ノート:池田大作本仏論/過去ログ1
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Baromarin氏の編集について
昨日、池田大作本仏論がBaromarin氏によって再構築されました。 前回削除された時のWikipedia:削除依頼/池田大作本仏論は私もページを編集していましたが、その時とは出典の充実性や内容が違うようです。そのためIPユーザーによるテンプレをいたずらと判断し削除しました。本件について削除を希望される場合 即時削除ではなく改めて削除依頼を提出して頂き、前回の削除依頼の内容を考慮しないよう配慮して頂ければと思います--ノーザン123(会話) 2015年12月23日 (水) 20:58 (UTC)
創価学会が個人崇拝の団体だというような批判が、世間的に行われていることは、事実かもしれませんが、その批判の妥当性に関する判断は、wikiの記事で主張されるものではありません。この記事は、それらしい文献を収集しておりますが、創価学会や日蓮正宗が基礎にしている宗教理論における、仏という概念と本仏という概念の差異を理解しておらず、したがって本仏論という言葉の意味するものを誤って理解したまま書かれています。本仏論というのは、日蓮正宗の特殊な宗教思想である日蓮本仏論を創価学会に当てはめて、創価学会を批判あるいは揶揄する言い方ですが、この記事を見てもそのような言説は、正規の主張の場ではない陰口程度の重さとしてしか語られていないようです。このような記事の立て方は、Wikiの基準から見て、否定されるものと思いますが、いかがでしょうか。削除の討論のページにも同じ記事を載せておきます。--Sfwu(会話) 2015年12月24日 (木) 08:06 (UTC)
ノーザン123さんやその他の加筆している人に申し上げます。のページは削除するべきだと思っているのですが、その結論が容易に出ることもなく、論旨不明の記事が継続しているのが、削除提案者としてはどうにも、不合理に思えます。もう少し、中身をまともにできないでしょうか。たとえば、池田大作本仏論の終末という節がありますが、この部分によると、池田大作本仏論は1974年になくなったということになるようにも思えます。ところが、その後の節で1994年に池田大作本仏論があったというような説明があるのですが、こんなに隣接する節の間で、論旨が矛盾しているのは、何なのでしょうか。一人の人間が書いていないのならば、、あとから直した人が前の部分を矛盾しないように手を加えるべきであり、もし一人で書いているのならば、その人の理解能力は疑わしいものです。とにかく、こういう矛盾する記事はすぐに手直ししてほしいものです。そうでなければ、とりあえずは論旨に矛盾のある部分は、まともになるまで削除しておきたいのですが、ご意見お聞かせください。--Sfwu(会話) 2016年1月4日 (月) 05:59 (UTC)
Sfwuさん。自民党の件は反創価学会キャンペーンを参考にして頂ければと思いますが、簡単に説明すると創価学会の内情を元幹部などから手に入れ、その中に池田大作本仏論に関するものが含まれていたと考えられます。もし、池田大作本仏論が池田の談話が聖教新聞に掲載された1980年に終息していたとするなら、1980年以降の内容は本仏論終息以降に挙げられた内容ですので文章にすでに終息済などと入れれば問題ありません。または池田大作本仏論終息後に主張された本仏論を別セクションとして設け、記事の充実に充てたいと思います。
それからSfwuさんは2016年1月4日 (月) 02:32など数度にわたって「池田大作が創価学会の第三代会長に就任した後の創価学会の活動、性格あるい主張の様態を修飾するために、基本的に創価学会を批判する立場の人々によって採用された表現である。この表現は、創価学会と強い関係がある日蓮正宗の教義と深くかかわるものである。」との部分を出典なしで何度も掲載しています。あなたが主張する部分を掲載したいのなら検証可能な出典を出した上で編集して下さい。検証可能な出典を出した上で編集であれば誰も文句は無いはずです。Sfwuさんもしお守り頂けないのであれば、wikipediaの基本方針に従い該当編集の除去、コメント依頼やブロック依頼を要請する場合もあります。--ノーザン123(会話) 2016年1月4日 (月) 08:01 (UTC)
ノーザン123さん、でたらめなリバートはルール違反でしょう。なお、戸田会長本仏論の部分ですが、出典として紹介されているような資料があるかもしれませんが(未確認)これを戸田城聖本仏論という風に結びつける資料はなく、ウェブで検索しても、この記事しか、出てきません。したがって、表現を訂正すべきでありますが、書いた人がそれをしてほしいと思います。一定期間それができない場合に、当該箇所を削除すべきと思います。--Sfwu(会話) 2016年1月4日 (月) 11:11 (UTC)
Sfwuさん具体的に一定期間とはどれくらいを指すのでしょうか?具体的な期間というのは曖昧で人にとっては1日ともとれるし、半年や1年なんてとり方もあります。具体的な期間の設定が必要でしょう。次に「ウェブで検索しても、この記事しか、出てきません」の意見はSfwuさんの怠慢です。あなたは記事を作成するのにWEBページのみを参照されているのですか?そんなことは無いでしょう。以前、別の記事ではわざわざ国会図書館まで行って調べたなんて方もいらっしゃいました。そこまでする必要はありませんが地元図書館や書店などでの確認くらいは必要でしょう。最後にあなたはまた出典なしで記事を作成しましたね。あなたが主張する部分を掲載したいのなら検証可能な出典を出した上で編集して下さい。--ノーザン123(会話) 2016年1月9日 (土) 00:50 (UTC)
