ノート:前漢
この「前漢」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2007年11月25日 | 秋の加筆コンクール | 受賞・良質な記事自動選出 |
2. | 2007年12月8日 | 秀逸な記事の選考 | 通過 |
3. | 2011年9月17日 | 秀逸な記事の再選考 | 除去 |
4. | 2021年6月12日 | 良質な記事の再選考 | 除去 |
出典検索?: "前漢" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
系図について
[編集]以前後漢でも系図の誤りが指摘され、当方が修正しましたが、前漢の系図もやや誤りがあるようです。具体的には後漢書に「出自景帝生長沙定王發」とあるように、長沙定王発は景帝の子です。次に「舂陵」が「春陵」になっているようです(これは後漢書の異本でも春につくるものがありますが、商務印書『百納本後漢書校勘記』によれば、「舂」が正しいであろうとのこと)。また系図では長沙定王発は名が記されておらず、舂陵節侯は名が発となっていますが、正しくは買。詳細はこちらのサイトを参照していただければ。管見では以上が正しいように思われますが、もしかすると誤りなどあるかもしれません。その点についてはご指摘ください。とりあえず近日中に系図を修正しようと思います。--Kanbun 2007年3月6日 (火) 05:48 (UTC)
- 系図を修正しました。--Kanbun 2007年3月8日 (木) 06:48 (UTC)
- 孺子嬰って宣帝の玄孫ではないでしょうか?
- 「宣帝-楚孝王劉囂-広戚煬侯劉勲-広戚侯劉顕-孺子嬰」
- のはずなのですが、祖父と父に当たる二人の広戚侯が1つにまとまってしまっています。--2001:268:C202:499B:A8F0:1FE8:A6FA:A01C 2023年7月6日 (木) 02:11 (UTC)
官制について
[編集]>これらの役職は二つに分類できる。本当の意味での行政機関と、皇帝と皇族・外戚・宦官などを管轄する皇帝に関する諸事のための役職である。武帝末期からこの両者の間での対立が見られるようになり、前者を外朝、後者を内朝と呼ぶようになった。この争いは霍光により後者の勝利に終わり、前漢末期の政治は外戚・宦官などが勢力を伸ばす事になり、王莽の簒奪へと導かれる事になる。
この部分については、このままにするには少々疑問があります。
- 外朝と内朝は、執行機関(行政機関としての三公九卿以下の官僚)と、皇帝の政策顧問や秘書、下働きなどの側近群という分類ではないでしょうか。現在の学説上での定説などは知らないので大きなことは言えないのですが、現在の本文のままで良いのか疑問です。
- 霍光により勝利したとまで言い切っていいのでしょうか。宣帝親政時の魏相、成帝の時の翟方進
などはどう説明するのでしょう。
- 前漢において宦官の権勢は成帝の時の中書廃止によって絶たれており、王莽の簒奪と関わりがあるかのような書き方は妥当とは思えません。
私としては、上記の段落全体を削除すべきではないかと考えますが、いかがでしょうか。--てぃーえす 2007年10月10日 (水) 16:36 (UTC)
- その部分は完全に私の勘違いから生まれた誤謬です。失礼しました。書き改めたのですが、まだ変な部分が残っているかもしれません。ご指摘いただけると幸いです。らりた 2007年10月11日 (木) 08:46 (UTC)
- 大幅な改稿お疲れ様でした。私は細かな部分を指摘するのがせいぜいですが、異論などありましたらお願いします。そういえば封禅について記載がなかったように思いましたので追加したいですね。--てぃーえす 2007年10月12日 (金) 01:08 (UTC)
匈奴について
[編集]>公孫弘による匈奴の偵察 公孫弘が最初に賢良になった時に匈奴の使者となったことを言っているのでしょうか?使者として遣わされたことを偵察とまで言える根拠はどのあたりか、教えて欲しいです。私には定例で派遣される使者以上のものとして読めないのです。--てぃーえす 2007年10月19日 (金) 15:03 (UTC)
