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利用者‐会話:KurmUmy

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ウィキペディア日本語版へようこそ!

こんにちは、KurmUmyさん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!

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KurmUmyさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。 --R28Bot 2008年3月31日 (月) 19:59 (UTC)[返信]

厩橋について[編集]

厩橋は、もともと、うまや・ばしです。厩は、駅家のことで、駅家の近くの川の橋から、厩橋が由来しているのです。 戦国時代の城郭に詳しい人なら、うまやばし、は当然です。 厩橋→前橋でしょう。また、遠橋(まやばし)も事典にあったので挿入しました。 まやばし、と決め付けたあなたの間違いを正しただけです。こちらの書き込みを削除した非礼を謝罪してもらいたい。 いいかげんな知識、披露されても困ります。 前橋市史に何と書いてあるのか、ネット上で確認できないので、絶対の出典として主張されても困ります。 出典不明というので、平凡社の事典をあげただけです。--123.48.179.29 2008年7月18日 (金) 14:53 (UTC)[返信]

123.48.179.29氏の発言のスタイル修正及び節名付与。厩橋については123.48.179.29のノートで対応済みですが、返答なしで対話中断です。--KurmUmy 2008年8月15日 (金) 09:44 (UTC)[返信]

須倍神社・社宮神社について[編集]

2つの神社の編集をしたShrineです。数多くの至らない点があり、多くの人にご迷惑をおかけしたと反省しています。ご指摘いただきありがとうございました。少しずつでも学ばせて頂きながら取り組んでいこうと思います。また、何か不備がありましたらお教え頂ければ幸いです。--Shrine 2008年8月24日 (日) 02:10 (UTC)[返信]

Shrine様のWikipediaでのご活躍を期待しております。頑張って下さい。--KurmUmy 2008年8月24日 (日) 09:21 (UTC)[返信]

今川氏真の誤記修正感謝[編集]

今川氏真の誤記を修正してくれて、どうもありがとうございます。慌てていたようで、間違えて変なところに書き込んでしましました。--満月 2008年9月5日 (金) 20:17 (UTC)[返信]

たまたま妙な記述を見つけて要約欄コメントと同じだったので何かと思いましたが、やはり誤記でしたか。精力的な活動もよいですが、慌てず編集を心がけたいですね。満月様のより良いご活動を期待しております。--KurmUmy 2008年9月6日 (土) 10:08 (UTC)[返信]

MC WIZARDの削除について[編集]

はじめまして。もし削除した理由として、宣伝的と感じたなら、その部分は何処でしょうか? またこのあの記事は本人の了承を得て、さらに本人にも売れよう、有名になりたい等の欲は一切無く、 日テレアナウンサー藤田大介君のページに正式に記載されている人物な為、誤解の無いよう正しい情報として作成した記事という意図です。 もし上記内容と記事の文章で宣伝性が感じられないとするならば、他の理由として何故削除するんですか?--a118.1.70.217 2008年9月10日 (水) 04:37 (UTC)[返信]

ご指摘の記事ですが、削除される前のものを一度拝見いたしました。それと文章が全く同じです。Wikipedia:即時削除の方針全般5『問題があるため一度削除された文章や画像と「同一」または「ほぼ同一で問題点が改善されていない」ものの再投稿』に該当いたします。これが削除に値しないというなら、Wikipedia:削除の復帰依頼にかけるのも手でしょう。ただし個人的にはこの記事はWP:MUSの点で問題があると考えます。節の位置を修正、上から下に追加されているのに順序を変えないで下さい--KurmUmy 2008年9月10日 (水) 04:54 (UTC)[返信]

このノートの書式に関しては失礼しました。 有名で特筆性のあるミュージシャンではありませんが、ミュージシャンとしてではなく、実際にウィキペディア内に名前を載せられており(本人も正しい形での記載であるなら認めています)、人権保護の為の正確な記述としての記事、 さらには日テレアナウンサーの記事という非常に多くの検索に関わる情報である為、藤田大介君が過去ラジオDJ時代にどんな活動をしてきたのか需要面でも必要性であると思います。 また有名ミュージシャンとしてではなく、世間的に見ると悪いイメージをもたれがちなHIPHOPの文化が、福祉や教育に関わり、その活動の一部がメディアにも放送されたという事象自体が、特筆性があり、有益な記事と思っていますので、もう削除しないで下さい。--118.1.70.217 2008年9月10日 (水) 05:15 (UTC)[返信]

