と矮小化したいのでしょうか。これが中立的な観点だとは到底思えません。--Ryo 625会話2020年6月1日 (月) 14:45 (UTC)[返信]
矮小化でも否定でもなく、一言で表す日本語がないので「苦」と表記する、と繰り返し申しています。どこかで「生老病死は不満足だ」と述べていた文献があったのしょうか?「生老病死はdukkha」です。--Yuasan会話2020年6月2日 (火) 10:49 (UTC)[返信]
dukkhaは苦しみを意味し、文脈によって苦しみと訳すのは適切なことです。--Ryo 625会話2020年6月2日 (火) 17:03 (UTC)[返信]

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それはあなたの判断でしょう。これまでに「訳すことはできない」という出典を挙げて、あなたのその編集は中立性を欠くと、繰り返し指摘しています。仏教の導入部は、そのような文脈ではないでしょう? ほかの個別記事において(たとえば浄土真宗xxx派など)、そうした出典を添えてであれば、その指摘は成り立ちますが。仏教やキリスト教は日本発祥でもなければ、研究において日本が中心であった歴史もないです。--Yuasan会話2020年6月3日 (水) 11:28 (UTC)[返信]
そのような出典はなかったと記憶しています。もう一度書きますが、あなたの主張は意見を事実として記さない(WP:YESPOV)に反しています。(例:「苦(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なる。 "incapable of satisfying" and painful [2][3]などが該当する。)あなたは英語Wikipediaの情報に基づいて自分の意見を事実として記述しようとしています。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 10:18 (UTC)[返信]
中立性を達成するために提案しているのは、「苦(dukkha)」と表記することです。ダライラマの執筆物は、Wikipedia:信頼できる情報源にあたらないという話でしょうか。現状のあなたの「dukkhaは苦しみを意味し」という主張は、意見を事実として記さない(WP:YESPOV)に反しています。話がループしていますよ。出典は現状の記事でスマナサーラ著『無我の見方』とつけています。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 11:51 (UTC)[返信]
WP:YESPOV 深刻な論争がある主張を事実として記さない「もしその主張について異なる信頼できる出典間で衝突があるのなら、その主張については事実ではなく意見として扱い、文中では直接その主張を記述することは避けてください。」 に従う表記としました。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 13:12 (UTC)[返信]
なぜ苦(dukkha)が中立性を担保するのか分かりません。ダライ・ラマの著作は訳者によってsufferingもあるのではないですか?これは文脈によって苦しみとしてよい例となると思いますがそれは無視するのでしょうか。「dukkhaは苦しみを意味し」というのは一般に販売されている辞書を読めば水野であれ雲井であれ「苦」とあることから明白です。「苦しみ」と「苦」は違うとどうしてもおっしゃるのであれば「苦の輪廻」でも私は構いません。ともかく、ドゥッカ、ドゥッカといちいち表記するのはおかしい。スマナサーラ長老の意見は一般的とは思えません。これも”対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す 特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください。例えば「地球の形状について、フェルディナンド・マゼランの調査では球体だとされ、ジョン・ハンプテンはわん曲した平面体だとしている」といった記述は、ある領域についての大多数の観点と極少数の観点を同等に伝えてしまっています。 ”よりもさらにひどく、特定の(偏った)意見によって全体を代弁しています。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 13:14 (UTC)[返信]
コメント 「深刻な論争」はWikipedia上で私とあなたの間でしか存在しません。dukkhaの意味について深刻な論争は存在しません。あるのならそのような論文を提示してください(例えば村上真完『「信を発こせ」再考--Pamuncantu saddham』のような)。dukkhaの意味についての私とあなたのノート上での論争は進化論ID説のような本当の深刻な論争とは違うのです。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 13:19 (UTC)[返信]
いいえ、ダライラマの著書は翻訳を委託しておらず、英語による自筆です(ISBN 978-0722535509)。なぜ「日本で」一般に販売されている辞書を読むのでしょうか。私たちは、日本の仏教の記事について話し合っている訳ではありません。仏教やキリスト教は、研究において日本が中心であった歴史はないです。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
