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ノート:川村カオリ

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youtubeへの外部リンクについて

現在外部リンクにニコライ堂の弔いの鐘音 川村カオリがありますが、こちらは外部リンクとしてふさわしくないのではと思っています。理由はこの動画が本当に川村の葬儀の動画であるという確証がないからです。看板の文字や天候や場所を考えれば川村の葬儀の動画であることは明白との意見もあるかと思いますが、Wikipediaに載せられるのはすでにその検証がなされた二次情報源です。youtubeの投稿動画は一次情報源にあたると思います。異論がある方はまず信頼できる情報源#情報源などを参照下さい。この動画が例えば川村の公式HPからリンクされているなど、信憑性を示す事柄があるならば別ですが、それが確認できないうちは外部リンクとして記載すべきではないと思います。意見をお待ちしています。1週間経っても意見が無い場合は当該記述を除去します。--Cathkidston 2009年8月4日 (火) 06:13 (UTC)[返信]

コメント 私はこの目で見ており、聞いていましたから…というのは検証可能性を満たしませんね(でもまあ正教会関連の記事を大量に執筆している者として、一応申しておきましょう)。
こちらを御覧下さい。
で、普段のニコライ堂の画像については記事ニコライ堂を御覧下さい。看板の存在が証拠です。
「報道陣は教会敷地内への立ち入りをご遠慮願います」と旨の正門両側の看板は、川村カオリのパニヒダ・埋葬式の時にのみ掲示されていたものです。普段の埋葬式では密葬でもない限り、聖名と名前を書いた大きな看板が掲げられます。日常においては、同種の看板は設置されていません。--Kliment A.K. 2009年8月4日 (火) 06:28 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。看板の存在が証拠とのことですが、その看板が川村カオリの埋葬式の時にのみ掲示されていたということなどはKliment A.K.さんの知識であって、それを証明する情報源がなければ証拠にはなり得ないと思うのです。普段のニコライ堂とyahooの記事の画像、youtubeの動画を比較して推測することはできますが、それが信頼性を補完できるとまでは言い切れないのではないでしょうか。また、最初の議論提起では省いてしまいましたが、この外部リンクの必要性についても私は疑問を感じています。どこで葬儀が行われたのかということに関しては本文で明記されておりますし、動画を紹介する必要はあるのでしょうか?必要性が「鐘の音」の部分にあるのだとすれば、「川村カオリ」の記事ではなく「ニコライ堂 」の記事のほうで取り上げるほうが自然だと思います。川村カオリに関わる動画であるからリンクするというのであれば、もし「川村カオリがライブを開催中のホールの動画」などがあればそれもリンクの対象となるということになりますよね(そんな動画はないと思いますが)。そういった動画をリンクすることは他のアーティストの項目でも一般的ではありませんし、あえてリンクするほどのものではないと私は思うのです。私の考え方は厳密すぎますか?--Cathkidston 2009年8月4日 (火) 09:24 (UTC)[返信]

コメント 正直申しまして聊か不愉快さを感じております。「検証可能性」について問題提起があったのでそれについて鋭意手段を尽くそうと模索・探索しております中、「特筆性」関連の問題を提起されたのでは、「検証可能性の探索に成功したとしても、結局削除されてしまう」蓋然性があるワケですから、私の努力は何だったのか?という事になりかねません。
>私の考え方は厳密すぎますか?
厳密に過ぎると思います。また、「開催中のホールの動画」の例につきましては、私もそのようなものを載せるべきだとは思いません(そもそも著作権の問題が出て来るでしょうから)。
確かに、掲載の妥当性は相対的には埋葬式ニコライ堂の方が高いでしょう(事実追加しました)。しかしながら特筆性につきましては少なくとも私は「日本人に馴染みのある葬儀とは異なるものであるため特筆性はある。」と考えたから追加しました。取り敢えず、特筆性については他の方の見解も俟ちたいと思います。--Kliment A.K. 2009年8月4日 (火) 12:35 (UTC)[返信]

不愉快にさせてしまったようで申しわけありません。しかし意図的にしたことではありませんのでどうかご容赦を。今後気をつけたいと思います。「開催中のホールの動画」という例については説明が足りなかったですね。たとえば・・・そうですね、ホール前にカメラを据えて、ホールに向かう大勢の客の後ろ姿を映しているとか、そんなものであるとご想像下さい。葬儀の動画もそういった動画も同じようなものだと私は思います。個人の感覚に依ることですので、この部分の議論は難しいですが。それと、葬儀が日本人に馴染みの薄い形のものだったというのはわかりますが、動画へのリンクを提示するほどのこととは思えません。文章で説明すれば十分では?まあ、このままでは議論も堂々巡りですので、他の方の意見を待ちましょうか。もし意見が来ないようであればコメント依頼提出も考えるとして。--Cathkidston 2009年8月4日 (火) 13:32 (UTC)[返信]

コメント 「ホールに向かう大勢の客」は人に見せるためのものではありえませんが、鐘は聖堂外の人間に聞かせる事を初めから想定しているものです(鐘というものは聖堂内に入れない人にも報せを行うために鳴らすものなのです)。そこに本質的に差があり、この差異はまず事実として認めて頂きたいと思います(同列に扱われておいでの姿勢にまず非常に違和感を覚えます)。--Kliment A.K. 2009年8月4日 (火) 15:12 (UTC)[返信]
なるほど、鐘の目的を初めて知りました。鐘の例の件につきましては、大変勉強になったことを感謝するとともに、こちらの無知をお詫びいたします。--Cathkidston 2009年8月5日 (水) 04:40 (UTC)[返信]

「検証可能性」については、看板の存在が普段のニコライ堂とyahooの記事の画像、youtubeの動画を比較して推測することはできるものの、それが信頼性を補完できるとまでは言い切れないと考えます。そして「特筆性」については、日本人に馴染みのある葬儀とは異なるものであり、鐘は聖堂外の人間に聞かせる事を初めから想定しているという点で、「特筆性」としてはやや弱さを感じるもののギリギリのところで「特筆性」の範疇に入れても良いのではないか、と考えます。ですので後は「検証可能性」が問題になるのではないでしょうか。--重山規夫 2009年8月4日 (火) 17:03 (UTC)[返信]

コメント 出典が見付かりましたのでお知らせ申し上げます。
--Kliment A.K. 2009年8月8日 (土) 06:39 (UTC)[返信]

確認しましたが、一信徒が紹介するサイトとの記述がありますね。つまりこれは公式サイトではなく個人サイトにあたると思うのですが。また、議論が終わらないうちに本文を編集しないでください。--Cathkidston 2009年8月8日 (土) 16:37 (UTC)[返信]

