ノート:源為義
源為義の官位表には伊予・相模・河内・下野などの国司を歴任したように書かれていますが、一説には為義は「受領」になれず、都の検非違使のままだったとも言われています。 「受領(ずりょう)」は任国に実際に赴任する国司のことですが、為義は国司に任じられても、赴任できずに遙任のままだったのでしょうか?
:上記の件、官位表に記載されている内容は多分、尊卑分脉などによる記載の転載と思われます。しかし、当時の記録からはそれらの官職を歴任した記録はありませんので、確認の取れない官職は削除しました。--阿波座行広 2007年3月29日 (木) 16:42 (UTC)
>潔いよい 間違い
源為義の実父について
[編集]源為義の実父についての文章に、要出典範囲を復帰させました。この分野の新説には詳しくないので確認ができませんが、為義は義忠の実子ではないとする出典が脚注等で明示されていないので、除去は不適当でしょう。参考文献の節があるのでそこにあるというなら追記したほうがよいです。記事には書かれていませんが「為義は義忠の実子ではない」との論文があるなら、まだ一部の研究者の仮説であれば提唱・賛同する学者名、この分野の研究者内で既に多数意見化していればその出典(論文の先行研究史として多数派や新定説になったと書きますから)を脚注で追記すればよいと思います。--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 12:01 (UTC)
- 葉月様により出典が加筆されたため、上記の懸案は解決されました。ただ要出典範囲は別に付与してあります。現在の状態では佐々木氏など説を提唱した論文しかなく、新説に見えます。通説化しているなら、佐々木論文を肯定している論文や、この時期の概説書が複数追加されるべきです。まだ一般には広がっていないようなので、この分野の研究者の新通説なら詳しく書く必要があると思います。誰も論文で言及していないなら、通説化をここでは記述できないですし(研究者が反論しないので肯定されたと思いますが検証できません)。--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 15:11 (UTC)
- KurmUmy様、現在のところ、三氏の説に関して反論と思われる論文等は私が探した範囲では見つかっていません。昭和56年以来、30年にわたって踏襲されている説であり、その間、反論と思われる論文等が見つからず、踏襲する論文があるということはこれで通説化していると見ていいのではないかと思われます。また、『殿暦』という一次史料の記事が発見された以上、反論するためには、それ以上の史料もしくは、同程度の史料に異なり記載が発見される必要がありますが、義忠暗殺後、為義が登場したこの時期の一次史料としては当時、政権を担当していた太政大臣藤原忠実の日記『殿暦』に勝るものを見つけることは困難だと思われます。よって、反論が後日、なされる可能性は低いと思われます。もし、反論と思われる論文が発表された場合は、その内容を以て、両論併記などの検討をすべきだと思います。よって旧来の『尊卑』の記述に因る「義親の四男、義家の養子」説は今のところ学会誌、論文等では否定された形で通説化しているとみなすべきだと思います。--葉月 2011年8月12日 (金) 15:33 (UTC)
- それでは『尊卑』を否定できないです。研究者なら「今のところ学会誌、論文等では否定された形で通説化していると「みなす」」ことは自由ですが、ここはwikipediaですので執筆者が「みなす」ことはできません。書いても居ないのに「判明した」「明らかになった」と断言できないです(研究上は葉月様の言うとおりでしょうが…)。この状態では佐々木氏などが『殿暦』という一次史料を用いて新しい説を提示した、指摘したという表現に留めたほうがよいと思います。
- KurmUmy様、現在のところ、三氏の説に関して反論と思われる論文等は私が探した範囲では見つかっていません。昭和56年以来、30年にわたって踏襲されている説であり、その間、反論と思われる論文等が見つからず、踏襲する論文があるということはこれで通説化していると見ていいのではないかと思われます。また、『殿暦』という一次史料の記事が発見された以上、反論するためには、それ以上の史料もしくは、同程度の史料に異なり記載が発見される必要がありますが、義忠暗殺後、為義が登場したこの時期の一次史料としては当時、政権を担当していた太政大臣藤原忠実の日記『殿暦』に勝るものを見つけることは困難だと思われます。よって、反論が後日、なされる可能性は低いと思われます。もし、反論と思われる論文が発表された場合は、その内容を以て、両論併記などの検討をすべきだと思います。よって旧来の『尊卑』の記述に因る「義親の四男、義家の養子」説は今のところ学会誌、論文等では否定された形で通説化しているとみなすべきだと思います。--葉月 2011年8月12日 (金) 15:33 (UTC)