61.202.231.130 さんが、項目の定義の部分に出典を要求するタグをつけております。この部分については、池田大作本仏論を言及する文献はそれなりにあるが、それがなんであるかを決定的に示しているという文献は見当たらず、一つの文件による定義を書いてしまうと、他の文献と矛盾することになり、それらの定義を全部、表題の説明の部分に列記すると、記事が読みにくくなるということで、そのような全体の内容をできるだけ客観的にまとめて、記事の体裁を整え、かつ、読みやすくしたというのが私の意図です。内容に関して検証は可能であり、独自研究とは言えないと思います。内容が不適切だと思う部分については、改善してください。こういう要求を繰り返すと、表題に関する説明を書けないことになりますが、そのような項目は削除すべきだということになります。返事をお待ちしております。議論がない場合には、タグの意味が失われたと解釈するしかありません。--Sfwu(会話) 2016年1月9日 (土) 01:01 (UTC)
ノーザン123の質問などへの回答。
1.一定期間とはどれくらいの期間か。
このノートで、それなりの議論があれば、その議論で合意が形成されるまでの期間であり、それに関する議論がまったく発生しないのであれば、そのことが確認できる期間です。締切があるわけではありません。
2.戸田城聖本仏論でウェブしか見ていないのかという質問について
戸田城聖については、本仏論などという議論が出てくる余地がないというのが、私が扱った文献から形成される結論ですが、すべての資料を一瞬にあつめることはできません。そもそも、戸田城聖本仏論などという言葉をこの記事で書くのならば、それを書く人がその出典を示すべきです。それはありません。ウェブでは、さまざまな人たちが自由で広範な意見を述べておりますので、検索すれば、そういうページもあるかと思って、検索したところ、wikiのこの記事しかなかったということです。まさに、独自の研究ということになると思います。
なお、佐藤優の分析を紹介したところに関してですが、この部分は二つの段落に分けましたが、内容は一つのことを言っており、前半の詳しい説明を後半でおこなっておりますので、全体について、出典をつけたのですが、前半に出典を求める人がいたので、注を移動したのです。内容を読めば、二つの段落の関係が理解できると思うのですが、今度は後半に出典を求めるタグが付きました。タグをつける前に内容を読んで理解してほしいものです。--Sfwu(会話) 2016年1月9日 (土) 01:25 (UTC)
それでは出典は編集前と同じという事ですね。了解しました。それであれば出典を移動せず2つにすればよいのです。--ノーザン123(会話) 2016年1月9日 (土) 01:32 (UTC)
同じ部分に二つの同じ出典注記を付すというのも間抜けな感じがして、気が進まなかったのです。--Sfwu(会話) 2016年1月9日 (土) 01:38 (UTC)
池田大作本仏論の終息の節の修正または削除の提案
追加でお知らせします。佐藤優の文献の注を、二つの段落を指すものだと書きましたが、実際には、その前の部分を含み、「創価学会と宗門の対立と決別」の節の全体に対するものだというのが正確なところでした。ところが、この節の前半と節の表題を61.202.231.130 さんが大きく書き換えたので、その部分の対応が読めなくなり、また、節の記述も、全体の記事の中で脈絡のないものになりました。この節は、日蓮正宗と創価学会の対立における池田名誉会長の対応の性格に関する佐藤優の見解を紹介するものですが、61.202.231.130 さんの書き換えでは、宗門側の対応ばかりを強調しているので、節の論旨が支離滅裂に見えるようになったと思います。
では、この節を私がなぜ、追加したのかと言いますと、その前の節の「池田大作本仏論の終息」が、非常に不自然なものだという感があるので、その問題点を解消したいと思いその端緒としたかったからです。この節の表題は、前は、「池田大作本仏論の終末」というもので、この内容があまりにも他の部分の説明と矛盾しているので問題だと提案したところ、「終息」と言葉が改まりました。終末というのは、その言葉自体に価値観が含まれており、それに比べて「終息」のほうが、やや客観的な感じなのですが、それにしても、1977年の段階で池田大作本仏論が終息したという評価は、全体の記事の内容に矛盾しているという問題は解消されておりません。そこで、この事情をどう評価するかに関して、1977年の対立と1990年の決別を一連の現象と見ている佐藤の見方を紹介する節を追加したのです。宗門と創価学会の対立の原因の重要な要因が「池田大作本仏論」だというのがその前の節の文意に含まれておりますので、1990年に両組織が決別した経緯は、「池田大作本仏論」は、その定義は未確定ですが、少なくとも1977年に終息してはいないということを示していることになるといえないかということです。1977年に池田大作本仏論にあたる要素がなくなったのならば、1990年に両組織が決別したのは、別の原因が発生したからだということになりますが、それは無理な解釈になると思います。
したがって、その前の節の書き直しの必要性を含めて、修正する必要があると思います。--Sfwu(会話) 2016年1月9日 (土) 04:55 (UTC)
修正に同意しても良いが、二つ条件があります。 1.題名には必ず宗門では無く日蓮正宗と入れること。 2.修正の際に、本文の出典を出来る限り生かすこと。
