ノート:末日聖徒イエス・キリスト教会/過去ログ2
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滅びの子
[編集]>バプテスマを受けながら後に教義を否定し棄教した者。殺人を罪を犯した者。姦淫をした者の罪は比較的重いとされ、真剣な悔い改めがないと死んだときに「滅びの子」として魂が消滅すると言われている。
「滅びの子」となっても魂(あるいは肉体)が消滅するという教義はない。棄教(破門)だけでは「滅びの子」とはならない(再バプテスマや集会への参加も可能)。「滅びの子」とは「御父から御子を示された後に御子を否定する者」であり、悔い改めることがもはやできない者である。棄教、殺人、姦淫は同等の罪とはされていない。--Lionpug 2007年4月14日 (土) 13:14 (UTC)
だから「真剣な悔い改めがないと「滅びの子」・・」という末日聖徒で言われる条件を付けたのである。
現実、教会に行かなくなった人の相談を受けると、自分が滅びの子となってしまったのかという不安がぬぐえない人があまりも多い。あなたの主張が正しいとしても、教団は離れてもその人に救いはあるということを周知徹底させいないということであり、教義にそういう指摘がされている事実は否定できない。
上記の表現は一般人にたいして若干の誤解を与える可能性があると思われます。
正確に言うと「滅びの子」とは死後に与えられる「悔い改め」の機会をもってさえキリストを拒みかつ聖霊(の勧め)に背いた者が、裁きの時にキリストによって「滅びの子」に定められ、神から切り離された者のことである。
従って生前に以上に挙げられた行為があったからといって自動的に「滅びの子」になることではなく、その恐れが非常に高いゆえに真剣な悔い改めが必要だと説かれている。
またバプテスマを受けても教義を充分理解せずに棄教した者は上記の条件に該当しないとされている。--以上の署名のないコメントは、124.208.165.11(会話)さんが 2007年9月7日 (金) 11:58 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。
>「日の栄」は三つに分かれておりその一つは「昇栄」と呼ばれ、そこに行った者のみが神とともに住まい、「神そのもの」に成長する機会を得る。
「日の栄え」の栄光には三つの階級があり、最高位の第一の天は「昇栄」と呼ばれ、そこに入ることを許された者のみが神にまで成長する機会を得る。2コリ12:2には「第三の天」とあるがこれは日の栄えの最下位の位であると解釈される。バプテスマを受けて日の栄えの栄光に入った者は神の臨在を享受するが、その中で「昇栄」の位に入ることを許されなかった者は、「昇栄」の位の者に仕える日の栄えの天使となる。
昇栄した者のみが神と住むのではない。--Lionpug 2007年4月14日 (土) 13:14 (UTC)
第三の天というのは古代ユダヤ人の言い回しで天国そのものを表す。階級的に三つの天国に表すというようなことはモルモン教だけが信じていることである。ちなみに文脈上、これは後の節でパラダイスと言い換えられていることがわかるが、つまりパラダイスは天国を表し、モルモンの言う「待合所」を表す記述は聖書にはない。(いのちのことば社「聖書辞典」参照。)。それはおいても、「臨在」と「共に住む」との違いが曖昧で、理解しにくい。しかし末日聖徒が教会外でノーベル平和賞を受けるほどの善行を働いた者でも末日聖徒の教義をあくまでも否定すれば、末日聖徒以下の祝福になるという当方は主張したまで。無論、教会に来なくなった者に「末日は近い。いまからでも遅くはない」「悔い改めて教会に戻って」という葉書等を送り付ける指導者だの、こうした苦情が後を絶たないことに対することも、工藤氏の主張を借りれば擁護できるものではない。本来は外が批判する前に内部から自浄能力を示して批判してしかるべきである。末日聖徒の立場は被害者の存在を認めず、擁護論に終始している。--まん 2007年4月17日 (火) 01:00 (UTC)
- 教会の教義の説明についての記述の誤りを指摘したまでですので議論はしませんが、他の人には伝わりませんのでそのままというのはどうかと思います。
