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ノート:四国攻め/Log1

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天正の陣四国征伐の統合を提案

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天正の陣は読んだ限りでは、四国征伐における伊予国内の戦線に関する記事の様であるが、両者の関連付けが全くされておらず、統合あるいは修正の是非について一度きちんと議論を持つべきではないかと思い提案致します。--水野白楓 2006年3月6日 (月) 11:56 (UTC)

(コメント)四国征伐に統合してもよい分量だと思いますが、四国征伐自体の記述が少ないので、天正の陣に記述が偏りすぎる気がします。--kwakkun 2006年4月3日 (月) 14:19 (UTC)

(コメント)私も四国征伐に統合してもいい文章だと思いますが、天正の陣と四国征伐は、内容的にも同じ四国征伐を 扱っているので統合してもいいと思います。--kawauso 2006年4月26日(水) 16:23 (UTC)

(コメント)四国征伐の伊予国における合戦として、統合しておいた方が良いと思います。 但し、バランスを取るために他の合戦を加筆もしくは修正する必要があるとは思いますが。--江島土佐守 2006年5月5日(金曜日) 

3ヶ月経過ということで統合テンプレがはずされたのでリンクだけつけました。--kwakkun 2006年6月21日 (水) 09:01 (UTC)

名称について

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本名称「四国征伐」ですが、すでに征伐呼称について小田原の役九州の役で先行議論が行われていますが、最近の歴史学では征伐追放が相次いでいます。ノート:征伐でもお解かりのとおり、ウィキペディア内でも征伐は反対されています。すでに小田原の役は変更されています。参謀本部の大日本戦史では四国の役(本文では四国役だが)となっていますので、こちらに改名することを提案いたします。--蚯蚓 2009年3月30日 (月) 13:08 (UTC)

別に「四国の役に変えること」が必要とは言っていませんが、征伐は変えるべきでしょう。--蚯蚓 2009年3月31日 (火) 11:50 (UTC)
と同時に、上の「天正の陣」も統合して
四国征伐━
     ┃━━四国の役
天正の陣
のようにしたらいいと思います。早期に合意形成したいので議論に参加してください。--蚯蚓 2009年4月8日 (水) 08:46 (UTC)
コメント統合について、先行議論では「記事中のバランスを取るために天正の陣以外の戦闘について加筆する必要がある」との意見が出ていますが、この意見についてはどうお考えでしょうか。加筆無しに統合を進めるおつもりでしたら、「保留、ただし賛成はしない」とさせて頂きます。
改名については現状では特に意見を持ちません。私はこの戦いについて全く調査しておらず、資料の持ち合わせもないためです。ただし、「最近の歴史学」の傾向を反映させるのに、資料が戦前の『大日本戦史』のみでは心許ない。最近書かれた書籍での表記がより重視されるべきと考えます。--Arawodas 2009年4月8日 (水) 14:24 (UTC)
もう一つ問題点を述べますと、現在の記事には織田信長による出兵(計画)と羽柴秀吉による征服、都合二つの戦役をまとめて一つの記事で扱っています。改名後の記事構成をどうされるおつもりでしょうか。両者を分離するなら分割提案が必要ですし、このまま二つの戦役の記述を共存させるなら、記事名は二つの戦役に共通する名称でなければならないと考えます。--Arawodas 2009年4月9日 (木) 06:23 (UTC)
ご指摘ありがとうございます。当然加筆します。私も文献を漁って加筆しておくつもりですが、無論一人ではできません。
最近の書籍では、四国征伐ももちろんありますが、四国遠征・四国平定・四国出兵・四国派兵などと表記揺れがあります。四国の役については
  1. 児玉幸多,木村礎著『Daimyō retsuden』
  2. 本多三郎著『日本の歴史』
  3. 芸備地方史研究会作成『藝備地方史研究』
などが文献としてあげられます。参考になったでしょうか。
最後のご指摘、信長によるものと秀吉によるものについて、いくらか案を上げてみます。
案1:記事名をこのままにし、加筆にとどめて現状維持にする。
別にこれを否定はしません。面倒な手続きを踏まず、名称としても「不適切」ではないですから。
案2:記事名を四国の役に変えて、分割する。
信長の統一作戦の一環である第一次征伐は、実際に本戦になったわけではないですから四国の役には不適切です。ご指摘通り分割してしかるべき場所に移動(記事としての内容が薄いので、特筆する必要もそんなになく、どこかにまとめてもいいと思います。)し、「四国統一」から先のセクションを四国の役とし、天正の陣を合わせ、阿波などの戦線も加筆しつつ、良い記事にしたらいいでしょう。
案3:それ以外の方法を考える。
是よりもっと混乱がなくてスムーズに適切な名称に移動する方法があればそうしたいです。あればいいですけど…。
ただ、四国征伐と言いますが、この戦は征伐は適さないと思います。
「九州の役」「小田原の役」は、島津・北条の両大名が惣無事令に反したから、関白の秀吉の命令に逆らったため、「征伐」した、と言えなくもないですが、今回の四国については、信長も秀吉も自らの統一作戦の一環でしかないわけで、「征伐」をつける理由はないでしょう。先ほど本文に加筆しましたが、秀吉はもとから四国を狙っていて、征伐に関しては理由は特になく、いわゆる大名同士の死闘ですから、征伐は中立的な観点云々の前におかしいでしょう。(というのは私の見解です)また、こちらの議論でYasumiさんが仰られていた、「征伐は戦役自体の名称として適するものではない」ということもあり、該当議論の改名も結果的にそれが決め手になっていました。今回も例外ではなく、征伐は適していません。一般に流布しているため、リダイレクトにせざるを得ませんが、少なくとも改名の必要性は大きいでしょう。
また、信長の軍事行動について特筆の必要がないというのは、
康長は四国に隠然たる影響力を持っており、信長は康長を利用しての四国平定を考えるようになる。」とありますが、考えているだけで大きな戦になっていません。「1582年(天正10年)、甲斐の武田氏制圧を終えた信長は、織田信孝を総大将とする本格的な四国征伐軍を編成した。」だけで実際に海にわたって四国に上陸はしてません。「1581年(天正9年)、四国征伐の先鋒として三好康長が四国へ渡り、十河存保らとともに長宗我部氏を攻撃した。」という事実だけを「信長の四国征伐」として、記事として特筆する必要が感じられません。上記の理由からです。
ここまで私の見解を述べてきましたが、最後は文の要約をしておきます。
四国の役は文献も(四国征伐などに比べるとごく少数だが)あって、変な名称とは言えない。また、征伐は中立的な観点・名称としての適切性に反し、Wikipediaの記事名の付け方と違う。よって改名を改めて提案する。なお、第一次征伐に関しては分割する。
以上です。長々と失礼いたしました。--蚯蚓 2009年4月9日 (木) 08:41 (UTC)
既に調査を進めておられるようですね。でしたらなおのこと、その調査結果を全て公表して頂く方がよろしいと思います。四国遠征・四国平定・四国出兵・四国派兵などの呼称がどの書籍で用いられているのか、また四国征伐はどの資料で用いられているのか、明らかにされることを望みます。また文献名を挙げる際に、出版元と出版年、特に今回は後者を明確にされることが重要と思います。また文献にも軽重があり、実際にこの記事の加筆に役立つ文献での傾向がより重視されるべきでしょう。第一線の研究者が現在最も多く用いている呼称を採用すべきと考えます。あとWikipedia:改名提案に掲示しておきました。--Arawodas 2009年4月9日 (木) 11:35 (UTC)

改名の再打診

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基本的に蚯蚓氏の「四国の役」提案には賛成なのですが、いかんせん本役については統一事業として中央側から見た「秀吉の○○」と比べると頻度も認知度が低いようで、賛意が多ければそれでも良いのですが・・・
さて、それでも「四国征伐」よりはマシな線を模索したいと思い、当面の提案として「四国攻め」に改名するのはどうでしょうか?で、内容に対して「織田信長の四国攻め」「羽柴秀吉の四国攻め(四国の役)」に追記して「毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)」と章分けを行いたいと思います。なお、天正の陣との統合についても手元にある本を参考に一から伊予方面の記述を充実させてみました。いずれ統合も見えてくるのではないかと思います。--Yasumi 2009年10月18日 (日) 08:41 (UTC)
(四国攻めを支持)まずは加筆と出典の追記、お疲れ様です。私も改名検討と加筆を目的に資料漁りをしていたのですが、ブレイクしたりして停滞している間にどちらも先を越されてしまいましたね。「四国攻め」への改名を支持します。理由は、私が当たった限りでの参考文献となりうる書籍で、「四国攻め」は「四国征討」と並んで最も多く採用された表記だからです(こちらを参照[1])。加えてリンク先をご覧頂ければお分かりと思いますが、「征伐」「征討」が比較的古い文献でよく使われているのに対し、「攻め」は最近の書籍での使用例が多くなっています。例えば2000年以降発行の資料に限ると、「征伐」「征討」を「攻め」が明らかに上回ります。以上より、「征伐」は以前からよく使われて知名度もある呼称だが、少なくとも専門家の間では「征伐/征討」→「攻め」への言い換えが進んでいると考えられます。従いまして「四国攻め」への改名が妥当と考えます。なお、私の調べた範囲では「四国の役」という呼称が用いられる例は皆無でしたので、「四国の役」への改名は反対とさせて頂きます。
三戦役の一記事での共存については、現状で取り立てて不利益な要素は感じませんので支持致します。特に信長と秀吉の戦役については、一つの流れの中で扱った方が理解しやすいと個人的に思いますので、積極的に共存を支持します。--Arawodas 2009年10月19日 (月) 04:03 (UTC)
どうも、Arawodasさん、ご支持をいただき、ありがとうございます。とりあえず改名提案を出してみました。編集も荒削りなので適宜加筆をお願いしたいところです。「○○攻め」はリンクが張りやすいような利点もあるようです。--Yasumi 2009年10月21日 (水) 10:48 (UTC)
まず前提として、記事名で最も重視するべきはわかりやすさ、知名度であり、正確さではありません。確かに昨今、征伐表記の言い換えが進んでいるのはその通りと思いますし、今後、○○征伐という名称は歴史学会からは減っていくことは予見されます。しかし、今まで長い間○○征伐という名称を使っていたわけで、ここ10年、四国攻めが増えているからといって、それが定着したと言い切れないのは、Arawodasさんも「「征伐」が以前からよく使われて知名度もある呼称」と仰っている通りかと思います。であるならば、現時点で改名する必要はないかと思われます。
それと統合分割問題に関してなのですが、少なくとも「毛利輝元の四国攻め」の節は分割すべきかと思います。これは信長、秀吉の四国征伐とは全く別個の存在であり、この三つ(信長、秀吉、輝元)の四国への侵攻を同列に扱っている例はないのではないでしょうか。(むしろこの節は関が原の戦いの四国の戦いの節にあるべき記事かと思います)--machine_gun 2009年10月25日 (日) 16:40 (UTC)
どうも、Machine gunさん。改名についての議題に集中したいと思います。Wikipedia:記事名の付け方と言う考慮すべきガイドラインの冒頭には「記事の題名は、まず何よりも「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」である必要があります。そしてその次に「その記事へのリンクを作成しやすいもの」であることも重要です。」また、その他の慣例項目の歴史的事件について「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する。」とあります。
また本項の主題は中央政権の四国勢力に対する開戦から終戦処理までを扱った戦役だと思っていますが、認識は共通しているでしょうか?メイン部分を言い換えれば「羽柴・長宗我部戦争(戦役)」とでも名付けることになり「四国の役」にも通じるのでしょうけど、なかなか実態にあったネーミングでは呼ばれずに、「秀吉の○○」と言った統一事業名で呼ばれることが多いようです。
さて、Arawodasさんの調査を見ても四国征伐が圧倒的とは言えず、傾向も縮小されています。そこに中立的な観点と上記のリンクの貼り易さも加味して「四国攻め」が良いと思うのです。また、古くから使われていることは同意ですが、元々「四国征伐」が他と比べて定着した名前であるのでしょうか?--Yasumi 2009年10月31日 (土) 00:30 (UTC)
コメント まず、Yasumiさんは関が原を含めて「本州勢力(中央政権だと西軍の正当性を議論しないといけないので)の四国勢力との戦役」とすべき、とお考えなのでしょうか。Arawodasさんの調査結果はあくまで秀吉(と信長)が四国を攻略したことについて、研究者はどういう名で呼んでいるのか、ということですので、関が原まで入るとなると、Arawodasさんの調査結果を論拠とすることはできないと考えられます。私はその観点から統合分割問題と改名問題は一体の関係にあると認識しており、まず分割して記事をArawodasさんの調査されたのと同じような主題としてから改名議論をすべきと考えております。
次に私ももちろん、研究者の間でここ10年、「四国攻め」が増加している、ということは事実であると考えております。しかし、記事名はガイドラインにもあるように、「わかりやすさ」を第一義に置くべきことであり、研究者の間における一般性のみで決めることではありません。仮に学術的に正しくなくとも、知名度が高い語が選ばれることもあります。ずっと研究者の間では「四国征伐」が一般的であったのがここ10年ほどの間で変化したのに、一般人の間で既に「四国攻め」が一般的と言えるのかは疑問符もつきます。また、参考までにGoogleでダブルクォーテーション検索(四国攻めだと「四国を攻める」などもヒットする為)をしたところ、「四国攻め」は8460件、「四国征伐」は30500件でした。(ただし、個人的には昨今はWikipediaを転載するサイトが多くWikipediaの記事名が検索件数を作っている部分もある為、他に反証があるならばGoogle検索の件数には固執しません。)
また、リンクは四国攻めの方がしやすい、という点も疑問です。例えばこの記事に関連することを文章で表すと「秀吉は四国攻めを行った」或いは「秀吉は四国を攻めた」というような表記になると思いますが、前者は四国攻めを四国征伐に置き換えても問題ないですし、後者はどうせパイプを使うことになるのでリンクのしやすさは同等でしょう。
以上より、現時点の記事ではそもそもArawodasさんの調査結果を直接適用することは難しく、一部を除外して検討するとしても「四国征伐」は研究者の間で使われており、決して誤りではない用語であることや、現時点で知名度が明らかに「四国攻め」の方が高いとは言えないこと、リンクのしやすさも差がないことから、記事名の変更をすべきではないと考えております。--machine_gun 2009年11月1日 (日) 01:50 (UTC)
(インデント戻す)歴史的事件の記事名は「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する」(Wikipedia:記事名の付け方)ということになっています。そのことに異論を唱える方は、少なくともここにはいないと思います。ところが、複数の有力な候補があるとき、どちらがより「一般的に知られており通用しやすい」のかを証明するのはしばしば困難です。
machine_gunさんは研究者における一般性と非研究者における一般性を分けて考え、後者が前者に優越するというお考えでしょうか。それはそれで一つのまっとうな論理であり、私はことさらそれを否定しようとは思いません。ですが、今回の場合、後者=一般人の間の知名度を正確に検証することが可能なのでしょうか。私は疑問に思います。
machine_gunさんの挙げておられるGoogleの検索結果について。確かに、日本語サイトのみでダブルクォーテーション検索すると、machine_gunさん提示の数字が現れます。ですが、この種の検索を利用された方ならたいてい覚えがあるでしょうが、しばしば当初の数字より少ない結果しか表示されないことがあります。検索結果の末尾まで表示すると、「最も的確な結果を表示するために、上のa件と似たページは除外されています」というメッセージが現れます。このa件こそが本当の検索結果ではないでしょうか。検索結果末尾の数字では、「四国征伐」は408件、「四国攻め」は538件です。さらに、machine_gunさんも触れておられますが、Wikipediaの記事名が「四国征伐」であることに影響されて「四国征伐」の名を使っている例が、コピーサイトをはじめとして一定程度存在することは十分考えられます。以上を総合すれば、Googleの検索結果をもって「四国征伐」が現時点で最も普及した名称であるとする根拠にはできない、むしろ「四国攻め」の優越すら示唆しうるものであるとみなせます。
もっとも、これら検索サイトに引っ掛かった「四国攻め」の全てが本記事の内容を指すとは断言できません。ゆえに、この検索結果を「四国攻め」が一般人の知名度において優っているとする根拠には私はしません。
元に戻りますが、一般人の間の知名度を研究者間のそれとは別に検証することは果たして可能なのか。私は不可能と考えます。現状で無理にそれをしようとすれば、結局は「a以外の名前など聞いたことがない」「いや、bこそ馴染みがある」などと、自身の記憶や感覚を相手に押しつけ合う水掛け論になるのが関の山ではないでしょうか。だからこそ私は、当初から書籍、それも本記事の加筆に有効であろうものを探して調査結果を提示しました。いくら書籍といっても、小説10冊で使われる名称aが、歴史学者による一冊の研究書にある名称bに勝るとは私には到底思えません。ここは歴史記事ですから。ゆえにGoogleブック検索も私は信用しません。あれは全ての専門書を網羅したものではありませんし、それ以上に発行年代も分野もごちゃまぜの代物です。信頼度は通常のネット検索と同等かそれ以下で、この議論の論拠にできるものとは思いません(ここでは誰もブック検索には言及してませんが、ノート:九州の役/過去ログ1で使っている方がおられたので、念のため)。
以上のように、水掛け論に陥らずしてこの改名議論を進めようとするならば、結局は私のやったような手法を取らざるを得ないのではないでしょうか。その結果はご覧の通り「四国攻め」の優越を示しています。私はこれのみでも改名の論拠としては十分だと思っています。仮にこれが研究者間の傾向を示すものにすぎないとしても、一般性を追究する手段としては他に有効なものが思いつきませんので。より有効な手段があればぜひご提示下さい。
分割について。まず、私は三戦役の共存を支持しましたが、関ヶ原の戦いにあった方がいいという意見も十分頷けるもので、正直どちらでも大差ないという印象です。一方に記事を置き、他方に誘導を張れば、記述自体はどちらにあっても問題ないのではないでしょうか。従って分割への賛否は表明しません。
さて、machine_gunさんは分割議論が片付くまでは改名議論を凍結せよ、とのこと。仮にその言葉通りに議論を進行させたとして、「分割しない」という結論に達したならば、改名議論はどうするのでしょうか。私が思うに、分割しようがしまいが、やはり改名議論は必要ですし、されるでしょう。同じことです。
改名には明確な根拠があり、かたや分割の可否は甲乙つけがたい。ならば、結論を出せそうな方から先行させるのが効率的でしょう。改名後、やはり関ヶ原前後の四国の戦いには別な名称がふさわしいと判明したなら、その時こそ分割の論拠として提出すればよろしいではありませんか。ただし、yasumiさんが現時点で分割支持に転じ、すぐにでも分割が実行できる状況になるならば分割先行でも構いません。要はどちらが早く結論を出せそうか、ということです。
要点をまとめると、
  1. Google検索は何の根拠にもならない
  2. 「一般人の知名度」は検証不可能である
  3. 分割と改名はどちらを先に議論しても問題ない
  4. 以上より、これまでに提示した論拠のみで、現時点において「四国攻め」への改名は成立しうる
ひとまず以上です。--Arawodas 2009年11月1日 (日) 06:28 (UTC)
(引き続き、改名を主題に)先に主観の事を書けば、machine_gunさんは感覚が異なるのかも知れませんが、別件で豊臣政権論などの論文を多々読んで来たのですが、言説を取り扱う他には「四国征伐」は見ることはナカナカ無いように思います。この傾向はここ10年という単位ではなく少なくとも30年とか50年とかの単位に思えます。また、それ以前の論文でも「四国征伐」が支配的・圧倒的ではないように体感しているのです。そもそも四国役という戦役単位で取り扱っているテーマが少ないですし。
今のところ客観的にはArawodasさんが出して頂いた物があり、本文を編集する立場に立てば「四国攻め」で納得頂けるのではないかと思っていたのですが・・・実は私の上記主観の元読み返して纏めるのに大きな労力が必要で実施に躊躇しているのです。逆に学術的に「四国征伐」が支配的・圧倒的である(あった)データは示せますでしょうか?
なお、中央政権による多方面からの攻略と四国処分と言うテーマで追記させて貰った、関ヶ原前後の毛利輝元による豊臣政権の名の下に行われた四国攻めについては、最終的に何処に置かれても良いと思っています。分割議論は別題別項でお願いしたいです。--Yasumi 2009年11月2日 (月) 21:12 (UTC)
コメント 私は記事名とはその記事の主題を端的に表現したものであり、ガイドラインを読む限り、記事名とは読者の利便性(理解しやすさ)を第一に、執筆者の利便性(リンクのはりやすさ)を第二においたものであり、正式名称が何かで決められている場合であっても時には略称なども認めている(ワンセグなど)ことから、決して正しさを第一においたものではありません(正しくなくてもよいという意味ではなく、ウェイトの問題として正しさの大きなウェイトをおいたものではないという意味です)。そして、理解しやすさというのは、研究者の間でどう使われているか、ということより、読者の間でどう使われており、検索などでどういう記事名にしておけば便利なのか、ということを主眼に置くべきであると考えております。
そうした時に、まず記事の主題に対する認識が違っていれば、その主題を端的に表現する記事名の議論をすることは無益ではないかと考えております。私はこの記事の主題は「羽柴秀吉の全国統一の過程で発生した四国攻略戦」と考えておりますが、Yasumiさんはそうではなく「本州/中央勢力の四国攻撃」と仰っております。これは明確に主題が違っており、その食い違った前提のもとに記事名を議論するのは全く意味がないことになります。そこで、記事名の前にこの記事は何の記事なのかの議論をすべきと考えております(そして、その主題についての議論の結論は統合分割問題の結論を出すことになるという点で一体であると思います)。
次にArawodasさんの仰っている「「一般人の知名度」は検証不可能である」という点ですが、なぜ研究者の間では書籍の数だとか使われ方だとかで検証できるのに、一般人の間だと個人の感覚の押し付け合いになるのか理解できません。要するに専門書だけでなく一般的な書籍(小説だとか)についての調査もした方がよいのでは、ということに過ぎないわけです。つまり、「小説10冊よりも専門書1冊を重視する」というのは記事の内容については同意できますが、記事名についてはそうではない、ということです。
Googleについても確かに不確実なところはあるにしろ、記事名の利便性を考える上で、どのような傾向があるのかという程度を調べるには十分有益かと思います。(私自身もあれの結果が全てとは思っておりませんが、同時に全く意味のないものであるという点には同意しかねるわけです)
別に私は「四国征伐」に固執するわけではありません。何の論拠もない個人的な感情としては「四国征伐」の語は少し中立的じゃないかなぁと思いつつ、「四国攻め」は一般名詞的であるためわかりづらいし、「四国の役」がいいかなぁと思っておりますが、それはおいといて、少なくとも過去には使われていた語を記事名としている状態から変更するのに、主題もあいまいなまま、一般的な知名度というものを全く考慮しないで結論を出すのは将来的に禍根を残すのではないかという危惧から、現状維持が適切ではないかと考えております。--machine_gun 2009年11月3日 (火) 06:19 (UTC)
おおむね論旨は理解しました。「一般人の知名度」を客観的に検証することが可能ということでしたら、machine_gunさんからその検証結果を示して頂きたいと思います。その結果、「征伐」から「攻め」へ移行しつつある学問の流れを無視してよいほどに「四国征伐」が圧倒的に普及しており、「四国攻め」他と大差があるという具体的な根拠が示されたならば、「四国征伐」で維持するのが妥当でありましょう。
ですが、ワンセグのように通称と正式名称の知名度が隔絶している例ならともかく、複数の候補がドングリの背比べをしている状況であるならば、その中の比較第一位というだけでは通称優位の論理を適用すべきではないと思います。「四国征伐」抜群優位の根拠が出てこないのであれば、最もその問題に詳しいであろう研究者の動向に従うのが合理的ではないでしょうか。
上記に関連して、Google検索についてお尋ねします。傾向を調べるには十分有益とおっしゃいましたが、
  1. 見かけの件数だと「四国征伐」が「四国攻め」の4倍近いのに、実際に表示される件数だと「攻め」が「征伐」を逆転すること
  2. Wikipediaの記事名「四国征伐」が、ネット上の「四国征伐」の件数増加に及ぼす影響
  3. ヒットする「四国征伐」「四国攻め」の全てが本記事での意味で使われているとは言い切れないこと
以上三点を総合して、私は今回の件において、この検索結果は何かの根拠とするには不確実すぎて使えないと判断しました。同じ検索結果からmachine_gunさんはいかなる傾向を読み取りますか。そしてそれは何かの根拠とするに堪えるものでしょうか。お答えを頂きたく思います。--Arawodas 2009年11月5日 (木) 14:54 (UTC)
まず、「メイン部分を言い換えれば「羽柴・長宗我部戦争(戦役)」とでも名付けることになり「四国の役」にも通じる」と既に私(yasumi)が発言しているとおり、machine_gunさんの「羽柴秀吉の全国統一の過程で発生した四国攻略戦」とは共通認識に立っていると思いますが?
そして、machine_gunさんが「四国攻め」を普通名詞と言われますのと同様に「四国征伐」もまた普通名詞なのは客観的な事でしょう。その上で、「秀吉の四国征伐」あるいは「秀吉の四国攻め」の意味合いで「秀吉の」を省略した代名詞として「四国征伐」「四国攻め」を使っているのが現状であり、関連する前後史記事や普通名詞で示せる範囲の関連記事が同居することはあり得る事態かと思います。(再度付言すれば、輝元の四国攻めに関しては最終的に関ヶ原の戦いへ別居しても良いと思いますし、今のまま中央と地方との関係史として記載されていても良いと思います。戦闘自体よりも戦後処理に焦点を当てた論文では「四国国分」の呼び名も散見されます)
なお、中立的なタイトルであるかどうかは感情的な問題ではなく、「四国征伐」が縮小傾向にある主因に思えます。私は「四国征伐」には本役を代名する支配的・圧倒的な認知度はないと思うのですが、machine_gunさんの主張通りに一般性を証明できる場合には、それに従いたいと思います。今のところそれが無く、Arawodasさんの調査について比較的妥当性が有ると認め「四国攻め」を支持致するのが現状です。--Yasumi 2009年11月8日 (日) 04:58 (UTC)
コメント まず主題についてなのですが、確かにYasumiさんは「メイン部分を言い換えれば「羽柴・長宗我部戦争(戦役)」とでも名付けることになり「四国の役」にも通じる」とも仰っておりますが、同時に「中央政権の四国勢力に対する開戦から終戦処理までを扱った戦役」とも仰っており、また改名提案前後に本記事へ秀吉の天下統一過程とは関係の無い毛利輝元の節を追加されたことから、本州勢力から四国勢力へ仕掛けた攻撃全てがこの範疇であり、最も大規模であった羽柴vs長宗我部のものが中心となる、という認識をされていると思っておりました。もしそうではなく「羽柴秀吉の全国統一の過程で発生した四国攻略戦」ということで問題ないならば、現時点で主題についてこれ以上議論する必要性はないと思います。
次に私が立証するのはやや順序が違う気がしますが、一般的な知名度の観点からのことです。いきなり小説その他の一般書を当たっても膨大な数であるので、まず一般的な知名度の指標として国語辞典における立項のタイトルを調べました。調べたのは大辞林、広辞苑、大辞泉で、大辞林は「四国征伐」、広辞苑は「四国平定」、大辞泉は「四国征伐」となっております。このうち大辞泉のみ1998年の改定ですが、大辞林は2006年、広辞苑は2008年ですので、ある程度昨今の語彙の一般性は反映されているものと考えられます。また、これはGoogleの結果とも矛盾せず(敢えて書く必要も無いかもしれませんが、こういう意味でGoogleの検索結果も参考に出来ると思っております)、Arawodasさんの調査結果を見る限り「四国攻め」の初出は2001年のようですからまだ8年では定着していないと考えれば、こちらとも矛盾するものではないように思います。上記を総合し、現時点では「四国攻め」よりも「四国征伐」の方が一般的な知名度は高いのではないかと考えます。
それとYasumiさんへ。「四国攻めが一般名詞的である」という部分は「何の論拠もない個人的な感情」であり、「それはおいといて現状維持が適切である」と書いている通り、私の個人的な感想、強いて言うならば妄執的に現状維持にこだわっているのではなく、改名を感情的に拒否しているわけではない、ということを表明したかったということです(一般名詞的と言うのは要するに秀吉に限定したものではなく「四国を攻める」ということ全てが含まれていると誤解されないか?と思うなぁ、という程度の意味です)。誤解を招く表現だったのかもしれませんが、もともと個人的感情と明記しているところに主張されても困るとしか言いようがないのですが…--machine_gun 2009年11月9日 (月) 08:06 (UTC)
machine_gunさんの論旨は理解しましたが、未だ一般呼称としての優位性を示す論拠がどこにあるのか理解できていません。中型国語辞典3点やgoogle検索の結果を以て論拠としているのでしょうか?それとも参考程度であって、別に明確な論拠があるのでしょうか?
machine_gunさんの中型国語辞典3点への調査結果を見て私が判断するのは「やはり書籍で散見されるのと同様に、本役はマイナーイベントなので表記に揺れがある」というだけで、「1585年の四国戦役を四国征伐と呼ぶことが一般的に普及している」と言う証明には至っていないと思います。
また、タイトル選択に於いて、Wikipedia:中立的な観点からの問題は感情問題で片付けられるものではなく、上述のコメントには客観的に「四国征伐」の表現にはハンデがあることを共通認識としたい意図があったわけですが、本件には同意頂けますでしょうか?その肝要な論点を感情問題として除外されてしまっては困ります。付言すると、Wikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名のガイドラインにもある通り、比較的ましではありますが「四国攻め」にも同様の懸念があることは認識しています。
さて、時間が限られる中で手短な範囲ですが調査をしてみました。この集計には「Yasumiの今回調査」の他に上記リンクの「Arawodasさんの調査」と「machine_gunさんの三辞典調査」「Googleのダブルクォーテーション検索による表層件数と似たページを除外した実際の検索件数」を集計しています。なにぶん粗い調査であり、カウント等に過誤もあり得るかも知れないので、ご確認下さい。なお、これは単純集計であり、呼び名については戦役名として取り扱われているか?項目主題として取り扱っているか?など、開戦経緯から本役そして戦後処理までの戦役を扱った内容に関しての軽重評価が必要であると考えます。(つまり、我々が議論している戦役名を示す範囲である「戦役を包括した表現」でない場合をカウントしている場合もあり得るということです)

Yasumi氏による調査一覧

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後日に節のみ挿入--Arawodas 2009年12月28日 (月) 08:20 (UTC)

