ノート:藤戸町
藤戸町と藤戸の記事の統合
[編集]最近になってIPアドレス:114.160.228.162のかたに倉敷市内の地名の記事が多く執筆されています。藤戸はその中の一つですが、地区範囲と内容が藤戸町とほぼ重複しています。記事名が藤戸だと謡曲の藤戸も存在するため、記事名としては藤戸町が適切だと思います。内容に関しては重複部分を統合後に再編集すればよいのではないかと思います。多分、一度に多くの記事を作られたため藤戸町の存在に気付かれなかったのでしょうか。--Tatushin 2011年11月30日 (水) 14:28 (UTC)
- 反対。ページ名は逆じゃないっすか?「藤戸」の方が適切だと思います!だって藤戸町だった範囲が全部今も藤戸町○になってないですから。天城台は「天城台」で、藤戸町が付いてないですよ。地元民ですが、藤戸町とはあまり言わないです。茶屋町や船穂町みたいに全部の範囲が○町ってなってたら分らなくわないですけど。「倉敷市の地域一覧」かるくみてみたら、西阿知も西阿知町じゃなくて西阿知ってなってます(たぶん片島が西阿知町てついてないからと思う)。ホントなら藤戸町っていったら地元民は合併前の藤戸をイメージしてる気がするので藤戸町は合併前の町で、藤戸は今の藤戸で別々でもいいと思うんですが、内容かぶりそうなんで、ページの合併もオッケーかなって思います!それと謡曲の藤戸は、藤戸に由来している(正確には藤戸であった藤戸合戦に由来した)って学校で習いました!だから「藤戸(謡曲)」が普通だと思う。だから、ページの合併は「賛成」ページ名は「反対」で”藤戸”に一票!ってことでお願いします!!--122.215.123.90 2011年12月2日 (金) 07:39 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。「藤戸」と「藤戸町」の記事の地区の範囲はまったく一緒で、藤戸町と西阿知の記事を起こしたのは私です。
- 最初、藤戸の地名の記事名をどうするかで迷いました。藤戸でもよかったとも思いました。結局、藤戸町としたのは、“藤戸町--”の地名が現在も残っており、旧町村の記事と併用できるため、リダイレクトも不要だと思ったからです。それに、天城台は住居表示であって、不動産登記上は藤戸町天城です。西阿知の片島のような大字とは異なります。西阿知の記事名を決めた理由はあなたの推察どうりです。
- 私は”町”にこだわってるわけではありません。私は倉敷市内在住で、天城に親戚がいますが、自分でも藤戸町とは普通呼びません。--Tatushin 2011年12月2日 (金) 17:12 (UTC)
- 反対 寄り 現在の地名、および自治体として存在した藤戸町は、江戸時代以前の藤戸とは意味が異なります。江戸と東京都、京都と京都市、大坂と大阪市の関係のようなものです。このような意見を持って編集される方も居られます。[1]自治体記事の歴史項目に記述される場合の方が多いのは事実ですが、せっかくならば独立記事として存在して欲しいものです。--As6022014 2011年12月6日 (火) 09:03 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。As6022014さんのご意見だと今の藤戸町と昔の藤戸は違い、本来の藤戸とはとこからどこまでであるということを定義しなければならないとゆうことですね。しかし、この議題を提起した理由は現在の二つの記事の内容がほぼ重複しているため、統合したほうがよいのではないかということです。藤戸と藤戸町は両方とも旧児島郡藤戸町、現在の天城小学校学区であることは共通してます。また、倉敷市でも、この地区を藤戸地区としています。今回はこの藤戸地区の記事であるとご理解いただけないでしょうか?。今後、記事が充実してくれば、今の藤戸と昔の藤戸を必要性に応じて分割などもありえるかもしれませんが。--Tatushin 2011年12月7日 (水) 14:28 (UTC)
- 本来ならば、近代以前の「藤戸」、1889年-1954年に自治体として存在した「藤戸村・藤戸町」、1954年以降の「藤戸(地区)」と大きく分けて3つの意味が存在すると考えられます。出来れば近代以前の歴史と、1889年以降をそれぞれ中心とした記事に分けるのが望ましいと考えます。内容の重複の問題の解消であれば、まず、それぞれ、転記、整理など