ですから、あくまで再投稿が違反なのです。最初の記事が宣伝ととられて削除され、それをほぼ変わらず投稿なされているようですが、それならWikipedia:削除の復帰依頼で異議申し立てしてください。このままでは貴殿を改善無きSDタグ剥がしの荒らしと認定せざるを得ません。ちなみに藤田大介氏に関連して重要なら彼の記事内での解説で十分ですしウィキペディア内に名前を載せられているから独立記事にすべきとは限りません。--KurmUmy 2008年9月10日 (水) 05:24 (UTC)書名忘れ追記[返信]
といっているうちに別の方により該当記事は削除されました。異議申し立ては再作成ではなく、Wikipedia:削除の復帰依頼をご利用下さい。--KurmUmy 2008年9月10日 (水) 05:24 (UTC)[返信]

岩城親隆(先代)の父について[編集]

まず岩城氏岩城親隆において、私の使用した参照元では父の名を「隆忠」となっていたのをうっかり「親忠」と誤記してしまいそのままになっていた点をお詫び申し上げます。質の高い史料によって修正していただけたようでありがとうございました。その上でお願いなのですが、『東国の戦国合戦』のような一般向きの書籍ですと親隆の父の名は「隆忠」表記で紹介されており、また、ウィキペディアの現状における岩城氏と岩城親隆の説明文も親隆の父の名が隆忠であるという前提で記述がなされている状態ですので、再びそちらの名称で置き換えても構わないでしょうか?なお、ネット検索だと「岩城常朝」は隆忠の先先代の当主として紹介されているものが散見されます。--Nalc 2009年2月26日 (木) 14:41 (UTC)[返信]

お礼をいただいて恐縮なのですが、これは私のほうが間違いです。誤った引用をしてしまったようで、Nalc様ご指摘の「隆忠」のほうが正しいです。申し訳有りません。変更は不要です。--KurmUmy 2009年2月26日 (木) 14:57 (UTC)[返信]
回答ありがとうございました。古い時代の岩城氏の系図に関しては、信頼できる情報が分からず、岩城氏に特化したこれといったいい書籍も発見できない状況ですので、何かいいものがありましたら宜しくお願いします。--Nalc 2009年2月26日 (木) 15:01 (UTC)[返信]

ありがとうございました[編集]

最上義光の編集をやり直してくださってありがとうございます。また上杉景勝のノートにもコメントをお寄せいただきありがとうございました。ご提案をしていただきながら、残念ながら、今だに編集方法の合意に達しておりません。私の不明を恥じるところです。また、合意に達するには、ウィキペディアの編集歴も浅く、浅薄な知識しかない自分の力不足も感じています。できれば広く、識者の方からコメントしていただきたいと思います。コメントをお願いすることとかできるのでしょうか。--Thomo 2009年6月30日 (火) 11:55 (UTC)[返信]

私も熟練編集者とは言い難いですが、一つアドバイスらしきものを述べます。コミュニティからコメントを集めるには、Wikipedia:コメント依頼で依頼する方法があります(自由参加ですので必ず誰かがコメントしてくれるわけではありませんが、より集まりやすくなります)。Thomoさんが必要とされているのが「議論活性化のためのコメント」なのか「合意形成のためのコメント」か不明なのですが、リンク先に依頼のガイドラインもありますので、本当にどうしようもないのであれば依頼してみてはどうでしょうか。--KurmUmy 2009年6月30日 (火) 15:02 (UTC)[返信]
アドバイスありがとうございました。自説を繰り返されるばかりで、何度呼びかけても編集方針についての話し合いに応じて下さらないようなので、一応「合意形成のためのコメント」でまとめてみようと思います。すでに編集されているのが広範囲に及んおり、編集姿勢そのものに問題がある方ようなので「個人へのコメント」にした方がよいのかもしれませんが。最初から個人研究は認められないと厳しい姿勢で対処しなければならなかったのだと反省しています。現在議論がされている「上杉景勝」のノートでは、ご提示いただきましたWikipediaの方針通りに編集することを前提に、通説の確認と異説の取り扱い方とノートで指摘している「転載疑惑」について(恥ずかしながらこれが転載にあたるのか、引用に当たるのか私には判断しかねます)コメントを依頼したいと思います。ついでに「最上義光」の石高の編集についてもコメントを依頼しようと思います。今日も忙しいので今日中に依頼ができるのかわかりませんが、頑張ってみます。--Thomo 2009年7月2日 (木) 00:56 (UTC)[返信]
私がもたもたしているうちに、Bonjoviさんがブロックとなりました。編集されたところがそのままになっているので、一応ノートで議論し、編集し直すべきところは直さなければと思います。宜しくお願いします。--Thomo 2009年7月2日 (木) 19:22 (UTC)[返信]