ではダライ・ラマの著作について網羅的な訳語を提示してください。それはダライ・ラマの著作を信頼性のある情報源とするあなたの義務です。さて、では私たちは英語圏の仏教について話し合っているのでしょうか?日本語で書かれた近代仏教学(各宗派の宗学ではない)の成果で仏教を語ることがなぜ日本の仏教という狭い範囲に収まるのでしょうか。また、なぜフランス語やドイツ語やヒンドゥー語やタイ語、ビルマ語の訳例は考慮されないのでしょうか。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 13:29 (UTC)[返信]
ちなみにフランス語版fr:Dukkhaでは、簡単に言えば「 Toute vie est souffrance 」、より正確に言えば「Toute vie est insatisfaisante」、しかし元の教えを完全に翻訳することは不可能などと言っております。そのため、正しい翻訳が難しい場合は dukkha のままにしておく、とも述べています。固執しているのはあなたではないですか?--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 13:34 (UTC)[返信]
スペイン語(es:Duḥkha)ですと、20語ぐらいの訳語を上げて、「翻訳するのが難しい、原語には非常に広く開かれた意味があり、さまざまな意味を含むため、ヨーロッパ言語には正確に対応する用語がない」と書いていますね。法(ダルマ)と同じで、1語だけを抜き出して訳とするのは、中立性を欠くのではないですか。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 13:41 (UTC)[返信]
やはりあなたの主たる情報源はウィキペディアのようですね。”自己参照となるため、ウィキペディアプロジェクトの記事自身やウィキペディアのミラー記事サイトを記事のソースとして用いてはなりません。(WP:CIRCULAR)=「Wikipedia自身をソースとしてはならない」という当っったり前の原則すら理解されていないようで残念です。ドイツ語やヒンドゥー語やタイ語、ビルマ語の訳例は考慮されるのですか?--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 13:47 (UTC)[返信]
「網羅的な訳語」するような義務はないですし、そういうのは独自研究ですよ。編集者の義務は信頼できる文献を使う事であって、ダライラマが間違えているかどうかではないです(それらはジャーナリストの仕事です)。「日本語で書かれた近代仏教学」は、あなたがそれに興味があるだけであって、世界の学会において中心的ではないでしょう。まるで近代仏教学において日本が研究の中心であるかのような出典の使い方は、「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」ことに違反します。近代キリスト教でも同じです。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
根本的なことをお尋ねします。ある分野について専門的な情報を得たいと思ったなら普通は母国語のものを用います。あなたは英語文献に直接あたっているのですか?Wikipediaの受け売りなのですか?「Wikipedia自身をソースとしてはならない」という点について返答をください。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 14:19 (UTC)[返信]
たとえば医療ならばWHO, CDC, NICEといった出典を中心に読んでいます。日本が医学の中心であった時代はありませんので。間違った医学書の翻訳で殺されるかもしれませんし。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 14:23 (UTC)[返信]
医療については聞いていません。仏教についてです。あなたは仏教に関してよく英語版Wikipediaから出典付き記述を翻訳してきますが、出典の中身に目を通した上で翻訳しているのですか?--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 14:28 (UTC)[返信]
多くは目を通していませんよ。検証可能性を満たしている以上、検証したい人がすればいいのです。あなたが張った出典の本も、他の編集者の多くは目を通していないでしょう。「日本語版の編集者が出してくる出典は信用できて、英語版の編集者が出してくる出典は信用できない」ということはありませんから、どちらもイコールとして扱っています。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 14:33 (UTC)[返信]
ありがとうございます。Wikipediaの受け売りだということですね。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 14:36 (UTC)[返信]
コメント Yuasan氏はそもそも、”自己参照となるため、ウィキペディアプロジェクトの記事自身やウィキペディアのミラー記事サイトを記事のソースとして用いてはなりません。(WP:CIRCULAR)=「Wikipedia自身をソースとしてはならない」という方針に反した上でご自身の主張をなさっていることが分かりました。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 14:39 (UTC)[返信]
はい、Wikipedia:検証可能性の通り、ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。他の記事でも検証可能性を満たすならば、それは記載可能です。「真実であるかどうか」みたいな話はWikipedia:独自研究は載せないに反するので、それをするつもりはありません。--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 14:42 (UTC)[返信]