1.は日蓮正宗が正式名称であり、宗門とは主に創価学会や顕正会の方が呼称する名称だからです。最初削除依頼にも書きましたが、中立性の確保は絶対条件です。記事の内容は創価学会の主張、日蓮正宗の主張、第三者の意見とを入れれば良いと考えます。2の理由も中立性の確保からうまく内容を組み込むのが最良です。創価学会側のみの主張では偏った内容しか出来ません。--東海幻夢(会話) 2016年1月9日 (土) 11:16 (UTC)
了解しました。しかし、引用文献で宗門というような用語を使用している場合も多々あります。私はこれまで、自分の意識では、偏った編集をしてきてないつもりでしたが、問題があれば指摘してください。--Sfwu(会話) 2016年1月9日 (土) 14:36 (UTC)
いくつか提案します。
1.宗門という用語。日蓮正宗で宗門という言葉を自ら使用していなくとも、創価学会と日蓮正宗の対比においてこの用語がかなりの程度で使用されていて、また用語として理解しやすいのであれば、これを使用することは構わないと思います。私が調べた文献では、佐藤優『創価学会と平和主義』、溝口敦『池田大作「権力者」の構造』(文庫文)で宗門という用語を使用しておりますが、これらの著者はいずれも創価学会の外側の人物です。これまで図書館で何冊か文献を借りましたが、返してしまったものもあり、確認したのは数冊です。だから、宗門という用語を使用している文献の割合は、確認した文献のなかでは5割を超えています。
2.中立性について。中立性については、そもそもこの項を特別に立てる時点で、中立性に疑問があると思っております。宗門という用語を日蓮正宗が使用しないのと同様、池田大作本仏論という用語を創価学会自身が使用することはありません(少なくとも、これまで調べた範囲では、そうであり、また議論の性格からもそれは言えると思います)。そこで、このような用語に関する項を独立させて立てる必要はなく、創価学会に対する批判の一種として注記すればよい程度だと議論したところ、何人かの人がぜひこの項を立てたいということでした。しかし、この記事の内容は一貫性がなく、論旨不明というしかなく、単に創価学会を貶めたいだけではないのかというような感情的な記述ばかりが目立ち(創価学会を貶めても、私は困りませんが、Wikiの記事としては困るのではないでしょうか)、それを少しでも改良しようとすると、強力な非難のような話や、私の編集を台無しにするような感情的な書き換えが入ります。たとえば、創価学会と日蓮正宗の決別という表現と、日蓮正宗による創価学会の破門という表現は、実は同じことを指していて、また、私の書きたい文脈ではどちらが正しいかという判断はせずに、両組織が分かれたという事実を指摘したいのですから、佐藤の表現に合わせて「決別」と書いたところ、その時の経過を長々と書いて、「破門」と書き換えた人がいます。破門にいたる事情がこの項の説明に何らかに重要性をもつと考えるのならば、別に節を設けてそれを書き、それとこの項との関連性を書くべきですが、それをせずに、佐藤の分析を理解できないような書き換えを行ったその人の意図は、正統な日蓮正宗に創価学会が破門されたという価値観を押し付けたいだけのように思えます。
3.各組織の議論を列記すべきなのか。中立性だからということで、各組織の主張なるものを列記する必要はないと思います。この項のように、議論が起きているかどうか疑わしいのに、各当事者の主張なるものを、一次資料から取り出してきて、解釈して、各組織の主張だなどと並べるのは、中立性の担保とは無関係なことだと思います。
いろいろなひとが、到底メジャーとは思えない、いろいろな文献をもとにして、いろいろなことを書いており、確認するのに時間がかかりますので、記事をまともなものに改善するには相当時間がかかると思います。無駄な労力を減らすために、メジャーでない文献で、常識とは少しかけ離れたことを書きたい人は、形式的に文献を指摘しているからいいだろうなどという態度ではなく、その文献の意味、価値に関するノートでの議論に積極的に答えて、編集作業を効率的に実りあるものにしてもらいたいと希望します。--Sfwu(会話) 2016年1月10日 (日) 07:41 (UTC)
Sfwuさん。Wikipedia:検証可能性を納得いくまで熟読して下さい。あなたは勘違いをされていますが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)です。個々の編集者が真実であると思うかどうかは関係ありません。さらにあなたは上で単に創価学会を貶めたいだけではないのかというような感情的な記述ばかりが目立ち(創価学会を貶めても、私は困りませんが、Wikiの記事としては困るのではないでしょうか)、それを少しでも改良しようとすると、強力な非難のような話や、私の編集を台無しにするような感情的な書き換えが入ります。と発言していますが、その発言自体が間違いです。もちろんその記述に出典が無いなら削除対象ですが、検証可能な出典が付いている以上、内容はどうであれ編集は有効です。以前あなたは私にこの主張は全く不正確です。ノーザン123さんは、出典を示すようにタグをつけるべきところを、勝手に該当部分を削除し続けております。どのような出典が必要なのか理解に苦しむところではありますが、とりあえずはタグをつけて、出典を示すように促すのがルールでしょう。あなたがwikiでどの程度の「地位」にいるのかは存じませんが、態度を改めてもらいたいところです。--Sfwu(会話) 2016年1月4日 (月) 12:13 (UTC)と言っていますが、それも間違いです。wikipediaの方針2では記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。とあります。故にあなたの編集をルールに則り削除したまでです。非は出典を出さなかったあなたにあるのです。Wikipedia:検証可能性や方針が御理解いただけないなら、Wikipediaからご退場頂く事をお勧めします。勘違いされても困りますので申し上げておきますが私は今後、池田大作本仏論の編集は草取りや出典依頼、出典なし削除、差し戻しのみ行い、本文への新たな加筆修正は行うつもりはありません。--ノーザン123(会話) 2016年1月10日 (日) 20:50 (UTC)
