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ノート:囲碁/過去ログ1

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三三

序盤の布石のところの「現在の碁ではあまり打たれない」を全て外しました。もともとは三三に私が書いたものなのですが、地合いを重視した江戸時代には打たれたけれども星全盛の現在の碁ではあまり打たれないという意味で書きました。ただその後、三三の分を消して高目その他にその記述を移されましたが、確かに打たれるのは少ないのですが、じゃあ過去によく打たれていたかというとそうとも思えないので、紛らわしいだけかなと思い全部消しました。tanuki_Z(sysopは偉くない) 2005年6月3日 (金) 06:06 (UTC)

the Kesei 囲碁 tournaments

こんにちは。 私は私の日本の執筆の質のために残念である。 これは英語からコンピュータによって(次に)翻訳される。英国のwikipediaのユーザーはKeseiの囲碁のトーナメントについての記事を削除することを考慮している。誰かは新聞のそれらに証明するために少数のリンクを提供するでしよう重要であることをか。 ありがとう

Hello. I'm sorry for the quality of my Japanese writing. This is translated from English (below) by computer. Users at the English wikipedia are considering deleting articles about the Kesei 囲碁 tournaments. Could someone please provide a few links to them in newspapers to prove they are important? Thanks

--Selket 2007年3月12日 (月) 06:21 (UTC)

着手数

手数が1000手を超えると引き分け、というルールの出典はどこでしょうか 以上の署名の無いコメントは、219.103.182.152会話/whois)氏が[2007年5月8日 (火) 18:00]に投稿したものです。

少なくとも日本棋院囲碁規約にはそうしたルールはありません。そもそも361目しかない19路盤で、手数が1000手を越えるということはまず考えられません(プロの最長手数記録は411手)。何かのコンピュータゲームがそういう仕様になっていた程度のことではないのでしょうか。削除して問題ないと考えます。Yozakura 2007年5月10日 (木) 14:48 (UTC)

私も同意見です。削除しておきました。 --Tails 2007年5月11日 (金) 03:52 (UTC)

二人零和有限確定完全情報ゲーム

ほぼすべてのボードゲームに貼られている「二人零和有限確定完全情報ゲーム」との説明ですが、正確でしょうか。--以上の署名のないコメントは、222.119.112.153会話/Whois)さんが 2007-07-24 03:40:27 (UTC) に投稿したものです。