- 工藤氏にかなりこだわっておられるようですが、工藤氏を使って恣意的に擁護というわけではありませんが、人間という不完全なものの受容というのが氏の見解にあり、擁護できないことはないと思います。あなたにとって欠点のあるそのような人たちであっても、キリスト者としてそのような人とどのように接していくかというのが信仰や人間としてその人の中で問題となるのであって。かつては交流のあった人たちなのですし。もし、本人の明確な意思表示があるにも係わらず、断っても絶交しても何度もというのであればどうかとは思います。わたしは数年来のお休み会員でして、最近、自分の経験から、それまで交流があった人々との関係をすべて絶つということはどういうことなのかということを考えているのですが、自分の心の中やあり方についても問題があるのであろうと考えています。
--Lionpug 2007年4月17日 (火) 14:18 (UTC)
あなた個人は知らないが、全国の教会の教会を離れた人からは、ひどいケースでは住民票まで調べられて転居先にやってきたケースも。もともとお休み会員は救いから遠ざかるという教義がある以上、それも教会にとっては推奨されることであるから、中には迷惑も顧みず、そういう「宗教ハラスメント」のような言動に走る者もいる。これも教会の体質なので批判されるというわけである。--まん 2007年4月18日 (水) 01:00 (UTC)
教会の体質とあるがこれは日本の教会の体質という方が合っている。 日本のモルモンの教会はまだまだ未熟なところがあって、「困った古強者」が教会の発展を妨げているのが現状である。これは地方に行くほど散見される傾向がある。 彼らはもともと愛がないので、信仰のスタイルの多様性とか他人の意見などを認めることが一切出来ない「かたくなな者」である。 日本の教会の開拓時代の功労者に多く、教義とか集会の運営方法について熟知しているだけに影響力が大きく始末が悪いのである。 人に従順を説きながら自分より若い監督などが就任すると彼らはよってたかって自分の主張をまくし立て運営をおかしくする「罪」さえ犯しながら自分では気付かない。 彼らの多くは、「教会のマニュアル」と「役職」を偶像礼拝してしてしまっており、気付こうともしない。 そのため神よりも「役職」を解任される事を恐れるのである。 こんなのは日本以外ではレアケースである。 これは日本を統括する歴代の「地域会長」の責任であるが地域会長や大官長が少々指導しても彼らは都合の良いように曲解してしまって一向に「悔い改め」をしないのである。
教えの中で神が「召される者(役職につく者)」は多いがその中で「選ばれる者(神の器になる者)」は少ない。それは神権を誤用して己のために用いるからである。」というのがあるが、それに当てはまっているのである。 最近になって「言う事を聞かない古い人」をあきらめて、新しい若い幹部を訓練する方針になって少し改善したが、本格的になるまで2~30年の時間がかかると思われる。
脱会者は地獄に相当する「外の暗闇」という指導者がいるが間違っている。最後の審判の時に「変な指導者に邪魔されて本当の教えを聞く機会がなかった」場合は「生前福音を聞く機会がなかった者」扱いとなる。 神の目から見て本当であれば彼らの多くは「月の光栄」に行くことになっている。--以上の署名のないコメントは、124.208.165.11(会話)さんが 2007年9月10日 (月) 23:47 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。
◆特定宗教に限らず、特定項目に対する事柄に批判めいた意見や苦情とか教会はこうするべきだなどとWikipediaに記述するのはいかがものかと思います。 第一閲覧者からみて記述が冗長かつ目的を外れてしまいかねます。 どうしてもという場合は「問題点・批判と反論」という別項目を作成して精査した内容を書いた方が説得力もあって良いかと思われます。--以上の署名のないコメントは、124.208.165.11(会話)さんが 2007年9月7日 (金) 11:58 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。
神殿
[編集]>サタンに情報を与えないため
神聖なものとして扱うため、の方が適切では?--Lionpug 2007年4月14日 (土) 13:14 (UTC)
末日聖徒で言われていたことを書いたまで。神聖を保つのはサタンに汚されないということである。単に刺激的言葉にしたくないというだけでは--まん 2007年4月17日 (火) 01:06 (UTC)