ノーザン123さん、同じことを何度も繰り返して、議論がかみ合わないのは、あなたの理解力に問題があるのでしょうか。だれが真実であるかどうかなどということを問題にしたのでしょうか。私が出典を示して、編集した記事を、不適切な形で書き直した人がいて、それに対する意見を述べただけであり、それに関する編集は行っておりません。退場をいただくなどと不遜なことを書いておりますが、あなたにそのような権限があるのでしょうか。そもそも、検証可能であるということは、記事の最低基準であり、検証可能であっても、適切な記事と不適切な記事があります。それを議論しながら、よいものにしていくのが、記事を育てるということでしょう。私は、検証可能でない記事を書いているつもりはありませんが、それを不適切な形で編集しなおすというような行為は、問題だと思います。私は、編集合戦というような不毛なことで時間を浪費したくないので、編集に関して問題提起しているのです。内容について、まじめにお答えください。どうも、文章を書くということの基本があなたには理解できていないようです。私としては、退場を勧められるべき人物はあなただと思いますが。--Sfwu(会話) 2016年1月11日 (月) 05:49 (UTC)
項目の説明部分の編集に関する議論
先頭の題字の説明についている要出典のタグを削除したいのですが、泥仕合になるのは嫌なので、ここに通告し、数日間意見を聞きます。その理由ですが、たとえば、猫という項目があり、その先頭部分を見ると
「ネコ(猫)は、狭義にはネコ目(食肉目)- ネコ亜目- ネコ科- ネコ亜科- ネコ属- ヤマネコ種- イエネコ亜種に分類される小型哺乳類であるイエネコ(家猫、学名:Felis silvestris catus)の通称である。人間によくなつくため、イヌ(犬)と並ぶ代表的なペットとして世界中で広く飼われている。 より広義には、ヤマネコやネコ科動物全般を指すこともある(後述)。」
となっています。しかし、この部分に出典を求める人はいません。なぜ出典を求めないのか、いろいろ考え方があると思いますが、
1.周知の事実、公知の事実に出典を求める必要はない。 2.その部分に関する説明が、その部分の検証可能な根拠として後半の記事に書かれている場合には、その部分に出典を示す必要はない
などの理由が考えられます。この項の先頭部分の定義的な説明はそのような要件を満たしているので、そこに出典を示す必要はないと思います。しかし、言いすぎているという批判もあるので、その批判がある方はここでお知らせください。その批判が正当なものであると感じたら、私も表現を工夫します。たとえば、「池田大作本仏論は言葉である」とか、「単語である」とか、「池田大作論は概念を示す言葉である」というような説明は、公知の事実で証明の必要はありませんが、かといってこのような説明では該当する集合が大きすぎて、項を立てる場合のすべての説明がこれにあてはまります。そのような大雑把な説明では、書く意味がありません。だから、もう少し絞った言い方をするわけです。それがどこまで書いていいのかに関しては、個人的な解釈の相違もあるので議論してもいいと思います。ご意見お待ちしております。--Sfwu(会話) 2016年1月11日 (月) 06:14 (UTC)
提案・要出典部分はこういう感じでどうだろう「池田大作本仏論(いけだだいさくほんぶつろん)とは何者かが恣意的に池田大作創価学会名誉会長を現代の本仏とみなした理論のことである。」この理論は賛美または批判、両方の側面を持つ。ご参考まで--ATAMAKAYUI(会話) 2016年1月11日 (月) 11:28 (UTC)
ATAMAKAYUIさん、こんにちは。せっかく、提案してもらって、あまりけなしたくないのですが、いまいちではないかと思います。すみません。その理由はいろいろありますが、第一に、細かい点で、「恣意的に」という言葉がありますが、それがどういう意味を持つのかわかりにくく、文の中で浮いているというか、余分ではないかという印象があります。次に、形式的にいって、この文は「池田大作本仏論」は、「池田大作創価学会名誉会長を現代の本仏とみなした」理論だというのですが、同じ言葉を繰り返している、つまり、主語と述語が同じなので、説明になっていないのではないかと思います。ここで、「池田大作創価学会名誉会長」は公知の概念と思いますが、「本仏論」は特殊な用語で、公知とは言えません。説明部分に公知ではない言葉がそのまま使用されているので、その点からも説明になっていないと思います。
次に、内容的な部分になりまして、それに関しては私の資料の収集がまだ不完全なので、深く語れませんが、理論として池田大作本仏論が何者かによって語られたかどうかは、検証できない主張だと思います。そこで、この部分に「要出典」をつけなければならなくなるので、問題は解決しません。私の意見はそんなところです。我田引水になりかねませんが、現在の説明の状態のほうが、いいと思います。--Sfwu(会話) 2016年1月12日 (火) 02:12 (UTC)
戸田城聖本仏論の節について