「昭和56年以来、30年にわたって踏襲されている説」ならばその3人以外の方の論文でこの新系譜を肯定する意見(系図が書き直された形や引用したりするもの)があると思うので、特に「この考えが有力」と先行研究や概説書で表現したものがあれば、それを追加することで解決しますが…--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 15:51 (UTC)
- 昭和56年(上横手)、平成14年(元木)、平成21年(佐々木)という時系列が理解できておられるのか不安です。新系譜といい方が妥当かどうかはわかりませんが、昭和56年に上横手氏がはじめにこのことに触れられ、それ以来、平成14年に元木氏が肯定され、そして、平成21年に佐々木氏がさらにそれを引用されています。その間、異なる内容の表現はないのですが、これで通説化とならないのであれば、残念ながら、通説というもの自体が存在しないと言わざるを得ません。私も研究者の端くれですが、これらの先達の研究を踏まえて現在、研究をしている状況ですが、通説として前提条件にしている内容が通説ではないとなると、現在の研究者だけでなく、学術として学ぶ学生も混乱することになります。--葉月 2011年8月12日 (金) 16:12 (UTC)
- 上横手氏・元木氏・佐々木氏のみがこの分野の研究者なのでしょうか? 彼らの著書以外で、源氏の系図を書いた論文や概説書がこの系譜で記載されていますか? 今の状態では、単に上横手・元木・佐々木3氏が採用する仮説でしょう。地方史のでる一豪族の系譜なら限定的でしょうが、清和源氏の惣領家のことですから、通説化したなら中世史の研究者の多くがこの系譜で何か書いているのではないでしょうか? 出典に研究の概説書が1つも出ない以上は、単に新しい仮説が出ているようにしか見えません。なお佐々木論文はネット上で拝見しましたが、佐々木氏の書き方からみると、2009年時点で通説となっていないように思います。というよりも、”3氏の考え方を採用するべき”とする文献があればよいと思うのですが。--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 16:27 (UTC)
- (補足)判りづらかったかもしれないので補足。2009年時点での為義の出自の通説は『尊卑』ですから(「源義忠の暗殺と源義光」冒頭より)、それ以後で義家の実子が為義という系図が記載されるものという意味です。なお研究者や学術研究の学生は別に新系図を正しいとして学んでも、研究史として表現しても問題なしでしょう。wikipediaの記事にできないだけです。佐々木氏以後でこの新見解を「有力」「通説」と表現した信頼できる情報源が無いのですから。せめて佐々木氏以降でこの説を肯定する文献は無いのでしょうか?--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 17:24 (UTC)
- まず、概説書とは何を指されているのかが不明なので調査して答える方法がありません。中世史の研究者にとって為義の父親が誰かということはそれほど重要視されていないのが現状ですので、わざわざこのことを取り上げている論文、紀要などは稀です。私が図書館および史料室で調査した範囲で為義の親子関係について言及している論文は昭和50年以降、平成23年3月時点までではこの三氏の論文しかありません。『尊卑』=通説という構図はいったいいつの時代の通説なのでしょうか。『尊卑』は足利義満の時代に編纂された源氏賛美の系図録です。所謂、「鎌倉幕府」と呼ばれるものの正統性を主張し、所謂「室町幕府」というものを正統化するために、武家政治の優位性を確定するために編纂過程で事実とは異なる点が多数散見されます。とくに、所謂、「鎌倉幕府」の初代将軍である頼朝を神格化させ、その正統性を明確にするために、為義、義朝などを権威付けするために実際は任官されていない官職を多数掲載しています。為義は受領となっていないのに尊卑では多数の国の守を歴任したことになっています。その一方で義家-義忠=為義-義朝-頼朝という後世でいう「源氏嫡流」の正統性を疑わせかねる義忠-経国-盛経という系統の官位は削除されています。そういう操作がされた『尊卑』の記載には疑問符が付いている状況があります。たしかに昭和40年代までは『尊卑』の系図を引用する論文もいくらかありましたし、数年前まで初等教育、中等教育の教科書や史料集では『尊卑』の系図を引用し、略系図を掲載する傾向がありました。しかし、平成14年ころ以降、少なくとも専門書や論文、紀要などで『尊卑』の系図を引用しているものを私は図書館や史料室で確認していません(旧版の復刻、増刷等は除く)。ただ、現在、大学が夏休み期間になっていますので、大学の図書館での調査実績は7月27日現在です。その他、大阪府立図書館での調査実績は8月13日現在です。--葉月 2011年8月13日 (土) 09:45 (UTC)
