ノート:池田勇人/過去ログ1
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「貧乏人は麦を食え」問題
>1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これは吉田政権に対して厳しい態度を取る新聞の思うつぼだった。翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これがいつの間にか池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。
私はこの文章の中で「これは吉田政権に対して厳しい態度を取る新聞の思うつぼだった」が気になるのです。これは人によってとり方が違い、必ずしも必要な記述ではなくむしろ一方に偏る記述になってしまいます。ここで伝えなければいけないのは「池田が『所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります』と発言した」ことに対して「新聞が『貧乏人は麦を食え』と報道した」ということです。この新聞の要約は基本的に間違っておらず、このときの新聞の政権への態度を書く意味が無いし、書けばどちらか一方に偏った記述になると思います。誰にでも見える「事件の核」のみを書く必要があると思います。個人的な主観主張など不要。--Keiryou 2007年10月11日 (木) 17:19 (UTC)
- 「個人的な主観主張など不要」というのは、一体何のことを指しておっしゃっているのでしょうか。念のためにもう一度正しておきますが、当該の記事に個人的な主観や主張などは一字一句も含まれていはいません。不戦後間もない頃の言論界は左翼思想の影響が強く、中道左派の片山・芦田両内閣が内紛や疑獄から瓦解したあとを受けて再登板した保守系の吉田内閣に対してはこれを「反動政権」と位置づけ、まるで八つ当たりでもするかのように攻撃を加えていました。この時代にはセンセーショナリズムが横行し、新聞が事実を若干歪曲してまで人目を引く見出し文句をつけていたことは歴史的事実であり、「貧乏人は麦を食え」や「中小企業の五人や十人」はその代表的な事例としてジャーナリズムの講義では必ずといっていいほど紹介される事件です。Keiryouさんは左翼関連にお詳しいということで、当然こうした背景はご存知のことと拝察いたしますが、それをあえて「個人的な主観主張など不要」などという事実無根の理由をつけて特定の文言を何がなんでも削除しようというのは、それ自体がKeiryouさんの個人的な主観によるものであるからではないでしょうか。 PANYNJ 2007年10月11日 (木) 23:27 (UTC)
- もう一度書きましょう。私は当時の新聞の思想傾向については何の興味もありません。ただ、「池田発言」に対して「新聞がそれを要約して紹介した」、その結果「批判を受けた」ということのみを書けばいいだけだと言ってるのです(私は新聞の要約「貧乏人は麦を食え」は間違っていないと考えます)。当時の新聞があなたから見て「左翼傾向」だったとしても、彼が発言を行い、それを要約して報道したことには何の問題もないし、わざわざ「思うつぼだった」などと書く必要があるのでしょうか?もしあなたが池田発言の新聞の「歪曲」を書きたいのなら、新しい記事「貧乏人は麦を食え問題」とでも作って当時の新聞の態度について主張されたらいかがでしょうか?ここは池田勇人の問題発言を書く場であって当時の新聞の態度について書く場ではないからです。私は「思うつぼだった」のくだりを削除するのが「個人的な主観主張」ではないと思います。むしろそれを書きたがるあなたのほうが「個人的な主観主張」を押し通そうとしているだけではないでしょうか?事実のみを淡々と書けばいいのです。「思うつぼだった」等が必ずしも必要な記述とは思えません。--Keiryou 2007年10月12日 (金) 08:54 (UTC)
- 追記、「厳しい態度」云々も同様です。--Keiryou 2007年10月12日 (金) 15:52 (UTC)
「思うつぼ」に関しては御説に従いすでに数段前の版で削除しておりますが、お気づきになられませんでしたでしょうか。その他の部分に関しては水掛け論となりますので他の方のご意見も伺いたいと思います。ただ重ねてこれだけは申し上げておきますが、私は右翼でも左翼でもなく、また記事に「個人的な主観主張など」は微塵も書く加えてはおりません。貴兄に事実ではないことを事実のように書かれるのは、正直なとこと不快であると言わざるを得ません。以上です。 PANYNJ 2007年10月19日 (金) 20:17 (UTC)
- 私は変更点に気づいて追記として「厳しい態度云々も同様です」と書きました。新聞の態度云々が果たして必要かどうかということが私の大切とするところであって、「思うつぼ」も「厳しい態度」もその点において問題にしています。あなたや他の人が「新聞についてどう感じたか」ではなく、ただ「池田が発言し」、それを「新聞が報道し」、その結果、「世論から批判を受けた」が本来記述されるべきだと書いているのです。--Keiryou 2007年10月20日 (土) 08:20 (UTC)
分割提案
本記事の中で、「生涯」の中の「内閣総理大臣」の項及び「評価」の項は、池田個人というより池田政権の記述が主になっています。よって、この二か所を合わせて「池田内閣の歴史」などというタイトルで分割、本記事においては簡単な記述に留めることを提案します。イメージとなるのは鳩山由紀夫内閣の政策のようなものです。--Susuka(会話) 2016年4月29日 (金) 00:57 (UTC)
- 記事の肥大化による分割なら問題ないと思います。池田主導の政策・功績についてはこの項目に詳述すべきでしょう。「評価」の項はここへ残していいんじゃないでしょうか。池田政権・池田内閣の政策は、池田の政策・功績として書かれた文献も多いです。「所得倍増計画」も勿論、ブレーンや多くの官僚の手にかかったものですが、内閣の看板として据えたのは池田の独断によるものです。--219.106.36.19 2016年5月3日 (火) 18:05 (UTC)