- 山川『中国史』にそう書いていたので特に疑問を抱くこともなく書いたのですが、その根拠に付いては調べていません。この部分を書いたのは太田幸男氏ですが、何らかの根拠があるのかどうかも分かりません。すいません。とりあえず当該箇所は削除しておきます。らりた 2007年10月20日 (土) 13:54 (UTC)
- 修正お疲れ様です。公孫弘は公孫賀か公孫敖の誤りかな?とも思いましたがよく分からないですね。--てぃーえす 2007年10月20日 (土) 17:00 (UTC)
稲作の伝来について
[編集]稲作がこの時期に伝来したとありますけど稲作の記述と整合性がないように思います。縄文期とは全く違う新しい稲作技術が伝えられたという意味なのでしょうか? --赤い飛行船 2008年1月4日 (金) 17:15 (UTC)
私もそう思います--Piasu9 2008年1月4日 (金) 23:40 (UTC)
Template:中国の歴史における議論について
[編集]現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされる順をTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、順の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 18:08 (UTC)
仏教について
[編集]出典を求めたことに対して誤解されているようなので、コメントします。出典を知らないので求めたのでなく、記述に通説との隔たりを感じたので、その出所を確かめさせて頂きました。『東洋史辞典』は、確かに東洋史の定番辞典ですが、その初版は1961年です。また、思想史や宗教史分野では必ずしも典拠として用いている訳ではありません。この場合、異なる説を幾つか挙て、その一つに「前漢伝来説」もある、とするのが、ここでは適当かと思われます。また、初期伝来仏教を大乗仏教と一くくりにするのも、奇異な感を受けます。後漢代に活躍した安世高は、部派仏教の経典を盛んに漢訳しました。--Chi-Ham 2009年6月25日 (木) 13:47 (UTC)
財政の推計、良民の支給田と農民の分家、匈奴への過剰な言及、豪族の形成、王莽への独自評価について
[編集]秦漢財政収入の研究、漢律、漢書、などに基づき修正したもので、差し戻す場合は理由を御説明下さいませませ>219.66.73.94氏--220.104.202.194 2011年1月16日 (日) 13:49 (UTC)
- 私が参考文献に挙げている文献を読んでください。というか並立ならともかくいきなり既存の文章を丸々削るようなことはやめてください。らりた 2011年1月17日 (月) 12:06 (UTC)
- 追記。あなた自身が「漢律」「漢書」などを読んで編集するのは独自の研究になりますのでやめてください。
どの項か判らないので、とりあえず修正に到った経緯を書いておきます。王莽の項について、漢書の記述から著しく逸脱した表現が見られたので、訂正しました。農民の田地所有に関して、食貨志や漢律と矛盾する記述がありましたので、訂正しました。匈奴への言及に関して、個人的な作文が非常に多かったため訂正しました。財政の推計については、より研究の進んだ出版年代の新しい書籍を元に修正しました。
- 「出版年代が新しい」から「より研究が進んだ」などという考えは甚だしくおかしな考えなので「絶対に」やめて下さい。繰り返しますが、「いきなり既存の文章を丸々削るようなことはやめてください」。私が書いた既存の文章を削りたいなら「『漢書』に対してのあなた自身の考え(独自の研究)」などではなく、研究者による研究を持ってきて、私が挙げた参考文献が現在の研究状況で明確に否定されているということの証左が確実にある場合、あるいは私が挙げた参考文献と私の文章が乖離していると判断される場合のみ削ってください。それ以外で出典付きの文章を削ることは許されません。--らりた 2011年1月18日 (火) 12:05 (UTC)