世界五大について[編集]

「世界四大一覧や世界三大一覧とはちがい、」の記述の必要性について説明願います。--kiku_b(talk/work) 2009年8月8日 (土) 09:28 (UTC)[返信]

世界五大以降の一覧の冒頭の部分ですね。ここは他の部分を戻す際、単に機械的に復活させてしまった部分ですので、個人的には必要不必要かはどちらでも良いと感じます。ただ言われてみると、文面がおかしいように思いますので、Kiku b様の編集のように除去しても問題ないと感じます。--KurmUmy 2009年8月8日 (土) 09:34 (UTC)[返信]

上泉信綱について[編集]

編集の御確認と「上泉文書」の解説をして頂きありがとうございます。--剣太郎 2009年8月8日 (土) 19:55 (UTC)[返信]

あなた様の編集について[編集]

はじめまして。貴方様が編集された記事に出典が必要と判断したものには「要出典」をつけさせていただきました。出典の明記をお願いいたします。122.16.119.222 2009年9月22日 (火) 01:00 (UTC)[返信]

とりあえず嫌がらせとも取れる付きまといはおやめ下さい。私が編集した記事に要出典を張り付け回っているようですが、おかしな部分(出典の無い解釈・評価、少数派の意見・異論・奇説など)への添付は問題ありません。しかし、私にわざわざ要請するのは付きまといに思えます。その上、貴殿が求めるのは堀江山城鴇田周如でしょうが、私が実際にwikipediaへ新規加筆した部分ではないところを利用者用会話ページで出典を求められても困ります。私が編集した記事は私の所有物ではないのですから。特に上記2記事の要出典添付部分と同じ内容を加筆したのは別の利用者で、記事の主執筆者もその方々です。とりあえず私も調べてみますが、私に報告せず、記事への出典追加をお待ち下さい。--KurmUmy 2009年9月22日 (火) 02:31 (UTC)[返信]
要出典の大原則として出典は明記されるべきであり、出典がない事は明らかな執筆者側の落ち度である事。 学術的な研究が進んでいる分野ではない漫画に、「出典をつけるまでもない常識」はありません。「ファンの間での常識」というのは個人的には理解・同意出来るものも多いのですが、たとえそれが事実であっても検証可能性を満たさないのであればWPへの掲載は不適格です。WPへの掲載基準はあくまで「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」であるからです。執筆者が執筆の際に参考とした資料を付加するのが一番効率が良いこと。「何故貼付けるのか」のBで理由として挙げた様に、書いたご本人または詳しいファンの方などに追記して頂くのが一番効率の良い方法です。もちろん出典の目処がつき且つ自分ですぐに調べられるものについては自分でも調べ出典を追記しますが(自分で言うのも何ですがかなりの記事に出典を追記しています)、最初に書いた人がソースを明らかにする方がずっと効率がよくしかも確実です。 [要出典]は「嘘だ」と弾劾するものではなく、出典が不明なので追記して下さいと言うお願いです。122.16.119.222 2009年9月22日 (火) 03:10 (UTC)このIP氏の発言は、私マクガイアの利用者ページからの無断転載であり、かつ私の意図とは全く異なる不適切な形で利用されていますが、後から議論確認を容易とするために著作権者としての権利行使はいたしませんので、著作権侵害としての削除は不要です。--マクガイア 2009年9月25日 (金) 12:38 (UTC)[返信]
ですから、添付された部分は既に記事内にあった内容を修正したものか私の加筆後に追加されたものです。私が「最初に書いた人」では無いので「参考とした資料を付加」の要請は筋違いだと言っているのです。鴇田館の名前のみは私が追記したものですが、数ヶ月前なので忘れたので探してみましょう。それ以外は私ではなく、当該ノートなどで最初に加筆した方にお願いしてください。これ以上は該当記事でお願いすることです。なお検証可能性他の方針演説は不要です。存知でいますし、貴殿への反論の焦点はそこではありません。--KurmUmy 2009年9月22日 (火) 04:24 (UTC)[返信]
(追記)今気づいたのですが、122.16.119.222氏による上記加筆分は、利用者:マクガイア様の利用者ページからの一部転載ですよね。ご本人でしょうか?違うなら差し戻すべきかもしれないのですが…--KurmUmy 2009年9月22日 (火) 04:46 (UTC)[返信]