    • 調査よりの単純集計
      • "四国攻め" 2000年以降10、1990年以降14、累計16、検索表層約 8,660件、実際510件
      • "四国平定" 2000年以降 6、1990年以降 8、累計13、検索表層約10,200件、実際601件
      • "四国征伐" 2000年以降 4、1990年以降10、累計13、検索表層約43,000件、実際436件
      • "四国国分" 文書集計省略、検索表層約 1,510件、実際172件
      • "四国征討" 文書集計省略、検索表層約 726件、実際156件
      • "四国の役" 文書集計省略、検索表層約135,000件、実際26件
    • 調査内訳
    • ●国語辞典類
      • 2008年『広辞苑』岩波書店、項目【四国平定】。1991年「第四版」は項目無し。
      • 2006年『大辞林』三省堂、項目【四国征伐】。ネット版も【四国征伐】
      • 2001年『日本国語大辞典 第二版』小学館、項目【四国征伐】
      • 1998年『大辞泉』小学館、項目【四国征伐】。ネット版も【四国征伐】
      • 内容は1994年?『Yahoo!百科事典』日本大百科全書、小学館、項目【四国征伐】
    • ●歴史事典類
      • 2005年『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館、項目【四国攻め】、本文【四国征討】
      • 2001年『山川 日本史小辞典』山川出版社は項目【四国攻め】
      • 2000年『日本歴史大事典』小学館、項目【四国平定】
      • 1999年『岩波日本史事典』岩波書店、項目【四国平定】
      • 1997年『日本史広辞典』山川出版社、項目【四国攻め】
      • 1997年『角川日本史辞典』角川書店、項目【四国攻め】
      • 1993年『国史大辞典』吉川弘文館、項目【四国征伐】
      • 1993年『日本史大事典』平凡社、【四国征伐】
      • 1991年『日本史総合辞典』東京書籍、項目【四国平定】
      • 1985年『日本歴史大辞典』河出書房新社、項目【四国征伐】
      • 1980年『戦国史事典』秋田書店、項目【四国の陣】
    • ●記事の参考になりそうな書籍・論文
      • 2009年『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』光成準治、文中【四国平定】
      • 2009年「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵--信長・秀吉の四国進出過程をめぐって」尾下成敏、戦役名なし
      • 2007年『秀吉神話をくつがえす』藤田達生、講談社現代新書、節題【四国攻撃】
      • 2007年『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』山本浩樹、吉川弘文館、文中【四国攻め】
      • 2007年『瀬戸内海地域社会と織田権力』橋詰茂、思文閣出版、文中【四国征討軍】【四国攻め】
      • 2007年「阿波国蜂須賀氏の支城「阿波九城」について」福永素久、文中【四国平定】
      • 2006年『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』小和田哲男、吉川弘文館、節題【四国攻め】
      • 2006年『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広、吉川弘文館、秀吉戦役名は無し
      • 2006年「小牧・長久手の戦いと長宗我部氏」津野倫明、文中【長宗我部攻撃】
      • 2005年「豊臣世間の取次-天正年間対西国政策を大正として-」戸谷穂高、文中【四国出兵】【四国国分】
      • 2003年『愛媛県の歴史』内田九州男他、山川出版社、文中【四国平定】
      • 2003年『謎とき 本能寺の変』藤田達生、講談社現代新書、秀吉戦役名は無し
      • 2001年「長宗我部権力における非有斎の存在意義」津野倫明、文中【四国攻撃】
      • 2001年『高知県の歴史』荻慎一郎他、山川出版社、、文中【四国攻め】
      • 1992年『集英社版日本の歴史11 天下一統』熱田公、節題【四国・北陸攻め】
      • 1991年「豊臣期国分に関する一考察 -四国国分を中心に-」藤田達生、主題【四国国分】、文中【四国攻撃】
      • 1991年『図説 高知県の歴史』山本大編、河出書房新社、文中【四国征討】
      • 1989年『香川県史 第二巻 通史編 中世』香川県、節題【四国攻め】、文中【四国遠征】
      • 1989年『香川県史 第三巻 通史編 近世1』香川県、文中【四国征討】
      • 1984年『愛媛県史 古代2・中世』愛媛県、節題【四国征圧】、文中【四国平定】
      • 1971年『高知県史 古代中世編』高知県、節題【四国討伐】、文中【四国征討】【四国征伐】
      • 1966年『徳島県史 第二巻』徳島県、文中【四国征伐】
      • 1965年『日本の合戦 第六巻 豊臣秀吉』(桑田忠親監修)山本大・杉本尚雄、節題【四国平定】
      • 1960年『長宗我部元親』山本大、吉川弘文館、文中【四国征討】
    • 参考(本記事の執筆にはあまり有用でない、または微妙なもの)
      • 2008年『史伝 蜂須賀小六正勝』清文堂出版、牛田義文、文中【四国攻め 】
      • 2007年『徳島県の歴史』山川出版社、石躍胤央他、文中【四国平定作戦】
      • 2006年「羽柴・徳川「冷戦」期における西国の政治状況」中野等、文中【四国平定戦】【四国国分】
      • 2006年「豊臣政権の人質政策の形成過程」高橋博、文中【四国出陣】【伊予攻略】
      • 2005年『瀬戸内の海賊』山内譲、講談社選書メチエ、節題【四国攻め】
      • 2005年『街道の日本史46 伊予松山と宇和島道』吉川弘文館、川岡勉・内田九州男編、文中【四国征伐】
      • 2004年『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』西尾和美、愛媛新聞社、文中【四国平定】
      • 2003年『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』池亨、吉川弘文館、文中【四国の制圧】【四国征服】
      • 2001年『街道の日本史45 讃岐と金毘羅道』吉川弘文館、木原溥幸・和田仁編、文中【四国征伐】
      • 2000年「豊臣政権と豊臣秀長」播磨良紀、文中【四国攻め】
      • 2000年『岡山県の歴史』山川出版社、藤井学他、文中【四国攻め】
      • 1998年『詳説 日本史研究』山川出版社、文中【四国を平定】
      • 1997年『香川県の歴史』山川出版社、木原溥幸他、文中【四国征討軍】
      • 1992年『黄金太閤』山室恭子、中公新書、文中【四国攻め】
      • 1985年『豊臣平和令と戦国社会』藤木久志、東京大学出版会年、章題【四国国分】、文中【いわゆる四国征伐】
      • 1984年『岡山県史 第六巻 近世1』岡山県、文中【四国征伐】【四国平定】
      • 1975年「河野通直の死と豊臣政権」西尾和美、文中【四国平定】
      • 1975年「豊臣政権下の大名石高について」、文中【四国陣】
      • 1965年『小牧・九州・小田原の役』旧参謀本部、徳間書店、本文中【四国を平定】。桑田忠親の前文概説の節題【四国平定】・文中【四国の役】【四国討伐】【四国攻め】
      • 1959年『安国寺恵瓊』河合正治、吉川弘文館、文中【四国の役】
      • 1958年「長宗我部政権の変質と一領具足」山本大、文中【秀吉との戦争】
所感として重要に思えるのは、呼称の集中傾向自体よりも、通史などの取り扱いであり、「小牧・長久手の戦い」九州の役小田原の役等と比べての扱いが少なく、主題・章題・節題などに成りにくくスルーされる場合も多々あり、「戦役自体が一般的でない」という事です。
さらに、以上の集計傾向より本役に対する呼称として圧倒的支配的一般的に普及している名称はなく、現在に近付くほど本役呼称は「四国攻め」に比重が移る傾向にあり、先述の中立的な観点と合わせてウィキペディアの項目名とするのに妥当であると考えます。この集計傾向は客観条件として執筆に使う出典に絞れば、更に顕著となりそうです。--Yasumi 2009年11月12日 (木) 12:05 (UTC)
どうも議論がかみ合っているかわからないので一度整理したいのですが、Yasumiさんが提案され、Arawodasさんの調査により補強された改名提案に対して私は(伝わりにくかったのかもしれませんが)、
  1. 改名の論拠となっているArawodasさんの調査は「羽柴秀吉の四国攻撃」を主題としたものであるのに、Yasumiさんの改名提案やその前後の編集からは「本州勢力の四国攻撃」をこの記事の主題としている可能性もあり、そうであるならばArawodasさんの調査とこの記事の主題が食い違ってしまって議論にならない。
  2. 改名するにはWikipedia:ページの改名から考え、Wikipedia:記事名の付け方に沿うべきであり、故に学術的な正当性よりも一般的な知名度を重視すべきである。そしてArawodasさんの調査は近年、「四国攻め」が研究者の間で正当とされつつあることの論証であり、一般的な知名度の論証ではない。
  3. (1)、(2)により、現時点で「現在の記事名が一般的に通用しないこと、及び改名する記事名が一般的に通用すること」を論証されたとは言い難いので改名すべきではない(=現状維持)。
と主張しております。このうち、(1)についてはこの時点で「羽柴秀吉の四国攻撃」を主題としているという点で合意でき、また(2)についてはこの時点及びこの時点で、私に対してお二方が一般的な知名度を前提とする論証を求めていることから、我々3人の間では合意できていると考えております。
そして、私は「今のところ改名すべきという論証が足りていない」と主張しているのに、Yasumiさんも『「1585年の四国戦役を四国征伐と呼ぶことが一般的に普及している」と言う証明には至っていない』と仰っており、議論がかみ合っていないのではないかと思いました。私は改名提案に関してはまず提案側が
  • 現在の記事名が一般的に通用しないこと(改名ガイドラインの「記事名の付け方に沿っていない」という要件)
  • 改名する記事名が一般的に通用すること(記事名ガイドラインの「一般的に知られている、通用する」という要件)
の2点を論証し、それに対して反対側が上記のいずれかを満たさないことを反証するものであると考えております。この観点から「四国攻め」が一般的知名度を持っており、かつ「四国征伐」は一般的知名度を持っていない、という2点の論証が為されていないにも関わらず、「論証できていない」と主張する私に反証を求めるのは、順序が違うのではないかと考えております。
また、中立的な観点を「記事名」に落とし込むと、「様々な立場はあるが、それらの立場を代表することなく一般性について議論する」という考え方と、「様々な立場があるが、全てに中立である記事名を選ぶ議論をする」という考え方があるように思います。私は前者の方が中立性の観点の本義に近いのではないかと思っておりますが、YasumiさんはWikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名を示されていることから、後者の立場に立たれているのではないかと推察致します。
前者の立場に立つならば、一般性のみが問題となるわけで、今回の改名提案についてはやはり「四国征伐」がガイドラインに沿っていない、という論証が必要になります(私はこの立場です)。一方で後者の立場に立てば「四国征伐」とは一方的な視点(羽柴側)に立つものであり、受け入れ難いという点も理解できます。しかし、その場合にはYasumiさんご自身も明言されている通り、「四国攻め」も同じ問題点を抱えるものであり、「四国征伐」「四国攻め」ともに適切ではなく、ある程度使用されている「四国の役」が適切となる他、Wikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名はある程度ならば造語の余地を認めているようですし、この立場に立つならば「四国の戦い」「四国の陣」あたりも適切であるという結論に至ります。(ただし、Wikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名は英語版Wikipediaのガイドラインを翻訳しただけであり、日本語版Wikipediaで議論された形跡がないので、どこまで我々が拘束されるべきかは不明です)--machine_gun 2009年11月12日 (木) 17:13 (UTC)
かなり論点がずれていますね。まず、我々は「記事名の真偽を議論しているわけではなく、歴史学的なイベント「羽柴・長宗我部戦争(/Warまたは戦役/Campaign)」について支配的・圧倒的な呼称・俗称が無い中で比較一位を選ぶ」議論をしている。従って、調査や検索から「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」等は比較的一般的な名称ではあるが、支配的・圧倒的な一般性は無いと思います。違いますか?(このあたりは「ドングリの背比べをしている」と仰っているArawodasさんも同意見であると思われますが、補足・修正があればよろしくお願いします)
次に、machine_gunさんは「学術的な正当性」と「一般的な知名度」を対立概念であるかのように切り分けていますが、歴史学的なイベント記事を扱っている以上「一般的な知名度」の指標に発信源である学術傾向を汲むのは当然であり、記事として採用できる出典の中から選ぶ方法は水掛け論を防ぐ優位性もあります。しかし、machine_gunさんがそうではない、それ以外に客観的な知名度を示すことの可能な指標があって四国征伐の「一般的な知名度」が証明できるならそれを示して欲しいと言うことです。
三番目に中立的な観点から「四国の役」あたりが差し障りのない呼称なのですが普及度が今一であり、残りの候補の中でも「四国征伐」には一方的な観点に加えて勝利側の正当性主張の意味合いがあるため「四国攻め」「四国平定」に比べて劣位にあると言えます。本点についての比較優劣については前回も問い合わせているのでコメントを求めます。--Yasumi 2009年11月15日 (日) 07:23 (UTC)
私は改名議論を『いくつかの記事名候補から比較一位を選ぶ議論』ではなく『現在の記事名がガイドラインに沿っておらず、かつ提案する記事名がガイドラインに沿っているという議論』であると考えています。ですから、真贋論争も比較一位を選ぶ議論も今のところ必要は無く、先に「四国征伐はガイドライン違反なのか」ということの論証、その上での「四国攻めが一般的である」という論証が必要になると考えています。この点については改名のガイドラインでも「改名は次の場合行います:記事名ガイドラインに沿っていない時」とあることからも明らかであると考えています。
その中で記事名ガイドラインは歴史的事件の記事名に「一般的」であることを求めております。私はこの「一般的」の解釈として多くの人がわかることが重要であると考えており、その中で学術的正当性と一般的知名度は対立しないが、学術的正当性が直接、一般的知名度を構成するわけでもないと考えています。一般論としては学術的正当性があるものが一般的知名度が高いことが多いとは思いますが、真田信繁/幸村のように、学術的に正しいのは信繁であるものの、一般的な知名度は幸村、という事例などもあり、学術的正当性が直接一般的知名度につながっているわけではないことは明らかです。これに対して、確かに「一般的知名度は出すことが不可能」という主張は拝見しましたが、私は例えば国語辞典から一般的知名度は出せる、と反証しているように思います(別に辞書が一般的知名度の唯一絶対の指標というわけではなく、不可能であるという主張に対して、可能な方法を提示して反証した、ということです)。
私はYasumiさんに一つお伺いしたいことがあります。それは、『なぜ「四国征伐」を変更すべきとお考えなのか』ということです。今までの議論を通じて、「四国征伐」に一般性がない、というような結論は出ていないと思います。「四国征伐」は一般的に通用するならば、それはガイドラインに沿った記事名です。ガイドラインに沿った記事名を変更しようとする理由は何なのでしょうか?
中立的な観点については前回述べたとおり、私は「様々な立場はあるが、それらの立場を代表することなく一般性について議論する」という立場です。即ち、Aという記事名には政治的主張がある、Bという記事名にはそれはない、というようなことを考えず、最も一般的なものを用いることが最も中立的であると考えているわけです。ですから、Yasumiさんの仰る四国征伐は政治的主張が、四国攻めは一方の立場からだ、というような議論をすることは好ましいとは思っておりません。--machine_gun 2009年11月15日 (日) 14:50 (UTC)
私は改名議論を『いくつかの記事名候補から比較一位を選ぶ議論』ではなく『現在の記事名がガイドラインに沿っておらず、かつ提案する記事名がガイドラインに沿っているという議論』であると考えています。ですから、真贋論争も比較一位を選ぶ議論も今のところ必要は無く、先に「四国征伐はガイドライン違反なのか」ということの論証、その上での「四国攻めが一般的である」という論証が必要になると考えています
とのことですが、Wikipedia:ページの改名によると、現記事名がガイドラインに沿っていない場合以外でも改名はできます。つまり、
  • ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき
に相当する場合です。と申し上げると現記事名が適切でないという論証がないという反論がくるかもしれませんが、現記事名より適切な名称があるのにそれを用いない、とすれば、裏を返せば「現記事名はより不適切な名称である」という論証が成立するのではないでしょうか。私はこれで十分と考えます。
従って、現記事名がガイドラインに沿う沿わないという議論は無駄とまでは言いませんが、今回の改名議論には必要不可欠なものではないと私は考えています。この点について、machine_gunさんの熟考をお願いしたいと思います。
ついでに申し上げますと、machine_gunさんの改名議論の認識の何が問題かというと、改名を提案する側にのみ重い論証義務を課し、一方で現在の記事名に対する検討は甘いということです。そもそも記事を作成する段階においては、記事名について何ら客観的な検討がされた形跡はなく、初版立項者の主観で命名されただけです。この時点で、現記事名に有利な条件を設定する理由がありません。公正な検討を行うためには、現記事名と改名候補を互いに対等な立場で競わせるのが当然であり、不可欠であると考えます。現記事名が本当に妥当なものであるなら、この条件で十分優位に立つことができるはずです。machine_gunさんには、ご自身の思考に不合理な点がないか、一度考え直して頂きたい。あなたの論理は、「はやい者勝ち」を追認するだけのものになってはいませんか? 拙速な返答は要りません。
以上を踏まえて改めて言いますが、私は記事名Bが記事名Aに勝ることが論証できれば、その時点でAが記事名として不適格であることも論証され、A→Bへの改名の条件は満たされると考えます。この点で齟齬がある間は、建設的な議論は望むべくもないと思います。--Arawodas 2009年11月17日 (火) 04:17 (UTC)
私はYasumiさん、Arawodasさんのお二方から、Wikipedia:記事名の付け方を提示されたので、てっきり「ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていない」から改名すべきだ、という議論と思っていたのですが、そうではなく「ページ名がページの内容を表すのに適切ではない」から改名すべきだ、ということでしょうか。この「ページ名がページの内容を表すのに適切ではないとき」とは、日本語そのままに(例えば今回の記事を「金子城の戦い」だとか「豊臣秀吉の天下統一戦」だとかとしているような)記事の主題と記事名が一致していない場合でしょう。今回の場合、3人の調査いずれもで羽柴・長宗我部戦役を指して「四国征伐」と呼称している例がいくつもあることから、記事名は適切に記事の内容を表しており、「ページ名がページの内容を表すのに適切ではないとき」と仰るには無理があるように思います。
次に改名議論の認識についてなのですが、確かに現在の記事名に対して甘い、と言われればその通りなのかもしれません。しかし、これは両論併記ができず、また不存在も許されず、一つの記事名を選ばなければならない改名提案という性質から、やむをえないものと考えております。もし比較して検討するならば、候補のいずれも信頼できる出典があり、記事の内容ならば本来両論併記になるような場合、記事名は両論併記ができない為に結論が出ない、ということにつながりかねません。そこで、長い間Wikipedia内で記事名を維持してきた点から現記事名にある程度の正しさを推定し、まず反証から入ったほうが合理的であり、改名ガイドラインでは「ページの改名は次の場合に行います。」としているのだと考えております。また、「早い者勝ちを容認する」という点についてなのですが、早い者であっても記事名ガイドラインに沿わない呼称である場合には明確に否定できます。そうではなく、AもBも同程度に間違ってはいない、というようなドングリの背比べの場合には早い者が優先されますが、これはそうした場合にどちらも同程度正しいから記事名が決定できないという事態を回避する為の解決策としても、また長く使われてきたものを尊重したほうが無用なリダイレクトが増えないという点でも合理的だと思いますし、それが改名ガイドラインの趣旨なのだと考えております。
逆に改名議論とは現記事名、改名案の中から比較して決める議論であるとするならば、上記のようなドングリの背比べの場合、決め手を欠き極めて合意形成がしづらいものとなります。これは、比較とは言いながら、数字のような客観的な根拠を出して比較できない為です。また、比較して決定する議論とするならば、現記事名1つしか候補が無い中の比較して決めるなどということは無意味であり、故に改名案が存在しない改名議論は当然に存在し得ません。しかし、実際には改名案のない改名提案は認められております。この点からもガイドラインが想定している改名議論とは、候補の中からの比較議論ではなく、現記事名が改名に値するか否か+新しい記事名がガイドラインに沿っていて適切かを考える議論であると考えられると思うのですが。
ところで、誤解があるようですが私は別に現記事名Aよりも改名案Bよりも明確に優位性を持つことを論証することで、現記事名Aの瑕疵を論証する方法を否定しているわけではありません(本質的には分けて考えるべきではあるものの、それらを混淆して論証することを否定する理由はない、と考えております)。ただ、明確な瑕疵や優位性が存在しなければ、Aが正しいと推定されるものであるというだけのことであり、その意味でまず最低でも「四国征伐」の瑕疵を指摘しなければ、改名提案そのものが成り立たないと考えております。
最後になりますが、先立って記事名ガイドラインの内容について「一般的」とは何なのかを議論し、その上で私に「四国征伐」がガイドラインに沿っていること(一般的な知名度)の立証を求められたにも関わらず、いざ国語辞典を提示したところ、今度は
Wikipedia:ページの改名によると、現記事名がガイドラインに沿っていない場合以外でも改名はできます。つまり、ページ名がページの内容を表すのに適切でないときに相当する場合です。と申し上げると現記事名が適切でないという論証がないという反論がくるかもしれませんが、現記事名より適切な名称があるのにそれを用いない、とすれば、裏を返せば「現記事名はより不適切な名称である」という論証が成立するのではないでしょうか。私はこれで十分と考えます。従って、現記事名がガイドラインに沿う沿わないという議論は無駄とまでは言いませんが、今回の改名議論には必要不可欠なものではないと私は考えています。この点について、machine_gunさんの熟考をお願いしたいと思います。
と仰っておられます。当初から「ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき」に相当して「四国征伐」が羽柴・長宗我部戦役を表さない不適切な記事名であり改名すべきと主張されたのであれば、ガイドラインの話は一切不要であり、単に「四国征伐」が他の事柄を意味していることを示せばすむことです。にも関わらず立証を求めておいて、私が国語辞典を提示したら『ページの改名における論拠は「ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」ではなく、「ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき」であり、ガイドラインに関連する議論は必要ではない』では、一貫性を欠くように感じます。この点について、どのような意図で発言されているのでしょうか。--machine_gun 2009年11月17日 (火) 20:05 (UTC)

記事を改名する場合、改名前と改名後ではどちらが正しいのかということも問題ですが、このページの場合どちらが正しいとは言い切れないでしょう。このページが出来た直後から「四国攻め」でも良いのでは?という声は少しあったようです。ただ、しかし、実際に改名提案が出たのは、立項から3年半以上たった2009年です。この間、曲がりなりにもこのページ名で通って来たわけで、それはこのページ名がある程度理解されたうえで編集され続けたのではないかと思います。あとグーグル検索についてですが、「四国攻め」はドライブ・旅行を揶揄して使われているケースも多々あり、「四国攻め」の優位性は表せないと思います。--秋田城之介 2009年11月18日 (水) 02:17 (UTC)

秋田城之介さん、はじめまして。3年半放置されたのは、単に記事名に関心を持つ人間が関わらなかっただけです。放置された期間の長さが現記事名の正当性に何か関係あるのでしょうか。それからgoogle検索を「四国征伐」優位の論拠として用いているのはmachine_gunさんであって、私は一貫して検索結果は論拠にできるほどの信頼性はないと繰り返し述べています。もう一度議論の経過をよくお読み頂き、その上で言うべきことがあればコメントして頂きたいと思います。
machine_gunさんへ。「一般人の知名度」の論証を求めたのは、machine_gunさんご自身がそれを「学問上の一般性」と別個に検証可能であるとし、かつそれが「学問上の一般性」より重要な要素であると述べられたからです。ご自身の主張を実行されるよう要請したに過ぎません。私がいつガイドラインを盾に取って要求するような真似をしたと言われるのでしょうか。私が記事名の付け方を示したのはガイドライン中の文章を引用して、その文章に異議を唱えないと述べた一度だけです。「一貫性を欠く」などという発言は、きちんと文章をお読み頂いてからにして頂きたいと思います。
さて、私の目から見ても「四国征伐」は時代遅れになりつつある呼称ではあるが、まだ不正解ではありません。ですが満点でもありません。「四国攻め」も満点ではないかもしれませんが、少なくとも「四国征伐」よりは「四国攻め」の方がより正解に近いと考えられます。これまで挙がった材料から判断する限り、研究者の「四国攻め」移行傾向ははっきりしており、かたや「一般人の知名度」を示すのであろう材料は質量共に貧弱で、前者を覆すほどのものとはとても言えないのですから。しかるに、machine_gunさんの論理だと「「四国征伐」が不正解とは言い切れない」というだけで、よりましな名称を採用することができなくなる。しかも(それが容易でないにもかかわらず)「一般人の知名度」を論証せよ、そこで特定の傾向が示されない限り専門分野の書籍をいくら集めても無駄だと切って捨てられる。これが不合理でないと言えるのでしょうか。私は明らかに不合理だと考えますので、「四国征伐」≠不適切というだけで改名提案を門前払いするような論理は受け入れられません。ページの改名記事名の付け方がそのような硬直した運用をするために存在すると、本気でお考えなのでしょうか。もう一度申し上げます。考え直して下さい。
法解釈もどきの観念的な議論はもう飽き飽きです。対立意見を維持するならするで、実証を伴った中身のある主張を頂きたいです。私たちがぐうの音も出なくなるほどの論拠を自力で探し出して突きつけようとなぜなさらないのか? 議論相手に失望したくないので、そろそろ真っ向勝負でお願いしたいです。
ただし、machine_gunさんご自身が「小説その他の一般書を当たっても膨大な数である」と述べておられる通り、やり方によっては大変な作業になるのが容易に予測できますので、無理にやれなどとは申せません。国語辞典数冊で十分とお考えならそれも結構ですし、立証を放棄されるのもご自由です。私としても、膨大な書籍を調べるのに時間がかかるから終わるまで待て、と言われても困惑するだけですし。--Arawodas 2009年11月19日 (木) 03:30 (UTC)
Arawodasさんのご主張は、「ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき」であるということですよね。これは即ち、「四国攻め」は「四国征伐」他よりも羽柴・長宗我部戦役について過不足無くその内容を表現している、というご主張であると思います。であるならば、確かに記事名の付け方ガイドラインに沿う沿わないの話は全く無意味だと思います。
一方で[2]では、記事名の付け方を持ち出した上で一般人の一般性を導くことは困難であり、Googleは無意味であり、故に「これ(Arawodasさんが調査された『専門書におけるの呼称』)が研究者間の傾向を示すものにすぎないとしても、一般性を追究する手段としては他に有効なものが思いつきませんので」改名すべき、と主張されております。これは明確に記事の付け方ガイドラインに基づいて一般人の間で一般的な呼称は導けないで、研究者の間で一般的な呼称を用いるべきであると主張されています。
これが「ガイドラインが一般的と言っているのは研究者の間で一般的であればよく、であるならばガイドラインに沿っているのは「四国攻め」である」と主張していたにも関わらず、「ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき、であるから、現記事名がガイドラインに沿う沿わないという議論は不必要である」と主張されるのは一貫性を欠いているように感じるので、これは一貫性があり、整合性の取れた主張なのだと説明して頂きたいと言っております。
また、Arawodasさんが主張される「ページ名がページの内容を表すのに適切でないとき」というのは「四国攻め」は「四国征伐」他よりも羽柴・長宗我部戦役について過不足無くその内容を表現している、ということになります。これは現時点では全く論証されていません。「四国攻め」と「四国征伐」は同じ戦役を指す語であるということは上記のいずれの資料からも明らかであるように思います。仮に「四国攻め」と「四国征伐」の意味合いが違い、羽柴・長宗我部戦役を過不足無く伝えられるのは「四国攻め」というのであれば、もう少し理由を説明してほしいです。--machine_gun 2009年11月25日 (水) 15:39 (UTC)
今問題としているのは「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」は羽柴・長宗我部戦役のこと「も」指しているという点を無視してはいけません。その代名詞が表記揺れを起こしているのが前提があり、その中でマシな物を選択しているのです。また、「この記事」が「正義の秀吉が悪の長宗我部を征伐する勧進帳悪物語あるいはドラマ」を書いた物であれば媒体に乗って膾炙された一般の読者や視聴者からの呼び名も重要でしょう。しかし、machine_gunさんは「この記事」をなんだと思っているのでしょうか?「この記事」は「歴史学として捉えた羽柴・長宗我部戦役(及び付随する関係前後事情)」を表記した物ではないのでしょうか?そしてそれは出典となる専門家の研究や著述により形成されているのです。「この記事」がなんなのかを示したのが「記事名」であり、これはガイドライン冒頭で触れられており、よく考える必要があるでしょう。--Yasumi 2009年11月25日 (水) 21:28 (UTC)
前段の『「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」は羽柴・長宗我部戦役のこと「も」指しているという点を無視してはいけません。』の文意がよくわかりません。上記の私の主張はArawodasさんが「四国攻め」は「四国征伐」に比べページの内容をより適切に表しているのだから、そもそも記事名の付け方ガイドラインに沿っている、沿っていないという議論は不必要であるという主張に対して、私は「四国攻め」「四国征伐」他はいずれも適切にページの内容を表しているものであり、その中で何が最もガイドラインに沿っているのかを議論しているのだ、と主張しているものです。その意味でYasumiさんと私は同じことを主張しているように思うのですが…後段部分(「しかし~」以下)については下で反論いたしますので、ここではコメントを控えさせて頂きます。--machine_gun 2009年11月26日 (木) 03:41 (UTC)
「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」は元々戦争名称でなく、近年になって戦争史研究が進んだ結果、○○戦争の代名詞として結果や行為を以て代称した物であり、言葉の原義が別にあると言うことです。各候補は羽柴・長宗我部戦争を表した名称で「も」あり、元々戦争でない事象を表して「も」いるのです。戦争単位の取り上げ方が少なかったという先行研究に鑑み、定着していない戦争名称を題名するために関係する別の名詞が代名的に使用されることに注意しながら前述の説明を再読下さい。--Yasumi 2009年11月28日 (土) 23:59 (UTC)
現記事名がガイドラインに沿う沿わないという議論は不必要
「四国征伐」が明確にアウトであることを証明せよ、でなければ「四国攻め」が「四国征伐」より優位か否かなど関係なく却下だ、というのがmachine_gunさんの主張ですよね。その主張が不合理だから引っ込めて頂きたいと言ってるだけです。私は「四国征伐」を完全否定しませんでしたし、今もそのつもりはありません。ですが、するとmachine_gunさんは「完全否定しない→現記事名はガイドライン違反ではない→門前払い」で切って捨てようとします。今思えばはっきり「そのガイドラインの解釈は誤りである」と言うべきでしたね。ですが当時は真っ向から否定するほどの自信もなかったので、まずは「適切でない」を援用すればガイドライン違反でなくても改名議論はできるよ、ということを示したのです。
さて。前回申し上げた通り、既に私は現在の議論の内容に飽き飽きしています。肝心の私からの疑義について、machine_gunさんからは未だ回答を頂けてないわけですが、もう待ちません。Wikipedia:コメント依頼/Arawodas,Machine gun,Yasumiを提出しましたので、ガイドラインの適切な解釈について理解を深める機会にして頂ければと思います。--Arawodas 2009年11月26日 (木) 04:08 (UTC)
そもそもガイドラインに基づいた主張をされていながら、突然「ガイドラインに基づいた議論は不必要」と述べられ、私が一貫性を欠くと言えば、「きちんと文章をお読み頂いてからにして頂きたい」と言われ、それを過去の版を示しておかしいと言えば、内心はガイドラインに基づく議論を否定したわけではないが他の観点から主張したに過ぎない、では余りにもご主張が二転三転しすぎです。そのようにころころと主張を変えられるのは、まるで「四国攻め」へ改名する為にはその論拠は何でも構わない、という改名が目的化した本末転倒な姿勢である印象を受けます。
また、コメント依頼についても別にコメント依頼をすることは否定しませんし、第三者も含めて議論が活性化することはむしろ歓迎すべきことであると考えております。しかし、議論する場がないならばともかく、ここで議論しているのに唐突にあちらにサブページを作って、ご自身の主張だけを書いてしまうやり方は肯定できません。まず何よりも私やYasumiさんがいつまでに自身の主張を書き、いつからコメントを求めるのかということも示さず(そもそもこれもArawodasさんの一存で決めることではなく、ここで合意形成した上でコメント依頼することですよね)、ご自身の主張だけ書いてコメント依頼してしまう行為は私たちの意見陳述の機会を奪うものであり、手続きとして非民主的であるという批判を免れません。加えて、本来ならば議論の場(このノート)にコメントを求める形が通例であるにも関わらず、敢えてあちらのサブページに議論を誘導する形を取っている点も疑問です。私が「主張が一貫性を欠く」と言った途端、「もう待ちません」と合意形成することも無く、唐突かつ強引に、異例の手法で議論の場を変えようとしているのは、議論を撹乱しているようにしか見えません。
正直、私はこの議論を通じてきちんと調査して主張されるArawodasさんやYasumiさんの姿勢に、立場や主張は違えど敬意と好感をもっておりました。しかし、今回の今までご自身も含めて行ってきた議論を「私はその主張はしないし、だからその議論は不必要だ」とばっさり切り捨てる、記事名を「四国攻め」とすることが目的化したような一貫性の無い主張や、それを指摘した際の「内心は違った」という説明や、更には唐突かつ強引に異例の手法で議論の場を変える行為は議論姿勢として極めて疑問です。コメント依頼にしても、誰かがえいやと結論を出してくれるものではなく、我々が合意を形成する手助けをしてくれるにすぎないのに、そのような議論姿勢で臨まれれば合意形成できるものもできなくなります。私の言い方が悪くヒートアップさせてしまった面もあるでしょうしその点はお詫びしますが、少しクールダウンされてちゃんとした議論姿勢で臨まれることを望みます。--machine_gun 2009年11月27日 (金) 00:58 (UTC)
ガイドラインに基づいた主張をされていながら、突然「ガイドラインに基づいた議論は不必要」
この時点で私の主張を読み誤っています。前者はA「ガイドラインに照らして「四国攻め」が「四国征伐」に優っていること」の論証であり、後者はB「「四国征伐」が単独でガイドライン違反であること」の論証は不要であることです。前者と後者は矛盾しません。Aは必要だが既に果たされた、Bは必要ない。それだけのことです。
必要ないはずのBの証明をmachine_gunさんが求めることについて、その不適切さをどう考えるべきか。最初はmachine_gunさんの解釈が必ずしも誤りでないという前提で考えましたが、そうするとガイドラインは改名提案に対してあまりにも枷をはめすぎていることになる。その不合理さは散々述べたので割愛します。ガイドラインそのものに問題があるのでない限り、不合理に対する救済措置が存在しているはずだと考え、結果「適切でない」条の援用がその役割を果たすものだろうという考えに至りました。すなわち、コメント依頼的に言うなら1-bにおいてmachine_gunさんの解釈が正しいとするならば、同時に1-aで私の解釈が正しいとされない限り、WP改名は著しくバランスを欠くものになると考えます。
ですが、このように回りくどく考えるよりも、単純にmachine_gunさんの解釈が誤りであり、WP改名は元々改名に厳しい条件を突きつけるための存在ではないと考えた方が自然ではないかと現在では思い直しています。
繰り返し同じことを言うのも疲れましたが、私が言いたいのは「現記事名がガイドライン違反であることを証明しない限り改名不可」という解釈を撤回して頂きたい、ということです。machine_gunさんがこの解釈を堅持することは、本記事における合意形成を致命的に阻む要素だと考えています。しかしながらmachine_gunさんは、この点についてはもはや回答すらされません。ガイドラインの解釈を巡って大きな齟齬があり、しかも双方とも相手を説得できる見込みがない。なら新しい血を入れるしかないでしょう。
ここで議論しているのに唐突にあちらにサブページ
独断で実行したことについては謝ります。ですが、取った手段については最も適切だったと確信しております。少なくとも私とmachine_gunさんの間の論点は、ガイドラインの解釈という記事独自の要素と無関係な内容に発展しており、しかもmachine_gunさんの解釈が正当であるとするならば、他の改名議論にも影響を与えることは避けられないと私は考えます。一記事のノートで小人数で論じるより、より多くの人に参加して頂くべき内容です。それに記事に対するコメント依頼だと記事そのものへの知識のない人はあまりやって来ません。以上に加え、複数のガイドラインについて同時に取り上げられるという利点も考慮して、利用者に関するコメント依頼を選択したのです。依頼立項を含めて私の言動が「一貫性の無い主張」「議論を撹乱」と言えるような不適切なものならば、遠からず私に対し批判の雨が降り注ぐことでしょうし、依頼には即時終了票が殺到するでしょう。Wikipediaにはそれくらいの自浄作用はあると思います。クールダウンについては、machine_gunさんがお休みの間にクールダウンしたからこそ、このような考えに至ったものとご理解下さい。もっとも、この単語が出てくる時点で双方ともクールダウンなんかできてない可能性が高いとも私は思いますので、その点でも私たちが現状のまま直接議論するのはもう限界じゃないでしょうか。
議論の場を変えようとしている
念のために言っておきますが、あの場所で私たち自身が議論することは想定していません。あくまで第三者の意見を募るものです。--Arawodas 2009年11月27日 (金) 04:07 (UTC)
ところで、machine_gunさんとyasumiさんは、現状のまま議論を続けることに何か前向きな展望をお持ちなのでしょうか。「改名側による現記事名がガイドライン違反であることの証明は必要か」「一般人の知名度についての証明は必要か」「政治的主張のある名称の扱い」と、議論の前提からしてこれだけ食い違っています。しかもこれらはそれぞれが一記事のノートで結論を出すには重すぎる、普遍性のあるテーマです。
議論がすれ違うほんの一例として。私はネット検索について、yasumiさんは国語辞典について、それぞれ論拠としての有効性をmachine_gunさんに質問しました。ですが、今の所machine_gunさんはどちらにもお答えになりません。これまでの議論からmachine_gunさんのお考えを推察するに、そもそもmachine_gunさんは何一つ論証を要求される立場になく、改名論者の提示する論拠を判断し、それが満足いくものでなければ反対するだけで事足りるということでしょうか。ゆえに、ご自身が例示した論拠への質問には、答える必要がないと思っておられるのでしょうか(間違っていたらすみません)。ですが私から見ると、machine_gunさんが現記事名維持を表明される限り、machine_gunさんにも私たちと同等の論証責任があると考えていますし、それを果たさないままの発言は、裏付けを欠く説得力に乏しいものと受け取らざるを得ません。この落差は、このまま私たちだけで話し合って解消できるでしょうか? 私は極めて困難だと思うのです。
現在でも、例えばyasumiさんの提示されている「この戦役に「一般人の間における一般的な名称」は存在するのか」といった本記事固有の(私から見れば)有効な論点はあります。ここでmachine_gunさんが「ある」ことを証明してやろう、と動かれればそれなりの進展もあるでしょうが、「ない」ことを証明するのは私やyasumiさんの仕事で、話はそれからだというお考えでしたら、やっぱり議論は行き詰まっているという他ないです。
というわけで、順序が逆になりましたが、改名議論をいったん中断して、まずは議論の前提を一致させるべきだと考えます。そしてその作業は私たち自身では不可能であることから、第三者の介入を求めるべきです。場所については、ここで行うことはテーマの普遍性に照らして不適であり、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方Wikipedia‐ノート:ページの改名Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 歴史Wikipedia‐ノート:中立的な観点なども有力ではありますが、議論の分散を避けるためコメント依頼にて一括して行うのが最善と思います。--Arawodas 2009年11月27日 (金) 08:04 (UTC)
Machine gunさん一流のガイドライン解釈の違いにより、第一に当方論理論拠について議論頂けずに拒否されていること、第二に当方はMachine gunさんの論理論拠についての検討もして見ましたがその論拠不明言・過少によって妥当性を見つけられない状態により、ガイドライン運用についてのコメント依頼を支持します。--Yasumi 2009年11月28日 (土) 23:59 (UTC)
以下、つらつらと書いてありますが、先に纏めとくと「1.machine_gunさんの御主張するガイドラインの「一般的」の解釈は私と異なるし、「一般的」の意味はよく考えるべき。 2.machine_gunさんの論理を僅か3点中2点の中型国語辞典調査を論拠として確保するのは難しいと思う。項目のない国語辞典が多いという事実から一般性は低い。 3.記事内容が歴史学的な内容なのに、何故歴史学的見知を無視して紛れのある呼称(秀吉の顕彰と正当化の政治的意味を内包する四国征伐)を選ぶのか?」
machine_gunさんとは「一般的」の解釈に大きな隔たりがあるようです。私はWikipedia:記事名の付け方#歴史的事件の「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する。」について、「一般的に知られている」とは通称・俗称が記事の本質を示す圧倒的支配的な呼称である場合に適用される慣習でありましょう。これは事例にあるすなわち事例である関ヶ原の戦いベルリンの壁崩壊OK牧場の決闘ブラックソックス事件地下鉄サリン事件が記事の本質を表した上で一般的に定着した呼称である事からも理解できます。これらは決してガイドライン冒頭の「記事の題名は、まず何よりも「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」である必要があります。そしてその次に「その記事へのリンクを作成しやすいもの」であることも重要です。」を逸脱した物ではありませんし、一般的な呼称がなければWikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うことの「記事名は基本的には日本語での正式名称を使用します(ただし記事によっては#その他の慣例にあるように自動車関連の記事などに一部例外あり)。」が浮上することとなり無視することは出来ません。というのは、今上がっている改名候補はいずれも代名詞的な使われ方で「羽柴・長宗我部戦争(戦役)」を表現しているからです。すなわち「秀吉の四国征伐」は本来は軍記物や講談からの表現であり「正統な羽柴氏が反逆する悪者の長曽我部氏を討伐した」という政治的なプロバガンダ性が込められていますし、「秀吉の四国平定」は戦争結果を表現した物(直接戦争を表現したい場合には平定戦と更に言い換えるようなケースもあり)ですし、「秀吉の四国攻め」は軍事行動を示しています。軍記物や講談などの言説ならいざ知らず、これらはいずれも記事の本質を示していません、これらの代名詞の中で比較的知名度のある表現を議論しているのです。
さて、machine_gunさんも今回国語辞典を引かれて調査の中で当然認識された事と思いますが、本件を載せている国語辞典は僅かであり一般的には項目のない国語辞典が殆どです。これは本件が一般的でない証拠の一つでしょう。さらにサンプルが中型国語辞典3点であるという事も「一般的」の証明にはほど遠いと考えます。これについては一般的を2/3点であるから一般的と考えるか、あるいは圧倒的なシェアを誇る広辞苑の項目「四国平定」が人目に着く一般性ずあると考えるか、いずれにしろ「一般的」を客観評価する根拠として貧弱であると思います。その広辞苑でさえ少なくとも前々版には項目がないのです。「やはり書籍で散見されるのと同様に、本役はマイナーイベントなので表記に揺れがある。--Yasumi 2009年11月12日 (木) 12:05 (UTC) 」という評価に止まります。『現代用語の基礎知識』にも載っていません(四国アイランドリーグなら載っていますが・・・)。普通に考えても「羽柴・長宗我部戦争(戦役)」という単位の記事を、その単位で取り扱っているのは歴史学の分野であることは顕かですし、その呼称についての基調も歴史学を発信源に生み出されていることも顕かです。また、その発信源に対して国語辞典を重視して一般書籍や論文をサンプルから除く理由も理解できません。表記揺れがあることからも、候補のどれもが「一般的でない(ドングリの背比べである)」という結論となります。また「一般的」で国語辞典を当たられたmachine_gunさんが何故言及しないのがとても不思議なのですが、歴史教科書については国語辞典以上に本件が一般的な露出度媒体であると思われますが、教科書検定では政治性のある「征伐」は避けられている言葉であり、未調査ですが今日日の歴史教科書ではまずお目にかかれる言葉ではないはずです。これらの基調も査読や批判を受けつつ今日まで来た歴史研究からの影響であり無視できないものでしょう。以上を踏まえて、私は本件の記事名を比較選抜する上でArawodasさんの提示された論理論拠が妥当であると考え、「四国攻め」を支持します。
翻りまして、machine_gunさんの提示した論理の論拠について照合させて下さい。当初「ある程度昨今の語彙の一般性は反映されているものと考えられます。また、これはGoogleの結果とも矛盾せず(敢えて書く必要も無いかもしれませんが、こういう意味でGoogleの検索結果も参考に出来ると思っております)--machine_gun 2009年11月9日 (月) 08:06 (UTC) 」と言っており、また「私は例えば国語辞典から一般的知名度は出せる、と反証しているように思います(別に辞書が一般的知名度の唯一絶対の指標というわけではなく、不可能であるという主張に対して、可能な方法を提示して反証した、ということです)--machine_gun 2009年11月15日 (日) 14:50 (UTC) 」とあることからmachine_gunさんの主張する「一般的」とは国語辞典3点中2点が「四国征伐」を採用していることから結論づけることが出来ると御主張なさっているのでしょうか?言葉を濁されているので明言して欲しいのです。--Yasumi 2009年11月19日 (木) 11:08 (UTC)
まず(1)(2)について。Yasumiさんが主張されているのは、
「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する。」というガイドラインは、ある一つの呼称が圧倒的多数を占めている場合にのみ適用されるものであり、そうではない場合には「わかりやすく」「リンクの張りやすい」「日本語での正式名称」を用いるべきである。そして正式な名称である以上、政治的偏向がある(プロパガンダが込められている)「四国征伐」は不適格であり、「四国平定」は結果を意味するものであり、軍事行動を意味している「四国攻め」を用いるべきである
ということでよろしいでしょうか。
私はまず、ガイドライン云々の話については、歴史的事件は会社名などと違いどこかで登録されたりしているものではない為、どうしても揺らぎが発生してしまうので、最も一般的な(みんなが知っている)ものが検索の利便性などを考えた場合に適切なので、それを正式なものとしましょう、ということなのだと考えております。即ち、
出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称=わかりやすい日本語での正式名称
であると考えており、ある一つの呼称が圧倒的多数を占めている場合にのみ適用される慣習、などということはないでしょう。(この点についてYasumiさんは圧倒的多数を占めている場合にのみ適用される慣習は事例を見ても明らか、と主張されていますが、事例のどこが、圧倒的多数の場合のみ適用される慣習である、と意味しているのか理解できなかったのですが…できればもう少し説明して頂けると有難いです)
また、私は何度か申し上げている通り、ある名称は政治的プロパガンダを内包するか否か、というような斟酌をするべきではない、という立場に立っております。これは、ある名称が政治的プロパガンダを内包するか否かを検討して決定することは、結局我々が「○○という名称は政治的偏向がある/中立である」と認定してしまうことに他ならないからです。そうした認定や主張をするのはWikipedia的ではない、と考えているので、政治的プロパガンダの有無を斟酌せずに仮に政治的プロパガンダを含む名称であっても一般的であればそれでよしとすべきだ、と考えております。
(3)については、私は砕けた言い方をすれば
検索することなどを考えればみんなが知っている名称を用いるべきとありますが、「四国攻め」は専門家だけじゃなくて一般人も「ああ、羽柴・長宗我部戦役のことだ」とわかるのでしょうか?もしわかるなら構いませんけど、国語辞典を見る限り、一つも「四国攻め」の呼称が載っておらず一般人の間ではそこまで一般的じゃなくて却ってわかりにくいように思うのですが。
という考えです。--machine_gun 2009年11月26日 (木) 03:41 (UTC)
(1)(2)の返答について:表現自体を根拠に「結果名」より「軍事行動名」を優先させるという主張ではありません。呼称自体で優先させるとしたら記事道理の「(羽柴・長宗我部の)戦争名」となるでしょう。また、中立性についての問題は、なにも私の主観のみならず、その根拠である学術的傾向と教科書検定等を例示して客観的な論拠を出していますが、論外ですか? (3)の返答について:指摘済みですがその一般的の証明では妥当性が不足していると思います。何度も問い合わせをして回答頂けませんが、一体全体Machine_gunさんが「一般的」の論拠としているのは中型国語辞典3冊のみなですか?--Yasumi 2009年11月28日 (土) 23:59 (UTC)
利用者:Machine gun[3]によると「※ 申し訳ありませんが、当面の間、活動を休止します。」(2009年12月4日 (金) 13:03 時点における最新版)とのことです。現状のここ(ノート:四国征伐#改名の再打診)での改名議論、それと改名ガイドライン解釈に於けるWikipedia:コメント依頼/Arawodas,Machine gun,Yasumiも第三者からのコメントが付かず停滞しております。Machine gunさんの最後の書込が2009年11月27日 (金) 00:58 (UTC)/2009年11月27日 (金) 09:58で既に一週間を経過しており、上記の宣言もあるため、当面の議論参加が頂けないようであるので、残りの論者にて合意を諮りたいと思います。その上で改めて改名提議があれば、また新しい議論としたいと思いますが如何でしょうか?--Yasumi 2009年12月4日 (金) 22:44 (UTC)
私からは異存はありません。--Arawodas 2009年12月5日 (土) 01:33 (UTC)
四国攻めへの移動を実施しました。タグ剥がし等の処理について遺漏があれば実施や指摘をお願いします。--Yasumi 2009年12月6日 (日) 01:09 (UTC)

