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ノート:仏教徒による宗教的迫害

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冒頭部分に「チベット仏教への信仰が盛んだったモンゴル帝国バグダードを陥落させ…」とありますが、モンゴル帝国とチベット仏教が密接に関係し始めるのは1250年代、モンケの時代に全真教団の専横に華北の禅宗、浄土教など仏教教団が猛反発して「道仏論争」という形で対立が顕在化し、この調停のためにモンケ、クビライなどが華北方面の宗務問題総責任者をサキャ・パンディタおよびその後継者パスパに委ねたのがきっかけであって、チベット仏教がモンゴル王族の庇護を受けて隆盛を始めるのは、実質クビライの治世(1260年〜)からであり、フレグの西方遠征の以後の現象です。確かに、クビライらと並んでチベット語年代記などではフレグがチベット仏教の1流派カギュ派の施主として記録があるようですが、そもそもモンゴル帝国は初期〜中期でもモンゴル王族たちは同じ家系でも個々人的な信仰に大きくばらつきがあります。勿論モンゴル帝国初期から仏教関係由来の人名も多く記録に出て来ますが、トルイの正妃ソルコクタニがネストリウス派を信奉していたことからトルイ家の王族たちはネストリウス派など帝国領内のキリスト教への庇護も行っており、それらのことはプラノ・カルピニのジョヴァンニウィリアム・ルブルックらの旅行記、バル=ヘブラエウスの年代記、『集史』、その他の諸文献で書かれて有名な事柄です。イルハン朝でもアバカアルグンの頃はネストリウス派やアルメニア教会などそのために厚遇を受けたとあり、バグダード陥落について語る場合、モンゴル帝国において「仏教が国教とな」ったという論説は事実に反しています。また、フレグの遠征などモンゴル軍人たちは「自分たちは仏教徒であり、仏国土を拡大するためこの遠征に参加している」などの言説も資料上からは一切看取出来ず、モンゴルの西方支配やイルハン朝関係の研究論文などからも、これらに類する状況もあったとは思われません。記事作成は同時代資料やB.SpulerやA.K.S.Rambton、V.V.Bartoldなどの研究・著作、The Cambridge history of Iranのシリーズや Encycloædia Iranicaイスラーム百科事典などもっと一般的な情報源によるべきです。しかしながら、この項目は以上のように項目としての事実関係から存在そのものに疑義が持たれるため、仏教徒による宗教的迫害におけるモンゴルのムスリム支配の項目の全削除が望ましいと思いますが、いかがでしょうか。Haydar 2007年12月22日 (土) 21:52 (UTC)[返信]

葛の葉狐です。 確かに、記述が一方的すぎると思います

モンゴル帝国の記述だけではなく

例えば、秀吉の切支丹禁令だって、 仏教の側も、秀吉に根来寺を攻撃されてますし むしろ、新興の世俗的な権力(戦国大名)によって 旧来の宗教的権力が倒され、統制されていった時代に 起こった一事件と捉えたほうが良さそうです。

ミャンマーなどの、上座仏教諸国で起きていることだって 先に攻撃してきたのはイスラム……なんて話をしていると 水掛論にしかならないなwwwwwwww

ただ、全削除をしてしまうと、なにげに元の文章を書いた方と 編集合戦が始まってしまうかもしれません。

むしろHaydarさんの持っている情報を書き加えて 記述をより中立的なものにされるほうがよろしいかと思います。 私もヒマを見て、手を入れてみることにします。

--Fox Kuzunoha 2008年1月2日 (水) 15:16 (UTC)[返信]

キリスト教徒による日本人の奴隷売買の発覚が抜けています。 宣教師を送り込んでから、内部から体制を崩壊させるという、 カトリックの戦略も抜けていると思います。 宗教戦争としては、島原の乱まで触れないといけないでしょう。 山本七平は著書「日本教徒」で、ハビヤンの著書をとり、 いかにキリスト教が日本の風土にあってないか解説しています。

色々、記述に穴はあるとおもいますが、とりあえずこのくらいで。--以上の署名のないコメントは、219.111.60.242会話)さんが 2008年3月26日 (水) 04:00 (UTC) に投稿したものです(Ziman-JAPANによる付記)。[返信]


日本では仏教が伝来し受容されて長年経ち、民衆の間に浸透しましたがその間に神仏習合や儒教の混淆も進んでいるので、「仏教徒による」と単純に言いきれるのか疑問も残ります。あと、日本の宗教的迫害は邪宗門の項にあるようにキリシタンだけでなく反体制的な仏教の一派も対象にされてますし、信長による一向宗弾圧も含め体制維持のための弾圧という側面が強いように思います。徳川幕府の政策に関しても仏教というよりは体制に好都合な儒教イデオロギー(身分制肯定など)に基づいたものだったかと記憶してますが間違いでしょうか。

民衆レベルも加わった迫害と政権側のそれとの差が端的に出ている例かと思います。清朝時代の中国のように、少数派が政権を取って多数派の漢民族に辮髪を強制している例もあり両者は必ずしも一致しません。他の宗教的迫害のページでも「○○による」記事名となってますがこれでは民衆と政権側(体制維持の方で考えがち)の混同を招くため「○○に対する」表記が相応しいかと思われます。(迫害者の信仰が曖昧なときも記述に対応できるメリットもある)--廬舎那憂 2008年3月31日 (月) 10:04 (UTC)[返信]

出典について

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ここに書かれている事実が「仏教徒による宗教的迫害」であると分析している研究はあるのですか?Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に詳しいのですが、ウィキペディアではAやBやCといった個別的事実を執筆者が独自に分析してDという結論を導き出すことは独自研究になります。--220.100.55.57 2008年5月17日 (土) 04:11 (UTC)[返信]