編集記事の再編成を行うことがまず考えられます。--As6022014 2011年12月7日 (水) 23:46 (UTC)修正--As6022014 2011年12月8日 (木) 02:13 (UTC)- 仰りたいことはよくわかります。しかし、そのことを重視するなら現在ある全ての地名や自治体の記事も含まれることになるでしょう。江戸や大坂のようにいろんな文献がでているとこは時代ごとの記事を作ることも難しくはないとおもいます。ですが、藤戸地区のような文献が少ない小さな地域の記事は将来的に大きくなってから分割をかんがえても良いのではないでしょうか。
- 少し話は違いますが、最近、地名辞典などを参考に大字や町名の細かな地区の記事が大量に作られている自治体が見受けられますが、現在の地区や市町村の記事が充実していないとこが多いのに、性急に細分化した記事を作る必要性があるのか疑問に思っています。--Tatushin 2011年12月11日 (日) 12:45 (UTC)
- 何十万とも存在する日本の字の記事が全て完結するとは到底思われないし、市町村の記事すら充実していない状況で特定の地域だけの字や町名記事ばかり作られて、全体的なバランスが取れていないのではと私も思わなくも無いし、Tatushinさんが懸念されるところも分かる気はします。
- ただ、藤戸については宝永地震の被害記録など古記録も残っており、また竹原や出石などと並ぶほどの地位ではあったのではないかと考えています。歴史的な記述も充実しており、統合しなければスタブになるわけではありませんので、統合すべき事例には該当しないと考えています。--As6022014 2011年12月12日 (月) 09:38 (UTC)
- わかりました。12月中に他に意見がなければ近代から現代の記事を「藤戸町」としてとりあえず統合させていただこうと思います。藤戸もリダイレクトで処理します。As6022014さんに今後お時間があるときに「藤戸」のリダイレクトを外し昔の藤戸の歴史として記事を起こしていただけるならなにも依存はありません。
- ただ、そうなると「天城」の扱いはどうなるのでしょうか?。それとも、As6022014さんが考える藤戸とは藤戸の戦いが行われ、史跡が残る一帯、藤戸が海峡だった頃の周辺を古来の藤戸とされているのでしょうか?。--Tatushin 2011年12月14日 (水) 10:10 (UTC)
- えーと、統合ということで合意形成はなされていません。なぜ、取り急ぎ「藤戸」をリダイレクトにしてしまう必要性があるのですか。現状では当初のご提案は支持を得ているとは云えませんから、誰もが納得しうる新たな案を提示して頂かない限り合意形成は難しいと思います。
- 多くの古地名が自治体記事のリダイレクトになっている現状は残念な限りです。現在「藤戸」や「藤戸町」の記事において歴史として記述されている部分が「藤戸」の記事としてあるべき部分と考えますが。「天城」については現状では「藤戸」の記事内に記述されているのは止むを得ないでしょう。もっと充実した内容が加筆されるならこちらも独立記事として存在は可能ですし、本来はそれがあるべき姿と考えます。
- 「藤戸町」も現在の自治体テンプレートや1889年の市制および町村制施行以降の歴史、現在の藤戸地区でまとめて、何か不都合はあるのでしょうか。--As6022014 2011年12月15日 (木) 04:52 (UTC)
- 12月中とことわりは入れたつもりです。また、提案してから一ヶ月になりますから急いでいることにはならないと思いますが。「藤戸」にリダイレクトを付けることに異論がおありなら統合ののち「藤戸」の記事自体を抹消してもかまいませんが。--Tatushin 2011年12月15日 (木) 12:32 (UTC)
- 少なくとも「藤戸」を抹消することに関しては122.215.123.90さんも明確に反対しておられます。つまり全く合意は得られていません。何処でコミュニティの合意が取れていますか。「藤戸」を抹消しなければならない誰もが納得できる理由をご説明ください。Wikipedia:合意形成も良くお読みになりご理解ください。--As6022014 2011年12月15日 (木) 23:01 (UTC)