222.119.112.153さんの二人零和有限確定完全情報ゲームの理解にいくつか誤りがあると思います。まず、ゼロ和(零和)と完全情報は独立の事象ですので「ゼロ和が最終結果にしかかからないのであれば、完全情報も最終結果の利得表に関するもののみになるはずです」とは言えません。また、ゼロ和はその定義から「最終結果のみを対象とするもの」ですし、モノポリーは1人の勝者に対して2人以上の敗者が存在するゲームですのでゼロ和ではありません。さらに完全情報であることに必要なのは「自分がどのような手を指したのかが完全に相手に伝わること」であり、最終結果が判明しているかどうかは必要条件ではありません。二人零和有限確定完全情報ゲームであれば、すべての有効着手の組み合わせに対して勝敗または引き分けが「理論上」確定できるということが重要なのであり、現在すべての有効着手の組み合わせに対する勝敗が確定していないからといってそのゲームが二人零和有限確定完全情報ゲームではないということにはなりません。--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月25日 (水) 11:31 (UTC)
えーと、すいません、春野秋葉さん。「1人の勝者に対して2人以上の敗者が存在するゲームですのでゼロ和ではありません」は間違いです。ゼロ和はそのゲームの参加者の得失が全部合わせて0になるというゲームのことです。ですから麻雀は1人の勝者に対して3人の敗者という状態がありえますが、ゼロ和ゲームです。モノポリーはその取り合う対象であるお金が無限になってしまっているのでゼロ和ではありません。もし仮にモノポリーのバリアントルールとして「銀行が発行する現金が一定額を越えた時点で保有している現金の額が多いプレイヤーの勝ち」というルールを設定すればモノポリーはゼロ和になります。
222.119.112.153さんがゼロ和について勘違いをされているのは同意です。ただ私自身もかなり頓珍漢な勘違いをしていたので昨日書いた文章は一旦、取り消します。失礼しました。
改めまして。囲碁がゼロサムゲームであることは別段、証明を必要としないと思います。
「なかでも囲碁や将棋などのように2人で行い、ルールが明確に規定されており、一方が勝てば他方は負けるゲームは2人ゼロ和ゲームと呼ばれ、ゲーム理論の出発点に位置する最も基本的なゲームの例である。」(『はじめてのゲーム理論』PP3、中山幹夫ISBN 4641085919
囲碁は地という有限の物を取り合うゲームであり、「双方の地+着手数+駄目-アゲハマ」の数は必ず361になります。非ゼロ和に「非ゼロ和的状況は、獲得しようとする対象が、固定的でない、もしくは限定的でない場合に起きる。」とあるように有限確定の物を取り合う場合に非ゼロ和はありえません。
「相手が特定の着手を打った場合、ある最善の着手を打たなかったとすると、損であったとしてもその着手を打たなければ更に酷い損になってしまい、どうしようもないという状態」に付いて。
局面を例示すると、例えばそれぞれ盤面に20目・15目・10目・5目の後手ヨセがそれぞれ残っている状態とします。先手側が20目を打った後、後手側は15目を選ばざるを得ません。相手との差し引きで5目の損ですが、それ以外の着手を打つことは出来ません。
例のように小ヨセの段階はゼロサムであることは容易にわかります。大ヨセも私のような素人では無理ですが、プロ棋士が時間をかけて読めばゼロサムであることは間違いありません。それ以前の段階となるとプロ棋士も読みきれませんが、分岐が多いので読みきれないだけです。これが私の言った囲碁理論の未熟ということです。もしこの途中の段階がゼロサムでないとするとどうして最終段階がゼロサムになってしまうのでしょうか?
囲碁規約に関して。「対局の停止中の誤解」とおっしゃっているように単に棋士による読み違いの問題です。完全情報があったとしても人間の能力の限界があるので正しい着手を全て選べる訳ではありません。だからこそまだゲームとして成立しているのです。持ち時間に追われるとプロ棋士でも間違えます。時間をかけて完全に読めばそのようなことはありません。
完全情報とはその時点でゲームに関する情報が完全に公開されているかどうかであり、その後の行動を適切に選べるかどうかとは関係しません。例えば、麻雀で手牌も山牌も全て表にしてある状態を想定してください。この状態ならば対局者がどの牌を切るべきか、最終的に誰が上がるかは容易に確定できます。それが完全情報ということです。繰り返しますが、囲碁に於いて完全情報であっても最善の着手が選べないという「現在の状態」はあくまで人間の能力の限界によるものです。
以上、長文失礼しました。らりた 2007年7月25日 (水) 12:29 (UTC)
ゲームの理論についての話ですね。まず、私がゼロサム問題を誤解しているとのご指摘ですが、無論それを否定することはできませんし、Wikipediaは個々の人の持っている間違っている部分もある知識を多数の人が正すことで専門家に引けを取らない知的創造物を作るプロジェクトであると承知しておりますので、未熟な点についてはぜひお教えいただければと思っております。ただ、春野秋葉様らりた様のご説明には少し納得がいかない点がございます。仔細な点もございますが、用語の意味が違っていては議論がが成り立ちませんので、お付き合いいただければ幸いです。
  1. 3人以上のゲームではゼロサムとならないというご意見に対してはらりた様がご説明になっている通りで、n人のゼロサムゲームはいくらでも作ることができます。ゼロサムゲームの定義が「利得表の合計が0あるいは利得表を適切な変換で合計を0とするものに変えてもゲームの構造が変化しないゲーム」ということをご確認いただければと思います。
  2. ゼロ和は「その定義から「最終結果のみを対象とするもの」」とするのは誤りです。有限なゲームで最終的な利得表がゼロサムであれば、途中の各局面の利得表も必ずゼロサムとなっているはずです。ここでもらりた様の説明をそのまま使わせていただくことがわかりがいいと思うのですが、囲碁が地を取り合うゲームであれば、必ずゲームの任意の時点で361の点は白の分、黒の分、未確定の分、どちらでもない分に分類することができ、この局面での各対局者の目的も相手より地を多くとることである以上一方の得(新たに得た地)は必ず他方にとって損(地の損失)になることがお分かりいただけるはずです。有限なゲームで問題にしているのであれば、零和も完全情報も常に各局面で成立していなければなりません。「もしこの途中の段階がゼロサムでないとするとどうして最終段階がゼロサムになってしまうのでしょうか? 」とはまさしく私が申し上げていたことで、説明で終局のみを問題にしているような感じがあったので、終局が3つの状態のゲームが零サムではないですねと確認したかったのです。わかりにくい表現であったようでその点については謝罪いたします。
  3. 完全情報についてですが、完全情報とはすべてのプレイヤーが自分の各手番において,これまですべてのプレイヤーがどんな選択をしてきたかを知ることができるゲームを言います。「ゲームに関する情報が完全に公開されている」とはその意味で、オープンでする麻雀は完全情報ですが、山牌まで公開する必要はないですよね。プレーヤーの判断行動以外のものもゲームに関する情報はすべて開示されているゲームであるとのお考であると誤解される方もいるかと思います。確認していただければ幸いです。また、「完全情報であることに必要なのは「自分がどのような手を指したのかが完全に相手に伝わること」であり」とのお話にはこの意味から賛同できません。たとえば軍人将棋では相手の差した手は盤面上明白で完全に相手に伝わります。また、通常のマージャンでも山牌から1枚とって何を切ったという行動自体は明白で完全に相手に伝わります。しかし、両ゲームとも相手プレーヤーがどのような選択をしたのかは明確ではありません。したがって完全情報ではありません。
  4. 二人零和有限確定完全情報ゲームは、「すべての有効着手の組み合わせに対して勝敗または引き分けが「理論上」確定」できているゲームです。有限とはそういう意味であり、二人零和有限確定完全情報ゲームが有限ゲームの中の特別なゲームである以上確定できるのはそれこそ定義から明白でトリビアルです。重要なのは現に行われている囲碁というゲームが、零和、有限、確定、完全情報の各定義を満足できるゲームであるといえるかということではないのですか。囲碁というゲームがゲーム理論上有限なゲームであれば、勝敗または引き分けが理論上確定できて当たり前ですが、囲碁がすべての有効着手の組み合わせに対して勝敗または引き分けが理論上確定できていても二人零和有限確定完全情報ゲームである証明にはなりません。すでに申し上げましたように、ゲームとしての囚人のジレンマが「必ず勝敗または引き分けが理論上確定」できるゲームである点にご注意ください。
私もこの分野の専門家ではありませんので間違えている点はあると思います。上記の定義が間違っているというのであればお教えいただければ幸いです。
さて、続いて本題に入るべきなのですが、その前に、らりた様が昨日のご回答をすべて撤回されました。これを受けて私も私の質問とらりたさんの回答に対する発言の相当の部分を撤回したいと存じます。どのような操作が適切なのか存じ上げませんので、らりた様に習い、取り消し線で取り消しいたしますが、見難いということであれば、取り消し線の部分について削除していただければ幸いです。
さて、本題に入りたいと存じます。囲碁というゲームが、零和、有限、確定、完全情報の各定義を満足できるゲームであるといえるかということですが、らりた様から「人間の能力の限界」による現状とゲームとしての囲碁が二人零和有限確定完全情報ゲームであるか否かは別であるというご説明をいただきました。私流に言い換えますと、囲碁が二人零和有限確定完全情報ゲームであるかどうかを議論する際には囲碁のルール上二人零和有限確定完全情報ゲームであることが言えればよく、プレーヤーが自然人である必要はないということであろうと存じます。この点については実はゲーム理論上この観点が正しいと思っておりますが、囲碁の執筆者の皆さんに受け入れられるか危ぶんでいた点ですので、心強く思います。
  1. 実はノート:二人零和有限確定完全情報ゲームにも書いたのですが、ご承知のことと思いますが、現状の日本囲碁規約を前提とすると、囲碁は有限のゲームではありません。規約上、同一局面の反復の状態を生じた場合、双方が同意した時は無勝負とするとなっていますから双方が合意しなければ永遠にゲームは続きます。自然人である対局者を想定するのであればいずれはどんなプレーヤーも無勝負を了解するでしょうが、ゲームの理論が想定するプレーヤーは合意しないでしょう。理由はゲームの目的が勝利することであって引き分けることではないからです。ゲームのプレーヤーは利得表とプレーヤーの戦略に従った行動をしますが、勝利する可能性が高いゲームを引き分けとすることはゲームのプレーヤーの戦略にはありません。三劫、長生等は両プレーヤーが完全に均衡したときのみ生じるわけではないですから、勝っていると考えるプレーヤーはゲームを放棄する理由がありません。将棋のようなルールに明確に終了条件が書いてあればルールに従ってゲームを終了しますが、1億回目には相手は手を変えるかもしれないのですからこの行動は間違っていません。相手方が手を変える可能性も同様の理由からありませんから、純粋なゲーム理論上のプレーヤーを想定する以上このゲームは有限なゲームではなくしたがって、二人零和有限確定完全情報ゲームではありません。(スーパーコウルール等であればこの面の問題は解消すると思います。)
  2. ゲームの理論が想定するプレーヤーの勝負は現実の囲碁ではないと主張されることが万一あるとすれば、自然人のプレーを前提とすれば両負け規定は終局時にありうる終局の1つとして、規約にある以上自然に受け入れるべきことで、この場合終局の条件が「勝ち」「負け」「引き分け」のいずれかの状態が確定することであるとは言えない。(これをもって有限でないといえるかは微妙。ただ、Wikipedia日本語版のコンシステンシー上の問題は生じるでしょうし、二人零和有限確定完全情報ゲームという括りだと3つの状態以外の状態は終局にないことのほうが普通と思います)
  3. wikipedia日本語版上の「有限」の定義は「いつかは終わるゲームであること。「終わる」とは「勝ち」「負け」「引き分け」のいずれかの状態が確定することをいう。 」です。確定するとはルール上それ以外の状態(無限試行とか両勝ちとか両負けとか、少し負けた引き分けとか)とならないことが保障されていることを言うと私は理解しております。しかし、らりた様の定義では終了時にプレーヤーが最適な行動の結果勝ち、負け、引き分けのいずれかの状態が確定するといえるからこの定義を満たすという話で、有限であるかどうかはプレーヤーの行動によって変わってくることになります。あるゲームが有限であるとかゼロサムかどうかというのはゲームのメタ的な性質で、プレーヤーの行動以前に確定しているはずです。プレーヤーの最適行動をゲームのメタ的な性質の定義に組み入れている例を寡聞にして存じ上げませんが、学会などでそのような定義は普通なのでしょうか。可能であればその事例を提示いただければありがたいと思います。繰り返しますが、有限とかゼロサムの定義にプレーヤーの行動は関係ないはずです。プレーヤーが取る手の組み合わせによっては「両負け」となるという可能性があるゲームはWikipedia日本語版の定義を満たしていないはずです。らりた様は三目並べも、チェッカーも終局状態は「引き分け」の1つの状態しかないとおっしゃるのでしょうか。
長くなりましたので、今日はこんな感じで。
ただ、少なくともゲーム理論上のプレーヤーを仮定する限り囲碁規約を前提して二人零和有限確定完全情報ゲームの定義を満たすというのは難しいと思いますが、いかがでしょうか。
222.119.112.153 2007年7月25日 (水) 16:46 (UTC)
222.119.112.153 さんに質問です。私は囲碁について詳しくはないのですが、囲碁の棋戦、例えば本因坊戦の決勝で無勝負になったときの処置はどうなりますか。指し直しなら最終的に零和ゲームです。引き分けて賞金と名誉を山分けでも零和ゲームです。非零和の本質は、参加者が互いに協力しあってwin-winを目指す戦略があるということです。例えば、囚人のジレンマです。HOTUMA 2007年7月26日 (木) 11:39 (UTC) 極論になってしまいましたが、win-halfwinとかwin-halfloseとかも非零和です。HOTUMA 2007年7月26日 (木) 11:48 (UTC)
まず山牌まで公開というのは私の明白な勘違いでした。失礼しました。ただ「山牌から1枚とって何を切ったという行動自体」は「明白で完全に相手に伝わります」というのはおかしいです。「それ以前の手牌の状態」と「山牌から何の牌をとって」「何を切った」まで伝わらないと相手に行動が明白で完全に伝わっていることにはなりません。例え同じ牌を切ったということは同じでも、手牌およびツモの種類によってその意味は丸っきり違います。同じ牌でも手牌の状態によってその価値は全く違うのですから。その意味で囲碁は明白に完全情報です。
それと囲碁規約の「両負け」に付いてですが。「第九条の対局停止後、対局者が有効な着手を発見し」とあります。要するに対局停止以前に有効な着手を発見してそれを打つ、ならば何ら問題は生じない訳であり、対局停止をする以前に徹底的に検討し、有効な着手が存在しない状態にまで追い込めば良いわけです。何度か繰り返したとおり、「対局停止後に有効な着手を発見してしまう」というのは対局停止以前に有効な着手を全て発見することが出来ない人間の能力の限界に由来するものであり、ゲーム理論上はこの「両負け」の規定は意味を為しません。らりた 2007年7月26日 (木) 13:06 (UTC)

段落を改めまして。以下はゲーム理論に付いて全くの素人である私の考えであり、誤りである可能性が高いです。それをご容認ください。
私の考えではゲーム理論とは「現実の複雑な事象を簡単なモデルを用いることによって検討しやすくするもの」です。ですので「ある事象をゲーム理論が定義付ける」訳ではなく、「ある事象を研究するに際して、アプローチの一種としてあるモデルを用いる」ということです。つまり「ゲーム理論が囲碁を二人零和有限確定完全情報ゲームと定義する」のではなく、「囲碁を考えるに当たり、ゲーム理論からアプローチするには二人零和有限確定完全情報ゲームと『看做す』のが最も適切である」と考えている。のだと思います。
一例を挙げますと。ゲーム理論でアジア通貨危機を解しようとアプローチしていますが、まさか現実のアジア通貨危機に関する事象全てがそのモデルに当てはまるわけではないでしょう。しかしアジア通貨危機を考えるに当たり、そのモデルが最も適切であると考えられるというわけでしょう。
同じように囲碁を考えるに当たり、二人零和有限確定完全情報ゲームのモデルが一番適切であると考えられます。
以上、おそらくは非常に頓珍漢なことをいっていると思われます。「ゲーム理論を勉強しなおせ!」との叱責を頂くかもしれませんが、そのときは良ければ解りやすい入門書を紹介していただけたらなーと・・・冗談です。こんな奴に今まで真面目に議論してきたのかとお憤りになられるかもしれませんが、ご容赦願います。
あと、無勝負に付いては。プロ同士の場合は打ち直し、アマチュアならば引き分けが普通でしょう。らりた 2007年7月26日 (木) 13:06 (UTC)