- 補足ですが、「「有力」「通説」と表現した」という文言ですが、私は長年、多数の方の論文を読んでいますが、他の研究者が発表した論文などを「有力」とか「通説」とか批評する論文を読んだことがありません。多くは、「〇〇氏は『✕✕✕✕』のなかで「・・・・・」と述べられているが、私は『△△△』などの史料の「・・・・・」という部分に注目し、〇〇氏の「・・・・・」という主張には賛同できない」など、「それは違うのではないか?」という場合には論じることがありますが、「有力」「通説」などと表現することも稀ですし、また、賛同している部分をわざわざ「〇〇氏は『✕✕✕✕』のなかで「・・・・・」と述べられている。私はそれに賛同する」などと論じられる方も見かけたことがありません。既に発表済みの論文に対して異なる主張をするのが研究であって、賛同するのは研究ではないからです。ただ、途中までは賛同するが、途中からは賛同できない。その部分に関しては私は・・・と主張する形式は多いですが。--葉月 2011年8月13日 (土) 09:54 (UTC)
- まず、概説書とは何を指されているのかが不明なので調査して答える方法がありません。中世史の研究者にとって為義の父親が誰かということはそれほど重要視されていないのが現状ですので、わざわざこのことを取り上げている論文、紀要などは稀です。私が図書館および史料室で調査した範囲で為義の親子関係について言及している論文は昭和50年以降、平成23年3月時点までではこの三氏の論文しかありません。『尊卑』=通説という構図はいったいいつの時代の通説なのでしょうか。『尊卑』は足利義満の時代に編纂された源氏賛美の系図録です。所謂、「鎌倉幕府」と呼ばれるものの正統性を主張し、所謂「室町幕府」というものを正統化するために、武家政治の優位性を確定するために編纂過程で事実とは異なる点が多数散見されます。とくに、所謂、「鎌倉幕府」の初代将軍である頼朝を神格化させ、その正統性を明確にするために、為義、義朝などを権威付けするために実際は任官されていない官職を多数掲載しています。為義は受領となっていないのに尊卑では多数の国の守を歴任したことになっています。その一方で義家-義忠=為義-義朝-頼朝という後世でいう「源氏嫡流」の正統性を疑わせかねる義忠-経国-盛経という系統の官位は削除されています。そういう操作がされた『尊卑』の記載には疑問符が付いている状況があります。たしかに昭和40年代までは『尊卑』の系図を引用する論文もいくらかありましたし、数年前まで初等教育、中等教育の教科書や史料集では『尊卑』の系図を引用し、略系図を掲載する傾向がありました。しかし、平成14年ころ以降、少なくとも専門書や論文、紀要などで『尊卑』の系図を引用しているものを私は図書館や史料室で確認していません(旧版の復刻、増刷等は除く)。ただ、現在、大学が夏休み期間になっていますので、大学の図書館での調査実績は7月27日現在です。その他、大阪府立図書館での調査実績は8月13日現在です。--葉月 2011年8月13日 (土) 09:45 (UTC)
- (補足)判りづらかったかもしれないので補足。2009年時点での為義の出自の通説は『尊卑』ですから(「源義忠の暗殺と源義光」冒頭より)、それ以後で義家の実子が為義という系図が記載されるものという意味です。なお研究者や学術研究の学生は別に新系図を正しいとして学んでも、研究史として表現しても問題なしでしょう。wikipediaの記事にできないだけです。佐々木氏以後でこの新見解を「有力」「通説」と表現した信頼できる情報源が無いのですから。せめて佐々木氏以降でこの説を肯定する文献は無いのでしょうか?--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 17:24 (UTC)
- 上横手氏・元木氏・佐々木氏のみがこの分野の研究者なのでしょうか? 彼らの著書以外で、源氏の系図を書いた論文や概説書がこの系譜で記載されていますか? 今の状態では、単に上横手・元木・佐々木3氏が採用する仮説でしょう。地方史のでる一豪族の系譜なら限定的でしょうが、清和源氏の惣領家のことですから、通説化したなら中世史の研究者の多くがこの系譜で何か書いているのではないでしょうか? 出典に研究の概説書が1つも出ない以上は、単に新しい仮説が出ているようにしか見えません。なお佐々木論文はネット上で拝見しましたが、佐々木氏の書き方からみると、2009年時点で通説となっていないように思います。というよりも、”3氏の考え方を採用するべき”とする文献があればよいと思うのですが。--KurmUmy 2011年8月12日 (金) 16:27 (UTC)
