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ノート:浪曲

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明治初期の大坂とあるが明治ならば大阪とすべきだろ。

大改修の方針

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ただいま、この項目の大改修をしております。方針としては、外国人が興味を持った時の、その入口になるかも、という事を意識して充実させています。--とほほのほ会話2013年11月6日 (水) 17:12 (UTC)[返信]

ひとまず、大方の手直しは終了したと思います。また、本来であればこのノート欄での提案や議論を重ねた上ですべきものもあったかもしれません。その点は予めお詫びをしておきます。--とほほのほ会話2013年11月9日 (土) 00:58 (UTC)[返信]
その後も深みにずるずるはまっております。占有する気はないのですが、結果的にそう取られても仕方のない状況になり、その点はお詫びいたします。浪曲は各資料で書いている事が違う部分が大きい事も「融通無碍」という魅力を体現していると思います。が、それでは玄関の役目を果たさないので、一定の共通認識を拾うべく、無能ながら一人でへばりつくようなことになっております。--とほほのほ会話2014年10月16日 (木) 19:32 (UTC)[返信]
最大公約数的記述から、さらに矛盾点を解決する記述へ進めております。こうなると、各人物の項と徐々にズレが生じてきていると思いますが、逸話の類はひとまずそのままにします。--とほほのほ会話2014年11月9日 (日) 19:44 (UTC)[返信]
長らく、お待たせしました。ほぼ完成だと思います。どう評価されるか全くの未知数ですが、査読依頼を出しました。ーーとほほのほ会話2017年9月19日 (火) 23:51 (UTC)[返信]

浪曲師の一覧について

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どうも色々と問題含みのようです。1)東西に分けているが、それがベストなのか?中京や九州に在住・主な活躍地だった浪曲師の項があった場合どこに入れるのか?2)現役と歴史的存在が混在しているが、その分け方。日本浪曲協会浪曲親友協会の所属一覧で一部は代用できないか?3)その他。--とほほのほ会話2014年1月13日 (月) 17:20 (UTC)[返信]

1.について松風軒栄楽という名跡が項として立っているのを発見し、早速こうもり問題にぶち当たっております。--とほほのほ会話2014年1月13日 (月) 17:22 (UTC)[返信]
上記については関西とすることでひとまず落着しました。--とほほのほ会話2014年1月16日 (木) 02:40 (UTC)[返信]
2)について、手をつけ始めました。つまり、歴史的に既に重要な存在の現役(とひとまずフリー)の浪曲師以外はこの項からは無くしました。協会の所属一覧で代用していきたいと思いますが、皆様はどう思われるでしょうか。--とほほのほ会話2014年1月30日 (木) 15:36 (UTC)[返信]
3)については、特に関東の大物に未立項が多いことを挙げたいと思います。春日亭清吉青木勝之助浪花亭愛造、名跡の東家三楽木村重友木村若衛、下記にもある三門博篠田実東武蔵など、浪曲史に名を残すビッグネームや個性的な浪曲師が多く立項されていないのが現状です。--とほほのほ会話2014年1月16日 (木) 02:50 (UTC)[返信]
東家楽遊以外はひとまず立項しました。充実を見ているだけの皆様にぜひともお願いいたしたく。--とほほのほ会話2014年8月10日 (日) 14:25 (UTC)[返信]

中京節の浪曲師

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三門博(代表作の唄入り観音経も)共に立項されていません。これはちょっとアレですね。それと、虎丸、三門、港家一門と中京の浪曲師のサブに移しましたが、これも迷いがあります。フシは確かに名古屋であっても、主な活躍の場は東京である場合、これはどちらに入れるのがより適切でしょうか?--とほほのほ会話2013年11月10日 (日) 03:15 (UTC)[返信]

唄入り観音経の項は内容不十分ながら立ち上げました。--とほほのほ会話2013年11月14日 (木) 21:28 (UTC)[返信]

九州の浪曲師

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美当一調(尾藤新也、雲右衛門の先駆。地方出身+ジャンル分けしづらいが音曲入講談、新々改良浪花節と伝えられ、日清戦争後に既に東京の大劇場に出演している)、宮崎滔天(桃中軒牛牛右衛門→白浪庵滔天)、その後の初代雲月、四代雲月、などなど、九州出身である事が色濃い浪曲師の置き所が無く困っております。おそらく、中京出身と同様の問題であり、個別の項が立ちづらい一因ともなっているかと。--とほほのほ会話2014年7月19日 (土) 00:56 (UTC)[返信]

演目と代表的な演者

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どうも、全体的に関西節に偏ったきらいがありますので、今後少し手直ししたいと思います。--とほほのほ会話2013年12月10日 (火) 02:53 (UTC)[返信]

浪曲と歌謡浪曲

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歌謡浪曲を浪曲の一ジャンルとみなす事もできますし、歌謡曲側とみなす事もできる、昭和の歌謡史を特徴付ける一ジャンルだと思いますので、ひとまず別項に分ける必要を感じます。 当項の中にも分散して書かれている状況です。--とほほのほ会話2014年1月16日 (木) 02:38 (UTC)[返信]

節として充実させていった上、項として(歌謡浪曲)独立させてみました。--とほほのほ会話2014年1月30日 (木) 15:31 (UTC)[返信]

雲右衛門・奈良丸の東上はいつか?

