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ノート:村正

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千代に八千代に

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村正を題材にしたコミックスです minyarin ----以上の署名のないコメントは、Minyarin会話/Whois)さんが 2014年2月9日(日)00:49 に投稿したものです。

通航一覧の出典

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竹中が村正二十四本を所持していた理由を「按ずるに」と推測した人物は、通航一覧の編者ではなく寛明日記の執筆者と断定して間違いないでしょうか。この部分の記述では当時、村正を陪臣に至るまで禁じていたと書かれており、同じ内容が幕府の公的日記を編纂した寛明日記に掲載されているなら、禁令は事実であった可能性が高くなります。--126.60.198.121 2018年9月7日 (金) 14:38 (UTC)[返信]

村正#『通航一覧』に引く『寛明日記』にあるように、『寛明日記』そのものが他の記事の引用集ですが(福井保、「寛明日記」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。)、『寛明日記』はどこから引用したかを記載しないので、著者は不明です。『寛明日記』自体も成立年代不明なので、時期不明・著者不明、公的なのかも私的なのかも不明、「按ずるに」以降に『三河後風土記』(1648年以降)とほぼ同じ文章を用いた箇所がある、というぐらいしかわかりません。--Senu会話2018年9月7日 (金) 15:16 (UTC)[返信]
訂正:「按ずるに」以降に『三河後風土記』→「抑(そもそも)」以降に『三河後風土記』--Senu会話2018年9月7日 (金) 15:23 (UTC)[返信]
一応補足しておくと、江戸幕府日記のうち『天寛日記』と『寛明日記』は書名と違って日記ではなく、後から日記風に編纂した史料です。--Senu会話2018年9月7日 (金) 15:41 (UTC)[返信]

回答ありがとうございます。『寛明日記』の著者が誰かではなく、「按ずるに」「陪臣に至るまで禁じた」という記述が『寛明日記』自体にあるかどうかをお聞きしたつもりです。『寛明日記』自体に記載があるか現状確認されていないということでしたら、『寛明日記』自体が出典であるように受け取られる表現は避けてください。例えば表で重義処罰について触れている年を『通航一覧』ではなく『寛明日記』成立時点にしていることや、私が疑問点をつけた節の記述で『通航一覧』が明示されていないことです。

また、「重義が自白した」と書かれていますが、私にはそう断定していいか疑問です。「聞こえし」には「日本国語大辞典の【二】〔二〕」以外にも語義があります。「聞こえし」が「重義が将軍家に言った」ことを指す謙譲語であったかどうかも不明確です。さらに「将軍家に言った」という表現であったとしても、問題の「聞こえし」の文には主語がありません。言ったのが重義か、その家臣か、それとも取り調べにあたっていた人か、将軍の側近か示すものはありませんが、なぜ重義と断定されたのでしょうか。「江戸時代、自白は有罪判決のための必要条件だった」というところも疑問です。大きなところでは大久保忠隣・本多正純・古田重然・福島正則、小さいものでは浅野長矩、大鳥居逸兵衛、水野成之なども本人が自白などしないうちから処罰されています。正則が「今の将軍には何も申し上げることはない」と言ったが改易された話は藩翰譜にも収められています。--126.60.198.121 2018年9月8日 (土) 15:59 (UTC)[返信]

ご指導ありがとうございます。一人で大量に文を追加するのはかなり不安だったので、校閲してくださる方がいて安心します。
『通航一覧』については、すぐ隣のp. 56を見ていただければわかりますが、『通航一覧』の編者は自分の按注は割注で書く書式を採用しているので、『通航一覧』の編者の意図としては、『寛明日記』内の按注ではないでしょうか。もちろん、引用ミス(時には意図的な改変)もあると思いますので、正確に言えば「『寛明日記』の按注」ではなく、「『通航一覧』に引く『寛明日記』の按注」(さらに正確に言えば「『通航一覧』に引く『寛明日記』に引く出典不明の記事の按注」)となります。ただ、記事の全ての箇所でこのような文言を用いると煩雑になりますので、節の最初は「『通航一覧』に引く『寛明日記』」と書き、「以下、『寛明日記』と略記」と注して、以降は単に『寛明日記』と書くようにしました。また、「著者が」あったところは、そもそも著者が不明なので、ひとまずコメントアウトして、そういう文章があるという形にしました。
『藩翰譜』については、おっしゃる通り色々な解釈も可能だと思うので、発言の主をぼかすようにしました。
以上でよろしいでしょうか。--Senu会話2018年9月9日 (日) 00:10 (UTC)[返信]

対応ありがとうございます。--126.60.198.121 2018年9月10日 (月) 12:30 (UTC)[返信]

こちらこそ、ご指摘ありがとうございました。ひとまず本件は解決したと思われるので、勝手ながら疑問テンプレートは除去いたしました。もし何かまたあればよろしくお願いいたします。--Senu会話2018年9月18日 (火) 13:58 (UTC)[返信]

ページ分割の提案

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妖刀村正伝説」については、別ページに分割してはどうでしょうか? 妖刀に関して過剰に説明することは、「村正」そのものの理解を妨げるように思います。本ページでは概要程度にとどめて、別ページで詳しく説明するほうが良いと思われます。--2400:4172:6833:CA00:7DAF:EDC0:B013:341B 2020年1月23日 (木) 14:23 (UTC)[返信]

一理は有ると思います。ただ、江戸時代に村正が廃棄された事実や、幕末に村正が珍重された事実は、実物の村正と関わってくるため、どこからどこまでを完全な伝説とし、どこからどこまでを実在の村正に関連する記述とするのか、切り分けるのが難しいという問題があります。また、これだけ大きい記事ですと、ページを適切に分割するのはそれなりに作業量の要ることですので、「どちらかと言えば良い」という程度の理由では、あまり手を出したくないという現実的な問題もあります。ただ、もし何かの日本語版ウィキペディアの方針やガイドラインに違反しているようでしたら、その時は対処します。--Senu会話2020年1月24日 (金) 15:42 (UTC)[返信]