- 主張は了解しましたが、参考文献は何所に書かれているのでしょうか?--220.104.202.194 2011年1月21日 (金) 18:41 (UTC)
- 本文中に書いてあるのが見えませんか?あきれます。--らりた 2011年1月25日 (火) 12:08 (UTC)
- 具体的に、どの項目を書いた際に、どんな物を参考にしたのか、を書かなければ誰も解りませんよ。--220.104.202.194 2011年1月25日 (火) 20:49 (UTC)
- らりたさんはノート:文公 (晋)での議論と同様の問題を生み出しているだけのような気がします。参考文献を列記したからIPさんの要求に応えたというのは筋違いでしょう--183.11.69.61 2011年2月21日 (月) 02:24 (UTC)
- 具体的に、どの項目を書いた際に、どんな物を参考にしたのか、を書かなければ誰も解りませんよ。--220.104.202.194 2011年1月25日 (火) 20:49 (UTC)
- 本文中に書いてあるのが見えませんか?あきれます。--らりた 2011年1月25日 (火) 12:08 (UTC)
外部リンク修正
[編集]編集者の皆さんこんにちは、
「前漢」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月27日 (水) 01:13 (UTC)
脚注について
[編集]ガイドラインのWikipedia:出典を明記するを精読しましたが、(無識な身であるゆえかもしれませんが)「句や小節ごと脚注をつける必要がある」と言っている部分があるようには見えませんでした。
必要以上に脚注を付けるのは閲覧者にとって紛らわしく、なおかつ「この学者の言うことだけが全てで最も正しい!」ような誤印象を植え付ける可能性がある気がします。
脚注標識の適度な省略について提案したいです。--Ooodjr(会話) 2023年11月4日 (土) 12:09 (UTC)
- 返信 (利用者:Taisai429氏宛) --Ooodjr(会話) 2023年11月4日 (土) 12:12 (UTC)
- 返信 (利用者:らりた氏宛)
- 追加メンション失礼します--Ooodjr(会話) 2023年11月5日 (日) 05:41 (UTC)
- なるべくなら、個別の利用者にメンションを送って議論参加を求めるだけでなく、Wikipedia:コメント依頼などを利用して広く告知を行うことをおすすめします。--taisai429(会話) 2023年11月5日 (日) 09:34 (UTC)
- 返信 出典を明記するうえで、どのような方法を取るかについて明確なルールはありません。しかし、出典を明記する目的は、Wikipedia:出典を明記するの冒頭にある通り「内容に問題がないか確認できる」「読者がさらに調べるときの参考になる」ということであり、内容に問題がないか確認を試みた読者、あるいはさらに調べるときの参考にしたいと考えた読者にとって、「この記述は書籍Aの111ページに書いてあることに基づいている」というやり方、「この記述とこの記述とこの記述は、書籍Aの20ページから140ページまでの間のどこかと書籍Bの55ページから87ページまでの間のどこかに書いてあることに基づいている」というやり方のどちらがより親切かは明らかです。むしろ後者のような曖昧な出典の明記の仕方の方がよほど紛らわしく、「この学者の言ったことであるのは間違いないんだろうけど、この本のどこに書いてあるの? まあこの学者の言うことだから正しいよね」という状況になり、あなたの意図するところとは真逆の効果を生むでしょう。もちろん、前者のやり方が望ましいとはいえ、明確なルールはないので、後者のやり方が全面的に禁止されているわけではありません(私もたまに採用してしまいます)。しかし、すでに前者のやり方をしているものをわざわざ後者のやり方に変更することには反対します。--taisai429(会話) 2023年11月4日 (土) 12:54 (UTC) 脱字修正--taisai429(会話) 2023年11月4日 (土) 12:58 (UTC)
- お忙しい中ご丁寧に返信していただきありがとうございます