東海幻夢さん、こんにちは。戸田城聖本仏論に要出典のタグをつけたところ、「題名に要出典は貼らない。必要なら削除依頼をかけること。」とされました。これについて少し説明します。前に、このような用語はWikiのこの記事でしか扱っていないのではないかと指摘し、何らかの対処を提案しました。それに対する返答は来ていないのですが、私も現在、資料の収集中で、あまり思い切った編集はしたくないので、この節を編集した人に、いったいこの説明で何を言いたいのかを聞きたいと思いました。創価学会は非常に多くの話題を集めている組織ですから、そのことに関する話題を提供する「出典」は膨大なものになります。そのすべてを意味もなく羅列すれば、記事は読むこと自体ができない、奇怪なものになると思います(現に日本語版のWikiの創価学会の項は、そういうものになっているように見えます)。この節の内容が、エントリーの表題である「池田大作本仏論」に何かかかわりがあるのならば、書いた人にそのことを説明してもらいたいと希望しております。そうすれば、節の記述や表題を手直しすることで、せっかくの記述を生かすことができるかもしれないと思い、そのような出典要求をしたものです。
なお、この項の削除要請を撤回することを勧められ、やり方がよく分からないと放置してあります。しかし、私は現在、資料の収集中、確認中であり、今の段階で存続すべきだという風に意見を変えるのは早すぎるので、放置しているという意味もありますので、もう少し、お待ちください。
また、この場を借りて「戸田城聖本仏論」の節を執筆したり、加筆したりしている人または人たちに、再度呼びかけます。この節の記述は、本項の主題に対してどのような意味があるのでしょうか。単に創価学会との関連性があるというのならば、創価学会の項で記述するべきものであり、この項の説明を分かりにくくするだけのものなので、削除すべきものと思います。ご返事、お待ちしております。--Sfwu(会話) 2016年1月13日 (水) 07:45 (UTC)
そういう理由であれば大言壮語などのタグを貼れば良いだけです。基本的に要出典依頼は本文の一部分を指し、セクション全体など大掛かりなものはタグ貼りで対応します。--東海幻夢(会話) 2016年1月13日 (水) 09:38 (UTC)
東海幻夢さん、特にあなたに、タグの貼り方を指導してもらいたいと懇願しているわけではありません。一応、ご指導には謝意を表しておきます。タグを貼らなければ意思表示ができないということでもないでしょう。とにかく、ここで、私の意思表示をしておりますので、それを今後の編集に適応していきますので、その点、ご理解ください。--Sfwu(会話) 2016年1月13日 (水) 11:31 (UTC)
重要な内容故お答え願います。
Sfwuさん。あなたは自分の会話ページでIP61.192.220.75が2014年12月10日に編集した記事をあなたは自分がログインしないで書いた記事と発言し認めていますが、間違いはありませんか?今後の記事の充実を図るのに重要な内容のため回答をお願いします。--東海幻夢(会話) 2016年1月13日 (水) 09:58 (UTC)
東海幻夢さん、そのページで、私自身がそう書いているとおりです。今後の記事の充実を図るのに重要だという意味に関しては、理解しがたいところがありますが、そこに書いてあるとおりです。ログオンしないで書いてしまうということは、大罪だとでも言いたいのですか。まさかそんなこともないとは思いますが。--Sfwu(会話) 2016年1月13日 (水) 11:25 (UTC)
Wikipedia:コメント依頼/Sfwu20160114を作成しました。コメントをお願いします
Sfwuさんの編集態度などに疑いあり。Wikipedia:コメント依頼/Sfwu20160114を作成しました。コメントをお願いします。--東海幻夢(会話) 2016年1月14日 (木) 12:00 (UTC)
出典とされている戸口浩『池田創価学会の真実』について
概要の節で、戸口浩『池田創価学会の真実』の156-157ページが、次の二種類の記述に対する出典とされております。
1. 日蓮正宗や創価学会に反目する団体は創価学会幹部や池田大作自らが、学会の教学や池田への支持を末端会員に広めるためなどの理由で池田大作本仏論を唱え末端会員へ押し広めたと正反対の主張を繰り広けた特長がある。
2. 採用された時期も創価学会元幹部の戸口浩は池田大作本仏論を池田大作が会長に就任した1960年代から1980年代にかけて一部の人間が池田大作創価学会名誉会長を現在の本仏や現人神とみなして唱えた教義の事例であると主張し・・・
本日、この文献を入手したところ、156ページから157ページには、池田大作本仏論に関する記述はまったくありませんでした。この本の「第六講」の章の表題は「池田大作本仏論」ですが、上記1に該当する部分は見当たらず、少なくとも明瞭ではなく、この章の説明は末端会員に池田大作本仏論を押し付けたというような内容とは異なるもののようです。2の部分についても、池田大作本仏論の年代に関する記述はないようです。出典の正確なページを示すよう修正してください。なお、この文献によると著者となっている戸口浩は個人名ではなく、複数の「現職幹部」であるということです。「創価学会元幹部の戸口浩は」という説明も不正確で不適切だと思われます。--Sfwu(会話) 2016年1月15日 (金) 14:17 (UTC)