- 「藤戸」を抹消せんとするTatushinさんの目的・意図は一体どのようなものですか。まず統合ありきと見受けられますが、もっと広い視野で考えては頂け無いでしょうか。少なくとも両記事における重複の解消であれば転記、再構築で充分達成されるわけです。「藤戸」を抹消しなければならないとは何か恣意的なものを感じますがこれでは合意は得難いと考えます。
- 12月中でも1ヶ月以内でも結構です。合意が得られていない以上、この間に第三者による圧倒的な賛成意見が表明されない限り統合はコミュニティの合意を得たことになりません。コメント依頼で多くの意見を募るのも一考に値するでしょう。また「藤戸」を抹消(削除)するためにはそれ相応の理由と手続きが必要です。
- 現状の「藤戸」記事中の地域節にある、歴史的な藤戸および天城の説明を「藤戸町」記事に統合すべき合理的な理由が示されてません。むしろこの部分は「藤戸」記事もしくは「藤戸」および「天城 (倉敷市?)」に分割として存続が妥当と考えられます。「藤戸町」への転記もしくは統合整理が許容されるのは学区、特産、主要施設、交通部分と考えます。(追記)--As6022014 2011年12月16日 (金) 01:21 (UTC)
- 仕切り直します。少し意地悪な書き方と思いながらも前のコメントを書かさせていただきました。そもそも、私が提案したのは全く同じ地域の記事の統合です。12月中に、他の意見があれば議論はつづけ、その結果、「藤戸」の賛成意見が多数でてくればそちらに従うつもりでした。しかし、そこにAs6022014さんの過去の藤戸は別にすべきと意見が入ってきたので、近現代の記事を「藤戸町」、近世以前の記事を「藤戸」として区分すれば良いのではと思ったわけです。
- 正直、逆に過去の藤戸を別にするべきだとするあなたの意見のほうが性急におもうし、話を複雑にしています。記事自体がまだまだ未熟なのになぜそこまで掘り続けていかなければならないのですが?。記事が充実してくることを待てないのですか?。藤戸の記事の抹消というのは、As6022014がリダイレクトを嫌がられているか、記事をすぐには起こせないと思ったから提案したのです。
- 私は現在存在する地名である「藤戸町」の記事をかいてるだけなのですが。「藤戸町」の記事名を「藤戸町」とすることになにが問題がある のかわかりません (これっって十分合理的でないですか?) 。それとも、「藤戸」のほうに統合であれば納得していただけるのですか?--Tatushin 2011年12月16日 (金) 05:16 (UTC)
- 近現代の記事と近世以前の記事を分けてどうして問題を複雑化しているといえるのでしょうか。現状、記事自体が未熟であるにしても、これからの成長に期待すれば済むことです。「竹原」と「竹原市」、「出石」と「出石町」独立記事として存在して何が複雑で問題ですか。なぜ統合の必要がありますか。
- また私はTatushinさんも執筆に参加されている「藤戸町」の記事の存在自体に異を唱えた覚えはありません。これからも充実して頂きたく思います。ただし、現に「藤戸」として現存している記事を吸収合併、消滅させるようなことはして欲しくありません。むしろ「藤戸」の記事が独立して存在することに異を唱えておられるTatushinさんの意図が理解できません。
- また提案というものは必ずしも同意が得られるわけではなく、本人が意図するように周囲も考えているとは限りません。思わぬ方向に話が進展することなど日常茶飯事、それとも想定外でしたか?。お互いに顔の見えないネット上の共同作業であることも良く考えていただきたいものです。反対されたからと感情的?(違っていればすみません)になるのは賢明ではありません。
- 「藤戸町」記事はTatushinさんが起こしたということでしたが、それは自治体として存在した「藤戸町」と現代の藤戸地区を想定したもので、歴史上の「藤戸」は歴史項目に記述し独立記事として存在する可能性は念頭に無かった、それを指摘されて戸惑っておられるものと見受けられます。「藤戸町」の記事名を「藤戸町」とすることになにが問題があるについてはTatushinさんが「藤戸町」記事執筆に情熱を挙げておられることは理解しますが、「藤戸」記事中の歴史的記述を「藤戸町」に統合する合理的理由にはなり得ません。--As6022014 2011年12月16日 (金) 07:08 (UTC)追記--As6022014 2011年12月16日 (金) 08:46 (UTC)