- 返信 池田内閣の施策に占める影響力は、当然池田本人の占めるところが大だと思いますが、それが実施されたことの史学上の意義は、池田のパーソナルな部分を離れて、時の政府がとった施策として独立させて記述すると、最終的にはわかりやすいのではないかと思います。特に池田内閣の施策は、安保中心の岸政権から経済成長期軸に舵を切った(佐藤政権以降にも影響を及ぼした)という意味で、非常に重要です。将来的には、上述の「鳩山由紀夫内閣の政策」や、更には「幣原外交」のようなものも併せて、「日本の歴代政権の施策」などという一つのグループができるかもしれません。--Susuka(会話) 2016年5月5日 (木) 05:45 (UTC)
- 取り敢えず、「内閣総理大臣」の項を分割した後の、こちらの概要の案をいかに占めしておきます。
→詳細は「池田内閣の歴史」を参照安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日にに内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。池田政権はその後、二度の解散総選挙と四度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。
池田は安保闘争の時の強硬的な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかとみられていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」、「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。更に、内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)の機能を拡充させ、現在のタウンミーティングのはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。
1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。更に、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。
また、所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)、太平洋ベルト地帯の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への公共事業の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は70年代の派閥政治へと向かってゆく。
通商政策としては、自由貿易が日本の先進国入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げた)。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内のレモン農家までを敵に回した。更に、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、炭労や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。
文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、高等専門学校(高専)の設置も進んだ。
第一次産業に関しては、1961年に農業基本法を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。
適宜訂正、または意見をお願いします。--Susuka(会話) 2016年5月10日 (火) 16:32 (UTC)
本記事では簡単な記述に留めることについては賛成ですが、以下の記事と重複しませんでしょうか。適切な記事へ転記していくなどのほうが重複にならないのではと思いますが、いかがでしょうか。
- 第1次池田内閣
- 第2次池田内閣
- 第2次池田内閣 (第1次改造)
- 第2次池田内閣 (第2次改造)
- 第2次池田内閣 (第3次改造)
- 第3次池田内閣
- 第3次池田内閣 (改造)--はるみエリー(会話) 2016年5月29日 (日) 15:11 (UTC)
- コメント 池田内閣の事績は4年間総合してのものですから、、解散や内閣改造で別記事に分割するのは不適当であるとみます。上記の記事は、閣僚名簿として現状のままにしたほうが良いのではないでしょうか。--Susuka(会話) 2016年5月30日 (月) 11:32 (UTC)
- たしかに、全く政策が書いていないところに細切れに書くよりも、まとめたほうが読みやすいかもという気もします。記事名は、「歴史」よりは、「政策」(池田勇人内閣の政策など)のほうが良いと思います。--はるみエリー(会話) 2016年5月30日 (月) 16:44 (UTC)
- いずれにしても分割は行ってもらいたいです(自分はやりません)。上のほうでコメントしているIPは、おそらく今年2月から断続的に無駄に大きな加筆を行っている変動IPだと思われますが、こういった水増し的肥大には迷惑しか感じません。自分はノート:原子力撤廃にも書いたように、「1冊から3箇所」よりは「3冊から1箇所ずつ」という方針で編集を行っており、一つの書籍から複数回引用してくることに疑問を感じています。三木武夫や大平正芳などはその典型です。そんなに一つの書籍から馬鹿みたいに持ってくるぐらいなら、原典を読めと書いたほうが早いと感じるからです。--Alexander Poskrebyshev(会話) 2016年6月2日 (木) 17:56 (UTC)
作業中 では、池田勇人内閣の政策で立項しますね。--Susuka(会話) 2016年6月4日 (土) 14:35 (UTC)
- 報告 分割しました。--Susuka(会話) 2016年6月4日 (土) 20:50 (UTC)