HOTUMA様へ、正直質問の意図がわかりません。「非零和の本質は、参加者が互いに協力しあってwin-winを目指す戦略があるということです。」(win-halfwinとかwin-halfloseとかも含む)については否定も肯定もいたしません。囚人のジレンマの場合、同意が取れる状況であれば互いの刑期を縮小できるでしょうが、すべての非ゼロ和ゲームで例えばナッシュ均衡解から明白に移動可能なパレート最適解が存在するとは言えません。少なくとも私はそのような証明があることを存じませんし、また、証明できるとはにわかには信じられません。そのためwin-halfwinとかwin-halfloseとかも含むとおっしゃるのでしょうが、win-halfwinとかwin-halfloseとは何でしょうか。定義をゲームの理論の枠内で理解可能な形でお示しいただけませんでしょうか。均衡解でもパレート改善もない場所でもとにかくそこに動けば利得の差はあるにしろ両者にとって悪くないはずだという場所を指摘できるとレベルでいうのであれば、ゼロサムゲーム上でも同様の場所をもつゲームは有るように思います。また、例えばチキンゲームではwin-winを目指す戦略は明白なのにそれを取れないという所に問題の本質があるわけで、それを無視して、非零和にはwin-win戦略が必ず存在する(win-halfwinとかwin-halfloseとかも含む)と言われても、そうですかとしか申し上げられません。そして、そのレベルのお話であればあえてここで話すことではないでしょう。非ゼロ和に行かれて、非零和の本質という章を御作りになり、「非零和ゲームの本質は、参加者が互いに協力しあってwin-winを目指す戦略が存在することである。(win-halfwinとかwin-halfloseとかも含む)」と主張されてはいかがでしょうか。私もゆとりがあれば否定的見解をもって議論に加わりたく存じます。
で、本因坊戦ですが、らりた様のおっしゃるように無勝負になったときは打ち直しとなるでしょう。ただし、これは本因坊戦でのルールですので、一般的な囲碁というゲームとは違うと考えます。他の棋戦についても、1勝負の(日本ルールの)囲碁というゲームとは別ルールを持った別のゲームであると私は理解しております(同様にコミが無い囲碁、コミが4.5の囲碁、中国ルールの囲碁も別のゲームであると考えています)。1勝負の囲碁では無勝負は無勝負(引き分け)ではないでしょうか?
ただし、打ち直しがある棋戦について無勝負が単なる引き分けかというと違うと思います。HOTUMA様のお話とどのように関係するのかわかりませんが、打ち直しがあるゲームで、先手後手が打ち直しによって入れ替わる、あるいは入れ替わる可能性があるゲームでは、打ち直しは不利とされる手番をもつ側の戦略的目標となります(HOTUMA様のいうhalfwinに含まれるのでしょうか?)。実際将棋では後手が勝率が悪いという事実があり、打ち直しが前提である場合、将棋では後手番側が手番の変更を求めて積極的に引き分けに持ち込むという戦略が存在します。囲碁においてもコミの存在により、現在のコミでは先手がやや難しいという話を聞いたことがあります(この点についての真偽は私のレベルの棋力ではわかりませんが、差があれば、有利の側に立ちたいというのは有りうる戦略です。)。つまり打ち直しの存在から非ゼロであるとか無いとかは言えないと思います。単に打ち直しがルール上あれば、それはそれがないゲームとは異なって、そのルールも考慮される別のゲームになるだけなのではないでしょうか。もちろんそれらを広い意味での囲碁というカテゴリのゲーム群として議論することは可能ですが、それであっても、そこから打ち直しルールの有無をもって囲碁をゼロサムゲームであるか否かというのは無理筋とおもいますが。
HOTUMA様がおっしゃっていることは、「勝者敗者が決まった時に勝者と敗者で賞品の分配についてのネゴシエーションが可能であればゼロサムではないゲームとなる」ということでしかないようにお見受けいたします。それは広い意味での囲碁群を前提としたとしても、囲碁というゲームの本質とは別の議論であると思いますが。
らりた様へ、まず、囲碁は完全情報で通常の麻雀は完全情報でないというのは全くおっしゃる通りで、まさしく私が言っていたところのものです。私の発言の「行動自体は明白で完全に相手に伝わります」との意味は「(何を切ったか)という行動自体は(はっきり分からないということがないという意味で)明白で(文字碑はわかるがそれ以外はわからないといった制約がないという意味で)完全に相手に伝わります」という意味です。完全とは日本語の完全という意味で、完全情報の略称ではありません。通常の麻雀が完全情報でないという例をわざわざ出したのは、Haruno Akiha loves blue.(春野秋葉)様が提示した、着手(差し手)が明確であるという完全情報の定義が、選択という概念を無視した全く間違った定義であったからです。軍人将棋だけでも良かったのですが、軍人将棋では物理的な駒が裏返しなので完全情報ではないとか言われそうな気がして追加しただけです。事前にらりた様の出した麻雀の例との絡みで出したわけではありませんのでご理解ください。
次に両負けですが、正直申し上げて、ゲームが有限かどうか、終局の状態がいくつあるかはプレイの事前に決まっていることであり、事後の行動で決まるわけではありません。これはゲームの理論における用語の問題です。Wikipediaの日本語版において有限の定義は標準型ゲーム二人零和有限確定完全情報ゲームの二か所に異なった文面での定義がありますが、どちらにもプレーヤーが出てくる余地は有りません。したがって「人間の能力の限界」がどうの言う議論が入る余地はないのです。もしらりた様がプレーヤーの能力が含まれる定義をお持ちなのであれば、ここで説明いただきたいと思います。そして、それは少なくともWikipedia日本語版における定義とは明確に異なるものですから、その定義が正しいものあるいは広く受け入れられているものであれば、Wikipedia日本語版にその定義を追記させるか、こちらにWikipedia日本語版とは異なる定義を用いているということを明記すべきであると存じます。(後述するように標準型ゲーム二人零和有限確定完全情報ゲームの定義は本質において異なっていません)
第一ステージ→第二ステージ→終局というゲームにおいて、第二ステージの終局の状態が、勝利、敗北、無勝負、両負けであったとき、第一ステージのプレーヤーの行動が最適であれば、第二ステージの終局では両負けにならないというのは両負けという終局の状態、あるいはプレーヤーの戦略についての説明であり、ゲームそのものについての説明ではありません。3目並べの終局の状態は勝ち、敗け、引き分けの3つであるというのはプレーヤーのゲームに開始する前から決まっていることであり、3目並べのプレーヤーの行動が最適ならば勝ちとか負けとかになることはないというのは確認されている事柄ではありますが、だからと言って3目並べの終局に勝ちとか負けがないということは有りません。理屈を知らない人同士が対局すれば勝つことも負けることもあるのですから、勝つという終局の状態がないとか、負けるという終局の状態がないということではないのです。再度お聞きしますが、らりた様は「三目ならべの終局の状態は引き分けしかない」とおっしゃるのでしょうか。それでは私が誰かに三目並べで負けた場合、私の状態は何と呼ばれるのですか。それともこの場合私と対手は正しくない終局をしたということになるのでしょうか。ご回答いただければ幸いです。
ただ、有限のゲームが勝利、敗北、引き分け以外の終局の状態を持たないかということについては私には異論があります。終局の状態は高々有限であればゲームの理解には問題が生じないはずです。実際同じWikipedia日本語版でも標準型ゲームの項では
標準型ゲームとは3つ組 G=(N, S, u) として表現され、それぞれ、N はプレーヤーの集合、 は戦略空間、 は利得関数と呼ばれる。N 及び S が有限集合のとき、有限ゲームと呼ばれることがある。」
としていて、単に戦略とプレーヤーの数が有限であることを求めているに過ぎないです。戦略が有限であるとは、端的に言って相手の手と自分の手の組み合わせ、つまり、棋譜(対局の停止後の打ち手を含む)に相当するものが有限で収まるということです。私の理解では最も一般的な定義はこの定義です。この定義にしたがえば囲碁は両負けという終局を持つ有限なゲームです。棋譜(対局の停止後の打ち手を含む)の結果が、両負けという終了の状態で終わっているだけのことですから。
では何でWikipedia日本語版やゲームの理論の本では3つの状態を終局にするゲームのみを問題にするかというと、100年近く前にツェルメロという大数学者が、二人有限完全情報ゼロサムゲームであるチェスについて「チェスにおいては,必勝戦略が存在するか、さもなければ引き分けとなる戦略が存在する」ということを明らかにし、それが現在のゲーム理論、特にコンピュータでのシュミレーションを行う人工知能や戦略、意思決定の研究のバックポーンとなっており、この指針と違う終局のゲームについてあえて研究を行ってこなかったということと、有限の繰り返しゲームで終局の状態が勝ちと負けしかないより引き分けがあったほうが、色々な問題なく議論ができるため、勝ち、負け、引き分けの終局が一般的な議論にふさわしいからです。正直両負けはこの文脈から言えば引き分けに分類すべき終局であるといえます。つまり、「囲碁の終局の状態は「勝ち」、「負け」、「引き分け」の3つの状態を持ち、引き分けとは日本囲碁規約にいう無勝負、両負けの場合をいうとする」という考えです。ゲームの理論的にはこの説明で正しいと思います。ただ、この考えは実際的には正しくありません。例えばトーナメント戦であれば両負けは文字通り両プレーヤーの負けと判定されるわけですから。従って、この定義を取らないのであれば囲碁は終局を勝利、敗北、無勝負、両負けとする(有限なプレーヤーと戦略をもつという意味で)有限なゲームであると議論することは可能であると思います。
なお、私は前回本題の1に記しましたように囲碁の終局は有限な戦略の組に収まる4つと無限に戦略の組が続く状態をもつと理解しております。従って一般的な定義において囲碁は有限なゲームではないと主張していることを付記します。
囲碁という事象と二人零和有限確定完全情報ゲームの関係ですが、二人零和有限確定完全情報ゲームとはゲームの理論による用語であり、ゲームの性質の分類の1つです。事象にどのような複雑性や特異性があろうが、その事象を分類することができるのであれば、ある観点に従った分類は可能です。人間は現在解明されていない多様な複雑性と特異性を持っていますが、動物と植物という分類を当てはめてみれば、動物に分類することができます。世の中の様々な事象はゲームに分類できるものできないものとありますが、囲碁はルールが明快であり、数学的な概念であるゲームの理論の用語を用いていくつかの分類が可能なゲームとして取り扱うことができます。二人零和有限確定完全情報ゲームとは、「プレーヤーの数が二人のゲーム」でかつ、「利得表の合計が0または合計を0とする利得表に適切な手段で変換してもゲームの本質を変えないゲーム」でかつ、「プレーヤーと戦略の組がともに有限なゲーム」でかつ、「ゲームのすべての過程でプレーヤーの選択によよって確定されない結果がないゲーム」でかつ、「自分と相手の今までの選択がわかるゲーム」であるゲームです。各ゲームの分類は明快であり、各分類はどんなゲームについても、あてはまる、あてはまらない、不明、この分類が適切でないの4つのいずれかに割り振ることができます。そして、その結果すべての項目について当てはまったゲームについて二人零和有限確定完全情報ゲームと呼ぶことができるのです。「囲碁を考えるに当たり、ゲーム理論からアプローチするには二人零和有限確定完全情報ゲームと『看做す』のが最も適切である」とするのは、このような定義と分類のすべてを無視して、執筆者の主観によってゲームの分類を決めようとすることです。すでに用語が確定し、内容が明白である分類をこのように恣意的に使用することに対して私はそれが百科事典の記述者の態度であるとは思いません。また、私はそのように『看做す』のが最も適切であるとは思いませんので、どうしてもらりた様が「『看做す』のが最も適切である」と思うのであれば「執筆者誰それは零和有限確定完全情報ゲームと『看做す』のが最も適切であると信じている」とお書きください。これは言葉を濁さないからしてもまともな記述であるとは思いませんが。
最後にノートが長くなりましたので、発言が撤回されている部分について削除することを提案いたします。222.119.112.153 2007年7月27日 (金) 07:01 (UTC)
何かを読み違えたようです。私は、碁のように勝負を奪い合うものは零和ゲームだと言おうとしたのですが、読み直すとらりたさんが同じ事を言っておられます。私のは無駄なコメントでした。しかも、囲碁のルールを222.119.112.153さんに訊くのは御門違いですね。お騒がせして済みません。改めて、「有限なゲームで最終的な利得表がゼロサムであれば、途中の各局面の利得表も必ずゼロサムとなっているはず」について、囲碁に限らず、将棋や西洋将棋で途中の局面の利得表って何でしょうか。将棋もチェスもゼロサムではないと?HOTUMA 2007年7月28日 (土) 15:11 訂正。HOTUMA 2007年7月28日 (土) 15:56 (UTC)
「途中の局面の利得表って何でしょうか」展開型ゲームをご覧ください。「将棋もチェスもゼロサムではないと?」誰がそんなこと言いました?私は「二人有限完全情報ゼロサムゲームであるチェス」という言い方さえしていますが。それよりもHOTUMAさんにはwin-halfwinとかwin-halfloseの定義をお願いしてるはずですが、定義はまだ御用意できないのですか?ご自身で明言されたことでしょう。それではもっと簡単なことをお聞きしますが、非ゼロ和ゲームで「参加者が互いに協力」しあうというのは必ず言えることなのですか?それでは非ゼロ和ゲームにおいては協力ゲーム以外のゲーム、囚人のジレンマとか、チキンゲームは存在してはいけないのですか。それとも両者仲良く協力するといいことがあるといえばプレーヤーは協力するものだとでもおっしゃるのでしょうか。必要な定義やルール等の少し調べればわかることについて、ここでご質問になるのは違うような気がします。「囲碁のルールを222.119.112.153さんに訊くのは御門違いですね。」ではなくて、調べればわかることはご自身で調べてから議論に参加されたほうが良いと思いますが。
なお、この問題についての議論は二人零和有限確定完全情報ゲーム2の方でお願いいたします。222.119.112.153 2007年7月29日 (日) 11:17 (UTC)
win-win云々というのは常識的なことを大雑把に書いただけなので厳密な解釈で追究されていも困ります。囲碁はwinを奪い合うから利得合計が常に1の零和であり、囚人のジレンマはwin-winで利得合計が2になる可能性があるから非零和だという、それだけです。それにしても「参加者が互いに協力しあって」という表現は不適切でしたね。そこは書いた直後から引っかかっていたのですが。無論、ナッシュ均衡を崩さずにパレート最適に移動可能などという馬鹿なことをいうつもりはありません。余談を一つ、出典の記憶が曖昧ですが、昔、囚人のジレンマのトーナメントで優勝したのは、ナッシュ均衡ではなく、鸚鵡返し戦略を採用したチームだったとか。利得表について、展開型ゲームの記述では、「頂点はそこから枝が出ていないノード、すなわちゲームが終了した局面を示す点であり、各プレイヤーの利得が与えられている」となっています。途中の局面で利得が定義されているとは書かれていませんよ。一応、現実に囲碁や将棋のプログラムを書く場合、途中の局面に利得らしきものを独自に定義してアルファベータ刈りで剪定するというのが普通ですが、それは単に利得だと思い込んでいるものにすぎません。HOTUMA 2007年7月29日 (日) 14:36 (UTC)