おやおや、貴方様の行動に触発され「出典が必要な記載には要出典の積極的貼り付け」を行うようにしましたが、それでクレームがくるとは。122.16.119.222 2009年9月22日 (火) 04:49 (UTC)[返信]

貴殿の要出典添付は支持してますが?問題なのは会話ページで「私に」要請することです。最初に執筆した人として扱われるのは心外だということです。私が詳しいと思って要請してくださるのであれば、申し訳ありませんが、該当記事の出典を所持していませんので素早くは無理ですよ。--KurmUmy 2009年9月22日 (火) 04:53 (UTC)[返信]

二川氏の編集[編集]

こんばんは、アルトクールと申します。先ほど二川氏を編集された際に「理由不明の除去部分を復帰」とありましたが、どの版(もしくは元にした版)からの記述復帰なのでしょうか?--アルトクール 2010年1月2日 (土) 09:33 (UTC)[返信]

私自身の編集した版の内容です。履歴でいえばアルトクール様による編集の前、藤原朝臣二川藤太郎光綱様によって除去された 2010年1月1日 (金) 04:11 (UTC) のものです。今見るとアルトクール様の編集が間にあるため要約欄コメントが不適切でした。不快に思われたら申し訳ありません。--KurmUmy 2010年1月2日 (土) 10:13 (UTC)[返信]
いえ、単に気になっただけですので(^^; 教えていただいてありがとうございます。--アルトクール 2010年1月2日 (土) 10:40 (UTC)[返信]

東野氏について[編集]

 あなたは、私の記事をよくお読みになったのでしょうか?  疑問に感じます。きちんと、古文書の文献著作を表示しています。  東野貞吉資料は、正式には、「東野貞吉と東野家の系譜」と言い、宮田良英氏が、『東野家来歴書』と東野家過去帳などの 資料からまとめた「東野家の系譜」と合わさった書物です。  また自分の一族ですので、このような事を実際に言われると「見た事あるのですか、家系図を」 となります。  ですので、『東野家来歴書』の正式な著者発表年代を記しておきました。  自分の独自研究ではなく、一族の協力で成し遂げた研究成果が認められ、県や市・町のB・Pも得られ 今日のものとなっています。  研究のため、私の家の過去帳も出しましたが、そのため過去帳は、帰って来ませんでした。  このようなことは、二度と言わないでください。--以上の署名のないコメントは、Shigefumi higashino会話投稿記録)さんが 2010年4月23日 (金) 11:42 (UTC) に投稿したものです(KurmUmyによる付記)。[返信]

何か誤解されているようです。東野貞吉資料などの資料が問題ではなく、「近江東野氏家系譜考」なる書物を問題にしています。このコメント時、東野氏に「親戚外不掲出」と付記されている資料です。この一般公開されていないと思われる史料(or資料?)に基づく記述はできません。Shigefumi higashinoさんのノートに詳しく回答してあります。--KurmUmy 2010年4月23日 (金) 12:24 (UTC)[返信]

では、家紋について[編集]

 それでは、家紋が何かお分かりでしょうか、答えられるのは、子孫だけです。  また、この資料は、県の教育委員会の目にふれることにもなったため、さらに発掘研究が進められています。  つっぱねるならば、家紋は永久に一般には解らずじまいとなるでしょう。--以上の署名のないコメントは、Shigefumi higashino会話投稿記録)さんが 2010年4月23日 (金) 12:41 (UTC) に投稿したものです(KurmUmy 2010年4月23日 (金) 12:54 (UTC)による付記)。[返信]