確かに「通説」とか表現する論文は無いですね・・・。それから概説書というのは日本中世史の全体を説明しているような本です。井上光貞氏の『日本の歴史』とかですね。後は一般向けですが歴史人物辞典で学者が書いているものですかね。わざわざ主題に為義の親子関係を据えなくとも、源氏の系図で書かれていればと思いましたが。ただ2009年だと期間が短く、葉月様の言うとおり為義まで突っ込んで表現するのはないのかもしれませんね。
なお『尊卑』=通説とは2009年時点の為義の出自のことです。佐々木紀一『源義忠の暗殺と源義光』で「通説とされる為義の出自について『尊卑』を否定するものである」とありますから、この時点では為義の出自(親子関係?)は『尊卑分脈』をそのまま採用するのが通説だったと判断できます。現状の出典不足の要点もここです。佐々木論文のみでは通説に反する1次史料を利用した仮説提示でしかありません。葉月様は平成21年(佐々木)引用としますが、佐々木論文を見る限り、元木氏が賛同した『尊卑』否定説は、その後に主流にならず、佐々木氏が再主張されたように思います。佐々木氏論文を肯定して引用する追加出典が必要と考えます。この新しい親子関係で表現した文献が無いですから。 現在の研究者の認識は書けないと思います。それは文献として根拠が「まだ」出てないからです。学会の外にいる人間でも、「新しい仮説が研究者間で広く採用されていること」の検証ができないと、wikipediaでは書けないと考えます(個人的には有力だとおもいますが)。--KurmUmy 2011年8月13日 (土) 11:43 (UTC)訂正--KurmUmy 2011年8月13日 (土) 11:47 (UTC)
- (補足コメント)誤解を与える表現を発見したので。元木氏が賛同した『尊卑』否定説と上で書きましたが、『尊卑』否定説はあくまで為義の出自に限定です。私は『尊卑分脈』が絶対的に正しいと判断していません。ただ元木論文が確認できないので内容をご存知の葉月様へ質問があります。葉月様のコメントから、私は「為義の親子関係」がおかしいことを上横手氏が指摘し、元木が肯定したと考えていたのです。ただ佐々木論文をよく読むと、元木論文では『尊卑分脈』の信憑性が低いことのみ言及した(為義の親子関係には触れていない)ように読み取れます。もしかして『尊卑分脈』の信憑性が低いことの指摘が元木論文以前で、「為義の親子関係」を否定したのは佐々木論文が初出なのでしょうか?--KurmUmy 2011年8月13日 (土) 12:33 (UTC)
- 自分でも調べてみました(元木泰雄先生の「11世紀末の河内源氏」は未読ですが)。中世史研究の野口実先生の研究室掲示板で、今年の1月にセンター試験の系図で為義が義家の子としてあったのに関して、通説の義家養子説に対し、やはり義家の実子だという説(佐々木論文)が出されていて、野口氏がこれは説得力があると言っていました。出典に出来るか微妙ですが(掲示板のため)、有力なのは確認できます。ただし今年1月の時点で通説を養子説という前提で言っており、実子説が正しいと断言するには時期尚早と考えます。両論併記で「佐々木説」を「指摘」として冒頭におくくらいにすべきです。「判明した」と勝手にwikipediaで書くのはまだ早いでしょう。なお「異説扱い」や論争による併記ではなく、新説提起中(旧説がまだ完全否定された出典が無い)という意味での表記です。
- なおやはり実子説は佐々木紀一先生が出されたと判断します。野口先生の発言や、佐々木論文でも元木氏が尊卑分脈を源義忠暗殺事件の証拠に採用しないのは正しいとしています。また元木泰雄先生の「11世紀末の河内源氏」を記事本文で 『日本の時代史 七 院政の展開と内乱』(平成14年)所収としていますが、正確には『後期摂関時代史の研究』(平成2年)です。さらに元木氏は著書『王朝の変容と武士』(平成19年)で為義を義家の孫とする系譜を出して保元の乱ごろの武士の様子を論じています(為義の出自には触れず)。元木氏が「11世紀末の河内源氏」で為義の出自を義家実子説を出す出さないに関わらず自身はその後に実子説に触れないため、やはり「尊卑」の不確定さを実子説にまで至らせたのは佐々木氏の功績でしょう。--KurmUmy 2011年8月18日 (木) 14:05 (UTC)
- いくつか資料を拝読したので補足。元木氏は『河内源氏』(2011年9月)で、為義の義家実子説があるが「尊卑分脈」で何故義忠4子と断言するか説明が付かないとし、野口氏は『武門源氏の血脈 為義から義経まで』(2012年1月)で為義を義家の実子と明らかにしたと佐々木論文を採用しています。この状況では、両論併記の現表記がよいのではと思います。--KurmUmy(会話) 2012年10月2日 (火) 11:41 (UTC)