二人零和有限確定完全情報ゲーム2

長くなりすぎましたので、節を分けました。

それでですが、まず両負け規定に付いて。これは完全に私の勘違いでした。大変失礼しました。ただ、トーナメント戦で両負けが生じた場合に両方を負けとした事例があるのでしょうか?普通に考えればやり直しと思えるのですが。また両負けという終局状態があるとしてもこの場合の得失は双方共にプラスマイナスゼロ、実質引き分けになると思うのですが。囚人のジレンマで双方マイナスという状態が生じるのは刑期というチップを徴収する第三者がいるからに他なりません。「トーナメント戦で両負けが生じた場合に両方を負けとした」ならばそれもまたありかもしれませんが。
看做すに付いて。植物と動物との分類に付いて話が出ましたが、植物と動物とを分ける厳密な定義は存在しません。同じことを繰り返しますが、現実の事象には厳密な分類は不可能です。しかしゲーム理論のモデルを使って検証することは可能です。「厳密で正確な定義」は必要ないのです。囲碁を分類するとして「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類し、それに基づいて研究するのが最も有効であるということです。もし例外事例が多い場合にはそのモデルを適用したのが不適切であったということであり、他のモデルを適用することを考えねばなりませんが、囲碁の例外事例は概ね無視しても構わないということです。 ついでにもう一つ。こちらこちらにもありますように囲碁を零和と看做すのが普通でしょう。それをウィキペディアだけ零和ではないとするのは百科辞典の為すべきことと思えませんが?屁理屈のように聞こえるでしょうが。らりた 2007年7月27日 (金) 08:48 (UTC)

