ノート:往来右京
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『畠山記』や「北家系図」について
[編集]『畠山記』に記載された「大来左京亮友章(友童)」を右京の本名とする編集が行われましたが、『畠山記』は信憑性が低いとされる文献のため[1]、そこにある名前を正しいものとして鵜呑みにはできません。そのため、様々な文献に現れる右京の名の一例として「名前について」節に挙げるのみという形にさせていただきます。
また、「北家系図」をもとに嘉祥寺の北家を往来右京(根来左京)の子孫とする本がありますが[2]、Wikipediaに同様の内容を書くには、歴史研究者らによる信頼できる情報源(WP:RS)が必要となります。現在の記事にこれに関する記述はありませんが、今後編集される方はご留意ください。
脚注
- ^ 古野貢ほか「戦国期畿内研究の再構成と「細川両家記」」『都市文化研究』第12巻、2010年 。177頁、左段12–14行目。
- ^ 田尻町 編『広報たじり2020年3月号 No.634』田尻町、2020年 。16頁「町史編纂だより」に三好実休を討った根来左京が始祖にあたるとする、北野実『戦国武将を討った 根来左京の系図を読み解く』の紹介あり。
--YasuminB(会話) 2024年7月20日 (土) 22:43 (UTC)
- 北野實著『根来左京の系図を読み解く』が信頼に当たらない書籍とのご指摘については、残念に思います。個人的には紀州の根来家と熊取の中家、嘉祥寺の北家(現在の北野家)と福井藩根来家などの関係性がわかる良書だ考え記載したつもりでした。
- 私もいろいろと調べるつもりですが、学者の方におかれましても今後いっそうの研究がなされることを期待します。--平兵衛(へよも)(会話) 2024年7月21日 (日) 02:14 (UTC)