コメント えーと…ちょっと待って頂けませんか(汗)「その教会の信徒」が専門性の高い内容で書いている内容ですら「信頼できない」のですか?「個人サイトであれば出典に使えない」とはどこにも書いてありませんよ?仰るような「個人サイトにあたる」などという論理を適用してしまうと、かなりの数のキリスト教関係の記事(専門性の高い個人サイトを使っている記事はごまんとあります)が崩壊してしまうのですが…。どういう意図でそこまで仰るのか解りかねます。どうしても削除したいんですか?--Kliment A.K. 2009年8月8日 (土) 17:02 (UTC)[返信]
コメント どうあっても削除しようという意図しか感じられない現状、削除への合意には絶対に応じられません。--Kliment A.K. 2009年8月8日 (土) 17:08 (UTC)[返信]
コメント いま一つ付け加えます。キリスト教関連の記事にまで飛び火されると大変な事になりますので。
キリスト教においては信頼できる著作物というのが実はまだまだ少なく、例えばカトリック関係者がプロテスタントについて書いた本に結構プロテスタントに係る間違いが平然と書かれていたり、逆もまた沢山あります。知名度のみならず書籍の少ない正教に至っては実に惨憺たるお粗末な有様です。キリスト教関連のウィキペディア執筆者達は、その超教派での出典確保の難しさを肌身を以て知っていますから、「非関係者の書いた著作よりは、当事者のウェブサイトの方が基本的にベターである(勿論、当事者が書いた著作があればベストですが)」というのが常識なのです。ましてやスピリチュアルブームやダ・ヴィンチ・コードブームなどによって、トンデモ本と見紛うほどのキリスト教「入門」書が沢山出ている現状をそのまま事典に反映してしまっては、もはや目も当てられません。「個人サイトであるから出典として使えない」などという暴論で以て全キリスト教関連の記事に問題を飛び火させないようお願い申し上げます。--Kliment A.K. 2009年8月8日 (土) 17:19 (UTC)[返信]
コメント 失礼ですが、Kliment A.K.さんの態度は少しおかしいと思うのです。Cathkidstonさんは単に「これは公式サイトではなく個人サイトにあたる」と仰っていて、これは単に事実でしょう。つまり、個人サイトですが本当に信頼できますか? と「問い掛け」をなさっているのではないですか? また、「議論が終わらないうちに本文を編集しないでください」というのも正しい指摘だと思います。鐘の音の動画が本当に川村さんの葬儀の時のものなのかは、私も最初から「これだけでは信用できない」と感じておりましたし、こうした話し合いが今は必要だからこそ行なっているのではないですか? 残念ながら現段階では、むしろ必ずしも必要でない曖昧な動画であるにも関わらず、Kliment A.K.さんの方こそが「どうあっても掲載しようという意図」を持っておられるようにしか見えません。--重山規夫 2009年8月9日 (日) 05:22 (UTC)[返信]
コメント ともあれ、Kliment A.K.さんが提示された専門性の高い個人サイトのおかげで、問題の動画の信頼性は上がったとは思います。--重山規夫 2009年8月9日 (日) 05:46 (UTC)[返信]
コメント まず、感情的になりました事を率直にお詫び申し上げます。
その上で…
Cathkidstonさん仰る事にはやはり納得がいきません。
疑問第一点:「ではどのような出典が見付かれば出典としての要件を満たすのでしょうか」
疑問第二点:「個人サイト」としての判断についてです。奉事予定更新履歴Q&Aページ聖堂拝観と洗礼のご案内を見れば解る通り、このサイトは「個人が単に趣味で作っているもの」ではなく、ある程度教会組織からの監督を受けて作っているものです(そうでなければ信徒が自分のホームページに教会宛のメールアドレスを公開など出来ません)。こういうタイプのもの:乃ち「準公式サイト」とでも呼べるものがニコライ堂に限らず、そして正教会に限らず、教会関連のサイトには非常に多う御座います。こうしたものを出典として使えなくなりますと、正教に限らない、キリスト教関連の多くの記事で大変な支障をきたす事情があります事は、今一度申し上げます。また、そのような記事文化に慣れた者としての行動だという事を御理解下さい。「一般の書籍に書いてある事だけ書けばいい」という話になれば、ウィキペディアにありますキリスト教関連の記事の5割ほどが崩壊します。特に他言語(特に英語)からの翻訳ウィキペディア記事につきましては、裏づけとなる日本語文献は「準公式サイト」にしか用意されていないというのがザラにあるのが、我が国の宗教学・神学の、残念ながら現状なのです(これは正教に限らず、カトリック教会聖公会プロテスタントも同様です)。それほどのお寒い状況の中で、執筆者達は他言語版ウィキペディアとの整合性を成立させようと懸命になっている事情を御考慮下さい。くどいようですが、貴重な「準公式サイト」である「御茶ノ水の泉通信」が「単なる個人サイト」として否定される前例を作られる事だけは厳に避けて頂きたいのです。正直、キリスト教関連の記事全体(さらには東欧関連の記事全体)に多大な影響を及ぼしかねない議論の現状に、大変な焦りを感じております。本記事だけの問題にとどまらない重大な問題だからです。そういう背景があっての焦り・感情的対応が現れている事情については、どうか汲んで頂きます様、伏してお願い申し上げます。
Cathkidstonさん・重山規夫さん御指摘のことについて
釈明:「議論が終わらないうちに本文を編集しないでください」という事についてですが、申し訳ありません、このように頻繁に編集が行われる分野に私は関わった事がほぼゼロですので、まさかにそのような反発があるとは想像しておりませんでした。これまでの分野では「議論中であっても、出典が見付かれば即、付与する」「出典として不適切であると考えられる場合には、その後、議論相手が改めて削除して議論を繼續する」というやり方ばかり見て参りましたので、全ての分野で同様の措置が行われているものと思っておりました。御不快の段、お詫び申し上げます。--Kliment A.K. 2009年8月9日 (日) 13:46 (UTC)[返信]
補足:「一般の書籍に書いてある事だけ書けばいい」という話になれば、ウィキペディアにありますキリスト教関連の記事の5割ほどが崩壊する…と述べました事情につきましては、自分の作る記事には最低限、準公式サイトの裏付けは与え、可能な限り明治時代の文献しかないような分野についても参考文献・出典文献を付与するよう務めております。さらに自分が立ち上げていないキリスト教関連の記事で出典が明記されていないものにつきましては、様々な教派の執筆者とともに鋭意改善に取り組んでおります。決して問題ある現状を放置している訳では無い事を申し添えます。--Kliment A.K. 2009年8月9日 (日) 13:53 (UTC)[返信]
コメントこんにちは。ちょっといろいろ錯綜しているように思います。
「この動画が本当に川村の葬儀の動画であるという確証がない」という理由で、外部リンクを除去するべきかどうか、というのが、最初の論点です。
動画の内容からは疑いをかけるべき点がなく、信頼できそうな内容を持つ教会信徒のサイトがリンクを張っていて、なおかつ執筆者が実際に体験しているということであれば、その動画によって示される内容が、(ごく最近までは存命だった人物に対して)批判的な内容ではなく、ある観点を推し進めたり、じゅうぶん知られていない事柄を明らかにするというようなことでないなら、誤りであったとしても、致命的なものにはならなそうだ、という判断も含めて、ひとまずは葬儀の動画であるとみなしてもよいと思います。
ただし、この動画の投稿者が、遺族や葬儀を取り仕切った立場にあるかどうかは明らかではありません。著作権はともかく、肖像権や撮影・公開の許諾関係についての処理や、当事者の心情として公開を望んでいるかどうかがはっきりしません。百科事典の内容として、歌手の葬儀の様子を映像で確認するための外部リンクが必須だとは思えませんから、やはり当事者または葬儀関係者の公式サイトに類する場所で言及がなければ、編集除去が適当かなと思います。たとえば、リンクを張っている「個人サイト」の方が、動画の投稿者に記録を依頼したというような書き込みがあれば、それらはクリアできるといえるでしょう。