- @taisai429さんの仰ることはごもっともだと思いますが、一素人としてやはり納得できない点がいくつかあります。
- もっともな話、前漢の「歴史」の一次出典としては古代中国の『史記』と『漢書』があるのです。史料考証や考古学と結合した専門的な歴史研究なら出典をページや小節ごとに対応させるのは確かに必要不可欠だと思いますが、「歴史」そのものに同様に用いるのはどこか過剰というか、「知識を広めるための中立的なフリーメディア」というウィキぺディアの理念とどこかしらすれ違ってるように感じざるを得ないです--Ooodjr(会話) 2023年11月5日 (日) 05:30 (UTC)
- Ooodjr氏は三国時代 (中国)の項においても元々出典付きの項目を大量削除して自身の加筆のみを残す様な編集を行われていますが、これは無自覚であっても荒らしに当たる行為です。この、前漢の編集でもらりた氏から記事破壊行為と指摘をされていますが、今一度方針熟読期間を取っていただく必要があるのではないでしょうか?--ぬこマニア(会話) 2023年11月4日 (土) 13:14 (UTC)
- 今後気をつけます--Ooodjr(会話) 2023年11月5日 (日) 05:32 (UTC)
- コメント コメント依頼からきました。
- 「過剰な脚注」とのことですが、過剰とは思いません。現状の脚注で問題ないと思います。--Haatouki(会話) 2023年11月6日 (月) 02:56 (UTC)
- コメント コメント依頼から参りましたが、無出典の記述が随所にあり、省略どころか追加が必要な状態かと存じます。--Anesth Earth(会話) 2023年11月6日 (月) 02:58 (UTC)
- (追伸)この編集履歴を見て驚きましたが、省略というより、記事破壊です。Ooodirさんによれば、「必要以上に脚注を付けるのは閲覧者にとって紛らわしく、なおかつ「この学者の言うことだけが全てで最も正しい!」ような誤印象を植え付ける可能性がある気がします。」とのことですが、ここまで広い範囲で記載に出典がないと、そもそもその記載がどこから持ち込まれたかが担保されませんので、読む価値が最初から無くなります。--Anesth Earth(会話) 2023年11月6日 (月) 03:16 (UTC)(削除のリバート)Anesth Earth(会話) 2023年11月6日 (月) 08:16 (UTC)
- コメント 一般的な書物・論文などでは、執筆者は限定されていて、出典情報は巻末にまとまっていたりします。こうした文献は基本的に、いったん公表(刊行)されてしまえば、内容が書き換わることはありません。(重版時に改稿するとかを除き。)
- これに対し、Wikipedia固有の特性として、記事は不特定多数がなんぼでも書き換えます。段落全体が1出典でカバーされていたとして、そこに独自研究を一文追記されたりすると、その一文は本当は「出典がない」のに、あたかも全体が出典に裏付けられているかのように見えてしまいます。それゆえに、出典をこまめに付けるほうがベターなわけです。
- 結果として、一般的な書物・文献よりも出典のこれ[1]が多くつきますし、そのために「読みづらい」という印象はあるかもしれません。が、Wikipediaの仕組み上、それは必要なものとして割り切ってください。--柒月例祭(会話) 2023年11月6日 (月) 06:09 (UTC)
- (補足)どのぐらいの頻度でこれ[1]をつけるかは、いろいろです。極論をつきつめるとオカシナことになるので、ジョーシキ的なレベルでいうと、1段落~1文、あたりが「相場」という感じです。これは実際に執筆する際に用いた情報源の数にも依存しますし、記事の完成度としてどのぐらいの水準を目指すかにもよります。
- Wikipedia内で最高水準の記事としてWikipedia:秀逸な記事があります。この中で、たとえば関門トンネル (山陽本線)では、概ね1文毎にこれ[1]があります。数値や固有名称などの端的な事実に関する場合には、単語単位でこれ[1]がつく場合もあります。