神殿で教えられる教義は、秘密ではなく、神聖な事柄として末日聖徒たちは捉えており、一部のものだけの教義ではなく、万人に及ぶもので、誰でも知り得るものです。「サタンに情報を与えないため」との記述は間違った解釈と思われます。これは末日聖徒たちが学ぶ教義上で、暁の子ルシフェル(サタン)はすべての人類がこの地上に生まれてくる前、神の前で人類すべてを救うとの提案を神に申し出た。これと同時にイエスキリストは、人々が自由意志にて神を選ぶか否か、人自ずから自分の救いの道を選ぶことができるようにと申し出た。これら二人の申し出に対して神はイエスキリストを選び、世の救い主とした。結果、人類は3分の2がイエスキリストに従うこととなり、この地上に生を受けて、死すべき肉体を受けることができるとされている。この教義から、サタンはすでに神の持つ知識を完璧ではなくとも有していると考えられ、神殿で教えられる事柄を知らないとは考えにくいため、「サタンに情報を与えないため」との表記は正確ではないと思います。--qo\op--以上の署名のないコメントは、218.219.196.10(会話)さんが 2007年12月9日 (日) 18:46 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。
キリスト教辞典
[編集]本文中「批判がある」との表現が繰り返し使われており、百科事典としての記述としては疑問な点が多い。そのような表現を繰り返す辞典はない。公開されたwikiの場でとられるべき観点とはいい難く、記述としては冗長的である。
末日聖徒が批判があるのも事実なので、記述がそうなるのも当然のこと。禁句としてWikiは掲げていない。--まん 2007年4月16日 (月) 17:00 (UTC)
- 一般のキリスト教の辞典では第三者的観点から否定も肯定もせず書かれていることがお分かりいただけるのではないかと思います。それが中立ということであって、なるべく客観的な方法論をとろうとしている努力がわかります。その人にとって事実であるとしても、wikiのスタンスはその人にとって「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」であり、信頼できる情報源を参照することにより「検証できる」内容だけです(「検証可能性」参照)。それでそのようなスタンスはどうなのかというわけです。--Lionpug 2007年4月16日 (月) 19:03 (UTC)
何をもって客観的といっているのか不明である。キリスト教辞典にも「カルト」の項目はあり、否定的見解である。下は貴兄の言う一般的なキリスト教書籍であることは工藤氏の書籍を出していることから否定しないと思うが、「いのちのことば社」の新キリスト教辞典の「モルモン教会」の抜粋。これも情報源として検証可能であることはいうまでもない。
新約聖書には,神殿や秘密の儀式については何も述べられておらず,神の国に立ち返るために必要な″合図″や″握手″や″合言葉″に関しても,言及は全くない.むしろキリストは,「わたしは世に向かって公然と話しました.わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で,いつも教えたのです.隠れて話したことは何もありません」と言われたし(ヨハネ18:20),また,「隠れているもので,あらわにならぬものはなく,秘密にされているもので,知られず,また現われないものはありません」と教えておられるのである(ルカ8:17).初代のクリスチャンたちが神殿を建てたり,秘密の儀式を行ったり,先祖の系図を探求したりしたという記録は,新約聖書にも教会史にも皆無である.従って,モルモン教の″福音″は明らかに,″回復された福音″ではなく,″新しい福音″なのである.使徒パウロは,そのような「ほかの福音」に注意するように教会を戒めており,それを伝える者はのろわれるべきである,とはっきり述べている(ガラテヤ1:6‐9).----
--まん 2007年4月17日 (火) 01:14 (UTC)