- 私は最初から現在の二つの記事の内容が全般的に重複しているから統合を提案しているだけです。藤戸町を記事名とすることに合理性があると確信してますが、多くの方が藤戸とすることに賛成されるならそれでいいと思ってます。また、統合に反対の意見が多いならば当然、提案は取り下げます。これ以上、これ以下もありません。--Tatushin 2011年12月16日 (金) 09:26 (UTC)
- 「藤戸町」の記事名を「藤戸町」とすることになにが問題があるでは何とでも解釈できます。きちんと説明してください。コミュニティの意見動向に従うべきことはお互い様のことです。コメント依頼を提出しました。暫く様子を見ることとします。--As6022014 2011年12月16日 (金) 10:04 (UTC)
現在、他のかたからの意見はないようです。1月末まで様子をみます。--Tatushin 2012年1月14日 (土) 12:32 (UTC)
新提案
[編集]藤戸は私が初版を執筆しましたが、諸般の事情で執筆活動が長期間行えませんでしたので、先の議論のことは知りませんでした。まず、「藤戸町」は旧自治体の記事として別に立項すべきだと考えます。廃止自治体の記事であるので、存在当時(発足から消滅までの間)の行政を中心に執筆し、歴史地理などの現行の倉敷市内地域の藤戸と重複する分は、簡潔に記した上で現行の地域の方へ執筆するものとします。文献を調べましたが旧自治体単独記事として成立する文量は確保できる見込みです。一方、歴史的な藤戸の件ですが、歴史的に藤戸という場合、かつて存在した海域の事を指す事が、調べてみたら判明しました。海域は時代によってその範囲は変わりますが、広い時代で今の藤戸・粒江・有城まで及び、現在の藤戸地域よりも範囲は広域です。その後の干拓によってできた土地と旧来の土地を合わせて江戸時代前半に藤戸村が独立村として誕生し、これが現在の藤戸町藤戸となります。このことから以下のように提案します。
- 藤戸町 ⇒ 旧自治体記事として特化(当時の行政中心)
- 藤戸 ⇒ 藤戸 (倉敷市)へ改名し、現在の市内地区として記述。その上で歴史的経緯も記述。ただし、海域時代の部分は要約したもののを記述し(これらは初版執筆時にすでに記述済)、詳細は下記へリンク。
- 上記改名後の「藤戸」 ⇒ 海域時代の歴史的記述を中心に記述。
先の議論では重複する箇所は分割して記載するような雰囲気に感じられたのですが、共通する部分は重複して記載されるのは構わないと思います。ただ文章量が多いなら何処かに詳細を書き別のページは要約を記す形で良いと思います。--テンクウカイカツ(会話) 2012年10月28日 (日) 16:14 (UTC)
- コメント「かつて存在した海域の事を指す」というのは確かでしょうか。『角川日本地名大辞典』を見ると、平安時代から、基本的に陸地の地名として扱われています。いくつか引用されていた用例の中には、(港湾地域のためか)陸地か海域か不明瞭なものもありましたが、第一義的に海域であると取れる記述はありませんでした。なお『日本歴史地名大系』(平凡社) では、「藤戸村」と「藤戸浦」が別項目となっていました。「藤戸浦」「藤戸の海」という言及は『角川日本地名大辞典』にもあり、海域の項目は「藤戸浦」とすべきではないでしょうか。
- また、この(天城を含めた)地域を「藤戸」とするのは妥当でしょうか。単純に考えれば「藤戸」とは「倉敷市藤戸町藤戸」と考えるのが自然で、『角川日本地名大辞典』も現代の「藤戸」をその意味にしています。--Greeneyes(会話) 2012年10月30日 (火) 13:03 (UTC)
- まず、私が藤戸(現代の藤戸)の記事を執筆したときより、現在あらためて歴史的な藤戸を記述するにあたって更なる調査を行ったことにより、新たな事が判明しており、記述の訂正が必要な箇所もあります点を最初にお知らせしておきます。