改名が済んだことですし、現在のノート全体の過去ログ化を提案します。一週間ほど待って反対がなければ実施するつもりです。--Arawodas 2009年12月6日 (日) 13:09 (UTC)

12月の議論

[編集]

節が肥大しすぎて不便なので、新たな節を設けました。それに伴ってインデントを変更させて頂きました。--Arawodas 2009年12月7日 (月) 02:24 (UTC)

Yasumi氏の12月4日の提案から2日で移動というのはあまりのも早すぎます。三者のコメント依頼に関して詳細は存じませんが、ここでの議論が本筋でしょう。差し戻しのための移動依頼を出したいと思っています。--秋田城之介 2009年12月6日 (日) 14:34 (UTC)

改名提案は2009年10月21日 (水) 10:47 (UTC) 提出、改名反対のMachine gunさんの最後の書込が--2009年11月27日 (金) 00:58 (UTC)であり、その後に活動休止の宣言をされているようであり、これ以上の議論が見込めないため改名の移動を 2009年12月6日 (日) 10:07に実施しました。秋田城之介さんの最新の書込は2009年11月18日 (水) 02:17 (UTC)のコメントからは賛否を読みとれなかったのですが反対意見なのでしょうか?厳密ではないのかも知れませんが、いずれも一週間以上経過しており移動に問題はないと判断しました。--Yasumi 2009年12月6日 (日) 21:28 (UTC)
残りの論者で合意を諮りたいとコメントされたてから2日というのはどう考えても性急です。「特定の利用者の最後の書き込みから一週間」という基準は理解しかねます。私は改名は至るまでの論拠は薄いと考えています。抗議の意味も込めて一旦差し戻させていただきます。--秋田城之介 2009年12月9日 (水) 12:22 (UTC)
申し訳ありませんが、秋田城之介さんの2009年11月18日 (水) 02:17 (UTC)の発言を読んでも、記事名に関して正偽を争っていない中で「四国征伐」「四国攻め」が正しいと言いきれないと言う意見、そしてグーグル検索を根拠にした「四国攻め」推進者が居ない中での検索優位性への反論、これらは前提が成立して居り議論になっていません。また、それらを踏まえて秋田城之介さんの改名議論に対する結論表明は為されていないように見えます。また、秋田城之介さんの移動依頼は管理者より却下[4]され、且つ移動合戦への制止を受けた上で議論を避けて抗議の意味で四国征伐への再改名を実力行使されたことを極めて遺憾に思います。当方は当面の移動合戦を避けるつもりですが、秋田城之介さんが議論の主体者となるつもりならば、そもそもの秋田城之介さんの意見を明確に表明すること、続いて既出の意見に対しての抗議を擁するのであれば論拠論理を明確に示して議論頂くことを要求します。--Yasumi 2009年12月9日 (水) 13:23 (UTC)
(競合しましたがそのまま)秋田城之介さん。あなたの行為は移動合戦の引き金を引くもので、軽率の批判を免れません。自分が納得しないからといって、しかも「抗議の意味も込めて」などと自身の感情を理由にした差し戻しが説得力を持つかどうか、よくお考え下さい。私はYasumiさんの移動に特段瑕疵があるとは思いませんが、百歩譲って多少性急なものであったとしても、秋田城之介さんの差し戻しはそれより数段乱暴なもので、とてもYasumiさんを批判する資格があるとは思えません。
ご自身の行動の是非については十分反省して頂くこととして、それはそれとして、「論拠は薄いと考えています」と述べるからには、秋田城之介さんは改名反対の具体的な論拠を説明する義務があります。こちらからモデルを提示して差し上げますので、明確にお答え下さい。
  1. Machine gunさんの意思が確定していないことに基づく単なる手続き不備。この場合、Machine gunさんがいつまでに意思表示しなければ合意形成が成立するのか、あるいはいつまでかかろうともMachine gunさんが同意の意思表示をしない限り成立しないのか、明確にお示し下さい。
  2. Machine gunさんのガイドライン解釈を秋田城之介さんが支持しているため、現状以上の論拠を改名側が提示しない限り改名に同意しない。
  3. Machine gunさんの提示した国語辞典数冊とネット検索結果が、私たちの挙げた歴史書籍群よりも論拠として優っている。
  4. 秋田城之介さんの提示された「改名されなかった期間の長さが「四国征伐」の優位を示す」という論は、現在でも説得力を持つ論拠である。この場合、前回の私の反論に対する再反論が必要です。
  5. 今までの議論で提示されなかった、新たな「四国征伐」優位の論拠が存在する。この場合、当然その論拠の内容について具体的に説明して頂く必要があります。
1から5のそれぞれについて、秋田城之介さんのお考えと合致するか、yesnoでお答え下さいね。真面目に議論に参加するお気持ちがあるのなら、もちろん全てに明瞭な回答が頂けるものと期待しております。お待ちしております。--Arawodas 2009年12月9日 (水) 14:10 (UTC)
12月4日に移動の合意を図って12月6日に移動、性急であることは否めませんし、出すべき移動依頼を出した上で自分で差し戻せと言われたのだから仕方のないことだと思っています。
まず、あなたは「征伐」が一方的なものであると論じていますが、これが理由で記事名として四国攻めより劣るというのはおかしな話です。これを「勧善懲悪だ」と非難しても意味は無いのです。また、羽柴長宗我部両者間に厳密な上下関係はありませんでしたが、「安土桃山時代」の為政者は間違いなく関白・太閤となった秀吉であり、為政者中心になってしまうのは当たり前です。この理屈が通らないのであれば、「○○の乱」などは全て書き直さなければならなくなりますが、それは筋が通らないのはお解りでしょう。また、Yasumi氏が「羽柴秀吉による四国征伐」とは直接関係の無い「関ヶ原の戦いに際する毛利輝元軍の四国における一連の軍事行動」を追記してしまっている事が、本件をよりややこしい問題にしていることは言うまでもありません。--秋田城之介 2009年12月11日 (金) 16:13 (UTC)
霧木さんが「管理者の手を借りなくても移動は可能」と述べたのは依頼却下の理由を述べたものに過ぎません。その上わざわざ移動合戦を起こさないようにと釘まで刺しておられます。「移動合戦にならないように、手続き不備ならその点を相手に説明して納得させ、差し戻すならその合意が相手方とできてから差し戻して下さい」という趣旨であることが読み取れませんか? それを「自分で差し戻せと言われたのだから仕方のない」と解釈してしまうようでは、秋田城之介さんの読解力と判断力に疑問符をつけざるを得ません。
関ヶ原部分については、Yasumiさんからも最終的には本記事から切り離す場合もあると発言があったはずです。きちんと読まれましたか? 読んでいれば、この点はすでに争点ではないことが理解できることと思います。
「征伐」呼称の中立性についてはYasumiさんの問題提起は存在しますが、Yasumiさんとてそれだけを理由に改名を唱えているわけではありませんし、私に至っては問題にすらしていません。最大の論拠は、参考文献を中心とする多数の歴史分野の文献での表記例です。最大の論点を避けて傍証部分にのみ反論しても、反論として用をなしません。根幹と枝葉を間違えないで下さい。
このように、秋田城之介さんの発言を読む限り、秋田城之介さんは議論の経過も要点も把握しておられませんし、また説得力のある論拠を何一つ提示しておられません。正直、これで改名反対に納得しろと言われても、さすがに無理です。
で、私からの質問に全く答えていませんが、これは前回私が挙げた1から5は、改名反対の論拠にはなりえないと言外にお認めになったということでしょうか。このままお答えなき場合はそのように解釈させて頂きます。--Arawodas 2009年12月12日 (土) 02:36 (UTC)
殆ど言いたいことはArawodasさんがコメントしているので補足だけ。中立的な観点について、議論をする上で主観の方は比重がないに等しいですが、記事に使用できる歴史的な出典が受けている情勢について論じているのです、「征伐」は減少して来ましたし今後もでしょう。その情勢について出典データの指摘と歴史教科書検定での事例で客観的に示しました。
羽柴長宗我部戦争の単位で戦争史を描写した例自体が少ないこと、表記揺れで戦争名が割れていたり代名詞で表現されていること、これら踏まえた状況を受けて歴史的な出典から抽出された歴史的な記事名を採用することは「文題一致」を客観的に確立する優位性があります。秋田城之介さんの「四国攻め」に対する見当違いの反論(?)や「四国征伐」の優位性を示さない姿勢に疑問を感じます。議論をするのであれば、きちんとした論拠論理を以てあたって頂きたいです。--Yasumi 2009年12月13日 (日) 00:58 (UTC)

>Arawodas氏、Yasumi氏
提案から2日で改名するいう行為自体が編集合戦を引きおこしうるものでしょう。それを棚に上げての批判というのは理解しかねます。また、関ヶ原部分についての切り離す旨は確認しましたが、それはそもそも改名前にやるべきことです。「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記したとも取れます。
Arawodas氏が挙げた4.についての「改名されなかった期間の長さが「四国征伐」の優位を示す」というのは、議論を性急に行うべきではないという大意で、それ自体が四国征伐の優位に決定的に作用するわけではありません。ただ、考慮して合意形成されるべきであると思っています。1.に関しては支持しない、2.に関しては前面支持はしない、3に関してはどちらとも言えない(国語辞典と歴史辞典の比較に優劣は付けられない)
秀吉視点で一方的だという指摘はYasumi氏が3点の要点を挙げた(2009年11月19日の版)うちの一つです。「改名の再打診」でも取り上げています。Arawodasさんはこれを「枝葉」、Yasumiさんは「見当違い」とおっしゃっていますが、それらは反論にもなっていないでしょう。--秋田城之介 2009年12月15日 (火) 16:44 (UTC)

長文ですが、読み落としのないように願います。
  • 差し戻し強行について。
1は論拠にしないというと、machine_gunさんのブレイクに対する判断は無関係ということでしょうか。つまり、秋田城之介さんに意思表示の機会を与えなかったことを問題にしているのでしょうか。秋田城之介さんは一度発言したきりで私に論拠の不備を指摘されても反論もなさらなかったので、根拠薄弱であることを認めて撤退なさったものと私は早合点しておりました。Yasumiさんのお考えは分かりませんが、私はmachine_gunさんが事実上離脱した以上、議論参加者は改名支持の2人しかいないと思っていました。その点については認識不足をお詫び致します。
ですけれど、11月18日時点での秋田城之介さんの論拠については、いずれも的外れであり考慮に値しない旨を私から指摘申し上げたはずです。二週間以上の時間がありながら(その間他の記事では活動しておられますね)、それに対して反論もせず、新たな論拠の提示もしなかったのですから、たとえ改名反対の意思をお持ちだったとしても、12月4-9日時点では、秋田城之介さんにはそもそも合意形成を拒否できる正当な理由がありませんでした。結果として秋田城之介さんの行為は「根拠を何も示さないまま自分の望む状態に差し戻した」というだけのものになってしまったのです。
さらに前回申し上げたように、移動依頼のやり取りで忠告を受けながら差し戻しを強行したことは明らかに不適切な行動でした。仮に私やYasumiさんの行動が性急だったとしても、だからといって秋田城之介さんの行為が批判を受けずに済むというものではありません。「それを棚に上げての批判というのは理解しかねます」とは、秋田城之介さんご自身にこそ向けられるべき言葉です。いい大人なのですから、「お前に言われたくない」という類の反発をすることなく、まずはご自身の行動を客観的に振り返ることをお勧めします。
  • 「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記したとも取れます
誰がいつ、「関ヶ原部分は四国征伐とは言わない。これは改名の根拠になる」旨の発言をしたのでしょうか。明確にお示し下さい。示せないなら根拠のない憶測の撤回を要求します。
  • 改名されなかった期間の長さを考慮に入れるべきか。
無関心により放置された期間が長いことがなぜ考慮に値するのか、どのように考慮されるべきなのか、具体的論理的にご説明下さい。説明がない間は、これも根拠のない主張でしかありません。
  • machine_gunさんのガイドライン解釈
全面支持はしないということは、一部には支持できる部分もあるということでしょうか。ならば支持なさっている部分、不支持部分を明確にお示し下さい。あるいは支持不支持にかかわらず、今後ガイドライン解釈を論点として用いる気がないのでしたら、その旨明言下さい。
  • 呼称の中立性について。
Yasumiさんの説明をきちんと読んでいますか? 詳細はYasumiさん本人にお任せしますが、何も「『征伐』は政治的主張がある呼称だから何が何でも改名」と言っているのではありません。「中立的なタイトルであるかどうかは(中略)「四国征伐」が縮小傾向にある主因」だと思うからこそ、Yasumiさんは呼称の中立性について何度も発言されるのです。Wikipedia:コメント依頼/Arawodas,Machine gun,Yasumiにもご本人の説明があるので、目を通すことをお勧めします。そして「「四国征伐」に(中略)一般性を証明できる場合には、それに従いたいと思います」とも明言しておられます(いずれも11月8日発言より)。11月19日発言については、
記事内容が歴史学的な内容なのに、何故歴史学的見知を無視して紛れのある呼称(秀吉の顕彰と正当化の政治的意味を内包する四国征伐)を選ぶのか?(下線はArawodasによる)
machine_gunさんも当時勘違いしていますが、政治的主張がある=即アウトという主旨ではありません。もう一度当該の文章全体をよく読み返して下さい。私は「「四国征伐」も「四国攻め」もその他の呼称例も、記事の本質と完全に一致する名称ではない。その中でよりましな表現を選択しようという時に、歴史学界で優勢な表現を選ぶのが方法として妥当ではないのか」という論旨を読み取りましたよ。それに対して
「征伐」が一方的なものであると論じていますが、これが理由で記事名として四国攻めより劣るというのはおかしな話です。これを「勧善懲悪だ」と非難しても意味は無いのです。また、羽柴長宗我部両者間に厳密な上下関係はありませんでしたが、「安土桃山時代」の為政者は間違いなく関白・太閤となった秀吉であり、為政者中心になってしまうのは当たり前です。この理屈が通らないのであれば、「○○の乱」などは全て書き直さなければならなくなりますが、それは筋が通らないのはお解りでしょう。
この秋田城之介さんの発言のどこに、Yasumiさんの論理への正確な理解が覗えるでしょうか。「見当違い」と言われてしまってもやむないことです。
  • 書籍での表記傾向
国語辞典と歴史辞典の比較に優劣は付けられない」と言われますが、国語辞典の事例はわずか4冊、『Yahoo!百科事典』を加えても5冊です。数十冊にもなる歴史分野の書籍と、質量両面において「優劣は付けられない」と本気でお考えなのでしょうか。正直、目を疑ってしまう発言です。もう一度伺いましょう。専門家の成果である数十冊の歴史書籍群の傾向に従おうという主張に対し、歴史に素人の国語学者の手によるたった4冊の国語辞典を理由に反対するのは無理があるとは思われませんか。
私はこの記事の加筆にあたって資料を調べるうちに、年代を追うごとに「四国征伐」や「四国征討」といった表現が減り、「四国攻め」という表記が増えていくことを確認しました。参考文献の多くが「四国攻め」と書いているのに、なぜ記事名を廃れつつある「四国征伐」のままにしておかなければならないのか? 改名に賛成したのはそんな素朴な疑問からです。
繰り返し言いますが、私たち両名の改名理由を総合すると「現在の歴史学界では『征伐』は政治的主張のある呼称とされ、避けられる傾向がある。そのことは参考文献での表記の変遷からも明らかである。Wikipediaも歴史学界、ひいては参考文献の表記に合わせよう」です。まさか誤解はなさらないでしょうが、ここでの主旨は「歴史学界に合わせよう」の部分です。この議論はまさに「歴史学界の傾向に従うか、無視するか」という点こそが最大の論点なのです。反論するなら「無視すべきだ、なぜならもっと重要な判断材料がある」か「歴史学界の傾向は改名側の言うようなものではない」といったものでなければ反論としての効果がありません。そこに正面から挑まない限り、図らずもご自身で言われましたが、秋田城之介さんの反論は「反論にもなっていない」のです。
最後にもう一度、素朴ですが根本的な質問をします。
参考文献の多く、それも最新のものほど「四国攻め」と書いているのに、なぜ記事名を廃れつつある「四国征伐」のままにしておかなければならないのか?
machine_gunさんはこの質問に対し、「参考文献でどう書かれていようと関係ない(思い切り意訳)」と答えました。秋田城之介さんはどうお答えになりますか? この質問に納得のいく回答が返って来ない限り、私は改名反対には合理性がないと判断します。--Arawodas 2009年12月16日 (水) 11:36 (UTC)
またもやArawodasさんに纏めて頂いたので多くは申しません。突き詰めれば
羽柴と長宗我部の戦争史を扱っている本記事は「四国攻め」呼称を比較優位とする史学的出典により形成されているのです。
この「文題一致」の優位性を覆して「四国征伐」が優越されるべき論理論拠を秋田城之介さんが示さなければ議論になりません。
早く論理論拠を以て議論して頂きたい。
重複しますが「中立的な観点」については加味されるべき補助要因であり主論点ではありません。前述の通り「四国攻め」についても中立的呼称ではないと自覚しておりますから。ですから、記事を作った出典に於いて戦争呼称として比較的多く使われているが主論点となっているのです。
「本記事の呼称には表記揺れがあり、その中で四国征伐は支配的呼称ではないし、むしろ少数化している」という感覚は、記事を書くために出典を集積していれば自然と身に付く物だと思いますが、そこが違うのかも知れませんね。何れにしろ、要点を得た秋田城之介さんの発言を望みます。--Yasumi 2009年12月19日 (土) 02:37 (UTC)

Arawodas
コメント依頼だけで議論を終結されるのは勝手ですが、改名のため、ノートページで一週間程度の時間を取らなかったのはyasumi氏のミスでしょう。私の差し戻しが性急であろうとも、そのような前提があることを忘れてもらっては困ります。
>「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記
根拠のない憶測ではありません。秀吉と輝元では立場が違いますから、「高位が下位を討伐する」意味がある「征伐」は、輝元のほうでは不適切でしょう。ここは分けて考えなくてはいけないところですが、結局ページを分割される前に改名されました。分割すべきだというのはyasumi氏自身認めていることですが、結果としては順序がおかしくなっています。分割すべきだと言っていたのに、その前にページ改名をしたわけですから、穿った見方をされても仕方無いのではないでしょうか?
呼称の中立性について 論旨がズレている?私も、政治的主張がある=即アウト だと解して反論したわけではありません。ただ、yasumi氏の「秀吉の顕彰と正当化の意味があって、歴史学的にふさわしくない」という発言に対しての反論です。これを「見当違い」と言うのは簡単ですが、この反論自体に対しての反論はできないのでしょうか。あるいは中立性に関してはもう問題にしないということですか?もっとも、yasumi氏自身は「四国攻め」に関しても中立性は疑問とのことですが・・・・。
>歴史に素人の国語学者の手によるたった4冊の国語辞典
国語辞典の編集者は歴史の専門家では有りませんが、国語学者の調査・研究によって一般性が確かめられたものであることは事実でしょう。テキトーに「四国征伐」を項目としたと思っているのですか?データ不足は否めませんが、歴史に素人の国語学者だと、切り捨てるのは自分勝手すぎませんか? そもそも本項で扱っている事象は、秀吉が四国の長宗我部氏を倒して四国を支配するに至ったことから「四国征伐」と呼ばれました。「四国攻め」という言葉は「征伐」に比べて、広義な言葉です。「征伐」という言葉は「中央政権的な権力を持った強者が、対象を攻撃して傘下に収める」という意味を含み、「攻め」では双方の勢力がどのような関係か(言葉だけでは)わからないものです。逆に言えば、「四国攻め」というのは毛利輝元の件もそう言えてしまい、「○○の四国攻め」としなければ記事名として曖昧さが残ります。しかし、「四国征伐」であれば毛利輝元の件は含まれないであろうことは記事名の語意からすぐに読み取れます。記事名としてより狭義であるという点で、「四国征伐」は「四国攻め」より優位である(四国平定などもそうですが・・・・)といえます。--秋田城之介 2009年12月21日 (月) 03:45 (UTC)

ご自分の非は何が何でも認めたくないだけなのですね。面倒になってきたので差し戻しについてはひとまず置きます。
  • 「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記
結局、秋田城之介さんがそのように疑っているという以上の「根拠」はないのですね。それを根拠のない憶測というのです。ご自分で「穿った見方」とおっしゃるのですから語るに落ちたというものです。そもそも、Yasumiさんとmachine_gunさんの間でも当時「秀吉の戦役」を念頭に議論を行うことで合意ができているのですから、秋田城之介さんがその合意と異なる前提を持ち出さない限り、関ヶ原部分が議論の支障にならないことは明白でしょう。
  • 中立性
これ以上私が横取りして答えると余計ややこしくなりそうなので、直接の返答はYasumiさんに任せます。
私から見れば、「yasumi氏の「秀吉の顕彰と正当化の意味があって、歴史学的にふさわしくない」という発言に対しての反論」をすること自体が的外れですので、そこの部分で秋田城之介さんが納得しなくても、改名の合意形成を拒否する理由にならないと考えています。そういう意味で枝葉と言っています。それを承知の上で続けたいならご自由にどうぞ。
  • 歴史に素人の国語学者だと、切り捨てるのは自分勝手
専門家である歴史学者に比べれば格段に素人でしょう。そのようなつまらない揚げ足取りをする暇があったら、
専門家の成果である数十冊の歴史書籍群の傾向に従おうという主張に対し、歴史の専門家ではない国語学者の手によるたった4冊の国語辞典を理由に反対するのは無理があるとは思いませんか?
この問いに対し、正面からはっきりと答えるべきです。
  • 「征伐」は「攻め」より狭義
これについては異論はありません。ですが、そのことが「「四国征伐」は「四国攻め」より優位である」ことの論拠になるかといえば疑問です。
最初に、私は関ヶ原部分は分割しても構わないとは思っていますが、この記事に残すことにも不都合は感じておりません。従って、「四国征伐」なら関ヶ原部分が含まれないことが記事名から分かるという秋田城之介さんの言う「利点」については、それが利点だとは全然思いません。秋田城之介さんの論理から導けるのは、せいぜい「「四国征伐」を維持する場合は関ヶ原部分を分割する必要がある」ということくらいです。
本題に行きましょう。「征伐」が「攻め」より狭義であることは、誰にでもわかることです。ならばなぜ、現在の歴史学界では「四国征伐」→「四国攻め」という表記の変遷が起こっているのでしょうか。秋田城之介さんの論理では歴史学界の傾向が説明できませんよね。わざわざ劣った表記に変えるなんて、歴史学者はバカばっかりだとおっしゃりたいのでしょうか。
秋田城之介さんの論理は、あくまであなたが個人的に「こう思う」というだけのものですよね。秋田城之介さん以外に誰か、実績ある研究者の誰かが同じ論理を提唱しているなら話は別ですが、そうでないなら、秋田城之介さんはご自分の個人的思考を理由に歴史学界全体の傾向を否定しようとしていることになります。私の主観とあなたの主観が対立しているのではないのです。あなたの主観と歴史学界の傾向が対立しているのです。この構図を自覚した上でのご発言でしょうか。自覚した上で、なお自分の方が歴史学界より正しいと言い切れますか?
一応言っておきますが、「征伐」と「攻め」のどちらが上かについて、私はあなたと主観のぶつけ合いをする気は全然ありません。それ以前にどちらが上という意見も持っておりません。私の論拠は「参考文献にそう書いてある=歴史学界の傾向がそうである」ことに尽きます。他の改名議論がしばしば主観のぶつけ合いで泥沼化するのを見ておりますから、主観論争ではなく資料によって決めるのが最も明快だと考えます。議論を無意味に長引かせないためにも、「資料に基づいて議論する」という意識を秋田城之介さんにも共有して頂きたい所です。--Arawodas 2009年12月21日 (月) 09:41 (UTC)
    • 一体全体、秋田城之介さんの「四国征伐」優位論の論拠論理はなんなのですか?「データ不足は否めませんが」なのであれば、何を根拠としているのでしょう?まともに議論するつもりがあるならば、一度整理して明言下さい。当方の主張は客観的な「文題一致」であることは今まで何度も述べた通りです。ここまで、主論点を明言しているにも係わらず、議論して頂けないことはコミュニティを疲弊させ、議論をいたずらに長引かせる原因となっています。合意頂けないのであれば、対立点を明確にして投票等により決着を付けたいと思います。なお、以下は枝葉ながら念のためコメントを付けます。
      • 残りの論者への合意呼びかけについて、私には最終反論から一週間以上の経過後の移動という基礎があります。しかし、秋田城之介さんは必要でない移動依頼を出した結果、管理者からのコメントされた制止を振り切って編集合戦を抗議の意味で実力行使されました。これら客観的な経緯があるわけですが、現状に於いては改名議論を優先させるために利用者コメント依頼等の処置は留保しています。改名議論に注力をお願いします。
      • 「「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記」 >改名議論を拡散させて妨害することはお止め下さい。本件は前述にて別案件と峻別されています。別途問題するのであればWikipedia:統合提案Wikipedia:分割提案等の手続きを踏んで下さい。
      • 「分割すべきだというのはyasumi氏自身認めていることですが」 >分割すべきなどとは一言も言っていないはずですが?またもや前提の議論を無視されているのでしょうか?コレに対する回答・反論は改名議論と無関係なため不要です。
      • 「私も、政治的主張がある=即アウト だと解して反論したわけではありません。」 >合意して頂きありがとうございます。ですから本論ではないのです。議論の遅延が目的でないのであれば、本論への参加をお願いします。追記すれば私は横並びの対立候補があるのであれば、名称の中立性について考慮しても良いと思っています。少なくとも、命名先取期間の長さよりは考慮に値すると思っています。これは見解の相違ですね?水掛け論でなく、客観的部分に於いて論理論拠を以て改名議論をしてください。--Yasumi 2009年12月21日 (月) 12:12 (UTC)

前回のやり取りから一週間です。編集間隔には個々の事情があるとはいえ、待たされる側が無制限に待つ必要もありません。本日よりさらに一週間経過しても秋田城之介さんの反応がなければ、秋田城之介さんは議論を継続できる状況にないものとみなし、ひとまず結論を出して議論を締めるべきだと思います。--Arawodas 2009年12月28日 (月) 00:59 (UTC) 追伸。議論継続を前提に、次回のやり取りにおいて合意に向かって具体的な進展がなければ、合意形成のためのコメント依頼を提出します。依頼文に双方の論旨を記述する欄を設けますので、各氏は第三者が理解しやすいように自論の要点を整理しておいて下さい。--Arawodas 2009年12月28日 (月) 01:19 (UTC)

たしかに私の差し戻しは性急でした。その点については謝ります、すいませんでした。しかし、それに至る前提の移動も性急だったとあなたがたも認めない限り「公平」だとは思いません。謝れとは言いませんが、自覚はもって下さい。コメント依頼は当該ノートページを代替するものではありません。まあこの話しを長引かせても仕方ないですが・・・・。
>「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記 ではなぜ先に分割されなかったのでしょうか?というお話しです。
>一度整理して明言下さい 国語辞典・歴史辞典・百科辞典などを見ても「四国攻め」が「圧倒的優勢」とは言えない中、百科辞典としてより狭義な言葉を選ぶなら「四国攻め」は不適当です。
>あなたの主観と歴史学界の傾向が対立している これはおかしな話です。あなたがたの文献調査結果では、「近年四国攻めの記述が優位になりつつある」ということになりますが、近年四国攻めの記述が優位=歴史学界の傾向というのは論理的にも符合しないと思います。私も私なりに調べはしましたが、こういった調査は「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に触れる可能性があることを先に述べておきます。調査結果は私の利用者ページに記述しておきます。--秋田城之介 2009年12月28日 (月) 03:38 (UTC)
差し戻しについてはご理解頂けたようですので、私からはこれ以上言うことはありません。さて、調査お疲れ様でした。ようやく正面からの反論を頂けて嬉しい限りです。秋田城之介さんの調査結果からは、「やはり改名妥当、改名候補は「四国平定」と「四国攻め」の二択」が言えるかなと私は思いました。
こういった調査は「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に触れる可能性がある
「こういった調査」をしなければそれこそ水掛け論で収拾がつかないと思いますが、他にもっと効率的なやり方があるならご提示下さい。それとも調査結果から何かを類推することが独自研究だというなら、独自の論理を基に「記事名としてより狭義であるという点で、「四国征伐」は「四国攻め」より優位である」と主張することも立派な独自研究ですよ。こういうことを言い出すと議論が成り立ちませんが、どうお考えなのでしょうね。
せっかく主論点に応じて頂けた所ですが、どの道合意形成には程遠い状況ですので、コメント依頼を出したいと思います。--Arawodas 2009年12月28日 (月) 08:20 (UTC)
私は謝罪などより、議論の推進を求めているわけですが・・・それに今回の秋田城之介さんの問題行動は「性急な点」でなく、「実力行使」だと思いますよ。
なにより議論のために再三再四要求しているのですが、秋田城之介さんがご主張する改名優越の論理論拠を明示して「対立点の明確化」をして下さい。「論拠」の方は疑問のまま活動休止されましたが、少なくともmachine_gunさんはガイドライン解釈を明言して改名の「論理」は提示されていました。また、当方主張への反論もmachine_gunさんの意見を引き継いでいるような居ないような曖昧さを排除して頂きたいです。建設的な議論をするつもりがあるのであれば「論」をしっかり明言して貰わねば始まりません。
また、四国征伐や四国攻めを国語的な独自解釈で優越性を述べていますが、不毛な水掛け論へ拡散させるつもりが無いのであれば、客観的な論理論拠で議論下さい。--Yasumi 2009年12月29日 (火) 23:16 (UTC)


以下はコメント依頼文ですが、依頼そのものは明日行う予定です。時間がありましたらそれぞれの主張を所定の欄に書いておいて下さい。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)

コメント依頼提出へ向けて異存ありません。よろしくお願いします。--Yasumi 2009年12月31日 (木) 03:37 (UTC)

改名に関するコメント依頼

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経緯

この改名議論は、10月18日のYasumi氏による提案から始まりました(#改名の再打診)。Yasumi氏、machine_gun氏、Arawodasの3名による議論は基本的に平行線をたどりましたが、machine_gun氏の活動休止宣言差分によって事実上改名反対側の論者が消滅したとみなし、Yasumi氏による12月4日の合意形成確認を経て12月6日に「四国攻め」への改名が実施されました。

これに対し、秋田城之介氏から「12月4日の提案から一週間経過していない」ことを理由とする手続き不備・改名無効の異議が出され(#12月の議論)、その議論中の12月9日に秋田城之介氏によって「四国征伐」への差し戻しが行われました。改名と差し戻しの正当性への見解が分かれたまま改名議論が再開されましたが、議論が全くかみ合わないまま現在に至っています。以下は現在の各論者の論旨です。

なお再開後の議論において、秋田城之介氏から、Yasumi氏による関ヶ原部分(本文の「毛利輝元の四国攻め」節)の加筆は改名議論の正常な進行を妨げるものであり、加筆自体が改名議論を自説有利に運ぶための工作と疑うに足るとの批判(1)差分(2)差分が出ています。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)