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ひとまず、広く流布している一つの説を採用しているに過ぎないことが、徐々にわかってきました。こちらの企画記事によると、もう少し早い段階で上京(明治39年雲右衛門、奈良丸不明)していることになります。正岡の日本浪曲史にも同様に明治39年末の説が書かれており、それを否定した明治40年雲右衛門、翌41年奈良丸の形の記事が多く、それを採っていたのですが。。。当時の新聞記事を漁るなどして確認すべきなのでしょうが。。大変に困っています。--とほほのほ会話2014年3月17日 (月) 17:33 (UTC)[返信]

明治から戦前にかけて東京で発行していた『都新聞』という新聞がありますが、その復刻版が出ています[1]。それで雲右衛門の東京での興行について調べてみると、明治四十年六月二日の記事に「桃中軒雲右衛門の上京」と題して「今二日午後八時に新橋へ着し七日の夜より本郷座へ出勤するに付…」とあり(復刻版191頁)、また同年六月七日の本郷座の記事にも「桃中軒雲右衛門は今七日午後六時より開場…」とあります(復刻版219頁)。
いっぽう吉田奈良丸については明治四十一年二月九日の新富座の記事に、「七日の夜花々敷(しく)乗込みをなしたる吉田奈良丸の初日は十一日午後一時開演にて…奈良丸は得意の義士伝を二席の長講をなす由…」とあります(復刻版229頁)。当時の新聞記事を見る限りにおいては、「明治40年雲右衛門、翌41年奈良丸」で間違いないかと思われます。もっとも雲右衛門についてはこの以前に明治三十五年に東京に出て、神田錦輝館において浪曲を語った事があったようです(正岡容著『雲右衛門以後』37頁[2])。以上とりあえずお知らせいたします。--ものぐさたろう会話2014年3月23日 (日) 02:23 (UTC)[返信]

お知らせいただいてありがとうございます。本来ならば、私自身が調べるべきところなのでしょうが、大変に助かります。雲右衛門に関しては、いわゆる風雲を告げる東京帰還の前に、何度も戻ってきているようですね。でもしかし、特筆されている興行については私の採った説で間違いはないということで、胸をなでおろしました。ありがとうございました。--とほほのほ会話2014年3月27日 (木) 18:53 (UTC)[返信]

お役に立てたようで何よりです。こちらこそありがとうございます。--ものぐさたろう会話2014年3月27日 (木) 23:01 (UTC)[返信]
この時分の浪花節については、芸談中心に執筆された元記事と、都新聞を中心とした新聞・雑誌記事の裏付けを取っている元記事とが混在しており、その取捨には気をつけていますが、結局は当たるも八卦な所があるのでしょうね。今回の悩みの元記事は大阪発なので、東京の地方紙である都新聞の資料に当たる事が出来なかったのかもしれません。そう考えると、芝清之さんなどの集成作業には、感服する所大です。今更ながら、先人あっての記事執筆であると思い知っております。--とほほのほ会話2014年3月29日 (土) 18:36 (UTC)[返信]
じつは自分は浪曲のことについては専門外でして、『都新聞』の復刻版があったおかげで記事を見つける事が出来ました。日本浪曲協会のホームページにも「明治39年」とありますが[3]、当時の新聞記事に明治40年とあるからには是正されるべきでしょう。ともあれ自分がお手伝いできるのはこの程度で、本項の編集についてはとほほのほさんをはじめとする皆さんにお任せいたします。--ものぐさたろう会話2014年3月30日 (日) 11:21 (UTC)[返信]

大変遅くなりましたが、この記述をきっかけに当事者団体へ私自身が指摘しました。初アクセスでドキドキしましたが、結果は訂正に動いたようです。ありがとうございました。(数年前の出来事)ーーとほほのほ会話2019年1月31日 (木) 00:41 (UTC)[返信]

お知らせありがとうございます。--ものぐさたろう会話2019年2月1日 (金) 00:00 (UTC)[返信]