節を分けたということですから、議論の内容について整理します。
この説の問題は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という定義に、現在の日本囲碁規約に基づいて行われる囲碁があてはまるかということについて議論しています。
  1. 二人であることについて、議論はなされていません。プレーヤーが二人であることは間違いありません。
  2. 零和については、最初に質問者から疑義が出されましたが、後に疑義は撤回されています。また、これに対してのらりた様よりの発言について、質問者は新たに発言をしていません。
  3. 有限については質問者から日本囲碁規約に基づいて行われる囲碁は有限ではないという説明がなされています。これについてらりた様は定義のことは厳密に言う必要はなく、とにかく「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類し分類することに意味があると主張されています。
    1. また、無限循環の問題を別にして、終局の状態が三つなのか、両負けについて別にした四つなのかについて意見が分かれています。当初は両負けはプレーヤーの限界を考えなければ生じえない終局であるから終局としなくてよいとする考えが提示されましたが、これについては撤回されています。
  4. 確定については議論なされていません。質問者はこの点についていままで発言していませんが、本日発言します。
  5. 完全情報であるかどうかについては、質問者とらりた様の双方から囲碁は完全情報であるとの説明がなされており、異議はないものと思われます。
  6. これ以外に囲碁がゲームの理論上の上記のの定義のいずれかに当てはまらなくても、囲碁を「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類できるとする考えがらりた様から出されています。これについて質問者は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」は数学的に定義された厳密な概念の上に構築されているゲームの理論上の分類であり、その定義に当てはまらないものをその定義に当てはまるかのように主張すること暴論であり、百科事典がとるべきことではないと主張しています。
まず、以上に認識の相違はないでしょうか?
さて、「植物と動物とを分ける厳密な定義は存在しません。」というのはまず詭弁ですね、私は「人間は現在解明されていない多様な複雑性と特異性を持っていますが、動物と植物という分類を当てはめてみれば、動物に分類することができます。」と申し上げたのです。らりた様は人間がウィルスのような動物と植物の両相をもった生物だとおっしゃるのでしょうか? 人間が動物かどうかは顕微鏡を見てみればその細胞に細胞壁がないことから明確です。細胞壁のない、器官をもった生物で動物に分類されていない生物がありますか、また、人間にはクロロフィルがありません。器官分化がある多細胞生物で、クロロフィルがない植物が存在しますか。人間の成長は生物体全体が成長しますが、植物は基本的に先端で成長します。人間には体系的な神経細胞器官が存在します。体系的な消化器官、循環器官などの存在を示すこともできます。植物でこのような多細胞性の著しく発達しているものがありますか。似非科学者のような言動をWIKIPEDIA上でしないでください。人間を動物と植物のどちらにも厳密には分類できないとしている生物学者がいますか?、人間を動物か植物かに分類するための厳密な定義が存在しないと書いてあるまともな生物学書が1冊でもありますか。分類学は生物学の最初期にできた分野で生物学の中では最も長い学問的集積のある分野の1つです。ウィルスやゾウリムシの話を人間に適用できるなどと考えないでください。
とりあえず、らりた様の主張は「人間を動物と植物に分類する厳密な定義はない」→「現実の事象には厳密な分類は不可能」→「定義上問題があろうが囲碁を「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類」できる。それが有用だというのですから、「人間を動物と植物に分類する厳密な定義はない」との主張の根拠をしっかりとお示しください。分類できるということについては私は、上記で人間を植物として分類できないこと、人間は動物として分類できることについて、生物学的な分類の仕方について指摘いたしました。上記の例を覆し、かつ学問的に認められている事例が存在するのであればぜひ拝見してみたいものです。
らりた様にはゲームの理論の用語の「「厳密で正確な定義」は必要ない」のかもしれませんが、ゲームの理論を学ぶもの、Wikipediaを百科事典として用いようとする者には重要なことなのです。
らりた様は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」が何か学問の世界がくれるありがたい「世界的なあるいは有効なゲームの認定状」のように考えていませんか。らりた様はご存じないかもしれませんが、厳密な定義を無視して行う研究などには何の意味もないのです。ハッキリ言いますが、「現実の事象には厳密な分類は不可能です」などと思っているのなら、ゲームの理論の用語など持ち出さないことです。厳密な議論のできない学問用語など学問の世界なかんずく、ゲームの理論においては有害無益です。
次に、同一状態の繰り返しが生じた際にゲームを停止する強制ルールが現在の日本囲碁規約にないことは明白です。この点ついてらりた様より反論はありませんでした。
また、終局の状態についてですが、「トーナメント戦で両負けが生じた場合に両方を負けとした事例があるのでしょうか?普通に考えればやり直しと思えるのですが。」との話ですが、両負け規定が公式戦で発動された事例自体については(以前申し上げたと思いますが)存じません。ただ、トーナメント戦等で両負けが生じた場合無勝負と同じ扱いとなることは日本囲碁規約上はないはずです(日本囲碁規約とは別のルールで行われているトーナメントならそもそも別のゲームです。)。理由は両負けがプロとしてあってはならない状態であるからです。つまり、両負けとは、対局者双方がプロの対局者としてあるまじき行動をとり続けていることによって結果として発生する反則に準ずる不始末という位置づけなのです。このため、対局者の双方を反則負けに準じた強制的な負けにしているのです。逆に規約上明白に「両負け」とされているものに対して、同じ規約上に「無勝負」とされているものと同じ処理がなされるとのご理解はどこから来るのでしょうか。規約は両負けの状態の対局者を「両負けとする」と規定しています。両負けの状態の対局者が無勝負と同じ措置をうけるとらりた様が主張されるのならば、むしろ挙証されるべきはらりた様の方でしょう。
なお、念のためですが、こちらについてですが、もし、この部分をもって、囲碁は有限だと主張する研究者がいるというのであれば、それは無理です。論文ではない、学会のプロシーディングの、サマリーの、研究の内容とはかかわりのない一行で、それも、「人工知能の研究の対象が将棋や囲碁に移ってきた」という文の、文全体の意味とは無関係な一部分で、その予稿では直接言及されていない、日本囲碁規約で行われる囲碁が学界から有限ゲームとして認定されていると主張されることには無理があると言わざるを得ません。通常人工知能研究では、日本囲碁規約とは異なり、何らかの停止条件(同一手順何回とか、同一局面何回とかが望ましいですが、実際はこのノートでも議論されていた、何手まで続いたら終わりとかしている先生方も多いようです。ある有名な研究室の院生のソースを見せてもらったら、着手が1000回続いたら引き分けというコードが実際ありました。)を研究者が組み入れるか、対局の相手方を人間として、人間の判断で停止しています。
ここに学問としての「二人零和有限確定完全情報ゲーム」の研究対象としての囲碁と、日本囲碁規約を基本ルールとして行われるゲームとしての囲碁の違いがあります。ゲームとしての囲碁そのものを研究者は研究対象とする必要はないので、必要なら研究上望ましくないルール、あるいは独自に解釈しても本質が変わらないルールについて独自のアレンジをします。対局の停止はその最たるもので、ルール上明記されていなければ、何らかの停止条件を付けることには問題がないと考えられています。実際囲碁でも現実に無限の着手が行われることはないので、これは正しいアレンジと思います。ただ、だからと言って日本囲碁規約にもとずく囲碁を「二人零和有限確定完全情報ゲーム」として定義に反して認定していいということにはなりません。これは例えば1000手までという停止条件が学問的な研究でのプログラムでは許されても、囲碁の説明の中に入れることが許されないことから考えれば当然です。
将棋はこのような学問の世界とのフィードバックがあってルール改正が行われ、ルール上問題なく「有限」となりました。それ以前の将棋は「有限」ではありません。このことについては、将棋のルールに精通している人は理解されているでしょう。囲碁でもスーパーコウルール等が「有限」であることを明示することを強く念頭に置いたルールであることは言を待ちません。日本棋院でもルール改正をすることがもしあれば変わるかもしれませんが、今後大きなルール改正があるとすると中国ルールを含む世界的なルールとの整合性を考える必要があるとおもうので(もちろんでも日本ルールは日本ルールでとなるかもしれませんが)、すぐということはないと思います。実際、劫自体を否定して着手禁止点とするというスーパーコウルールはルール上有限となることは明白でもゲーム性をなくすものだと思うのですが。
最後に確定については、実は微妙な問題であると思います。つまり、ニギリはゲームの中に含めるべき行為かそれとも、ニギリが終わってからが囲碁のゲームなのかによって変わってくるからです。囲碁がニギリから始まるゲームであれば当然確定ゲームではないことになります。私の立場は、日本囲碁規約にない以上、「ニギリは囲碁を開始する前の慣習であり、ルールではない。囲碁は先手後手が定まってから行われるゲームである。」というものです。222.119.112.153 2007年7月28日 (土) 01:38 (UTC)
(一部分のみ)日本棋院のトーナメントで両負けの例はあったと思います。途中で石が動いたのに両対局者が気付かず、その後の着手が動く元の位置に打たれた時に、記録係が記録不能を宣言したときです、たしか。それはしかし「トーナメントのルール」であって、「囲碁のルール」として「零和」とすることは問題無いように思います。(あと素朴な感覚として「有限」は外してもいいように思います。台湾ルールのように同形反復を厳密に禁じれば「有限」でしょうが、、、)--Sugitaro 2007年7月28日 (土) 08:46 (UTC)