「御茶ノ水の泉通信」は、日本語で比較的信頼できる情報が得られる貴重な「個人サイト」として、これまで通り活用することに問題はないと思います(本当に信頼できるのかどうかの判断はぼくにはできませんけれど)。
信頼できる、という判断の中には、サイト内で非日本語文献を参照している、または、他言語版で信頼できそうな出典を示されて記述されている内容と一致する、といったことも含まれているのだと思います。
もっとも、そのサイトの教会関連の内容が信頼できるからといって、HP作成素材関係も一緒に並んでいるリンク集のページの短いコメントまでをすべて信頼できる情報源として扱えるかどうかというと、それはそれで難しいかもしれません。「川村の葬儀の動画」かどうか、ということで言えば、信徒のHPよりは、ファンサイトの記述を集めるほうがいいのかもしれないです。
一般的には、掲載される事柄やその主張、その重要さ、得られる情報の質や量といったものに応じて、求められる信頼度は変わってくると思います。
Cathkidston さんは、日本のポピュラー音楽のミュージシャンなどの記事で出典の必要性や独自研究の抑制を中心に活動されてきたようです。この種の記事では、些細なものも含めて情報源は多くあるけれど、学術的なものは少ない、存命人物として配慮すべき点もある、百科事典としての必要性がそれほどないものや、個人的な考えなどを記載しようとする編集者も少なからずいる。…という傾向があります。ここでは、方針類を比較的厳格に当てはめる必要がありますし、たとえば一つ動画へのリンクを置くと、明確に他の動画と区別できる点がなければ、どんどん増えてしまうということを考慮するという判断もあるでしょう。
Kliment A.K. さんの編集されている分野は、記述すべき事柄についても、(特に日本語の)情報源に乏しく、できるだけ信頼できる情報源を選びながら、なんとか加筆していく必要があるものだと思います。まあ、理想的には、そのサイトのみを情報源とするのではなく、信頼できる非日本語文献を情報源として、日本語で閲覧できるものとして、そのサイトを挙げるということになるでしょうけれど(それを無理強いはしませんが、理想的にはそうだ、ということを確認しておくことは必要だと思います。情報源に欠ける記事の扱いについては、いちおう理解しているつもりです。これからお察しください)。
それぞれ、百科事典という大きな枠組みの中で、異なる分野の編集者が交わったために、それぞれの分野の他の記事の様子との兼ね合いや波及を避けるために、議論がすれちがったように感じました。--Ks aka 98 2009年8月9日 (日) 16:35 (UTC)[返信]
議論が錯綜してきたので昨日コメント依頼を提出したところです。Ks aka 98さん、さっそくご意見ありがとうございます。信頼性や検証可能性について議論を重ねてきましたが、Ks aka 98さんのおっしゃったとおり「著作権はともかく、肖像権や撮影・公開の許諾関係についての処理や、当事者の心情として公開を望んでいるかどうかがはっきりしない」、ここの部分が最も重要な点であると感じました。ここがクリアできないかぎり除去が妥当だと私も思います。Kliment A.K. さん、あなたが私に提示した二つの疑問点の答えは、Ks aka 98さんのコメントの中で示されたものとおおむね同じであるということで、回答に換えさせて頂ければと思います。--Cathkidston 2009年8月10日 (月) 02:40 (UTC)[返信]
  • (コメント)そもそもの論点がずれています。私はKliment A.K.さんのご意見は事実とは捉えています。ただし、問題はCathkidstonさんの提起する「検証可能性」ではないと思います。この問題は第一義的に考えて、Wikipedia:削除の方針におけるB-2のケースに抵触する可能性があります。普通、こういった葬儀内容を公開することは遺族の了解のなく撮られたものであり、死後50年を経過しているわけでもないので、「削除の方針」B-1も検討の視野に入れて外部リンクから除外するのが適当かと存じます。なので、Kliment A.KさんとCathkidstonが行ってきた議論は不毛のものと考えます。その論点は抜いてください。--Suttokodokkoi 2009年8月10日 (月) 07:10 (UTC)[返信]
Suttokodokkoiさん、ご意見ありがとうございます。検証可能性以前の問題だったということですね。的確に問題提起できず議論の錯綜を招いてしまい、恥ずかしい限りです。「削除の方針」に抵触する可能性があるということは、本文からの除去だけではなく削除依頼の提出も視野に入れるべきなのでしょうか?--Cathkidston 2009年8月10日 (月) 08:40 (UTC)[返信]
権利侵害が明らかなわけではないですし、侵害をしているとしても、それは外部リンク先です。編集除去するとしても、削除をする必要はないでしょう。Cathkidstonさんにお願いですが、今回の外部リンクの動画の扱いには、いくらかややこしいところがありますから、うまく論点を絞れなかったことを批判するつもりはないですけれど、議論の錯綜を招いたことによってKliment A.Kさんが無用の反論をしなければならなかったということを認識いただき、発言に配慮していただければ幸いです。--Ks aka 98 2009年8月10日 (月) 08:52 (UTC)[返信]
削除までは必要としないとのこと、理解しました。ひとまずKliment A.K.さんの意見を待ちたいと思います。
なお、私の発言に関しては、言葉足らずのところはあったと思いますが礼は十分に尽くしたつもりですよ。「暴論」や「反発」といった言葉を使われ、耐えたのはこっちのほうです。重山規夫さん、2度目の発言には大変救われました。ありがとうございました。--Cathkidston 2009年8月10日 (月) 11:35 (UTC)[返信]
この件については特にこれといった意見を持ち合わせなかったので静観していたのですが、論点を検証可能性から特筆性に変更し、さらにKs aka 98さんのコメントに便乗する形で当初は全く言及していなかった許諾関係や当事者の心情を前面に押し出し、Suttokodokkoiさんからコメントが寄せられると今度は「削除の方針」を持ち出すという議論態度は、誠実さに欠けるといわれても仕方ないと思います。理由は何でもいいから削除することそのものを目的にしているとしか見えないです。
自分としてはあってもなくてもいい情報だと思いますが、記載するならば「外部リンク」の節ではなく葬儀について説明した文章への脚注という形がいいのではないかと思います。--sergei 2009年8月10日 (月) 13:17 (UTC)[返信]
提示された新しい意見に同意することを便乗と捉えられてしまってはかないません。納得できる意見であったからこそ同意したわけです。ご意見、ご批判は甘んじて受け止めますが、Ks aka 98さん、Suttokodokkoiさんの意見を私が利用したと思われているのでしたら、それだけは違うと言いたいです。--Cathkidston 2009年8月10日 (月) 13:45 (UTC)[返信]
どうも「暴論」や「便乗」など、他人に対して簡単に失礼な言葉を投げかける方が多いようですが、そんなことで良いのでしょうか。これは勝ち負けを目的にする喧嘩ではない筈です。Cathkidstonさんの言動は単なる便乗ではなく、議論を練り上げようとしているものであって、むしろ正しい議論だと思います(ややこしさのある問題ですので言葉足らずのところがあった点は御本人も認めておられますし、それはもういいのではないでしょうか)。ですが、『記載するならば「外部リンク」の節ではなく葬儀について説明した文章への脚注という形がいいのではないか』というsergeiさんのアイデアには賛成です。Kliment A.K.さんの豊富な知識とこれまでの御努力にも感謝です。 --重山規夫 2009年8月11日 (火) 01:34 (UTC)[返信]