参考資料

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「四国攻め」支持(改名賛成)側の論旨

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  • 「四国攻め」が優位である論拠
    • (A01)まず前提として、本記事が歴史記事である以上、記事名といえども、非専門家よりも歴史の専門家、それも記事対象に直接関わっている専門家の表記が最も影響力を持つべきだと考えます。別の言い方をすると、参考文献において最も優勢な表記を記事名に採用できないのは不合理だと考えています。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A02)歴史分野の文献での表記例を調べると、1980年代頃までは「四国征討」「四国征伐」が優勢でしたが、この間も資料によって「征討」「征伐」を中心に表記揺れがあり、また少数ながら他の表現も存在します。すなわち、当時においても、「秀吉の戦役」を指す歴史学用語として「四国征伐」が確立していたとは言い切れないと考えられます。90年代以降には「四国征討」「四国征伐」は減少傾向に入り、代替表現として「四国攻め」「四国平定」などの表現が多く用いられるようになります。この傾向は2000年以降ではさらに顕著となっています。現在でも資料によって表記揺れが収まらず、「秀吉の戦役」を指す名称として圧倒的な支配力を持つ用語は確立していません。以上のことを前提に、現時点で最善の記事名を選択するならば、歴史分野の文献で現状において比較第一位である「四国攻め」が妥当と判断します。少なくとも、「四国征伐」は歴史学において既に少数派に転落しており、記事名としては妥当でないといえます。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A03)「文題一致」の観点。記事に使えそうな出典よりの集計(Yasumi 2009年11月12日 (木) 12:05 (UTC) 調査より)を見れば下記の通りとなり、この記事の内容は「四国攻め」を比較一位とする呼称で扱われている出典から作成されている。つまり、この記事は現時点に於いて「四国攻め」と呼ばれることが多い記事であり、呼称が表記揺れを起こして定着していない現状で文題一致の正確性を期せる記事名であると言えます。
"四国攻め" 2000年以降 4、1990年以降 5、累計 6。
"四国平定" 2000年以降 3、1990年以降 3、累計 5。
"四国攻撃" 2000年以降 1、1990年以降 2、累計 2。
"四国征討" 2000年以降 0、1990年以降 1、累計 4。
"四国征伐" 2000年以降 0、1990年以降 0、累計 2。
--Yasumi 2010年1月4日 (月) 12:19 (UTC)
  • 改名反対側の論拠への批判
    • (A11)国語辞典を編集しているのは主に国語学者であり、歴史の専門家に比べると対象への知識において大きく劣っていると言うべきです。またその内容も、過去の研究成果の要約に過ぎません。国語辞典における傾向に、歴史学文献類での傾向を覆すほどの説得力があるとは考えられません。また仮に、国語辞典の説得力を一般人に対する伝播力に求めるならば、最大のシェアを持つ広辞苑が「四国征伐」でなく別の表現を採用していることが考慮されるべきです。--Arawodas 2010年1月1日 (金) 00:04 (UTC)
    • (A12)百科事典の執筆者は各分野の専門家であり、国語辞典に比較すると信頼性は格段に高いと言えましょう。しかし、百科事典の本質もまた、過去の研究成果の要約です。秋田城之介氏の調査結果に従うと、調査対象の事典類の発行年は新しいものでも1995年であり、最大限好意的に見ても1990年代前半までの研究成果しか反映されていません。つまり、秋田城之介氏の百科事典調査は1980年代までの「四国征伐」優位を再確認するものに留まり、1990~2000年代の「四国征伐」の退潮・「四国攻め」の伸長を否定する材料にはならないのです。--Arawodas 2010年1月1日 (金) 00:04 (UTC)
      • (A12-1)論争相手に塩を送るかもしれない試み。平凡社の世界大百科事典は現在でも「四国征伐」を採用しているようです(ネットで百科より)。ただし、同事典では「九州征伐」「小田原征伐」も用いられています。世界大百科事典の方がノート:九州の役/過去ログ1ノート:小田原の役/小田原の役1での議論に優越するのなら、本記事で「四国征伐」で決着するのもありかもしれませんね。私の感想は逆で、世界大百科事典の表記は前記二議論で既に否定されたもの、という解釈です。--Arawodas 2010年1月1日 (金) 00:04 (UTC)追記。世界大百科事典の1988年度版を確認しましたが、「ネットで百科」の最新版と比較して、四国征伐・九州征伐・小田原征伐の三項目とも、句読点の位置に至るまでほぼ完全に同内容でした(厳密に言うと四国征伐では安堵→安概、九州征伐では薩摩→醍摩という違いがありましたが、いずれも誤字の範囲と考えられます)。すなわち、この20年間、世界大百科事典の該当項目は全く再検討が行われていない可能性があります。--Arawodas 2010年1月5日 (火) 00:41 (UTC)
    • (A13)「征伐」が「攻め」より狭義な言葉だから表現として優越しているという秋田城之介氏の論理では、専門文献類でなぜ「四国征伐」が減り「四国攻め」が増えているのか説明できません。また、一個人の国語理論に、専門文献類の傾向に優る説得力があるとは考えられません。--Arawodas 2010年1月1日 (金) 00:04 (UTC)
    • (A14)「百科事典や国語辞典では「四国征伐」が圧倒的である。」との秋田城之介さんの主張(2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC))について、誤りであり国語辞典で最多なのは「項目なし」であり、しかも百科事典でも「圧倒的でない」のが現状である。国語辞典が本記事を一般的に取り扱っている記事でないことは一目瞭然であります。また、秋田城之介さんの国語辞典調査2009年12月28日 (月)[9] 版では「四国征伐」 5点、記載無し 9点の統計を指示しており「項目無し」が圧倒的ですが、国語辞典の代名詞的な存在である『広辞苑』の「四国平定」が脱落していることは大きなサンプル瑕疵であると考えます。調査から判明するのは、非歴史分野の国語辞典・百科事典では「項目なし」が多く、かつ「表記揺れ」を起こしていると言うことです。--Yasumi 2010年1月4日 (月) 12:19 (UTC)
    • (A15)「百科事典の記事名に関して、例えば『日本史大事典』平凡社1993年では項目名「四国征伐」に対して山本大『長宗我部元親』1960年・藤田達生「豊臣期国分に関する一考察」1991年の2点を参考文献とし、二例目として『国史大事典』吉川弘文館1985年では項目名「四国征伐」に対して桑田忠親編『日本の合戦6』1965年・平尾道雄『長宗我部元親』1966年・山本大『長宗我部元親』1960年・山本大『土佐長宗我部氏』1974年の4点が参考文献として末尾に上げられています。このように百科事典の記事は先行研究からの要約という性質上、情報源から二次的三次的な位置にあるためにタイムラグがあり、呼称傾向を評価する指標とするには難があります。--Yasumi 2010年1月4日 (月) 12:19 (UTC)(念のために追記)申すまでもありませんが、Wikipedia:記事名の付け方では「認知度が高い - 信頼できる情報源において最も一般的に使われており、その記事の内容を現すのに最も著名であると考えられるもの。」と解説されております。同じ情報源でもWikipedia:信頼できる情報源#情報源によるとウィキペディア内でも情報源として依存すべきは百科事典などの三次情報源より二次情報源との位置付けが為されています。そして国語辞典は百科事典よりも更に発信源から遠い情報媒体であることは言うまではありません。--Yasumi 2010年1月17日 (日) 13:08 (UTC)
    • (A16)「四国征伐」の優越理由にて一丁目一番地(B01)に真っ先にに挙げられているのは「独自解釈に基づく、国語的な字義解釈」であり。記事名比較を目的としている本義論に客観的な論理ではなく、個人的な感想を持ち込むことは水掛け論となり不適であると言わざるを得ません。--Yasumi 2010年1月11日 (月) 10:04 (UTC)
  • 関ヶ原部分の存在は議論の妨げになるか、またその理由
    • (A21)先行議論中でもmachine_gun氏による同様の問題提起はありましたが、「秀吉の戦役」を改名議論の主題とすることがYasumi氏・machine_gun氏の間で再確認(合意)され、その結果関ヶ原部分の分割については緊急に結論を要する問題ではなくなり、事実上棚上げになったという経緯があります。このような前例がある以上、秋田城之介氏と私たちの間で同様な合意さえ得られれば、関ヶ原部分の存在は議論の支障にならないことは明白です。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A22)秋田城之介氏が関ヶ原部分を本記事の対象外と考えるなら、別個に分割提案をすれば済む話であり、改名議論と絡める必要は全くありません。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A23)「「四国征伐」をより広義に解釈させるために追記したとも取れます」という主張に客観的な証拠がないことは、秋田城之介氏自身の発言から露呈しており、根拠のない憶測と言わざるを得ません。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A24)秋田城之介氏は、Yasumi氏のこの発言差分を、本来は「関ヶ原部分の分割については、改めて議論に応じる意思はある」と解すべき所を「分割に同意した」と解釈しており、「分割を先行すべし」という秋田城之介氏の主張は、根本において誤読に基づくものである可能性もあります。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)
    • (A25)関ヶ原部分について、当初秋田城之介さんは2009年12月15日 (火) 16:44 (UTC)にて「それはそもそも改名前にやるべきことです。」と改名に優先すべきとコメントしておりましたが、分離に向けて依頼等の具体的アクションを起こして居らず、止めとして2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)の(B21)にて改名「議論の本質では無い」と仰って居るようですので、本件については改名議論を妨げないと言うことで合意していると認識してよろしいのでしょうね?--Yasumi 2010年1月11日 (月) 10:04 (UTC)

「四国征伐」支持(改名反対)側の論旨

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  • 「四国征伐」が優位である論拠
    • (B01)「四国攻め」という項目名の「攻め」は広義で、より狭義な言葉である「討伐」や「平定」のほうが狭義で、項目名だけで「戦況」や「時代背景」がわかるので、より適切である。--秋田城之介 2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)
    • (B02)百科事典国語辞典では「四国征伐」が圧倒的である。また、歴史事典を見ても現況では「四国平定」と「四国攻め」、過去の状況も含めれば「四国征伐」 が良く使われており、総合的に判断して「四国攻め」が第一候補とは言い難い。--秋田城之介 2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)
  • 改名賛成側の論拠への批判
    • (B11)「四国攻め」という表記が、現在の歴史学界において増えてきているのは事実でしょう。しかし、圧倒的なコンセンサスを持っているとは言い難く、これを以ってして「歴史学界の見地」とするのは不公平な言い分である。現況を重視するのであれば「四国平定」も増えていると言える。--秋田城之介 2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)
    • (B12)Wikipediaは「フリー百科事典」である。歴史事典だけでなく、百科事典・国語辞典なども立派な根拠になりうる。この項目は「歴史学的な項目」であるが、「歴史事典の項目」ではない。--秋田城之介 2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)
    • (B13) >(A14)について、「項目無し」が一番多いのは事実ですが、項目としてあった場合は「四国征伐」が圧倒的であるということです。これだけ調べても、国語辞典には「四国攻め」は存在しないということも意味しています。--秋田城之介 2010年1月10日 (日) 17:33 (UTC)
    • (B14) >(A16) 何を指しているか曖昧になることを避けるため、より狭義な言葉を選ぶのは一般的に間違いでは無いと思います。また、yasumi氏の反論は、反論としては抽象的すぎます。
  • 関ヶ原部分の存在は議論の妨げになるか、またその理由
    • (B21)議論の本質では無いが、「四国征伐」のページとして相応しくなく、中身自体関連性が薄い。関ヶ原部分は織田・羽柴ら中央勢力による四国・長宗我部氏への攻撃ではないので。--秋田城之介 2010年1月3日 (日) 16:00 (UTC)

依頼内容

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  1. (前提議論)関ヶ原部分の存在は現時点において改名議論の障害となっているか。
  2. (本論)賛成側、反対側のどちらの論旨により説得力があるか。
  3. その他、新たな論拠や解決策の提示など。

以上の点について、第三者のコメントを求めます。--Arawodas 2009年12月30日 (水) 02:37 (UTC)

コメント欄
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コメント ぱっと見、世紀をまたぐ頃から傾向に違いがあるように見えますが、あまりに古い資料は論拠に使う意味がないと思います。また国語辞典は論拠に使うべきでないと思います。なぜなら古語・死語も収録し続けるからです。その一方新語は、編者が存在を認識していても収録に及び腰になることがあり、またそもそも存在を認識していない場合もあります。--КОЛЯ 会話 2010年1月4日 (月) 09:20 (UTC)

コメントありがとうございます。古すぎる資料は論拠に適さないとのことですが、今回の例において、その具体的な線引きの基準をどこに置くべきとお考えでしょうか。あるいは使う意味がないとお考えの資料名を直接挙げて頂いても結構です。--Arawodas 2010年1月10日 (日) 07:51 (UTC)
一概に言えませんが、聞かれたので答えますと、まあ30年も経てば子の世代になるでしょうから、80年代以降が現時点で見る価値ありと考えます。70年代は参考程度、60年代以前は見る価値なし。(なお80年以降で多数決にすべしという意味ではありません。また2000年代と1980年代が同価値という意味でもありません)--КОЛЯ 会話 2010年1月10日 (日) 17:04 (UTC)
回答ありがとうございます。質問の仕方がやや押しつけがましかったかもしれず、すみませんでした。--Arawodas 2010年1月11日 (月) 10:52 (UTC)

コメントざっと見たところ、「四国平定」でコンセンサスは取れないだろうか、と思いました。あと、関ヶ原部分はあまり関連性が無いのでいらないと思います。--高尾区 2010年1月15日 (金) 16:54 (UTC)

コメントありがとうございます。「四国平定」を推される理由について、「四国平定」が記事名として最も優れているというご判断なのか、それとも「四国攻め」支持と「四国征伐」支持の両派への妥協の勧めなのか、明らかにして頂けないでしょうか。それから関ヶ原部分についてですが、現在論点になっているのは「関ヶ原部分がこの記事にあることが改名議論を妨害しているか」であって「関ヶ原部分を本記事から分割する必要があるか」ではありません。「関ヶ原部分の分割を完了しない限り、改名議論を正常に行うことができない。だから分割を完了しない限り、改名議論を行うこと自体を許さない」というのが秋田城之介さんの主張であり、私とYasumiさんは「関ヶ原部分があっても改名議論の邪魔にはならない。分割したければ改名とは切り離して別に議論すればいい」という意見です。その観点からコメントがあればお願いします。--Arawodas 2010年1月15日 (金) 18:14 (UTC)
お三方の資料を拝見しますと、「四国平定」もかなりの割合で、十分項目名になりうる地位だと考えました。また、もしそこが妥協点として機能するのであれば私は推すつもりではありました。
>関ヶ原部分 議論が分かりやすくなるという観点から見れば、先に切り離してしまった方が良いと思いますが、妨害とまではいかないとおもいます。--高尾区 2010年1月18日 (月) 16:32 (UTC)

コメント「四国攻め」「四国征伐」「四国平定」では「四国攻め」が一番妥当だと思います。

  1. 信長・輝元に関しては「四国攻め」としか言えません。
  2. 語の包含関係は「四国攻め」⊃「四国征伐」⊃「四国平定」であり、「四国攻め」がもっとも意味が広いので、信長・秀吉・輝元、3者について扱うのならば「四国攻め」がもっとも適切です。
  3. 「四国征伐」は中立的な観点からみて問題があるが、「四国攻め」には問題がなさそうです。これは、問題があるかどうかを議論するよりも、問題があるとみなす人がいるかどうかを考慮すべきでしょう。
  4. 秀吉を主体にするとしても本来は「長曽我部征伐」なわけで、「四国征伐」はことばとして不正確なところがあります。

国語辞典の見出し語は根拠にはなりません。「見出し語として採用されているから一般的な語」という理屈にも首肯しかねます。なお、秀吉だけに限った記事ならば「四国平定」でもよいでしょう。桑田忠親氏や小和田哲男氏など当該時代の著名な研究者が、一般向けの著作物で最も多く用いている語が「一般的な語」なのではないでしょうか。記事を執筆する際、出典とするのは戦国史・織豊時代史研究の著作であるはずで、出典にならないもの(国語辞典)を根拠に見出しを決めてしまうことは記事の成長・充実を妨げてしまうものと考えます。--Chokorin 2010年1月16日 (土) 01:29 (UTC)

勘違いされているようですが、関ヶ原部分は本質的に異なった部分ですので、これを根拠にするのは筋違いです。このような誤解を生まないよう、改名提案より先に分割などすべきだと思ったのですが・・・・・。--秋田城之介 2010年1月17日 (日) 15:30 (UTC)
Chokorinさん、コメントありがとうございます。国語解釈は水掛け論になるため、出典で記事概念がどのような言葉で扱われているかで話さないと収拾がつかなくなりそうです。もっとも「四国征伐」の征伐性には疑問点がつくという指摘については、出典にもある話なのですが・・・また、Wikipedia:基本方針とガイドラインで「ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げることです。」とあり、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にて「(百科事典・国語辞典などの)三次情報源の内容に頼るようでは目標の達成には充分ではありません。」と言われていることに注意か必要でしょう。--Yasumi 2010年1月20日 (水) 12:58 (UTC)
「四国征伐」の征伐性には疑問点がつくという指摘については、出典にもある話」について、ちょっと詳しく説明して頂けますか。「この戦役には征伐という表現はふさわしくない」という類の言説が研究者によってなされているということでしょうか。--Arawodas 2010年1月24日 (日) 01:46 (UTC)

コメント 『四国攻め』が参考文献において最も優勢な表記かどうかは調査によって割れているので、疑問符が付きます。また『文題一致』ということに関しても、編集者が何を出典にして書くのかによって変わってきてしまいますから、これも難しい。現状では改名をすべきであるとは思えません。--ARP-77 2010年1月19日 (火) 14:56 (UTC)

ARP-77さん、コメントありがとうございます。第一文は「四国征伐」他にも当て嵌まりますよね?第二文は現状で「四国攻め」を優勢としていますが少なくとも「四国征伐」に揺れる出典の増加は見込めないように思います。この二文を受けた結論の第三文が「四国征伐」の維持とのことですが、第一文・第二文からの不接続により、何を以て優勢としているのか不明です。願わくば論理論拠を開示してご説明をお願いします。--Yasumi 2010年1月20日 (水) 12:58 (UTC)

Yasumiさんより声をかけていただき、拝見しております。現在こちらが投票準備段階との事なので、参考程度のコメントに留めておきますが、特に問題なく用いる事が出来る記事名としては「四国攻め」に分があるかなぁと感じます。「征伐」には、『反乱勢力を鎮圧したり、反社会的な犯罪集団・賊などを武力で処罰する』(征伐より引用)のイメージがあり、 長曾我部一族が反乱を起こしたかのような印象を与えます。しかし実際は、大名同士の「戦役」であり、織田勢に必ずしも理があるとは言いがたい戦いですので、「攻め」の方が収まりが良いのではないかと思います。個人的には「四国戦役」「四国の役」がさらにしっくり来るのですが、今回の選択肢からは外れたようなので。--影綱 2010年1月24日 (日) 23:26 (UTC)

毛利輝元の四国攻めは蛇足のようにも思えますので、関ヶ原の戦いに転記すべきでしょう。「四国攻め」の記事名にしたためにあのような加筆が入り込む余地が生じたのだとすれば、「四国征伐」の方がまだマシということになってしまいます(もちろん、四国征伐の記事名を支持するわけではありませんが)。自分としてはむしろ織田政権末期から豊臣政権初期における「中国国分」「四国国分」についてメインに加筆し、信長、秀吉と毛利氏との政治的な対立関係を重点的に加筆するべきのようにも思えるのですが、現段階ではそこまでの主張はしないことにします(中国攻めもないことですし)。--Kangoshiyouichi 2010年1月29日 (金) 16:02 (UTC)

コメントありがとうございます。関ヶ原部分が加筆されたのは改名提案が行われる前なんですが、それは置いといて、同様のご意見を頂くのは二人目ですので、別節にて正式な提案として検討させて頂きます。
毛利氏と信長・秀吉の関係については、(本格的に書くには中国攻めなり中国国分なりを立項することが必要でしょうが)四国での戦いの背景を説明する上では欠かせないことと思います。現在の記事でも少しだけ言及されておりますが、十分とは思っておりません。--Arawodas 2010年1月30日 (土) 02:00 (UTC)
状況整理のため、影綱さんとKangoshiyouichiさんのコメントを移動させて頂きました。ご了承下さい。--Arawodas 2010年1月31日 (日) 14:22 (UTC)
Arawodasさんの2010年1月24日 (日) 01:46 (UTC) の依頼に関して説明が漏れていましたので今更ですが説明したいと思います。
まず、四国攻めの後の九州の役については惣無事令・天下静謐・叡慮などの論理により豊臣政権が軍事行動を起こしているのは周知のこと思われます。これに対して、関白任官前後の出来事である四国攻めについて学者が色々論争しており、四国攻めの位置付けや性格について次の二例のような事を述べています。
藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』1985年では、節題「四国国分」にて。「いわゆる四国征伐」について「その後、毛利方の画策によって伊予一国の処分に変更を生じ、ひとたび服属を申し出た長曽我部氏がこれに従わないため平和裏の国分政策から一転して戦争となるが、それは伊予処分のための強制執行であり、また毛利氏との関係強化という政治的な色合いが強く、長曽我部征敗の色彩は薄いものであった。」「開戦時すでに長曽我部の赦免・本領土佐の安堵を内定していることからも、この作戦を四国征服戦争とのみはみなしがたい。」と評価しています。
藤田達生『日本近世国家成立史の研究』2001年では。章題「豊臣国分論(一)-四国国分-」の結語にて。上記藤木氏の論を批判して「秀吉による四国国分プランは、・・・長宗我部氏への土佐安堵は、あくまでも戦争の結果にすぎなかった。」とし「秀吉にとって・・・四国攻撃は・・・豊臣領を拡張し瀬戸内海における制海権を掌握するため、またきたるべき九州攻撃に備えての体制を作るためにも、必要不可欠な軍事行動であったのであり、決して伊予処分に限定評価することはできない。」まとめとして「藤木氏は四国以降の国分が、一貫して「惣無事」の基調をもって推進されていくことに注目されたのであるが、再考を要するだろう。秀吉の国分については、少なくとも豊臣領と境界を接する中国・四国の場合は、当事者として力関係で決定し相手を従属させる武力征服の色彩が濃かったと理解すべきなのである。」と結論付けています。
つまり藤木氏の論では、四国攻めは従来の戦国的国盗り論理とは異なり、豊臣政権が国割りを執行する惣無事論理の嚆矢であったとの位置付けをしています。これは中央政権の上から目線の論理ですが、その意味合いでさえ土佐一国へ封じる前提の征伐的でない戦争と結論付けられています。一方、藤田氏の論ではそれを批判し、四国攻めは正義が悪を討つ征伐ではなく従来の戦国国盗り的な戦争であったと位置付けています。どちらも歴史学の世界の学術論争なので直接征伐性について云々するものではありませんが、国語的な征伐の「【征伐】[名](スル)罪のある者や反逆者などを攻め討つこと。征討。「悪党どもを―する」(大辞泉)」「【征伐】(名)スル 攻めて行って反逆者や悪者などを討つこと。(大辞林)」からは遠いのではないかと思います。
上記より、国語的征伐性を評価するならば自ずと結論は出るのではないかと思います。国語的には、むしろ豊臣政権の公儀権力を利用して戦わずして反抗勢力を排除して蜂須賀・生駒の両氏を服属・軍事動員させた輝元の四国攻めの方が征伐性が高いと言う論理も組み立て可能でしょう。征伐性の個人解釈は今回の改名議論に相応しくないので私は主張はしませんが、征伐性の個人解釈を議論に持ち込む方に於かれましては、征伐の定義と対象の征伐性をよく考えて示すべきかも知れません。--Yasumi 2010年2月6日 (土) 00:51 (UTC)
解説ありがとうございます。藤田氏のその書籍についてはアクセス可能でありながら、改名議論にかまけて熟読できずにおりました。できるだけ時間を見つけて読み込んでみたいと思います。--Arawodas 2010年2月6日 (土) 01:53 (UTC)

コメント依頼以後

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コメント依頼から一週間以上が経過しましたが、対立は解消されず、議論の膠着が継続しています。次なるステップである投票へ向けての準備をすべきかと思いますが如何でしょうか?--Yasumi 2010年1月11日 (月) 10:04 (UTC)

依頼から二週間、1月15日までは待ってはいかがでしょうか。15日時点での意見状況を基に一度合意形成を試み、それが決裂してから投票でも遅くはないと思います。--Arawodas 2010年1月11日 (月) 10:52 (UTC)
返事が遅くなりました。投票を実施するにも、投票の合意が必要であります。秋田城之介さんとの対話により、意見はだいたい出尽くしたのではないかと思います。これにより、今のところ当方からは「四国征伐」に歩み寄る要素は見つけられませんでした。秋田城之介さん側よりの妥協あるいは合意に向けた新解決策の提案が見られない場合、合意形成の為の調査投票を提案します。合意形成→合意不形成→投票実施の合意→投票要領の提案→投票→多数案への合意というプロセスで解決したいと思いますが、ご同意願えるでしょうか?--Yasumi 2010年1月17日 (日) 13:08 (UTC)

コメント依頼から二週間が過ぎ、3名の方からコメントを頂きました。

  1. 国語辞典は論拠として用いない。(КОЛЯさん、Chokorinさん)
  2. 発行年代の新しい資料がより重視されるべき。(КОЛЯさん)
  3. 専門家による一般向けの著作物での表現が最重視されるべき。(Chokorinさん)

以下は私の意見です。1・2は、「四国攻め」支持側の主張とほとんど矛盾しないので、支持します。3については、何をもって一般向けとするかという点で解釈が割れる可能性がありますが、私としては吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズや山川出版社の「○○県の歴史」シリーズが、問題なくこの範疇に当てはまると考えます。

これまで頂いた意見では、「四国征伐」を支持する内容のものはないと言って差し支えないでしょう。そこで、次の質問をします。

  • (秋田城之介さんへ)記事名候補として、「四国征伐」を放棄する決断はできますか?
  • (Yasumiさん、秋田城之介さんへ)「四国平定」は、双方にとって「「四国征伐(四国攻め)」には劣るが「四国攻め(四国征伐)」よりはまし」という位置づけであろうと思います。今回合意形成できなければ投票決着すべきだと私は考えておりますが、投票回避・議論早期終結のために「四国平定」で妥協するという判断はありえますか? 私はあくまで「四国攻め」が最善と思っていますので、積極的に「四国平定」での決着を推奨する気はありませんが、両氏が共に「平定」決着を支持し、他の方から反対がなければ、「平定」での妥協に異議を唱える気はありません。

以上2点、よろしくご回答下さい。なお二週間以内に両氏の回答がない場合、及び今回の合意形成の失敗が明らかになった場合は、速やかにYasumiさんご提案の投票による多数決決着に移行すべきと考えます。--Arawodas 2010年1月17日 (日) 15:04 (UTC)

「四国攻め」での合意は到底考えられません、投票も考えるべきでしょう。しかし「四国平定」での合意であれば、議論の余地は有ると考えています。
「四国攻め」が近年の歴史学界において戦役名称として筆頭格であるという論拠は乏しいのです。近年の歴史事典類に限っても、「四国攻め」が歴史学界の大勢であるかのような言い方はミスリードであり、事実とは異なります。--秋田城之介 2010年1月17日 (日) 15:30 (UTC)
重ねてお尋ねします。「四国征伐」を放棄するお考えはありますか? yesnoのみで結構です。--Arawodas 2010年1月17日 (日) 15:41 (UTC)この質問は撤回します。回答ありがとうございました。--Arawodas 2010年1月18日 (月) 11:45 (UTC)
Arawodasさんの2010年1月17日 (日) 15:04 (UTC)にお返事致します。この記事を形成する出典群に於いて、戦争史の呼称としては比較一位である「四国攻め」が相応であり、「四国平定」は「四国征伐」に優るとは考えますが、私としては現状の「四国平定」案が「四国攻め」に優越する論理論拠は見出せません。従って妥協の余地はなく、コミュニティによる投票決着へ移るべきと考えます。--Yasumi 2010年1月18日 (月) 11:12 (UTC)
回答ありがとうございます。投票決着に私も異存ありません。秋田城之介さんも投票を否定される意思はないものと推察しますが、確認のためにもう一度投票決着への同意を明言で頂けないでしょうか。
申し遅れましたが、この「四国平定」案は高尾区さんのコメントに示唆を頂いて打診したものです。成立に至りませんでしたが、高尾区さんにはご提案ありがとうございました。--Arawodas 2010年1月18日 (月) 11:45 (UTC)
秋田城之介さんへ。重ねて催促となりますが、投票解決への合意表明または目処の立つ別の解決案をご提示下さい。投票合意の場合は、下記投票要領についての吟味・修正もお願いします。--Yasumi
投票が無意味だとは思いませんし、だからこそ賛成したのですが、投票結果=記事名というのは安直すぎるかな、と。正直、今回の議論は議論されつくしたとは思いませんし、「投票」の意義について問われている背景もありますが、ウィキペディア日本語版における「投票」が歴史文書化されていることを踏まえても、投票結果をダイレクトに議論結果にするのは拙速だと感じます。投票を通じて、もっと多くの利用者の方からコメントを頂ければ良いのですが・・・・・。--秋田城之介 2010年1月23日 (土) 16:01 (UTC)
投票結果=記事名でないのなら、何のための投票でしょうか。意味不明です。それに、秋田城之介さんの主張に理があるなら、投票になっても必ずや多数の支持を得られることは間違いありません。コミュニティは理のない主張を通すほど馬鹿ではありません。何を危惧することがありましょう。Yasumiさんも言っておられますが、投票決着を拒否するなら、目処の立つ別の解決案をご提示下さい。この段階に至ってなお議論を長引かせ、結論を出すことを遅らせても、得られるものはありません。--Arawodas 2010年1月24日 (日) 01:46 (UTC)
私としても、投票せずに済むならその方がよいのです。秋田城之介さんが「四国攻め」に納得して下さればそれで解決です。こちらをどうぞ[10]。せっかく資料を扱うなら分析はきめ細かく、丁寧に。--Arawodas 2010年1月24日 (日) 10:12 (UTC)
私が挙げた百科事典は私自身が調べたものの改訂年を書いてありますが、それは改訂されてもなお「四国征伐」が使用されていることを示すものであります。初版から変化がなければ意味が無いというわけではないと考えます。--秋田城之介 2010年1月24日 (日) 15:26 (UTC)
重ねて申し上げます。Wikipedia:投票が方針から外れたとしても本ノートに於けるローカル合意の上で投票を実施することは可能です。また、私は現状の意見対立を解消する方法について他案に思い至りません。従ってコミュニティによる投票実施により記事改名を結論付けることが合理であると考えます。秋田城之介さんに於かれましても、再度投票の結果を改名議論の解決とすることに賛成表明することを望みます。仮に反対であれば、当然議論解決の代案を提出するのが筋です。代案を出さないまま、ひたすら議論を引き延ばすのであれば、それは「現状維持派のゴネ得」と評価されても仕方がないでしょう。秋田城之介さんが2010年1月23日 (土) 16:01 (UTC)に「議論は議論されつくしたとは思いませんし」や「投票結果をダイレクトに議論結果にするのは拙速だと感じます」と言われていますが、ならば議論不足分について速やかに補足を行い、拙速に不足する条件を明示下さい。--Yasumi 2010年1月24日 (日) 11:36 (UTC)

私は投票自体には賛成です。しかしその性質は大いに問題です。Yasumi氏・Arawodas氏は、wikipediaが民主制ではないということを理解されているのでしょうか?投票はあくまで調査投票としてすべきで、議決投票というのは本来不適切です。投票を通じてユーザーの関心を集め、また現在の支持状況がどうであるのか、それを受けて提案者・反対者それぞれがどうするのか、もっと言えば提案理由も様々ですから、提案理由のどの部分が支持を得られ、どの部分が支持を得られなかったか、など議決でなくとも投票から得られるものは多いのです。もちろん、投票が一方的な結果となれば、それを受け入れることが有力な選択肢となるでしょう。しかし純粋に「多数決の結果を結論とすること」以外に意味が無いとおっしゃられたArawodas氏の見識を疑わざるを得ません。--秋田城之介 2010年1月24日 (日) 15:26 (UTC)

元より調査投票であることは織り込み済みです、ただしそれを受けて多数案に同意し合意形成とすると言うことです。議論し尽くした上でコミュニティに妥当性を問うた結果に従った解決をしなければ「いつまでも「納得」しない」と言うことでコミュニティを疲弊させるユーザーと見なされるかも知れません。また、議論がし尽くされていないとのことであれば速やかに必要要件を挙げて提出すべきでしょう。それをやらないまま、いたずらに議論を長引かせるユーザーも同評価を受けるでしょう。かつて関ヶ原部部分の分離が改名議論前に必要であると言いながら、別途に分離議論も分離提案もされない秋田城之介さんでしたが、今回の本論解決方法について速やかに行動して頂きたいと思います。それとも一度「四国攻め」に改名した後で議論を継続すると言うことに同意されますか?--Yasumi 2010年1月24日 (日) 20:51 (UTC)
私が「四国征伐」は中立的観点から見て問題ない旨を主張したところ、提案側から『「征伐」呼称の中立性については議論の枝葉である』と言われ、以後それについて反論はありませんでしたが、コメント依頼から来られた方の中には中立性を問題にしている方もいます。提案側としてはこれは主張点なのでしょうか?ハッキリさせるべきでしょう。また、記事分割の件もありますので、もう少しコメントを募ってからでも、投票は遅くないはずです。--秋田城之介 2010年1月30日 (土) 15:36 (UTC)
中立性云々について個人的感覚で議論すること(=秋田城之介さんのこれまでの議論)に関しては、枝葉であるという考えに変更はありません。理由は1.個人的感覚による議論は水掛け論に陥りやすいため、議論そのものが建設的なものになりにくい 2.個人的感覚より書籍での傾向の方が重視されるべきである といったこともありますが、実務的な問題として3.「四国攻め」優位な状況でこの問題を議論しても記事名選択の結論に影響がないため、議論そのものが無意味 と考えています。
この件について秋田城之介さんの主張が完全に通ったとして、それがどんな結果をもたらすかちゃんと考えたことがありますか? 仮に「「四国征伐」は中立的観点から見て問題ない」という主張が認められたとしても、「中立性において「四国征伐」は「四国攻め」と対等である」ということまでしか言えません。中立性の議論をすることによって、「四国征伐」が他の呼称に対し劣位に置かれることはあっても、優位に立つことはありえないのです。他の条件が全て互角、あるいは「四国征伐」優位の状況ならともかく、書籍表記で「四国攻め」優位のデータがある以上、この部分で秋田城之介さんの主張が通っても何の意味もないのです。
書籍では、年代が新しくなるほど「四国攻め」が「四国征伐」に対して優位に立ち、かつ全体でも比較一位であることは明らかです。この点については秋田城之介さんは否定できていません(秋田城之介さん以外の方に説明しますと、秋田城之介さんの調査は資料分析が甘く、論拠として問題があります。詳しくはコメント依頼文からArawodasの検証をご覧下さい)。それを除くと「四国征伐」優位の根拠として挙げられているのは国語辞典(B02)と独自の国語理論(B01)の二点であり、前者はすでに複数の方から論拠としての正当性を否定されており、後者はそれこそ個人的感覚であって書籍での傾向と並べて論じること自体誤りです。「四国攻め」優位を覆す論拠がない以上、個人的感覚で中立性について議論するまでもない話と考えます。
一応突っ込んでおきましょうか。(B01)(B14)の「征伐」は「攻め」より狭義だからより適切であるという主張については、(A13)で既に指摘した通り、専門文献類でなぜ「四国征伐」が減り「四国攻め」が増えているのか説明できません。秋田城之介さんの論理に従えば、研究者が適切な表現を捨てて、より不適切な表現をあえて選択していることになります(以前は「四国征伐」と書きながら、近年の著書では「四国攻め」と表記している研究者もいます)。なぜこのような状況が生まれているのかを明快に説明できない限り、秋田城之介さんの国語理論はこの時点で既に破綻していると言うほかありません。この点は以前に二度も指摘したのですが、未だに一言の反論もありません。次回に実効性のある反証がなされない場合は、論理破綻を認めたものと解釈させて頂きます。誠意ある回答、というより潔く誤りをお認めになることを期待します。(B14)のyasumi氏の反論は、反論としては抽象的すぎますに至っては、Yasumiさんの主張の何が問題なのか、これだけではさっぱり分かりません。もちろん補足説明もありません。この秋田城之介さんの発言こそが、反論としては抽象的すぎますと評するにふさわしいと言えます。
一週間近くかけて出てきた「論点」が中立性一つということであれば、秋田城之介さんも他に論点は思いつかないということだと思います。いい加減結論に向けて動くべきではありませんか。私から見ると「四国征伐」を肯定する根拠も「四国攻め」を否定する根拠も何一つない中で、なぜ「四国攻め」を拒否するのか不思議です。いたずらに議論を引き延ばさず、速やかに「四国攻め」への改名に合意して頂きたいと思います。
それに納得できないなら、先にも言いましたが秋田城之介さんの主張に理があるなら、投票でも必ず多数の票を得られるはずです。誤解しておられるようですが、Wikipedia:投票の指針が歴史的文書化されても投票行為の是非には何ら影響を与えません。詳しくはWikipedia:お知らせ#Wikipedia:投票およびWikipedia:投票の指針の歴史的文書化についてをどうぞ。納得して引き下がるのもいや、投票で白黒つけるのもいやだというなら、議論の引き延ばしでなく速やかに結論に至る具体的な方策を提示すべきです。
それから分割と改名は完全に独立した提案ですので、一方の進捗状況をもって他方を遅延させる必要はありません。お間違えのないようお願いします。分割支持なら新記事名の提案もよろしくお願いします。--Arawodas 2010年1月31日 (日) 14:22 (UTC)
たしかに、過去20年ほどで「四国攻め」の記述は増えてきました。しかし最近の記述だけみれば、「四国攻め」と「四国平定」が均衡しており、未だ「四国征伐」「四国征討」もかなり多く、「四国攻め」が歴史学界のコンセンサスであるとは言えない状態であります。そのような実態に加え、国語辞典及び百科事典での状況を見ると「四国攻め」には反対せざるを得ないのです。
>専門文献類でなぜ「四国征伐」が減り「四国攻め」が増えているのか  私は、百科辞典であるwikipediaにおいては「狭義な言葉」を使うべきだと言ったのです。それをそのまま歴史事典に当てはめ、表記の推移と比べられても無意味です。--秋田城之介 2010年1月31日 (日) 15:21 (UTC)
「四国攻め」が歴史学界のコンセンサスであるなどとは最初の最初から誰も言っていないんですが。今に至ってもまだそんな初歩的な部分でつまづいているようでは困ります。国語辞典には否定意見こそあれ論拠として支持する意見は第三者からもありませんが、まだ固執なさるおつもりですか? それから、「征伐」が「攻め」より優るという主張については、ご発言の趣旨は「書籍の傾向より秋田城之介さんの個人的な国語理論が優先されるべきだ」と理解して差し支えありませんか? 後、結論に至る具体的な方策をまだ伺っていませんのでよろしくお願いしますね。--Arawodas 2010年1月31日 (日) 15:41 (UTC)
コンセンサスは言い過ぎたかもしれませんが、「四国攻め」が歴史学界において、圧倒的に多用されている傾向でないのは事実です。また、国語辞典を挙げるのを「固執」と言われていますが、私はこれに関して全面的に間違っているとは思っていません。КОЛЯさんの意見もありますが、それはそれで一つの見解であります。全ての国語辞典が新語掲載に躊躇するわけでもないでしょうし、死語を載せ続ける国語辞典に信用性がないかと言われるとそれも疑問があります。歴史辞典類にも「四国征伐」の表記は多々あり、百科事典・国語辞典・そして現行の歴史事典にもかなりの程度記載が有り、相互に信用性は担保されていると考えます。
>「征伐」が「攻め」より優るという主張  ・・・・・しっかり私の発言(2010年1月31日 (日) 15:21付)を読んでください。そのような見解は間違いです。
投票に関しては、あくまで投票は調査であると考えています。しかし、改名提案派の方はどうしても改名したいようで、冷静さを欠いていると思われます。妥協案として一度投票結果のページを仮決定しても良いと考えます。ページ改名しつつ議論は継続すべきだと考えます。場合によってはその後コメント依頼や再投票が行われるかもしれませんが。--秋田城之介 2010年1月31日 (日) 16:35 (UTC)
国語辞典がどういうふうに編纂されるかというと、多くは既存の辞典・事典類で立項された項目をもとにします。『現代用語の基礎知識』的なものも大いに参考にされますが、全てを掲載するわけではありません。各業界の用語辞典類も参考にされるでしょうが、同様です。「躊躇」と言ってまずければ、「辞書執筆スタッフの人的・時間的・スペース的制約からいって、一々の語彙の新規立項の可否を念入りに検討するのは不可能に近く、マスコミュニケーションの場において人口に膾炙した新語のみ、辛うじて掲載されるに至る」と言い換えたらイメージが掴めますでしょうか。一般に国語辞典、それから文部科学省検定済教科書に、学会の趨勢が反映するのは非常に遅いです。特に(私も学んだ)人文科学ではそんな気がします。半世紀前の見解が載ってるなんて普通に存在します。ウィキペディアはもっと up to date であっていいと思います。--КОЛЯ 会話 2010年1月31日 (日) 20:01 (UTC)