話がそれてしまっているようですが、一応回答します。「家紋」の情報が刊行資料など信頼できる情報源に記載されておらず、子孫だけしか知らないのであれば、当然『ウィキペディア(Wikipedia)』には書けません。その場合「一般には解らずじまいとなる」のがここのルールなのです。ここは新しい情報を一般に広めることはできません。あくまで公開された情報のみ書ける不自由な場所なのです。「資料」が県教育委員会が把握するものでも、その史料から研究した結果が公開されていなければ執筆できないというルールに縛られた場なのです。
なお会話ページでコメントする際には、wikipedia:署名に従い署名をして下さい。このような細かい面倒なルールがたくさんある場所なのです。どうぞ宜しくお願いします。--KurmUmy 2010年4月23日 (金) 12:54 (UTC)[返信]

小田原城の戦い (1560年)改名について[編集]

はじめまして。貴方が編集に参加されました小田原城の戦い (1560年)にはWikipedia:削除依頼/小田原城の戦い (1561年)という経緯があり、削除されたページを立てられたフォックストロット氏からの提案がありませんでしたので、私から改名提案を出させていただきました。議論中のコメントにもあり、また今「記述が冗長である」との理由で出典付き記述を議論無しで削除している方もいますので、場合によっては分割も視野に入れての議論にもなると思いますが、ご意見がありましたら、宜しくお願いします。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 10:00 (UTC)[返信]

編集に参加したといっても、私の編集内容は当該ページの主題に関してではなく、この記事では重要といえない沼田氏・厩橋長野氏の動向の修正です。そのため主題に関して情報が少なく、改名・分割に関して議論できるほどの状況にありません。今のところ議論参加は控えさせていただきます。--KurmUmy 2010年6月27日 (日) 09:12 (UTC)[返信]

近江熊谷氏について[編集]

はじめまして。kuranojoeと申します。一年前に私が記述したものなんですが、あまり知られたくないものもあったので削除させて頂きました。 せっかくの編集ありがとうございました。--以上の署名の無いコメントは、Kuranojoe会話投稿記録)さんによるものです。2010年7月2日 (金) 06:34 (UTC)[返信]

「あまり知られたくないもの」というのは記述除去の理由にはなりませんが、熊谷氏には出典が無いのでとりあえず戻さないでおきます。しかしあの記事には問題があるので要出典を付けました。「今西熊谷氏」なる一族が不明(近江熊谷の一族でしょうか?)で、その出身という鳩居堂は「熊谷直実20代目の子孫たる熊谷直心」が祖としています。現状、熊谷直実は近江熊谷とは別系統ですので、記述が矛盾します。このため出典を求めています。--KurmUmy 2010年7月2日 (金) 08:01 (UTC)[返信]

山吉家家譜について[編集]

こんにちは。以前上杉氏の石高で議論になった際、お世話になったThomoです。あの節は本当にありがとうございました。
KurmUmyさんは以前、上杉謙信の脚注に『山吉家家譜解説書』を出典として書かれておられましたが、そのことでご教示いただきたいことがあります。
脚注には吉沢喜三『山吉家家譜解説書』となっておりましたが、これは吉沢喜三氏出版、井形朝良氏編集の『山吉家家譜解説書』のことでしょうか。
山吉行盛は、わずか一通のこされた文書によって初めてその存在が明らかとされた人物で、江戸時代に作成された山吉氏の系譜には現れないとされています。この系譜の原本と思われる山吉系譜をもとに作成されたといわれる『北越雑記』の三條城主一覧にも登場しません(義盛も実は登場しません)。以前私が確認した時も記載されていなかったと思います。 ただ、「江戸期の系図に記載されていないはず」と思いこんでいたので、うっかり見落としてしまった可能性もあります。それとも、井形氏が諸史料からあらたに系図を作成されたのでしょうか。この解説書は系図の注釈や文書の翻刻が主で、それに対しての解説等はなかったと記憶していたのですが。--Thomo 2010年8月15日 (日) 18:10 (UTC)[返信]