- 一般のキリスト教から見ればそうなってもおかしくないですね。そういうのを規範的立場などと言いますが、一般のキリスト教から見たものと末日聖徒イエス・キリスト教会の見解とは異なるわけで、主観というものはメタ認知的にも完全に避けられるものではありませんので、なるべく主観を排した相対的な第三者的立場から見たものという意味です。たとえばカトリックにも聖書にない「煉獄」や「秘蹟」というのがあるではないかという指摘をする人もいますし、プロテスタントも聖書解釈は様々です。そういう場合、個々の見解があるわけで、wikiではそのような記事は書かない方針だったと思います。わたしが持っている岩波キリスト教辞典などは末日聖徒イエス・キリスト教会の項はなるべく記述的立場で書かれています。--Lionpug 2007年4月17日 (火) 13:05 (UTC)
それは教義のと聖書の矛盾を末日聖徒が説明できてからの話であろう。たとえばあなたが証人になってもらうが、これを聖書を用いて反論できるだろうか。伝統キリスト教は信じることで救われる信仰義認は聖書では揺るぎのものであり、モルモンのように律法、行いによる救い(律法主義)を否定するのは異端ということでは共通している。
キリスト教が律法主義を否定している根拠は。 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。…行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:27-28)
「律法の行ないによってでなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、一人もいないからです」(ガラテヤ2:16)
気をつけなければならないのは、人は信仰によってすでに救われた者となった場合に、その感謝、賛美の印として、隣人を愛するようになり、行ないにもそれは反映される筈である。だから信仰さえあれば何をやってもいいということにはならない。
「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行ないがともなわなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブの手紙2:14)
モルモンはこのヤコブの手紙を「救いの条件として行ないがなければならない」と、解釈してしまい、知恵の言葉や什分の一の律法を持ちだして、徹底的な律法主義に走っている。 モルモン教義の特徴は、律法を守り続けなければ、救われるという確証が得られないところにある。今の時点では救われるかどうかは確信がないのである。 「神は、私たちが行った義のわざによってでなく、ご自分のあわれみゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救って下さいました」(テトス3:5)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(エペソ2:8)
過去形で「救われた」書かれているのに注目して欲しい。律法を守り最後まで耐え忍べば救われるというなら、救われるか救われないかは未来にわかることなのだ。決して過去形にはならない。
ちなみにテトス3:5とエペソ2:8の英語版(ASV)によると、こちらもそれぞれ以下の通りである。日本語だけの問題ではない。
" not by works done in righteousness, which we did ourselves, but according to his mercy he saved us, through the washing of regeneration and renewing of the Holy Spirit" (Titus3:5)
" for by grace have ye been saved through faith; and that not of yourselves, it is the gift of God" (Ephesians2:8)
それをできてからカトリックやプロテスタントの違いに言及してもらいたい。煉獄云々は七十人訳聖書に根拠があり、七十人をヘブル語原文聖書にこだわるプロテスタントは認めていないわけである。しかし新共同訳聖書に象徴するように違いに近年は学びあう関係が持たれつつあり、互いに聖書的にモルモンのような異端という話はしていない。カトリック、プロテスタントと同列に違いを論じたいのであれば、我々が行っているように聖書を使って自教団の教義を説明できなければならない。そうでなければ時間の無駄である。--まん 2007年4月17日 (火) 13:59 (UTC)