Sugitaro様貴重な情報をありがとうございます。厚かましお願いではありますが、もし可能でしたら両負けのソースか時期を教えていただけませんでしょうか。私の理解では1989年制定の現行の囲碁規約以前は両負けではなく、石が移動したのに気付かずという場合、無勝負であったと記憶しております。現行の囲碁規約での両負けの事例は不勉強で知りませんでした。今回の話は別にして、とてもユニークなルールと理解しておりますので、参考にさせていただきたいと存じます。222.119.112.153 2007年7月28日 (土) 12:13 (UTC)
うろ覚えで書いてしまったのですが、羽根さんと誰かだなあと思ってあせってググったら見つけました。H2年の16期天元戦2回戦の羽根泰正ー春山勇戦です。91年の年鑑にも両負けと記載されてました。たしか「棋道」で読んで記憶してました。--Sugitaro 2007年7月29日 (日) 05:02 (UTC)
私も誤読をしていたようであり、また222.119.112.153さんにも私の言いたいことが上手く伝わらないようで中々難しいですね。
>学問としての「二人零和有限確定完全情報ゲーム」の研究対象としての囲碁と、日本囲碁規約を基本ルールとして行われるゲームとしての囲碁の違いがあります。
それこそが私が言いたかった「看做す」ということです。分類のことで誤解を招きましたが、分類した際に全て割り切れるわけではなく、両属の存在が出来てしまうということを言いたかったのです。それが現実の囲碁ということで、二人零和有限確定完全情報ゲームに属する部分と属しない部分とがあり、研究対象としての囲碁では属しない部分を切り捨てて、二人零和有限確定完全情報ゲームとして囲碁を取り扱うその行為を「看做す」と表現したのですが、解り難かったようですね。
つまり222.119.112.153さんがおっしゃりたいことは現実の囲碁は二人零和有限確定完全情報ゲームではないのにそう書いてしまうと誤解を招くということで宜しいでしょうか?私は「ゲーム理論の言葉で言えば」と前置きがしてあるので、ゲーム理論の上での話をする(つまり現実の囲碁の話ではない)と考えていたのですが。
ここの文章を「ゲーム理論に於いては二人零和有限確定完全情報ゲームとして取り扱われる。<ref>同型反復(三コウなど)により無限に続けることも可能であるが、ゲーム理論の研究に於いてはある程度繰り返されたら停止させるのが普通。</REF>」などと改めてはいかがでしょうか。文案は適当なのでもっと良い案があったらお願いします。らりた 2007年7月29日 (日) 01:03 (UTC)
「分類した際に全て割り切れるわけではなく、両属の存在が出来てしまうということを言いたかったのです。」とはつまり、人間には動物あるいは植物に分類する際に、植物として分類される属性があるということですか。
誤解というなら、人間の植物の属性とは何か説明してください。人間は動物です。厳密に分類できます。人間を植物と動物に分類しようという話で、「両属の存在が出来てしまうということを言いたかった」とおっしゃっているのですから、単に人間には植物にもあるDNSにもとづく遺伝があるといったレベルのお話では何の説明にもなっていません。そうしたことは地球上の生物の性質の話で、分類に出てくる話ではありません。人間を植物に置くことは生物学的に言って厳密にできません。これは植物、あるいは動物という用語の根幹をなすことです。誤解などという言葉ではなくハッキリとご確認ください。
  1. 人間の生物学的な分類において「植物と動物とを分ける厳密な定義は存在しません。」というのは正しいことなのですか、人間が植物に属するか、動物に属するかを決定できる定義が存在するのか否か、YESかNOか明白にこたえられることです。お答えください。
  2. 人間を「植物と動物とを分ける厳密な定義は存在しません。」ということを前提として、「現実の事象には厳密な分類は不可能です。」と述べておられますが、ゲームの理論の用語である二人零和有限確定完全情報ゲームには厳密な定義があります。囲碁にも日本囲碁規約というルールがあります。日本囲碁規約を基にして囲碁が、ゲームの理論の用語である二人零和有限確定完全情報ゲームである、あるいはそうではないと分類することができるのかできないのかお答えください。もし必要なら「両属の存在」つまり、分類されるが分類されない存在であるという主張をなさっても結構ですが、その際にはそのゲームの記譜が可能性として有限にとどまらないことがあるのかないのかもお教えください。物理的な(量子論的な効果を受けない)存在である記譜が必ず有限の大きさものとして囲碁のすべての手順上存在しえるのか、それとも理論的には無限に着手が続き、物理的な紙では記述が続けられないという事態が想定できるのかということは排他的なことがらですから、どちらかに必ず決まることです。現時点ではわからないということも1つの回答としてはありえますが、囲碁のルール上明記されていることで話としては公知のことです。
誤解ですという言葉自体は何も説明していないですし、新しい説明を加えたり、訂正したりするものではありません。誤解だというなら、それではどのように「人間は動物に分類される」という言葉に厳密さがないのか、人間を動物に分類するのではなく、人間を動物として「看做す」必要があるのか誤解を招かないように説明してください。
本ページの囲碁の説明主体は基本的に日本ルール(日本囲碁規約)で行われる囲碁です。それは囲碁のルールの説明などであえて日本ルールという言葉を持ち出さないことから明らかです。
ゲーム理論の言葉には「看做す」などという用語はありません。「ゲーム理論の言葉で言えば、二人零和有限確定完全情報ゲームである。」とは、囲碁がボードゲームに分類されるのと同様に、ゲームの理論の用語である二人零和有限確定完全情報ゲームの定義に基づいて、囲碁は二人零和有限確定完全情報ゲームとして分類できるということ以外の何物もあらわしません。「私は「ゲーム理論の言葉で言えば」と前置きがしてあるので、ゲーム理論の上での話をする(つまり現実の囲碁の話ではない)と考えていたのですが」とはどういうことでしょう。「ゲーム理論の言葉で言えば、二人零和有限確定完全情報ゲームである。」の主語は言うまでもなく囲碁です、「ゲームの理論の言葉でいえば」という説明は直後の「二人零和有限確定完全情報ゲーム」にのみかかります。そうでなく、「ゲームの理論の言葉でいえば」という語が記述されてていない主語である囲碁にかかるのであれば、「(ゲーム理論の言葉でいえば囲碁は)アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で」となり「(囲碁は)ボードゲームの一種で」もゲームの理論の用語でなければなりません。ボードゲームはゲームの理論で定義された用語ではありません。また、ゲームの理論の(研究者の言葉でいう)囲碁にボードゲームという属性は必ずしもついていないように思います。日本語で無理な解釈をすることを読者に要求しないでください。
有限について反論がなく、また、研究上独自のルールが追加されているという実態をお認めになっていることから、日本ルールで行われる囲碁について、ゲームの理論上の定義に基づく有限なゲームではなく、従って二人零和有限確定完全情報ゲームとして分類することができないということがこのノートの議論上合意が得られたと理解しますが、それでよろしいですか。後は
1.ゲームの理論の用語として二人零和有限確定完全情報ゲームとは定義上言えない日本ルールで行われる囲碁について、百科事典であるWikipedia上で、ゲームの理論の定義を無視して、二人零和有限確定完全情報ゲームと「看做す」必要があり、かつ、それをWikipedia上に記述する必要があるかどうか。つまり、
a.看做すという用語を使わずにそれを記述するか(誤解を招く表現というレベルではなく、虚偽の記述)
b.あるいは看做すという記述をいれるのか(主語はどうするのか。(言葉を濁さない参照のこと)。看做すとはどのような意味か。それは百科事典にふさわしい記述か。正しくない用語の定義を使うことに意味はあるのか)
というレベルの問題を議論するのか
2.「囲碁が人工知能分野などで研究されているという事実」を記述するということでよいのか
a.囲碁というゲームの説明において、囲碁というものがどのカテゴリーに属するかを明示することは有意義だが、ゲームとは直接関係のない事実を冒頭に持ってくることは百科事典にふさわしい記述か。冒頭に置かないとすればどこに置くか
b.「研究されているという事実」の説明の際に、二人零和有限確定完全情報ゲームという用語の使用とWikipedia日本語版当該ページへのリンクは必要か。もし必要ならば「研究上ルールに変更を加えて」「ゲーム理論の研究に於いてはある程度繰り返されたら停止させるのが普通」等のような言葉を加えることにするのか、それとも詳細を二人零和有限確定完全情報ゲームのページにまかせ、「現行ルール上厳密にいえば二人零和有限確定完全情報ゲームとはいえないが、二人零和有限確定完全情報ゲームの研究対象として研究が進められている。」というようするのか。
3.二人零和有限確定完全情報ゲームとの用語を二人零和確定完全情報ゲームとおきかえ、直接二人零和有限確定完全情報ゲームのページとリンクしない。必要があれば2.の記述を加える。ということにする。
という問題を議論すればよいように思いますが、いかがでしょうか。
なお、私とらりた氏の発言撤回についての異議、並びに二人零和有限確定完全情報ゲーム(の1)における撤回された発言の削除について、異議がなかったようですから、削除します。
当該の発言は撤回されたものであり、現在もなかったこととして議論されており、以後もそのように議論されます。また、当該の発言について確認したい場合は[ノート:囲碁-履歴]をご確認ください。222.119.112.153 2007年7月29日 (日) 10:51 (UTC)
3番で良いですよ。どうにも聞いていただけないようなので。
両属に付いて。「人間が」ではなく、例えばミドリムシのように植物と動物の境界線上に(分類のやり方で変わってきますが)ある存在があるということです。
一言言わせて貰うならば、もう少し、論旨を纏めて相手の言わんとするところを読み取る努力をして頂きたい。あなたのその態度ははっきり不愉快です。らりた 2007年7月29日 (日) 11:10 (UTC)
私が最初からミドリムシのような事例を排除するために、人間を事例として選んでいることにお気づきではなかったようですね。途中で、「ウィルスやゾウリムシの話」をしているわけではないと言ったのにもお気づきにならなかったのでしょうか。いずれにしろ、不愉快とのことですので対応については遺憾の意を表したいと思います。ただ、「看做す」というご発言以下のご議論が建設的なものといえたのかどうか、「そう書きたいからそう書きたい」という姿勢と受け取られかねないものではなかったのか、百科事典の執筆者として適切な態度であったのかどうか再度振り返っていただければ幸いです。

