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ノート:天璋院

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タイトル名について

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日本放送協会は2006年8月1日、2008年の大河ドラマについて、幕末大奥に君臨した女性の一代記「篤姫(あつひめ)」にすると発表ました。原作は宮尾登美子さんの「天璋院(てんしょういん)篤姫」です。これに伴いウィキペディアにも例のごとく影響が及ぶものと思われます。まず「篤姫」のページがウィキペディアに存在しないため篤姫と同一人物である天璋院のページが既に存在しているにも関わらず重複ページとなる「篤姫」のページを作られてしまう恐れがありました。そのため先ほど「篤姫」のページを作り、「天璋院」のページへリダイレクト設定をさせていただきました。今回それまで無かったこの「ノート:天璋院」を設置させていただきましたので、リダイレクトを解除する時は混乱を避けるためにこの場で議論し、合意が形成できた時点で行ってください。よろしくお願いします。--R2d2 2006年8月1日 (火) 13:29 (UTC)[返信]

天璋院と徳川家達の関係について

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徳川家達も合わせてご参照下さい。

徳川家達のノートで論議すべき内容かも知れませんが、天璋院に深く関わる事項のため、こちらで問題提起します。

徳川家達の項で「家達は天璋院の養子であり、イギリス留学も天璋院の指示による物」という補足がありましたが、ネットで見る限りでは現時点で確実な根本資料にあたるものが見あたりません。また私が読んだ本に書いてある内容と異なると思います(その本は申し訳ありませんが、現在タイトルを失念しております。)

  • 徳川家達は誰の養子となって16代徳川本家当主となったのか
  • 家達の留学は誰の指示による物か

以上2点について、確実な資料をご存じの方は御教示お願いします。

なお、家達の留学については、来年の大河ドラマの監修者でもある鹿児島大学教授の原口泉氏が、地元での講演で「家達留学は天璋院の指示による物」と話してられた事を確認できます(但し、どの史料を参考とされたのかが不明です)→参照本願寺鹿児島別院主催ハートフル講話録2007年11月21日。 --こぶまき 2007年12月3日 (月) 12:33 (UTC)[返信]

生年月日について

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ShikiHでございます。いつから新年かは西暦と和暦では異なるので、西暦と和暦の換算はとても面倒なものです。そこであたかも1対1に対応するかのごとく換算します。教科書でも、広辞苑でも、国史大事典でもそのようになっていますが、西暦と和暦が1年くらいずれていることがあるという知識は広く行き渡っています。グレゴリオ暦1836年は和暦で天保7年とするのが一般的です。ところで、年を唱えるのはそれでいいとしても、月日を併記するときにもそれでいいでしょうか。天璋院の生年月日についてですが現行の記事では、天保7年12月19日(1836年2月5日)となっていて、前述の立場からはこれで正しいのですが、詳しく見れば1836年2月5日は天保6年だと思われます。天保7年12月19日は1837年ではないでしょうか。天保6年がいいか、天保7年がよいか難しいところです。みなさんのご意見を伺いたいと思います。--ShikiH 2008年12月16日 (火) 10:14 (UTC)[返信]

参考までに、NHK大河ドラマの公式ページでは「天保6年(1835年)」と表記されております。
また、外部リンクにある江戸東京博物館天璋院展(NHK大河関連の企画展)のページには「1835年(天保6)」となっています。
ちなみに、こんな意見も見つけました。
Carbucketty 2008年12月16日 (火) 12:46 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。NHKと江戸東京博物館は天保6年生まれとしているので、前述の換算法により1835年となるという考え方ですね。これはまあ、よくあることだとして「こんな意見」は初めて知りました。実は天保7年生まれと言う説で、実際そうなのかも知れません。しかしながら、本文に書かれていることとは一応、分けて考えたいと思います。--ShikiH 2008年12月16日 (火) 13:29 (UTC)[返信]

「こんな意見」の内容を本文に反映させるかどうかはおまかせするとして、そのページの一番下に『正式資料である「島津氏正統系図」では、篤姫は天保6年生まれ』という記述があります。これが本当に「島津氏正統系図」なるものに記載されているならば、「天保6年」とするのが適切なのではないかと私は考えます。
Carbucketty 2008年12月16日 (火) 13:59 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。他に意見が無ければしばらくしてから天保6年12月19日(1836年2月5日)に書き換えます。--ShikiH 2008年12月17日 (水) 21:41 (UTC)[返信]