(インデントもどします) 以前「専門家による一般向けの著作物」という言葉を掲げましたので、一応、補足説明をさせていただきます。

Arawodas 2010さんのあげた吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズや山川出版社の「○○県の歴史」シリーズですが、確かにそれも該当いたします。ただ、あのとき念頭にあったのは各社より出された通史のうち戦国時代・安土桃山時代を扱った巻で、研究者がどのタームを用いているかということでした。それによれば、

  • 吉川弘文館『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』(池亨)では「四国制圧」
  • 講談社『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(池上裕子)では「四国平定」
  • 集英社『日本の歴史11 天下一統』(熱田公)では「四国攻め」

であり、

  • 小学館『日本の歴史八 戦国の活力』(山田邦明)では、長宗我部を主語に「四国を平定する勢い」とみえるにとどまります。

それぞれ、文中に「(信長が信孝に)四国征討を命令」「(秀吉が)出陣」の語もみえます。総じて戦闘に関しては「攻め」「出陣」、それを天下統一事業に位置づける文脈では「制圧」「平定」の語が使われる傾向があり、各学者とも両語を併用したうえ、使い分けもなされているようです。御参考までに。--Chokorin 2010年1月31日 (日) 17:58 (UTC)

Chokorinさんの分析については、私も同感です。高校参考書で「四国平定」が使われるのも、高校日本史では、戦争そのものより天下統一事業の一部という政治的な面が注目されているからだろうと思います。反対に軍事面に着目した書籍では「四国攻め」が多いのにも納得です。--Arawodas 2010年2月2日 (火) 02:12 (UTC)
参考までに、最近出版された一般向け通史本の「日本の中世史7 天下統一から鎖国へ」堀新著、吉川弘文館2010年では、文中に「六月の四国攻めにも」との表現を使っています。これに限らず「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」これらの言葉には元々の意味を指す原義があり、それとは別に羽柴・長宗我部戦争を代名して指す用法があるため注意が必要となります。--Yasumi 2010年2月2日 (火) 13:11 (UTC)

投票

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投票準備

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投票合意中ですが、準備として投票の叩き台を下記の通り準備します。内容について逐次修正、指摘及びチェック等をお願いします。投票開始は、投票合意後の手続き完了を基点に1週間程度で良いと思いますが如何でしょうか?--Yasumi 2010年1月18日 (月) 12:29 (UTC)

秋田城之介さんの2010年1月31日 (日) 16:35 (UTC)の発言にて「妥協案として一度投票結果のページを仮決定しても良いと考えます。ページ改名しつつ議論は継続すべきだと考えます。場合によってはその後コメント依頼や再投票が行われるかもしれませんが。」とあり、ひとまずは多数決による投票実施と記事名への反映が合意されたと判断します。つきましては次節の投票要領の内容についてご確認を頂き速やかに投票を実施したいと思います。特に秋田城之介さんに於かれましては投票要領への改正点や賛意を表明して頂きたいと思います。
投票要領の改正として「投票のルール」に「投票と改名の可否後も議論は続ける」の一文を加える事でよいでしょうか?
なお、秋田城之介さんは2010年1月24日 (日) 15:26 (UTC)に「もちろん、投票が一方的な結果となれば、それを受け入れることが有力な選択肢となるでしょう。」おっしゃられていますが、合意可能な「一方的」得票とは何割位を想定しておられるのか、教えて下さい。--Yasumi 2010年2月1日 (月) 21:36 (UTC)
私としては、投票終了後も議論を継続することについて「ただし、議論継続を望む者が速やかに議論に値する論点を提示しない場合、または議論終了の合意が成立した場合は議論を終了する」を付加することを求めます。これは無理難題でもなんでもありません。論点の存在しない議論など原理的にありえないからです。「速やか」の解釈については自然合意の成立する期間、すなわち投票終了からおおむね一週間で考えています。--Arawodas 2010年2月2日 (火) 02:12 (UTC)

コメント 投票後どうなるにせよ議論の余地を持たせるというのは正しいことだと思いますが、秋田城之介さんの言われている条件は曖昧な部分も多く、明言をしていただいたほうが良いです。とりあえず投票に関して、何割で合意とするかは重要なことなので早く決めたほうが良いですね。圧倒的というのは管理者信任みたいな比率のことなんでしょうかね?--高尾区 2010年2月2日 (火) 05:51 (UTC)

では、2010年1月31日 (日) 16:35 (UTC)を基点に一週間を目処に反対がなければ合意を以て投票を実施する方向で考えたいと思います。次節投票要綱の日付をずらしてみました。合意の要綱としては

  • 投票による多数意見を記事名に反映させる。
  • 投票終了後も議論を継続する。ただし、議論継続を望む者が速やかに議論に値する論点を提示しない場合、または議論終了の合意が成立した場合は議論を終了する。

このような感じでよいでしょうか?なお、開票結果が一方的で有れば多数意見に合意すると表明されている秋田城之介さんが比率を表明することも投票実施の要件として求められているので、よろしくお願いします。--Yasumi 2010年2月2日 (火) 13:11 (UTC)

議論材料が無い状態で無意味に議論を続けようとは思っていません。むしろ、私自身は冷却期間を置いても良いと思い始めております。ですので、一旦議論終了しても良いかもしれませんが、私以外からも異論は来るかもしれないので、間髪入れず議論継続する可能性はあるでしょう。また、議論の長さが長さですので、『過去ログ化』にも反対はしません。投票に関しては、圧倒的多数であれば受け入れる旨を書きましたが、得票数もあまり多くないと思われるので、「二票差以上での採択」でなら、多数意見を記事名に反映させることに合意することにします。よって決選投票(3日延長)には同意いたしません。--秋田城之介 2010年2月5日 (金) 14:57 (UTC)
あと投票者条件は、Yasumiさんが投票要件合意の基点とされている意味でも、「2010年1月31日 00:00:00 (UTC) の時点で全名前空間の編集回数50回以上であること」にするべきですね。--秋田城之介 2010年2月5日 (金) 15:23 (UTC)
2010年2月5日 (金) 15:23 (UTC)の秋田城之介さんの発言を受けて投票合意をしたいのですが、その前にご確認を。「得票差が二票以上の決着に、秋田城之介さんは合意する」の件には了解しましたが、決選投票は当面の改名実施に必要だと思います。つまり「二票差以内の票確定の場合は秋田城之介さんが合意せず、改名は実施するが議論は継続する」となるでしょう?今までの発言の経緯からこのようになると思いますが、ご確認下さい。もう一つ、広く投票を受け付けるために、投票期間を週末二回を経過する「2010年2月8日00:00:00(UTC)から2010年2月22日00:00:00(UTC)までの2週間+1日。」まで伸ばしましょう。三点目、投票要件は秋田城之介さんの言う通り「2010年1月31日 00:00:00 (UTC) の時点で全名前空間の編集回数50回以上であること」としました。これで投票合意としたいと思いますが、如何でしょうか?--Yasumi 2010年2月5日 (金) 22:16 (UTC)
投票期間については、一週間でも問題はないと思いますが、伸ばして不都合があるわけでもないので同意です。投票要件も異議ありません。決選投票については、賛否同数なら必要です。「二票差以上なら合意、一票差なら仮採択後議論継続、同数なら延長」でよろしいのでは。延長しても同数なら、その時考えましょう。--Arawodas 2010年2月6日 (土) 01:53 (UTC)
コメント 2週間+1日で、さらに延長有りとなると、投票としては異例の長さになると思います。延長有りなら、10日程度にしておくべきだと、私は考えます。--高尾区 2010年2月7日 (日) 01:28 (UTC)
追記:書き漏らしました。私自身と致しましては、今回投票で「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切るつもりです。高尾区さんへ、15日の投票期間は私には経験があり、特に不都合だと思いません。広く投票を求める意味で週末二回分を含める狙いの元の設定ですのでご同意願いたいと思います。--Yasumi 2010年2月7日 (日) 11:32 (UTC)
投票期間は同意します。--秋田城之介 2010年2月8日 (月) 01:13 (UTC)
秋田城之介さんは延長には同意しないようですので、これ以上続けても投票期間が削られるか後ろにずれるだけでしょう。延長規定は削除して投票を始めるべきではないでしょうか。ルールが固まるまでは事実上投票が始められません。--Arawodas 2010年2月8日 (月) 01:50 (UTC)
Arawodasさん、了解です。延期規定を削除して投票へ移ることに同意します。1月31日以来、基本的に投票する前提で調整を実施してきましたので、投票要領への同意あるいは最終修正案を提示して下さい。--Yasumi 2010年2月8日 (月) 10:34 (UTC)

(インデント戻す)現投票要領に同意。投票開始日及び期間の設定はYasumiさんに一任します。--Arawodas 2010年2月8日 (月) 10:49 (UTC)

秋田城之介さん、高尾区さんの意向も汲んだ投票要領にしてみました。最終合意または修正をお願いします。--Yasumi 2010年2月9日 (火) 21:14 (UTC)
お疲れ様です。私はこれで良いと思います。--高尾区 2010年2月10日 (水) 04:09 (UTC)
高尾区さん、コメントありがとうございます。
あとは秋田城之介さんのお返事をお待ちします。よろしくお願いします。--Yasumi 2010年2月10日 (水) 21:06 (UTC)
了解しました。--秋田城之介 2010年2月12日 (金) 14:38 (UTC)
秋田城之介さん、投票へのご同意、ありがとうございます。長らくの準備に成りましたが、投票に移りたいと思います。--Yasumi 2010年2月12日 (金) 20:15 (UTC)

四国征伐の(記事名)改名について

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投票の主題 四国征伐の(記事名)改名について
投票場所 ノート:四国征伐#四国征伐の(記事名)改名についての投票実施
投票に先立つ議論
投票者の資格
  • 下記2つの条件をどちらも満たしていること。
  1. ログインユーザーであること。
  2. 2010年1月31日 00:00:00 (UTC) の時点で全名前空間の編集回数50回以上であること。
投票期間 2010年2月13日00:00:00(UTC)から2010年2月28日00:00:00(UTC)までの15日間。
投票のルール
  • 多重アカウントによる投票及び投票期間外の投票は全て無効とする。
  • 得票数が同数の場合、記事名は現状維持とする。
  • 投票は下記選択肢へ一人一票までとし、多数意見を記事名に反映させる。
  1. 「四国征伐」(現状維持)
  2. 「四国攻め」

四国征伐の(記事名)改名についての投票実施

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(上節までの要領・要件により実施する)

  • 記事改善への投票
「四国征伐」を支持(改名に 反対
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  1. --秋田城之介 2010年2月13日 (土) 09:02 (UTC) --
  2. --Extrahitz 2010年2月14日 (日) 05:54 (UTC) --
  3. --原子ロボットアルマ 2010年2月14日 (日) 14:07 (UTC)
  4. --ARP-77 2010年2月15日 (月) 02:53 (UTC)
  5. --神坂12号 2010年2月15日 (月) 07:17 (UTC)
  6. --今泉総一郎 2010年2月17日 (水) 19:21 (UTC)
  7. --小田急多摩之介 2010年2月27日 (土) 06:58 (UTC)
「四国攻め」を支持(改名に 賛成
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  1. --Chokorin 2010年2月13日 (土) 11:08 (UTC)(撤回)--Chokorin 2010年2月22日 (月) 21:42 (UTC)
  2. --Yasumi 2010年2月13日 (土) 11:32 (UTC)
  3. --蒲生直義 2010年2月13日 (土) 17:21 (UTC)
  4. --影綱 2010年2月14日 (日) 01:41 (UTC)
  5. --Arawodas 2010年2月14日 (日) 02:07 (UTC)
  6. --故城一片之月 2010年2月14日 (日) 03:17 (UTC)(撤回)--2010年2月22日 (月) 16:56 (UTC)
  7. --高尾区 2010年2月24日 (水) 13:43 (UTC)
  8. --miya 2010年2月25日 (木) 12:39 (UTC)
  9. --Tiyoringo 2010年2月27日 (土) 02:58 (UTC)
  10. --sergei 2010年2月27日 (土) 08:56 (UTC)
  11. --マクガイア 2010年2月27日 (土) 10:28 (UTC)
(記名欄)
投票以外の投票理由・コメント等
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(コメント記入)
  • コメント「四国攻め」・「四国征伐」・「四国平定」、いずれの語も歴史学界において圧倒的に多用されているわけではなく、その意味ではコンセンサスがないのが現状なわけですから、どちらかが妥協しなければならない問題だと思います。それで、秀吉に関してだけ言えば、秀吉が四国を「攻め」たのは客観的にみて事実であり、そこで長宗我部を屈服させたことによって結果的に四国を「平定」したのも事実です。ここに異論は生じにくい。しかし、それを「征伐」と呼ぶことに対しては異論があるわけです。であるならば、「攻め」または「平定」のどちらかを選択すべきです。「征伐」という語を用いることによって、一方的に羽柴が正義で長宗我部は不正義というレッテルを貼ってしまうのは、公正さを損ないます。この時点では羽柴も長宗我部も大名権力としては対等であり、すでに指摘のあったとおり「私闘」にすぎません。もちろん、秀吉を主人公にした講談・小説・映画は古来たいへん多く、長宗我部を主人公にしたそれの比ではないと思います。もしかしたら、そこでは「四国征伐」が多用されているのかもしれませんが、ここでは歴史的事象を扱うのですから「四国征伐」を見出し語とするのは不適切です。--Chokorin 2010年2月13日 (土) 11:08 (UTC)
  • コメントこちらの改名議論は、投票が実施されてから初めて拝見させていただきました。以前自分は蜀征討戦でも中立的ではないという理由で改名提案を出しました。この記事におきましても、「日本語として一般的」といえる呼び名が固定されていない以上、中立性にかける「四国征伐」という記事名は避けるべきだと考えます。--蒲生直義 2010年2月13日 (土) 17:21 (UTC)
  • コメント 賛成 ログを全部読めとはさすがに言いません。この投票で初めて議論に加わる方は、論旨の要約、特に「Arawodasによる検証」に目を通してからにして頂けると幸いです。少なくとも、「由緒ある名称VS征伐追放原理主義」みたいな実態と著しくかけ離れた認識で投票に臨まれては大変迷惑ですので、お間違えのないようお願い致します。--Arawodas 2010年2月14日 (日) 02:07 (UTC)
  • コメント 賛成 :四国に対する軍事行動を複数含むページである故に、より広く包含可能な「四国攻め」を妥当としました。個々の節項目名において「四国征伐」を否定するものではなく、私の判断は決してWikipedia:中立的観点によるものではないことを付言しておきます。--故城一片之月 2010年2月14日 (日) 03:17 (UTC) この投票は撤回し、棄権致します、御迷惑かけました。理由は下記のノート:四国征伐#投票の中断提案についてに書きました。
  • コメント 以前にも言いましたが、参考文献において最も優勢な表記であるか疑問です。「四国攻め」では歴史上、数多い四国での戦役を総称するだけだと感じております。--ARP-77 2010年2月15日 (月) 02:53 (UTC)
  • コメント 「豊臣秀吉の四国攻め」なら話は通るかもしれませんが、単に「四国攻め」では、百科事典の項目としてどうかと思います。--神坂12号 2010年2月15日 (月) 07:17 (UTC)
  • コメントいろいろ勘案しましたが、再議論の際には別の形での妥協も考えられるべきだと考えています。多数決は本質的な解決にならないと思います。--高尾区 2010年2月24日 (水) 13:43 (UTC)
  • コメント【見出し追加】投票に至るまでの論旨の要約が見つけにくかったので見出し#参考資料#「四国攻め」支持(改名賛成)側の論旨#「四国征伐」支持(改名反対)側の論旨)を追加しました。【投票について】投票が始まってから物言いがついたわけですが、少なくとも投票実施に同意した人たちは投票結果を尊重なさるものと期待して、いったんは投票結果を反映した記事名にするのがよいでしょう。投票の方針が生きていたころでも投票の結果は絶対ではなく、投票終了後も議論を続けたい人がいるならノートを過去ログ化する等仕切りなおして議論を再開することができたはずです。【記事名について】どちらも間違いとは言えないのなら、最近の使用例が比較的多く、かつ、より中立的な記事名のほうが望ましいと思います。ノート:四国征伐#参考資料にあるArawodas氏(1)Arawodas氏(2)、#Yasumi氏による調査一覧|Yasumi氏?、秋田城之介氏(1)秋田城之介氏(2)それぞれの参考資料を拝見すると、古い資料ほど「四国征伐」が多い、逆に平成以降に新規または改訂版で出版された資料で「四国征伐」は少なくなっているという印象です。また百科事典に関して言えば、平成になってから改訂があったのはブリタニカくらいではないかと思います。【投票後について】投票が終わったら、投票結果を反映し、ノートを過去ログ化してから、改めて記事内容について議論するのがよいでしょう。さらなる改名提案をご希望の方も、せめて3カ月くらいは記事内容の議論の行方を見てからにしていただければ幸いです。--miya 2010年2月25日 (木) 12:37 (UTC)
  • コメントMiyaさん、見出しの整理ありがとうございます。長くそして騒動のあった投票でしたが投票期限の2010年2月28日00:00:00(UTC)が近づいて来ました。念のため、投票期限は日本時間では2月28日(日)の午前9時までとなりますのでご注意ご協力をお願い致します。--Yasumi 2010年2月27日 (土) 01:00 (UTC)
  • コメントそもそも、双方が提示している「文献調査」を根拠にするのがそもそもの間違いのような気がします(笑)。統計学的にも有効な数字じゃないでしょうし。ウィキペディアンの行った「調査」は信頼性を期待できるものではありません。--小田急多摩之介 2010年2月27日 (土) 06:58 (UTC)


四国征伐の(記事名)改名についての投票結果

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投票期限となり、下記の投票結果にて「四国攻め」を支持が多数となりました。
(なお念のため、現在Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他にてCU依頼に繋がる可能性のある提案があることをお知らせします。)
  • 「四国征伐」を支持(改名に反対) 7票
  • 「四国攻め」を支持(改名に賛成) 9票
  • (参考:「四国攻め」を支持に投票後に棄権2票)
--Yasumi 2010年2月28日 (日) 07:06 (UTC)

投票の中断提案について

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(新たに節を設けました)--Chokorin 2010年2月20日 (土) 02:36 (UTC)

  • コメントARP-77さんと神坂12号さんにお願いがあります。お二人の投票は、下の薔薇騎士団さんによる問題提起の後になされたものです。ということは、「投票は無効ではないか」という薔薇騎士団さんの問題提起を却下するものとして、つまり、「投票は有効である」という意見であると見なしてよいのでしょうか。投票が有効だとお考えなら、なぜ有効と思うのかも含めて下の「Wikipedia:投票の方針廃止後に実施中の本投票の無効について」にコメントをお寄せください。議論拡散を防ぐために御協力をお願いします。もう1つ、これはお二人に限りませんが、「四国征伐」(現状維持)に投票された方は、「改名せず」の場合、関ヶ原部分(毛利輝元の軍事行動部分)の新規立項が必要となることもお忘れなきように。その場合の項目名候補をこの欄に提示してください。お願いします。--Chokorin 2010年2月16日 (火) 20:57 (UTC)(加筆修正)--Chokorin 2010年2月16日 (火) 22:12 (UTC)
    • Chokorin さん、改名の議論と立稿の議論は別です。また立稿についての議論、「関ヶ原部分の転記または分割提案」は、まだ合意に達していません。混同する事はミスリードとなりますので、おやめください。--影綱 2010年2月16日 (火) 23:08 (UTC)
  • コメント故城一片之月 さんの御意見、ARP-77さんと神坂12号さんの御意見、それからわたしの意見は、結論こそ違え、同じ前提から発しています。つまり、「関ヶ原部分の転記または分割提案」と改名問題は連動しているのです。はたして、どこがミスリードなのでしょうか。それからまた、「広く包含可能だから四国攻めが適している」という意見に対するカウンターとして「広く包含可能だからこそ四国攻めは不適」という理屈は理屈としては成り立ちますが、「だから、四国征伐が適している」という結論がそこから必然的に導かれるものではありません。わたしや蒲生直義さんの中立性にかかわる指摘もあるわけです。ここは議論の場ではないとはいえ、現状では論点が3つにおよんでいます。本来、投票は議論の収束のためにおこなうべきもののはずですが、現状ではむしろ拡散のために働いており、残念です。改名は改名だけで終わる話ではありません。そのことには共通理解が必要だと考えます。--Chokorin 2010年2月17日 (水) 06:27 (UTC)
    • あなたの挙げられた4者の認識は「連動している」という事なのでしょう。その部分に異論はありません。しかし、投票は4者のみで行っているものではありません。他の方々はどうでしょうか?当然のことながら「改名、分割共に反対(完全現状維持)」あるいは「共に賛成」という意見のユーザーも既にいるかもしれませんし、これから出てくる事もありえます。彼らはどちらに票を入れるべきでしょうか?「改名せず」の場合、関ヶ原部分(毛利輝元の軍事行動部分)の新規立項が必要となることもお忘れなきように。その場合の項目名候補をこの欄に提示してください。”と「改名反対=分割賛成」としてしまうのはミスリードと感じます。またご自身でご指摘の通り、「現状で3つある(らしい)論点」を一括に処理してしまうことを、なんと表現すべきでしょう?なお、「それからまた」以降のご意見は、僕に問われても答えようがありません。改名だけで終わる話で無いのは承知していますが、それゆえに二極に完全に分けられる問題でないこともご理解ください。--影綱 2010年2月17日 (水) 07:28 (UTC)(表現追加、及び変更--影綱 2010年2月17日 (水) 08:03 (UTC)
      • 「それからまた」以降については、あなたに対して述べたものではありません。この投票について無効を主張している人がいるにもかかわらず投票を継続すること、「関ヶ原部分の転記または分割提案」が合意に達していないのに異なった前提をかかえたまま投票を継続することは、つまりは、現実に論点を3つかかえてしまっているということなわけですから、投票はいったん中断したらどうかと思います。わたしは、この記事のなかみはあまり変更しないでなるべく現状の記述は生かすべきだと思っています。これを分けるとなると、少なくとも記事名は2つ必要なわけで、改名議論はすっ飛ぶわけです。であるなら、まずは、分けるか分けないかを決めるべきでしょう。厳密に言えば、あなたのおっしゃる通り、「改名反対=分割賛成」としてしまうのはミスリードだったかもしれません。可能性としては、「改名、分割共に反対」の意見もありえます。しかし、今まで出てきた意見をみれば、少なくとも改名と分割は連動しているという捉え方が大勢を占めるのは明白なわけなので、まずは分割の是非のコンセンサスを図るべきと考えます。一括処理ではなく、1つ1つ解決していくことにまったく異論はありません。--Chokorin 2010年2月17日 (水) 11:41 (UTC)
        • ご返答に感謝します。まず「投票の中断」については、僕も同意いたします。少なくとも、論点を整理し、何について合意を諮るのかが明確になるまでは、中断(乃至終了)させた方がいいでしょう。次に、改名論と分割論の連動について、これも了解しました。以後、その前提でコメントしたいと考えます。また、分割の議論を優先しようというご意見には、僕も同感です。下にコメントしたとおり、僕の立場は「人物名や年代を付記しただけの同名記事立稿」には反対ですが、混同されない別の記事名が合意されれば、これに異存を持つつもりはありません。--影綱 2010年2月17日 (水) 22:50 (UTC)
      • 御同意いただきありがとうございます。みなさんはいかがでしょうか。「『豊臣秀吉の四国攻め』ならば許容できるが、単に『四国攻め』というのは許容できない」という神坂12号さんのコメント、「単に『四国攻め』では歴史上、数多い四国での戦役を総称するにすぎない」というARP-77さんのコメントは、いずれも、この記事を秀吉だけに限定したものにすべきだという主張を含んでおり、お二人とも「まずは分割すべき」という立場に立っておられます。これに対し、わたしは分割には反対ですので、まずは、分割の是非を論じませんか。「急がばまわれ」と申します。名前をどうすべきかは後回しでよいと思いますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2010年2月18日 (木) 13:19 (UTC)
        • まず、投票中止に同意表明。議論の仕分けをした方が早いようですね。そもそも、この本文ページは何のためのページであるか定義し直すことからやった方が、今後の進め方が分かり易いでしょうね。四国への軍事行動の各内容一般を収容するページにするのか、「秀吉の四国征伐」のみでクローズして、他は新規ページに分割立項もしくは既存関連ページに転記するのかをまず決定するのが先ということでしょうから、分割是非の合議を優先で良いと思います。--故城一片之月 2010年2月18日 (木) 14:35 (UTC)
      • 御意見ありがとうございます。神坂12号さん、ARP-77さんはいかがでしょうか。--Chokorin 2010年2月18日 (木) 21:07 (UTC)
      • コメントがありませんが、神坂12号さん、ARP-77さんは、この記事を分割した方がよいという主張とみなしてよいのでしょうか? 改めて確認いたします。それから、この際うかがっておきますが、現状維持に投票された方でコメントを付されていない方の御意見はいかがでしょうか。「分割もせず、改名もせず(完全に現状維持)」のお立場でしょうか。あるいは、分割した方がよいという御意見でしょうか。--Chokorin 2010年2月20日 (土) 01:50 (UTC)
        • 私は分割すべきであると思います。関連する戦役といっても直接の因果ではないように思います。また、「『豊臣秀吉の四国攻め』ならば許容できる」というのはやや語弊があります。主語を付けなければ項目名として、雑多な印象になるというだけなので、『豊臣秀吉の四国攻め』を特に押しているというわけではありません。投票に関しては、yasumiさんの言われるように、ある程度過去の議論も尊重するべきでしょう。--神坂12号 2010年2月20日 (土) 09:11 (UTC)
          • コメントありがとうございます。豊臣政権の四国国分と輝元の四国攻めとの間に「直接の因果」関係があるかどうかは、おっしゃるとおり、議論の分かれるところだと思います。とくに、Yasumiさんの2009年10月18日 (日) 17:18の編集[11]では、輝元の四国攻めを秀吉の天下統一事業の「後史」というふうに位置づけていますが、果たしてそれが適切な表現であるかは私も疑問です。とはいえ、「輝元の四国攻め」を迷子にしない工夫も現実には必要ですし、個人的には、安土桃山時代の四国の情勢を中央政界の動向との関連で説明する記事があってもよいと思います。記事名を変えないまま輝元関連を切り離すのか、改名して輝元の四国攻めを内容に含めるのか、いずれにしても、現状記事の改変であることには違いありませんので、別途の議論が必要です。それについては、わたしも含め記事の分割には反対の人も多く、合意のとれていない状態ですので、#関ヶ原部分の転記または分割提案の節で議論を深めるべきはないでしょうか。--Chokorin 2010年2月20日 (土) 23:58 (UTC) (加筆修正)--Chokorin 2010年2月21日 (日) 00:11 (UTC)
  • 現時点に於いて投票中止に全然不同意です。私は2009年10月以来の議論参加しております。その間、汗をかき、お金と時間を投資して議論や出典調査などに奔走してきたコミュニティの議論と合意を大事にしたいと考えて議論してきました。新規に参加される方々もそれなりに合意を大事にして頂きたいし、今後行われるであろう各参加者の合意も踏みにじられないことを望みます。また、理があって変えるべき事については後継の議論による新合意によりオーバーライトされるべきであることも付言します。顧みて、現状に置いて疑義が出ていますが、以下の二点に於いても過去の議論と合意から投票を中止すべきでないと考えます。
(1.投票の無効性について)Arawodasさんによる井戸端への問い合わせのWikipedia:井戸端/subj/投票の拘束力を見ても、投票の無効性については調査投票自体には拘束力なるものはなく、調査投票を通じた議論の合意に拘束力あると言うものです。また、投票を先行して合意を押しつけることが方針違反であって、合意の元に調査投票を実施し、調査投票の下に合意を形成することは今まで通り何ら問題のあることではありません。
(2.議題について)本記事の冒頭で定義され、かつ議論当初から確認済みですが、本記事の主題は「1585年の羽柴・長宗我部戦争」であると明示されています。この戦争記事の記事名が百科辞典的に呼ばれるのか?が議題です。これはコメント依頼でも確認されていますので良く再読下さい。なお、「輝元の四国攻め部分」の分離については別節を以て議論される旨も合意済みであり実施されています。当然本投票も「1585年の羽柴・長宗我部戦争」を何と呼ばれている記事名とすのが相応しいか?が問われています。投票対象を混同しなようにして下さい。
  • 再度確認しますが、現状は「調査投票を実施する事に合意済み」「当面の記事名を調査投票の多数票とすることに合意済み」「投票後、新論点による議論を継続することに合意済み」付随して「秋田城之介さんは2票差以上で四国攻めが上回った場合は改名に合意する(予定)」「Yasumiは四国攻めが多数票と成らなかった場合に記事名維持に合意(予定)」と言う条件があり、これらは合意済みのことでもあり粛々と進行すべき事と思います。また、分離統合問題を含めた新改名提案を行うのであれば記事範囲の定義や出典の照合など必要ですし、投票は残り約一週間なのですから今回の合意処理が終わってからの議論にして頂きたいと思います。(なお、投票コメント欄より投票無効関係についてこちらへ移設しました)--Yasumi 2010年2月20日 (土) 02:15 (UTC)
  • 「当然本投票も『1585年の羽柴・長宗我部戦争』を何と呼ばれている記事名とすのが相応しいか?が問われています。投票対象を混同しなようにして下さい」とありますが、確かにその部分は混同していたようです。投票対象が投票テンプレートに盛りこまれていないのなら、当然、現状のこの記事の記事名が投票対象だと考えるわけなので、事情のわからない人も含め、新規に幅広く投票を呼びかける以上、そこは明示すべきであったでしょう。1585年の羽柴・長宗我部戦争が対象なら、毛利関係は削除ないし新規立項が前提ってことですか? 羽柴・長宗我部戦争が対象なら、記事名「羽柴・長宗我部戦争」でよいのでは? --Chokorin 2010年2月20日 (土) 02:36 (UTC)
      • ですから何を議論しているのかは記事名にも議論にも、議論ダイジェストのコメント依頼節にも明記されていることです。これらは投票テンプレにも引用それています。分割云々を主張される方は当然本記事も読んでいるでしょうから、何の記事であるかは明確ですよね?議論も見ないで投票する人が居るかも知れませんが、それも含めての調査投票です。なお、輝元の四国攻めについては混同を避けるため別節で議論中ですよね?その節がたったのも議論拡散を防ぐ本義論の合意に結果です。分離議論がされたいのであれば、既に議論節は準備されているのでそちらでお願いします。ただし、大きく動かすのは投票終了後が良いと思うし、私も投票待ちをしています。なお、私の意見としては関ヶ原の戦いの記事が容量的に本戦で一杯であり、周辺戦は分離傾向である前提からこちらが四国攻めでも四国征伐でも同居させた方が四国攻めに始まる中世から近世への移行期の四国地域史を包括的に表現できることから、記事同居で問題ないと考えます。「記事名「羽柴・長宗我部戦争」でよいのでは?」>記事名は我々がどう呼びたいかではなく、出典でどう呼ばれているかです。史学の世界では「羽柴・長宗我部戦争」を何と呼んでいるかご確認されましたか?--Yasumi 2010年2月20日 (土) 03:03 (UTC)
  • コメント四国征伐の(記事名)改名について」というテンプレートなわけですよね。テンプレート中に「1585年の羽柴・長宗我部戦争」の文言は一切ありません。どうしても投票をしたいというのなら、その文言を入れて投票をやり直されたらどうでしょう。いずれにしても、一旦、今の投票はチャラにした方がよくありませんか?--Chokorin 2010年2月20日 (土) 03:20 (UTC)

(インデント戻す)投票中止を支持します。どちらが多数得票しても、投票によって議論が収束する見込みはないと判断せざるを得ません。また個人的感想ですが、現在の投票内容はコメント依頼前の議論を継承したものとは言い難いと思います。コメント依頼文すら目を通さずに投票されてもありがたいとは思いません。懸案を一つずつ片づけて参りましょう。皮肉にも投票を通じて人数は増えそうですから、以前よりは堂々巡りになる危険は下がるかと思います。--Arawodas 2010年2月20日 (土) 04:24 (UTC)一部撤回--Arawodas 2010年2月20日 (土) 04:31 (UTC)

  • 私もそれがいいと思います。ARP-77さんの2010年2月15日 (月) 02:53 (UTC)のコメント「『四国攻め』では歴史上、数多い四国での戦役を総称するだけだと感じております」は、裏返せば、数多い四国での戦役を総称するには「四国攻め」が最も適切だという意味にほかならないわけですし、神坂12号さんの2010年2月15日 (月) 07:17 (UTC)のコメント「『豊臣秀吉の四国攻め』なら話は通るかもしれません」というコメントは、「四国攻め」の用語は許容できるということの表明です。したがって、輝元の四国攻めを含めるかどうかについて、まずは合意をはかるべきです。含めるとすれば、今まで出てきた意見をまとめると「四国攻め」が最も適切だということになります。Yasumiさんは、「輝元の四国攻めについては混同を避けるため別節で議論中」だと主張されていますが、別節を設けたところでその問題が解決されたわけでも、混同を避けることに成功しているわけでもありません。Yasumiさんはまた、わたしに対し、「史学の世界では『羽柴・長宗我部戦争』を何と呼んでいるかご確認されましたか?」とおっしゃっていますが、一応は4社版の通史における記述を確認して上に掲げました。ArawodasさんとYasumiさんからもコメントをいただいているはずです。もし、この記事を分割するなり、あるいは、輝元の四国攻めの部分なりを削除するなりして、「羽柴・長宗我部戦争」についてだけ扱うことで合意されれば、文献調査はそのとき初めて意味をもつようになるでしょう。しかし、分割・新規立項・削除いずれも不可ということになって、本記事を輝元の四国攻めをも含めた内容にするというのであれば、輝元の四国攻めをも含めた一般的な呼称というものはそもそも存在しないわけですから、記事名は「四国攻め」とし、Wikipediaにおける「○○(国名)の歴史」とか「○○県の歴史」と同じような扱い、つまり、
四国攻め(しこくぜめ)では、安土桃山時代の、織田信長による長宗我部氏征討計画、羽柴秀吉による四国平定事業(いわゆる「四国征伐」)、その結果としての豊臣政権下での四国国分、および毛利輝元による四国攻略戦について説明する。
というような文章ではじまる記事にするしかないでしょう。それ以外の選択肢はほとんどないと言ってよいと思います。いずれにせよ、まずは、合意を得られやすいところから1つ1つ解決していくのがよいのではないでしょうか。--Chokorin 2010年2月20日 (土) 09:02 (UTC)
「どうしても投票をしたいというのなら、その文言を入れて投票をやり直されたらどうでしょう。いずれにしても、一旦、今の投票はチャラにした方がよくありませんか?--Chokorin 2010年2月20日 (土) 03:20 (UTC) 」 >投票は合意に基づいて実施されていますので、投票中止の合意が新たに形成されれば中止することが出来ます。従って、合意を望むのであれば、発言されていない方もおられますが、対象の方々にそのような働きかけをお願いします。そしてこれからの合意が尊重されるように、過去の合意もそれなりに尊重して頂きたいです。さて、私自身について、次の理由により現時点での投票中止にメリットが見出せません。
1.現在同票ですが、私にとってあるいは誰かにとって得票が劣勢だから投票中止が益するということでしょうか?投票中の形勢を元に投票中止を主張されるのであれば同意することが出来ません。
2.投票中止の理由付けにも疑問があります。Chokorinさんは薔薇騎士団さんの「方針廃止を根拠に、投票という手段が方針違反」という意見を受けて「投票による解決は疑義があるので投票中止」という論理を使われていますが、Wikipedia:井戸端#投票の拘束力による意見開陳でも投票自体が方針違反という意見は見られません。同じく、投票自体に拘束力があるかにより方針違反の疑義を指摘されていますが、管理者以下の意見は「投票自体には拘束力なし。合意による投票の実施や結果を受けた合意に拘束力がある」との意見が大勢を占めているように見えますが、私の解釈に誤りがありましょうか?この理由付けにより投票中止が合意形成されれば少なくとも本ページのローカルルールとして、今後は投票による解決ができなくなると思いますが、皆様はそれを容認されるのでしょうか?私は今回の投票は合意に基づく投票実施、合意に基づく投票後の処理がされるであろう事から至極ルール通りの運用がされていると思います。この点に於いて、私には投票中止はデメリットになると思います。
3.Chokorinさんの投票テンプレの不備の指摘について。投票の合意形成中にテンプレの投票要領についてそのような指摘があれば考えた可能性はあるものの、テンプレには対象を四国征伐(本記事冒頭に記事の定義文が明示)、先立つ議論をノート:四国征伐・議論の要約をノート:四国征伐#改名に関するコメント依頼と明示してあり、投票対象は明確であり、ベストではないかも知れませんがベターかつ合意形成を経由した瑕疵のない投票であると考えます。投票は投票者の読解能力と判断責任によって為されますが、無責任な投票(と一方的に解釈することも含めて)が為されることに対しては防ぐことが出来ません、むしろ議論膠着の後にそれを踏まえた集団知を期待してのこその投票実施です。今後の投票にいくら注意書きを追加しても「○○が不足していたので投票は中止」と言う意見はいくらでもつけられるためきりがなくなります。皆様は今後、ここで投票を行うたびに不備を指摘されて投票がご破算になる覚悟を以て投票中止に同意されるのでしょうか?
4.毛利輝元の四国攻めの分離問題について。ノート:四国征伐#関ヶ原部分の転記または分割提案が既に秋田城之介さんの手により議論開始済みですので、基本的にそちらで合意形成をお願いします。この件を含めた範囲変更を理由に投票中止し再投票すべきという意見については、それはそれで分離独立した議論で実施した方がよいのではないかと思います。元々、今回の投票と改名処理(案には合意するとは限らないが、議論膠着を理由に一度維持または改名を実施する)の後に議論を継続する件については投票条件として盛り込み済みであり、本投票と改名実施の実施後に新観点からの議論と合意により別投票が行われたとしても、それはそれで本投票を否定するべきものではなく、合意形成が為されていれば何ら問題のないことあり、本投票を中止する理由とは思えません。
以上、4点を挙げましたが投票中止の理由とされている様々な要因には、今後の我々を拘束する条件がありますので容易に賛同することが出来ません。方針違反とならないように前提を充分調整された上での投票中止の合意形成として頂くことをお願いします。また、Chokorinさんの考えることは投票実施後で何か制約されるのでしょうか?再び申しますが、私は是々非々で元々議論継続を盛り込み済みのこの投票はこの投票で通してしまって、新たな議論を開始する方がルール解釈や禍根を残さずにスッキリすると思います。--Yasumi 2010年2月21日 (日) 21:17 (UTC)
  • 投票結果の拘束力について、私は「第三者に拘束力が及ぶのか」という点を指摘しましたが、「投票した当事者に拘束力が及ばない」とは主張していません。投票中断を投票した当事者が言うのはおかしいと思います。--薔薇騎士団 2010年2月21日 (日) 23:17 (UTC)