要するに「教派の聖書解釈の違い」と「異端」の違いは、前者は聖書(行間の解釈を含めて)に反するとまではいえないだけの神学は有している。しかし後者は聖書との矛盾を説明できないということである。私は10年近く反モルモンの人間であるが、上記の聖書的問題に答えられた末日聖徒に今だ出会っていない。答えたつもりでも他の聖書個所とまた矛盾が生じてきて、その説明を求めていくうちに、もがけばもがくほど網にからむようになってしまう人ばかりだった。それが異端の特徴であり、往々にしてそれは人を搾取するカルト宗教である場合が多いのである。--まん 2007年4月19日 (木) 00:18 (UTC)
工藤氏について
[編集]>また、戒めを守ることが自己努力主体であることから、安易に偽善に走る教会員がいる一方、何もかも抱え込んで罪意識で心を病み脱会する教会員が少なくないという批判が反モルモン側から提出されている。
の箇所は、正統派とされる一般のキリスト教宗派でも報告されているものであり、モルモン特有の問題ではなく、キリスト教という心的内面を重視する規範性のない宗教自体の問題としての認識も必要であろう。
心の病とキリスト者の関わり、工藤信夫、いのちのことば社、2000年
信仰による人間疎外、工藤信夫、いのちのことば社、1993年など参照されてはいかがか。--Lionpug 2007年4月14日 (土) 09:48 (UTC)
白か黒かという議論はよくカルト教団が使う論法で、たとえばオウムはかつての中世のカトリックの状態をかかげて、教祖が批判されるいわれはないといっていた。世の中は2色で論じたのであれば、警察も犯人を捕まえることも、裁判官も人に判決を下せる者はいなくなるだろう。モルモンはあまりにもこういう被害者が多いので、「反モルモン」という人がこれほど活発に活動するのである。伝統キリスト教も批判を受けることはあれ、ここまで批判を受けることはない。むしろ精神科医としてもクリスチャンとしても有名な工藤氏のように自身の教団に対しても内省的であろうとする自浄能力が、末日聖徒には欠けているという批判も多いことも付記したい。--まん 2007年4月16日 (月) 17:00 (UTC)
工藤氏について追記
工藤信夫氏が、末日聖徒内でそういう扱われ方をしていることは大変、本人も不本意であると思う。
『信仰による人間疎外』(いのちのことば社)などはあるが、彼は主として末日聖徒のようなキリスト教系のカルト宗教を研究し、それから学ぶべるものを分かりやすく言えば他山の石とせよという戒めとしているのが彼の主張である。(彼は論文等で「カルト」という言葉を積極的に用いており、陳腐な言葉と称している貴兄が自説を擁護するために引用するには適当か再考されるべきであるし、慎重にいかないと主張に自己矛盾があるように思われるが)。また、何よりも末日聖徒をはじめとするカルトという批判するなという意味ではない。私個人は末日聖徒を脱会した人間だが、そういう意味でカルトとは何かということを学び卒業したものであると思っている。その理由で今、属している教団内で一部信徒に同様な傾向があれば、それが聖職者であろうと同様に批判を展開をしている。それがそもそも工藤氏の主張である。
貴兄が同書を知っていることからして、また私の経験値からはじき出して、末日聖徒では同氏の主張を歪曲し、他教会の腐敗ぶりを指摘し末日聖徒の正当性をアピールしているのかと考察するが、そもそもそういう姿勢も含めて「カルト」として批判しているのが工藤氏の考えであり、実際、貴兄はどこまで彼を知って論じているのかと疑念を感ぜざるを得ないことも付記しておく。--まん 2007年4月16日 (月) 17:00 (UTC)