ではWikipedia自体はソースにならないのであなたの主張には正当性がないことになります。--Ryo 625会話2020年6月4日 (木) 14:47 (UTC)[返信]
英語版の転記については出典があり、検証可能性を満たします。どうも誤解があるようですが、それは「参照文献」にウィキペディアの記事URLを使ってはいけないということであって、Wikipedia:ウィキペディア内でのコピーとして使うことは可能です。これについては実績ある話なので、Wikipedia‐ノート:検証可能性あたりでトピックを立てて質問してください--Yuasan会話2020年6月4日 (木) 14:56 (UTC)[返信]
なお、あなたのその理論に従うならば、これまであなたのなさった投稿も、他のユーザーはあなたのつけた出典の本を読まない限り、Wikipedia:ウィキペディア内でのコピーとしてすら使うことができないという事になります。---Yuasan会話2020年6月4日 (木) 15:04 (UTC)[返信]
まああなたが出典を参照せずに英語版をコピーしてくるのは個人の倫理観の問題なので期待していません。あなたの主張の根拠が英語版Wikipedia(ソースがウィキペディア)だというのが問題です。さらに英訳(最近はフランス語とスペイン語が加わりましたが)を問題として世界的な観点からの中立性を主張している点です。チベット語、モンゴル語、ヒンドゥー語、タイ語、ビルマ語などでは仏教研究が行われていないのでしょうか。--Ryo 625会話2020年6月5日 (金) 12:59 (UTC)[返信]
それらの言語についての記載は、それに興味のある方がなさってください。「国内の著名な学者の文献を参考にしてください」という主張は、あなたから始めた話です。日本語が仏教研究の中心であったという事は、過去にも現在にもないです。なぜわざわざ「国内の」とか、「英語版」のといった、地域的な条件がつくのですか。そういった主張をするのはあなたぐらいで、キリスト教でも医療記事でも、そういう人は見かけませんでした。--Yuasan会話2020年6月5日 (金) 14:45 (UTC)[返信]
英語の出典をノーチェックでコピーする方に言っても無駄ですね。医療系だと「殺される」から殺されない仏教系の記事ではいい加減な翻訳をして遊んでいるのですか?-繰り返しますWikipediaを情報源にした主張は認められません。-Ryo 625会話2020年6月6日 (土) 12:49 (UTC)[返信]
ガイドラインが求めるのはWikipedia:検証可能性を満たすことであって、他にガイドラインにない主張をされても、他の編集者からは単に無視されるだけですよ。気になっているのは、何故あなたが「国内の著名な学者の文献を参考にしてください」といった、ガイドラインにない主張を始るに至ったのかという所です。これは仏教といったマイナーな編集者の少ないジャンルだから、そういった発言をしても、幸運にも他者の目には留まりにくいだけであって、生物学やコンピューターといった人の多いジャンルでそのような主張をすれば、もっと強い批判が他者から返ってくるでしょう。タコツボ化していているからといって、ガイドラインにない独自の主張を行い、自分の思い通りにしていい訳ではないです。この主張は今後も撤回するつもりはないですか? そうでないならばWikipedia:検証可能性に、「「国内の著名な学者の文献を参考」と追記する提案を行ってはどうでしょうか。--Yuasan会話2020年6月7日 (日) 05:39 (UTC)[返信]
「国内の著名な学者の文献を参考にしてください」と言ったのはあなたがWikipediaの受け売りをしているから言っただけで、別にこの方針(?)に従えと言った意味ではありません。主張ではないので提起したわけではないので従うのはあなたの良心に任せます。ありていに言えばどうでもいいことです。とりあえず殺されないマイナーなジャンルでWikipediaの記述を元にドゥッカ、ドゥッカと自分好みの主張を繰り返すのは、やめていただきたいですね。--Ryo 625会話2020年6月7日 (日) 06:12 (UTC)[返信]
そういった方針を持ち込もうとしているわけではない、という点で了解しました。そうでないとWikipedia:翻訳のガイドライン側なども調整しないといけなくなっていましたので。--Yuasan会話2020年6月7日 (日) 06:19 (UTC)[返信]
ドゥッカ、ドゥッカも了解していただきたく存じます。--Ryo 625会話2020年6月7日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

「分布」節に挿入されている画像の説明文について

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「分布」節に挿入されているBuddhist sects.pngは2015年11月に追加されたものです(差分)。その際に画像の説明文が付加されていますが、2020年10月にコモンズにおいて画像の内容が大きく変更されたことで、結果として説明文の内容が画像を説明するものとして不正確なものとなっているようです。そのため現在の画像に対応するように説明文を更新しようとしたのですが、私が英語を理解できないことや仏教に詳しくないことを考慮すると他の方にお任せするのが最善であると考えました。どなたかご協力いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 --Sulpiride会話2021年8月1日 (日) 02:42 (UTC)[返信]