ノート:愛洲氏
愛洲氏が五ヶ所浦を拠点にしていたという説が存在することについて、三重県立図書館のHPで現在も確認できる以上、否定説のみ取り上げるのは中立性に欠けます。それに、否定説の出典が明記されていません。あと、否定説が現在、史学会で主流になっているのでしょうか?Isebito 2008年10月30日 (木) 12:09 (UTC)
ウィキぺディアの記述に就いて加筆・修正を常日頃されている御方の様にお見受け致しますので当然、論文の二・三は御自身でも書かれたと察します。 その様な御方であれば先ず、三重県立図書館の当ホームページが「図書館法」に照らし著しく逸脱しているとお気付きになろうかと存じます。 中学生・高校生等には無理かと思いますが、少なくとも学術的作業に係われる方であれば容易に御分かりかと思います。「官公庁が誤りを犯さぬ」との貴方様の御意見は、最近では少数派だと思います。最近の農林水産省の問題を例に致しますと、「農林水産省が事故米を出し続ける限り、農林水産省は正しい。」と唱える様なものです。
今後の当方の方針・手立と致しましては、
- 一、 三重県立図書館に今回御指摘の様な間違った図書館活動に依り次々と誤解が生じない様に、ウェブサイトから当ホームページを削除する様、再度抗議し、再々の抗議に拘わらず削除しない場合は三重県立図書館長の橋本菊月斎氏宛謝罪文を公表致します。
- 二、 お尋ねの玉城町説ですが、「愛洲伊予守忠行玉丸城城主説」を最初に唱えたのは幕末、伊勢大神宮神職御巫翁が「田丸城沿革考」として嘉永年間紀州藩田丸城主久野丹後守藤原純固朝臣に差し出した論稿です。翁が没せられた後明治廿九年十二月嫡孫御巫清白氏に依って刊行されています。
当方から貴殿への要望ですが、「五ヶ所説」を主張されているのは「学会」ではどなたなのですか、そしてその方の論文を教えて頂ければ幸いです。--Aisukageryuu 2008年11月3日 (月) 06:46 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。「官公庁が誤りを犯さぬ」などとは言っておりません。当方が言いたいのは、諸説について学術的に間違ったものであるかどうかは、ウィキペディア上で判断するべきことでないということです。いわゆる五ヶ所説が、史学会、或いは多数の研究者、資料館などによって完全に否定されたことが確認できてはじめて、ウィキペディアに反映できるというのが原則のはずです。そして、三重県立図書館が図書館法を逸脱していようとも、それはウィキペディアで判断すべきことではありません。件のHPによりますと、五ヶ所説を主張したのは中世古祥道さんという方のようですが、その中世古さんや、その研究を反映させたであろう「愛洲の館」(南伊勢町)は、完全に非を認めたのでしょうか?図書館長が去年、当該部分について非を認め、削除すると手紙で橋本さんという方に知らせてきたということですが、少なくとも現段階で削除されていませんし、一個人に宛てた手紙の中身について、第三者としては確認いたしかねます。あらゆる方面で完全に否定されていることが確認できないのです。あと、削除に応じなければ手紙を公表するということについて、双方の了解を取った上でなら、構わないと思いますが、第三者が無断で公表するとトラブルのもとになりますので、ぜひとも慎重にお願いします。Isebito 2008年11月3日 (月) 09:46 (UTC)
- isebitoさん宛て
ウィキペディアの加筆・訂正・削除をなさる方であるから、当然、「中世古祥道」氏の論考や「愛洲氏の基礎知識」はお持ちかと思って居りました。 中世古祥道氏の論考は「三重県郷土史刊行会」からの出版です。「史学会」からの出版ではありません。史学会からの正式論文は戦前、大西源一博士が「北畠氏の研究」で論考されているのが唯一です。しかし大西源一博士は「熊野愛洲氏」に一切触れていなかったため、後日、紛争の種となってしまいました。 「五ヶ所説」は学説としては存在しません。地元五ヶ所町民や「風評」に依り既成事実を先行させた丈です。中世古祥道氏の「伊勢愛洲氏の研究」を読まれれば解ります。 「isebitoさん」が「伊勢」を名乗るのであれば御存知かと思いますが、中世古祥道氏の「正泉寺」は五ヶ所浦にあります。「五ヶ所浦」は「熊野灘」に面して居り熊野とは「目と鼻の先」ですよ! ウィキペディアの記述・削除・加筆・訂正等は今後は慎重にお願いします。--Aisukageryuu 2008年11月9日 (日) 07:22 (UTC)