- 1 海域の事を指すというのは確かかということですが、原三正『藤戸』日本文教出版や藤戸町『藤戸町誌』などでは、地名の起こりとして最初は海の名称であったと明記されてあり、『東備郡村志』という歴史書物にも記載があるとのことです。戸=門で、海峡のように陸地に囲まれた海の意味です。ただし、「藤戸の泊」という船着きがあったようで、藤戸に面した泊ということです。「平安時代から、基本的に陸地の地名として扱われています」というのはこのことだと思われます。
- つまり、古い順に、藤ノ戸(門)=藤戸(藤門)(=海域)⇒藤戸の泊(沿岸にあった港。現在の粒江のどこか)⇒藤戸浦(沿岸。藤戸の泊とは別の場所=現在の藤戸町藤戸)⇒藤戸村(海が陸地化しての藤戸浦)と歴史的な藤戸は用法が変化した(あるいは併用)ということです。
- 2 「藤戸浦」ですが、「岡山県の地名」という本では慶長9年の藤戸寺文書の検地帳で藤戸浦と確認できるとのことです。「浦」は海を意味する用法と漁村や沿岸地域を意味する用法などがありますが、この場合は検地帳ということから「浦」は漁村ということが分かります。これが海が完全に陸地化したことから藤戸浦から藤戸村となります。私の確認した文献では、古文書などで「海域」を藤戸浦とするものが紹介されていませんでした。ちなみに前述の藤戸の渡しは、新田造成により廃され(『撮要録』によれば現在の粒江にあった)、江戸時代になると藤戸寺門前町から天城への渡し船を指すように意味が変わります。
- 3 現在の藤戸の用法ですが、広義では旧藤戸町の範囲、狭義では大字の藤戸町藤戸を指します。これは倉敷市史や市の統計等でも確認できます。ただ、今後大字のページを立項するなら正式名称「藤戸町藤戸」となることを考慮して、藤戸 (倉敷市)との名称です。
- 記事名のことは後でも修正可能なので、まず立項することや記事内容を考えました。ただ新規立項する以上は記事名設定が必要なので由来や歴史的用法の古さを考慮して海域時代の藤戸の記事名を「藤戸」と考えたのですが、これが第一義とはいえない、となるならば(由来=第一義と考えたが、そうでないこともありえる)、海域時代の藤戸を「藤戸 (海域)」または「藤ノ戸」とし、藤戸を曖昧さ回避ページとすることも問題ないと考えます。なお、海域の藤戸を立項するにあたって、海が陸地化する変遷も記述する準備もあり、そのなかで、藤戸の泊や藤戸浦や藤戸村(江戸期)のことも触れます。そのことを考えると、海域~陸地化するまでの事を記述することから、海の藤戸・藤戸浦・藤戸村(江戸期)を総合(つまりページの定義を「海域」だけではなく「海域とその沿岸地帯と、それが陸地化するまで」に変更)して「藤戸」でも良いような気もします(これにより、「(港湾地域のためか)陸地か海域か不明瞭」である歴史的用法の曖昧な部分を包括できる)が、記事名は後でも変更できるので、どうしても不適切というなら記事名は前述のように考慮します。なお、古い時代のことですので書物の不足等もあり、本によって記述がある程度バラツキがあると思われ、海域時代の藤戸を藤戸浦とする本もあるとおもわれます。また、他の藤戸の用法と区別するために現代において過去の海域を「藤戸海峡」とするもの(前述の「藤戸」「藤戸町誌」「岡山県地名事典」など)もあり、海域を「藤戸浦」とするのもその類ではないかとおもわれます。その旨も立項時には記述しておきたいと思います。--テンクウカイカツ(会話) 2012年10月31日 (水) 01:46 (UTC)
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- 中世の 藤戸(藤戸渡)- 高坪山から種松山麓の間。『吾妻鏡』には「藤戸海路三丁余」とあり、これが歴史的な海域を示すものと考えられます。
- 藤戸(平曲、能の曲名)- 源平合戦・藤戸の戦いを描写した謡曲。『世界大百科事典』
- 近世の 藤戸村(藤戸浦)- 児島湾最西奥の村。近世には藤戸寺の門前町として栄え、倉敷川の湊、北側の天城村との渡し舟があった。藤戸海苔、石灰工業で栄えた。
- 近代の 藤戸町(藤戸村)- 1889年-1954年に町村制・地方自治法による自治体として存在した藤戸村・藤戸町。かつての藤戸村と天城村を包括。
- 現在の 藤戸地区 - 上のかつて存在した自治体の領域に相当し、藤戸町藤戸と藤戸町天城。
- このうち歴史的な藤戸村(藤戸浦)は、慶長九年の児島郡藤戸浦の検地帳に高423石余とあり、ここでいう「藤戸浦」はGreeneyesさんのいう海域ではなく、湊町、漁村としての意味があり、テンクウカイカツさんの見解の方が的を得ています。私が過去の議論で歴史的な「藤戸」といっていたものは具体的にこれを指しています。