コメント依頼から来ました。私も「当事者の心情」などの問題から、当該映像への外部リンクは除去した方が良いだろうと思います。加えて、リンクを置く場所が「外部リンク」か「脚注」かに関わらず、本項目から動画にリンクすることによって招く結果(=「当事者の心情」に反することになるかもしれない)は同じなので、sergeiさんの提案を採用するのも避けるべきだと考えます。--Bluebell 2009年8月11日 (火) 13:24 (UTC)[返信]

お盆で多忙となり、現在ちゃんとしたコメントをする時間がありません。お盆が明けましたらコメント致します。申しわけありませんが、ご理解の程よろしくお願い致します。--Cathkidston 2009年8月13日 (木) 13:58 (UTC)[返信]

WP:DPのB-2に抵触する虞とのことですが、駿河台全域に鳴り響く鐘の音にまでプライバシーの配慮をしなければならないというのは、かなり神経過敏なのではないでしょうか。もしこれが「プライバシーの問題」なのだとすれば、他記事での掲載すら問題にされかねず、その点の危惧も出て参ります。--Kliment A.K. 2009年8月14日 (金) 04:23 (UTC)[返信]
  • ちょっと認識が違います。「抵触する可能性」であり、抵触するという確立論ではありません。わかっているのは遺族に無断で撮影されたもの(特に門内を写すことを主眼に撮影されたもの)であり、たとえば、これが音声のみであればニコライ堂にリンクすべき内容でしょうね。ただし、これが映像となった場合、どうかと考えると、よくて注釈で済む内容かと思います。実際に参列者も写っておりますのでそれらを危惧しております。そしてたぶんないでしょうが、「追悼川村カオリ」としてDVD等が発売された場合、参列者が写っている当画像は問題になるかと存じます。Kliment A.K.さんの「検証可能性」を支持する上での発言だと認識のうえ、解釈していただければ幸いです。--Suttokodokkoi 2009年8月14日 (金) 09:56 (UTC)[返信]
  • 映像についての御懸念なのですね。さて…これほど不鮮明な、そして参列者も殆ど写っていない動画に、プライバシー侵害の虞があるのでしょうか…?モザイクがかかっているのと変わらない画質だと思えますが…他の方の御意見も拝見して判断したいと思います。--Kliment A.K. 2009年8月14日 (金) 13:25 (UTC)[返信]
参列者(門から出てきた方)や見物人については、個人を識別できる状態ではないため権利(プライバシー)侵害にはあたらないと私は考えます。
8月10日にも同様の意見をしましたが、私はKs aka 98さんがおっしゃった「著作権はともかく、肖像権や撮影・公開の許諾関係についての処理や、当事者の心情として公開を望んでいるかどうかがはっきりしない」ことが問題だと感じております。
当然のことですがあえて書きます。葬儀は、当事者の方達にとってはその間だけのかけがえのない別れと祈りの時間であり、ごくプライベートな時間です(芸能人でもそれは同じ事でしょう)。川村さんの身内の方も、その貴重なひと時を経てそれぞれの思いを胸に今を生きていらっしゃると思います。
その方達に許可を取らずに、「ニコライ堂の弔いの鐘音 川村カオリ」というタイトルでyoutubeで会場の外観とはいえその時を映したものが公開されているということを私は快く思いません。ここまでが、当youtube投稿動画自体に対する私の考え方です。
従って、Wikipediaの川村カオリの記事からリンクを貼ることは(外部リンクにしろ脚注にしろ)、当動画の有用性が当事者の心情を慮ることよりも勝ると記事を編集する者が判断したということになってしまうと思います。そして私には、それほどの有用性を当動画に感じません。Kliment A.K.さんはこの点についてはどうお考えでしょうか?なお、撮影者が川村さんの関係者ではないことも付記しておきます(撮影者のブログ参照)。--Cathkidston 2009年8月17日 (月) 10:44 (UTC)[返信]
論点を次々に新しく出されて少し疲れております…たまたま今回久しぶりにログインしましたらこの議論が目に留まりましたのですぐにお答えすることにしますが、今後、議論のペースを落とさせて下さい。
「当事者の心情」についてですが、聖堂内での埋葬式の模様などならば兎も角(そもそもニコライ堂は関係者に許可されたもののほか、基本的に内部撮影禁止なのでそのような映像はまず流出しようがありませんが)、駿河台中に鳴り響いている音声(これも既に申しました)に「公表するか否か」の判断も何もないと思うのですが(公表も何も、既に公衆の耳に入りまくりです)。--Kliment A.K. 2009年8月17日 (月) 20:33 (UTC)[返信]
新しい論点ではありません。8月10日に既に述べた意見をかみ砕いて説明したものです。また、前の私のコメントをもう一度よく読んで頂ければおわかりになると思いますが、私が問題にしているのは鐘の音ではありません。
ご想像頂きたいのですが、Kliment A.K.さんに社会的に有名なご家族がいらっしゃるとして、その方が亡くなられたと思って下さい。その方の葬儀が今まさに行われている建物を外から映した映像を第三者が無断で撮影し、故人の名前付きでyoutubeに投稿していたとしたらどうお感じになられますか?心の中で過去になりゆくプライベートな時間の一部を、自分だけではなく誰もがネット上で見られる状態にあるということについて、心をかき乱されないと言い切れますでしょうか?
議論のペースを落とされるとのことですので、これに対しての返答をすぐに求めるものではありません。ただし、現時点で外部リンクからの除去に反対されているのはKliment A.K.さんのみですので、合意形成に至るまでにKliment A.K.さんとの意見交換は欠かせないものであると感じています。可能な限りご協力の程よろしくお願致します。--Cathkidston 2009年8月18日 (火) 02:15 (UTC)[返信]
葬儀が今まさに行われている建物を外から映した映像を第三者が無断で撮影し、故人の名前付きでyoutubeに投稿していたとしたらどうお感じになられますか?心の中で過去になりゆくプライベートな時間の一部を、自分だけではなく誰もがネット上で見られる状態にあるということについて、心をかき乱されないと言い切れますでしょうか?
誠に残念ながら、価値観が違いすぎます。様々な価値観があるということ、そしてそうした「心情」は法的に問題あるかどうかだけしか判断基準は無い事を申し上げます。これは、Cathkidstonさん以外の方への返事にもなりますが。
  • 正教会では葬儀はプライヴェートなものではなくパブリックなものです。参祷者があまりに多数になるなどの支障が出て来る場合、止むを得ず密葬にする場合が御座いますが、基本的に誰でも参祷出来るようにするのが原則です。聖堂は私物ではないからです。ただし、「見学」的な参祷を希望する方にも、永眠者に対して真摯な祈りを捧げる態度と、それなりの服装(喪服)といった準備・心がけが求められるのは当然です。
  • 内部の写真撮影や録音につきましては、これは別の問題が絡んで参ります(肖像権・著作権)。
  • 私個人について申せば、近親者の埋葬式の鐘の音が公開されても、聖堂内部の映像・音声なら兎も角、街中に鳴り響いている鐘の音が公開される事には何の反発も覚えません。街中に鳴らしているものを「聞くな」というのは理に適いません。たとえば報道されてもいますが、聖堂前で行われていた彼女の録音放送を録画したりしたものだったら、これは聖堂前という限定された場でのものですから、街中に公開されているものではなく、近親者だけのものと言ってもいいでしょう。しかしあの鐘の音というのは何度も申しますが駿河台中に鳴り響いているものです。寺鐘よりも大きな音が鳴っているのですよ、あの鐘は。余談ですがグーグルストリートビューに疑問を持つ私ですら、これをプライヴェートとして捉える感性が理解出来ません。
  • 「故人の名前」についてですが、著名人でなければ「故人の名前」を勝手に公開されればそれは無論問題が発生して参ります。著名人と一般人では扱いに差が出て来る事は当然ですよね?仮に私の永眠した近親者が著名人であった場合、公開されても私個人は何も反発を覚えません(ここでいう著名性とはウィキペディアで言う著名性と同義とお考え頂いて結構です)。
街中に鳴り響いているものをリンクするかしないかでここまで揉めるとは正直思いませんでした。ウィキペディア以外でここまで問題にされる事は、リアル・ネット共にこれまで起きていません。神経過敏か、有態に申せば異常です。ただ、はっきり申してもう面倒になっているというのが正直なところです。ニコライ堂埋葬式といった記事に飛び火しないのであれば、多数決で決めて頂いて結構です。--Kliment A.K. 2009年8月19日 (水) 15:12 (UTC)[返信]
コメント お忙しいところを大変恐縮です。今回は、あくまでも百科事典として「良い記事」を作ろうとしている結果だと思いますので、もう少しお知恵を拝借願えないでしょうか…。現在、一番問題になっているのは、鐘の音が街中に鳴り響いて公開されている事実や、聖堂の中か外か、ウィキペディア以外でここまで問題にされる事があるかどうか…という事ではなく、「誰もがネット上で見られる状態」で、動画の主が動画を消さない限り、埋葬式の鐘の音の動画が、半永久的に「残る」という部分ではないでしょうか。この「当事者の知らないところで残り続ける」という点は如何お考えでしょうか。--重山規夫 2009年8月19日 (水) 15:39 (UTC)[返信]