Yasumiさんは「ベストではないかも知れませんがベターかつ合意形成を経由した瑕疵のない投票である」というふうにおっしゃいますが、瑕疵の存在は明白なんじゃないでしょうか。何とくらべて「ベター」だとおっしゃりたいのかはわかりませんが、少なくとも、瑕疵が存在することは、一人一人のコメントを丁寧に読めばわかることではないかと思います。まず、ARP-77さんと神坂12号さんは、この記事を分割することを前提にして意見を表明されており、分割しないということはまったく想定されていません。それに対し、わたしと故城一片之月さんは、分割が前提だというふうには夢にも思っておらず、現状の記事の名前をどうしたらよいのかという姿勢で投票にのぞんでいます。投票の主題は「四国征伐の(記事名)改名について」だとハッキリうたっているわけですから、そのとらえ方が間違っているわけではないでしょう。むしろ、分割は分割、改名は改名で、相互はまったく関係がないというような捉え方はYasumiさんお一人だけのものであり、少なくとも分割のからみに関してはまったく「合意形成の経由」はみられませんし、その結果「投票対象も曖昧」になってしまっているのは明らかだと思います。実のところ、そう見なす人がわたしばかりではないから、わたしの中断提案に投票者の約半数もの方々が賛意を表明されているのだと思います。

それからまあ、わたしは投票の「無効」を主張した覚えはまったくないのであって、投票の有効性は認めるからこそ「中断」という言葉を使用しているのであり、「瑕疵」があるのなら、そこの部分は訂正したうえで「再投票」したらどうか?と申し上げています。薔薇騎士団さんの論理を受け入れたつもりはないので、そこのところは、お間違えのないように。「投票自体が方針違反」と申し上げたつもりもなく、薔薇騎士団さんのそこの部分の主張は、どちらかというと非常識なものだと思っています。井戸端の議論は読んではいませんが、「合意による投票の実施や結果を受けた合意に拘束力がある」という意見は、そりゃそうだろうと言うしかありません。ただし、「投票前の議論が不充分」という薔薇騎士団さんの御指摘は認めざるを得ないでしょう。この投票を有効とすべきか無効とすべきかは、まずは投票を中断したうえでYasumiさんと薔薇騎士団さんのお二人で話し合われるとよいでしょう。それから、Yasumiさんの「今後の投票にいくら注意書きを追加しても『○○が不足していたので投票は中止』と言う意見はいくらでもつけられるためきりがなくなります」という御意見は、ナンセンスだと思います。まずは、考えられるだけの注意書きを追加したうえでおっしゃるべきセリフでしょう。それをする気がないというのは、いかがなものかと思います。

それはさておき、分割するか否かということについては、改名論議に先だって詰めておきたいことだと思います。というのも、「輝元部分を分割するのであれば『四国攻め』より『四国平定』の方がわかりやすくて適切だと考えるが、分割しないのであれば『四国攻め』とするよりほかない」というような複合的な意見もおおいにありうるだろうと思うからです。私自身も「秀吉に限るならば『四国平定』でもよい」と述べたことがあり、高尾区さんも「もしそこが妥協点として機能するのであれば四国平定を推すつもりであった」とおっしゃっています。

そしてまた、それとはまた別に、分割なり、転記なりが果たして可能かということも検討すべきです。ひとつの方法としては、「関ヶ原の戦い」とは別に、たとえば「関ヶ原戦役」とか「関ヶ原戦争」という名前の項目を立て、そこで出羽の長谷堂の戦いや丹後田辺城の戦いなど、要するに関ヶ原本戦と連動した全国各地の戦闘について説明する記事をつくって、輝元の軍事行動をそのなかで記述してゆくようなやり方もあると思います。しかし、これは「言うはやすく、行うは難し」であり、また、項目名ひとつとっても難しい議論となりそうです。

いっぽう、すでに述べたように、この記事を安土桃山時代の四国における大名の消長を説明する記事、あるいは、安土桃山時代の四国の情勢を中央政界の動向との関連で説明する記事にしていくという手もあると思います。その場合、加筆の方向としては、西国政権にとって四国の地はどのような意味があるのかということの言及などがあってしかるべきと思います。いずれにせよ、この記事をどういう記事にするのかが定まってから、名称について論じるべきでしょう。圧倒的に使用されている確定的な名称がない歴史事象の名称を考えるのに、「まず名称ありき」の姿勢で臨んでいては、状況が一向に前進しないのも無理はないと考えます。--Chokorin 2010年2月22日 (月) 14:56 (UTC)

単純な「常識」の問題ですよ。投票期間中に投票した当事者が「中断」を要求することができる投票制度が、現実にこの世に存在するのでしょうか? 私も多少は法学・政治学を学んだことがあるので、Chokorin氏の主張は聞いたことがないのですが、よろしければ事例を教えてもらえるでしょうか。--薔薇騎士団 2010年2月22日 (月) 15:34 (UTC)

さあ、それは知りませんね。何ごとによらず、不測の事態が生じたら「中断」はありえることでしょうし、それを要求することも権利として認められるでしょう。請願権に属するんでしょうか。--Chokorin 2010年2月22日 (月) 16:11 (UTC)

そうですか。では、残念ながら投票の中断は無理ですね。そもそも、投票ルールに中断のルールが書かれていないので、どのみち不可能ですが。--薔薇騎士団 2010年2月22日 (月) 16:33 (UTC)

無理かどうかの判断は別にあなたの専権事項ではないはずですね。ローカルルールではじめたものはローカルルールで閉じられるはずでしょう。わたしの請願は、あなたのそれとは異なり、投票したコミュニティの半数の方々に現に受け入れられているのです。根拠に説得力さえあれば、あなたの御意見も受け入れられるのではないでしょうか。多くの方々に受け入れられるよう、頑張ってください。にしても、無効は通るが中断は通らないとか、自ら方針違反だと述べている当のものを自らの拠り所にするとか、あなたの学んだ法学とやらは随分キテレツなものですね。--Chokorin 2010年2月22日 (月) 21:39 (UTC)

私も投票しておきながら、中断を容認した一人ですので責任を感じます。投票を中断(というよりは中止の方がニュアンス的には正しいと思うが)と言うからには今回分における自分の投票については撤回・棄権に変更します。投票期間中ならば許されるのではないかと思います。私はChokorinさんの言うように、該当記事(ページ)の編集方向性を定めること=「この記事をどういう記事にするのかが定まってから、」の後に「名称について論じるべきでしょう」に同感です。投票を中止して仕切直しをされるならば、今回の賛・否の途中経過も無効とするべきでありますが、飽くまでも続行という意見もあるようなので、そうなったならばそれも仕方ありません。しかし、現在わたしが投じている、改名賛成票は撤回させていただきます。私自身の賛成票の理由は先に述べたとおり、広義に四国への軍事行動を含み得る記事名として「四国攻め」が適当と考えたからです。だから、狭義に羽柴秀吉の長宗我部氏に対しての四国への軍事行動を「四国征伐」とすることにたいしての是非で投票してはいないことも言明いたします。--故城一片之月 2010年2月22日 (月) 16:41 (UTC)

そうですね。わたしも、痛くもない腹をさぐられるのはイヤなので、撤回・棄権にいたしますね。ただし、わたしは「四国征伐」には反対ですけれど。そして、みなさんにはあらためて投票の中止をお願いしたいですね。--Chokorin 2010年2月22日 (月) 21:39 (UTC)

まず前提として。この「投票」は、議論当事者間で合意された「有効な」投票なので僕は撤回しません。その上で、「論点が明確になるまでは中断すべし」との提案を改めて表明します。他の方も仰っていますが、当記事は薔薇騎士団さんの一存で議決できるものではありません(従って、的外れな無効論には今までコメントせずにいました)。記事の取り扱いについて、過去にコメントした分もありますが、論点の優先順位をはっきりさせることが先決です。--影綱 2010年2月22日 (月) 22:53 (UTC)

(追記)Chokorinさんへのお返事として。”むしろ、分割は分割、改名は改名で、相互はまったく関係がないというような捉え方はYasumiさんお一人だけのものであ”る旨仰られていますが、「Chokorinさんを含む方々が”両議論は連動している”と考えている」ことを了解したのみであり、僕は今も捉え方として別義としています。もっとも「全く関係が無い」とまでは言いませんが。あくまで、「改名議論」と「分割議論」のどちらを優先して議論するのか、と言う立場です。ご理解ください。--影綱 2010年2月22日 (月) 23:30 (UTC)

投票の有効性については、WP:GVOTEは確かに歴史的文書になったが、ローカルルールによって行われる「調査投票」は可能であり、また例え調査投票であってもその投票に参加した人に対しては少なくとも「拘束力」をもつ、というのChokorin氏らの見解だったのではないでしょうか? つまり、本投票は無効ではないと言いながら、投票参加者が「中断」を提案するのは、例えば、参議院選挙の合法性を認めておきながら、投票した後で投票の中断を要求するようなもので、本当にそんなことが可能なら是非判例を示していただきたい、というだけの話です。これに対して、一票の格差の是正から参議院選挙の合法性そのものを問題視する、というような場合は、各種の違憲訴訟判例に見られるように、もっともな要求なわけです。私の提案は後者であり、Chokorin氏の提案は前者ですから、まったく別次元の話です。--薔薇騎士団 2010年2月23日 (火) 02:46 (UTC)

その引用はどうなのかな、と思いますが、一応乗るとしましょう。「例えば、参議院選挙」から「もっともな要求なわけです。」まで、そのご意見に異議はありませんが、「参議院選挙の趨勢で衆議院議員の当落も決めよう」という前例も、また無いわけです。「参議院議員は参議院選で、衆議院議員は衆議院選で決める」と言うのは、むしろ当然の事と思いますが。改名論議の俎上に分割論議を載せようと言うので、僕は「分割論を絡めるなら中断し、仕切りなおすべき」と言っているのです。「改名論議の延長線である」投票自体に問題は無いのですから、そちらに投票した上で「分割論込み」の議論に中断を述べても、さほど不自然とも思いません。--影綱 2010年2月23日 (火) 03:12 (UTC)引用、表現に不足があったので追記--影綱 2010年2月23日 (火) 04:40 (UTC)
要点は、Yasumi 2010年2月21日 (日) 21:17 (UTC) にで述べていますが・・・
投票は投票者の責任に於いて読解力と価値比重や判断力を動員して実施されます。その中には誤解や誤読・誤知識・誤前提などの錯誤もあるでしょう。それらも含めての調査投票なのですから、人によって前提が違うことは当然でしょう。それを後付で「投票後に誰々さんとは投票前提が異なるから投票は無効」と中止していては何度開始しても投票を終えることは出来ないでしょう。このような事例は今後の我々を拘束しかねません。また、ノーコメントで投票している人も居ますし、コメントがあってもそれを読解する人の解釈によって前提の違いなどは無限にありえるわけです。むしろ前提を同じくしているなどという保障はどこにもありません。たとえ今回投票の対象が分割前提であったり非分割前提であったりと、投票者が自己責任で自己拘束をかけたとして、何が問題なのでしょうか?(これは主催側として、ガッカリするのとはまた別な問題ですが、だからといって完全に取り締まれるものではありません)
Chokorinさんは2010年2月17日 (水) 11:41 (UTC) には「この投票について無効を主張している人がいるにもかかわらず投票を継続すること(中略)投票はいったん中断したらどうか」と提案したり、2010年2月22日 (月) 14:56 (UTC)に「薔薇騎士団さんの論理(Yasumi注:当初提議の投票無効論)を受け入れたつもりはない」と発言しており、投票中止の理由付けに関してぶれているようです。投票中止の合意を取り付けるつもりであれば、しっかりと前提を整えて欲しいものです。前述の通り、当初の投票無効論は方針違反という解釈に基づいたものであり、これに合意することは今後の投票を困難にすることとなるでしょう。合意案なりに明示して頂けないと、投票中止には賛同できかねます。
「分割は分割、改名は改名で、相互はまったく関係がないというような捉え方はYasumiさんお一人だけのものであり」Chokorin 2010年2月22日 (月) 14:56 (UTC) >コメント依頼節をお読みになるだけでも充分に間違った認識かと思われますので、一度落ち着いて本ノートに於ける議論と合意の経過を充分に再読された上で御再考ください。ウィキペディアの記事名は「独自研究で各々がどう呼びたいか?」ではなく、「出典によりそれがどう呼ばれているのか?」が重視されます。議論の蓄積を無視し、何のために我々が出典調査をしていたのかご理解いただけないようで残念です。更に言うのであれば、Chokorinさんを含めた人々がコメント依頼に参加されていますが、特に関ヶ原部分を議論から切り離す件について反対意見はなく、賛成意見ばかりです。コメント依頼の内容第一点が何であったか、もう一度ご確認頂きたい。「依頼内容 1.(前提議論)関ヶ原部分の存在は現時点において改名議論の障害となっているか。 」となっており、個別に議論するという結論がもたらされており、投票に続いています。しかもChokorinさんは秋田城之介さんからの関ヶ原部分についての混同指摘も特に受けている上にです。初めから議論と投票の前提は整えられておるのです。--Yasumi 2010年2月23日 (火) 10:37 (UTC)
記事の分割には別に私は反対はしていません。実際のところ「四国攻め」のような改名は漠然としすぎていて、私も疑問に思います。ただその問題と、投票の中断は別問題です。投票が終了してから分割を話し合ってもいいわけですし、分割問題を理由に投票を中断するのは、論理的におかしいですね。誤読や認識のズレを理由に投票を中断してよいはずがない、というYasumi氏の主張の部分には私も同意します。選挙で「あ、しまった。書いた人の名前間違えた!」とか言って中断できますか? 後の祭りです。--薔薇騎士団 2010年2月23日 (火) 13:14 (UTC)

薔薇騎士団さんは、投票無効論は取り下げたんでしょうか。取り下げたのなら、わたしの投票中断提案に反対という薔薇騎士団さんの御意見にしたがうこともできますが、取り下げていない以上は、むしろ自分から1週間程度の中断を呼びかけて、その期間内で投票が有効か否かを明らかにしていただきたいですね。無効論があるということ自体、現実にいま投票しようと思っている人間の投票行動に影響をあたえているので。自分の投票無効論は黙殺しろ(or一方的に聞け)、しかし、投票中断には異義があるというのは、おかしくありませんか? 言いっぱなしではなく、ちゃんと御自分で決着をつけていただきたいと思います。--Chokorin 2010年2月23日 (火) 18:20 (UTC)(加筆)--Chokorin 2010年2月23日 (火) 19:24 (UTC)

取り下げたわけではないですが、私の「投票の指針が廃止されたのだから、投票の実施は無効ではないか」という見解は、その後の「ローカルルールによる調査投票は可能」という意見を聞いて、確かにその可能性はありうると思いますので、最初の部分の主張は撤回します。もっともその後の「第三者に投票結果の拘束力が及ぶのか」という疑問点には納得のいく回答は頂いていませんが、ただこの疑問点は現状のWikipedia全体の投票やローカルルールへの指針の不備に由来するもののようですから、ここで質問しても納得のいく回答は得られないのかもしれません。--薔薇騎士団 2010年2月24日 (水) 07:24 (UTC)

Yasumiさんへ。投票中断提案の理由がブレているという御意見は理解できます。理解できますが、わたしの中では薔薇騎士団さんの投票無効論は、受け止めはしたけれど、同意はしないという立場で一貫しています。自分と違う意見だからといって受けとめない法はないと思いますので。誤解をあたえたのなら、申し訳ありませんが。受けとめる以上は、投票行為に影響をあたえないよう、中断して話し合いの場を設けるべきではないですか。むしろ、無効論が出てきた時点ですぐにそのように対応された方がよかったと思っているくらいです。そこで堂々と有効論を主張なさるべきではないですか。現状は投票したいと思っている人も投票できないような状態ですから、投票したい人が安心して投票できるような環境をつくるのもまた、われわれの責任でしょう。ともあれ、無効論が生きたまま中断に関する是非の議論が中心になって、そのままズルズルと投票期間を終えるというのは、あまりよい展開とは言えないですよね。--Chokorin 2010年2月23日 (火) 18:53 (UTC)(加筆)--Chokorin 2010年2月23日 (火) 19:24 (UTC)

先に「論点は3点ある」とコメントいたしましたので、分割議論とのからみについても言及しておきます。自分としては、分割議論と改名議論を切り離すことには反対です。しかし、投票前にハッキリそう言わなかったのは私の落ち度です。ただし、「切り離すことができるかどうか」は合意で決定しうることではないと考えます。「切り離すことはできない」という人間が現実にいるわけですから。わたしとしては、頭のなかにフローチャートを描いて、

  1. この記事の現状に変更を加えるか、否か。
  2. 変更を加えるとすれば、(a)現状の記事のまま改名するか、(b)改名せずに記事を分割or転記するか、あるいは(c)記事を分割or転記したうえで、記事名も検討するか。
  3. (a)のとき、改名するとすればどのような名前にするか。
    (b)のとき、どのように分割するか、どの記事に転記するか。
    (c)のとき、(b)→(a)

というようなスモールステップを設けて一つ一つ着実に話し合って合意を積み重ねるのがコンセンサス形成の常道だと思っているので、何もかも一緒くたで進めるようなやり方には賛成できません。しかし、これを理由にした中断提案については、もう主張しないことにします。みなさんが、一緒くたで進める方が手っ取り早いと考えるのならば、それにしたがいます。このプロセスの過程で、合意形成のオプションとして投票をおこなうのは当然認められるというのが、わたしの意見です。影綱さんとArawodasさんには御理解・御同意をいただいたようで、嬉しく思っています。ありがとうございました。--Chokorin 2010年2月23日 (火) 20:22 (UTC)(加筆)--Chokorin 2010年2月23日 (火) 21:03 (UTC)

Chokorinさんの言っていることは投票後に可能なことであるばかりか、投票前に再協議を前提に議論されたことです。投票の邪魔をしないで下さい、ここで合意されたことは実施しましょう。今後の合意が守られるべく、決められたことを守らないことが一番悪いと思います。それと再度言いますが、投票中断の合意を取るので有れば条件設定をきちんとして頂かないと同意できません。--Yasumi 2010年2月23日 (火) 21:32 (UTC)
投票の邪魔をしているつもりはまったくないので心外な発言です。むしろ、有意義で実効力のあるものにしたいというのが私の本意です。中断の条件設定としては、さしあたって、薔薇騎士団さんが投票無効論を取り下げるか、または投票無効論を投票終了後まで凍結されるのが最低条件となります。
質問。分割・転記にかかわる議論のなかで「分割しない」ことが合意された場合は、改名問題をやり直すということでよいのでしょうか。
確認。Yasumiさんは、今回投票で「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切るつもりだとおっしゃっていますが、それはYasumiさん個人の問題でしょうか。そこには全体のコンセンサスがあるんでしょうか。お答えくだされば幸いです。--Chokorin 2010年2月23日 (火) 22:40 (UTC)
薔薇騎士団さんへ。”選挙で「あ、しまった。書いた人の名前間違えた!」とか言って中断”などと誰が言ったのでしょう?だから的外れだと言っているのです。僕のコメントをもう一度、一字一句読んでください。問題は、誤読や認識のズレでは収まっていません。それで理解できないなら、議論を混乱させるだけなのでしばらく傍観に回っていただきたい。--影綱 2010年2月23日 (火) 23:01 (UTC)
Yasumiさんに対して。これは反論と言うより僕の主張点ですが、まず先日から何度か言っているとおり、「2010年2月13日00:00:00(UTC)に開始した『記事名』についての投票」は、有効だとして票を投じております。その上で、「それ以降に議論者、乃至投票者の一部によって付加された『分割の連動』」について、これは合意がされていない別論だと主張しています。そこはご理解いただけるものと考えております。
Yasumiさんは「たとえ今回投票の対象が分割前提であったり非分割前提であったりと、投票者が自己責任で自己拘束をかけたとして、何が問題なのでしょうか?」と仰っていますが、これが「自己責任で自己拘束をかけ」ている分には、確かに問題は無いでしょう。しかし現状、「責任の所在が不明なまま、記事全体(および議論者、投票者)に拘束をかけ」、『同意が出来ないなら票を撤回』するようにと主張するユーザーが存在するわけです。これは問題ではないでしょうか?
むろん僕としても、「(別のユーザーと)前提が違うから投票を中止しろ」とか、「自分の投票先が不利だから無かった事にしろ」と言っているわけではありません。あくまで、「投票は『記事名』の扱いを対象としたものであり、それ以外のいかなる傍論もこれに影響せず、また投票が傍論に影響することもない」ことの確認を求めているのです。これも既出ですが、要約すれば、「分割論が絡むのなら中断仕切りなおし、絡まないならそのまま継続」が主張点です。ご理解ください。--影綱 2010年2月24日 (水) 06:39 (UTC)
Chokorinさんの2010年2月23日(火)22:40(UTC)の発言を受けて。
「投票の邪魔をしているつもりはまったくないので心外な発言です」 >であれば、Chokorinさんの一連のご主張はすでに開始されている投票処理を妨げるものではなく、私やArawodasさん、秋田城之介さん、高尾区さん等の同意に基づく有効な投票であることをご明言ください。現状、投票合意を覆す新たな合意を行うには日程的に合意形成期間を考えると投票終了に間に合わない状況であります。また、新合意の条件明示や未だ旗幟を示さない既合意者への呼びかけにも積極的ではない様子なので、投票を混乱させるばかりです。
「質問。分割・転記にかかわる議論のなかで「分割しない」ことが合意された場合は、改名問題をやり直すということでよいのでしょうか。」 >具体的に投票をやり直すかどうかと聞かれても、仮定に明示されていない条件が多々あることから「わからない」としか答えられません。当事者次第となるでしょう。
「確認。Yasumiさんは、今回投票で「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切るつもりだとおっしゃっていますが、それはYasumiさん個人の問題でしょうか。そこには全体のコンセンサスがあるんでしょうか。お答えくだされば幸いです。」 >私は四国攻めが同票以下の場合は今回の四国征伐を対象とする改名議論について議論を打ち切ると明言しました。つまり、消極的ではありますが四国征伐を消極的に容認すると言うことです。もちろんリスクを負って裏切る可能性もありますが、約束は守りたいと思います。また合意形成について、私個人の宣言が他に及ぼした影響としては、合意者同士の「投票合意」が成立したことと、特に秋田城之介さんが投票合意に踏み切り「二票以上で四国攻めが優勢なら、四国攻めに同意する」と合意ラインを明示された前提条件になっていると思います。
影綱さんの2010年2月24日 (水) 06:39 (UTC) への返事です。Chokorinさんも含めてもう一度議論を通して読んで貰えるとご理解頂けるとおもうのですが、この投票の後に合意処理として当面の多数票記事名が適用されます、それとはまた別に宣言された各自の合意ラインが設定されております。皆さんが投票中にあれこれ言われていることは投票後に議論と合意があれば実施可能なことばかりです。なぜ議論の経緯や合意点を読まずに投票を妨害されるか理解しかねます。--Yasumi 2010年2月24日 (水) 12:17 (UTC)

「わからない」では困るのです。それでどうして、投票に「瑕疵がない」などと言えるのですか。--Chokorin 2010年2月24日 (水) 13:39 (UTC)

「わからない」と言われないためには未来想定を具体的に提示しなければ未来のことは「わからない」のは当たり前です。投票が有効だと言えるのは出典調査・論理照合・論点整理・コメント依頼等の手順を踏み、議論膠着という状況を受けて投票を行うという合意形成を行ったからです。--Yasumi 2010年2月24日 (水) 21:30 (UTC)
投票期間も残り少なくなってきました。投票妨害をするつもりか無いので有れば、自己発言は現在進行中の投票を妨害・制約するものではないと宣言下さい。--Yasumi 2010年2月24日 (水) 21:32 (UTC)
Chokorinさんや影綱の意見もわからなくはないのですが、投票に至るプロセスに問題があったとは思えません。yasumiさんと秋田城之介さん双方の合意は確かにありましたし、後から議論される方に対する拘束の仔細について議論していてはキリがないのではないでしょうか?投票時になって初めて参加されたのでしたら、新たな議論は投票後にすべきでしょう。投票は解決の手段として最良ではありませんが、それをふまえることは可能なはずです。そうした配慮が一切無いのであれば、yasumiさんの言われるように「投票妨害」と言われても仕方が無いと思います。--高尾区 2010年2月24日 (水) 13:49 (UTC)

わかりました。投票に疑義を呈したり、中断を提議することが投票の邪魔になるというのなら、もう「邪魔」はいたしません。中断の提議を取り下げます。分割・転記にかかわる議論を並行してやっておきながら、「分割しない」ことが合意されたときのことを想定していないとのYasumiさんのコメントにはがっかりしました。それを伺った以上、個人的には、この投票に有効性を認めることはできません。もう少し責任あるお答えを期待していましたのに、残念というほかありません。ただ、これは個人的な見解であり、投票に有効性を認める人が投票する分には「どうぞ御自由に」と申し上げます。その人たちのなかでは有効でしょうし、そのなかでコンセンサスがあるということは認めます。しかし、わたし自身はその立場には立たないので投票後の再議論に期待いたします。--Chokorin 2010年2月24日 (水) 21:40 (UTC)

「Yasumiさんは、今回投票で「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切るつもりだとおっしゃっていますが、それはYasumiさん個人の問題でしょうか。そこには全体のコンセンサスがあるんでしょうか」>これに対するお答えがまだだと思います。個人の身の振り方を一方的に語っただけなのか。そうでないのか。ハッキリさせていただけませんか。--Chokorin 2010年2月24日 (水) 21:33 (UTC)

Yasumiさんへ。まず第一に、投票議題の改竄に疑問を持ちはしても、妨害をしているつもりは無いので、「『投票』を妨害、及び制約する意図は一切無い」と宣言します。その上で、「この『投票』の結果を根拠とする『新記事立稿』には反対である」とも宣言します。この二点以外の論点があれば、仰るとおり投票終了後に話し合う事にしましょう。
(追記)「なぜ議論の経緯や合意点を読まずに投票を妨害されるか理解しかねます」とのことですが、投票に至る経緯は最初のコメントである 2010年1月24日 (日) 23:26 (UTC)時点で一通り目を通しています。それ以降の議論も(無効論についての部分を除き)逐一読んでおります。が、その時も、勿論今読み返しても、「どの時点で『改名しなければ新記事立稿』が合意されたのか」が掴めずにおります。上記のとおり「妨害の意図は全く無い」のですが、「合意点」があるのであれば教えていただけると有難く思います。
次に高尾区さんへ。少なくとも高尾区さんのご機嫌を損ねるような事はしなかったと思っているのですが、何かお気に触る発言をしましたでしょうか?そうであればご指摘ください。--影綱 2010年2月24日 (水) 23:15 (UTC)(追記、および表現修正--影綱 2010年2月24日 (水) 23:28 (UTC)
影綱さんの2010年2月24日(水)23:28(UTC))の発言について。
『投票』を妨害、及び制約する意図は一切無い」と宣言します。 >了解いたしました。ありがとうございます。
この『投票』の結果を根拠とする『新記事立稿』には反対である」とも宣言します。 >これも了解しました。私も本投票は羽柴長宗我部戦争を中心とした記事の記事名を対象としているので、直接的に新記事立項の是非を定めるものとは考えていません。
どの時点で『改名しなければ新記事立稿』が合意されたのか」が掴めずにおります。 >私もそのような合意は存在しないと認識しております。
Chokorinさんの2010年2月24日(水)21:40(UTC)の発言より、「分割・転記にかかわる議論を並行してやっておきながら、「分割しない」ことが合意されたときのことを想定していないとのYasumiさんのコメント」 >はて?私が想定していないとどこで私が発言しているのでしょうか?それ以前に「どんな?」分割しないという合意なのか示して貰えないと答えるのは難しいでしょうね。だいたい議論に参加しないかも知れない情勢ですしね。
それと回答済みかと思っていたのですが、「全体のコンセンサス」って具体的に何なんですか?適当に質問されても以前のご主張の通り「前提が違う」と答えも変わるでしょうに。それとも分かるか分かりませんが「わからない」を言い換えてみまれば「良い場合はよいし、悪い場合はよろしくない」ということですよ。--Yasumi 2010年2月25日 (木) 21:35 (UTC)
私もそのような合意は存在しないと認識しております。」とのYasumiさんの言葉を頂き、安心しました。残り2日強ですが、投票の結果を待ちたいと思います。--影綱 2010年2月25日 (木) 22:58 (UTC)
御返答ありがとうございました。「別途協議の上、そこでの成り行き任せ」というのがYasumiさんの「想定」のなかみと理解していいんでしょうか。そうだとしたら、わたしはそれを「想定」とは考えません。まあ、これはすでに水掛け論になってしまっていますね。もう一つ確認しますが、2009年10月18日 (日) 17:18のYasumiさんの編集[12]では、毛利輝元の四国攻めを1985年の羽柴・長宗我部戦争の「後史」と表現されていますが、その表現には何か出典がありますか。もしございましたら、お示しください。出典がないにもかかわらず、Yasumiさんの御判断でその表現を採用されたのだとしたら、そのように判断した理由をお示しください。蛇足かもしれませんが、私はたしかに投票の瑕疵を指摘したとはいえ、その責任をYasumiさんに負わせるつもりは最初からありませんでした。自分もふくめ看過した側にも当然責任はあるのであり、それゆえに仕切り直しが必要との考えでした。投票妨害をするつもりならば、最初から投票などしなかったのであり、そこは理解していただきたいものです。--Chokorin 2010年2月27日 (土) 00:10 (UTC)
(付記)なお、これに対する御返答は特に急ぐことではありませんので、投票終了後で結構です。--Chokorin 2010年2月27日 (土) 00:32 (UTC)
影綱さん、了解しました。よろしくお願いします。
Chokorinさん「「想定」のなかみと理解していいんでしょうか。」 >いいえ、全然違います。Chokorinさんの想定条件の明示が少なすぎるために具体的な回答ができないと言うことです。私の想定する未来の可能性を全て書き出すことなど出来かねます。Chokorinさんの想定する固まった前提を頂けないと回答致しかねます。関ヶ原部分の関連性については「今」「本節」で議論することではないでしょうね。なお、出典の明示までは至っていませんが、多少なりともノートで触れている部分がありますので、まずは事前にノートをご覧下さい。--Yasumi 2010年2月27日 (土) 01:00 (UTC)
具体的な回答ができないということだけはよくわかりました。ありがとうございました。「後史」ということばは、「前史」にくらべれば、あまり使用頻度の高いことばとは言えませんよね。それについて、明示できるような出典はないということでよろしいんでしょうか。「前史」の語が、ある事象・事件に先だってその原因になったような「一連の事柄」を指すことから類推すれば、1985年の羽柴・長宗我部戦争の「後史」といえば、四国国分とそれによる羽柴(豊臣)系大名の配置、また、毛利との連合をすすめながらの豊臣政権による瀬戸内海制海権の掌握、さらに、これらの大名を先鋒としておこった九州攻めというような一連の歴史事象全体をさすというふうに考えられると思うのですが、一足飛びに「毛利の四国攻め」としたうえで、それに限定した特別な理由が何かおありでしょうか。--Chokorin 2010年2月27日 (土) 01:45 (UTC)(表現の修正)--Chokorin 2010年2月27日 (土) 01:49 (UTC)

Wikipedia:投票の方針廃止後に実施中の本投票の無効について

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  • コメントWikipedia:投票は廃止された方針なので、この投票は無効ではないでしょうか。この件については、ヤマト王権のノートで1月24日付けで指摘されており、Chokorin氏もご存じのはずです。ヤマト王権の投票の際は参加者が気づいていなかったということで不問の形になりましたが、本投票は少なくとも一人は知っていたわけで、その点を十分意思確認せずに投票を実施するのはルール的に問題があると思います。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 07:41 (UTC)
    • コメント有効だということで双方合意されて投票が開始されたわけですから、有効でいいのではないでしょうか。わたしの投じた1票が無効だという御意見が仮に多数を占めるならば、それに従うことには異存ありません。Wikipedia:投票が歴史的文書であることは秋田城之介さんも承知されたうえでのことなので、特に問題を感じません。--Chokorin 2010年2月14日 (日) 08:00 (UTC)
    • どなたの票が有効か無効かということは別に論じるつもりはありませんが、廃止されたはずのものが実施されているというのは違和感を覚えます。投票結果の拘束力についても、十分議論がなさているとは思えません。投票結果が拘束力をもつものかどうかは明示しておかないと、あとから来た人がリバートしても反対できないのではないでしょうか。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 08:14 (UTC)
    • コメント「廃止された」というよりは、Wikipedia:投票は、今まで漫然と基本方針のなかにあって惰性的に運用されてきたのに対し、投票することの是非も含めて議論し、評決における新しい方針・ルールを策定するために「歴史文書化された」ということのようです。本投票の場合は、ローカルルールであることを双方合意のうえで投票に及んでいるのですから、議論参加者・投票者は投票結果を最大限尊重すべきでしょう。「あとから来た人がリバートしても反対できない」その御指摘は、その通りです。改めて、議論することになるでしょう。合意であれ、投票であれ、結果がすべてではなく、そのプロセスもたいへん重要です。ここでは投票の無効を主張するよりも、有効であるとみなして次代につなげていくべきと考えるのですが、いかがでしょう。--Chokorin 2010年2月14日 (日) 08:31 (UTC)(主語を補うなど微調整)--Chokorin 2010年2月14日 (日) 08:37 (UTC)
    • Wikipedia:投票の指針が歴史的文書となりました。日本語版では投票行為の是非、投票に関しての方針、ガイドラインは存在しない状況となっています。」と告知されていることは今回の投票の前提として確認されています。それを踏まえてた上でローカル合意があり、投票による解決が実施されているのが現状です。廃止されたのはあくまでも方針であり、ウィキペディアで投票を許さないと言う新方針を打ち立てたいのであればもっと上位の運営関係やWikipedia:井戸端で相談すべき案件だと思いますが?--Yasumi 2010年2月14日 (日) 08:33 (UTC)
      • 確認したいのですが、この投票結果は拘束力をもたない、と理解してよろしいのでしょうか。「歴史的文書」になったWikipedia:投票の指針には、「進行中の投票に対して問題点があると感じる人がいるならば、それはたいてい投票前の議論が不十分だと言うことを意味しています。」とあります。この点を曖昧にして、投票結果を強制されると大変まずいと思いますので確認したいのです。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 08:46 (UTC)
      • 基本的に全ての議論、あるいはせめて「改名に関するコメント依頼」以降の議論を確認した上での理解を頂きたいと思います。新規の論点を元とする新議論の再開についても述べられているはずです。--Yasumi 2010年2月14日 (日) 09:10 (UTC)
        • ログは目を通していますが、「拘束力」についてぼかされた議論しかありませんでした。もう一度お尋ねしますが、この投票結果は拘束力を持たないと理解してよろしいのでしょうか。明確な回答がない場合は、私は投票の無効を宣言します。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 09:21 (UTC)
          • 「ログは目を通しています」ということですが、いつ目を通されたのでしょうか? 「明確な回答」というのは、いったい誰からの回答を求めているのでしょうか? --Chokorin 2010年2月14日 (日) 09:31 (UTC)
            • 最初に目を通し始めたのは、1月中旬くらいからだったと思います。その後何度か拝見していますが、投票が開始されてからは昨日読みました。回答はYasumi氏に対してです。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 09:37 (UTC)
            • Yasumiさんの御見解はわたしとは少し異なるかもしれませんが、もし、投票結果が「四国攻め」>「四国征伐」であるならばいったん「四国攻め」に改名したうえで記事名に関する議論は継続する、「四国征伐」>「四国攻め」であるならば改名手続きをしないまま議論は継続するということで、どちらにしても調査投票ということではないでしょうか。それが、議決投票ではなく、調査投票であるという点では最終的な拘束力は持たない。しかし、双方、調査投票であることを前提にしてではあるが、今述べたような取り決めをしたうえで合意しているわけですから、投票そのものが無効であるという理屈は成り立たないし、いったん改名するか否かということに限って、その部分だけは拘束力をもつということだと思います。--Chokorin 2010年2月14日 (日) 10:07 (UTC)
              • 調査投票なのに、投票後の改名を条件に入れるのはおかしいですよね? それは、実質的には議決投票と同じです。それと、ログを見ても、秋田城之介氏の同意条件を確認しているだけで、それ以外の第三者に対して拘束力があるか否かが明確になっていません。わたしが「ぼかしている」と感じるのはこうした点です。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 10:19 (UTC)
                • 別におかしくはないでしょう。現状で投票に関するガイドラインがない状態であることは周知のことであり、そういう状態において、改名を条件に入れることを双方が合意して投票にうつっているわけですから。現状では、それがルールブックになっているわけです。わたしもこの取り決めに関しては第三者なわけですが、現実において唯一のルールである以上、拘束力を認めます。自分の意見は別にしても、合意形成にむけて全員が努力している以上、拘束力を認めざるをえません。薔薇騎士団さんが、投票以外に合意形成のためのよき手立てをお持ちならば、ぜひ御提案ください。そういう手立てをお持ちでないならば、薔薇騎士団さんの無効宣言には拘束力はないと考えるほかありません。--Chokorin 2010年2月14日 (日) 11:32 (UTC)
                  • 「現在有効なWikipedia:合意形成ルールの合意は多数決ではありませんからすると投票数の多い少ないで合意形成はできない」(あら金 2010年1月24日 (日) 01:27 (UTC))とノート:ヤマト王権でも述べられているので、Chokorin氏もご存じだとおもいますが、投票結果に拘束力を持たせること自体、Wikipediaの方針違反になります。これに納得できない人は、Wikipediaの手続きに従って方針の改変手続きをする必要があります。秋田氏一個人の同意は本人がそれに納得するなら問題ありませんが、私が尋ねているのは他の第三者に対する拘束力です。Chokorin氏の上の見解ではそれはないということなので納得しましたが、Yasumi氏からの返答がまだなのでその点確認しておきたいだけです。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 11:49 (UTC)
    • (投票の妨害とならないように、再度分節します)投票の方針が廃案となっている現状に於いて薔薇騎士団さんの使われる「調査投票」や「議決投票」がどのような意味なのかは存じませぬ。「拘束力」の定義についても同様です。少なくとも明らかなのは「本投票の多数案を記事名に反映させる」と言うのがこのコミュニティで合意形成された方針です。どうやら薔薇騎士団さんは1月中旬から議論に目を通され、投票合意についても形成期間内に異議を唱えずに黙認して頂いた第三者という立場なのだと思いますが、今一旦の終了を迎えようとしている改名議論に新規に参加するのであればコミュニティの蓄積された合意は当然尊重して頂きたいと思います。また誤解されていなければよいのですが、「多数決だけでは合意形成ができないと言うガイドライン」と、「合意形成により投票を行っていること」を峻別して頂けることを望みます。--Yasumi 2010年2月14日 (日) 12:10 (UTC)