この現本ではなく、この本にこうこう書いてあるといった郷土雑誌類の記述をみて書いたのですが、うっかり郷土雑誌の名を記載せず、メモも紛失したため、今再度探してみたのですが見つかりませんでした。申し訳ありません。Thomoさんが見て『山吉家家譜解説書』に無いのであれば、私か郷土雑誌著者の間違いとして除去してもらって構いません。--KurmUmy 2010年8月16日 (月) 11:59 (UTC)[返信]
わかりました。再確認には時間がかかりそうですが、それまでは検証が必要ということで、一旦コメントアウトさせていただいても宜しいでしょうか。--Thomo 2010年8月17日 (火) 17:45 (UTC)[返信]
記述の削除でも構いません。--KurmUmy 2010年8月18日 (水) 13:21 (UTC)[返信]
『山吉家家譜解説書』で上杉憲将との系譜の関わりについて書かれていたページは以前メモしていましたので、もう一度確認しました。解説書は私の記憶間違いだったらしく、翻刻ではなく、現代語訳されたものでした。以前確認したときは、同時に他の系図と参照したりしたため、記憶が混乱していたようです。間違ったことをお書きして申し訳ありません。解説書の系譜の注記の現代語訳によれば、山吉盛計の子で、妻有城主大多和家を継ぎ、兄の死で永享12年に山吉家を継いだ義長の母が上杉憲将の娘となっていました。注記を読んだ限り、行盛も久盛の名は記載されておらず、記された生没年を含め、応永の乱前後から史料に現れてくる彼らの事跡とかなり矛盾した内容となっています。長尾頼景との関係も、注記の現代語訳からはよくわかりません。以前の記述は出典不明として削除のままとしております。--Thomo 2010年8月25日 (水) 06:04 (UTC)(訂正)--Thomo 2010年8月25日 (水) 12:11 (UTC)[返信]

岩櫃城の編集についての疑義[編集]

はじめまして、㭍月例祭と申します。

岩櫃城でのこの編集について疑義があります。

私は『群馬新百科事典』をもっていますが、その「岩櫃城」「斉藤氏」のいずれの項目にも、あなたが加筆したような事柄は書いていません。同書には「築年代は不明」とあるだけですし、「秋間斎藤氏」「斉藤憲行」の名は出てきません。

『加沢記』も読みましたが、応永12年も、越前国も、斎藤基国も出てきません。分家とか、憲基とかも出てきません。

あなたは一体、何のどこを基に書いたですか?『群馬新百科事典』のページ数、『加沢記』のどの章なのか、お示しください。--柒月例祭会話2018年12月26日 (水) 09:16 (UTC)[返信]

こちらこそ初めまして。ご指摘ありがとうございます。当方が出典のつけ方を誤っていると思います。10年近く前なんで曖昧なので申し訳ありません。たぶんセンテンス冒頭の「築城年および築城主は不詳。」にかかっている出典(『群馬新百科事典』)をはじめに書いて、後から追加した間の大部分の出典を付け忘れています。あと加沢記云々は「吾妻郡城塁史」の誤読です。城塁史本文で(原町誌と比較して)加沢記の説が正しいように思われるとあるのに気を取られ、城塁史記載の「斉藤氏系図」の内容を加沢記のものと思い込みました。一応岩櫃城の方に分かる部分の脚注をつけておきます(完全に不明・忘却部分のは復帰しません)。内容復帰ですが、自身の執筆内容に固執するわけではないので、修正してもらって構いません。--KurmUmy会話2019年1月5日 (土) 03:17 (UTC)[返信]
返信 ご対応ありがとうございます。記事内容については了解いたしました。
これは岩櫃城だけ、KurmUmyさんだけの固有の問題ではなくて、歴史系の大半の記事に共通のことなのですが、昔書かれた記事はいまのウィキペディアの検証可能性・出典の明記等のルールに照らすと問題がある、というのが多いです。これは昔と今ではルールや慣習が変わった、というのに原因があります。私も2008年頃は出典付けていませんでしたし。記事ひとつひとつ、気長に直していくよりありませんね。
しっかり調べ物をする前提ですが、そのうえで旧いものを思い切って全消しして、信頼できる情報源だけに基づいてゼロから書き直す、ということはやっていくべきと思っています。
個別具体的なことはノート:岩櫃城に書きますが、歴史系の記事では「明確な事実」と「学者の説」と「通説」「俗説」「伝承」は明確に区別が必要です。難しいですし、突き詰めると一次史料に自ら当たって検証するはめになってドツボにはまりますけれど。--柒月例祭会話2019年1月5日 (土) 08:48 (UTC)[返信]
最近は脚注をしっかりつけますが、以前の執筆はお恥ずかしい限りです。岩櫃城は中世城館の研究(1980年代の発掘調査結果ですが)くらいでしょうかねえ。地方の城自体が郷土研究者の学会の査読が微妙な説しかなかったり、1970年代の古い郷土史で止まってたりしますし。では、お世話になりました。--KurmUmy会話2019年1月5日 (土) 09:33 (UTC)[返信]