説明については
アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば、二人零和確定完全情報ゲームである[1]。(リンクは外す)
注として 対局者が合意しないと、無限に続く可能性もあるため、有限なゲームとは分類されないが、事実上有限なゲームで、広くプレイされているゲームであるため、適切な停止条件を考慮したうえで、二人零和有限確定完全情報ゲームとして研究されている。
でいかがでしようか。
なお、申し遅れましたが、Sugitaro様貴重な情報をありがとうございました。大変参考になりました。222.119.112.153 2007年7月29日 (日) 11:50 (UTC)

8月3日 (金) 21:28 8月5日 (日) 13:45

二人零和確定完全情報ゲーム及びパスについての編集合戦

どうやら、RJANKAさんと編集合戦になっているようです。 RJANKAさんには、ノートの議論に参加するように参加するように呼びかけましたが、構わず書き換えを行われています。 さて、どうしたものでしょうか。

  1. これ以上編集合戦が続くようなら保護依頼して、その上でノートでの議論を行う。(やや大げさな気がする)
  2. 「ゲーム理論の言葉で言えば、二人零和確定完全情報ゲームである」との文言が、二人零和有限確定完全情報ゲームを連想させるためこのようなことになるのであれば、囲碁の本来的な説明とは別のこのような文言は概要の文頭から削除する。(削除、追加の編集合戦になるだけではないか)
  3. 現状24時間に3回の規定には違反していないので気長にリンクつけ、リンクはずしを繰り返す(たぶんほっとくとこうなりますね)
編集合戦は杞憂に終わったようでなによりです。それはそれとして、ゲーム理論云々というのがいきなり「概要」の先頭に出てくるのは奇矯なので、他のアブストラクト云々やコンピュータ囲碁との関わりなどをまとめて「学術的位置付け」のような項にまとめてはどうでしょうか。
ところで「将棋は持ち駒があるから「パスが最善」というケースはまずありえないので、」というコメントが書かれていますが、持ち駒があることでなぜそうなるのか不明だし、普通に手待ちという局面はあるような気がするし、そもそもいつでも持ち駒があるわけではないし、これについての何か出典があるのでしょうか?--Sugitaro 2007年8月7日 (火) 14:42 (UTC)
編集合戦とならなくてよかったです。また、囲碁本来の内容とは別の文について「学術的位置付け」に移動するとの案に賛成します。
パスについては、持ち駒の有無はあまり関係ないと思います。持ち駒が特殊といっても戦略で見れば単に手の数が増していたり、手の進行によって局面が単純化しにくいというだけですからね。将棋ソフトで有名なBonanzaは将棋は特殊という固定観念から離れることによって、チェスのAIプログラムの基本構想を用いて全幅検索を行い、また十分なルールベースを用意することであれだけ強いわけですから、将棋は持ち駒があるから特別という考えは一般には成立しないと思います。ただ、「最善の手を指し続けると、戦略的飽和状態がおとずれたり」との解説が将棋に当てはまりかどうかは現在最善の手がわかっていない以上明確に議論できることではないですし(実際に調べたら急戦で勝利する手がないとは明確に言えない。対策のない塚田スペシャルみたいなのが出ないとは誰もまだ言えない)、「相手がこちら側の有効着手が存在しないように打ってくるために、」ということだけではパスが最善かどうかはわからないです。「ゲームにおいて、自分の手によって局面をこれ以上良くできない状況(戦略的飽和状況)等では自分の手番でパスする(なにも指さない)ことが有効となることがままあるが、将棋やチェス等ではこのような場合であってもルール上パスができないため何らかの局面の打開を行うか、当面の状況を変えないような手待ちを行う必要がある。これに対して囲碁は」のような文章にした方が良いと思います。現状では「将棋は戦略的飽和をむかえる」→「持ち駒の存在があるから飽和することはない」という応酬になっているように思います。どちらの主張も百科事典に記載するほど根拠のあるものとは思えませんし、囲碁の説明とは本質的に無関係ですから、もっと一般論的な書き方でよいかと思います。また、ルール上、プレーヤーが任意に行えることではないものの、パスという言葉のあるオセロは例として不適切であると思います。222.119.112.153 2007年8月8日 (水) 09:44 (UTC)
節名にパスを入れました。本文を一応変えてみたのですが、説明が長すぎてややバランスが悪いような気がします。また、その後のルールの説明でもパスについて出てくるので整理したほうがいいかと思います。本文にも書いたのですが、パス可能と言っても実際は勝負で着手に代替するパスがなされることはないわけですし、概要で説明することなのかなという気もしてきました。222.119.112.153 2007年8月10日 (金) 08:32 (UTC)

将棋におけるパスおよび手待ちに関する編集合戦

この議論はノート:手待ちに移動しました。--Haruno Akiha 2007年9月23日 (日) 03:30 (UTC)

碁盤テンプレート

私は碁は分かりませんが、英語版、フランス語版と比べて碁の配置図が美しくないと思います。en:Template:Goban を移植しませんか。このテンプレートの使用例は、例えば en:Go strategy and tactics にあります。色々表示できます (en:Template talk:Goban を参照)。 - TAKASUGI Shinji (会話) 2008年3月6日 (木) 10:17 (UTC)

Template:碁盤Template:碁盤 5x5Template:碁盤 9x9 を英語版から導入しました。試しに詰碁の記事で使ったので、確認をお願いします。
- TAKASUGI Shinji (会話) 2008年3月7日 (金) 15:07 (UTC)

作業ありがとうございました。早速ゲタ (囲碁)中国流に使用してみました。見た目が非常によいですね。他の項目も徐々に変更していきたいと思います。 Yozakura 2008年3月8日 (土) 01:42 (UTC)

同じく、ありがとうございます。これは大変に良いですね。羅線を使うと環境によってはつぶれてしまうみたいなのでどうしたものかと思っていました。らりた 2008年3月8日 (土) 14:06 (UTC)

ゲームの概要に関して

第三段落の 「またパスがルール上認められていない」 と「囲碁はパスが認められている」 というのは矛盾しているように感じます。 「またパスがルール上認められている」 ではないでしょうか。

--118.11.222.38 2008年8月4日 (月) 12:23 (UTC)

ご指摘の通りです。また最近実際にパスが行われたケースがあったため、注釈として追記しておきました。Yozakura 2008年8月4日 (月) 13:23 (UTC)

「対局時計」参加のお願い

現在「対局時計」の定義をめぐり、話し合いが行われています。皆様も御存知だとは思いますが、対局時計囲碁と密接な関係があります。こちらの分野にお詳しい方は、ぜひノート:対局時計にて御意見をお聞かせ下さい。--Compatible Access 2009年8月21日 (金) 15:31 (UTC)

本件なんとか解決しつつありますので、ここに御報告致します。お騒がせ致しました。--Compatible Access 2009年10月13日 (火) 05:30 (UTC)

岡目八目の定義

以前も書きましたが、Yahoo辞書および手元の大辞泉、明鏡国語辞典によると、八目先まで読めるということからだそうですが、文脈上、"目"という語は囲碁の手を表していると考えられます。--JohnaSheffield 2012年1月13日 (金) 11:57 (UTC)

以前に書かれたとおっしゃるのは、どこでのお話でしょうか?--AsYouLikeIt 2012年1月13日 (金) 14:31 (UTC)
失礼。言葉足らずでした。以前書いたというのは、編集時の要約欄でのことです。--JonathanSheffield(旧yghwtrrl) 2012年1月14日 (土) 06:43 (UTC)
当該編集をしたへのいちです。
その要約欄にも記した通り、一応、広辞苑で確認した上で書きました。多少なりとも囲碁の心得があれば、目(もく)とは碁盤の目のことであって、終局後に数えて“何目勝ち”などと使われる用語で、手数を表す“手”とは異なる概念であるととらえるのが普通かと思いますが、語源上は違うというようなことがあるのでしょうか。JohnaSheffieldさんの仰る「文脈上、"目"という語は囲碁の手を表している」というところの“文脈上”というのがどういうことなのかよくわかりませんでした。--へのいち 2012年1月15日 (日) 16:59 (UTC)
へのいちさんが要約欄で『広辞苑で確認した上で』と書かれたのは、広辞苑の【傍目八目】という項目についてのお話と思っていましたが、そうではなくて、【目】の項目の方だったんでしょうかね。--AsYouLikeIt 2012年1月16日 (月) 01:46 (UTC)
へのいちです。AsYouLikeItさんのご質問の意図はよくわかっていないのですが、補足します。私が確認していたのは広辞苑第二版補訂版で「おかめ【傍目・岡目】」の追込項目になっている「―・はちもく【傍目八目】」でした。下でJonathanSheffieldさんが引用されているブログによると、この項目の解説は改訂のたびに修正されているようですね。第二版補訂版では「八目も優勢な手」という表現が使われていました。私は、ここで言う“目”というのは実力差を表す用語であって、ひとつの手の良さを形容する語として使うのは多少違和感を覚えたのですが、いい表現が思いつかずに「八目分有利な手」と書いたのでした。件のブログの解説を読んだ今となっては、「八目置かせるほど(実力差のある)」という表現がぴったりだと思っています(“八”というのが定量的な意味で使われているとは思っていませんが)。およそ囲碁を打つ人で、“八目”を“八手先まで”という意味に解する人はいないでしょうから、「八手先まで」が流布しているとも思えません。むしろウィキペディアが誤りを広めてしまうことを危惧しているのですが、それはまた別の話ということで。--へのいち 2012年1月17日 (火) 12:28 (UTC)
私の質問の意図がよくわからないとのお話ですが、意図もなにも、そもそも へのいち さんのおっしゃる『広辞苑で確認した上で』というのが、広辞苑のどこをどう確認したのかがよく分からないので、本題に入る以前の話としておたずねしたものです。その広辞苑が「第二版補訂版」だったとお聞きして、かなり脱力してしまいました。それって何年に発行のものなのですか? まあ、広辞苑には違いないわけですが、そういう場合には少なくとも広辞苑の何版とか書いていただくのが常識だと思いますけどね。下でJonathanSheffieldさんが引用されているブログにも出てきてますように、広辞苑の昔の版と近年の版では、「傍目八目」の記述なども明らかに違うようですしね。--AsYouLikeIt 2012年1月18日 (水) 01:35 (UTC)
脱力させてしまってすみません。私もまさか広辞苑の解説文がそんなに変わっているとは思わなかったものですから。それでは本題のほうお進めください。--へのいち 2012年1月20日 (金) 08:28 (UTC) 一字追加--へのいち 2012年1月24日 (火) 16:55 (UTC)

(戻し)僕は岡目八目の、文字通りの定義を「傍観者が八手先まで読める」という意味だと思っていました。そして複数の辞書でそれに近い記述を見つけました。例えば、yahoo辞書では「人の碁をわきから見ていると、打っている人より八目も先まで手が読めるということから(一部抜粋)」とあり、この文脈では、”目”という言葉が、”手”とほぼ同じ意味で使われていると考えました。以上が僕の編集とノートでの説明の意図です。