コメント …多分私と皆さんの感覚が悲しい事に全く異なるので参考にならないでしょう。むしろ私の感性・生活習慣から謂えば、近親者の埋葬式の鐘の音を聴いて永眠者の事を記憶してくれる人が一人でも多い方が嬉しく思います(この辺、死者を穢れた者として扱って葬儀をひっそりと行う事を好しとしてきた日本人大多数の感性からは、私はズレているのかもしれません)。繰り返しますが、聖堂内部の模様であれば、肖像権・著作権の問題が絡んで参ります。しかし「(街中に公開されまくっているのに、鐘の音を)非公開にする事を望む」「記録に残さない」という感性は、私にとりまして完全に想定外でした。鐘の声を通して一緒に祈ってくれる人が沢山居るという事実は、むしろ遺族には励ましになるとしか私には思えませんでした。正直「心情」と謂われ驚いております。--Kliment A.K. 2009年8月19日 (水) 16:27 (UTC)[返信]
コメント コメントどうもありがとうございます! いえいえ、それこそをKliment A.K.さんは、むしろ言うべきではないですか! 感性がズレている…と御勝手に判断されて中途で投げ出すのは、失礼ですが良くありません。これで十分ではありませんか。「鐘の声を通して一緒に祈ってくれる人が沢山居るという事実は、むしろ遺族には励ましになる」というのは、Kliment A.K.さんにしか言えない事で、そこにKliment A.K.さんが参加されてる意義があるのですよ! 結果、どうなるかは分かりませんが、結果的に参考になる(と個人的には思います)ご意見を下さった点に心から感謝申し上げます(でも、もう感情的にはならないで下さいね)。今後の議論は、他の記事に飛び火するかどうか、多数決になるかどうか、に入るのではないでしょうか。--重山規夫 2009年8月19日 (水) 16:42 (UTC)[返信]
  • 前も申しましたが「鐘の音」だけなら問題ありません……というよりはそれはニコライ堂にリンクすべき問題であって当該人物を誇張する必要はないと考えます。Cathkidstonさんが2009年8月17日 (月) 10:44の記事で指摘したブログの判明により、無断撮影は確認できており、なおかつ、目的を考えた際、遺族の了承は得づらい環境かと判断しました。鐘堂部分のみを掲載したい目的でなく興味本位だということが確定できていますので、B-2の可能性論は深まったと考えます。判別しづらいと申されましたが、撮られた方(ギャラリーではなく参列者限定)は記憶されていると思いますよ。それこそ肖像権の問題になります。ただ、Kliment.A.K.さんが述べる他方に波及するかしないかはその場面場面の動画かと考えます。単に鐘堂のみを写したという程度ならなんら問題ありません。--Suttokodokkoi 2009年8月19日 (水) 19:35 (UTC)[返信]
Kliment A.K.さんのご意見拝読しました。動画の鐘の音を通して祈りを捧げるということは、なるほど良い意味のあることなのですね。しかし前回の私の、遺族がどう思われるのか想像してみてほしいという発言の目的は、「当事者の心情」という言葉の意味が「駿河台中に鳴り響いている鐘の音を公開されることに対する当事者の心情」ではなく、「第三者によって無許可で葬儀時の外観を映したものを公開されていることに対する当事者の心情」であり、その観点から話をしたいということをKliment A.K.さんに理解してもらうためでした。結局また焦点が鐘の音のほうに行ってしまわれたようですので話を先に進めますと、動画の存在が遺族の心情に何らかの影響は与えることは想像できますし、公開され続けていることに遺族が是非の判断の機会も与えられていないこと自体に問題がありますので、Wikipediaで扱うのは避けるべきと私は思います。合わせて、Suttokodokkoiさんが具体的に指摘されている肖像権の問題もあります。(以上、8月10日の私の意見をかみ砕いて説明したものであり新しい論点ではありません)なお、参列者については権利侵害はないとの考えを以前示しましたが、Suttokodokkoiさんの意見を参考に再考中です。
また、この動画は現時点では一次情報源(信頼できる情報源#用語の定義にて意味を今一度ご参照下さい)ですが、識者がこの動画を資料として検証し、関係者に許可を取り、サイトにまとめるなどして二次情報源となる可能性も今後ないわけではありません。この動画でなくとも、関係者の許可を経て撮影され、適切な場所で公開されるニコライ堂の鐘の動画が今後出てくるかもしれません。難しいことなのかもしれませんが、そういった確かな情報源から価値ある記事を作り続けていくことができれば素晴らしいのではないかと思いますし、現状で出来ないからと言って様々な問題をクリアしていない一次情報源を用いることはやはり良いとは言えないと思います。--Cathkidston 2009年8月20日 (木) 04:26 (UTC)[返信]
この問題は「肖像権」とは関係がないのではないですか。「肖像権」ではなくて、「参列者の気持ちを考慮して自粛」というレベルの事を言っておられるのでは?--重山規夫 2009年8月20日 (木) 06:05 (UTC)[返信]
コメント 無知でお恥ずかしいのですが、肖像権の問題というのは、「第三者が個人を特定できるか」ではなく、「被写体となった本人が記憶しているか」が問題という事なのでしょうか? この動画からは、撮影される事をあらかじめ承知で警備業務に当たっていると考えられる警備員を除いて、全員が後頭部しか映っていないので、第三者からは顔や着物が見えません。ウィキペディアの『肖像権』の中の「人格権」の項目には、「(前略)被写体が不特定多数の人々に見られることを前提としている場合、及び撮影内容から個人が特定できない場合などは一般的に人格権が認められない。(中略)前者の例としてはイベントに出演したり、デモ活動に参加するといった場合が挙げられる。これらの例では、当人が被写体となることを事前許諾していると認められるため、肖像権を主張できない。(中略)後者の例としては、後ろ姿で撮られていたり、顔面を除いた身体の一部分のみが撮影されている場合が挙げられる。また、被写体が明らかに観光客と認められる場合も含まれる。後者の例では、いずれも個人の特定が実質的に不可能であり、人格を保護するという法益に反していない。(後略)」となっていますが。--重山規夫 2009年8月20日 (木) 02:50 (UTC)[返信]
  • 重山さんへ。文章をよくお読みください。ギャラリーではなく参列者限定と書いてますが。映像を理解のうえでの投稿を御願いいたします。たしかに遠景的なように見えますが、間違いなく参列者にはわかるシーンが含まれています。また、撮影の動機も考慮するべきです。--Suttokodokkoi 2009年8月20日 (木) 04:25 (UTC)[返信]
コメント 私が申し上げているのは全く同じ事でして、動画の閲覧者がギャラリーの個人を特定できない状態であり、そして動画の閲覧者が参列者の個人も特定できない状態であるのに、なぜ「肖像権」の侵害になるのか、という事です。「映像に映っている者同志で個人が特定できるかどうか」や「自分自身が分かるかどうか」も肖像権の問題になるのですか? それが何故、人格侵害の可能性がある事になるのでしょうか。--重山規夫 2009年8月20日 (木) 04:57 (UTC)[返信]
コメント コメントどうもありがとうございます。重ねて申し上げますが、先ほどより私が申し上げておりますのは、それは肖像権」とは関係がない、という事なのです。今回の問題では、問題の動画が埋葬式の時のものであるというデリケートな問題を含んでおり、その動画の掲載が「遺族への励ましになる」という可能性はあるものの、現時点では動画の掲載についての当事者の心情が不明である以上、この動画を掲載しない方が無難であり、よって現時点では「掲載には反対」という立場を私は(今のところ)取ります。つまり結論だけで言えば、掲載に反対であるSuttokodokkoiさんを支持する形になります。しかしながら、「肖像権」とは、他人に個人を特定されない権利という事だと思いますので、今回の動画のように他人(動画閲覧者)が個人を特定できない場合には「肖像権」とは関係がないので、この言葉を使うと「違法である」という印象を残す事になりかねないので、「肖像権」という言葉を使うべきではないのではないか、というのが私の申し上げたい事でした。--重山規夫 2009年8月20日 (木) 11:25 (UTC)[返信]
  • (重山さんへのコメント)まず、肖像権の話ですが、この言葉をどこまでの位置に捉えるかの違いかと思います。確かに見えずらい画像ですが、無断に撮影された画像というのは事実で、画像に映る人物は特殊処理をして見えないのではなく、たまたま画像の精度の問題で見えていないというだけなのです。ですので、大なり小なりではあっても肖像権はあるのです。といっても申告によって発生する権利ですので、どこまで当事者が主張するのか、という程度案件です。--Suttokodokkoi 2009年8月20日 (木) 11:44 (UTC)[返信]