- 私の言っている意味が全く理解していらっしゃらないようで残念でなりません。ウィキペディアの編集方針が理解できない、或いは理解するつもりがないのでしょうか。「ウィキペディアの記述・削除・加筆・訂正等は今後は慎重にお願いします」というのは私が言いたい言葉です。「五ヶ所説が学説として存在しない」とか「地元五ヶ所町民や風評に依り既成事実を先行させた」とおっしゃいますが、これがもし、あなたの単なる個人的見解なら、別の場所で主張して下さい。仮に私がここで、あなたの個人的見解に賛同したとしても、それをそっくりそのままウィキペディアの記述に反映させることには断じて賛同できません。もう一度言います。諸説について学術的に間違ったものであるかどうかは、ウィキペディア上で判断するべきことでありません。そして、ウィキペディアは研究発表の場ではありませんし、自分が主張・支持する説の宣伝の場ではありません。あなたがもし愛洲氏の研究者で、先行研究の在り様に疑問を抱くのであれば、これまでのような記述のやり方は、まず学術誌に投稿するなりして、自説が学会で定説となってからにしてください。それが順序というものです。少なくとも現時点で、あなたが主張・支持する説が学会で定説になっていると確認できません。もし定説になっているのでしたら、根拠を示して下さいませんか。あと、三重県立図書館のHPについてですが、「愛洲移香斎久忠の生涯については諸説あり、ここに掲載された以外の説もございますのでご了承ください」と但し書きがありますね。橋本菊月斎さんの抗議が反映されたようですが、五ヶ所説を否定するまでに至っていません。ついでに、「図書館が間違っているかどうかは、ウィキペディアンが判断するべきことではない」と、予め付言しておきます。Isebito 2008年11月9日 (日) 13:28 (UTC)
- 一度に投稿せず、細切れになって申し訳ありませんが、誤解していらっしゃると議論が噛み合わないままになってしまいますので、念のため書きます。私は五ヶ所説を支持しているわけではありませんし、玉城町説を否定しているわけでもありません。中世古さんの説が学会で定説になっているとも考えません。ただ、中立的に書けないかと問題提起しているだけです。Isebito 2008年11月9日 (日) 15:04 (UTC)
- 1、SAT666氏の編集時点では中世古祥道氏の論考のみでしたが、現在は橋本菊月斎氏の論考「剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」に依り、愛洲久忠は伊勢愛洲氏の系譜である事が証明されています。
- 2、続群書類従系図部十六・十七武田系図という確たる史料に依って愛洲氏の出自が明示されています。依って、最重要資料として再掲示します。--Monto 2011年5月6日 (金) 03:00 (UTC)
注釈について
[編集]1.「伊勢神宮一禰宜氏経卿は『文明十一年十二月二七日の内宮引付』で愛洲伊予守忠行に「進上御奉行職」と謝意を表している。この書状に依り、伊勢愛洲氏は伊勢大神宮祭主家に代わり、国司北畠氏が食指を動かしている「神三郡」の検断権の掌握と遷宮奉行の任に当ったと思われる」
2.「今迄、太平洋・熊野灘に面した「五ヶ所」が伊勢愛洲氏の本拠地と唱えられてきたが、この説は江戸町奉行所で云えば、北町奉行所が埼玉県の浦和辺りに設けらるという様な話で「地誌」を無視した説である」
1は「内宮引付」、2は「言継卿記」という一次史料に基づいて誰かが立てた仮説でしょう。その一次史料を明示するだけでなく、誰の仮説かを明示すべきではないでしょうか?Isebito 2009年6月10日 (水) 16:12 (UTC)
- 上記1は脚注場所を修正し、2は出典無しの上、主題と関係ない話題(五ヶ所否定なら完結に否定すればよく蛇足)として除去しました。また一之瀬愛洲氏の系譜について出典がはっきりしないため(松本氏の論考?)出典明記タグを添付しました。--KurmUmy 2011年1月16日 (日) 04:28 (UTC)
- 綿谷雪氏や今村嘉雄博士が引用されている「勢陽五鈴遺響」(安岡親毅、天保四年)の正確な記述は、『飯野郡阿波曽の項に「庄村ノ九町東ニアリ旧名岸村或ハ愛曽ト称ス今訓ヲ転シテ阿波曽ト訛レリ」とあります。』
- 南狩遺文所載の二階堂文書、「伊勢国朝明郡萱生御厨地頭職六郎入道跡愛洲三郎左衛門尉宗実・・・」の「愛洲宗実」を「伊勢国司紀略」(斎藤拙堂)では「阿曽宗実」と「伊勢国の訛り」で表記しています。(勢州軍記等も愛洲を阿曽と表記)--Monto 2011年5月4日 (水) 03:43 (UTC)