あの後、図書館で広辞苑(第五版)を調べてみたところ、「他人の囲碁をそばで見ていると実際に対局している時よりもよく手がよめること。(一部抜粋)」とあり、”八目”が実際にどういう意味であるのかは明示的には書かれていませんでした。また、こちらは個人の方のブログですが、辞書での”目”という語について疑問があるということも事実のようです。[1] また、どこで見たのか忘れてしまったのですが、「岡目八目」という言葉は、観戦者の体の器官である「目(め)」と、囲碁の地を数える単位の「目(もく)」に引っ掛けたシャレのようなもので、大した意味があるわけではないという説も読んだことがあります(出典が無いので話半分程度に聽いてください)

「八手先まで読める」というのは俗説かもしれませんが、広く流布しているのは確かなようで、僕としては両論併記を推します。--JonathanSheffield(旧yghwtrrl) 2012年1月16日 (月) 04:56 (UTC)

へのいちです。“文脈上”というのは“yahoo辞書などにある解説文の文脈上”という意味なのですね。ご回答ありがとうございました。確かに“八目も先まで”という文があれば、その文においては“目”が“手”という意味で使われているのだろうと 私にも思えます。ところが その解説文自体が、いまや広辞苑自身も改訂によって取り下げている広辞苑初版の誤った解説文 の孫引きである疑いがあるということなのですね。そのことを説明した、上でJonathanSheffieldさんが紹介なさっているブログは 説得力のあるものだと思えます。--へのいち 2012年1月20日 (金) 08:49 (UTC)
僕も今では、「八手先まで読める」という定義は変だと考えています。本題と直接関係ないのですが、僕の祖父が囲碁好きだったため、小さいころから碁会所へ連れていてもらったり祖父の相手をして囲碁を打っていて、多少の心得はあります。 さてしかし、その上で(決して自分の誤りを正当化するためではないですが^^;)ウィキペディアの検証可能性という方針との兼ね合いは難しそうです。というのも、個人の方のブログやその出典になっている江崎誠致氏のエッセイよりは、辞書の方が信頼性が高いと一般的には考えられるからです。広辞苑初版の誤りが流布したことが原因というのはブログの方による見解のようですし、「八手先」という通説が広辞苑より前からあった可能性はあります。
さて、記事の本筋にあまり関連のない小さい例示ですから、あまり議論の深入りは避けますが、文面の改善案はどうしましょうか? --JonathanSheffield(旧yghwtrrl) 2012年1月20日 (金) 15:11 (UTC)
へのいちです。文案としては、
傍目(岡目)八目〔おかめはちもく〕
利害の絡まない立場から見れば物事は良く見通せるが、当事者となればそうはいかないことのたとえ。観戦者と当の対局者とでは八目置かせるほどの実力差が生じると考えられることから。
あたりがよいと思うのですけど、これだと出典がないのでダメですね。信頼の置ける百科事典にするために、出典重視という方策は平均的には有効ですけれど、万能ではないということなのでしょうね。とはいえ、それはまた別の話しかも...--へのいち 2012年1月24日 (火) 16:55 (UTC)
今の表し方では、囲碁に関係してどのようなことを表すのかという話が先に来ています。次の項目の「一目置く(いちもく おく)」のところも、『・・・ことから、・・・こと。』のように同じ構成で話が続いています。こういった構成というか平仄は、いずれにしても揃えるようにした方がいいと思いますが。--AsYouLikeIt 2012年2月17日 (金) 03:49 (UTC)
上で書いたのは要するに(「これだと...ダメですね」とも書いたわけですが)、私はよい案が思いつかないということですので、私の発言はあまりお気になさらずに。--へのいち 2012年2月17日 (金) 04:47 (UTC)

(戻し) この件の詳細な定義に関する議論は、ウィクショナリーとかでするべきなんでしょうが。あまり細かい語義には立ち入らず、簡潔な説明に留めるという方針で良いと思います。(後から編集する方への、何らかの形での議論ログへの誘導は必要でしょうが。 出典は、僕が挙げたブログの出典となっている江崎氏の随筆で良いと思います。--JonathanSheffield(sub) 2012年1月28日 (土) 12:24 (UTC)

江崎『碁の博物誌』の記述には「八目も石を置く弱い者でも、局外にいて見ていると対等にわかるという意味である。局外から見れば、八目強くなると言いかえてもよい。」という文もあります。たぶんこの件についてはもっといい文献があると思うのですが、一応。--Sugitaro 2012年2月15日 (水) 13:53 (UTC)

へのいちです。「八目も石を置く弱い者でも...」なるほどそうですね。外野から当事者になにかを進言するときに、「自分はそもそもえらそうなことを言える立場(あなたに意見できるほどあなたと対等な立場)にいるわけじゃないけれどたまたま外野から見ているので...」というニュアンスを込めて「岡目八目かと存じますが...」なんて使っていました。「本来対等なはずが外野にいると当事者より八目も強くなる」のではなく、「本来八目も弱かったのが外野にいると当事者と対等になる」とか、あるいはせいぜい「本来七目弱かったのが外野にいると当事者より一目強くなる」くらいの意味ですよね。上でいろいろ書いていてもどうも違和感を覚えていたのですが、その理由が分かりました。--へのいち 2012年2月17日 (金) 04:47 (UTC)


このノートを先日になって拝見した者です。八目の意味について複数の意見(参考資料)があるようですが、アマ有(高)段者の実感を述べさせてください。

まず、対局者と観戦者の棋力が同程度の場合、観戦者が(対局者の読みのさらに)「8手先を読める」ことはありえないと思います。
対局中に数手以上先を読むのは少なくともアマ有段者に近い棋力の人で、読む対象が死活や攻め合いのように読む方向が比較的はっきりしている場合だけと思います。 そのような場合、読みが勝敗に直結するので、おそらく対局者は観戦者よりも真剣に読みます。棋力が同程度なら対局者か観戦者かの違いで読みの深さに8手の差がつくことはありえません。
読む方向がはっきりしていない場合、アマのトップクラス以上がどうかは知りませんが、私程度の棋力では数手先を読めることさえ稀です。 布石や定石の途中では知識から選んでいるだけで、対局者と観戦者の違いは読みの深さには影響しそうにありません。 プロなら(まず読む方向をはっきりさせてから?)読むのでしょうが、その場合も対局者と観戦者の違いで観戦者なら対局者の8手先を読めるとは考えにくいと思います。

次に「八目も石を置く弱い者でも...」の件ですが、置石8子の棋力の差は、たとえばアマ初段クラスとプロの棋力の差に相当します。 そのような棋力の差があれば、弱い観戦者は強い対局者の着手の是非について判断できるとは思えません。 尚、棋力の差が2子ないし3子程度なら対局者のミスに気づくことは稀にありそうです。
(この意図なら「岡目八子」と書くのが正しいはずです。)

たとえば対局者が本来読むべき100の事項の内、有力そうな90だけを読んで着手したとき、 観戦者は100の事項の内20しか読まないのにもかかわらず、対局者が読まなかった10の中の事項も読んでいてその中に最善があることはありそうです。

私は次の意味に解釈していました。

  • 対局者が選んだ手と観戦者が読んだ手の得失の差が地に換算して出入り数目以上になることを「八目」と言っている。
  • 対局者の観点以外の多数の観点で局面を見て対局者より良い手に気付く。複数の観点を「八目」と言っている。

これらなら実感と合います。

--Jcqarw会話2012年9月17日 (月) 03:46 (UTC)

宣伝か否かの判断

私が 2012年1月24日 (火) 10:50‎ において編集した節が宣伝目的とのことで削除されました。 やはり漫画などの場合出版社などから発行され市場に流通しているほど有名な物で無いといけないのでしょうか? また、外部リンクなどもどういう基準で追加・削除しているか皆様のお考えをお聞かせ頂けたらと思います。 --Tym1101 2012年1月28日 (土) 11:27 (UTC)

自殺手について

日本ルール等では自殺手は禁止ですがニュージーランドルール等ではコウ材として利用可能となっています、その記述を加えたほうが良いと思うのですがいかがでしょうか? http://www.britgo.org/rules/compare.html --Tym1101 2012年2月11日 (土) 09:21 (UTC)

自殺手は台湾ルールで可能であり、それを取り入れている組織があるということです。ルールについては各国それぞれでいろいろな違いがあるという記載方法がいいでしょう。--Sugitaro 2012年2月11日 (土) 09:59 (UTC)
コメントありがとうございます。さっそく記事に追記しておきました。--Tym1101 2012年2月12日 (日) 07:13 (UTC)
誤解しています。ルールの違いは自殺手の有無だけではないので、ルールの違い全体を記述しないと間違った解釈をされます。リンク先も一つだけでは不適切です。--Sugitaro 2012年2月12日 (日) 07:19 (UTC)
確かに細かなルールの違いもあり自殺手の節だけでは不十分でした申し訳ありません、「国や地域によってルールが違う」という趣旨の記述をルールの節の見出しの下辺りに追記したいと考えておりますが上記以外の信頼できる情報源を見つけることが出来ませんでした、なのでどう編集したら良いか他の方の意見もお伺いしたいと考えております--Tym1101 2012年2月13日 (月) 08:59 (UTC)
大まかな説明だけ書いてみましたが、細かな差異や出典は「囲碁のルール」の項に書いてはどうでしょうか。--Sugitaro 2012年2月13日 (月) 13:43 (UTC)
以前よりルールの違いが存在することが明白になりこれなら記事を見た人が囲碁についてより深く知って貰うことが出来ると思います、編集お疲れ様でした--Tym1101 2012年2月20日 (月) 07:12 (UTC)
一応書いておきます。平本弥星『囲碁の知・入門編』に「碁のルールは、時代により、地域によって違いがあります。」という記述があります。(なんか当たり前すぎることのような気がしますが)--Sugitaro 2012年2月15日 (水) 13:47 (UTC)