- テンクウカイカツさんの仰る歴史的な海域としての「藤戸」は「藤戸渡」を指すのでしょうか。「藤ノ戸」とは「鳴戸(鳴門)」「瀬戸」にも通じ海峡の意味を持ちます。私は原義を代表的トピックとすべきという考えです。それが源平合戦を描いた同名の謡曲ともなっており、こちらは「藤戸の戦い」記事の項目として記述されています。
- 高坪山から種松山麓の間は現在は完全に陸地化していますが、児島湾の干拓の歴史は周知の事実で加えてかつての平安海進もあり、現在倉敷川を挟んでかつての藤戸村と天城村の中心部国土地理院 地図閲覧サービス ウオッちずが位置していますが、かつてはその上流部(倉敷川と吉岡川に挟まれた新田)まで海であり、その藤戸村と天城村に挟まれた現在の倉敷川がかつての海峡「藤ノ戸」なのではないでしょうか。「海路三丁余」は350m程度ですから「藤ノ戸」海峡を指すのでしょう。
- 私の希望としては歴史的に存在した近世の藤戸村や天城村も独立記事として存在して欲しいところですが、文量の充分な確保が叶わないなら、現在の藤戸地区記事を「藤戸 (倉敷市)」としてそこに記述するのもやむを得ませんが、あるいは海の藤戸・藤戸浦・藤戸村(江戸期)を総合するのも名案かも知れません。テンクウカイカツさんは具体的な記事の構想をお持ちであり、もはや心配無用かとは存じますが、多少の重複は許容するとしても各記事間で題目に相応しい内容となる様、転記など調整は必要かと思います。--As6022014(会話) 2012年10月31日 (水) 08:02 (UTC)
- コメント ご回答ありがとうございます。海域を藤戸と呼ぶこと、この地域を藤戸と呼ぶこと、納得しました。「藤戸」が重複することによる曖昧さ回避の方法は、他の方々の判断にお任せします。--Greeneyes(会話) 2012年10月31日 (水) 16:55 (UTC)
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- コメント 私の考えもAs6022014さんに近いです。私の調べでは原義は海の名称とのことで、それから派生して海浜の港=藤戸の泊・藤戸の渡としても用いられるようになり、さらに海浜集落として藤戸浦と呼ばれるようになって、陸地化して藤戸村となった、という見解です(補足ですが海の藤戸の範囲も時代により多少広狭しているようです)。ただ、Greeneyesさんのいう港湾地域のためか不明瞭、曖昧な部分もあるのも一理あると思います。とにかくどちらにせよ歴史的な藤戸が海に関連するのは確かで、海域に関して記述しても海浜集落にも言及するのは自然であることから、それら(海と海浜集落・港)を総合して「藤戸」というのもアリという気持ちに傾いています。また、近世の藤戸村や天城村も独立記事として存在していいという意見ですが、天城村は陣屋町で、藤戸村はそれ以前の海浜集落と異なり藤戸寺門前町・金比羅往来の渡し船の地としての色が濃く、過去の藤戸とは別の特色を持つもの(海との関連性が少ない)と考え、別ページとして存在する価値はあると思いますので、同感であります。が、現地点では資料・文章量が不足しているため、暫定的に現代の藤戸に(藤戸村に関しては歴史的な藤戸の項目にも)記載し、今後独立記事として準備が整ったなら、そのときに行えば良いと思います。まず今は歴史的な藤戸の項目を立項したいと考えています。
- 各記事間で題目に相応しい内容となる様、転記など調整は必要とのことですが、もちろんその必要はあると思います。ただ、新しい時代の記事に過去の内容が重複して記載されるのは致し方ないことであり、完全分割ではなく要約は記載する必要性がある(一応、今の「藤戸」の記事には要約をすでに記載している)点は了承願いたいと思います。Greeneyesさんのおっしゃる曖昧さ回避法は、冒頭でのOtheruseslistで対応可能かと思います。--テンクウカイカツ(会話) 2012年10月31日 (水) 20:40 (UTC)
済 反対なしのため提案通りに致しました。藤戸は海域だけでなく沿岸にも言及しています。--テンクウカイカツ(会話) 2012年11月4日 (日) 21:57 (UTC)