- ここらへんは作文との兼ね合いもあります。たとえば情報源が「1月1日は晴れ。1月2日は雨。」みたいな場合に、「1月1日は晴れ[1]。1月2日は雨[1]。」とするか、「元旦は晴れで、翌日は雨だった[1]。」みたいにするか、どちらでもありえることで、全体の文脈や構成などによるでしょう。ここらへんは2つの事象に因果関係などがあるのかとか、そこらへんによっても表現が変わるでしょう。たとえば「元旦は晴れたのに、翌日は雨が降った[1]。」みたいに書くと、もとの情報源にはないニュアンスが加わったりします。ときには「元旦は晴れたのに[1]、翌日は雨が降った[2]。」のようになることもあるでしょう。
- Wikipedia:良質な記事あたりではもう少し緩く、「段落単位」のケースも数多くあります。--柒月例祭(会話) 2023年11月6日 (月) 11:24 (UTC)
- Ooodjr様
- >必要以上に脚注を付けるのは閲覧者にとって紛らわしく、なおかつ「この学者の言うことだけが全てで最も正しい!」ような誤印象を植え付ける可能性がある気がします。
- ヤマト王権の項の編集で主流学説と無関係な異説を「歴史」項目から削減・日本語力の修正とのことで出典付きの記述を大幅に削除をされていますが、これは先に書かれた内容に対し矛盾をしているように感じます。
- Wikipediaは多くの執筆者が寄合で作っているものですから、異説であっても、それがちゃんとした出典に基づくものなら無闇矢鱈と削除してはいけません。
- 逆に、Ooodjr様が何らかの加筆をする際に新たな出典を提示してそれに基づき加筆するならそれはそれで素晴らしいことだと思いますから大いにやっていただけたらと思うのです。
- しかし、自分が書きたいことだけを書いて今までの記述を全て抹消するかのようなやり方は賛同出来ませんし、wikipediaの原則に反すると思いますのでよくよく思案の上で編集を行なっていただきたいと思います。--ぬこマニア(会話) 2023年11月6日 (月) 09:07 (UTC)
- コメント私にもコメントを求められているようなので、コメントします。
- まず「記事破壊行為」という言葉は言い方がキツかったかもしれません。しかしやはりOoodjrさんの行為に対してはそうとしか思えませんので撤回はしません。
- 複数の脚注を一つに纏める行為は既に挙げられている(「記述がどのページに基づくかがわかりにくい」「途中に文を挿入された場合、虚偽出典になる」)というデメリットがあり、推奨される行為ではないと思われます。
- 「必要以上に脚注を付けるのは閲覧者にとって紛らわしく、なおかつ「この学者の言うことだけが全てで最も正しい!」ような誤印象を植え付ける可能性」
- ということを懸念するならば同じ事柄に対しての別の著者による別の出典を引っ張ってきて脚注を増やすべきであり、省略することはその懸念を払拭することには繋がらないと思います。
- 過剰に脚注がついているとうっとおしい・読みにくいと感じるというのであれば、ある程度は共感できます。ですが、これは個人の感覚による部分が大きく、現状のこの記事では私は「うっとおしい・読みにくい」とは感じません。--らりた(会話) 2023年11月6日 (月) 11:10 (UTC)
コメント 前漢時代の細かい記事をときどき書いている者です。なんとか伝、とだけ末尾に書いて注を入れない人物記事が、中国史には多くあります。今のこの記事にある、前漢#儒教のような、節ごとの参考文献をあげるスタイルと似ていますね。ところが時々、挙げた史書に書かれていないことが文章の中に混じっていることがあります。『史記』『漢書』に書かれていることなのか、誰か学者の説なのか、それともウィキペディアンによる解説なのかは、大きな違いです。この記事も同じではないでしょうか。一文ごとに出典を付けてくれると、史書、学説、ウィキペディアンの私見の切り分けが可視化されます。煩わしいという気持ちもわかります。長い記事でやると、脚注が何スクロールにもなりますからね。しかし、見栄えを上回る実質的利益を読者・執筆者にもたらすと思います。--Kinori(会話) 2023年11月12日 (日) 18:28 (UTC)