コメント Suttokodokkoiさん、解説に感謝いたします。お話は分かりました。現時点では申告もないようですし、やはりこの程度の動画を持って「肖像権」と言い切ってしまうのには無理があるような気もいたします。これでは「肖像権」の侵害が世の中に溢れ返ってしまいますので。あくまでも「当事者の心情が不明だから」という理由を中心に持ってきた方が、今回の場合は良いのではないでしょうか。--重山規夫 2009年8月20日 (木) 11:53 (UTC)[返信]
実は、もう一つ分からない点がございまして、ウィキペディアの「肖像権」を見ますと、肖像権とは「すべての人に認められる。」となっています。ですがSuttokodokkoiさんの主張では、「参列者限定」としておられます。「すべての人に認められる。」という事でしたら、「ギャラリー」にも肖像権がある事になりますが、なぜ「参列者限定」なのでしょうか?(以上は、今回の問題では肖像権の侵害に「抵触する可能性」というのを無視すべきだという私の考えから、お聞きできれば…という事からの質問です)。--重山規夫 2009年8月21日 (金) 00:46 (UTC)[返信]
肖像権及び人格権の権利自体は、全ての人間に基本的に与えられているものだが特定の状況下においてはその限りではない、ということなのではないでしょうか?ギャラリーについては、重山規夫さんが8月20日 (木) 02:50 (UTC)に書かれた「人格権が認められない場合:後ろ姿で撮られていたり、顔面を除いた身体の一部分のみが撮影されている場合」に該当します。
全身が捉えられた、門扉から出てくる参列者の女性は全身が映っているので肖像権はあり、それを侵害されていると主張する権利もあると思います。しかし原告なくして裁判が成立しないように、その主張なくして、権利侵害であると断定することは不可能です。従って「今後、権利侵害となる可能性がある」と考えるのが適切ではないかと思います。また、動画自体に関して言えば「他者の肖像権を守る配慮が不足した映像」であると私は考えます。こういった問題をここで議論しなければならないのも、この動画が通りすがりの第三者によって無許可で撮影され、関係者や専門家のチェックを受けず公開されている投稿動画であるからで、問題はそこに帰結すると思います。--Cathkidston 2009年8月21日 (金) 01:40 (UTC)[返信]
「今後、権利侵害となる可能性がある」と考えるのは、「個人が特定できる動画」の場合の話だと思います。以下にこの件の自分の主張をまとめました。よろしくお願いします。--重山規夫 2009年8月21日 (金) 03:33 (UTC)[返信]
  • Suttokodokkoiさん、Cathkidstonさん、本当にいろいろどうもありがとうございました。動画の参列者の方々に「肖像権がある」というところまでは、とてもよく理解できました。ですが、ウィキペディアに「撮影内容から個人が特定できない場合などは一般的に人格権が認められない」と、はっきり書かれています。その点は、どうなるのでしょうか…? 既に「見えないのではなく、見えずらい」という事で、見えないのと見えずらいのとでは違う、不快感があるのだ、というお話がございましたが、私は現在のところ、「撮影内容から個人が特定できない場合などは一般的に人格権が認められない」というウィキペディアの記述に従わざるを得ません。「配慮不足の動画であり、また参列者に肖像権はあるけれども、侵害の可能性までは認められない(理由・個人が特定できない)」という事で、この件の自分の意見としては、まとめさせて下さい。--重山規夫 2009年8月21日 (金) 02:47 (UTC)[返信]
  • 参列者の映り込みについては、私も重山規夫 さんの結論に同意と致します。
  • もうひとつ気になっていることがあります。外部リンクからは除去するが脚注として残したらどうかという意見がありますが、私はこれには同意致しかねます。脚注として扱うということは、当動画を信頼できる情報源として認めているということになってしまうのではないでしょうか?外部リンクとして不可であれば脚注も不可であるのが当然だと思うのですが、いかがでしょう。--Cathkidston 2009年8月21日 (金) 06:43 (UTC)[返信]
それは別の問題として考えているという事だと思います。もし仮に当動画が問題ないものだったとしたら、どの位置に載せるのが適当だろうか…という議論でしょう。ちなみに現在の私は「外部リンク」か「脚注」かに関わらず、「当事者の心情」などの問題から編集除去が適当というBluebellさんのご意見を支持しておりますので、「外部リンク」か「脚注」かに関わらず動画の掲載には不賛成です。このノートの最下部にあるCathkidstonさんが作成して下さった「まとめ」の部分を、もし自分で書き替えても宜しければ書き替えますが、宜しいでしょうか?--重山規夫 2009年8月21日 (金) 08:44 (UTC)[返信]
重山規夫さん、コメント拝見しました。そうですね、ちょっと読み違えてしまっていたようです。適切なご指摘に感謝します。まとめ部分は書き換えて下さって結構です。Suttokodokkoiさんがなさったように、訂正の線を付けられるのもよいかと思います。よろしくお願いします。--Cathkidston 2009年8月21日 (金) 09:06 (UTC)[返信]
  • (コメント)どうやら重山さんと競合コメントとなってしまったので、入力されなかったようです。さて、一応、私は外部リンクという強調的な場所は上記の理由のように不可の考えです。ただ、Kliment A.K.さんのような懇切丁寧な方だったから、荒れずに議論ができたのですが、今後、編集除去をしたことにより、何度かこのサイトが貼られる懸念もあります。なので譲歩案くらいは持っておいた方がよいかと思った程度です。またはコメントアウトというのも方法かと思います。
  • (重山さんへコメント)御願いですから文意が変わってしまう(てにをはの範囲ではないもの)ような場合は訂正線ののちに記入してください。文章が途中で変わると私がコメント返しした内容がちぐはぐになります。--Suttokodokkoi 2009年8月22日 (土) 11:23 (UTC)[返信]
  • ノート最下部の「まとめ」を修整いたしました。如何でしょうか。この整理された状態から残りの問題を考えていくと良いのではないかと思います。
さて、まだ全く議論されていないのは、SuttokodokkoiさんのいわれるWikipedia:削除の方針B-1「著作権問題に関して」またはWikipedia:外部リンクの選び方#禁止される外部リンク1項に付いてだと思います。「肖像権」に付いての意見は既に申し上げた通り、侵害の可能性までは認められないと認識します。後は著作権ですが、これは動画の撮影者に著作権があると思いますが、ウィキペディア「著作権」3-7には、「(前略)リンクすること自体は、その表現物が他のだれかの著作権を侵害していないと一般常識に基づいて判断できる限り、通常問題はありません」とあります。今回の動画の撮影者であると思われる人物が、自ら撮影した事をブログの中で詳細に明記している事、その動画が技術的に見てプロが撮影したテレビ等の映像を流用しているとも思えない事から、一般常識として他のだれかの著作権を侵害しているとは考えられず、Wikipedia:削除の方針B-1またはWikipedia:外部リンクの選び方#禁止される外部リンク1項に抵触しないものと考えます。
また、やや曖昧なままになっていた「検証可能性」の問題ですが、これはKs aka 98さんの「動画の内容からは疑いをかけるべき点がなく、信頼できそうな内容を持つ教会信徒のサイトがリンクを張っていて、なおかつ執筆者が実際に体験しているということであれば、その動画によって示される内容が、(ごく最近までは存命だった人物に対して)批判的な内容ではなく、ある観点を推し進めたり、じゅうぶん知られていない事柄を明らかにするというようなことでないなら、誤りであったとしても、致命的なものにはならなそうだ、という判断も含めて、ひとまずは葬儀の動画であるとみなしてもよいと思います。」というご意見を支持した上で議論を続けるという事で良いのではないかと思いますが、如何でしょうか。--重山規夫 2009年8月23日 (日) 10:13 (UTC)[返信]
もう一つございました。「当事者または葬儀関係者の公式サイトに類する場所で当動画への言及がなければ、編集除去が適当」というKs aka 98さんのご意見です。これは現在のところ、川村さんの公式サイト・ブログ共に、関係者から当動画への言及がされているのを私は確認しておりません。確認された方はいらっしゃいますでしょうか? もし確認された方がいらっしゃらずに、また上記の著作権と検証可能性の問題にも異論のある方がおられないようでしたら、これまでの議論を念頭に置いて評決に入る、という事で良いのではないかと思いますが、如何でしょうか。--重山規夫 2009年8月23日 (日) 14:33 (UTC)[返信]
  • Suttokodokkoiさんの譲歩案の提案について思うのは、今行っているのは編集合戦を避けるための合意形成に向けての議論であるということです。ここで今後条件を満たさない限り当該動画のリンクを貼らないと決めれば、再び貼られても荒らしとして保護などの対処をすることができます。譲歩することは、脚注やコメントアウトであれば問題があるサイトへのリンクを組み込んでもいいと判断されることになりかねないのではと私は思います。
  • 重山規夫さん、まとめをありがとうございます。評決への移行に賛成です。--Cathkidston 2009年8月24日 (月) 01:28 (UTC)[返信]