もう一つこの節で、疑問点を書いておきます。出典とされている隅田洋『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅 - 日蓮正宗 危険な宗教・政党の体系的解剖』(あゆみ出版社1970年)を調べましたが、国会図書館に所蔵されていませんでした。その他の場所でも入手できないようです。このような文献は検証可能な出典とは言えないのではないでしょうか。--Sfwu(会話) 2016年1月15日 (金) 14:28 (UTC)
戸口浩『池田創価学会の真実』については調査ありがとうございます。そういう事なら即削除でしょう。私の方で削除しておきます。隅田洋氏の著書についてはもう少し調査が必要だと思いますが、ジャーナリストに隅田洋氏自体がいるか微妙です。私が知っている隅田洋とは漢字は違いますがパチンコライターのヒロシ・ヤングのことじゃないか思っています。--ノーザン123(会話) 2016年1月16日 (土) 00:24 (UTC)
あゆみ出版の本ですが、国会図書館に所蔵されていますし (請求記号:HM191-15 東京 本館書庫)、公共図書館ですと、宮城県図書館、茨城県立図書館、徳島県立図書館、名古屋市鶴舞中央図書館も所蔵しているようです。また、拓殖大学八王子図書館、ケンブリッジ大学図書館にもあるようです。Takabeg(会話) 2016年1月18日 (月) 12:58 (UTC)
出典は、隅田洋『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅 - 日蓮正宗 危険な宗教・政党の体系的解剖』(あゆみ出版社1970年)となっており、国会図書館の該当文献は、著者が福島泰照となっております。これは同一の文献なのでしょうか。--Sfwu(会話) 2016年1月19日 (火) 08:55 (UTC)
- 藤原弘達によると、隅田洋は福島泰照のペンネームということです。日本共産党中央委員会出版局の『裁判記録創価学会の電話盗聴』によると、福島泰照の本名は隈部大蔵 (月刊ペン事件の方)みたいです。信憑性についてはわかりかねますが、隅田洋名義の書籍はあゆみ出版ではなく東北出版社から出される予定だったところを「圧力」により出版できなかったということですから、編集したIP利用者さんが出版社の関係者なのか、その子孫か何かなのか、はたまた関係者から譲渡されたのか、などなどあれこれ考えてみましたが、IP利用者さんが実際に入手したと推定するのにはかなり無理がありますので、恐らくは間違えて引用してしまった書籍や論文からの孫引きなのだと思います。私自身も読んだわけではありませんので、出版できなかった東北出版社版とあゆみ出版版の内容が全く一緒であったかどうかは分かりませんし、東北出版社版を入手するのはほぼ無理ですので、あゆみ出版社版を入手して調査・修正するという手もあります。が、IP利用者さんにどこから引用したかを再確認して、確認できないのであれば文章ごと除去して構わないと考えます。Takabeg(会話) 2016年1月20日 (水) 10:53 (UTC)
概要の部分の「創価学会側は日蓮正宗や創価学会に反目する団体が主として創価学会のイメージダウンを狙い創価学会を批判する立場の人々によって採用された表現と主張しているのに対し、」という部分ですが、出典として二つの文献が提示されております。その一つの、隅田洋『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅 - 日蓮正宗 危険な宗教・政党の体系的解剖』(あゆみ出版社1970年)P57については、そのものの本が国会図書館にも所蔵されておらず、これと同一のように見える福島泰照の同名の書物もなかなか入手困難で、国会図書館で57ページを複写して取り寄せましたが、そのページは「自然と科学と宗教の三叉路」という見出しのあるページで、池田大作本仏論に対する創価学会の見解を説明するものではありません。もう一つの出典の内藤国夫『今、改めて問う創価学会・公明党』五月書房 1995 P28も、国会図書館で該当ページを取り寄せましたが、創価学会と日蓮正宗の信者の奪い合いに関する話題であり、池田大作本仏論に関する説明ではありません。両者とも、創価学会側の池田本仏論に関する見解を記すどころか、池田大作本仏論自体に触れておりません。
そもそも、この二つの書物の著者は、創価学会に対する批判者であり、どのような問題であれ、創価学会の見解を代弁する立場にいるものではなく、創価学会の立場を説明する出典としての適格性に疑問があります。
というような理由で、この部分のセンテンスは削除するのが適当と思います。--Sfwu(会話) 2016年1月30日 (土) 12:47 (UTC)
Sfwuさん!あなた考え方がおかしいよ。出典内容が違うから削除というなら私も削除が当然であると思うし誰もが削除を認めるでしょう。しかしその下の「この二つの書物の著者は、創価学会に対する批判者であり、どのような問題であれ、創価学会の見解を代弁する立場にいるものではなく、創価学会の立場を説明する出典としての適格性に疑問があります。」という発言は全く論外の主張である。そもそも出版物や著書が裁判所によって発刊停止処分を受けたり、判決文で内容の虚偽をうたわれていなければ、どんな著書であれ該当となる項目の(今回でいえば創価学会の)立場を説明する出典としての適格性に問題や疑問は発生しません。