調査投票とは、Wikipedia:投票の指針によれば、「調査投票は、議決のように始めたり、終わらせたりするべきではありません」とあります。ですので、調査投票の結果は拘束力をもちません。また、調査投票の実施をローカルルールで決めても、それは、Wikipedia全体に適用される公的方針やガイドラインの上位概念ではありませんので、後者にローカルルールが反する場合は当然無効となります。さて、Wikipedia:投票は廃止されてますので、本投票実施のローカルルール自体その有効性は極めて怪しいものとなります。それゆえ、本投票の実施を妨害しませんが、本投票の結果に第三者は拘束されないという点をご理解下さい。詳しくは、「Wikipedia:投票は議論の代用とはならない」、「ウィキペディアは民主制ではありません」等を参照ください。また、これらに異議がある場合は、Wikipediaで定められた手続きに従って、改訂手続きを行って下さい。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 12:31 (UTC)

(補足)なお、過去ログを参照しましたが、「得票差が二票以上の決着に、秋田城之介さんは合意する」という秋田氏一個人の同意確認以外は、結果の拘束についての文章は見あたりませんでした。ですので、秋田氏以外の第三者への拘束力を定めたローカルルールはないと判断します。異議がある場合は、第三者への拘束力について得られた合意の記述箇所をご指摘ください。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 12:45 (UTC)
  • 何だか支離滅裂な主張になってしまっているように感じますが。Wikipedia:投票の指針は廃案なのでしょう。であるなら、それを根拠にはできないはずですね。ということは、各ページで取り決めて合意しろということに自動的になってしまい、事実、このページではそのように取り決めたわけです。であるなら、本投票の結果は尊重すべきであり、尊重すべきでないとか無効であるという理屈の生じる余地はまったくないと言わざるをえません。「第三者への拘束力」などというものは、もともとなかったのであり、たとえば「四国征伐」が大敗したからといって、投票で負けた側が、その結果、自分の意見や考え方を変えなくてはならないなどという決まりはありませんよ。そしてまた、他のページの案件にはこのルールは適用されません。あくまで、その項目名のノート欄ですべてを話し合えということであり、そういう状況に対応したうえでの投票の実施なわけです。「Wikipedia:投票は議論の代用とはならない」-そのとおりですが、議論は既に充分になされてきたと思います。薔薇騎士団さん御自身は「四国攻め」への改名は反対なのでしょうか? --Chokorin 2010年2月14日 (日) 13:12 (UTC)
    • Wikipedia:投票の指針は調査投票の定義を尋ねられたので引用しただけです(もとはこれはChokorin氏が使用した言葉ですが)。それと、ノート:ヤマト王権にて「Wikipedia:投票が廃止された方針であるとは、正直なところ存じ上げませんでした。あら金さんに御質問ですが、11月の分割の是非に関する投票の時点で既に「歴史的文書」だったのでしょうか。そうであるなら、私のとるべき行動は全然ちがったものになっていました」(--Chokorin 2010年1月24日 (日) 02:35 (UTC))と発言したのは、他かならぬChokorinさんではないでしょうか?--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 13:37 (UTC)
  • もちろん、議論が大切なことは言うまでもありませんよ。今からでも遅くないので、薔薇騎士団さんも議論に加わればいかがですか? なぜ議論に加わらずに、投票(これも議論の結果生まれたものです)の是非のみを問題になさるのですか? --Chokorin 2010年2月14日 (日) 13:51 (UTC)
    • 個人的には四国平定がいいと思っていますが、四国攻めがダメとも思いませんし、四国征伐がダメともおもいません。ですので、別に改名を阻止するつもりで投票結果の拘束力について聞いているわけではありませんのであしからずご了承下さい。あくまで、ヤマト王権の議論の直後の話なので、強い違和感を覚えただけです。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 14:04 (UTC)
      • (競合したのでこちらに)なるほど。そうでしたか。やはり私がわるかったみたいですね(苦笑)。個人的には、投票で決めるのではなく、議論によって決めるのが、合意形成のあり方としては健全だし、理想的だとは思いますが、やむを得ないケースというのはやはりあるんじゃないでしょうか。今回のケースも、話し合いでどちらかに決まるのであれば、それに越したことはないと思っていました。--Chokorin 2010年2月14日 (日) 14:26 (UTC)
    • (補足)あと日本語版でWikipedia:投票が廃止された経緯は、英語版が廃止されたからであり、英語版が廃止されたのは、en:Wikipedia:Polling is not a substitute for discussionにあるように、投票で解決を求めないというガイドラインが英語版で採用されているからです。そういった流れの中で、日本語版でもWikipedia:投票は議論の代用とはならないの翻訳が進められているわけです。現在、草案ですから投票が直ちに無効になるわけではありませんが、今後投票は推奨されないことになるであろうことはご理解ください。--薔薇騎士団 2010年2月14日 (日) 14:08 (UTC)
  • 薔薇騎士団さんの2010年2月14日 (日) 12:45 (UTC)に回答します。例えばYasumi 2010年2月2日 (火) 13:11 (UTC)にて「・投票による多数意見を記事名に反映させる。・投票終了後も議論を継続する。ただし、議論継続を望む者が速やかに議論に値する論点を提示しない場合、または議論終了の合意が成立した場合は議論を終了する。」と明示して議論による合意形成されていますが?また、同じく議論により合意された投票要領にも「投票は下記選択肢へ一人一票までとし、多数意見を記事名に反映させる。」と投票処理が明示されています。--Yasumi 2010年2月15日 (月) 06:01 (UTC)
    • その箇所は特に第三者への拘束力について言及していないように思いますが。調査投票でしたら投票結果に対して拘束力は発生しません。 その点についてはいかがでしょうか。--薔薇騎士団 2010年2月15日 (月) 00:20 (UTC)
      • 未だ薔薇騎士団さんの仰る「第三者への拘束力」なるものが理解できていません。議論に参加しない「第三者」であるなら議論に拘束されないのは当たり前でしょうし、「第三者」から「当事者」に転じて新規にコミュニティに加わって議論を開始するのであれば、従前に蓄積された議論や合意を充分尊重するのは当然ではないでしょうか?無論、それを無視してコミュニティの先人の努力を踏みにじるリバートを強行する自由を行使するのであれば、コミュニティから反発を受けてWikipedia:コメント依頼Wikipedia:投稿ブロック依頼を受けるかもしれません。それが薔薇騎士団さんの言われる拘束力の定義に合致するのであれば拘束力はあるといえましょう。何だか根本との所で方針ボタンを掛け違えているような気がしてならないのですが、論争への拘束力ということであれば、投票が拘束力を発揮するのではなく、合意が拘束力を発揮するという点にご留意願えばご理解いただけるのではないかと思います。具体的には、当面は「投票結果の多数を記事名に対応させる」「投票終了後も議論を継続する。ただし、議論継続を望む者が速やかに議論に値する論点を提示しない場合、または議論終了の合意が成立した場合は議論を終了する。」の2点の合意を基本とし、個別に加えると「秋田城之介さんは、2票以上の票差が付いた記事名に合意する」「Yasumiは今回投票で「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切る」です。--Yasumi 2010年2月16日 (火) 10:34 (UTC)
        • おそらく拘束力の意味が理解できないのは、Yasumi氏が「元より調査投票であることは織り込み済みです」と言いながら、実質は「議決投票」を意図しているという、ご自身の論理矛盾に起因しているからだと思います。あと、ブロック依頼するという脅迫をなされていますが、そうした脅しはWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに違反しますのでご注意下さい。--薔薇騎士団 2010年2月16日 (火) 12:57 (UTC)
    • 薔薇騎士団さんの問題提起は理解できます。このまま投票の是非についての議論と投票とを並行して続けてよいものかと感じます。また、「議論は既に充分になされてきた」と以前わたしが申し上げたことは撤回します。今となっては「投票前の議論が不充分」という薔薇騎士団さんの御指摘には首肯せざるをえません。「投票は議論の代用にならない」にも深く同意いたします。ただ、薔薇騎士団さんも、御自身の問題提起の後にも投票が進行している状況があるわけなので、それについてどう思うのかコメントをいただきたいところですし、収拾にむけた努力も払っていただきたいと思います。薔薇騎士団さんはまた、「Yasumiさんの意図」を問題になさっていますが、Yasumiさんの意図だけで投票にまつわる合意が成立したものではありませんから、当事者の一方のみを批判する行為には異を唱えさせていただきます。いったん投票を中断したらどうかと上で提案いたしました。仕切り直したうえで、この記事に盛りこまれるべき内容と見出しについての議論に参加されることを希望いたします。--Chokorin 2010年2月17日 (水) 12:07 (UTC)

コメント 私としても、この投票が「議論が尽くされた末」であったかどうかは疑問でありましたので、投票の仕切りなおしには反対しませんが、現実問題として投票を中止できるかどうかは別の話しですね。Yasumiさん達の意見も無視できないでしょう。薔薇騎士団さんの主張が多くの方の理解を得るようでしたら、「調査投票」の原点に立って今回の投票から実効力をなくし、あらためて議論を進めることも考えなくてはいけませんね。--秋田城之介 2010年2月19日 (金) 15:15 (UTC)

  • コメント疑問があったのなら、疑問を感じられた時点でその疑問を述べられるべきではなかったでしょうか。投票がすでにこのように進んでからおっしゃられても多くの人が迷惑いたします。投票の中断は既にわたしも含め3人が意見表明しています。中断を希望するなら希望するでハッキリなさってください。わたし自身は「中断すべき」の判断はARP-77さんと神坂12号さんのコメントを読んだからであり、薔薇騎士団さんの主張に100%与(くみ)するものではありません。今回の投票も調査投票としては十全に機能しています。薔薇騎士団さんの議論に乗っかるのではなく、御自身の判断で中断するか否かをお決め下さい。--Chokorin 2010年2月20日 (土) 01:17 (UTC)
乗っかるとかそういう問題ではなく、投票の前後にコミュニティの意思が変わるのであれば、投票の実行力も変わり得るということを言っただけです。また、もし私が投票に応じていなかったとしても、いずれはyasumi氏及びArawodas氏は投票を行っていたのではないでしょうか。--秋田城之介 2010年2月27日 (土) 18:01 (UTC)

関ヶ原部分の転記または分割提案

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「毛利輝元の四国攻め」節(関ヶ原部分)について、高尾区さんとKangoshiyouichiさんのご意見に基づき、分割もしくは関ヶ原の戦いへの転記を提案します。分割・転記・現状維持のいずれかに意思表示して頂ければ幸いです。分割支持の場合は新記事名の提案もお願いします。なお、提案者からは現状特に意見はありません。--Arawodas 2010年1月30日 (土) 02:00 (UTC)

賛成 転記または分割を支持します。--秋田城之介 2010年1月30日 (土) 15:36 (UTC) また、関ヶ原の戦いの「地方への波及」へ記載を一部改定しつつ移動することを提案します。--秋田城之介 2010年1月31日 (日) 15:25 (UTC)追記

賛成 転記に賛成票を入れます。分割の必要は無いと考えます。--影綱 2010年1月31日 (日) 23:00 (UTC)票を撤回、下部にコメント--影綱 2010年2月14日 (日) 01:41 (UTC)

(コメント)関ヶ原部分については、「四国攻め」を契機に四国の中世終了と近世招来が行われた事に特筆性か有ると思ったためです。つまり太閤検地と軍役動員による四国の近世化と在地権力の消長を戦後史・地域史として書いておいた方が「四国攻め」の記事が充実するのではないかという思いから書き足した部分であり、金子氏が最後まで抵抗したのは中国攻めに於いて秀吉に恭順した在地領主が結局は滅ぼされてた事例からではないかと指摘している論文もあます。実際に恭順した河野氏・西園治氏の取り潰し、関ヶ原に居る小早川時代の在地権力を利用した伊予の蜂起などにより、敵味方に分かれた中世的権力が消えていきました。記事としての意見は、戦争部分を関ヶ原へ分離移動することには依存はありませんが、関ヶ原四国節のリンク引用と四国勢力の消長はこちらにも残した方がよいのではないかと思います。--Yasumi 2010年2月1日 (月) 21:36 (UTC)
コメント転記を前提としてですが、現記事のうち伊予在地勢力の動向については、後史として本記事にも残した方が良いでしょう。内部リンクを張ることも問題ないかと。本提案の実行にはYasumiさんの協力が不可欠と考えておりますので、早期の意思表示に感謝致します。--Arawodas 2010年2月2日 (火) 02:12 (UTC)

コメント 私も基本的に賛成しますが、こちらに残す部分については最小限でよろしいかと思います。--高尾区 2010年2月2日 (火) 05:41 (UTC)

コメント なお、本件については転記先候補のノート:関ヶ原の戦い側にも提案すべきではないでしょうか?--Yasumi 2010年2月2日 (火) 13:11 (UTC)
提案しましたが、転記は難しい状況です。あちらの意見を汲むなら、新規立項も考えるべきでしょう。--秋田城之介 2010年2月13日 (土) 08:56 (UTC)
反対 関ヶ原における毛利の行動が秀吉の四国攻めとは関連性が薄いという意見があるようですが、わたしは一概にそう言い切れないのではないかと思います。見出し語が「四国攻め」であるなら、信長、秀吉、輝元のそれぞれの四国出陣(計画も含む)を包括的に扱えるうえに、秀吉の四国国分が伏線となって輝元の軍事行動があったという大きな流れを説明できるように思います。技術的な話題になってしまいますが、新規立項だと、適切な見出し語・項目名に困ることになりかねないと考えます。四国国分も「四国征伐」も、「四国攻め」に改名した本項目のなかで扱えばよいのではないでしょうか。--Chokorin 2010年2月13日 (土) 11:22 (UTC)(表現・言い回し微調整)--Chokorin 2010年2月13日 (土) 11:30 (UTC)

コメント関ヶ原の戦い側で統合がかなわないのであれば、現状維持が次善と考えます。少なくとも「毛利の四国征伐(攻め)」等を冠した分割立稿はすべきでない、というスタンスを表明いたします。--影綱 2010年2月14日 (日) 01:41 (UTC)

反対 基本的にどちらでも構わない、という考えは以前と変わりません。しかし、分割に必要な新記事名の案さえ出ていない状況では、分割を現実的な選択肢と認めるのは無責任かと思い、暫定的に反対とします。適切な新記事名と分割後の記事構成のプランが示されれば、反対を取り下げる可能性はあります。--Arawodas 2010年2月20日 (土) 04:24 (UTC)

取り敢えず、関ヶ原の戦い#四国節に四国征伐#毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)節へのリンクを設置しました。またノート:関ヶ原の戦い#統合提案に記事内容の照会をお願いしましたのでよろしくお願いします。
それと、合意を取るまでもない前提だと思っていたのですが、投票の騒動を見て、こちらの議論を始める前に必要性を感じましたので次の確認をお願いします。「議論の対象となっている現時点での記事は所謂四国征伐(羽柴・長宗我部戦争)を主題とする記事として成立しており、信長部分と輝元部分はその付属記事である」これは記事の形成経緯と内容を踏まえた客観的な事実であると思います。つまり、この記事は現在のところ「四国征伐(あるいは、四国攻め)と呼ばれる記事を並列収納した記事群」ではないし、仮にそのように記事の定義を新たに変更をするのであれば、それなりの合意を要する前提であるということになります。以上、申すまでもない客観的なことかも知れませんが、念のため確認をお願います。--Yasumi 2010年2月27日 (土) 01:00 (UTC)

節構成その他をみても、現在のところ「四国征伐(あるいは、四国攻め)と呼ばれる記事を並列収納した記事群」になってしまっていると思いますし、信長部分、輝元部分の行き先が決まっていない以上、しばらくは、この状態がつづくと思います。であるなら、冒頭文を変更して、本項では三者について扱うということが検討されてもよいと思います。信長、輝元については、行き先の目途も立っていない状態だと思いますし、秀吉は信長の事業を引き継いだ部分も大きいわけですから、無理に分割するのも不適切と考えます。Wikipediaは、国語辞典ではないのですから、四国攻めor四国征伐の語の意味がわからない人のためのものではなく、四国攻め・四国征伐についてもっと深く調べたい人のためのもののはずです(だから、国語辞典は出典としては不可だと思います)。であるなら、「秀吉の四国攻め」のことを「四国征伐」と呼ぶことも多いし、また、「四国攻め」と称しうる歴史事象としては輝元の例もあるとして、それぞれについて説明するというのが無駄がないと考えます。それからまた、輝元の四国攻めを羽柴・長宗我部戦争の「後史」として無理やり付属記事扱いにするよりは、一応は独立した歴史事象として扱ったうえで四国国分などの部分(羽柴・長宗我部戦争の本来の意味での後史)を充実させる方が読者の利便に供すると考えます。仮にYasumiさんの前提に立つとしても、信長部分は秀吉の四国攻めの「前史」と言えても、輝元部分を「後史」と呼ぶのは無理があると考えます(もとより、これは間接的な因果関係を否定するものではなく、「後史の後史」くらいの関係はあると思います)。そのあたりも包括的な説明ができれば、読者にとって便利だと思います。「天正の陣」(金子城との戦い)との関係も調整を図らなくてはなりませんが、これは、全国的な呼称なのでしょうか。それとも、おもに伊予地方で限定的に使われる言葉なのでしょうか。後者であるなら、いずれは改名も必要となってくるかもしれません。阿波の一宮城の戦い脇城の戦いなど、重要な個別の戦闘に関しては「天正の陣」同様、別記事を立てていく必要があると考えます。--Chokorin 2010年2月27日 (土) 13:52 (UTC)

現状を見るに、当記事は「四国征伐(あるいは、四国攻め)と呼ばれる記事を並列収納した記事群」になっていると考えます。Yasumiさんの仰る前提で議論を進めたいというのは判らないでもないのですが、「信長」と「秀吉」(もちろん「輝元」もですが)をそれぞれ別のものと捉えるなら、「現状は並列記事」と考えるほか無いでしょう。もっとも、以前から申し上げていますが、僕は並列収納に違和感を感じず、むしろわかりやすいと思います。--影綱 2010年2月28日 (日) 22:41 (UTC)

まずは本記事が今までどの様な定義で扱われてきたかの確認を行いたかったわけですので、議論をスタートする前に広く現状確認の意見をご協力をお願いします。性急ならざる認識確認をお願いします。
さて、以前も申し上げましたがウィキペディアの記事名は「各々がどう呼びたいか?」ではなく「どう呼ばれているか?」ですので、秀吉部分についてはかなり踏み込んだ議論と出典調査を実施したわけですが、信長部分と輝元部分を独自研究の国語解釈以外に「四国攻め」と呼ぶに相応しいかどうかは追々論者により出典調査が行われることと期待します。(信長部分についてはメインではありませんが、一部Arawodasさんによる調査があります)秀吉部分二杯分の議論とならないことを祈ります。
また、ウィキペディアにおいて、内容が異なるトピック(主題)なのに適切な記事名が同じになってしまうときに、それらを判別しやすくすることを曖昧さ回避と呼びます。このページでは「曖昧さ回避」に関する説明をします。詳しくは公式方針のWikipedia:曖昧さ回避をご覧ください。
すなわち、本記事が内容の異なる四国攻めと呼ばれている3つの独立した記事群であるという前提に立ち上記の公式方針に則るならば基本的に曖昧さ回避ページを作成して例えば、四国攻め (織田信長)四国攻め (羽柴秀吉)四国攻め (毛利輝元)などに分割する必要が生じます。昔は「1ページに共存」という方式もあったそうですが、現在は廃止されているようです。これとは別にWikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避ページを別に作らないもの(3)セクションを別けて言及する方法がありますが、「主要なトピックと関連がある内容で、独立した記事が作られる見込みがない場合」がありますので、節が肥大して独立傾向を持つ今回のケースからは逸脱していると思います。
ちなみに、ARP-77さんが2010年2月15日 (月) 02:53 (UTC)に「「四国攻め」では歴史上、数多い四国での戦役を総称するだけだと感じております。」とコメントされていますが、そもそも「四国攻め」と呼ばれる記事になりそうな候補にはどんなものがあるのでしょうか?例えば源平合戦で那須与一が名を馳せた屋島の戦いなどは有名な四国での戦闘ですが寡聞にして「四国攻め」と呼称するような例は知らず、他にも数多い「四国攻め」として思いあるものがありません。どういう想定なんでしょうか?
また、主筆者として輝元部分を大幅加筆させてもらいましたが、座りが良さそうなのでまずは節題を「毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)」とさせてもらいましたが、便宜的なものであり「四国攻め」であるのか否か、独立記事とするか否かは今後の議論を待ちたいと思います。
改名議論中に申し上げたとおり、私は四国攻めがもたらした戦後処理と豊臣政権の政策である軍役と検地が四国に中世の終わりと近世の招来をもたらしており、片や四国攻めで豊臣政権に反抗して滅んだ在地領主あり、此方恭順した在地領主も今まで通りでは居られずに滅びたり変容したりしたことを四国攻めの後史として地域軸を中心に書くことは四国攻めの意義を知る上で有用と思い記しました。一方、逆に時間軸を中心とした取り扱いを重視して関が原の戦いの周辺戦として取り扱うことも有りだと思います。私は秀吉部分の議論中にもある程度述べましたが、どちらでも良いが消極的に前者寄りの位置を取りたいと思います。但し冒頭に引用した公式な方針の解釈からすれば、同音異義辞典となることは避けるべきかと思い、並列記事が許されるかどうかはルール的な確認が必要ではないかと思います。--Yasumi 2010年3月2日 (火) 12:22 (UTC)
前提として、wikipediaは「百科事典」であり、「専門家の為の専門書」では無いことを確認させてください。その上で、Yasumiさんの仰る「同音異義辞典」を回避するとして、『同一記事内に同名別義の(当記事で言えば輝元部分と解釈していますが)内容を併記するのはいけないが、同名記事(例えば「四国攻め(織田信長)、四国攻め(毛利輝元)」など)を乱立させるのは良い』とされるのは、少々狭量では無いかと感じます。もちろん、「それぞれの戦役が、専門家によってどう呼ばれているのか」を重視する事は当然ではありますが、一方、「後進の研究者(戦役について調査したい素人も含め)が、どの名称で検索するのが探しやすいか」も考慮されていいと思います。それを考えれば、同名記事がずらっと並ぶより、ひとつの(内容を並列した)記事内で調査ができるのであれば、これに越した事は無いのではないでしょうか。少なくとも僕は、輝元部分の転記に異論はないが、新規立稿なら「かぶらない名称で」と以前から言っていますし、信長部分については、記事を読む限りは秀吉部分の前史と捉えておりますので、特に分離の必要を感じません。(今後、信長部分が加筆され膨大な量となれば別ですが。)--影綱 2010年3月2日 (火) 23:49 (UTC)
影綱さんの2010年3月2日 (火) 23:49 (UTC)について。
同音異義語事典を回避云々の話は私の意見ではなく公式方針のWikipedia:曖昧さ回避 のページにあることですので、そちらをご覧いただいた方がよいと思います。廃止された方式の一つに「1ページに共存」があり、説明として「1つのページに見出しを使って分けておく方法です。曖昧さ回避ページの一種として作成されたページですが、同音異義語事典の形式となっており、曖昧さ回避の本来の目的から逸脱しています(#曖昧さ回避ページを辞書にしない参照)。同名であるだけの記事が同じページにあることで読者は不必要な情報を見る必要があります。そのためそれぞれの内容は分離します。各項目に共通点のあるページ(例:政体、櫓、幕など)はこの方式にあたりません。」とあります、後段に例外事項がありますが、今回の趣旨からすると適用外ではないかと思います。
 
Chokorinさんの2010年3月2日 (火) 13:30 (UTC) について、こちらの節でコメントいたします。
確かに「あの記事」に「あの節題」をつけたのはほかならぬ私であり、当時は「あの節題」が妥当だと思って編集したように記憶しています。「あの節題は独自研究か?」とのご質問ですが「思い出せないし、そうであるかも知れないのでご検証ください」という回答になり ます。「あの節題」は「あの記事」を表しているとは思いますが、「あの節題」自身が出典でなんと呼ばれているのかは本文の参考文献で示されている「関が原前夜」が「あの記事」に大きな比重を占めています。従ってChokorinさんが検証を要しているのであれば、検証可能性を大いにご活用ください。
私は輝元部分については、秀吉部分を主題とする本記事の付属記事として認識しています。しかし、現在のこの節題を独立記事群の一つとして捉え「四国攻め」と呼ばれる記事名に昇格させる案を提示しているのはChokorinさんですので、議論を開始するのであれば、今まで行った輝元部分を主題とした呼称を「四国攻め」として取り扱っている(または別の名前で呼んでいる)出典調査の開示もお願いしたいです。我々が今まで 秀吉部分を主題に行ってきた改名議論でも、客観的事実としての出典調査の比重は非常 に重たいと言わざるおえません。
なお、いまだ執筆が不満足ですが、四国攻めの戦後史として豊臣政権が化した軍役と検地が重要であり、軍役で言えば九州の役小田原の役文禄・慶長の役(前後役)→関が原の戦い(家康による会津攻めへの東軍への動員、及び輝元他による西軍への動員や四国占領)をもう少し増やしたいなと思っています。例えば『歴史に見る四国─その内と外と─』という本に収録されている「慶長の役における「四国衆」」(津野倫明)という論文には豊臣政権に於いて四国衆としての取り扱いや性格などが述べられており大いに参考になりそうです。
また、地味ですが検地についても長宗我部関係に史料と論文が充実しており、長宗我部領内の支配体制が大きく変貌しています。四国攻め以前の一族や在地領主中心の支配から出頭人的奉公人を中心に大名直接統治が強化されていった過程や四国攻めで動員された一領具足の地位の変化などがまとめられた文献があります。また阿波山間部に於ける蜂須賀支配に抵抗した一揆などにも内政的にも四国攻め以降の四国領主たちの変貌に書くべき記事があるように思えます。
これらの記事が議論により将来的に分離・独立したとしても後史は後史として残し、経緯をリンクで残せば良いのかなと思っておりますが、そもそも「それは四国攻めとは無関係であるから書くことまかりならぬ」という主張が含まれているのか、確認したいところです。--Yasumi 2010年3月3日 (水) 11:06 (UTC)

宍戸光貞の松山・大洲城攻囲戦など「毛利輝元の四国攻め」を、秀吉の四国での軍事行動の「後史」であるとか、あるいはそれに「付属する」歴史事象であるというふうに説明した論文なり書籍などはあるのでしょうか。本記事は、すでに「出典なき加筆」のオンパレードになってしまっているようですが、その張本人による出典調査がどれほど信用が持てるものなのか大いに疑問です。どこまでが「客観的」で、どこから先か「独自研究」なのか、当人が「思い出せないし、そうであるかも知れない」というのでは、困るわけですよね。せめて、どの部分がYasumiさんによる独自研究なのかがハッキリしていれば、いいんですけれど。そのあたりも含め、この記事をどうするか、みんなで考えないといけませんよね。--Chokorin 2010年3月4日 (木) 20:59 (UTC)

なんだか根本的な読み違いまたは誤解、あるいは誤認をされているようですが、まずChokorinさんの当初のご質問は「これを読む限りは、「毛利輝元の四国攻め」なる語を使ったのは、ほかならぬ貴方のようだが。これも、要するに独自研究だったということですか? --Chokorin 2010年3月2日 (火) 13:30 (UTC) 」です。
私は「他ならぬ該当記事は私が『関が原前夜』を出典に加筆したものですが、節題の呼称に出典があるのかと聞かれると今現在は明確に記憶していないので記事の出典を検証されたし」と回答済みです。出典は明示していますよね?少なくとも、今現在も記事の内容をまとめた節題ではあると思っていますが、その節題がダイレクトに使われていたものであるのか、あるいは内容を言い表すためのまとめや要約としたのか。また、その節題へのまとめや要約が独自研究の謗りを受けるのか否かは不明ですが、まずは示された出典を当たっては頂けないのでしょうか?
そもそも、Chokorinさんはつい先日まで「本記事は「四国攻め」と呼ばれる記事を並列配置した記事群」であるとの趣旨に立って輝元部分を「節題」から「記事名」昇格させて取り扱う趣旨のご主張を繰り広げられていたからです。それともご主張されていた輝元部分を「四国攻め」の一つとして取り扱うということはChokorinさんの独自研究だったということで、前述のご主張は出典を持たぬ独自研究であったと理解してよいのでしょうか?いずれにしろ、時間をいただければ私自身が出典に再度当たることはやぶさかではありませんが、まずは求められた質問に対して示された出典に当たって頂きたいですし、Chokorinさんが輝元部分呼称の根拠に使って居られた出典があれば、質問したりテンプレを貼るまでもなく示して欲しいということです。
その次の点。更に途中から別の概念で質問を混ぜこぜにしておられますが、「輝元部分は秀吉の四国攻め(四国の役)の後史なのか?」については、これらの論点は記事自体には出典があるため独自研究の問題ではなく、特筆性の問題でしょう。少なくとも信長部分が前史であるのと同じくらい輝元部分も後史だと思いますが?
どんな特筆性があるというと、戦後処理とその後の豊臣体制における軍役と検地が近世化をもたらして四国を変容させたという出典はいくらでも出てきますが、出典を基に議論されようという方にいちいち明示が必要ですか?出せというなら出しますけど?それで、もしかしたら根本的に誤認されているのかもしれませんが戦争自体が直接の関係史なのか?」という質問でしたら当然「NO」ですよ、何が後史であり何が関係しているのかと言えば既に述べた豊臣政権に於ける公儀権力を根拠とした軍役だからですよ。つまり、役後四国の変容として九州の役・小田原の役・文禄慶長の役と並列に並ぶ秀吉没後に西国の大老として、そして豊臣秀頼の居る大阪城に入場して西軍の大将格として豊臣の公儀権力を振るい、土佐の長宗我部を動員し、生駒や蜂須賀に圧力を掛けて大名当主を追放して残党兵力を西軍として動員しつつ領国に家臣を派遣して占領する。従わない伊予には直接兵力を送り込み、隆景時代の在地領主の後身に一揆を起こさせ、盛親不在の土佐を預かる非有に伊予への兵力派遣を命令する。これらの関連について私は後史としての特筆性があり加筆したわけです。ご理解頂けたでしょうか?
まあ、他役と違って関ヶ原四国戦線は記事が無かったため、本記事に加筆した結果、ボリューム的に肥大していますが、最終的に議論によって詳細記事がどちらへ行こうとリンク貼りで他役並のとなることについては問題ないと考えています。これは前々から何度も述べさせて頂いていることです。--Yasumi 2010年3月5日 (金) 11:29 (UTC)

どのような歴史事象であれ、歴史的思考に立つならば、先行する歴史事象とまったく無関係に、何の影響も受けず、降ってわくがごとく生起するなどということはありえないわけですよね。確かに、1585年の秀吉による四国平定戦がなければ、1600年の毛利勢の四国での軍事行動も「そのようなかたちで」起こりえなかったと主張することは、可能です。鉄砲伝来がなければ、長篠合戦が「あのようなかたちで」起こりえなかったのと同じでしょうね。しかし、それを「前史」「後史」の言葉を用いて、また、「前史」「後史」の関係で論じたり、説明したりする文献が実際にありますか。到底あるとは思えないのですね。わたしが問題にしているのは、そういう文献の有無なのであって、別に貴方の個人的見解の適否ではないのです。そういう文献がないのならば、それはあなたの「独自研究」にすぎない、ということになるんじゃありませんか。で、「豊臣体制における軍役と検地」という言葉がはからずも出てまいりましたが、それは、通常は、軍事行動としての「秀吉の四国攻め」と同一視されるべき事象ではなく、むしろ、その結果としてとらえる見方が多いのではないかと思います。まあ、端的に言えば、Yasumiさんは「前史」「後史」という言葉の使い方を間違えているんじゃないかと思います。いかがでしょうか。--Chokorin 2010年3月5日 (金) 14:59 (UTC)

Chokorinさんの独自研究の独自研究についてはいざ知らず、特筆性の有無については「ああ見解の相違ですね」ということなります。さて、記事自体に対する出典はかなり前から提出済みですが、知りたかったことは検証可能性を使って検証して頂いているのでしょうか?あるいは、そのつもりだけど未実施なだけなのか?出典質問は投げっぱなしで、私が調べるまでもないのか?私もどこまで注力していいのか分かりませんよ。
「で、「豊臣体制における軍役と検地」という言葉がはからずも出てまいりましたが、それは、通常は、軍事行動としての「秀吉の四国攻め」と同一視されるべき事象ではなく、むしろ、その結果としてとらえる見方が多いのではないかと思います。」 >ですから、主題に対して信長部分と同じく付属記事だと行っているわけですが?四国攻めを契機とするた四国の近世化と変容を後史として書いたわけですよ。ですから例えば、まだ書いていませんが戦前前後の長宗我部の一領具足の地位変化なんて特筆性のある記事などもあるわけです。
Chokorinさんの意見は二転三転していて振り回されっぱなしです。投票無効論に反対していたかと思えば、それを根拠の一つとして投票中断を主張する、しかし聞いてみると投票無効論には反対だという。投票中断自体にしても、合意者達に呼びかけもしないし、中断用新合意案の条件調整もしない、一週間の合意期間の目処が立たなくても運動を続ける。輝元部分は「四国攻め」と呼ばれる独立記事の一つと主張していたのに、あたかも根拠がなかったかのように、それは「四国攻め」と呼ばれていたのか?と質問する。などなど、枚挙に暇がありません。よく整理と取り纏めをお願いしたいです。それと既に指摘済みですが、独自研究タグには運用要件があるので責任を果たして下さいね。--Yasumi 2010年3月7日 (日) 02:44 (UTC)