この議論を読み直してみて気がついたのですが、私たちは「肖像権」や「遺族の心情」、他の「キリスト教関連の記事」に与えるかもしれない影響等について議論をしているうちに、「この外部リンクの必要性」や「動画を紹介する必要」(Cathkidstonさん)を考える機会を逸しているのではないでしょうか。もちろん権利問題は大事ですが、こと川村カオリの編集だけを考えるならば、葬儀の動画がWikipedia:外部リンクの選び方に照らして必要な外部リンクなのか、という点も(多数決にシフトするしないに関わらず)詰めておいた方がいいと思います。さて、Kliment A.K.さんは「日本人に馴染みのある葬儀とは異なるものであるため特筆性はある」とお書きになっていましたが、後にご自身で書かれたとおり、「掲載の妥当性は相対的には埋葬式やニコライ堂の方が高い」。したがって、要不要という観点からも、私は動画の編集除去が適切だと思います。--Bluebell 2009年8月24日 (月) 15:37 (UTC)[返信]

  • コメント 大変申し訳ありませんが、諸般の事情により、ウィキブレイクに入らせて頂きました。投票・議論には基本的にもはや参りませんことをお赦し下さい。なお、無論、多数決もしくは私抜きで合意が形成された場合であっても、私は異議を唱えません事を(当然の事ですが念の為)申し添えます。完全な当事者でありながらウィキブレイクの時期と重なりました事をお詫び申し上げます…。同時に、議論を通じて得られた考察も良い経験となりましたことをもちまして、皆様にお礼を申し上げたく存じます。ありがとうございました。--Kliment A.K. 2009年8月25日 (火) 19:01 (UTC)時系列の場所へ移動しました--Suttokodokkoi 2009年8月27日 (木) 04:11 (UTC)[返信]
Bluebellさんのご指摘に感謝申し上げます。ご指摘を受けて考えておりましたが、やはり、どうも弱いですね…。Wikipedia:外部リンクの選び方の「掲載すべきでない外部リンク」の全12項にはどれも当て嵌まらないように思いますが、しかし「掲載してよい外部リンク」と照らし合わせてみると、2項の「情報の信頼性、検証可能性などにおいて書籍や学術論文などと同等の水準を保っており、出典、参考文献として掲げるに値するサイト」と、4項の「著作権や技術的な問題で記事本文に含めることができない情報で、項目の理解にとって意味のあるもの(例:映画の出演者一覧、インタビューの書き取り、レビュー)」の部分では、かなり考えてしまいます。今回の動画が書籍や学術論文などと同等の水準を保っているとまでは思えませんし、「川村カオリ」という項目の理解にとって意味のあるものかというと、鐘の音が「日本人に馴染みのある葬儀とは異なるもの」であったにしても、それは川村さんがモスクワ出身である事や、現実に埋葬式がニコライ堂で行なわれたという記述で既に間に合っている…と思わざるを得ません。つまり、Wikipedia:外部リンクの選び方の「基本的な考え方」5項に「外部リンクは最小限度にとどめること」とある限り、やはりこの観点からも、「編集除去が適切」というBluebellさんのご意見が正しいかと存じます。やはり今回、お亡くなりになられたばかりの方の記事という事もあって、祈りを捧げる鐘の音を「どうにか掲載できないものか」という「個人的心情」が、今回の議論のような回り道を生んでしまったという面があったのかもしれません。私自身もその一人でした。Kliment A.K.さんによる「説得」に期待していた部分もありました。しかし百科事典として相応しいかをここでは考えるべきですので、編集除去という道しかないのかもしれません。--重山規夫 2009年8月26日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