今までの一連のやり取りを見ていたがやはりSfwuさんあなたは創価学会員で創価学会POV(wikipediaに創価学会の主張に沿った考え方を掲載する目的)を主張するために本削除依頼をかけ、削除に反対する意見を口汚く罵ったり2016年1月15日 (金) 12:53 (UTC)の投稿で不毛な誘導を行ったりSfwuさんあなたの発言や行動は著しく不自然です。記事を寄り良くしようというのも創価学会POV(wikipediaに創価学会の主張に沿った考え方を掲載する目的)を主張するためにおこなったポーズじゃないかと疑います。今回、出典を国会図書館まで出向きお調べいただいたことは感謝しますが、この二つ(『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅 - 日蓮正宗 危険な宗教・政党の体系的解剖』、『今、改めて問う創価学会・公明党』)の書物の著者は、創価学会に対する批判者であり、どのような問題であれ、創価学会の見解を代弁する立場にいるものではなく、創価学会の立場を説明する出典としての適格性に疑問があります。というあなたの発言の撤回を行わない限り私はあなたの主張を信じる事ができません。まずはSfwuさん該当発言の削除撤回をお願いします。--ノーザン123(会話) 2016年1月30日 (土) 14:07 (UTC)
ノーザン123さん、私の言いたかったことをもう少し詳しく説明します。創価学会に対する批判者が創価学会を批判するために書いた本で、「創価学会はこういっている」(その後に、しかしそれは誤りで、これが正しいとか、それは嘘だとかいう主張が付く場合もあるし、つかない場合もあるでしょうが)と書いてあっても、それを創価学会の主張であると受け取ることは、大きな危険を伴うので、それは避けるべきですよね。それは、批判者の主張であり、創価学会の主張ではありません。だから、創価学会に関する著作をしているだれだれはこう書いているとするのが、正しい書き方です。それを言っただけです。別に創価学会を批判することに問題があるといっているわけではありません。同様に、創価学会を肯定的に評価することにも問題はありません。さまざまな見解を紹介する場合には、どういう立場のだれがどういうことを言っていると、はっきりと書くべきです。特に、意見の対立が激しく、決着がついていない問題については、その点を気を付けるべきです。もちろん、記述の内容が項目のテーマに無関係な場合は、そういう判断以前に、書くべきではないし、削除すべきです。
ところで、ノーザン123さんは、この議論を始めたころから、出典の提示に強くこだわっていたようですが、私が調べているところ、いままで出典として示されている文献の箇所のほぼすべてで、出典としての適当な記述を見いだせないものでした。この粗雑な記事の現状について、どう思っているのですか。--Sfwu(会話) 2016年1月31日 (日) 03:40 (UTC)
バッジオ
ロベルト・バッジオの「発言」について疑問があります。先ほど、「『コリエーレ・デッラ・セーラ』2004年7月18日号1面」を調べたのですが、そうした箇所は見つかりませんでした。私の読み方が悪いのかもしれませんが、もし本当にそこに掲載されているのを読まれたのだとしたら、小見出し (イタリア語で)と「私にとっての仏陀とはマエストロ ダイサク・イケダのことだ」という発言のイタリア語の原文くらい提示していただけませんか? 原典にはあたっておらず孫引きであるというのであれば、その出典をつけていただければ助かります。Takabeg(会話) 2016年1月16日 (土) 09:40 (UTC)
該当部分はIPが作成し、該当IPは現在投稿ブロック中のため回答不可とみなし一旦削除しました。--ノーザン123(会話) 2016年1月29日 (金) 15:26 (UTC)
無関係な記事を削除する方向で記事を改善したいのですが
私が文献を収集している間に、どんどん記事が膨らんでおりますが、池田大作本仏論と関係がないのではないのかという内容の追加が少なくありません。入手が非常の困難な文献の一節を、どのように出典としているのか、疑わしいものもあります。たとえば、
・創価学会に対する単なる批判
・単に池田大作の独裁的な傾向を批判したもの
・一般信者などが池田大作を崇拝しているだけの言動
などは、本項の説明には無関係であり、それらを延々と並べると、記事が何を言っているか分からなくなります。単に、創価学会に対する批判が多いというだけの印象の猥雑な記事になるのでは、項を独立させる意味がありません。そういう記事を取り除いていくのも記事の編集者の責務かもしれませんが、悪貨は良貨を駆逐するなどというたとえもあり、放置していると修正不能の、あるいは極端に修正が困難な状態になる恐れがあります。
わたしも、資料を収集しながら、無関係な部分を取り除く努力をするつもりですが、編集者の良識に訴えて、無関係な記事はむやみに加筆せず、また、そういう記事は早めに削除していくよう、提案したいと思います。
--Sfwu(会話) 2016年1月17日 (日) 06:11 (UTC)
上の意見はSfwuさんにその気は無くても自分は学会員だから創価学会や池田先生を批判する内容の掲載は認めないって受け取られますよ。 あなたが主張している
- 創価学会に対する単なる批判
- 単に池田大作の独裁的な傾向を批判したもの
- 一般信者などが池田大作を崇拝しているだけの言動も池田大作が一般人ではなく本名を公表し出版活動をしている著名人であることや創価学会が文部科学省から認可された宗教団体である以上、批判に対しての記述は検証が可能な出典であればB-2案件などの削除対象にはなりません。
記事に対する議論は必要ですが、あなたの行動は行き過ぎです。--ノーザン123(会話) 2016年1月17日 (日) 06:55 (UTC)