日本史サスペンス劇場を出典とする記述について

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NHKの歴史番組であるその時歴史が動いたでは番組内容はもちろん、番組内のセリフにまで詳細な出典を付記しています[1]。しかしこの番組では、どういう研究や学説・史料に基づいて製作されたかが一切示されていない[2]ので、研究や学説によるものなのか、宮尾の小説の内容なのか、テレビ番組上の脚色なのかが判別できません。”徳川家達の子供達によると”なのであれば「徳川家達の子供達」の証言という明確かつ信頼できる史料があるはずです。現状では「テレビで言ってた」だけの域を出るものではなく、検証可能性情報源としての信頼性を満たしているとは考えられません。--彩華1226 2008年12月20日 (土) 15:54 (UTC)[返信]

出典の明らかでないテレビ番組を根拠とする記述が除去された場合、再掲にはテレビ番組以外の信頼できる情報源を提示すべきです。「その時歴史が動いた」の場合でも、番組を出典とするのではなく、その元になった資料を出典とすべきですが。--miya 2009年1月3日 (土) 08:33 (UTC)[返信]
彩華さんが出典を要求されていますが、文芸春秋かで見た宮尾登美子氏の天璋院関係者インタビューについての記事がもう見つからなかったので、書き換えてみました。エピソードの項なのでこれくらいの表現であれば出典が無くとも許されるのではないかと私は思いますが、ダメということであればノートでの合意形成をお願いします。--寂華 2009年1月11日 (日) 16:09 (UTC)[返信]
日本史のわからない者が横から失礼いたします。寂華さんには直接お知らせしましたが、「週刊文春」2008年9月25日号「『ドラマのようなきれいごとではありません』宮尾登美子原作者が語る本当の『篤姫』」が寂華さんがご覧になった記事かも知れませんが、私自身は読んでおらず自信はありません。他の利用者の方でも確認してくださると幸いです。--Octobersteps 2009年1月12日 (月) 11:45 (UTC)[返信]
たいへんな間違いを書いてしまいまして、申し訳ございませんでした。正しくは『文藝春秋』08年11月号の「人気大河ドラマの舞台裏 篤姫と家定 夫婦の秘密話します 宮尾登美子/堺 雅人」でした。(個人ブログMy Personal Impression「2008-10-13 篤姫と家定 宮尾登美子/堺 雅人」で当該箇所を確認できます。)実際に記事を確かめず書いてしまいましたこと、お詫びいたします。--Octobersteps 2009年1月18日 (日) 09:51 (UTC)[返信]
リンク先を確認しました。「宮尾氏がそう聞いたと言っている」以上のことはないわけですね。--彩華1226 2009年1月18日 (日) 12:39 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源をもう一度しっかり読んでください。--彩華1226 2009年1月18日 (日) 04:27 (UTC)[返信]

テレビ番組は出典になりえません。他の編集者が確認できるかどうかという点で問題がありますよ。Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源なのかを熟読してください。--61.124.20.36 2009年1月13日 (火) 16:05 (UTC)[返信]


日本史がわからない者が再び失礼いたします。もし出典を求めるとすれば、CiNiiで「家定 毒殺」で検索して出てきた次の資料が役に立つかも知れないと思い、ご興味のある方のために念のためお知らせいたします。NDL-OPACを利用できる方のために雑誌記事IDも付記します。

  • 伊東成郎「水戸斉昭の将軍家定毒殺の風聞 (特集 徳川将軍家 血の暗闘史) -- (紀州頼宣と由比正雪の幕府転覆計画)」『歴史と旅』1999年8月号、秋田書店、114-119頁、ID 0410508717。
  • 「特集グラビア 13代将軍徳川家定は毒殺されていた!?--「毒殺説」を語る大奥女中の手紙発見 (シリーズ事件推理-6-徳川15代将軍家と天皇家)」『歴史読本』1999年6月号、新人物往来社、図巻頭3頁、ID 0412671401。

以後はこちらへ参りません。--Octobersteps 2009年1月24日 (土) 00:12 (UTC)[返信]

「薩摩藩の密偵である」について

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ShikiHでございます。「島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。」と後述されています。篤姫は大奥の意向もあって御台所になったということです。よって、「密偵であった」は密偵の意味にもよりますが、不適切と考え削除しました。--ShikiH 2009年2月1日 (日) 15:47 (UTC)[返信]

天璋院の戸籍名について

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--ほろほろ鳥会話2022年1月15日 (土) 06:05 (UTC)2021年6月5日 (土) 17:52時点における版 (編集) (取り消し) 126.158.174.11氏によって、天璋院の戸籍名が加筆されていますが出典がありません。 当時の戸籍は壬申戸籍なので現在は閲覧不可のはずです。 また天璋院は院号であって実名ではありません。 徳川の姓は夫の姓であって当時は女戸主でなければ夫の姓は継いではないはずです。 不思議な点が多いので出典と戸籍の正確な記述内容の明示の必要性があります。[返信]