- 工藤氏の本は何冊か持っていますがその限りではカルトやモルモンなどの記述は一度もありませんでした。ご存知『信仰による人間疎外』にもありません。工藤氏の言葉をお借りすれば「欠け」(不完全なところ)ですが、「欠け」を持った人が信仰を持つキリスト者としてどうあるべきかについて書かれていることが多かったように思います。精神科医には必ずしも心を平安にしないキリスト教を嫌う人がいるともありますよね。特に工藤氏の本がというわけではありませんが、同様の教会内の人間関係や人のあり方などを考察し指摘した著者は他にもあります。脱会者のあなたであれば理解できるばすだと思いますが、私がコメントした箇所のようなことは他のキリスト教会でも見られるという指摘があるので、何故ここに必要なのですか、と指摘したまでです。あなたが末日聖徒イエス・キリスト教会で嫌な思いをされたことは別にしてですが。二元論で述べているのではありません。ちなみに、末日聖徒らが悪用しているのではとありますが、個人的なものであり、そのような事実はありません。--Lionpug 2007年4月16日 (月) 19:03 (UTC)
二元論で述べているのではないというとだが、それならグラデーションで考えられるわけで、末日聖徒は伝統キリスト教会に比べて被害を感じる人が多く、批判も多いことは理解できよう。工藤先生は「キリスト教会の内なるカルトについて」という論文を書いておられることを付記しておく。何度も言うが、先生はカルト批判するなという考えをしているわけではない。むしろその逆である。あなたが先生から学ぶのであれば、外部から批判される前に自分たちの教会に「信仰疎外」が現存していないかを内省的に考えるべきである。これに対する反論はいまだない。具体例をあげれば、かつて米カトリックで司祭の性的虐待事件があったときに、日本のカトリック司教団は国内でも調査をして国内でも同種の事件があったことを公式ホームページで掲載し、謝罪したことがあった。しかし末日聖徒の主張はあなたのように外部からの批判への批判と自教団の擁護論ばかりで、そういう姿勢で被害者に臨んでいるとはとても思えない。これが先生の言う「キリスト教会の内なるカルト」なのである。また先生がモルモンと名指しで批判しているという主張は当方は最初からしていない。--まん 2007年4月17日 (火) 00:31 (UTC)
- カルト一般の特徴についてステレオタイプ化してカルト像が強調されることがあるが、実際にはカルトとされた新宗教運動は多様です。わたしがカルト批判回避に用いているとする一方的な判断は困りますが、「信仰による疎外」の中に書かれているのと同様の現象はどの集団にも見られるものです。それに対する取り組みは個々の生活においてされるべきものであって、論点を何故ずらされるのか分かりませんが、「削除した箇所は何故ここに必要なのでしょうか」。末日聖徒らが悪用しているとの一方的な侮辱への謝罪はないんですね。キリスト者としてそういうのも戒めていたと思うんですけれども。カルトとして批判をするときはいいのでしょうか。とてもそういう著作とは思えませんでした。正直、あなたの論点がわかりません。--Lionpug 2007年4月17日 (火) 12:39 (UTC)
キリストも愛を唱え徴税人や遊女に優しく接したが、ファリサイ派、律法学者の類いには「蝮の子」と徹底的に批判したことを忘れてはいけない。依存症に悩む青年など教会に来る人には友として話し相手になり、同じ罪人として交わりを持つことは主の勧めであり実践しているが、主の教えをねじ曲げる者についてははっきりそのように言うだけである。その異端である証拠はあなた自身が、上記に本日記した聖書的モルモン教義への反論にあるとおり。第二点に「集団に見られる」というが、モルモンにそれがあるというのが当方の主張で、それに対する反論はいつも避けて行わない。表面を撫で結論とするようでは、確かに水掛け論であろう。
もう一度、いうが「カルト」という定義は陳腐、過去の遺物という貴殿の主張は社会的にも専門的にも一般的ではない。Wikiでは他のカルトとされている教団も同様に批判を受けているが、「カルト」という項目が記事から削除されないのもそういう理由である。それもあなた自身がたとえば、脱カルト学会へ行って資料を持ち込み、その自説で論破できる自信まではないだろう。それが何よりの証拠である。
謝罪云々ということもいっているが、それよりもひどい他教会への侮辱を口にする幹部をモルモン時代に私は沢山聞いているので(例えばプロテスタントでは牧師が祈ってしまうので信徒は自分で祈れる人がいない。神父牧師は神と信徒の間に権威者とて入ってしまうので直接の関係を保てるのはモルモンだけであるなど)、どうせそういう形になっているのではないかと思うと私が経験則で感想を述べただけで、またあなたの話があなたの話だけで真実だという確証も得ていないということである。--まん 2007年4月17日 (火) 14:17 (UTC)