ノーザン123さんへ。創価学会に関する単なる批判は、創価学会の項で書けばいいのではないですか。池田大作本仏論という項を独立させるというのですから、この項の表題の意味に即して、説明がなされるべきです。「創価学会や池田先生を批判する内容の掲載は認めないって受け取られますよ。」などというのは、不適切な詮索であり、記事の編集に関する議論について、このような反論を行うことは、きわめて非生産的ですね。--Sfwu(会話) 2016年1月17日 (日) 07:10 (UTC)
Sfwuさん、Takabegさんが最初に削除依頼の取り下げを君に依頼した際や最悪、東海幻夢さんが削除依頼の取り下げを依頼した時に削除依頼を取り下げていたら、このような無粋な話も君宛のコメント依頼も起きなかったでしょう。今回の原因を招いたのは君自身にあります。君の今までの言動からあなたに実際その気は無く良い記事を書きたいという心情も、自分は学会員だから創価学会や池田先生を批判する内容の掲載は認めないと他人から受け取られても仕方が無い位状況をあなたが悪化させたことはお伝えします。--ノーザン123(会話) 2016年1月17日 (日) 07:41 (UTC)
ノーザン123さん、個人攻撃には、いちいち応えません。とにかく、項と無関係の記述が延々と書かれている状態については、できる限り、整理するつもりです。私自身が書き込んだ記述も、変な風に残っているのですが、記述の構成がハチャメチャすぎて、容易に修正できない状況です。--Sfwu(会話) 2016年1月17日 (日) 07:49 (UTC)
Sfwuさん、削除依頼を取り下げていたら、このような無粋な話も君宛のコメント依頼も起きなかったでしょう。というのは個人攻撃には当たりません。項と無関係の記述が延々と書かれている状態については、できる限り、整理するつもりです→具体的にどこがどうなっているのかをノートで示して下さい。そうでないとだれも納得しません。--ノーザン123(会話) 2016年1月17日 (日) 11:47 (UTC)
ノーザン123さん、資料を収集中ですので、編集はしておりません。現段階で編集合戦に巻き込まれると、調査ができなくなりますから。今までの資料を見た範囲で言えることは、池田大作本仏論は、日蓮正宗と創価学会の対立と決別にかかわる用語であり、したがって、日蓮正宗と創価学会が対立するようになった1970年代後半ごろに、使用されるようになった言葉ではないかということです。このことが確認できれば、それ以前の創価学会に関する様々な批判や言及の記事は、無関係な記述になると考えております。しかし、それ以外にもいろいろ考慮することがあり、まとまってからでなければ表現できません。--Sfwu(会話) 2016年1月17日 (日) 12:39 (UTC)
『新宗教辞典』
島田裕巳『創価学会の実力』朝日新聞社、2006年、157頁 によれば、「松野純孝編『新宗教辞典』(東京堂出版、一九八四年)の「創価学会」の項目」は「村上が執筆したものと考えられる」とのことです。同じ頁で、島田は「創価学会に批判的な立場をとってきた村上重良のような左翼系の研究者」と言っていますので、脚注にでも入れたほうがいいかなぁ、と思いますが、いかがでしょうか? また、編者は松野純孝さんなので相応の「責任」はあるのかもしれませんが、概要の部分の「さらに本仏論自体については仏教学者の松野純孝が、」、有識者による池田大作本仏論の部分「松野純孝(仏教学者)」というのは不正確となりますので、どうしても主語を書かなければいけない局面では、「松野純孝編『新宗教辞典』によれば」とするのがよいと考えます。Takabeg(会話) 2016年1月18日 (月) 13:27 (UTC)
新宗教辞典の引用部分は、私が初期の段階で、かなり、安易に書き込んだものですが、書き込んだ文脈を壊されたまま、変な風に残っております。元の文脈も忘れてしまいました。現在の残り方は残骸のようなもので、前後の意味がとりにくくなっております。私も、直そうと試みましたが、ちょっと、手に負えません。--Sfwu(会話) 2016年1月19日 (火) 08:19 (UTC)
導入部
現行版の「池田大作本仏論(いけだだいさくほんぶつろん)とは、宗教団体である創価学会において、宗教論的、組織論的、あるいは運動論的な、特定の思想を表す言葉である。主に、、、、、」という形は、Wikipedia:スタイルマニュアル#導入部、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に沿っていません。定義と概要を書きましょう。Takabeg(会話) 2016年1月18日 (月) 13:30 (UTC)
書き換えることには特に異議はありません。もともと、資料等が少ない中で、前の導入部がかなり問題のあるものだったので、それよりはましなものにしようと、私が書いたものですが、改善する余地は多々あると思います。どういう風に変えればよいかについては、今のところ私には妙案はありませんので、よろしく。--Sfwu(会話) 2016年1月19日 (火) 08:12 (UTC)
簡単に変えておきました。前のよりは分かりやすいと思います。ノート上では踊れど話進まずという事態にもなりかねませんのであしからず。--ノーザン123(会話) 2016年1月29日 (金) 15:20 (UTC)
「前のよりは分かりやすいと思います。」とは、自信過剰じゃないですか。--Sfwu(会話) 2016年1月30日 (土) 08:51 (UTC)
前の方(Sfwuさん)が書いた導入部は何を言っているか訳が分からなかった。導入部で大切なのはsimple is bestです。自意識過剰ではではなく、前の方(Sfwuさん)が書いた導入部最初寄りは良かったかもしれませんが、あまりにも読みにくくひどいから変えただけです。--ノーザン123(会話) 2016年1月30日 (土) 09:21 (UTC)