コメントだいぶ話も煮詰まり、意見の集約ができたと思います。あと1週間くらい他者の意見を待って、異論がないようでしたら結審の方向に進むのがよいかと思います。--Suttokodokkoi 2009年8月27日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

youtubeへの外部リンクについて~まとめ

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さて、長くなってきたので、これまでの皆さんの意見をまとめてみようと思います。誤りや表現のズレがありましたらご指摘下さい。
* 当事者または葬儀関係者の公式サイトに類する場所で当動画への言及がなければ、編集除去が適当 - Ks aka 98
* Ks aka 98さんの意見に同意 - Cathkidston
* 「削除の方針」B-2に抵触の可能性あり、B-1も検討の視野に入れて外部リンクからの編集除去が適当し、譲歩したとしても脚注処理 - Suttokodokkoi
* 「外部リンク」か「脚注」かに関わらず、「当事者の心情」などの問題から編集除去が適当 - Bluebell 
* 記載するならば「外部リンク」の節ではなく葬儀について説明した文章への脚注という形がいいのではないか - sergei
* sergeiさんのアイデアに賛成 動画内の人物には肖像権があるが、動画からは個人を特定できず、侵害の可能性までは
認められない。従ってWikipedia:削除の方針B-2に抵触する可能性もない。しかし動画の掲載が遺族への励みになる可能
性があるものの、その逆の可能性もある限り掲載を避けた方が無難であり、リンク位置に関わらず編集除去 - 重山規夫 * 権利侵害は認められないため、外部リンクへの記載の継続に賛成、また除去となると他の関連記事へ影響が及ぶ事が心配 - Kliment A.K. このように3パターンに意見が分かれている状況だと思います。ここからどのように議論をまとめていけばいいでしょうか。 私は今までごく少人数での議論しか経験がないので、アドバイスを頂けると幸いです。よろしくお願いします。--Cathkidston 2009年8月18日 (火) 02:15 (UTC)[返信]
  • 1週間経過して、反対意見としていたKliment A.K.さんからも合意が得られたものと解釈いたしました。重山規夫さんの努力もあって「編集除去」という1点についてはすべての合意が得られたと解釈しました。それにつき、外部リンクからの編集除去を行いました。これ以降、議論があるようなら忌憚なくご意見を賜りたいと思います。ご意見がなく、合意を得られたと解釈した場合、コメント依頼をCathkidstonさんの手により削除していただければ幸いです。--Suttokodokkoi 2009年9月5日 (土) 04:23 (UTC)[返信]

wikipediaに書けることは…

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なんでもかんでも、出展が無いとダメなんですよねぇ・・・。 それが当人から直接聞いた実話でも、「出展」が無いのは書いてはダメなんですよね。 でも、そんなんで本当に「百科事典」と言えるんでしょうかね? 甚だ疑問に感じます。 --NTJ会長 2010年8月9日 (月) 13:03 (UTC)[返信]

改名提案

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MERRY-GO-ROUND (川村カオリの曲) は私が以前、平等な曖昧さ回避を理由にMERRY-GO-ROUNDから改名したのですが、シングルのタイトルにこだわらなければ、「メリーゴーラウンドに乗ってる君のことが好きだよ」も曲のタイトルとしては正式のものなので、これを記事名にしても良いのではないかと考えました。このタイトルでも知られているという点と、括弧付き記事名を回避できるという点からは望ましいと考えるのですが、いかがでしょうか?--モンゴルの白い虎会話2012年12月4日 (火) 12:39 (UTC)[返信]

改名しました。--モンゴルの白い虎会話2012年12月12日 (水) 12:26 (UTC)[返信]

IPユーザーによる編集の差し戻し

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2024/12/7時点での「来歴」節ですが、ディスコグラフィーとの重複と「この頃」から始まる出典なしの記述が相当の分量になっています。これらの編集について、編集したIPユーザーは自伝が出典だとしています。ディスコグラフィーとの重複を除去しようとすると、後続の文が時期不明となります。時期を補完しようにも、結局一次資料に頼る形となり好ましくありませんし、結果としてできるのは一次資料の抜粋版ということになり、この点も好ましくありません。ついては、当該ユーザー(と同一と思われるユーザー)の編集が入る前の2024年10月21日 (月) 08:30の版まで差し戻しを行おうと思います。 --Strangetail会話2024年12月7日 (土) 02:14 (UTC)[返信]

特にご意見もなかったので実施しました。--Strangetail会話2024年12月14日 (土) 13:30 (UTC)[返信]