浪花節の寄席進出期の出典について

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Benichan様。あなたの編集において、「石谷華堤の『浪花節萬稿』によると、」から芝新網で組合結成(内容はp.7)とありますが、これは平林『興亡史』で、岡本氏の引用誤りです(元々引いた正岡『定本日本浪曲史』p.72による)。正岡は続けて「が、石谷氏は、寄席進出を明治10年以降とし」「いまにわかにいずれも真偽とも定め難い」と書いています(p.72)。つまり、対立する点をそのまま残しています。また、岡本氏のほうの続きにもあるように、「明治12年に楠本正隆知事に桜川善吉(中略)、池田安五郎の四人が「浪花節」の認可を願い出て」(p.8-9)と別の件を出し(正岡p.71)、これは結局、組合の結成や鑑札の下附については、定説がないことを示しています。というわけで、私としては新事実が出てくるまではと、いったんその部分を削った形にしたのです。その点をご理解いただければ幸いです。せっかく明記していただいた機会なので、最終的にはその辺りをすべて含みおいた唯二郎の記述(『実録浪曲史』p.4-10,22,26)を参考に追記することにしたいと思います。--とほほのほ会話2014年7月31日 (木) 13:44 (UTC)[返信]

上記に関しては、正岡が引用する際、誤って入れ替わったようです。--とほほのほ会話2014年9月8日 (月) 17:55 (UTC)[返信]
それともう一点。岡本氏の『俺の喉は一声千両』ですが、資料を丁寧に当たっていて、基本的には信頼性は高いほうだと、私自身は感じています。が、「資料を元にした芸能小説」がこの本の基本的性格であり、その引用には注意を要する、と思います。私も、巧く使いたいと思っていますが。私の浪曲に対する理解力も結構ひどいのは、編集の繰り返しで露呈していますので、たいした事を言えた柄ではありませんが、どうかひとつ、よろしくお願いいたします。--とほほのほ会話2014年7月31日 (木) 13:54 (UTC)[返信]
「私の浪曲に対する理解力も結構ひどい」→「(前略)理解力『は』結構ひどい」、に訂正させてください。岡本氏に失礼過ぎる記述でした。ごめんなさい。--とほほのほ会話2014年7月31日 (木) 16:52 (UTC)[返信]

梅坊主に関しては、倉田(2012)によれば、その活動範囲は、神田から下谷一帯で門付けをしたり、阿呆陀羅経で秋葉原などのヒラキに出たりしていた、という事で素直に考えれば神田橋本町(現馬喰町駅近辺)の住まいであったかのように読めます。当該項の最初の編集では「神田の髪結床の子」とあります(出典は不明)。芝新網からでは如何にも遠いです。その点もこの組合結成を採るにあたって気になっている部分です。それと神田橋本町が貧民窟であったのは研究者には知られた事のようで、関連書籍も多数あります。追記に関して、ご参考まで。--とほほのほ会話2014年8月2日 (土) 15:40 (UTC)[返信]

それと「有名になってから証言も変わるため、初期の実態はわからないことが多い。」と研究者に言われるほど、その証言の取捨には注意が必要な梅坊主のじいさんではありますが、桃中軒雲右衛門の子供時代に新網で一緒だったような証言もあり、それを安易に採っていない岡本(2014)は、信頼性が高いと思う所でもあります。--とほほのほ会話2014年8月2日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
その点では桃中軒雲右衛門も同様で、浅草向柳原籾倉(引用者注:今の浅草橋駅近辺)のヒラキに出ていた(大西(1999)p.103)とあり、雲右衛門が芝新網で育ったことは事実として誰しも異論がないので、彼も至近の橋本町で無く、遠くの芝新網からわざわざ歩いて稼ぎに行っていた事になります。--とほほのほ会話2014年8月2日 (土) 16:46 (UTC)[返信]
Benichan様。まず訂正です。伊藤痴遊の『痴遊雑誌』の掲載記事を読んだのですが、あなたの石谷華堤の「浪花節漫稿」で誤りはなかったようです。ごめんなさい。それと、それよりも大きな問題である、一つの説しか取り上げない問題。こちらは諸書と同様に両論併記+唯二郎の追加取材を記述しました。よろしければ、ご確認ください。大変失礼しました。--とほほのほ会話2014年8月9日 (土) 19:40 (UTC)[返信]
この件に関して、追加情報ですが、藤森照信『明治の東京計画』によれば、明治14年冬から15年春までに神田橋本町(19年には鮫ヶ橋)で防火等の観点からクリアランスが実行されたとあります。それまでは願人坊主が住人の中心だったのです(ちなみに郡代屋敷はすぐそば)。梅坊主などが当初橋本町にいた可能性が強くなったと思います。もう一つ「浅草組」と「神田組」、「芝組」でない所にもつながる予感がしています。この辺りは明らかな部分から書き直します。--とほほのほ会話2014年10月14日 (火) 17:44 (UTC)[返信]
この辺りに関しての記述をいったん削除しました。