あなたが、ちゃんと質問に答えていないからそうなるんですね。「輝元の四国攻め」なる語は要するに、あなたの造語なのか。それは、ほかならぬあなたが一番御存知のはずですね。出典にあたって考えろという主張はナンセンスというもので、そんな主張は放置するよりほかないわけです。造語であるとしたら、まずは、あなたが何故そのような言葉を考え出して節題としたのか、あなた御自身が自分のことばで説明すべきなのであり、それがあって初めてその造語が適切であったか、適切でないとしたら今後どうするかも含めて、議論参加者によって善後策が検討されるわけです。「前史」「後史」の話もそう。関ヶ原における毛利勢の四国での軍事行動を1585年の秀吉の四国攻めの「後史」として扱った文献があるのかと何度も聞いている。あなたがあたった文献の範囲で、あったのか、なかったのか、それだけ答えればよろしい。質問と関係のないことをダラダラと述べなくて結構。すべては、あなた独自の歴史解釈、資料操作、議論の進め方、出典のつけかた、説明のしかた等々に起因しているわけです。--Chokorin 2010年3月7日 (日) 03:27 (UTC)

仮に「後史」として扱った「文献」があったとしても、それが通説たりうるのか疑問です。Yasumiさんの、個人による主張に基づいた編集である感はぬぐえませんね。--秋田城之介 2010年3月7日 (日) 06:57 (UTC)

独自研究テンプレの貼付について

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2010年3月3日 (水) 06:31にChokorinさんが「独自研究タグを貼附して読者に注意を喚起」との要約を付けてTemplate:独自研究を記事冒頭に貼り付けました[13]
Template:独自研究の使用法の説明には「記事全体の場合は記事冒頭に{{独自研究}}と記入してください。」となっており、「本テンプレートを貼付する場合、記事の内容のどの部分について出典や根拠を求めるかノートなどで具体的に提示することが望まれます。場所を特定するために[要出典]テンプレート(Template:要出典)を組み合わせてもよいでしょう。コメントを添えずに単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくありません。」とノートで具体的な提示をする事が求められておりますので、よろしく善処をお願いします。--Yasumi 2010年3月5日 (金) 12:22 (UTC)

投票終了後

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投票開始後に異議申し立てがあり、スムーズではありませんでしたが、投票締め切られ、一応の結果を得られました。投票に協力して下さった方々に感謝いたします。
また、投票理由等のコメントの各自評価により投票意義について多々問題を感じる方もあるのではないかと思いますが、少なくとも投票前の同意事項については決められたことですので、粛々と処理したいと思いますのでご確認下さい。
さて一番に、投票前の議論による合意は下記の通りであり、「当面の記事名を「四国攻め」に改名する」は合意事項として粛々と実施したいと思います。
次に、秋田城之介さんについては二票差以上の結果となり、「投票への評価」が難しいところですが、単純な結果として当面は「四国攻め」に同意(消極的容認?)して頂くということでよろしいか、の確認をお願いします。
また、投票評価やそれを受けた今後の議論については視点や方向性の取り方について様々な問題があるようなので、今後は何を問題とするかの合意を含めて次節以下に各論を譲りたいと思います。
(投票前の合意事項)
  1. 投票による多数意見を記事名に反映させる。
  2. 投票終了後も議論を継続する。ただし、議論継続を望む者が速やかに議論に値する論点を提示しない場合、または議論終了の合意が成立した場合は議論を終了する。
  3. (付随自己宣言)「「二票差以上での採択」でなら、多数意見を記事名に反映させることに合意する」秋田城之介さん2010年2月5日 (金) 14:57 (UTC)
  4. (付随自己宣言)「「四国攻め」が過半数票を得られない場合は多数案に合意して議論を打ち切る」Yasumi 2010年2月7日 (日) 11:32 (UTC)
--Yasumi 2010年2月28日 (日) 07:40 (UTC)
四国攻めへの改名を実施しました。--Yasumi 2010年2月28日 (日) 08:46 (UTC)
調査投票と言っておきながら、結果のあと一言の確認もなくページ移動するのはおかしいと思います。あと、第三者への拘束力の話はどうなったのでしょうか。--薔薇騎士団 2010年2月28日 (日) 11:19 (UTC)(改名実施に対するコメントなので節を移動しました--Yasumi 2010年2月28日 (日) 12:23 (UTC)
私の認識では、今回の改名は調査投票の結果に基づいて当面の記事名を改名(または維持)するという合意を根拠としています。この合意は2010年2月12日 (金) 20:15 (UTC)に投票要領を含めて最終確認され、積極的には議論参加者であったYasumi、Arawodasさん、高尾区さん、秋田城之介さんの4名の合意表明と、そして消極的には合意形成期間に異議を称えなかった議論非参加者に依るものです。ここまでが約束されていたことの実施をした形となっております。これとは別途に、合意については別途継続条件や合意ラインが設定されていることも合意されていることですので注意が必要です。
また拘束力についてですが、もし仮に薔薇騎士団さんが第三者から転じて当事者として「改名に異議を称えて新改名議論を提議」されるのであれば、新規にコミュニティに参画されるわけですから、この合意を尊重された上で、新たな議論を起こして合意を覆す合意を形成する必要があると思います。これが薔薇騎士団さんのアプローチである直接の議決と異なるのかもしれませんが、合意がもたらす拘束力であるかと思います。
今回の投票期間中にも、薔薇騎士団さんを含む問答に於いて、何が合意されたのか、何が約束されているか、の返答は数次に渡って行ってきていたつもりであっただけに、ご理解頂けなかったことが残念です。--Yasumi 2010年2月28日 (日) 12:23 (UTC)
ごく常識的な問題ですよ。例えば、移動前に「調査投票の結果で改名が支持されました。異論がなければページ移動したいと思いますが、いかがでしょうか」とか、そういうちょっとした配慮がYasumi氏の議事の進め方には欠如しているということです。ですから、投票後も中断だなんだともめるわけです。投票前にしても、いったんまとめの提案や議論があってしかるべきでした。貴方にとって当然のことは、他者にとってはそうではないのですから。薔薇騎士団 2010年2月28日 (日) 12:40 (UTC)--
今回終結した投票での論点とは別の視点からの議論、もしくは新たな参加者からの意見もあるでしょうから、再議論に入ることは否定しません。しかし、とりあえずの改名自体には異論はありません(yasumi氏の言われるように消極的容認です)。ただ、第三者への拘束力となると、私があれこれ言っても仕方ないですから、これに関してはYasumiさんと薔薇騎士団さん(もちろん他の方も)で話しあって下さい。--秋田城之介 2010年2月28日 (日) 12:52 (UTC)
【移動について】Yasumiさんの移動はいささか性急だったと思います。「確認してください」と書いたあと、せめて一両日は待っていただきたかったと思います。--miya 2010年2月28日 (日) 12:42 (UTC)
【拘束力について】薔薇騎士団さん、Wikipedia:投票の指針(調査投票の指針)に歴史的文書のタグが貼られる前でも、投票そのものに「拘束力」があったわけではありません。「調査投票は拘束力のある投票ではありません。」と明記されていました。ただ、投票を行いその結果を受け入れるという議論参加者の合意があれば、「合意形成の補助」として投票が効力をもっただけです。ですから第三者への拘束力は元よりなかったと言えます。ただし、そこまでの議論結果である投票を無視することは対話拒否と同じですから、通常は投票結果を尊重したということです。もちろん異論があれば、投票後であっても意見を述べることができました。投票の指針にも「投票終了後も、その問題に関して意見を述べることはできます。」と書かれていました。--miya 2010年2月28日 (日) 12:42 (UTC)
調査投票が廃止前から拘束力がなかったというのは、私もそう思っています。投票結果については、以前述べましたが私としては特にどれがいいという意見を持ち合わせていませんので、改名に反対したり差し戻したりするつもりはありませんが、何もそんなに慌ててページ移動しなくてもいいのに、というのが率直な感想です。--薔薇騎士団 2010年2月28日 (日) 23:57 (UTC)
「そんなに慌てて」については同感ですが、利用者の行動についてのコメントは記事のノートではなく、会話ページもしくはコメント依頼でしていただいた方が記事に関する議論が紛糾しなくて済むと思います。--miya 2010年3月1日 (月) 01:22 (UTC)

「衆議に従いたい」とArawodasさんがおっしゃっているにもかかわらず、「衆議」ぬきでページ移動されているのはいかがなものかと思います。個人的には、わたし自身は投票の中断を提起したのち無効を表明しましたが、そののち投票された方は有効を前提にして投票されたわけですから、多数にしたがいたいと思います。いったん「四国攻め」に移動することについては異義ありません。Yasumiさんの性急さについては、皆様と同感です。--Chokorin 2010年3月1日 (月) 21:24 (UTC)

差し戻すつもりはありませんが、移動が性急であったと言われれば「ごめんなさい」としか言えません。一応、合意で約束されていた当面の記事名に関する処理ですので、移動の根拠は前回申し上げた通りです。今後部分についても引き続き確認をお願いします。--Yasumi 2010年3月2日 (火) 12:22 (UTC)

仕切り直しと過去ログ化の方法について

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投票期間終了後について提案します。

  • 仕切り直し方法:内容についての議論(#関ヶ原部分の転記または分割提案)も含めて、いったん全て過去ログ化し、まっさらのノートで見出しも新たに仕切り直す。
  • ノートの過去ログ化:参照したりリンクしたりの便を考え、「ノート:四国○○/Log1」のように、移動機能を使った過去ログ化をする。

のが良いのではないでしょうか。--miya 2010年2月27日 (土) 18:27 (UTC)

両方とも賛成します。当然ながら、分割議論を白紙に戻すのではなく、これまでのやり取りを踏まえた上で意見を整理し直すということだと理解します。--Arawodas 2010年2月28日 (日) 02:14 (UTC)
はい。白紙に戻すのではなく、これまで議論を追っていなかった人でもすぐに理解できるような議論展開(意見の書き方)を期待しています。--miya 2010年2月28日 (日) 04:52 (UTC)
両案に賛成します。議論が整理されることで、混乱も少なくなると思います。--影綱 2010年3月1日 (月) 06:18 (UTC)
賛成します。--Chokorin 2010年3月1日 (月) 21:24 (UTC)
私も賛成です。このページは非常に長くなっていますからね。--秋田城之介 2010年3月6日 (土) 15:54 (UTC)

両案共に賛成します。--Yasumi 2010年3月2日 (火) 12:22 (UTC)

仕切り直しの為のまとめ(案)

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過去ログ後の冒頭まとめの叩き台を作ってみました。今まで出た議論と宿題を抽出したつもりですが、必要に応じて添削して下さい。

==過去ログ化以前の議論まとめについて(案)==
過去ログ化以前に下記の論点があり、付属して各意見が表明されました。今後の議論に先立って参考とし、解決すべき問題とするか否か、その要度・優先度について整理した上で議論を開始して下さい。
1.四国攻め(秀吉部)と天正の陣の統合問題。
10.(提議)天正の陣四国攻め(秀吉)の伊予戦線の記事であり、四国攻めへ統合すべきではないか?
現状、提案と賛成意見のみで進展なし。なお、提案当時は天正の陣の方が充実していたという状況があった。現在有効なWikipedia:統合提案がなく、議論が止まっている。
(参考:単著では『天正の陣と松木氏』越智孝三郎編1986年がある。また論文「伊予における天正の陣についての考察」桑名洋一2003年では「四国出兵(伊予では天正の陣とされる)」と限定的呼称で紹介)
2.旧称四国征伐(秀吉部)から四国攻め(秀吉部)への改名問題。
(提議)四国征伐の呼称は出典で殆ど使われて居らず、改名すべきではないか?
議論と調査が実施されたが、状況として決定的な名称はなかった。議論膠着により投票が実施された。改名賛成9票、改名反対7票、(参考:賛成に投票後棄権2票)となり、当面の記事名を四国攻めへ改名した。消極的合意により一応の終結を見たが、新観点による議論継続も合意事項の一つとなっている。また、これまでの議論では下記の意見が出た。
20.出典調査
Wikipedia:記事名の付け方より「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する」の解釈と調査結果の評価を巡って意見が割れた。
20a.「四国攻め」は記事に利用可能な二次資料(文献・論文)を中心に比較的多数となっており、時代と共に増加傾向にある事を考慮すべき(Aradoasさん、yasumi調査等)。
20b.「四国征伐」は露出度の高い三次資料(辞書・辞典類)を中心に比較的多数であることを考慮すべき(秋田城之介さん調査等)。
21.記事名の中立性について
21a.決定的要因がない場合には中立性は考慮すべき。また客観的には20aで「征伐」が縮小傾向な原因は学術用語で中立性が問題とされているためであり、歴史教科書検定でも征伐的呼称が避けられている事実を考慮すべき。
21b.Wikipedia:中立的な観点とは異なる問題であり、独自研究による中立性は考慮すべきではない。
21c.独自研究による水掛け論になるため、論点とすべきでない。
22.四国征伐の「征伐性」、四国攻めの「攻め性」
22a.「攻め」では対象が広範過ぎて絞れず良くない、「征伐」だと対象が限定されるので記事名に良い。(独自研究?)
22b.「征伐」だと対象が限定されて記事に沿わず良くない。「攻め」は広範なため記事名を表していて良い。(独自研究?)
22c.独自研究による水掛け論になるため、論点とすべきでない。
3.関ヶ原部分の転記または分割問題
関ヶ原部分(輝元部分)の関ヶ原の戦いへの転記が提案されたが、ノート:関ヶ原の戦いでは記事肥大のために関ヶ原本戦以外の周辺戦は分割方針をとっている現状が報告された。
現在有効なWikipedia:分割提案Wikipedia:統合提案がなく、議論が開始されようとしているが前提や方針の確認が必要。
30a.関ヶ原の戦いへの転記すべき。(転記先との調整が必要)
30b.分割記事として独立させるべき。記事名候補は未議論。
30c.現状維持として関ヶ原の戦い側からのリンクを整備すべき。
4.記事の主題は何か?
他の議論中に前提議論として提議され、下記の意見が出た。
40a.「四国攻め」と呼ばれる秀吉部分を主題とし、その前後の関係史が付属している記事である。
40b.「四国攻め」と呼ばれる記事を集めた記事群である。(対象について未議論)
40c.40bの場合、別義の独立記事であればWikipedia:曖昧さ回避により分割独立が必要となるのではないか?
5.関ヶ原部分について
四国攻め(秀吉)との関係性が低いために記事から排除すべきかについて提議がありました。
50b.特筆性がないので四国攻めの記事から排除すべき。
50a.特筆性があるので関連記事はあっても良い。
50c.節題の「輝元の四国攻め」呼称は正しいのか?
--Yasumi 2010年3月7日 (日) 02:29 (UTC)

投票結果の扱いについて

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コメント 報告投票期間が終了しました。投票に際し無効論・中止・中断提案が出るなどの混乱があったことについて、投票を推進した立場の一人として、事前の準備が万全でなかったことをお詫びします。そして、本投票が混乱の中にあったにもかかわらず、あえて火中の栗を拾って下さった投票者の皆様には感謝致します。投票結果をどのように扱うかについては私としては決めかねておりますが、衆議に従いたいと考えています。そして、残念な報告をしなければなりません。一部議論参加者の行動に疑念あるため、Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他を提出したことをお知らせ致します。--Arawodas 2010年2月28日 (日) 02:14 (UTC)

既に記事名はYasumi さんによって、「四国攻め」に移動処置されております。投票結果(2票差以上)は記事名に反映されることが事前合議されていますからね。とはいえ、この処置は随分と早かったですね、何か感想も言う余地が無いほどに。
当初より議論参加・そして投票の皆様は本当にお疲れさまでした。私はWikipedia:ウィキプロジェクト 日本史Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 日本の戦国時代への告知を見て投票&コメントで途中参加しましたが、投票の取扱いの不透明さから(何よりも、「Wikipedia:投票」が歴史文書化されていたとは知らずその困惑もあって)、棄権しました。混乱の大きな一因にJAWPにおいて、ガイドラインたる、「Wikipedia:投票」・「Wikipedia:投票の指針」が歴史文書化されているのにそれらへのコミュニティの対応が定まらず放置されていたことが挙げられると思います(今後、早期に改善される事を望みます)。--故城一片之月 2010年2月28日 (日) 16:38 (UTC)
長い間受け入れられていたWikipedia:投票の指針が受け皿となりうるガイドラインの整備を待たず歴史文書化されたことが混乱の元でしたね。この指針を歴史文書から復活させるか、もしくは英語版のen:Wikipedia:Polling is not a substitute for discussionを導入するか、井戸端で議論したほうがよいでしょう。たとえばWikipedia:井戸端/subj/投票の指針の再検討というようなサブページ名で。どのように提案すればよいか、ちょっと考えあぐねています。--miya 2010年3月1日 (月) 01:22 (UTC)
わたしもMiyaさんと同意見です。投票の指針が廃止になったのにローカルルールでは投票が続行されるなら、やはり何らかの指針がなければ今後もトラブルが多発すると思います。それとも、今後はローカルルールにおいても極力投票を行わない方向にもっていくというのなら、en:Wikipedia:Polling is not a substitute for discussionを導入するのを検討すべきでしょう。現状は混乱を助長しているだけだと思います。--薔薇騎士団 2010年3月1日 (月) 08:32 (UTC)
本来であれば、盛りこむべき記事内容がきちんと定まってから名称を決定すべきであったと思います。1585年の羽柴・長宗我部戦争についての名称を決めるのであれば、暫定的に記事名を「羽柴・長宗我部戦争」としたうえで、「四国攻め」がよいのか、「四国征伐」がよいのか、それとも「四国平定」がよいのかというふうな段取りをとられたら、「四国攻め」でも「四国征伐」でもなく、「四国平定」が選択された可能性がきわめて高かったのではないかと思います。『クロニック戦国全史』(講談社)、『豊臣秀吉合戦総覧』(新人物往来社)など一般むけの書や山川出版社はじめ多くの教科書・参考書の類では「四国平定」の表現が採用されており、みなさんのコメントを読んでも「四国攻め」だけは不支持、「四国征伐」だけは不支持、という論調がありました。そもそも、現状の冒頭文「四国攻め(しこくぜめ)は安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦いの総称である」は厳密にいえば、間違いを含んでいるのではないかと思います。毛利部分の加筆は、何としてでも「四国攻め」に改名したいYasumiさんによるものであり、みずから改名問題と分割問題を連動させておきながら、連動していないと強弁なさるなど、Yasumiさんのやっておられることとその主張とのあいだには乖離がみられます。「客観的」に言えるのは、そのことだけです。「毛利輝元の四国攻め」(この言葉自体、冒頭の定義と矛盾します)が、羽柴・長宗我部戦争の「後史」だとの捉え方は独自研究であり、読者にこのような誤った情報を垂れ流し続けることには大きな問題を感じます。順番が逆になってしまいましたが、次は盛りこむべき記事内容について論じるべきでしょう。--Chokorin 2010年3月1日 (月) 21:24 (UTC)
薔薇騎士団さんの疑問は、このようなローカルなところではなく、方針解釈や運営的なルールを話し合うところへ場を移すべきではないでしょうか?なぜか複数で為された合意に対して私だけを対象に何度も疑問を投げかけていましたが、具体的事例として私を含む合意形成を根拠にやっているとして回答できません。それに、議論に付かず離れずでルール解釈を元に干渉されるて議論が乱れたり発言が利用されるなどコミュニティを消耗させることとなります。既に管理者等より多数助言をいただいています。個別事例としての議論に参加しないのであれば、もう少しパブリックな方向へ進むべきかと思います。
Chokorinさんの仰る独自研究ですが、輝元部分が四国攻めであると言うことも独自研究ですよね?輝元部分は独立記事であり四国攻めと呼ばれているとの論理をChokorinさんは展開されているあろうことから、Chokorinさんの出典調査に期待します。また、四国攻めを契機に中世の終わりと近世のスタートがもたらされたことは少し出典を囓れば(特に四国地方史関係)いくらでも出てくると思いますし、その近世化は具体的に軍役と検地で推進された事も同じあり、ここに輝元部分の関連性があるわけです。私は輝元部分は議論の行方次第で分離しても良いし、今のままの四国攻めの付属記事であっても良いと思っています。なお上で述べましたが、公式な方針から主題が違う場合には分離と曖昧さ回避が必要になってきます。--Yasumi 2010年3月2日 (火) 12:22 (UTC)
記事の履歴を見ますと、Chokorin氏の指摘は的を得ていると言わざるを得ません。毛利輝元の四国攻め(本当にこういう表現が正しいか分かりませんが)は、年代的にも豊臣秀吉の四国攻めと離れていますし、「後史」として位置づけるにも関連性が薄いです。本記事が四国で行われた歴代戦争一覧の記事なら別ですが、見出しを見ると秀吉の四国攻めが主記事のようですから、関ヶ原を挿入するのは無理があります。それなら、関ヶ原の戦いにもっていったほうがいいと思います。何となく「改名議論」を自分に有利に運びたいために無理矢理ねじ込んだ感がしてなりません。--薔薇騎士団 2010年3月5日 (金) 00:44 (UTC)
これを読む限りは、「毛利輝元の四国攻め」なる語を使ったのは、ほかならぬ貴方のようだが。これも、要するに独自研究だったということですか? --Chokorin 2010年3月2日 (火) 13:30 (UTC)
仕切り直しと過去ログ化の方法について」の節において、仕切り直しと過去ログ化が合意されたのなら、その作業に取りかかりませんか。靴下疑惑の解明もいいですが、姿勢としては後ろ向きの話です。最も優先されるべきは、読者に正しく有用な情報を提供することのはずです。まずは、この記事をどうするのかについて話し合われなければなりません。「Wikipedia:独自研究は載せない」、および「Wikipedia:出典を明記する」は、ウィキペディアの公式方針のはずであり、本記事は、公式方針からみて問題にされるべき点が多々あるように感じます。現状では、そのことについて議論を深める場が設定されておらず、散漫な議論になってしまっています。このまま、各人が思い思いに好き勝手な場所に自説を書き込んでも議論は前進しないのではないでしょうか。--Chokorin 2010年3月4日 (木) 13:57 (UTC)
靴下云々についてはこのノートでこれ以上提議することはありませんので、考慮不要です。過去ログ化は、ノートをまっさらにするだけならすぐにでもできますが……。--Arawodas 2010年3月5日 (金) 09:50 (UTC)
ここまで、#仕切り直しと過去ログ化の方法についてで提案した方法に反対がなかったので、ノート:四国攻め/Log1への移動によって今から過去ログ化します。これであれば、今後の編集方針に関する議論をノートで行いながら、投票に関する議論はLog1で続けるということもできるでしょう。--miya 2010年3月7日 (日) 13:54 (UTC)

CU提案

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詳細はWikipedia:コメント依頼/Machine gun他で説明していますが、今回の投票で多重アカウントによる不正投票が行われた可能性があります。ことの真偽を確かめるため、投票者全員を対象としたチェックユーザー(CU)実施を提案します。Wikipedia:チェックユーザーの方針#日本語版でのチェックユーザー情報公開規定の3によれば、投票参加者3人以上の賛成があればCUを依頼できます。なお、この規定3を用いる場合、一度投票して棄権した2氏をCU対象・有資格投票参加者に含めていいのか、当該方針とノートのログからでは判別しかねます。何か判断材料があればお示し頂けないでしょうか。

何も判断材料がない場合は、

  1. 棄権した2氏を除く投票者3名以上の賛成でCU依頼を行う。
  2. 棄権した2氏については、それぞれ本人による自身をCU対象とすることへの承認があり、かつ他者による反対がない場合のみCU対象に加える。

ということで行きたいと思いますが、いかがでしょうか。--Arawodas 2010年3月1日 (月) 04:37 (UTC)

  • 賛成 提案者として、当然賛成します。--Arawodas 2010年3月1日 (月) 04:37 (UTC)
  • 反対 Wikipedia:チェックユーザーの方針#プライバシーに関する方針とチェックユーザー権限の関係の引用から、「もし、ある人が(たとえばボットによる荒らしやスパム等の)方針違反をしていて、かつ、その人の情報を開示することが混乱をとめるために必要だというのでない限り、IPアドレスや接続場所やそのほかにその人を特定するのに足りる情報を公開する事は、プライバシー・ポリシー違反となります」とあり、また「チェックユーザー権限による情報の公開は、少しでも妥当性に疑問のある場合には、するべきではありません。」とありますが、その妥当性、必要性はクリアしているのでしょうか?また、棄権したお2人を除いても(名義上)16人を対象とした、それなりの規模のCUとなりますが、この情報は誰によってチェックされ、誰が管理するのでしょうか?この点、明確にしていただきたいと思います。これと言って方針違反をした記憶はありませんが、無条件にコミニュティや管理者を信用している訳ではありませんので、公正な作業が出来る方でない限り、反対としか言いようがありません。--影綱 2010年3月1日 (月) 06:15 (UTC)
  • 「妥当性、必要性」について。コメント依頼の依頼文を読んだ上でCU依頼を行うまでもなく白だ、または黒だ、というご判断なら、その旨コメント下さい。私は極めて黒に近い灰色であると考えています。あるいは、被依頼者4アカウント以外をCU対象に含めるのが問題だというのであれば、CU対象を絞り込めばよいのでしょうか。
情報の管理というか、実際のCU依頼の文面をご覧頂ければ分かると思いますが、IPなどを直接誰かに公開するといった措置はほとんど行われませんし、依頼する気もありません。回答を求めるのは各アカウントの同一性に関する情報のみで、それはこのWikipedia上で回答されます。IPなどに直接接するのはCU係だけです。--Arawodas 2010年3月1日 (月) 10:47 (UTC)
  • 反対 まず棄権というのは、読んで字の如く「権利の放棄」の意味ですから、一度棄権した人を「有資格投票者」と見なすというのは、あり得ないと思います。もし現実世界でそのような事例があるというのなら、示してみて下さい。あと、私は投票参加者ではありませんから第三者ですが、チェックユーザーは例えば「多重アカウントによる不正行為の疑いがある」場合に行うものであって、不正行為があるかないか依頼者(Arawodas氏)自身が分かっていないのなら、そもそも依頼の要件を満たしていないわけですから、CUを行うのは無理があります。もし投票参加者全員に不正の疑いがあるというのなら、(貴方自身も含めて)根拠を示して下さい。
あと、失礼ですがArawodas氏の投稿記録を拝見したところ、この種のコメント依頼が多いようです。私はコメント依頼したことがないので非常に不信感を覚えます。例えば、私自身当事者であるWikipedia:井戸端/subj/投票の拘束力に関して言うと、貴方は2010年2月14日 (日) 12:26 (UTC)付けで当該項目を井戸端に立項していますが、それ以前に貴方は私と一度もノートで議論していません。一度も話し合いを持たずにこうした依頼を出すのは、Wikipedia:コメント依頼にある「議論が論争の様相を呈している場合には、Wikipedia:論争の解決のステップ1「論争の相手と話し合う」ことに力を注いでください。多くの論争は、このコメント依頼を使うまでもなく、当事者間で解決できます。」に反しています。つまり当事者間で一度も話し合いがないのに、相手を封じ込めようとしているわけです。こうしたルールの悪用は、明らかにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないWP:悪用に該当する可能性が高いと言えます。--薔薇騎士団 2010年3月1日 (月) 09:00 (UTC)
  • 例示しておられるので井戸端について申し上げると、当時既にYasumiさん、Chokorinさんがあなたと激しく応酬していました。そこにさらに私が加わってどうすると言うのですか。泥試合になりそうだったので先手を打ったまでです。不手際で井戸端に表示されるのが遅れたせいで時期を逸する格好になりましたが。--Arawodas 2010年3月1日 (月) 10:47 (UTC)
  • 泥仕合と言いますが、私がこのノートにはじめて投稿してから、貴方が井戸端に立項するまで数時間しか経過していません。「先手」?を打ったということですが、そういう表現が出てくるところを見ても、結局貴方はコメント依頼の制度を自分の都合のいいように議論の流れをコントロールするために悪用していると言わざるを得ません。--薔薇騎士団 2010年3月2日 (火) 00:16 (UTC)
  • 反対 :依頼者が既に提出しているWikipedia:コメント依頼/Machine gun他の成り行きも見届けないうちに、今度は投票参加者全員へのCU依頼とは、一体どういうことでしょう?その意図する所が不明です。なぜ、全員を対象とするのかきちんと説明がされなければなりません。依頼者が引用しているWikipedia:チェックユーザーの方針の中にはその手順があり、対象者の行為に対する審議を「Checkして貰いたい個々の対象利用者が行った行為の履歴を差分で示して」行うなどそれなりの準備が必要ですがこれを16人ないし18人を対象に行うとすれば、相当の負担と時間の消費をまたここで強いることになります。それ程までの緊急性も必要性も私は感じません。 Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他の取扱いだけでも充分です。
あと、影綱氏のコメントで気になったのですが、方針文書によれば、CU依頼が即、IPアドレス等の個人情報の公開につながる訳では無く(原則公開されない)、またCU実施やその結果についての管理はjawpにおいては原則、CU係の管理者となっているはずです。当CU依頼提案に賛否を表明する以前に参加者の人は(私も勿論ですが)Wikipedia:チェックユーザーの方針を熟読した方が良いと思いました。--故城一片之月 2010年3月1日 (月) 10:36 (UTC)
コメントArawodasさん、故城一片之月さんお二人へ。
お二人の言葉から、どうも僕が「CUとは利用者のIPを公開することであると思っている」かのように受取れますが、無論そんな事実はありません。また、一々申し上げるまでもないと思っていましたが、今回の提案があった際に Wikipedia:チェックユーザーの方針に目は通しています。
まず、極論から言えば、僕の認識として、「CUとはIP及び諸情報を何処の誰とも知れない(CU権限を持つ)管理者に委ね、管理者が白黒を判断する」行為だと考えています。IP公開などよりむしろ、こちらの方が危惧すべき事象です。(もっとも、IPを公開されても困る事に違いはありませんが。)だからこそ、「誰(どのCU権限者)によってチェックされ、誰が管理(情報操作)する」のかを問うた訳です。恐らくお二方に限らず、「管理者は常に正しい」「管理者は私情を持たない」とお考えの方が多いのだろうと思いますが、そうでないことは過去の様々なコメント依頼、ブロック依頼等で知ることが出来るでしょう。
「妥当性、必要性」について。コメント依頼の依頼文を読んだ上でCU依頼を行うまでもなく白だ、または黒だ、というご判断なら、その旨コメント下さい」」との件。依頼文を読んだ上で、「この依頼が、何故僕を含めた他のユーザーのCUという話に繋がるのか?」とコメントします。コメント依頼被依頼者の白黒は、僕には判断材料がありません。したがって、依頼にコメントもしません。(追記)一方、僕の白黒に関しては、当然「白」だと断言できます。多重投票をしてまで「改名」を行わなければならない理由がありません。投票中の僕の言動を一つ一つチェックしていただけば理解できると思います。。
あるいは、被依頼者4アカウント以外をCU対象に含めるのが問題だというのであれば、CU対象を絞り込めばよいのでしょうか。」との件、「絞り込む」の意図がよくわかりませんが、上記のとおり、コメント依頼の被依頼者4名以外のユーザーを何故CUしなければならないのか、その理由が明確でない、という事です。
ついでに言えば(本当に”ついで”ですが)今回の投票者(コメント依頼被依頼者を含む、名義上)16乃至18人を一括にCUするのであれば、投票こそなかったものの期間中に活動が顕著であった薔薇騎士団さんが除外されている事にも疑問を感じます。あくまで「一括」が必要とされるならば、当然含まれるべきでは無いでしょうか?--影綱 2010年3月1日 (月) 23:19 (UTC)
管理者が私をCUすると決断するなら反対はしませんが、どうして私がCUされなければいけないのでしょうか? 具体的に投票参加者の誰かと私が同一人物だと疑っているのなら、証拠を示してもらえますか。それとも、単に「薔薇騎士団氏は我々に反対した」という理由だけでCU依頼に出すというなら、それはある種の脅迫だと思います。そういう前例を作るのは、Wikipediaの歴史にとって汚点になりますね。--薔薇騎士団 2010年3月2日 (火) 00:16 (UTC)
あくまで「一括でCUをするのならば」という前提です。薔薇騎士団 さんに対して疑惑があるとは一言として言っていませんし、逆に「影綱が投票を撤回しなかった」という一事を以って「黒」だという方がいるなら、是非とも証拠を示していただきたいものです。--影綱 2010年3月2日 (火) 00:45 (UTC)(表現の追加--影綱 2010年3月2日 (火) 01:15 (UTC)
そういう意味でしたら了解しました。あとCUによるプライバシー情報の流出懸念ですが、私は慎重になるべきだと思います。例えば、歴史記事などは、特定の分野についての専門家は全国で数人しかいないという場合もあります。例えば、IPアドレスが、bakada.ac.jpからで、バカ田大学には四国攻めの研究者○○教授がいる、というような場合、容易に人物が特定されますね。そういう情報をCU担当の管理者が外部に漏らさないという保証はありません。--薔薇騎士団 2010年3月2日 (火) 00:56 (UTC)
ご了承を頂けて安心しました。”ついで”のこととは言え、誤解を招く発言であった事は率直にお詫び申し上げます。また、CU権限者の情報管理についての懸念は、同感です。仮に漏洩がなかったとしても、一時的とは言え権限者に情報が握られる訳ですから、慎重に扱うべきだと考えます。--影綱 2010年3月2日 (火) 01:15 (UTC)
反対 私も、影綱さん・薔薇騎士団さんの言われるように反対です。プライバシー情報に対しては慎重になるべきですし、コメント依頼の件と二重のCUになりかねません。--神坂12号 2010年3月3日 (水) 07:38 (UTC)
  • 賛成 コメント依頼にも述べましたが、基本的にルールに則ったCU依頼に賛成します。それと、エクセルを使った4氏の投稿比較をしたのですが、画像なりで明示する方法があればご助言をお願いします。--Yasumi 2010年3月2日 (火) 12:22 (UTC)
4氏の投稿につき、荒い画像ですがH21年09月10月分[14]、11月分[15]、12月分[16]、H22年01月02月分[17]に挙げてみました。(いつまで閲覧可能か分かりませんが・・・)一つ一つの一致あれば偶然とも思えるでしょうが、これだけ行動様式が一致しつつ、これだけ投稿が交差しないリレーとなっていては疑わざるを得ません。
そして、なぜか議題がずれていると思いませんか?コメント依頼は第三者からの検証を加え、こちらでは当事者としての議論をする場かと思いますが、なぜか「自分はCUを受けたくないからCUに反対」との好き嫌いを先行して表明する方向になっているような気がします。まずは、直接の対象者に対し「疑うに値するか否か」では無いでしょうか?その後に是であれば範囲を議論すべきと思います。--Yasumi 2010年3月3日 (水) 12:44 (UTC)
好き嫌いで発言したつもりはありませんが、それでは、まず「隗より始めよ」でCU対象者であるYasumi氏自身の疑いの根拠を自白してくれますか。--薔薇騎士団 2010年3月3日 (水) 16:11 (UTC)
議題がずれているとすれば、他ならぬYasumiさんとArawodasさんの言動によるものでしょう。既にコメント済みですが、もう一度言います。「コメント依頼被依頼者を除く12乃至14名義ユーザー(Yasumiさん、Arawodasさん含め)を”不正ユーザー”と確定した明確な根拠を示してください。」好き嫌いという低俗な話ではありません。今後の各ユーザーの活動に影響を及ぼす話です。薔薇騎士団さんも仰っている事ですが、まずはYasumiさんとArawodasさんのお二人が”自ら不正を行った根拠”を示すべきでしょう。なお、当然ご存知の事とは思いますが、「CUで同一性が見つからなかったとしても、潔白は証明され」る訳ではないそうです。--影綱 2010年3月3日 (水) 22:55 (UTC)(追記及び修正--影綱 2010年3月3日 (水) 23:10 (UTC)

(提案取り下げ)私としては被依頼者4アカウント以外の方に疑念を持っていたわけではありません。が、不正行為と無縁であることの傍証を提供できると思い、全員CUを提案しましたが、このように強い反対がある以上、あえて全員を対象にすることを強硬に主張する理由がありません。また仮に今後3名以上の賛成が得られたとしても、複数の反対意見がある状況でCU係が依頼を受諾するかどうかは疑問です。賛成して下さった方には申し訳ないことですが、今回の提案は撤回します。皆様にはご迷惑をおかけしたことをお詫び致します。--Arawodas 2010年3月4日 (木) 01:29 (UTC)

了解しました。--影綱 2010年3月4日 (木) 04:05 (UTC)

コメント 【投票に関するWikipedia: チェックユーザーの方針について】時期を逸しましたが、CU方針の理解について懸念がありますので遅まきながらコメントします:「投票に不正行為が無かったか」をCU機能によってチェックすることを求めるCU依頼そのものについては、現在のCU方針ではたとえ反対意見があっても3人以上の賛成が集まれば「依頼」は可能です。

いかなる投票であれ、投票進行役(投票を管理するユーザー)が必要と考えたとき。
  • 調査は投票進行役が申請する
  • 投票進行役がいない投票では、有資格投票参加者3人以上がチェックユーザーの使用による調査の実施を求めた場合、任意の投票参加者が申請する。

依頼に応じるかどうかはCU係の判断を待たねばなりませんし、プライバシー・ポリシーとの兼ね合いから結果報告は非常に曖昧なコメントになるかもしれません(原則としてIPアドレスが公開されることはないでしょう)が、反対意見があるという理由でCU係が投票に対するCU実施を拒否するとは考えにくいです(時間的余裕が無いので実施できないとして断られることはありうる)。また依頼理由は「多重投票の懸念を払拭するため」でも十分であり、「”不正ユーザー”と確定した明確な根拠」などの提出を求めるのは行き過ぎであったと思います。むしろ、投票者の一部のみにCU実施を求めるより、投票参加者全員、一律でCUを受けるほうがよほどフェアであると言えます。--miya 2010年3月7日 (日) 13:46 (UTC)