石谷、平林ともに決定打に欠け、なおかつ信頼性が低い部分があり(石谷説の原典には「当時の府知事は松田道之」という明らかな誤りが含まれる)、この辺りは倉田が用いる手法(行政資料の洗い直し)を踏襲した浪花節研究の登場を今後期待するものです。--とほほのほ会話2014年10月22日 (水) 14:07 (UTC)[返信]

125.15.228.186の編集

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会話ページを見ると、何度か指摘されているにもかかわらず、不注意な編集をしてそのまま放置するIPアカウントのようです。今回も浪曲師の一覧に曲師を入れたり、関西の浪曲師を関東に入れたり、現役の浪曲師を入れたりと、結構ひどい状況でしたので、即時の差し戻しをさせていただきました。悪しからずご了承くださいませ。--とほほのほ会話2014年8月19日 (火) 17:26 (UTC)[返信]

これの件

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原資料に当たることが増え、これらしき部分にぶち当たることが増えました。これにはどのように対処したらいいものか。ちょっと悩んでおります。どなたか、もしよろしければお教えいただければ幸いです。--とほほのほ会話2014年9月1日 (月) 18:47 (UTC)[返信]

コピーチェックの為の虚構記事は広沢虎造_(2代目)の項周りに散見しており、往事の人気ぶりを逆説的に証明する皮肉な結果となっており、もちろん後世からすると邪魔でしかありません。ーーとほほのほ会話2019年1月30日 (水) 18:48 (UTC)[返信]

浪曲師はミュージシャンか芸能人か

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と言ってもテンプレート(インフォボックス)などでどこを使えば良いのか、というWikipedia内の実践的な話題です。どうすべきでしょうか?ひとまず、立項しづらい主因になってました(個人的に)。--とほほのほ会話2017年10月1日 (日) 09:56 (UTC)[返信]

「忘れられた演芸」

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という表現を冒頭部に使うことについて、内心忸怩たるものはあります。しかしながら、現状を冷静に眺めた時、そう表現するのが適当であると判断しました。--とほほのほ会話2017年11月25日 (土) 01:55 (UTC)[返信]

この編集がある以上、事実--とほほのほ会話2017年11月25日 (土) 12:56 (UTC)[返信]

ひと昔まえのサブカルチャー

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この一文は本文中に織り込む際、周辺の辺りに置くのが最前でしょうか?ご相談希望です。ーーとほほのほ会話2018年12月7日 (金) 23:08 (UTC)[返信]

比喩としての「浪花節」

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ひとまず、今はこの状態でいますが、1).注釈扱いが適切か。例)など使用し意味が伝わるよう目指すか、2).内容が最新のものを取り上げたが良いかという問題があります。歴史的にニュアンスが若干変わっており(百科事典的に)現代語釈か歴史的語釈か、どちらがより適切か、迷う事だらけです。詳しい方のアドバイスをお願いします。ーーとほほのほ会話2018年12月9日 (日) 06:43 (UTC)[返信]

1.に関しては例の節を特設して対応しました。ーーとほほのほ会話2019年1月30日 (水) 18:27 (UTC)[返信]

音声資料のまとめ方

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明らかにメディアは跨ぐが、コンテンツは同内容のものの時は、近くに置いて利便性を図る原則に基づいて、外部URLから「れきおん」を移動を企図しましたが、合意を取るために保留、重複されております。ご確認の上、意志をお教えください。--とほほのほ会話2018年12月12日 (水) 02:45 (UTC)[返信]

節談説教で音声資料をメディア跨いでまとめたので、浪曲もそのように思いました。改めて、そのように「移動」致します。提案から1ヶ月を経てからそうするつもりです。異論あれば、どうぞお伝えくださいませ。--とほほのほ会話2019年1月4日 (金) 03:23 (UTC)[返信]

浪曲作家協会のテーブルかけ

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浪曲マニアの方ならご存じだと思いますが、東の浪曲協会に新人が現れた際に、まだ自分の道具一式を揃えるまでは「浪曲作家協会」の名義が書かれたテーブルかけを使うのですが、そこの価値は正直わかりません。ただ、そういう事実は有ることを書き留めておきます。ーーとほほのほ会話2018年12月19日 (水) 00:30 (UTC)[返信]

復帰した画像

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そのうち、file:naiwabusi-yose.jpgですが、1907年10月10日号に発表された月岡耕漁画の風俗画報にあるものになります(当時坂巻耕漁を名乗る)。正しい位置は私の判断入り、少し前の雲右衛門凱旋前の時代を表す位置に置きましたが、今にして正しい判断だったか少し迷いが生じております。正しい位置は今のままで大丈夫でしょうか?合意の形成を図るために、立ち上げました。--とほほのほ会話2018年12月27日 (木) 06:56 (UTC)[返信]

ひとまず、ここまでは異論が無いようですが良いのでしょうかーーとほほのほ会話2019年1月30日 (水) 18:32 (UTC)[返信]